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2019年10月11日 (金)

「黄色で表示した正方位の建物」の年代

「黄色で表示した正方位の建物」の年代で,遺跡的なまとまりを示すものは2つに思える。

【KT41】・・・政庁南東官衙に食い込むように建てられている。

      掘立004 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 1°W

      掘立008 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 0.5°W

      掘立009 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 1°W

【KT54】・・・政庁南東官衙より100mも南に位置している。防衛のためか。

      掘立002 8世紀 Ⅲ 1°W

      掘立004 8世紀 Ⅲ 0°

      掘立005 8世紀 Ⅲ 0°

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 正方位建物群の精査お疲れ様です。
 ただいま奈文研のデータベースに制限を超える数のアクセスがあるようでつながらないので確認できないのですが、「政庁南東官衙よりも100mも南にある」正方位の東西棟三棟(KT54の)とは、正方位に作り変えられた正倉院から南東の方角に延びる道の途中にある官衙でしょうか。

 私が「興味深い結果」と言ったのは、「政庁南東官衙」に食い込むように建てられた正方位の建物群が何かということです。

●1:政庁南東官衙こそ東偏時代の政庁ではないか!
 この問題を説明するには、「政庁南東官衙」の性格についての疑問から入りましょう。
 この名称は、ほぼ正方位のⅠ期政庁の南東にあるから名付けられたものですが、もう一つの意味はここは政庁ではなく、政庁に関連する官衙だという意味になります。
 東偏時代の政庁のありかは、Ⅰ期政庁のすぐ南。政庁南東官衙の西側に想定されている未発掘地域です。
 
 しかし私は東偏時代の政庁は、この政庁南東官衙ではないかと考えます。
 理由は、政庁南東官衙の復元図がおかしいことです。
 この官衙は周囲をぐるっと柵列で囲まれている(東側は未発見)が、その北辺にある主殿の左右には小型の南北棟が左右対称形に立っています。しかし南辺を見ると、主殿の中心線の真南の少し西寄りに大きな東西棟が一つあるのに、東側は、小型の東西棟が二つになっています。
 まず第一の疑問は北辺は左右対称なのになぜ南辺は左右非対称なのかです。
 この疑問をもって遺跡図をよく見ると、南辺の二つの東西棟は見事に東西に並んでおり、この二つが同じ一つの建物と考えて線を引き直すと、なんと西側の大きな東西棟とほぼ同じになるのです。
 つまり復元図が間違っているのではないか。この官衙の南辺も北辺と同様に左右対称形になるはず。
 こう考えて未発見の東側柵列がないか調べてみました。
 主殿である正殿の中央から西側の柵列までの距離をはかり、その長さを正殿中央から反対側の東側に伸ばしてみる。そうするとなんと、官衙の南辺で柵列の少し北に、正殿中央から西辺柵列までの距離と等しい場所に、柱あなが南北に幾つか並んでいるではありませんか。
 そうです。これが東側の柵列の南辺の痕跡です。
 こうしてみると、この政庁東南官衙は、左右対称形に建物が並んだ配列になり(北辺と南辺)、規模から言っても政庁と言って良い建物群になります。
 そう考えて正殿の南に幾列かならぶ東西棟が気になりました。本当にこれは東西棟なのだろうか。
 いろいろ考えてみての結論。
 正殿の東西に並ぶ脇殿の南には、南北に長い形の大型の脇殿があったのではないか。そして正殿の南側には、少し小型の前殿と呼ぶべき建物があったのではないか。
 それを建物群を復元する際にあやまって今のような不整形の建物群に復元してしまったので政庁と考えられなかったのではないか。
 これが政庁東南官衙の本来の性格です。つまり東偏時代の政庁だと。

   ★政庁南東官衙の復元図は少し違う。本来は左右対称形(下のイメージのよう)。

  ■  ■■■  ■

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  ■         ■
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  ■         ■
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 これを東西南北ぐるっと柵列が囲んだ形。

●2:政庁南東官衙に食い込んだ形の正方位の建物群こそ正方位時代の政庁ではないか!

 政庁南東官衙が東偏時代の政庁だと考えると、次の時代のこれに食い込むように作られた正方位の建物群こそⅢ期の正方位の政庁ではないかという仮説が浮かびます。
 ただし北側の政庁南東官衙に食い込んだ部分ではなくて、その南側に柵列で囲まれた部分です(まだ大部分は発掘されていませんが)。
 北側の政庁南東官衙に食い込んだ建物群は、正方位の政庁に伴う官衙群だと思います。

★したがって変遷図に付けられた次の文章
  第Ⅲ期(7世紀第4四半期~8世紀)
         ⅢーA 寺院の建立・回廊の廃絶
         ⅢーB 正倉院の充実・道路の変更
のⅢ-Bに「政庁の正方位への立て直し」が付け加えられるべきだと考えます。
 おそらくⅢ期は順序としては
 1:回廊状遺構の廃絶
 2:回廊状遺構の跡地に寺院を正方位で建立(跡地に寺院を建てた目的は?)
 3:政庁・正倉院ともに正方位に建て替えるとともに、主要道路も正方位に作り変える。
だったのだと考えます。

