工事中 5/29
(1)「古代史セミナー」(中間発表?)の時との一番大きな違いは,
北部・東北に関しては100年を越えて150年のズレを考えなくてはならないということであった。
それを書き加えると,以下のようにズレる。(土器編年→〈方位の考古学〉による修正の必要)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
九州←←中国・四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北→→北部・東北(150年のズレ)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈方位の考古学〉の最終まとめ
?・・・〈中間報告〉+〈今回のまとめ〉(短い目)〉→ 〈最終まとめ〉
?・・・〈中間報告〉を軸に,〈今回のまとめ〉を取り入れて書く → 〈最終まとめ〉
というのは,〈中間報告〉の内容でほぼいいと考えているが,新知見としては,
東北地方・北部においては「150年のズレ」があるという感じなので。
そこで今ストップしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★まとめの構成
● 1:結論の要約(従来説がどうかわるか)
当初立てた仮説の通り,〈古代寺院遺跡〉と〈官衙遺跡〉の方位(東偏・正方位)は,国家意思(九州王朝)に基づき定められたものだと確信した。
これまで,土器編年で判定していた年代は,中央(飛鳥)からの距離によって,50年または100年ずらすことが必要になった。
また,今回全遺跡の精査から,北部の東北地方に関しては,さらに延びて150年のずれも想定される。
九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北→→北部・東北
100年 50年 50年 100年 150年
● 2:取り組みの経過(概略)
2016年1月,何人かの方たちと,多元的「国分寺」研究サークルというサイトを創設した。
2018年7月から,川瀬健一さんと武蔵国分寺および武蔵国府を調べる「府中研究会」(月に2回)を始めた。それと並行して同年9月よりインターネットで,全国の〈古代寺院遺跡〉と〈官衙遺跡〉の方位を精査する悉皆調査を始めた。それは,2020年3月まで続き,最終的には5月で再集計を終えた。
● 3:方位の考古学の考え方(要点は以下に)
● ・寺院や官衙は国家の建設なのでその設計思想(方位など)には国家意思が反映する。
その昔,寺院や官衙は国家の建設だった。したがって,その設計思想(方位など)には,国家意思が反映する。現在は,「地方分権の時代」なのでそういうことがおこったら,「中央集権的だ」と批判されるだろうが,その当時は「国家命令に従うか否か」が大きな分かれ道だったのだ。
● ・九州王朝は中国王朝に対抗する必要性から、最初は南朝の東偏の都にあわせ、のちに隋と同じく正方位にしたのではないか。
九州王朝が支持したのは,南朝だった。そこで倭の五王の時代には,南朝の都の東偏に合わせ,国内の寺院や官衙を東偏にした。
ところが南朝が滅びると,今度は隋に対抗するために,隋と同じ正方位に変更し,国内の寺院や官衙を正方位にさせた。
● ・国家意思だから、東偏への変更や正方位への変更は全国一斉である。
そして,「東偏」や「正方位」への変更は,全国一斉であった。それが,中央からの距離に比例して遅れて現れているように見える。これが土器編年の問題点だった。遠くなればなるほど,比較する対象が増えていき,その都度ズレが大きくなっていく。
● ・現在の土器編年は近畿(大和)から文化が波及したと考えて編年されているので、東西にはなれれば年代があとにされているのではないか。
「伝言ゲーム」というレクリエーションがあって,スタートの人からゴールの人まで伝言していくうちに,その内容が変貌していくものである。これは変貌ぶりを楽しむのだが,古代史のものさしが変貌してしまっては,正しい年代判定などできない。〈方位の考古学〉は,その歪みを正していく方法として,〈東偏〉や〈正方位〉が採用された年代を「定点観測」して,その差を洗い出した。
● ・大和での正方位建物の出現は6世紀末の飛鳥寺(法興寺)が最初でこの年代は書紀による絶対年代。したがって九州王朝の正方位採用は、すくなくともこの寺の建立年代(6世紀末から7世紀初頭)と仮定し、各地の正方位の出現年代とこれを比較することで、各地の編年のゆがみを修正できる(東偏の出現は大和でのその年代を確認し、それとの差で編年のゆがみを修正できる)。
