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2020年5月

2020年5月26日 (火)

工事中 5/29

(1)「古代史セミナー」(中間発表?)の時との一番大きな違いは,

北部・東北に関しては100年を越えて150年のズレを考えなくてはならないということであった。

それを書き加えると,以下のようにズレる。(土器編年→〈方位の考古学〉による修正の必要)

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九州←←中国・四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北→→北部・東北(150年のズレ)

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〈方位の考古学〉の最終まとめ

 

?・・・〈中間報告〉+〈今回のまとめ〉(短い目)〉→ 〈最終まとめ〉

?・・・〈中間報告〉を軸に,〈今回のまとめ〉を取り入れて書く → 〈最終まとめ〉

というのは,〈中間報告〉の内容でほぼいいと考えているが,新知見としては,

東北地方・北部においては「150年のズレ」があるという感じなので。

そこで今ストップしています。

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 ★まとめの構成

● 1:結論の要約(従来説がどうかわるか)

当初立てた仮説の通り,〈古代寺院遺跡〉と〈官衙遺跡〉の方位(東偏・正方位)は,国家意思(九州王朝)に基づき定められたものだと確信した。

これまで,土器編年で判定していた年代は,中央(飛鳥)からの距離によって,50年または100年ずらすことが必要になった。

また,今回全遺跡の精査から,北部の東北地方に関しては,さらに延びて150年のずれも想定される。

 

九州←←中国四国←←畿内(大和)→→中部→→関東・東北→→北部・東北
100年   50年              50年     100年      150年


● 2:取り組みの経過(概略)

2016年1月,何人かの方たちと,多元的「国分寺」研究サークルというサイトを創設した。

2018年7月から,川瀬健一さんと武蔵国分寺および武蔵国府を調べる「府中研究会」(月に2回)を始めた。それと並行して同年9月よりインターネットで,全国の〈古代寺院遺跡〉と〈官衙遺跡〉の方位を精査する悉皆調査を始めた。それは,2020年3月まで続き,最終的には5月で再集計を終えた。

 

● 3:方位の考古学の考え方(要点は以下に)


●  ・寺院や官衙は国家の建設なのでその設計思想(方位など)には国家意思が反映する。

その昔,寺院や官衙は国家の建設だった。したがって,その設計思想(方位など)には,国家意思が反映する。現在は,「地方分権の時代」なのでそういうことがおこったら,「中央集権的だ」と批判されるだろうが,その当時は「国家命令に従うか否か」が大きな分かれ道だったのだ。

 

 ●  ・九州王朝は中国王朝に対抗する必要性から、最初は南朝の東偏の都にあわせ、のちに隋と同じく正方位にしたのではないか。

九州王朝が支持したのは,南朝だった。そこで倭の五王の時代には,南朝の都の東偏に合わせ,国内の寺院や官衙を東偏にした。

ところが南朝が滅びると,今度は隋に対抗するために,隋と同じ正方位に変更し,国内の寺院や官衙を正方位にさせた。

 

●  ・国家意思だから、東偏への変更や正方位への変更は全国一斉である。

そして,「東偏」や「正方位」への変更は,全国一斉であった。それが,中央からの距離に比例して遅れて現れているように見える。これが土器編年の問題点だった。遠くなればなるほど,比較する対象が増えていき,その都度ズレが大きくなっていく。


●  ・現在の土器編年は近畿(大和)から文化が波及したと考えて編年されているので、東西にはなれれば年代があとにされているのではないか。

「伝言ゲーム」というレクリエーションがあって,スタートの人からゴールの人まで伝言していくうちに,その内容が変貌していくものである。これは変貌ぶりを楽しむのだが,古代史のものさしが変貌してしまっては,正しい年代判定などできない。〈方位の考古学〉は,その歪みを正していく方法として,〈東偏〉や〈正方位〉が採用された年代を「定点観測」して,その差を洗い出した。


● ・大和での正方位建物の出現は6世紀末の飛鳥寺(法興寺)が最初でこの年代は書紀による絶対年代。したがって九州王朝の正方位採用は、すくなくともこの寺の建立年代(6世紀末から7世紀初頭)と仮定し、各地の正方位の出現年代とこれを比較することで、各地の編年のゆがみを修正できる(東偏の出現は大和でのその年代を確認し、それとの差で編年のゆがみを修正できる)。

● 4:全国各地の寺院・官衙遺跡の方位悉皆調査結果。

 