ところで、
★肥沼さんはこのⅡ期に出現した東偏の大規模な回廊状遺構は何だとお考えですか?
 通説で有力なのは、「唐新羅との決戦に臨んで西に向かった斉明天皇が途中立ち寄った行宮」説です。
 この根拠は斉明7年春正月に、斉明は海路で西征の旅に向かった。その途中で斉明の船は伊予の熟田津石津行宮に泊まったと書紀にあることが一つ。そしてこの熟田津は伊予松山の道後温泉の近くにあった港ではないかと考えられていること。もう一つはこの久米官衙遺跡群の回廊状遺構がどう見てもその構造からみて宮としか思えないことと、年代が7世紀後半に比定されるので書紀の記事の661年の石津行宮と年代があうこと。さらにこの回廊状遺構の西には川に面して津と考えられる施設があることである。
 だが方位の考古学によってこの遺跡は7世紀後半ではなく、50年遡って7世紀前半と考えられることと、一時的な滞在場所としてはあまりに遺構が大規模すぎるので、斉明の行宮説は成り立たないと思う。
 ではいったいこの回廊状遺構=宮殿は誰のための宮なのだろうか。

 この場所は、西流して瀬戸内海に流れ込む重信川の河口から遡り、重信川⇒石手川⇒小野川と、およそ10キロほど河口から遡った内陸にあります。
 海に近いとはいえ、海には面しておらず、内陸にありますので、海からここに至る途中に多くの防衛拠点を置くことは可能です。
 交通の弁はとても良い場所と言えましょう。

 ということを頭に置くと、四国の合田さんが愛媛県西条市に「紫宸殿」「斉明」「天皇」地名を見出し、この地こそ九州王朝の天子斉明が白村江の敗戦後に拠点を移した場所だと唱えたことを参考にして言えば、敗戦後の拠点ではなく、九州王朝の天子は、唐新羅との戦いを控えた時から、戦時の避難場所を伊予の国に作って置いたのではないかと考えたほうが合理的です。
 なにしろ古田さんによれば当時の九州王朝天子斉明(さいみょう)は女帝なのですから、戦には行きません。書紀にもあるように戦の指揮を執ったのは皇太子です。
 ならば女帝は戦場に近い難波ではなく、さらに内陸の太宰府や、さらに内陸の朝倉あたりに戦の前から避難していても不思議ではありません。現に書紀では斉明7年の四月に「或本にいわく。天皇朝倉宮に遷居す」とあります。通説ではこれは斉明のこととして「朝倉宮」と「朝倉橘樹広庭宮」を同じとして無視していますが、この記事は九州王朝の天子である女帝が朝倉に避難したことだと思うのです(先に「書紀斉明紀を精査する」で論じました)。
 また現に近畿天皇家の大王である斉明(こちらはさいめい)は筑紫の奥である朝倉の橘広庭宮にいたのですから。そして近畿天皇家の総司令官である中大兄皇子がいたところは、難波津の近くの磐瀬宮にいたことは、母斉明の遺体を朝倉から磐瀬に移して、その後船で帰国したと、これも書紀に書かれています。
 戦の指揮を執る皇太子は九州王朝も近畿天皇家も難波におり、名目的な長である天子も大王もともに内陸の朝倉にいたのです。
 その避難場所の一つとしてさらに瀬戸内海を遡った伊予国にも複数の避難のための宮が作られていたと考えてもおかしくはありません。

 ということで私は、この回廊状遺構を、唐新羅との決戦をひかえた九州王朝の天子のための避難場所の宮の一つだと考えます。
 だからこそここに天子とそれを支える百官が移ってくるわけですから、宮を維持するための大きな正倉院が作られ、政庁を初めとする多くの官衙群がⅡ期に造営されたのではないでしょうか。
 つまり久米官衙遺跡群のⅡ期における大規模な造営事業の中心は、宮である回廊状遺構であり、これを中心として、百官を支えるための正倉院と政庁および官衙群が大規模に建設されたのでないかと考えます。
 こう考えるとⅡ期の大規模造営の意味がすっきり理解できます。

 とすると先に?とした、回廊状遺構の跡地に寺院を建立した目的は何かということになります。
 この来住廃寺は白鳳時代創建の寺院。たぶん白鳳瓦が出ているのでしょう。
 九州年号の白鳳年間こそが九州王朝天子斉明の治世にあたるのではという仮説があります。これを前提にしてみると、白村江の戦いを挟んで23年も続いた年号の最後は、この天子の死ではなかったのではないでしょうか。
 したがって斉明がしばらく滞在したかもしれない宮の跡地に作られた寺院は、この天子の菩提を弔うための物だったとも考えることができます。

