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2019年10月

2019年10月31日 (木)

徳島県の〈官衙遺跡〉10/31

(1)矢野(8世紀)・・・東偏→西偏?

Ⅱ群第1遺構面遺構配置図1】【Ⅰ群第1遺構面主要遺構配置図】と建物データ

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(2)城ノ内(平安前)L字二面廂を中心建物と考えて,西偏

建物データ

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(3)黒谷川宮ノ前 (平安中期)・・・西偏

Photo_20191031060301

第1遺構面遺構配置図】と建物データ

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(4)大柿(平安後期)・・・3006と3008が座標北だが,年代は不明

カワラケメン地区遺構平面図】と建物データ

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これで徳島県の〈官衙遺跡〉はおしまいです。

2019年10月29日 (火)

徳島県の〈官衙遺跡〉 10/30

(1)観音寺(7世紀~11世紀)・・・年代の書いてある8区と9区を見て観ると,以下のようになった。9区の8世紀中葉~9世紀初頭に正方位が出現している。

8区・・・8世紀中葉~9世紀初頭・・・西偏

     9~10世紀・・・東偏

     11世紀以降・・・東偏

9区・・・8世紀中葉~9世紀初頭・・・東偏とほぼ正方位

     9~10世紀・・・東偏・西偏

     11世紀以降・・・?      

9区第1遺構面遺構配置図】【9区遺構変遷図】【8区遺構配置図】と建物データ

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(2)敷地(8世紀前半~9世紀前半)・・・東偏と西偏が入り混じっているが,西偏→東偏のように思える。

Ⅰ群第1~3遺構面遺構配置図 】と建物データ

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(3)庄(8世紀)・・・東偏と考える。

徳島大蔵本団地体育館建設地区遺構平面図】【加茂名中学校建設地区遺構平面図】と建物データ

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(4) 名東()・・・直交する建物から考えると,西偏か。

調査地Ⅰ区、Ⅱ区検出遺構図】と建物データ

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う~ん,よくわからないです。

2019年10月28日 (月)

徳島県の〈寺院遺跡〉の集計 10/28

【阿波国】

 

5世紀末葉・・・

6世紀初頭・・・

6世紀前半・・・

6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・

7世紀後半・・・郡里廃寺(西)

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・阿波国分尼寺(西)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

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※ 石井廃寺( ? )東

※ 川島廃寺(8世紀)東

※ 河辺廃寺(8世紀~) 正方位

※ 年代不詳で阿波国分寺(東・正)

2019年10月27日 (日)

徳島県の〈寺院遺跡〉10/27

(1)郡里廃寺(白鳳時代~平安時代)・・・

 

Photo_20191027081701

Photo_20191027081801

1.2次調査遺構配置図】【3次調査遺構配置図】と建物データ

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(2)阿波国分尼寺(奈良時代~平安時代)・・・

Photo_20191027082301

【遺構配置図】と建物データ

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(3)石井廃寺()・・・1962年の判定なので,西偏

Photo_20191027083101

【遺構図】【伽藍復原図】と建物データ

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これで徳島県の〈寺院遺跡〉はおしまいです。

建物データのないものが多いですね。

★高知県の〈寺院遺跡〉の集計 10/27★

思い出しました。高知県が少ないので,愛媛県と高知県の寺院を一緒にやろうとしたのでした。

★高知県
(1)秦泉寺(白鳳期、奈良時代~平安時代)
 SB01は寺院建立前の建物。平安前期以前。これと重なるSB02はさらに以前のもの。
 SB05は平安前期。SB06はそれ以前。そしてSB05の柱穴を切っているのがSB04.
 SB03は分からないが、この建物群の中には白鳳期の相当する建物は無いと思います。寺院としての方位は不明。

(2)土佐国分寺(奈良中期~平安後期)
 これは東偏で間違いないと思います。

(3)土佐国分尼寺(比江廃寺)(7世紀後半~8世紀)
 これはほぼ正方位で良いと思います。四天王寺式伽藍かな?

(4)野田廃寺(8世紀中葉~10世紀)
 たしかにこの建物は正方位だと思いますが、一体伽藍のどこなのか?