 

 

● 5:悉皆調査からわかったこと
  昨年のセミナー報告+東北の状況。

昨年の古代史セミナーで「情報提供」という形で中間報告をさせていただいた。悉皆調査でもそれと同じ結果が得られたが,新たな事実も浮かんできた。それまで,東西に100年のズレを考えていたところ,その枠に収まらない例が出てきたのだ。それが北部の東北地方の遺跡であった。

100年を越えて「150年」という新たなものさしを東北地方には作らなくてはならないだろう


● 6:「方位の考古学」による年代比定のゆがみ訂正で、従来説にどのような変更が迫られるのか。

〈方位の考古学〉による年代否定のゆがみ訂正で,大和中心の歴史観が変更を迫られると考えるる。これまでの飛鳥編年では,地方へ行けば行くほど「文化が遅れている」と解釈されていたものが,50年,100年ずらされることにより,その地方独自の文化が花開いていたと考えられるようになる。

例えば,太宰府のスタートが100年遡るので,当時の最新の都が九州にあったことになり,日本列島の主権が九州王朝にあったことが,素直に理解できる。(「遠の朝廷」どころではなく,「朝廷」が存在していたのである。)


 7:結語。ーまとめと残された課題―

考古学は素晴らしい学問である。出土したものを正確に記録し,その事実から多くのことを解釈することは遠慮する。そこに「文献資料」とは違う価値がある。これに〈方位の考古学〉による修正を加えれば,正しい年代判定ができると信じる。21世紀前半に考古学の科学化ができたら,歴史学に未来が見えてくる。

これまで〈方位の考古学〉の成果について書いてきたが,大きな例外があることも判明している。それは全国に作られた国分寺・国分尼寺が,741年の「国分寺建立の詔」に影響されて年代否定が「8世紀半ば」という呪縛をうけているのだ。多元的「国分寺」研究サークルのスタートから,「この詔には,国分寺という言葉は一回も当時要せず,主な命令は〈七重塔を建てよ〉であって,〈国分寺を建てよ〉ではないと指摘したが,考古学者の多数はこれを誤認している。

だから,瓦の編年を再検討して,白鳳瓦以前の九州王朝の「国分寺」があったことを別に証明しなければいけないと考える。

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(2)〈方位の考古学〉の活用例

〈方位の考古学〉の活用例(1)~古代日本ハイウェーの場合




〈方位の考古学〉の刃は,私の古代日本ハイウェイーにも下された。

私は最初以下のように考えていた。

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(1)唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である「古代日本ハイウェー」の建設を全国に命じた。(7世紀半ば)

(2)662年か663年,白村江の戦いで倭国(九州王朝)大敗北。

(3)九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。そして,律令制の衰えによって地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)

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以上のうち,(1)について訂正することになった。というのは,私も〈方位の考古学〉以前は従来の土器編年を使っていたので,7世紀第3四半期に出土した土器の年代を採用していたのだった。

しかし,関東の編年は「遠隔地(九州&関東・東北)は100年代を遡らせることになる」ので,7世紀半ば⇒6世紀半ばとなり,「仮想敵国」は唐ではなく隋ということになる。そうすると,「日出ずる処の天子」の手紙とも対応することになり,この天子とは,九州王朝の天子・多利思北孤であるということにもなるのであった。

ちなみに川瀬さんの「主語有無の論証」(主語の有無によって,それが近畿王朝の天皇の業績か,九州王朝の天子の業績かを見分ける方法)によれば,東山道十五國の都督に命じられた彦狭嶋王は「主語なし」の文章中なので,九州王朝の天子が任命したことになる。

日本書紀の解明には「主語有無の論証」を,考古学には従来の編年の変更を可能にする〈方位の考古学〉が有効だと


00年 50年    ●      50年  100年  150年

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〈方位の考古学〉の活用例(2)~福島県・泉官衙遺跡の場




ちょうど昨日精査したのが,福島県の泉官衙遺跡で,

〈方位の考古学〉の歴史においても節目となった遺跡なので,

それを使って「活用例」として紹介したい。

(「多元的「国分寺」研究」サイトより)

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★ 泉官衙(7世紀末葉~9世紀)・・・東偏⇒正方位①⇒正方位②と,2つの王朝の栄枯盛衰を表すように変遷した。

