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2019年10月15日 (火)

質問6~9について 10/16

※ 川瀬さんの「コメント」を利用した部分は大丈夫だと思いますが・・・。

 

【質問6】 太宰府の編年が7世紀末でなく6世紀末に遡るとのことですが,これによって従来の太宰府理解にどのような変更が生まれるのでしょうか。

→ 日本書紀をもとにして組み立てられている従来の太宰府理解が,大きく変化すると考えます。太宰府が6世紀末に遡ると,藤原京の7世紀末を大きく抜いて日本で一番古い条坊都市がにあったということになります。当然この巨大都市はどんな勢力が作ったのかが問われるでしょう。また,首都として政治を担っただけでなく,文化の質の高さ(政庁の鬼瓦等)を見直す必要が出てくるでしょう。諸外国もこの太宰府を倭国の首都として考えていたのです。とても「出先機関」などというものではありません。一元史観での歴史解釈が無理となれば,多元史観の登場が必要となり,倭国=九州王朝が何百年もの間主権国家であり(ということは,近畿王朝は主権国家ではなかったということ),多利思北孤などの天子が,そのリーダーであったことなど,次々と明らかになると考えます。当然,日本書紀をもとにして書かれていると言ってもいい歴史教科書も断罪されなければなりません。そして,「人生は二度通説で洗脳される」と私は考えるのですが,各地の歴史の説明も改めなければなりません。末筆になりますが,通説で飯を食ってきた大学の教授や研究者も,今後どうしていくかを問われることになるでしょう。

【質問7】 資料Bの小郡官衙遺跡を,書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。

→ 孝徳紀に以下のような記事があります。

是歲、壞小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。

小郡屯倉を宮に改造した」との記述であり、ここで「礼制」を定めたとの九州王朝の記事と考えました。

7世紀後半・・・小郡官衙Ⅰ(東)

 7世紀末・・・・小郡官衙Ⅱ(東)

 8世紀半ば・・・小郡官衙Ⅲ(正)

【質問8】 資料Cの有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。

→ (川瀬さんの2つのコメントを合成したものです。)

 奈良文化財研究所のデータべースによると,有田・小田部(有田)は, 「7世紀後半~10世紀前半?」となっています。
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。

解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。

 ここ福岡市早良区の有田遺跡の西偏官衙遺構が孝徳の難波長柄豊崎宮だとすると、この地名が逆に明らかになってきます。
 この宮の東側に広がる内海はのちに草香江と呼ばれたもので、南北に長い形をした内海です。だからこの内海が「長江(長柄)」を呼ばれたのではないか。その「長江」に突き出た「豊崎」の地に近畿天皇家の九州出先機関である宮が建設されたので、この名になった。
 そして書紀孝徳紀で明らかなように、この宮は孝徳の時に建設されたものではなくその前からあった。これは「難波長柄豊崎宮に都を移す」としか記述されないことから明らかです。
 この宮は孝徳の時期よりずっと以前からあり、近畿天皇家の九州出先機関だった。
 と考えると、この官衙遺構が「7世紀末から8世紀前半」に位置づけられるということは、100年実年代を動かせば「6世紀末から7世紀前半」となり、これは推古の時代からだという結論になります。

【質問9】 (岡山理科大学の磁気偏角データベース→『理科年表』のものに差し替えた件)

→ 当初検索して手に入れた手持ちの資料が,岡山理科大学のものでした。より知名度の高い『理科年表』のものに差し替えましたので,年代の幅はやや短くなりましたが,基本的にはほぼ同じ結果です。450~1150年の700年間が西偏となります。また,『理科年表』の「2019年版」の地学228(820)ページに出ていた「日本における過去2000年間の地磁気変化」という項目で,「主として西日本を中心とする歴史溶岩や考古学資料を用いて推定」と書いてありました。参照は,広岡公夫,第四紀研究,第15巻,第4号,200‐203.1977」は参考資料に載せた通りです。

 

