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2019年10月 6日 (日)

★香川県の〈官衙遺跡〉の集計 10/6★

【讃岐国】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・下川津(西),岸の上(東)

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・稲木(B)(正方位)

7世紀半ば・・・郡家原(西),川津一ノ又(西),讃岐国府下層・大型建物(正方位)

7世紀後半・・・川北(西),岸の上(正方位)

7世紀末葉・・・岸の上(西)

8世紀初頭・・・稲木北(西)

8世紀前半・・・讃岐国府(西),岸の上(西),下川津(正方位)

8世紀半ば・・・

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・下川津(西),買田岡下(西),岸の上(西)

※ 買田岡下の8世紀に正方位に近い建物群あり。近畿王朝時代のものか。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

川瀬さんご指摘の通り,精査力も集中力も私にはないようです。

また修正がありましたら,お願いします。

 

 

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

岸の上遺跡の年代がまったくまちがっています。

★私のまとめ:左側が発掘結果→右側が実年代
0期:6世紀後半~:東偏(後の旧南海道の付近から北側)→6世紀前半~
1期:7世紀末以前:正方位(後の旧南海道付近の南側) →7世紀中頃以前
2期:7世紀末から8世紀初:西偏(上に同じ)        →7世紀中頃から7世紀末
3期:8世紀第二四半期:西偏(上に同じ)          →7世紀末から8世紀初

したがって肥沼さんの集計の
~6世紀半ば・・・岸上(東) ⇒6世紀後半に移動
7世紀初頭・・・岸の上(正方位) ⇒7世紀後半に移動
7世紀半ば・・・岸の上(西), ⇒7世紀末
7世紀末葉・・・岸の上(西) ⇒8世紀前半
に移動してください。

※どうしてこんな間違いが起こるのか? いったいどうやったのですか?

※間違いに気が付いた理由は、岸の上(正方位)が7世紀初頭に入っていたからです。これが正しいとすると讃岐の編年が50年後ろにずらされているという私の前の判定は覆り、せいぜい25年になるからです。編年は50年ずらされた地域と100年ずらされた地域というのが今までやってきた結論。これを変更しなければいけないのかと驚いて、再度検証結果と照らし合わせてみた。
 こういう間違いが生じるようでは、肥沼さんの集計にすら信用が置けなくなります。

※肥沼さんは、集計して集計表を作った後で、集計が正しいかどうか再点検するという作業をしていないのでしょ。
肥沼さんのブログには(この精査のところでも)たくさんの誤字脱字がそのままになっていることから鑑みて、以上のような結論になります。もっと慎重に作業してください。

※愛媛県の寺院遺跡の検討に入る前に、他の遺跡も年代が間違っていないか点検してください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ※どうしてこんな間違いが起こるのか? いったいどうやったのですか?

川瀬さんの書かれているものの「→のうしろの実年代」を使ったようです。
すいません。

他のも見直してみます。

追伸

これも間違いですね。
8世紀末葉・・・岸の上(西),⇒9世紀以降に移動

下層・大型建物(正方位)⇒讃岐国府下層・大型建物 ですね。文字列が抜けている。

8世紀初頭・・・下川津(正方位)⇒8世紀前半に移動

※ 買田岡下の8世紀に正方位に近い建物群あり。王朝時代のものか。⇒近畿王朝時代のものかに訂正。

結局全部点検することになりました。
もっと丁寧に慎重にやってください。集計表まで直されるようでは、肥沼さんは集中力もないということになります。
最後に必ず誤字脱字や間違いがないか点検してからアップすること。

肥沼さんへ

 全部点検しましたから間違いはないと思います。
 これで香川県の官衙遺跡精査は完了です。
 正方位の出現時期が、7世紀前半から7世紀後半、そしてもう一つが八世紀前半。少なくとも前者に依拠すれば編年のずれは50年で確定です。
 8世紀前半をどう考えるか。
 50年遡れば7世紀末になるので、ぎりぎり九州王朝時代か、それとも近畿王朝時代なのか。買田岡下の8世紀に正方位に近い建物群もまたどちらか判断できかねますね。
 8世紀前半、つまり50年遡って7世紀末から8世紀初頭の近畿天皇家時代につくられた讃岐国府ですら正方位には作られなかったことを考え合わせると、九州王朝の域内であった地域では、近畿王朝の時代に入ってからは、太宰府と鴻臚館だけが正方位で、あとは西偏に作られた可能性が強いと思います。