Photo_20191224063701

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【基本事項】

① 北の確認~2007年の図なので,上を北と考えた。

② 建物群~ロの字型の官衙遺跡。

③ 建物データ~Ⅰ期の東偏⇒Ⅱ期の正方位⇒Ⅲ期の正方位のように変遷する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【従来の編年による年代比定】

Ⅰ期(7世紀末~8世紀初頭)~東偏

Ⅱ期(8世紀初頭~8世紀後半)~0°(正方位)

Ⅲ期(8世紀末葉~9世紀)~0°(正方位)

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【参考資料】

寺家前地区(政庁)変遷図】と建物データ 

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⇒ 結論

〈方位の考古学〉では,奈良(飛鳥)を中心に,土器編年のズレを,遠隔地(九州&関東以北)は100年,

中間地(四国・中国&中部)は50年と計算(東偏や正方位への移行期)するので,

福島県は東北地方であるから,100年遡って1世紀減らすと,以下のような数値に変わる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ期(6世紀末~7世紀初頭)~東偏

Ⅱ期(7世紀初頭~7世紀後半)~0°(正方位)

Ⅲ期(7世紀末葉~9世紀※)~0°(正方位) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すると,Ⅰ期東偏とⅡ期の正方位は,九州王朝による政策であり,

Ⅲ期の正方位が近畿王朝の政策であることが判明する。

そして,これが九州王朝の実在をも同時に証明するということになる。

※編年のズレの有効期間は,9世紀までのようである。

 

〈方位の考古学〉の活用例(2)~福島県・泉官衙遺跡の




ちょうど昨日精査したのが,福島県の泉官衙遺跡で,

〈方位の考古学〉の歴史においても節目となった遺跡なので,

それを使って「活用例」として紹介したい。

(「多元的「国分寺」研究」サイトより)

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★ 泉官衙(7世紀末葉~9世紀)・・・東偏⇒正方位①⇒正方位②と,2つの王朝の栄枯盛衰を表すように変遷した。

Photo_20191224063701

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【基本事項】

① 北の確認~2007年の図なので,上を北と考えた。

② 建物群~ロの字型の官衙遺跡。

③ 建物データ~Ⅰ期の東偏⇒Ⅱ期の正方位⇒Ⅲ期の正方位のように変遷する。

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【従来の編年による年代比定】

Ⅰ期(7世紀末~8世紀初頭)~東偏

Ⅱ期(8世紀初頭~8世紀後半)~0°(正方位)

Ⅲ期(8世紀末葉~9世紀)~0°(正方位)

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【参考資料】

寺家前地区(政庁)変遷図】と建物データ 

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⇒ 結論

〈方位の考古学〉では,奈良(飛鳥)を中心に,土器編年のズレを,遠隔地(九州&関東以北)は100年,

中間地(四国・中国&中部)は50年と計算(東偏や正方位への移行期)するので,

福島県は東北地方であるから,100年遡って1世紀減らすと,以下のような数値に変わる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ期(6世紀末~7世紀初頭)~東偏

Ⅱ期(7世紀初頭~7世紀後半)~0°(正方位)

Ⅲ期(7世紀末葉~9世紀※)~0°(正方位) 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

すると,Ⅰ期東偏とⅡ期の正方位は,九州王朝による政策であり,

Ⅲ期の正方位が近畿王朝の政策であることが判明する。

そして,これが九州王朝の実在をも同時に証明するということになる。

※編年のズレの有効期間は,9世紀までのようである。

 

〈方位の考古学〉の活用例(3)~瓦塔の場合




瓦塔を前に「夢ブログ」を扱った時,8世紀前後に作られたものと考えていた。

すると,イマイチ九州王朝のものか近畿王朝のものかわかりにくかった。

ウィキペディアでは,このように解説している。

奈良時代から作り始められ、平安時代初期に盛んに作られた。

土師質または須恵器製の小塔であるが、

屋根、柱、組物などは木造塔のそれを模して表現されている。

長野県塩尻市菖蒲沢窯跡出土の瓦塔(奈良時代)は高さ2.3メートルで、日本最大の瓦塔である[1]

多くの瓦塔は出土した破片を組み上げて五重塔に復元されているが、

千葉県印西市馬込遺跡出土の瓦塔(2基)は七重塔に復元されている[2]

小型の仏堂内に安置され、人々の信仰の対象になっていたと考えられているが、

出土例が限られていることもあり、正確な用途はわかっていない。

埼玉県美里町東山遺跡からは平安時代初期の瓦塔(五重塔)と、

入母屋造重層の金堂をかたどった「瓦堂」が共に出土している[3]