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コメント

質問6:「日本書紀をもとにして組み立てられている従来の太宰府理解」。これを少し詳しく展開しておいたほうが分りやすいと思います。

質問9:岡山大学の磁気偏角データベースの説明を見ていると(pdfファイル)、この取り組みには広岡氏も参画しておられ、説明の中に広岡氏が行った西日本のデータ集積(1972年)がもっとも新しいものなので、その後の40年近い知見を加えた新しいデータベースを作ると書かれていました。
 つまり理科年表の地磁気永年変化表は、1972年までのデータに基づく古いもので、岡山大学の物はごく最近までのデータに基づく最新版で順次更新されていくということです。
 今後は理科年表ではなく、岡山大学のデータベースを利用すべきでしょう。
 なお二つとも元のデータの種類は同じです。西日本を中心とする歴史溶岩や考古学資料。
 東日本は考古学資料(要するに窯跡の焼土)が少ないことと、東日本の考古学編年が不安定であることが問題点のようです。

追伸
質問7:書紀の以下の文を、九州王朝天子の事績と理解した。その根拠をこの際説明しておきます。

是歲、壞小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。
 
 この一連の文は小郡(屯倉)を壊して宮に改造し、この宮にて新たに礼法を定めたというもの。其制に曰く以下は、その礼法の説明。
 この一連の文に「天皇」の語が明記されているのだから、この一連の文の主語は近畿の天皇ではないかとの意見が出てくると思います。
 でも違うのです。
 「主語有無」で九州王朝の天子と近畿の天皇の言動を区別する方法は、一連の文の冒頭に置いて、主語を省略する(=九州王朝の天子)場合と、主語を「天皇」と明記する(=近畿の天皇)場合とで区別する方法です。
 この一連の文の冒頭において、宮を壊した主体が省かれているので、この一連の文は九州王朝の天子の事績だと判断できるのです。
 では途中の「天皇」はどういう役割をしているのか。
 この「天皇」の語はなくても文章の意味に違いはないことにお気づきでしょうか?
 「是歲、壞小郡而營宮。處小郡宮而定禮法、其制曰。」と天皇の語を省略しても意味が変わらない。 小郡屯倉を壊して宮に造営したのも、その宮で礼法を定めたのも同じ人物だからです。
 つまりこの「天皇」の語は、これを挿入することで、前記の一連の文の冒頭に置いて、主語を省略する(=九州王朝の天子)場合と、主語を「天皇」と明記する(=近畿の天皇)場合とで区別する方法で、九州王朝の天子の事績と近畿の天皇の事績を区別して書紀は書かれていることに、気が付かれないようにとの目的で、書紀を実際に執筆した史官が行ったカモフラージュなのです。そして近畿の天皇の事績を記すときは、冒頭に天皇と主語を明記すると同時に、一連の文の中でも、本来は天皇と書かないで省略しても意味が通じるところにもあえて天皇と入れておくことで、このカモフラージュも気が付かれないように操作したのだと私は考えます。

 ということで、この文で、小郡屯倉を壊して小郡宮として再造営し、その宮で新たに礼法を定めたのは、九州王朝の天子であると結論付けられるのです。

 そしてまさしく筑紫の小郡で東偏の官衙を壊して、正方位の大規模な宮に改造した痕跡が発掘された。しかもその正方位の宮の年代は8世紀中頃。
 九州の編年は近畿に比べて100年遅くされているから、実年代は7世紀中頃。
 そして書紀孝徳紀のこの記事の年代は大化三年。つまり例の改新の詔が発せられた年の翌年ですから647年。まさしく7世紀中頃。
 考古学的年代と書紀の年代が一致しました。
 だからこの小郡官衙遺跡の正方位の官衙を、書紀孝徳紀の大化三年にでてくる小郡宮だと判断したのです。