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【土佐国】

 

5世紀末葉・・・

6世紀初頭・・・

6世紀前半・・・

6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・比江廃寺(ほぼ正方位)

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・野田廃寺(正方位),土佐国分寺(東)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

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※ 泰泉寺()(奈良時代~平安時代)

2019年10月26日 (土)

徳島県の〈寺院遺跡〉 10/26

(1)阿波国分寺()・・・東辺回廊の方位から推定すれば,東偏だった時期がある。僧房は正方位のように見える。建て替えか。

Photo_20191026071101

【遺構平面図】と建物データ

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(2)川島廃寺(8世紀)・・・建物データによって,東偏と推定。

Photo_20191026071701

【トレンチ配置図】と建物データ

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(3)河辺寺跡(8世紀~)・・・建物データ(金堂)をみると正方位だが,条里に合わせたとすればその前に西偏か。Photo_20191026072301 

河辺寺跡と周辺の条里地形】と建物データ

2019年10月25日 (金)

高知県の〈官衙遺跡〉の集計 10/25

【土佐国】

 

5世紀末葉・・・

6世紀初頭・・・

6世紀前半・・・

6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・土佐国府(東)

8世紀半ば・・・土佐国府(正方位),西野々(東)

8世紀後半・・・田村遺跡群(東),下ノ坪(東)

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

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※ 十万(東)・・・奈良~平安

確実な正方位が見つかりませんでしたね。

2019年10月23日 (水)

高知県の〈官衙遺跡〉 10/23

(1)曽我(8世紀後半~11世紀)・・・SB2(年代不明)とSB6(9世紀中頃~後半)は,共に南北棟・16度30分のため,もしかしたら

々中心建物をもつ官衙遺跡かもしれない。すると,東偏。

建物データ

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(2)深渕(8世紀~10世紀)・・・BS1~3がどれもEの方位を示しているので,それらを受ける中心建物も東偏と見た。

Photo_20191023103101

Photo_20191023103901

Photo_20191023104101

 

C-a区遺構全体図 】【D区遺構全体図 】【区遺構全体図】と建物データ

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 (3)上美都岐 (奈良後半~平安初め)・・・SB5が中心建物に考えて,やや西偏か。

Photo_20191023111301

B区遺構平面図】と建物データ

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★土佐国府★ 10/23

Photo_20191023061701

方位の違いを利用して,年代別に並べてみました。

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(1) 大きく東偏(10°以上)・・・8世紀前半~9世紀前半 

 ⑲8世紀前半,⑦8世紀後半,⑩8世紀後半,⑪8世紀後半,⑨8世紀後半~9世紀前半

 

(2) 正方位に近いもの・・・

 (33)8世紀中葉~9世紀初頭,(49)8世紀,(59)8世紀,(73)8世紀後半~9世紀前半,(67)9世紀~

 

(3) 小さく東偏(10°未満)・・・9世紀後半以降

 (62)9世紀後半,(56)9~10世紀

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もしかしたら,(1)と(2)は逆かもしれません。⑲の8世紀前半がひっかかりますので。

また,一見西偏に見えるものでも,建物データでみると東偏(もしかしたらEとWの間違い?)だったりして,

確実に西偏というのものは見つかりませんでした。

土佐国府跡官衙関連遺構配置図(第1次~25次)】と建物データ

2019年10月22日 (火)

高知県の〈官衙遺跡〉 10/22

(1)田村遺跡群(8世紀後半~9世紀後半)・・・遺構平面図(F4区) では,F4SB403(東西棟・9°E)を中心とした東偏の建物群と考える。また,遺構平面図(14区)では,SB410~SB406の建物が9~11°Eで縦長にまとまっているので東偏建物群と考えた。

Photo_20191022091401Photo_20191022092401

遺構平面図(F4区】【遺構平面図(14区)】と建物データ

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(2)土佐国府()・・・どこから手を付けたらいいのか・・・一応,白抜き数字25~27を検討してみます。