これだと,完全に近畿王朝の時代の出来事という感じである。

ところが,8世紀前後は,九州王朝が近畿王朝にかわる交代期だ。

しかも私たちは,全国の遺跡の精査から「方位の考古学」という

土器編年の修正を求めている立場だ。

8世紀前後と言われて「はい,わかりました」と引き下がることはできない。

なにしろ飛鳥からの遠隔地である九州(西日本)や関東・東北(東日本)では,

100年の年代のズレが出てくるからである。

また,そもそも塔を重視する時代は,日本の仏教受容の終末期にはふさわしくなく,

むしろスタート期にふさわしいと考える。

だとしたら,瓦塔は「九州王朝の最後の痕跡」ではなく,

これから仏教を中心に進めていくぞという「布教方針建造物」だったのではないか。

だから,九州王朝は東山道をはじめ各地の支配地に,瓦塔を配布した(作らせた。作ることを奨励した)。

そして,それが土器編年の8世紀を中心に出土するものだから,

誰がその布教の中心だったかが見えなくなっているということではないか。

8世紀中心(近畿)⇒ 7世紀中心(九州)という切り替えが瓦塔にも必要だと考える。

 

【東京都東村山市多摩湖町出土の瓦塔】

Photo_20191228042601

【瓦塔の分布図】

Photo_20191228041801

【全国のいろいろな瓦塔の画像】

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%93%A6%E5%A1%94



〈方位の考古学〉の活用例(4)~太宰府政庁の場合




これまで紹介した3つの場合(古代日本ハイウェー,福島県・泉官衙遺跡,瓦塔)は,

歴史教科書には登場しないものなので,影響力が少ないと言えば少ないものだった。

そろそろ「大物」に登場していただくことにしよう。太宰府政庁である。

(もともとの名(現地の人)は「太宰府」。日本書紀は,貶めて「大宰府」か?)

これは九州の福岡県にあるので,遠隔地(100年遡る)部類に入る遺跡だ。

まず,従来の土器編年により,これまで以下のように書かれていた。

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Ⅰ期(7世紀後半)・・・掘立柱建物

Ⅱ期(8世紀初め)・・・礎石建物(941年の藤原純友の乱で焼失?)

Ⅲ期(10世紀後半)・・・礎石建物

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時間的に言って,「すべて近畿王朝が建てたもの」というイメージだ。

ところが,〈方位の考古学〉によって,100年遡らせると,以下のようになる。

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Ⅰ期(6世紀後半)・・・隋に対抗して(真似して),九州王朝が正方位で建てた

Ⅱ期(7世紀初め)・・・さらに長期耐久性(4~5倍)のある礎石建物にして九州王朝が建てた(立派な鬼瓦や鴻臚館式軒先瓦も)

Ⅲ期(10世紀後半)・・・近畿王朝が再建する(Ⅱ期を踏襲しながらも,一部異なる配置)

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Ⅰ期・Ⅱ期が九州王朝の建てたもので,Ⅲ期が近畿王朝の建てたもの。

太宰府の3つの時期は,〈方位の考古学〉 によって,大きく変更されるのである。

「近 ⇒ 近 ⇒ 近」から,「九 ⇒ 九 ⇒ 近」である。

そして,それに付随して,ほかの遺跡も編年の変更を迫られる時が来たのではないか?

私はそう考えている。

【参考資料】

Img_5907

Ⅰ期(九州王朝・掘立柱建物・正方位)

Ⅱ期(九州王朝・礎石建物・正方位)

Img_5906

※ 鴻臚館式軒丸瓦は,Ⅱ期政庁の瓦であっても,近畿天皇家時代になって新たに葺き直されたものではないでしょうか。

(川瀬さんのコメント参照のこと)

Img_5903

Ⅲ期(近畿王朝・礎石建物・正


 

 


 