 こんな風に考えると、Ⅲ期の大規模な正方位への建て替えは、近畿天皇家によるものではなく、九州王朝の残光だったのではないか、との考えが出てきます。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  こんな風に考えると、Ⅲ期の大規模な正方位への建て替えは、近畿天皇家によるものではなく、九州王朝の残光だったのではないか、との考えが出てきます。

う~ん。それほどの歴史が,この遺跡に刻まれているのですか。
「回廊 → 寺院」の大変化は謎でしたが,斉明の菩提を弔うものなら解せますね。
天智がこれを理由に兵を送らないというのも。

少々誤解がありますね。

>「回廊 → 寺院」の大変化は謎でしたが,斉明の菩提を弔うものなら解せますね。
天智がこれを理由に兵を送らないというのも。

 来住廃寺が「斉明の菩提を弔うため」としたときの「斉明」は九州王朝の天子である斉明(サイミョウ)だと考えています。
 天智が母斉明の菩提を弔うために建てた寺院は太宰府の観世音寺。そして飛鳥では川原寺だと思われます。
 この久米官衙遺跡群の中の来住廃寺を建てたのは九州王朝。
 だから「九州王朝の残光か」としたのです。
 明確な証拠はないですが。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 来住廃寺が「斉明の菩提を弔うため」としたときの「斉明」は
九州王朝の天子である斉明(サイミョウ)だと考えています。

〉 天智が母斉明の菩提を弔うために建てた寺院は太宰府の観世音寺。そして飛鳥では川原寺だと思われます。

「両者が漢字上では「同じ名前」を使っている」のが怪しいのかなと,私は思っていましたが・・・。
二人とも別な存在で,名前は同じ(漢字の上では)だったのでしょうか?

>「両者が漢字上では「同じ名前」を使っている」のが怪しいのかなと,私は思っていましたが・・・。
二人とも別な存在で,名前は同じ(漢字の上では)だったのでしょうか?


 日本書紀では九州王朝の天子「斉明・サイミョウ」と近畿天皇家の大王「斉明(さいめい)」を同一人物として描いています。これは別人物だとしたのは古田さん。
 そして九州王朝の天子「斉明・サイミョウ」は当時の実名で、近畿天皇家の大王「斉明(さいめい)」でこれは後世の漢風おくり名。当時の和風おくり名は「天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」。実名は宝皇女。
 書紀編纂の際に二人を同一人物とするためにこの大王のおくり名を九州王朝の天子の名と同一にした。
 と考えれば、九州王朝の天子は「斉明(よみはサイミョウ)」だったと考えられます。

 以上はすでに古田さんが論じられたことです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。゜

〉 書紀編纂の際に二人を同一人物とするためにこの大王のおくり名を九州王朝の天子の名と同一にした。

ということは,同時代の近畿の人物と九州の人物を合成して,
「同一人物」に仕立てているということですよね。
聖徳太子(厩皇子)と多利思北孤みたいに。

>ということは,同時代の近畿の人物と九州の人物を合成して, 「同一人物」に仕立てているということですよね。
聖徳太子(厩皇子)と多利思北孤みたいに。

 はいその通りです。
 これが日本書紀が歴史を偽造するときの手口の一つ。他にもいるかもしれませんね。
 その可能性があるのが伊勢王。ただし二人とも九州王朝の人。たぶん親子だろうね。

 偽造のもう一つの手が九州王朝中枢域の地名を、近畿王朝中枢域の似た地名を持つところにつけること。
 近畿の浪花と九州の難波の同一化が典型的。
 他にも偽造された地名があるはずだ。
 私が気が付いたのが、九州の近江と近畿の淡海。淡海は本来近つ淡海で琵琶湖周辺。遠つ淡海が浜名湖周辺。本来の九州の近江は有明海の北岸と西岸。ここを近畿王朝になってから肥前に変えた。
 他にもいくつもあると思う。
 たとえば博多の難波津の入り江の一つが草香江。近畿の古河内湖の名残も草香江。
疑わしい一つが大阪湾の別称の茅渟の海。これと同じ地名が九州の難波の近くに有ったと思う。

 こうやって人や地名をくっつけて歴史を偽造したのだと思います。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  こうやって人や地名をくっつけて歴史を偽造したのだと思います。

古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』に「偽書論」というのが収録されていますが,
もっともそれにふさわしいのは,「日本書紀」ですね。
「当人がみずから偽りと知りつつ,それを他に信じせしめる行為としての造文・成書=犯意の存在」
という定義にピタリと当てはまりますから。
普通の人は,本居宣長のように,あるいはそれ以上に「日本書紀に合わないものを偽書」としますが,
真実は真逆だということなんですね。
この古田さんの「偽書論」と仮説の板倉さんの「誤謬論」は,
(間違えるのには,それなりの理由があるみたいな哲学的考察)
ともに短い文章ながら大切なことを言い当てている思っています。

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