● 4:全国各地の寺院・官衙遺跡の方位悉皆調査結果。
● 5:悉皆調査からわかったこと
昨年のセミナー報告+東北の状況。
昨年の古代史セミナーで「情報提供」という形で中間報告をさせていただいた。悉皆調査でもそれと同じ結果が得られたが,新たな事実も浮かんできた。それまで,東西に100年のズレを考えていたところ,その枠に収まらない例が出てきたのだ。それが北部の東北地方の遺跡であった。
100年を越えて「150年」という新たなものさしを東北地方には作らなくてはならないだろう
● 6:「方位の考古学」による年代比定のゆがみ訂正で、従来説にどのような変更が迫られるのか。
〈方位の考古学〉による年代否定のゆがみ訂正で,大和中心の歴史観が変更を迫られると考えるる。これまでの飛鳥編年では,地方へ行けば行くほど「文化が遅れている」と解釈されていたものが,50年,100年ずらされることにより,その地方独自の文化が花開いていたと考えられるようになる。
例えば,太宰府のスタートが100年遡るので,当時の最新の都が九州にあったことになり,日本列島の主権が九州王朝にあったことが,素直に理解できる。(「遠の朝廷」どころではなく,「朝廷」が存在していたのである。)
7:結語。ーまとめと残された課題―
考古学は素晴らしい学問である。出土したものを正確に記録し,その事実から多くのことを解釈することは遠慮する。そこに「文献資料」とは違う価値がある。これに〈方位の考古学〉による修正を加えれば,正しい年代判定ができると信じる。21世紀前半に考古学の科学化ができたら,歴史学に未来が見えてくる。
これまで〈方位の考古学〉の成果について書いてきたが,大きな例外があることも判明している。それは全国に作られた国分寺・国分尼寺が,741年の「国分寺建立の詔」に影響されて年代否定が「8世紀半ば」という呪縛をうけているのだ。多元的「国分寺」研究サークルのスタートから,「この詔には,国分寺という言葉は一回も当時要せず,主な命令は〈七重塔を建てよ〉であって,〈国分寺を建てよ〉ではないと指摘したが,考古学者の多数はこれを誤認している。
だから,瓦の編年を再検討して,白鳳瓦以前の九州王朝の「国分寺」があったことを別に証明しなければいけないと考える。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2)〈方位の考古学〉の活用例
〈方位の考古学〉の活用例(1)~古代日本ハイウェーの場合
〈方位の考古学〉の刃は,私の古代日本ハイウェイーにも下された。
私は最初以下のように考えていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である「古代日本ハイウェー」の建設を全国に命じた。(7世紀半ば)
(2)662年か663年,白村江の戦いで倭国(九州王朝)大敗北。
(3)九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。そして,律令制の衰えによって地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上のうち,(1)について訂正することになった。というのは,私も〈方位の考古学〉以前は従来の土器編年を使っていたので,7世紀第3四半期に出土した土器の年代を採用していたのだった。
しかし,関東の編年は「遠隔地(九州&関東・東北)は100年代を遡らせることになる」ので,7世紀半ば⇒6世紀半ばとなり,「仮想敵国」は唐ではなく隋ということになる。そうすると,「日出ずる処の天子」の手紙とも対応することになり,この天子とは,九州王朝の天子・多利思北孤であるということにもなるのであった。
ちなみに川瀬さんの「主語有無の論証」(主語の有無によって,それが近畿王朝の天皇の業績か,九州王朝の天子の業績かを見分ける方法)によれば,東山道十五國の都督に命じられた彦狭嶋王は「主語なし」の文章中なので,九州王朝の天子が任命したことになる。
日本書紀の解明には「主語有無の論証」を,考古学には従来の編年の変更を可能にする〈方位の考古学〉が有効だと
00年 50年 ● 50年 100年 150年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈方位の考古学〉の活用例(2)~福島県・泉官衙遺跡の場
ちょうど昨日精査したのが,福島県の泉官衙遺跡で,
〈方位の考古学〉の歴史においても節目となった遺跡なので,
それを使って「活用例」として紹介したい。