肥沼さんへ

 鴻臚館式軒丸瓦ですが、これは画像を見ればわかるように、複弁蓮華文です。つまり近畿の編年で考えると7世紀後半のものです。この瓦は太宰府Ⅱ期政庁の最初の瓦ではないと思います。太宰府Ⅱ期の年代が100年早い7世紀前半であれば、これより古い素弁蓮華文軒丸瓦か単弁蓮華文軒丸瓦が出ているのではないでしょうか。福岡市の那珂遺跡群からはこれらの初期瓦が出土しているようですが、太宰府は日本書紀の記述に引っ張られて年代が7世紀末とされたためにこれらの初期瓦が出土していても無視され、この年代に相当する複弁蓮華文軒丸瓦である、鴻臚館式や老司式が注目されているのではないでしょうか。
 鴻臚館式軒丸瓦は、Ⅱ期政庁の瓦であっても、近畿天皇家時代になって新たに葺き直されたものではないでしょうか。





 

 



 

 


 

〈方位の考古学〉の活用例(5)~九州の遺跡たち




太宰府に続き,気になる九州の遺跡たちを,

〈方位の考古学〉で見直してみたい。

ちなみに,太宰府のスタートは「7世紀後半(⇒6世紀後半)」だった。

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(1)鴻臚館(7世紀後半)⇒6世紀後半

(2)大野城(7世紀半ば)⇒6世紀半ば

(3)女山神籠石(7世紀代)⇒6世紀代

(4)小郡官衙(7世紀末~)⇒6世紀末~ 小郡屯倉→孝徳の小郡宮か (西偏⇒東偏⇒正方位と変遷している)

Photo_20191231060901

(5)有田・小田部(有田)(7世紀後半~)⇒6世紀後半 ※孝徳の難波長柄豊崎宮か(3種類の方位が混在している)

Photo_20191231060401

(6)鞠智城(7世紀後半,当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城)⇒

 6世紀後半,当時の日本を統治していた九州王朝(政権)によって築かれた城

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これらは太宰府の動きとほぼ同じ時期に,あるいはその前後に位置づけられる。

しかも時期からいうと,唐への対策ではなく,明らかに隋への対策だということができるだろう。

そういえば日本古代ハイウェーも7世紀第3四半期(⇒6世紀第3四半期)だから,まさしく同じ時期だった。

一連の動きはバラバラに起きたのではなく,九州王朝が隋に対して行ってきた証拠(遺跡が明らかにしている)なのだ。

 

〈方位の考古学〉の活用法(6)〜宮城県・名生館遺跡の場合




昨日,多元的「国分寺」研究サークルのサイトで精査した宮城県の「名生館(みょうだて)遺跡」は,

このサイトにもよく登場させている「泉官衙遺跡」とよく似ている。

2回の正方位官衙が,ほぼ同じ時期に作られているからだ。

私はⅢ期の正方位が〈方位の考古学〉で100年遡った7世紀初めの九州王朝のもので,

Ⅵ期の小館地区の正方位が,同じく100年遡った7世紀末の近畿王朝のもの(規模も大きくしている)に思えるのだがいかがだろうか。

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(2)名生館(7世紀後半~9世紀末)・・・東偏⇒8世紀初めに最初の正方位⇒(8世紀中葉に西偏)⇒8世紀末に再び正方位。

                       (7世紀初めの九州王朝のものか)      (7世紀末の近畿王朝のものか)

Photo_20200201103101

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Photo_20200201103401

➀ 北の確認~地形図と遺構図の方位が同じなので,真北と考える。

② 建物群~正殿を中心とした2種類の官衙群

➂ 建物データ~

・Ⅰ期(城内地区)~7世紀後半~末葉・・・SB1571(4°E)

・Ⅱ期(城内地区)~7世紀末葉~8世紀初め・・・SB05(0゜56´E),SB1099(3°E), 

・Ⅲ期(城内地区)~8世紀初め~前葉 ・・・SB01【政庁・正殿】(0°)(九州王朝のものか),SB11(0°)

・Ⅳ期・8世紀中葉(城内地区)~9世紀~2°W

・Ⅴ期・8世紀後半~9世紀(城内地区) ~5°W,17°W,28°W

・Ⅵ期・8世紀末~9世紀初頭か後半(★小館地区)〜SB1231【政庁・正殿】が作られる(近畿王朝のものか)

【Ⅲ期の遺構群】【Ⅴ・Ⅵ期の遺構群】と建物データ

〈方位の考古学〉の活用例(8)~長野県・明科廃寺の場




今長野県の再集計をやっているのだが,

例の明科廃寺が出てきたので,活用例としてアップしておきます。

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長野県の〈寺院遺跡〉2/9(2019年)

