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2021年3月 2日 (火)

肥前国分寺について(工事中)

【肥前国分寺】

Img_9399 Img_9401

1:伽藍の中軸線の方位・・・西偏4度30分。ということは,最終的には地元の実力者が建立の伽藍か。

2:伽藍の構造・・・大官大寺式だが,国分寺としては異例の巨大な塔基壇(ほぼ25m四方)。

Img_9415_20210307001701

3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する・・・単弁・複弁・巴文。

4:国府からの距離・・・近いが,国府は西偏6度50分で国分寺の4度30分とはずれる。時代が違うかもしれない。

総合判定・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ 東偏で建てられた九州王朝の国府寺が,7世紀初頭の正方位を経て,

地元の実力者によって,日本最大の塔基壇を持つ寺院(西偏)に建て換えられたのではないか。

※※ 塔の下の地業断面図で,礫混のものが「22」と「11・10」の2つあるのが気になる。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 古式の伽藍で古い瓦は単弁。
 ということは7世紀中頃の寺院。
 九州王朝時代。
 正方位を取っていた王朝の時代に西偏だから、おっしゃる通りに肥前の豪族が作った寺。
 さらに、この寺院の軸は西偏4度30分。
 ところが近くにある国府の軸は西偏6度50分。
 おっしゃる通りに時代が違う。
 ではどちらが古いか。
 たしか記憶では6世紀から7世紀中頃までの時期は、西偏でも磁気偏角が次第に大きくなっていった時期。
 とすれば寺院の方が古くて国府の方が新しい。
 一度この地の磁気偏角の推移をし調べてみると良いと思います。

 あと一辺25mの塔は東大寺と同じですね。確実に七重の塔。
 ということはもう少し小さいものを25mに拡大した痕跡が基壇にあるはずです。この点の精査をお願いします。

 さらに瓦の一番古いのが単弁であることが確実かどうか。つまり素弁がないか調べてみて。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

今回は,肥前と肥後を並べてやってみようと思います。
同じ「肥」の国なのに,塔基壇の大きさがまるで違っていて,伽藍配置も違う。
塔基壇カードのイメージもわかっていただけるという訳です。

コピーが大量になりますが,B4判で86枚(860円)+郵送料400円くらいだと思います。
肥前と肥後をいっしょに送ります。(そのやり方のほうが郵送料が安いと思うので)

肥沼さんへ

コピーの郵送よろしくお願いします。

>同じ「肥」の国なのに,塔基壇の大きさがまるで違っていて,伽藍配置も違う。

 肥前・肥後というから同じ国だったかのように思いますが、そうではありません。
 火の国という古代の名が指している地域は、その後の肥後だけです。
 では肥前はその前にはなんという国だったのか。
 わたしは「近江」だと考えています。
 有明海の北岸地域は近江と呼ばれていた。そしてここも九州王朝の中枢地域だったので、書紀にはよく出てきます。
 たとえば磐井の乱のところで出てくる、任那・新羅地域を治めた穂積臣。
 かれは王朝の命令に背いて新羅との和平の方向に動き、ために解任され、帰国途中に死んだ。その亡骸は「近江」の国に船で運ばれた埋葬されたとあります。
 この近江は今の肥前でないと意味が通じない。

 それを近畿天皇家の領域の「淡海」の事だと歴史を偽造するために、「淡海→近江」に変え、従来の「近江→肥前」と変えたのが近畿天皇家による地名の改竄だと思います。

 そして方位の考古学の検証過程でやったことですが、肥前国でも国府よりも東の筑前よりの地域と国府よりも西の地域とでは官衙や寺院の方位がことなりました。
 つまり東は、九州王朝が東偏時代には東偏、正方位時代には正方位ですが、国府も含む西部の地域はずっと西偏なのです。
 つまり肥前の筑前よりの東部が九州王朝の直轄地で(きっと筑前に属する)西側の大部分の地域が「近江」と呼ばれ、九州王朝からは半ば独立した立場の豪族が勢力を握っていた。
 肥前j国府も肥前国分寺もともに、この西偏地帯にあるわけ。
 先の穂積氏とは「神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる」氏族ですが、この後裔の有料氏族が物部氏です。
 きっと近江は物部系の近畿王朝とも密接な関係の豪族が治める地域だったのだと考えています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 コピーの郵送よろしくお願いします。