(「多元的「国分寺」研究」サイトより)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ 泉官衙(7世紀末葉~9世紀)・・・東偏⇒正方位①⇒正方位②と,2つの王朝の栄枯盛衰を表すように変遷した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【基本事項】
① 北の確認~2007年の図なので,上を北と考えた。
② 建物群~ロの字型の官衙遺跡。
③ 建物データ~Ⅰ期の東偏⇒Ⅱ期の正方位⇒Ⅲ期の正方位のように変遷する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【従来の編年による年代比定】
Ⅰ期(7世紀末~8世紀初頭)~東偏
Ⅱ期(8世紀初頭~8世紀後半)~0°(正方位)
Ⅲ期(8世紀末葉~9世紀)~0°(正方位)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【参考資料】
【寺家前地区(政庁)変遷図】と建物データ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
⇒ 結論
〈方位の考古学〉では,奈良(飛鳥)を中心に,土器編年のズレを,遠隔地(九州&関東以北)は100年,
中間地(四国・中国&中部)は50年と計算(東偏や正方位への移行期)するので,
福島県は東北地方であるから,100年遡って1世紀減らすと,以下のような数値に変わる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ⅰ期(6世紀末~7世紀初頭)~東偏
Ⅱ期(7世紀初頭~7世紀後半)~0°(正方位)
Ⅲ期(7世紀末葉~9世紀※)~0°(正方位)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すると,Ⅰ期東偏とⅡ期の正方位は,九州王朝による政策であり,
Ⅲ期の正方位が近畿王朝の政策であることが判明する。
そして,これが九州王朝の実在をも同時に証明するということになる。
※編年のズレの有効期間は,9世紀までのようである。
〈方位の考古学〉の活用例(2)~福島県・泉官衙遺跡の
ちょうど昨日精査したのが,福島県の泉官衙遺跡で,
〈方位の考古学〉の歴史においても節目となった遺跡なので,
それを使って「活用例」として紹介したい。
(「多元的「国分寺」研究」サイトより)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
★ 泉官衙(7世紀末葉~9世紀)・・・東偏⇒正方位①⇒正方位②と,2つの王朝の栄枯盛衰を表すように変遷した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【基本事項】
① 北の確認~2007年の図なので,上を北と考えた。
② 建物群~ロの字型の官衙遺跡。
③ 建物データ~Ⅰ期の東偏⇒Ⅱ期の正方位⇒Ⅲ期の正方位のように変遷する。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【従来の編年による年代比定】
Ⅰ期(7世紀末~8世紀初頭)~東偏
Ⅱ期(8世紀初頭~8世紀後半)~0°(正方位)
Ⅲ期(8世紀末葉~9世紀)~0°(正方位)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
【参考資料】
【寺家前地区(政庁)変遷図】と建物データ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
⇒ 結論
〈方位の考古学〉では,奈良(飛鳥)を中心に,土器編年のズレを,遠隔地(九州&関東以北)は100年,
中間地(四国・中国&中部)は50年と計算(東偏や正方位への移行期)するので,
福島県は東北地方であるから,100年遡って1世紀減らすと,以下のような数値に変わる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ⅰ期(6世紀末~7世紀初頭)~東偏
Ⅱ期(7世紀初頭~7世紀後半)~0°(正方位)
Ⅲ期(7世紀末葉~9世紀※)~0°(正方位)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
すると,Ⅰ期東偏とⅡ期の正方位は,九州王朝による政策であり,
Ⅲ期の正方位が近畿王朝の政策であることが判明する。