(6)明科廃寺(7世紀後半)・・・東偏
Photo_11

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以下は,その時の川瀬さんのコメントです。

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 明科廃寺の年代は、瓦編年から7世紀後半とされていますが、

「・ピット(ASH15 P1)内採取試料より抽出した炭化材(資料)は、

放射性炭素年代測定結果に基づく暦年較正結果を参考とすると、

6世紀中ごろから7世紀前半ごろの年代が推定される。

(「安曇野市の埋蔵文化財第12集 明科遺跡群明科廃寺4」2017年安曇野市教育委員会)

との科学的鑑定があるので、50年から100年遡る可能性が高い。

 これを根拠に見ても最低50年は年代をあげることが可能だ。

〈方位の考古学〉の活用例(9)~茨城県・平沢官衙の場合




茨城県の平沢官衙(つくば市)を紹介しよう。

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Photo_20200420053801

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〈方位の考古学〉の主張である,東偏 ⇒ 正方位 ⇒ 西偏 ⇒ 東偏の変化が,

遺構の変遷に見事に残されている。

ただし,関東地方の遺跡なので,100年遡らせる必要がある。

8世紀前半 ⇒ 7世紀前半のようにである。 

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平沢官衙 (川瀬さんの分析)


遺構図を確認しながら建物データをみると、それぞれの時期が分ります。


 東偏:8世紀前半 Ⅱ期 SB15など。
 正方位:8世紀後半 Ⅲ期Ⅳ期 SB11など。
 西偏:9世紀から10世紀 Ⅳ期 SB35など。
 東偏:11世紀 Ⅴ期 SB01など。

 時代の変化がよくわかる遺構です。

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官衙遺跡は,役所なので,もっとも国家のコントロール(方位の指示)が現れます。

 

 

 

2020年5月22日 (金)

グラフがなかなか描けません

グラフ(年代のズレの分布図)がなかなか描けず、苦戦しています。  

もう少しお待ち下さい。

2020年5月14日 (木)

〈方位の考古学〉のまとめを書き始めました

川瀬さんのアドバイスに沿うような形で,

〈方位の考古学〉のまとめを書き始めました。

グラフも入れようと思いますので,

来週末くらいに「第一次案」をアップしたいと思います。

もうしばらくお待ち下さい。

 

2020年5月 8日 (金)

★山口県の〈官衙遺跡〉の再集計 5/12★

【周防国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:周防国府(東)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:八ヶ坪(9世紀前半)

神郷大塚(10世紀半ば)(西)

周防鋳銭司(10世紀)(東)

東禅寺・黒山(11世紀)(西)

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※石城山神籠石(方位定まらず)

 

【長門国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:長登銅山(方位判定不能)

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:平原第二(9世紀)(西)

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※下岡田(7~8世紀)(規則性なし)

※吉永(8世紀~)(Ⅰ地区は東偏,Ⅴ地区は正方位)

※秋根(平安前期〜中期)(西)

☆山口県の〈寺院遺跡〉の再集計 5/11☆

【周防国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:周防国分寺(東)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

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※濡田廃寺(8世紀)(正方位)

 

【長門国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:長門国分寺(東),長門深川廃寺(東)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

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2020年5月 7日 (木)

★広島県の〈官衙遺跡〉の再集計 5/9★

【備後国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:大宮Ⅰ(東)

 6世紀後半:大宮Ⅱ・Ⅲ期(東)

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半:

 7世紀半ば:

 7世紀後半:下本谷(東)

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末: 備後国府(ツジ地区は一貫して西),金龍寺東(ほぼ正方位)

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※大宮Ⅳ(七世紀初頭以降)(正方位)

※山崎(奈良~中世)(西)

 

【安芸国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:西本6号(西),明官地東(東)

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:大和(東)

 8世紀末:下岡田(Ⅰ期,東)

9世紀以降:下岡田(Ⅱ期,西)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※下沖(奈良~平安)(自然流路のためいろいろ?)

※前原(8世紀)(西)

※郡山城下町(7世紀~9世紀)(東)

 

 

☆広島県の〈寺院遺跡〉の再集計 5/8☆

【備後国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:中谷廃寺(ほぼ正方位)

 7世紀後半:横見廃寺(東),本郷平廃寺(正方位)

 7世紀末:小山池廃寺(東)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:宮の前廃寺(正方位)

 8世紀半ば:備後国分寺(西)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

【安芸国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:明宮寺廃寺(西?)