【】

Photo_20191022043201

 25.金屋・・・ほぼ正方位に見えるものもあるが,これだけでは手掛かりがつかめない。

Photo_20191022051301

Photo_20191022051401

Photo_20191022051501

 

 26.内裏 27.本屋敷・・・SB83がほぼ正方位に見えるが,建物データはない。また,SB79がSB78を切っているので,東→西の変遷か。

Photo_20191022051601

 

金屋地区遺構平面図(第22~24次)】【内裏・本屋敷地区遺構平面図(第26次)】と建物データ

※ どう取り組んでいいかわからないので,アドバイスを下さい。

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(3)西野々(8世紀中頃)・・・SB7004(WはEの間違い)とSB7005がほぼ直交している。SB7004の方位を採って東偏。

Img_5037

Ⅵ・Ⅶ区遺構配置図】と建物データ 

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(4)下ノ坪(8世紀後半に大規模な掘立柱建物)・・・片廂のSB20(南北棟・13°E)を中心建物と考えて,西偏。

Photo_20191022105201

H区遺構全体図】と建物データ

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(5)十万(奈良~平安 8世紀)・・・SB1を中心とした見事な東偏建物群と見た。

Photo_20191022090401

【遺構平面図】と建物データ

2019年10月20日 (日)

★愛媛県の〈官衙遺跡〉の集計 10/20★

【伊予国】

 

5世紀末葉・・・船ヶ谷(西)

6世紀初頭・・・

6世紀前半・・・

6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・久米官衙遺跡群(西)

7世紀前半・・・久米官衙遺跡群(正方位)

7世紀半ば・・・久米官衙遺跡群(東),南久米町(東)

7世紀後半・・・久米官衙遺跡群(正方位),久米窪田(東)

7世紀末葉・・・久米窪田(正方位)

8世紀初頭・・・久枝Ⅱ(東)

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

※大久保(東。8世紀~9世紀とと範囲が広いので表に入れず)

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2019年10月19日 (土)

愛媛県の〈官衙遺跡〉 10/19

(1)大久保(8世紀~9世紀)・・・中心建物が以下のように考えられるため,東偏。

 1区・・・東偏

 2区・・・東偏

 3区・・・東偏

 4区・・・東偏

 5区・・・柱穴がないため,不明

1~5区遺構配置図】と建物データ

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(2)久枝Ⅱ(7世紀後半~8世紀)・・・1期と2期の間に画期があるが,全体として東偏

 1期(7世紀後半)・・・東偏

 2期(8世紀第1~2四半期)・・・大きく東偏

 3期(8世紀第1~2四半期)・・・大きく東偏

 4期(8世紀)・・・大きく東偏

【遺構変遷図】と建物データ

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これで愛媛県の〈官衙遺跡〉はおしまいです。

 

 

2019年10月18日 (金)

愛媛県の〈官衙遺跡〉 10/18

(1)久米窪田(7世紀後葉~9世紀)・・・久米窪田Ⅱ遺跡は,「座標北」や「1°E」などほぼ正方位。それに対して,久米窪田Ⅲ遺跡は西偏の遺跡。両者はほぼ同時期のようなので,政庁で西偏→短期間の正方位が行われたのと同じ現象が現れているのではないか。

Photo_20191018055401 Photo_20191018055501

久米窪田Ⅱ遺跡全体実測図】【久米窪田Ⅲ遺跡全体実測図】と建物データ

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(2)樽味四反地(7世紀後半、8世紀後半)・・・建物の向きが東偏と西偏のに分かれるので,別の時期のようには思う。

Photo_20191018061001

遺構平面図(5次調査)

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(3)船ヶ谷(5世紀末葉~6世紀中葉)・・・掘立2が南北棟・8°Wのため,それと対応する中心建物は西偏と考えた。

Photo_20191018061701

4区遺構配置図】と建物データ

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(4)南久米町(7世紀中~8世紀)・・・掘立建物群が東西棟・Eなので,これに対応する中心建物も東偏なのではないか。

Photo_20191018063401

遺構平面図(1次調査)】と建物データ

2019年10月15日 (火)

質問6~9について 10/16

※ 川瀬さんの「コメント」を利用した部分は大丈夫だと思いますが・・・。

 