そして,これが九州王朝の実在をも同時に証明するということになる。
※編年のズレの有効期間は,9世紀までのようである。
〈方位の考古学〉の活用例(3)~瓦塔の場合
瓦塔を前に「夢ブログ」を扱った時,8世紀前後に作られたものと考えていた。
すると,イマイチ九州王朝のものか近畿王朝のものかわかりにくかった。
ウィキペディアでは,このように解説している。
「奈良時代から作り始められ、平安時代初期に盛んに作られた。
土師質または須恵器製の小塔であるが、
屋根、柱、組物などは木造塔のそれを模して表現されている。
長野県塩尻市菖蒲沢窯跡出土の瓦塔(奈良時代)は高さ2.3メートルで、日本最大の瓦塔である[1]。
多くの瓦塔は出土した破片を組み上げて五重塔に復元されているが、
千葉県印西市馬込遺跡出土の瓦塔(2基)は七重塔に復元されている[2]。
小型の仏堂内に安置され、人々の信仰の対象になっていたと考えられているが、
出土例が限られていることもあり、正確な用途はわかっていない。
入母屋造重層の金堂をかたどった「瓦堂」が共に出土している[3]。 」
これだと,完全に近畿王朝の時代の出来事という感じである。
ところが,8世紀前後は,九州王朝が近畿王朝にかわる交代期だ。
しかも私たちは,全国の遺跡の精査から「方位の考古学」という
土器編年の修正を求めている立場だ。
8世紀前後と言われて「はい,わかりました」と引き下がることはできない。
なにしろ飛鳥からの遠隔地である九州(西日本)や関東・東北(東日本)では,
100年の年代のズレが出てくるからである。
また,そもそも塔を重視する時代は,日本の仏教受容の終末期にはふさわしくなく,
むしろスタート期にふさわしいと考える。
だとしたら,瓦塔は「九州王朝の最後の痕跡」ではなく,
これから仏教を中心に進めていくぞという「布教方針建造物」だったのではないか。
だから,九州王朝は東山道をはじめ各地の支配地に,瓦塔を配布した(作らせた。作ることを奨励した)。
そして,それが土器編年の8世紀を中心に出土するものだから,
誰がその布教の中心だったかが見えなくなっているということではないか。
8世紀中心(近畿)⇒ 7世紀中心(九州)という切り替えが瓦塔にも必要だと考える。
【東京都東村山市多摩湖町出土の瓦塔】
【瓦塔の分布図】
【全国のいろいろな瓦塔の画像】
https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%93%A6%E5%A1%94
〈方位の考古学〉の活用例(4)~太宰府政庁の場合
これまで紹介した3つの場合(古代日本ハイウェー,福島県・泉官衙遺跡,瓦塔)は,
歴史教科書には登場しないものなので,影響力が少ないと言えば少ないものだった。
そろそろ「大物」に登場していただくことにしよう。太宰府政庁である。
(もともとの名(現地の人)は「太宰府」。日本書紀は,貶めて「大宰府」か?)
これは九州の福岡県にあるので,遠隔地(100年遡る)部類に入る遺跡だ。
まず,従来の土器編年により,これまで以下のように書かれていた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ⅰ期(7世紀後半)・・・掘立柱建物
Ⅱ期(8世紀初め)・・・礎石建物(941年の藤原純友の乱で焼失?)
Ⅲ期(10世紀後半)・・・礎石建物
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
時間的に言って,「すべて近畿王朝が建てたもの」というイメージだ。
ところが,〈方位の考古学〉によって,100年遡らせると,以下のようになる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ⅰ期(6世紀後半)・・・隋に対抗して(真似して),九州王朝が正方位で建てた
Ⅱ期(7世紀初め)・・・さらに長期耐久性(4~5倍)のある礎石建物にして九州王朝が建てた(立派な鬼瓦や鴻臚館式軒先瓦も)
Ⅲ期(10世紀後半)・・・近畿王朝が再建する(Ⅱ期を踏襲しながらも,一部異なる配置)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Ⅰ期・Ⅱ期が九州王朝の建てたもので,Ⅲ期が近畿王朝の建てたもの。
太宰府の3つの時期は,〈方位の考古学〉 によって,大きく変更されるのである。
「近 ⇒ 近 ⇒ 近」から,「九 ⇒ 九 ⇒ 近」である。
そして,それに付随して,ほかの遺跡も編年の変更を迫られる時が来たのではないか?