 7世紀後半:寺町廃寺(正方位)

 7世紀末:伝吉田寺(ほぼ正方位),上山手廃寺(ほぼ正方位),寺戸廃寺(ほぼ正方位)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:安芸国分寺(西)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:青目寺跡(9世紀~944年焼失)(山岳寺院のため方位はバラバラ)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※康徳寺廃寺(時期・方位の情報不足)

 

 

2020年5月 4日 (月)

★岡山県の〈官衙遺跡〉の再集計 5/7★

【備前国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:百間川米田(東)

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:妹尾住田(9世紀末~11世紀初め)(東)

ハガ(10世紀)(東)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※川入・中撫川(8世紀~9世紀後半)(ほぼ正方位)

※佐山丸山(やや西)

※原尾島(8世紀~9世紀前半)(東)

※津島江道(奈良・平安)(西)

※津寺(8・9世紀)(西)

 

【美作国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:美作国府(東),宮尾(ほぼ正方位),勝間田・平(ほぼ正方位)

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:大田茶屋(東)

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※美作国府・盛期(8世紀)(正方位ヵ)

※美作国府・衰退期(9世紀)(正方位ヵ)

※久田原(8世紀)(西)

※門前池(奈良~平安)(正方位ヵ)

※谷尻(奈良~平安)(東)

※高本(平安)(西)

 

【備中国】 

 4紀紀半ば
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:坊ノ内(西)

 8世紀前半:宮ノ前(ほぼ正方位)

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末: 三須河原遺跡(正方位),横寺(ほぼ正方位)

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※西江(8世紀)(西)

※二野(8世紀ヵ)(西)

※三須河原のうち,倉の多い中須賀遺跡(8〜9世紀)(やや西)

※倉のない三須河原遺跡(東⇒西⇒8世紀末に正方位)

※毎度(奈良~平安)(東)

※備中平(奈良~平安)(東)

※窪木(平安半ば)(ほぼ正方位)

※鬼ノ城(7世紀半ば~8世紀初め)(山城のため一つに絞れない)

★岡山県の〈寺院遺跡〉の再集計 5/6★

【備前国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:賞田廃寺(西),幡多廃寺(東),吉岡廃寺(ほぼ正方位)

 7世紀末:服部廃寺(ほぼ正方位)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:備前国分寺(西10°以上)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※馬屋(8世紀中心)(西)

※加茂政所廃寺(9世紀~11世紀)(西)

※ハガ(10世紀)(東)

※堂敷山廃寺(?)(西)

 

【美作国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:今岡廃寺(やや東),大海廃寺(西)

 7世紀末:久米廃寺(ほぼ正方位)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:美作国分寺(やや西),美作国分尼寺(ほぼ正方位)

 8世紀後半:大田茶屋(東)

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※英賀廃寺(?)(東)

 

【備中国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:秦原廃寺(ほぼ正方位)

 7世紀後半:日畑廃寺(正方位),関戸廃寺(ほぼ正方位),栢寺廃寺 (ほぼ正方位)

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:備中国分寺(西),備中国分尼寺(やや西偏)

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※鬼ノ城(仏堂)(9世紀~10世紀)(西)

 

2020年5月 2日 (土)

★千葉県の〈官衙遺跡〉の再集計 5/5★

【下総国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:大袋山王第2・B地区(西),芳賀輪(正方位)

 7世紀末:大北(正方位),高岡大山(北部が西,南部が東)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:荻生道(東),大畑・向台遺跡群(東⇒西),下総国府Ⅰ期(西),白幡前(西・正方位⇒東)

 8世紀半ば:中鹿子(西),下総国府Ⅱ期(ほぼ正方位),

 8世紀後半:大北(西),野守(西・正方位・東)

 8世紀末: 芳賀輪(西)

9世紀以降:大袋小谷津(9世紀前半)(東)

平木(9世紀前半) (西)

寺崎向原(9世紀半ば)(東)

下総国分(9世紀半ば)(ほぼ正方位)

池ノ下(9世紀後半)(東)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※西深井七ノ割(8世紀)(西)

※飯積原山(奈良・平安)(ほぼ正方位⇒東)

※栗谷(奈良~平安)(西)

※郡本(奈良~平安)(西)

※幡谷宮谷第1(奈良~中世)(西)

※日秀西(8〜9世紀)(西⇒正方位)

※嶋戸東(8世紀末~9世紀初頭)(場所・時期によって方位が変わる)