>川瀬さんご指摘の通り,精査力も集中力も私にはないようです。

 これじゃあ研究は無理・・・という結論になる。
 このところ野球に夢中で、ひいきの楽天がクライマックスシリーズに出場して戦っているので、昼間から野球観戦に夢中になっているようですから、この性で集中力が飛んでしまっているのではないでしょうか。
 下川津とか稲木遺跡で手間取っていたのは、バレーボールの新人戦応援に毎日出かけていたので、集中力が飛んでいたのが原因かもしれませんね。
 何か別のことに夢中になると、方位の考古学の研究がおろそかになる。
 ということでしょうか。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

新人戦やクライマックス・シリーズのせいではないと思いますが,
四国に入っても精査がなかなかうまくいかない苛立ちみたいなものはあります。
そして,せっかく学んだことも利用できずに,また元のやり方に戻ってしまう。

色を塗り分けてやっていくやり方は「急がば回れ」でいいのですが,
一枚一枚写真に撮って,解像度の調整をしながらアップするのはなかなか手間です。
川瀬さんのように脳みそのなかで,それができたら素晴らしいのですが・・・。

肥沼さんへ

>四国に入っても精査がなかなかうまくいかない苛立ちみたいなものはあります。そして,せっかく学んだことも利用できずに,また元のやり方に戻ってしまう。

 なるほど。一年近く精査しているのに、一向に上達しないいらだちですね。

>色を塗り分けてやっていくやり方は「急がば回れ」でいいのですが,
一枚一枚写真に撮って,解像度の調整をしながらアップするのはなかなか手間です。

 でも手間を惜しんでは研究はできないです。

 要は焦らず腐らず 弛みなく歩き続けるしかないと思います。
 今回の集計のミスは単純ミス。データを写すときの不注意。これはアップする前に見直すだけで防げます。
 建物群の方位を判定することは、慣れるしかないのではないでしょうか。頭の中で色分けできるわけもないので、手間でしょうが、じっくりやってください。
 あせらずこの方法を取り組んで行けばかならず上達します。図面で建物群の方位をなかなか見つけられないときに、手間を惜しんで、建物データに飛びついてしまって、結局建物一棟ずつの方位判定に陥るミスをしないように注意してください。
 建物群の方位を判断するには、コノ字型やロの字型の建物群になっている可能性を、掘り出された建物を元にして、まだ掘り出されていない建物を想像するところが肝です。
 これさえ確実にできればしめたもの。
 あとは九州王朝の方位変遷の年代を確実に押えておくこと。
 6世紀前半まで・・・・西偏
 6世紀中頃から・・・・東偏
 6世紀末から・・・・・・正方位
 
 ここを押えたうえで、今やっている地域の編年のずれを頭において判定する。
 四国は九州と近畿の中間地点ですから、概ね50年下げられているとみて判断すればよいと思います。

追伸

 肥沼さんにとっての最大の問題点は、建物群全体の方位を考える際の肝である、「発掘されていない建物を想像する」ことがなかなかできないことでしたね。
 このことへの対策が必要だ。
 コの字型やロの字型の建物配置を想像する。
 もしくはほとんどの建物が同じ方向を向いているときには、これらと直交する別の建物があるのではないかと想像する。
 この際に大事なことは、掘られた建物だけではなく、発掘区域の外(つまり空白の地域)にこの建物群に属する建物があったとしたら・・・・と考えて、コの字型やロの字型の建物配置などを想像する。

 空白域に何を見るか、ですね。

下川津遺跡の第一微高地南部に8世紀中頃のコの字型官衙を見つけたとき。肥沼さんはこれをやっていました。
 一番北側の南北棟B36の東と西に、まだ建物があったのではないかと見当をつけ、その場所に線を引いてコの字型を完成した。
 この際の西側は発掘区域外の空白域。東側は隣のB38が半分しか出ていないから、後世の削平などで痕跡が消滅したかもしれない地域。
 その北にある6世紀末から7世紀前半のコの字型官衙でも、建物があるかもしれないところに線を引いています。