【質問6】 太宰府の編年が7世紀末でなく6世紀末に遡るとのことですが,これによって従来の太宰府理解にどのような変更が生まれるのでしょうか。

→ 日本書紀をもとにして組み立てられている従来の太宰府理解が,大きく変化すると考えます。太宰府が6世紀末に遡ると,藤原京の7世紀末を大きく抜いて日本で一番古い条坊都市がにあったということになります。当然この巨大都市はどんな勢力が作ったのかが問われるでしょう。また,首都として政治を担っただけでなく,文化の質の高さ(政庁の鬼瓦等)を見直す必要が出てくるでしょう。諸外国もこの太宰府を倭国の首都として考えていたのです。とても「出先機関」などというものではありません。一元史観での歴史解釈が無理となれば,多元史観の登場が必要となり,倭国=九州王朝が何百年もの間主権国家であり(ということは,近畿王朝は主権国家ではなかったということ),多利思北孤などの天子が,そのリーダーであったことなど,次々と明らかになると考えます。当然,日本書紀をもとにして書かれていると言ってもいい歴史教科書も断罪されなければなりません。そして,「人生は二度通説で洗脳される」と私は考えるのですが,各地の歴史の説明も改めなければなりません。末筆になりますが,通説で飯を食ってきた大学の教授や研究者も,今後どうしていくかを問われることになるでしょう。

【質問7】 資料Bの小郡官衙遺跡を,書紀孝徳紀にある小郡宮とした根拠はなんですか。

→ 孝徳紀に以下のような記事があります。

是歲、壞小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。

小郡屯倉を宮に改造した」との記述であり、ここで「礼制」を定めたとの九州王朝の記事と考えました。

7世紀後半・・・小郡官衙Ⅰ(東)

 7世紀末・・・・小郡官衙Ⅱ(東)

 8世紀半ば・・・小郡官衙Ⅲ(正)

【質問8】 資料Cの有田・小田部遺跡の中の西偏の官衙を孝徳の難波長柄豊碕宮とした根拠はなんですか。

→ (川瀬さんの2つのコメントを合成したものです。)

 奈良文化財研究所のデータべースによると,有田・小田部(有田)は, 「7世紀後半~10世紀前半?」となっています。
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。

解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。

 ここ福岡市早良区の有田遺跡の西偏官衙遺構が孝徳の難波長柄豊崎宮だとすると、この地名が逆に明らかになってきます。
 この宮の東側に広がる内海はのちに草香江と呼ばれたもので、南北に長い形をした内海です。だからこの内海が「長江(長柄)」を呼ばれたのではないか。その「長江」に突き出た「豊崎」の地に近畿天皇家の九州出先機関である宮が建設されたので、この名になった。
 そして書紀孝徳紀で明らかなように、この宮は孝徳の時に建設されたものではなくその前からあった。これは「難波長柄豊崎宮に都を移す」としか記述されないことから明らかです。
 この宮は孝徳の時期よりずっと以前からあり、近畿天皇家の九州出先機関だった。
 と考えると、この官衙遺構が「7世紀末から8世紀前半」に位置づけられるということは、100年実年代を動かせば「6世紀末から7世紀前半」となり、これは推古の時代からだという結論になります。

【質問9】 (岡山理科大学の磁気偏角データベース→『理科年表』のものに差し替えた件)

→ 当初検索して手に入れた手持ちの資料が,岡山理科大学のものでした。より知名度の高い『理科年表』のものに差し替えましたので,年代の幅はやや短くなりましたが,基本的にはほぼ同じ結果です。450~1150年の700年間が西偏となります。また,『理科年表』の「2019年版」の地学228(820)ページに出ていた「日本における過去2000年間の地磁気変化」という項目で,「主として西日本を中心とする歴史溶岩や考古学資料を用いて推定」と書いてありました。参照は,広岡公夫,第四紀研究,第15巻,第4号,200‐203.1977」は参考資料に載せた通りです。

 

2019年10月11日 (金)