※柴﨑遺跡群(8世紀~11世紀前半)(西)

※黒ハギ(9世紀)(西)

※稲荷台(?)(西)

 

【上総国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:山王台(東),

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:村上(東),台東(東)

 8世紀末: 古甲(ほぼ正方位)

9世紀以降:村上(9世紀初頭)(正方位)

山王台(9世紀前半)(西)

大網山田台№6(一本松)(9世紀後半)(東⇒西)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※稲荷台(古墳時代~平安時代)(西)

※常代(5世紀半ば〜8世紀後半)(西)

※丹過(7~8世紀後半)(西)

※潤井戸西山(8世紀ヵ)(西),

※三直中郷(9世紀)(東)

※嶋戸東第一(8世紀末~9世紀初頭)(時期・場所によって方位が変わる)

 

【安房国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

★千葉県の〈寺院遺跡〉の再集計 5/4★

【下総国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:江原台(東は西偏,西は東偏),木下廃寺(東)   

 7世紀末:名木鎌部廃寺(東),

 8世紀初頭:真行寺廃寺(西)

 8世紀前半:千葉寺無廃寺(東),六拾部(Ⅲ期・東,Ⅳ期・正方位,Ⅴ期・東),南広(東)

 8世紀半ば:下総国分寺(西⇒東),下総国分(東),下総国分尼寺(東),坂戸清水作(西)

 8世紀後半:小食土廃寺(西),野毛平植出(西),井戸向(正方位目立つ),吉見台B地点(西),大塚前(ほぼ正方位),針ヶ谷(東)

 8世紀末: 内田端山越(西),大井東山(西),白幡前(西)

9世紀以降:織幡妙見堂(9世紀前半)(ほぼ正方位)

塚越(9世紀前半)(西)

越川戸(9世紀半ば)(西)

夏見大塚(9世紀半ば)(ほぼ正方位)

本郷台(9世紀半ば)(ほぼ正方位)

内野台(9世紀半ば)(東)

多田日向(9世紀後半)(西)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※吉倉白ヶ峰(?)(西)

※太田宿(?)(東)

※長熊廃寺(?)(西)

※荒久(奈良時代~)(正・東)

※谷津(7~9世紀)(西)

※大椎第2(8世紀)(西・正)

※駒詰(8世紀)(東)

※成田ニュータウン内遺跡群・Loc15郷部・加良部(8〜9世紀)(東)

※成田ニュータウン内遺跡群・Loc20山口(8〜9世紀)(東)

※松尾町大山(9世紀)(ほぼ正方位)

 

【上総国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:庄作(東)

 7世紀後半:

 7世紀末:二日市場廃寺(正方位),九十九坊廃寺(東)

 8世紀初頭:

 8世紀前半:浮矢Ⅰ(東),湯坂(東)

 8世紀半ば:小谷(西),坊作(東⇒西),上大城(西),砂田中台(東),上総国分寺(東⇒西),上総国分尼寺(東⇒西)

 8世紀後半:山ノ上A(ほぼ正方位),鷺山入(東),久野(正方位),小谷(東)

 8世紀末: 萩の原(東)

9世紀以降:東郷台(9世紀前半)(東)

千草山(9世紀半ば〜10世紀)(西)

大網山田台№3(9世紀後半)(西)

作畑(10世紀ヵ)(西)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※南大広(?)(ほぼ正方位)

※滝東台(8世紀以後)(東)

※南子安金井崎(奈良時代)(東)

※真行寺廃寺(9世紀)(西)

※針ヶ谷(9世紀)(西)

※尾亭(9世紀)(西)

※羽戸(9世紀)(東)

※下谷(9世紀)(ほぼ正方位)

※永吉台遺跡群遠寺原地区(9世紀)(西)

※松尾町大山(古代)(ほぼ正方位)

 

 

【安房国】 

 4紀紀半ば:
 4世紀後半:
 4世紀末:
 5世紀初頭:
 5世紀前半 :
 5世紀半ば:

 5世紀後半:

 5世紀末:

 6世紀初頭:

 6世紀前半:

 6世紀半ば:

 6世紀後半: 

 6世紀末:

 7世紀初頭:

 7世紀前半: 

 7世紀半ば:

 7世紀後半:

 7世紀末:

 8世紀初頭:

 8世紀前半:

 8世紀半ば:

 8世紀後半:

 8世紀末:

9世紀以降:

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

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