 これは私がやったことだが、第四微高地南部に7世紀のコの字型官衙を見つけたとき。
 南北棟が東西にはなれて対になってあるのを参考に、この東西二つの建物の北側や南側にも同様な対の建物を想像し、最南部の東西棟がすこし西側に寄っていたので東側に同様の規模の東西棟を想像し、最後に全体の北側の空白域に、大きな東西棟か小型の東西棟二棟を想像して、コの字型官衙を想像した。

 以上のように、建物のない空白域に、有ったかもしれない建物を入れたり線を引いたりすると、建物群の姿はより鮮明に浮かび上がってきます。

 この作業を常にやってみることが対策かな?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 空白域に何を見るか、ですね。

数学の図形の証明問題で「補助線が引ければ解ける」というのに少し似ていますが,
建物もぴったり「直交」するものだけとは限らず,中心建物に廂が付いている訳でもないので,
なかなか空白域に建物は見つけにくいです。
そして,同じようなところに何回も建て替えられているということもありますね。
泉官衙遺跡のようにスライスしてもらえると分かりやすいのですが…。
あれに出会うのは,おそらく一生に一度でしょう。

肥沼さんへ

>泉官衙遺跡のようにスライスしてもらえると分かりやすいのですが…。あれに出会うのは,おそらく一生に一度でしょう。

 泉官衙遺跡ほどではないが、もう一つ九州王朝内の出来事ですが、時代による方位の変遷をくっきりと示した変遷図付の遺跡に出会っていますよ。
 小郡官衙遺跡です。

 今回取り組んだ岸の上遺跡では、泉官衙遺跡や小郡官衙遺跡で、すでに発掘調査団がやっていた作業を、肥沼さんと私と二人でやったようなものです。
 ずいぶん手間がかかりましたよね。建物群の存在をいくつも見つけ、その建物の年代を確認する。
 発掘調査団が行うとしたら、
①詳細な遺構図をつくる。
②そこから柱穴の大きさや深さや位置を参考にしながら、建物一棟一棟を復元し、柱穴から出土した土器などを参考にして建物の年代を判定する。
③この判定を基礎にして建物群を見つける。
 ここまでやって初めて変遷図はかけるわけです。
 特に時間がかかるのは①の遺構図から建物を確認する作業。出てくる穴は柱穴だけではないので、大変です。武蔵府中の遺跡の中で穴がたくさんありすぎて建物の柱穴がどれかわからず、結局建物を判断できなかった遺構にであったことがありましたね。
 変遷図を作る作業はとても手間と時間がかかります。
 だからなかなか変遷図が付いていない。
 したがって今回のような考察をするには、変遷図そのものを私たちの方で作らなければいけない。
 岸の上遺跡の精査にすごい時間がかかったのはこういう理由です。
とても勉強になったと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  特に時間がかかるのは①の遺構図から建物を確認する作業。出てくる穴は柱穴だけではないので、大変です。武蔵府中の遺跡の中で穴がたくさんありすぎて建物の柱穴がどれかわからず、結局建物を判断できなかった遺構にであったことがありましたね。
 変遷図を作る作業はとても手間と時間がかかります。
 だからなかなか変遷図が付いていない。
 したがって今回のような考察をするには、変遷図そのものを私たちの方で作らなければいけない。
 岸の上遺跡の精査にすごい時間がかかったのはこういう理由です。
とても勉強になったと思います。

太宰府とか岸の上とか,「いったいこの作業はいつまで続くんだろう」と五里霧中の状態はつらいところです。
でも,最後に「変遷図」のようなものが出来上がってくるとうれしい。
これまでにない経験をしているのには違いありません。

あと,川瀬さんのコメントに,私がさらにコメントを入れない時は,
「わかりました。質問も意見もありません」という場合で,
決して「読んでいない」という意味ではありません。
もし気になるのであれば,【既読】とでも入れましょうか。
また,精査(とは言えないものですが)直さないままにしているのも,
「どういう風に間違えたのか」を残しておくためで,
川瀬さんのコメントをコピペしてしまえば簡単ですが,
自分の誤答例の保存という意味です。

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