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2021年3月 2日 (火)

肥後国分寺について(工事中)

【肥後国分寺】

Img_9402_20210302104801 Img_9401

1:伽藍の中軸線の方位・・・国府や国分寺はほとんど真北。なのに条里は西5度。東→正方位→西に向かう?

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※ 3つの国府~国府の移動

(1)益城国府(火の君の勢力範囲に近い)・・最も古い?

(2)詫麻国府・・・奈良朝中期・・・正方位

(3)飽田国府・・・10世紀前半

Img_9420

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※※ E地点がⅠ期以前~Ⅵ期まで.年代順に発掘(講堂と僧房の間にあたる狭い範囲ですが)の様子が書かれていました。

Ⅰ期以前・・・6世紀後半から終末の炉跡・7世紀後半代の竪穴式住居

Ⅰ期・・・方形の掘り込み地業(SB102)が造られる。南北14.5×東西8.5m以上。東偏2~3度。8世紀中頃か。

Ⅱ期・・・Ⅰ期の基壇の北半を壊し,大きな溝状遺構(SD105)などが造られる

Ⅲ期・・・SD105の埋め立てを含む第二次整地が行われ,その後回廊の可能性のある版築基盤(SB103)が造られる。

 また,雨落ち溝とみられる溝状遺構(SB108)が造られる。基壇の走行は東偏2度。9世紀代と推定

Ⅳ期・・・複数の土壙群。10世紀以降か

Ⅴ期・・・井戸や土壙。室町時代か

Ⅵ期・・・防空壕や家屋の基礎。ごみ捨て穴など。近世以降

Img_9425Img_9414

※※※ P150,157,188の図からE地点付近の地下には「前身寺院」の証拠が見出せるように考える。

現国分寺は,それを変形・拡大(塔と回廊中心のもの→金堂を付け加えたものなど)したものではないか。

その証拠として,塔にも金堂にも中門があるなど。また,その際,方位も東偏→正方位と変更されたのではないか。

すると,7世紀初頭の時期がそれにあたるのではないかと考える。

※※※※ P166~7を見たら,「S素弁」を見出しました。素弁の軒丸瓦が出土していたのです。

Img_9428

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2:伽藍の構造・・・南西角の塔が回廊に囲まれている珍しい伽藍。塔重視? 法隆寺式の変形?

3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する・・・素弁・単弁・複弁

4:国府からの距離・・・近い

総合判定・・・

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コメント

肥沼さんへ

 E地点のデータに読み間違いがあります。
 建物の方位は確かに文章には東偏2~3度と書いてありますが、図面をみるとそれは、磁北に対して東偏2~3度ですJから、真北に対してみれば西偏4~5度です。

 そしてすべての図面の方位記号が指しているのは磁北です。
 この肥後国分寺の伽藍の方位は正方位ではなく、西偏4度ぐらいではないでしょうか。
 つまり周囲の条理の方位とほぼ一致している。

 それからE地点の遺構の意味は、先行寺院を示すのではなく、松本氏の法隆寺式伽藍の変形としての塔院を伴う伽藍とういう想定が机上の架空のプランであった可能性をしめしているのです。
 発見されたⅠ期のおそらく東西に長い建物であるSB102が想定された講堂に近接しており、さらにこの建物を壊して作られた回廊もまた想定された講堂を切る位置にある。
 つまり松本案の講堂は実際には存在せず、現国分寺の下にある礎石と基壇だけのずっと小さい建物、つまり位置からして経堂のようなものであることを示しているのです。
 となると、松本案の他の建物の位置と規模も疑問となるのです。

 E地点の報告文を書いた人がその末尾に、この遺構をどう評価するかを書いてないのは、松本案をそれが否定する可能性があることが分かっているので、そこから敷衍すると、肥後国分寺研究の権威である松本氏の案を全面否定となることを怖れて、わざと遺構の評価を書かなかったのだと思います。

 もう一度松本案が、どのような実際に確認された遺構に基づいた案であるかを確認し、その確認された遺構とE地点の遺構を結び付けて伽藍全体像を再構築する必要があると思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  そしてすべての図面の方位記号が指しているのは磁北です。
 この肥後国分寺の伽藍の方位は正方位ではなく、西偏4度ぐらいではないでしょうか。
 つまり周囲の条理の方位とほぼ一致している。

→ ありゃー,磁北でしたか。

〉  それからE地点の遺構の意味は、先行寺院を示すのではなく、松本氏の法隆寺式伽藍の変形としての塔院を伴う伽藍とういう想定が机上の架空のプランであった可能性をしめしているのです。
 発見されたⅠ期のおそらく東西に長い建物であるSB102が想定された講堂に近接しており、さらにこの建物を壊して作られた回廊もまた想定された講堂を切る位置にある。
 つまり松本案の講堂は実際には存在せず、現国分寺の下にある礎石と基壇だけのずっと小さい建物、つまり位置からして経堂のようなものであることを示しているのです。
 となると、松本案の他の建物の位置と規模も疑問となるのです。

 E地点の報告文を書いた人がその末尾に、この遺構をどう評価するかを書いてないのは、松本案をそれが否定する可能性があることが分かっているので、そこから敷衍すると、肥後国分寺研究の権威である松本氏の案を全面否定となることを怖れて、わざと遺構の評価を書かなかったのだと思います。

→ そんな事情があるんですね。

〉  もう一度松本案が、どのような実際に確認された遺構に基づいた案であるかを確認し、その確認された遺構とE地点の遺構を結び付けて伽藍全体像を再構築する必要があると思います。

→ う~ん。困った。

肥沼さんへ

 そんなに困らなくても大丈夫です。
 E地点の報告の冒頭に書いてありますが、松本さんが掘ったのは三か所だけ。
 塔の心礎が前にあった場所(抜き取り跡を見つけた)、熊野神社境内にトレンチを2本入れた(西部に南北に走る基壇をみつけた)、講堂があったと思われる場所(その少し南に東西に走る基壇を見つけた)。
 この三か所以外のものはすべて推定です。
 つまり
1:塔の位置と基壇の規模。
2:塔の北と東にほぼ等距離のところに帯状の基壇を見つけた。
3:現国分寺の床下に礎石7つと基壇を見つけた。
 遺構としてわかっているのかこれだけ。
 あとは推定です。
 塔の位置と規模、そして北と東の基壇から塔を囲む回廊があったと推定。
 そして国分寺の地下の礎石と基壇は塔の北側だからもっと長い講堂と推定し、伽藍は法隆寺式の変形と考えて、塔の東に金堂があったと推定した。
 松本案はただこれだけ。
 わずかの遺構とあとは全部推測。

 松本氏が見つけた3つと今回のE地点の遺構を組み合わせ伽藍配置を推定するしかないです。

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