 補足しておくと、この小郡宮での礼法は、書紀天武紀の天武11年9月の勅において、この礼法が以下のように引用されています。「九月辛卯朔壬辰、勅「自今以後、跪禮・匍匐禮、並止之。更用難波朝庭之立禮。」と。
 近畿では天皇に拝礼する際には、跪(ひざまず)いたり匍匐(ほふく)したりする礼法が採用されていたが、この年に初めて「難波朝庭の立礼」に変えることが「勅」を持って命じられたというもの。書紀の中で礼法が示されたのはまさしくこの書紀孝徳紀の小郡宮でのものしかないので、この朝廷で礼拝する礼法のことを言っているとしか解釈できません。したがってこの小郡宮での礼法が立礼であったということが天武紀のこの勅でわかるし、またこの立礼での礼拝の仕方を決めた礼法を発した天子がいた都は、小郡宮ではなくて難波宮だということも、この天武紀勅は示しています。
 つまり書紀孝徳紀の時代の九州王朝の天子は、まさしく難波宮に都していたということです。
 そしてここからさらにわかることは、古賀さんがよく立論で使っている皇大神宮の文書に評制が施行されたのが「難波朝廷の時代」と書かれているのだから、評制施行時の九州王朝の都こそ大阪の前期難波宮だとしていますが、そうではなくて、評制施行時の九州王朝の都は、九州の博多湾の奥にあった難波宮であったので、この時代のことを「難波朝廷」の時代だと言っていたということがわかるのです。
 この難波宮こそ、近畿の大王孝徳が崩御した難波宮です。
 なおこの時九州王朝の天子が首都である難波宮ではなくて新たに造営した小郡宮で礼法を定めたのは、当時改新の詔で宣言したように、中国式の都城を建設しそこを首都とする工事が進んでいる最中だったので、工事中に天子が新たな首都に監督に行く拠点として、新首都である太宰府のすぐ南の小郡に、新たな宮=行宮を作り、そこで新時代を示す礼法を出したのだと思います。

質問8
 これは私の考察そのものなので問題はありません。ちょっと長いですが。
 ちなみに書紀孝徳紀で難波長柄豊碕宮への遷都を宣言した部分は以下の通り。
 「冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。」
 遷都をした主語がはっきりと「天皇」と明記されているので、これは近畿の大王である孝徳の事績であることは明白だ。
 そして書紀は後の大阪の地の浪花・浪速を難波と標記を変えて、九州王朝の都であった難波の記事を全て大阪の浪花の話だと改変していることと、この孝徳紀で、孝徳と中大兄が仲たがいし、中大兄が近畿に戻ったことを記した記事に是歲、太子奏請曰、欲冀遷于倭京。天皇、不許焉。皇太子、乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等、往居于倭飛鳥河邊行宮。于時、公卿大夫百官人等皆隨而遷」とあるように、中大兄が戻る先を「倭京」と標記し、さらに「倭飛鳥河邊行宮」と記したことから、孝徳がいた、難波長柄豊碕宮は九州王朝の地、すなわち「日本」の難波の宮であり、中大兄が戻った飛鳥の宮は「倭」地、すなわち当時の近畿天皇家が統治していた地の飛鳥の宮だということがわかるのです。

 ちなみに天武紀で新たな礼法を指示した勅を出したのは、勅すと主語を省略していますから九州王朝の天子です。
 つまり近畿天皇家はそれまで難波朝廷の礼法に従っていなかったのを、九州王朝の天子の勅を持って、九州王朝の難波朝廷の礼法を以後採用すると宣言してもらったということです。
 実質的権力者は近畿大王天武でしたが、統治権はいまだに九州王朝の天子に有ったことを示す事例の一つです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

コメントというより,論文みたいな感じですが,
これらを印刷して,まず頭に入れる作業から始めることにします。

肥沼さんへ

 社会科サークルでの発表いかがでしたでしょうか。
 想定した質問はあったのかな?