私はそう考えている。
【参考資料】
Ⅰ期(九州王朝・掘立柱建物・正方位)
Ⅱ期(九州王朝・礎石建物・正方位)
※ 鴻臚館式軒丸瓦は,Ⅱ期政庁の瓦であっても,近畿天皇家時代になって新たに葺き直されたものではないでしょうか。
(川瀬さんのコメント参照のこと)
Ⅲ期(近畿王朝・礎石建物・正
〈方位の考古学〉の活用例(5)~九州の遺跡たち
太宰府に続き,気になる九州の遺跡たちを,
〈方位の考古学〉で見直してみたい。
ちなみに,太宰府のスタートは「7世紀後半(⇒6世紀後半)」だった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1)鴻臚館(7世紀後半)⇒6世紀後半
(2)大野城(7世紀半ば)⇒6世紀半ば
(3)女山神籠石(7世紀代)⇒6世紀代
(4)小郡官衙(7世紀末~)⇒6世紀末~ 小郡屯倉→孝徳の小郡宮か (西偏⇒東偏⇒正方位と変遷している)
(5)有田・小田部(有田)(7世紀後半~)⇒6世紀後半 ※孝徳の難波長柄豊崎宮か(3種類の方位が混在している)
(6)鞠智城(7世紀後半,当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城)⇒
6世紀後半,当時の日本を統治していた九州王朝(政権)によって築かれた城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これらは太宰府の動きとほぼ同じ時期に,あるいはその前後に位置づけられる。
しかも時期からいうと,唐への対策ではなく,明らかに隋への対策だということができるだろう。
そういえば日本古代ハイウェーも7世紀第3四半期(⇒6世紀第3四半期)だから,まさしく同じ時期だった。
一連の動きはバラバラに起きたのではなく,九州王朝が隋に対して行ってきた証拠(遺跡が明らかにしている)なのだ。
〈方位の考古学〉の活用法(6)〜宮城県・名生館遺跡の場合
昨日,多元的「国分寺」研究サークルのサイトで精査した宮城県の「名生館(みょうだて)遺跡」は,
このサイトにもよく登場させている「泉官衙遺跡」とよく似ている。
2回の正方位官衙が,ほぼ同じ時期に作られているからだ。
私はⅢ期の正方位が〈方位の考古学〉で100年遡った7世紀初めの九州王朝のもので,
Ⅵ期の小館地区の正方位が,同じく100年遡った7世紀末の近畿王朝のもの(規模も大きくしている)に思えるのだがいかがだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2)名生館(7世紀後半~9世紀末)・・・東偏⇒8世紀初めに最初の正方位⇒(8世紀中葉に西偏)⇒8世紀末に再び正方位。
(7世紀初めの九州王朝のものか) (7世紀末の近畿王朝のものか)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
➀ 北の確認~地形図と遺構図の方位が同じなので,真北と考える。
② 建物群~正殿を中心とした2種類の官衙群
➂ 建物データ~
・Ⅰ期(城内地区)~7世紀後半~末葉・・・SB1571(4°E)
・Ⅱ期(城内地区)~7世紀末葉~8世紀初め・・・SB05(0゜56´E),SB1099(3°E),
・Ⅲ期(城内地区)~8世紀初め~前葉 ・・・SB01【政庁・正殿】(0°)(九州王朝のものか),SB11(0°)
・Ⅳ期・8世紀中葉(城内地区)~9世紀~2°W
・Ⅴ期・8世紀後半~9世紀(城内地区) ~5°W,17°W,28°W
・Ⅵ期・8世紀末~9世紀初頭か後半(★小館地区)〜SB1231【政庁・正殿】が作られる(近畿王朝のものか)
【Ⅲ期の遺構群】【Ⅴ・Ⅵ期の遺構群】と建物データ
〈方位の考古学〉の活用例(8)~長野県・明科廃寺の場
今長野県の再集計をやっているのだが,
例の明科廃寺が出てきたので,活用例としてアップしておきます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長野県の〈寺院遺跡〉2/9(2019年)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以下は,その時の川瀬さんのコメントです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明科廃寺の年代は、瓦編年から7世紀後半とされていますが、