本日,「肥前」と「肥後」の2つを送りました。

〉 肥前・肥後というから同じ国だったかのように思いますが、そうではありません。
 火の国という古代の名が指している地域は、その後の肥後だけです。
 では肥前はその前にはなんという国だったのか。
 わたしは「近江」だと考えています。
 有明海の北岸地域は近江と呼ばれていた。そしてここも九州王朝の中枢地域だったので、書紀にはよく出てきます。
 たとえば磐井の乱のところで出てくる、任那・新羅地域を治めた穂積臣。
 かれは王朝の命令に背いて新羅との和平の方向に動き、ために解任され、帰国途中に死んだ。その亡骸は「近江」の国に船で運ばれた埋葬されたとあります。
 この近江は今の肥前でないと意味が通じない。

 それを近畿天皇家の領域の「淡海」の事だと歴史を偽造するために、「淡海→近江」に変え、従来の「近江→肥前」と変えたのが近畿天皇家による地名の改竄だと思います。

→ 「淡海→近江」。思い出しました。

 そして方位の考古学の検証過程でやったことですが、肥前国でも国府よりも東の筑前よりの地域と国府よりも西の地域とでは官衙や寺院の方位がことなりました。
 つまり東は、九州王朝が東偏時代には東偏、正方位時代には正方位ですが、国府も含む西部の地域はずっと西偏なのです。
 つまり肥前の筑前よりの東部が九州王朝の直轄地で(きっと筑前に属する)西側の大部分の地域が「近江」と呼ばれ、九州王朝からは半ば独立した立場の豪族が勢力を握っていた。
 肥前j国府も肥前国分寺もともに、この西偏地帯にあるわけ。
 先の穂積氏とは「神武天皇よりも前に大和入りをした饒速日命(ニギハヤヒ)が祖先と伝わる」氏族ですが、この後裔の有料氏族が物部氏です。
 きっと近江は物部系の近畿王朝とも密接な関係の豪族が治める地域だったのだと考えています。

→ なるほど。肥前国の東部と西部では,ずいぶん違っていたのを思い出しました。

前のコメントに一か所誤りがありました。

>たとえば磐井の乱のところで出てくる、任那・新羅地域を治めた穂積臣。
 かれは王朝の命令に背いて新羅との和平の方向に動き、ために解任され、帰国途中に死んだ。その亡骸は「近江」の国に船で運ばれた埋葬されたとあります。
 この近江は今の肥前でないと意味が通じない。

 この穂積臣は近江毛野臣の誤りでした。
 穂積臣は磐井の方。古田さんは磐井は同じく書紀で任那に出向いた倭国官人の穂積押山と同一人物だとしていますし、私はこれを支持します。
 そしてこの穂積氏は物部氏と同族であり、むしろ物部の本家にあたる家だとされています。

 つまり後に肥前とされた近江を治めていた豪族は、まさしく「近江氏」だったのです。
 そして近江氏は九州王朝の天皇から任那を回復するように新羅に強制するための倭国派遣軍6万を指揮するほどの、これも倭国天皇を支える武人であった。

 ただしこの近江氏とは何ものであったかは不明です。
 通常は近江氏(近江臣)は近江国の豪族で、武内宿禰の後裔で波多氏の支族とされる。
 そして波多氏とは武内宿禰の長男である波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする一族で、この波多八代宿禰は神功皇后の三韓征伐にも従った人物なので、神功皇后の事績は九州王朝を作った女王の事績を盗んだものと考えれば、この人物も九州王朝の王族から発した人物と思われます。
 そしてかれは。応神天皇3年(392年)には、百済の辰斯王が天皇に対して礼を失したため、弟の紀角宿禰らと共に百済に遣わされ、その無礼を詰問する。百済は辰斯王を殺して謝罪したので、八代宿禰らは阿莘王を王に擁立し帰国したという。
 この波多八代宿禰も九州王朝の武人であり朝鮮半島にしばしば使いに出された将軍という描き方になっているので、近江毛野臣と同じです。