 ところで本日確認したら、奈文研のデータベースが正常に戻っていました。
 早速先日来手を付けていた、大阪府の寺院遺跡と官衙遺跡の再精査と再集計、そして国別分類をやっておきました。(大阪~山口までの再集計を順次進めています。ついでですから再精査もしておきます。初期のものは検討が予想通りに甘いです)。
 肥沼さんも愛媛県の官衙遺跡の精査を開始してください。
 質問10から13の答えの検討も並行して進めましょう。

 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 社会科サークルでの発表いかがでしたでしょうか。
 想定した質問はあったのかな?

社会科サークルの様子は,「夢ブログ」に書きましたのでお読み下さい。
また,古代史セミナーの実行委員会で出た質問は,「古墳はどうなのか」や「自分の家の場合・・・」等だったようです。

 ところで本日確認したら、奈文研のデータベースが正常に戻っていました。
 早速先日来手を付けていた、大阪府の寺院遺跡と官衙遺跡の再精査と再集計、そして国別分類をやっておきました。(大阪~山口までの再集計を順次進めています。ついでですから再精査もしておきます。初期のものは検討が予想通りに甘いです)。
 肥沼さんも愛媛県の官衙遺跡の精査を開始してください。
 質問10から13の答えの検討も並行して進めましょう。

それはグッド・ニュースですね。
さっそく,愛媛県から再開いたします。
再精査,お手数お掛けします。

>古代史セミナーの実行委員会で出た質問は,「古墳はどうなのか」や「自分の家の場合・・・」等だったようです。

 この質問のレベルは、実行委員会に集まる人の歴史認識のレベルの低さを示していますね。
 古墳の年代が、関東は近畿に比べてかなり年代を下げられていたことは今や常識で、古墳の普及年代は全国一律であるというのが、最近の考古学の常識になっています。そのため古墳時代の土師器須恵器の編年を変えなければいけないという議論が起こってきているようです。 
 私がこの問題を認識したのは、我が家のそばの久地駅のすぐ南の丘の上に弥生時代の壷を埴輪のように木棺の周りを囲ったきわめて古式の円墳(径30メートル)が、その隣に丘頂上に向かってずらっと弥生時代の王墓方形周溝墓群を伴って発見されたとき、どうみても古墳時代初頭、古墳発生期の様相から見て3世紀代の古墳と見られたが、当時の学説では関東の古墳は畿内に比べておよそ100年遅れるとされたことに合わせて、4世紀代の古墳と発表されたことを知ったときでした(発掘調査員の中に教え子がいて教えてくれた)。もう20年以上前の話。
 実行委員会に集まった人の歴史認識は20年は遅れていると思います。
 また「自分の家の場合・・・」という発言は、家の方位を生活の便利さから決めるという思想での発言。ここで問題にしているのは政治的な方位の問題ということを全く理解していないものです。
 こんなレベルだから、この重大な提案をわずか10分でやれといういい加減なことになったのだと思います。
 社会科サークルで質疑も含めて40分だったそうな。
 これくらいかかるものです。
いや、100年ずらせば太宰府条坊遺跡が6世紀末に遡り、藤原京よりも、さらに今条坊があったのではないかとされている前期難波宮よりも古い日本最古の条坊都市になり、通説もそして古賀説も根本的に再検討を迫られるというところに集中して質疑しただけでも1時間は優にかかると思いますよ。
 提案に20分。質疑20分。食事の後の話題提供ではなく、本発表に入れるべき発表です。
 古田史学系の人は何もわかっていない。
 肥沼レジュメをみて、どういう反応を示すか。楽しみです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「自分の報告がどう評価されるか」とビクビクするより,
「参加者の歴史認識のレベルを調べに行く」という積極的発想でいけばイイのかなと,思います。

幸いなことに,今回のメイン講演者は藤尾愼一郎さんという国立歴史民俗博物館の方で,
水田耕作が紀元前10世紀から始まっていたことを明らかにした方らしいです。
興味を持っていただければいいのですが・・・。
演題は「二つの弥生時代~「イネと石」の時代から「イネと鉄」の時代へ」というもので,
弥生時代も大きく2つに分かれることを話されるらしいです。面白そうです。

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