「・ピット(ASH15 P1)内採取試料より抽出した炭化材(資料)は、
放射性炭素年代測定結果に基づく暦年較正結果を参考とすると、
6世紀中ごろから7世紀前半ごろの年代が推定される。
(「安曇野市の埋蔵文化財第12集 明科遺跡群明科廃寺4」2017年安曇野市教育委員会)
との科学的鑑定があるので、50年から100年遡る可能性が高い。
これを根拠に見ても最低50年は年代をあげることが可能だ。
〈方位の考古学〉の活用例(9)~茨城県・平沢官衙の場合
茨城県の平沢官衙(つくば市)を紹介しよう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈方位の考古学〉の主張である,東偏 ⇒ 正方位 ⇒ 西偏 ⇒ 東偏の変化が,
遺構の変遷に見事に残されている。
ただし,関東地方の遺跡なので,100年遡らせる必要がある。
8世紀前半 ⇒ 7世紀前半のようにである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
平沢官衙 (川瀬さんの分析)
遺構図を確認しながら建物データをみると、それぞれの時期が分ります。
東偏:8世紀前半 Ⅱ期 SB15など。
正方位:8世紀後半 Ⅲ期Ⅳ期 SB11など。
西偏:9世紀から10世紀 Ⅳ期 SB35など。
東偏:11世紀 Ⅴ期 SB01など。
時代の変化がよくわかる遺構です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
官衙遺跡は,役所なので,もっとも国家のコントロール(方位の指示)が現れます。
】
« グラフがなかなか描けません | トップページ | 最終まとめのとらえ方の違い »
「古田史学」カテゴリの記事
- 2つの歴史のヒストリー(2020.12.15)
- 「古事記」には,主権国家として出ているべき10の項目が出て来ない!(2020.10.14)
- 新ガリ本の候補原稿(2020.10.08)
- 多元的「国分寺」研究サークルの現状(2020.10.06)
- ミニ冊子「〈神無月〉の夢物語」(2020.10.06)
コメント
肥沼さんへ
昨年の古代史セミナーで報告した「中間まとめ」をダウンロードするのを忘れたようです。
セミナーの報告サイトでは、残念ながら「情報交換会」の所の報告のpdfはダウンロードできなくなっていますので、お送りいただけないでしょうか。メールで。
https://iush.jp/seminar/report/ancient/2019
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
方位の考古学の原稿を
メールに添付して送ります。
肥沼さんへ
いつになったら最終まとめの文章化を始めるのでしょうか。
今回のものは、セミナーの中間報告とは異なり、説明が要らない、論文形式にしてくださいね。
だから文字数に制限なく、何枚でも、詳しく文章と図とを使って説明しましょう。
まずは、1:結論の要約の前におく「前書き」でも書いてみたらどうでしょうか。
肥沼さんへ
鴻臚館式軒丸瓦ですが、これは画像を見ればわかるように、複弁蓮華文です。つまり近畿の編年で考えると7世紀後半のものです。この瓦は太宰府Ⅱ期政庁の最初の瓦ではないと思います。太宰府Ⅱ期の年代が100年早い7世紀前半であれば、これより古い素弁蓮華文軒丸瓦か単弁蓮華文軒丸瓦が出ているのではないでしょうか。福岡市の那珂遺跡群からはこれらの初期瓦が出土しているようですが、太宰府は日本書紀の記述に引っ張られて年代が7世紀末とされたためにこれらの初期瓦が出土していても無視され、この年代に相当する複弁蓮華文軒丸瓦である、鴻臚館式や老司式が注目されているのではないでしょうか。
鴻臚館式軒丸瓦は、Ⅱ期政庁の瓦であっても、近畿天皇家時代になって新たに葺き直されたものではないでしょうか。