 そしてこの近江毛野臣が任那に倭国将軍として赴任したとき、その配下に入ることを拒否した磐井は「おまえとおれとは昔同僚だったではないか」と言ったと書紀は記しています。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この穂積臣は近江毛野臣の誤りでした。
 穂積臣は磐井の方。古田さんは磐井は同じく書紀で任那に出向いた倭国官人の穂積押山と同一人物だとしていますし、私はこれを支持します。
 そしてこの穂積氏は物部氏と同族であり、むしろ物部の本家にあたる家だとされています。

→ そうなんですか。古田さんは,何という本でそれを書かれているのでしょうか?ご教示を。

肥沼さんへ

 磐井=穂積押山 と古田さんがされたということは、正木さんの磐井の冤罪 IIIを読んでいて見つけたことです。
 http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho109/kai10904.html
 この論の4、筑紫の国政を執った「磐」とは にあります。

 つまり、書紀の
 継体七年夏六月に、百済姐彌文将軍・州利即爾将軍を遣して、穂積臣押山<百済本記に云はく、委の意斯移麻岐彌といふ>に副へて、五経博士段楊爾を貢る。

 の百済本記にいわく・・・の注の解釈ですね。これを万葉仮名として読まれた。

 残念ながら正木さんも出典を記していませんし、いまだ私も見つけられていません。

 大下さんあたりならご存じかも。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

肥沼さんへ

 出典を見逃していました。「磐井の冤罪Ⅲ」の注3です。

 (註3)「倭(委)」は「ゐ」であり「井」と同音。また「倭」を「ちくし」と考えるべきことは古田武彦『古代史再発見』第二回「王朝多元ー歴史像・『古事記』の倭」一九九八年九月二六日豊中解放会館)による。

 大下さんが教えてくれました。
 以前はこの講演録は「新古代学の扉」に掲載されていたが、著作権の関係で今は消されているとのことなので、古い会員にもっていないか聞いてみるとのことでした。
 しばらくお待ちください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

肥沼さんへ

 塔の地業断面図に着目したのは良い。
 だが礫が混じった層が二つあることが気になてっている。何が気になるの?
 
 私はそれよりも掘り込み地業の底面が二つあることが気になる。
 此の断面は、一番北側の残った基壇を北から見たものだが、その西側2メートルほどの地業の底が他の所より50㎝ほど深く、その上の1mほど、つまり上の礫が混じった層の下までは、この2メートル部分の版築が複雑になっている。
 つまりこの西側2メートル部分は、基壇を拡大するために新たに掘った部分ではないか。
 要するに肥前国分寺の塔基壇は、東西南北に2mほど拡大したもので、もとは幅20m弱だったのでは。

 こう考えて写真を見ると、この底が深くなったところの東側の真上に地層全体の切れ目のようなものが見える。

 もう一つ気になることが。
 それは金堂。
 本文にも書いてあるけど、南北の長さと東西の長さの比が大きく、東西に長すぎる。これ本当に金堂?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

確かに肥前国分寺の塔基壇は,他の「国分寺」に比べて,飛び抜けて大きい。
「塔基壇」カードを作った時に思っていました。

〉 要するに肥前国分寺の塔基壇は、東西南北に2mほど拡大したもので、もとは幅20m弱だったのでは。

20m四方の「国分寺」は4つあるので,特に肥前西部に大和王権支持者がいるのであれば,
「基壇をさらに大きくするということ」がそれを表していると言えるかもしれませんね。

また,金堂の建物の比が東西に細長過ぎるということでは,肥後国分寺の講堂の間数が南北4間×東西9間で
肥前国分寺の金堂とまったく同じ割合になりますね。

>また,金堂の建物の比が東西に細長過ぎるということでは,肥後国分寺の講堂の間数が南北4間×東西9間で
肥前国分寺の金堂とまったく同じ割合になりますね。

 つまり肥後国分寺の想定講堂の間取りと肥前国分寺の金堂の間取りが同じ。
 ということはどういう結論になるの?

 そしてそうなると本来の伽藍配置はどういうものだと結論づけるのかな?

 もう一歩踏み込んで考えよう。

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