「黄色で表示した正方位の建物」の年代

「黄色で表示した正方位の建物」の年代で,遺跡的なまとまりを示すものは2つに思える。

【KT41】・・・政庁南東官衙に食い込むように建てられている。

      掘立004 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 1°W

      掘立008 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 0.5°W

      掘立009 7世紀第4四半期~ Ⅱー4 1°W

【KT54】・・・政庁南東官衙より100mも南に位置している。防衛のためか。

      掘立002 8世紀 Ⅲ 1°W

      掘立004 8世紀 Ⅲ 0°

      掘立005 8世紀 Ⅲ 0°

2019年10月 8日 (火)

愛媛県の〈官衙遺跡〉 10/10

(1)久米官衙遺跡群(7世紀前葉~9世紀末葉から10世紀初めには消滅)・・・変遷図を頭に置きながら,「政庁」から色付けをしているが,西偏→ほぼ正方位→東偏→正方位のように見える。

Photo_20191009101501

 

第Ⅰ期(7世紀前葉)ⅠーA・・・西偏のロの字型官衙

   (7世紀第1四半期~第2四半期) ⅠーB・・・ほぼ正方位の官衙群(謎の正方位?)

第Ⅱ期(7世紀中頃~第4四半期)ⅡーA ・・・地割の設定,北部の諸施設が成立(東偏官衙)

               ⅡーB・・・「回廊状遺構」等の増設

               ⅡーC・・・「回廊状遺構」の補修

第Ⅲ期(7世紀第4四半期~8世紀)ⅢーA 寺院の建立・回廊の廃絶

                 ⅢーB 正倉院の充実・道路の変更

【諸図面】と建物データ

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(1)政庁(西編が青色+正方位が黒色+東偏がピンク色)

Img_4879

(2)南東官衙(東偏がピンク色+正方位が黄色)

Img_4880

(3)正倉院(東偏+正方位が黄色)

Img_4881

(4)回廊状遺構(東偏がピンク色+正方位が黄色

Img_4882

一番よくわからなかったのが,西偏のあとに正方位が入ってきて,

また東偏に代わって,さらに正方位になることです。

もしかしたらですが,愛媛県松山市は九州王朝にかなり近い場所なので,

早まって西偏→正方位としたら,「そんなことをしたら滅ぼされるぞ」と言われ,

東偏路線でやっていたら,「南朝が滅ぶ」という事態になった等。

 

 

 

愛媛県の〈寺院遺跡〉の集計 10/8

【伊予国】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・来住廃寺(正方位),他中廃寺(東),法安寺(正方位)

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・伊予国分寺(正方位)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

愛媛県と高知県の〈寺院遺跡〉10/8

(1)法安寺(7世紀後半~13世紀)・・・現在は金堂が西偏で,塔がほぼ正方位。当初(7世紀後半~8世紀初め)法安寺は四天王寺式に建てられたが,塔はそのままの正方位として残り,その後金堂は西偏に建て替えられたものか。

Photo_20191008052901

【全体図】と建物データ

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★ここから高知県です。

 

(1)秦泉寺(白鳳期、奈良時代~平安時代)・・・白鳳時代に建てられたが,政権変動でいろいろな方位に・・・。

 ・SB01・・・平安前期以前・・・南北棟・38°E

 ・SB05・・・平安時代前期・・・南北棟・9°W

 Photo_20191008054701

1区・2区完掘全図】と建物データ

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(2)土佐国分寺(奈良中期~平安後期(軒瓦の文様からは、白鳳期の先行寺院の存在の可能性))・・・金堂と西回廊から,東偏。

Photo_20191008061301

第7区遺構平面図】と建物データ

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(3)土佐国分尼寺(比江廃寺)(7世紀後半~8世紀)・・・金堂か講堂かと思しきSB1がほぼ正方位なので,「ほぼ正方位」で。

Photo_20191008064701

Photo_20191008064801

調査区設定図】【8区遺構平面図】と建物データ

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(4)野田廃寺(8世紀中葉~10世紀)・・・SB102が座標北なので,正方位と考えた。

Photo_20191008065601

第Ⅱ調査区古代遺構面平面図】と建物データ

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これで「愛媛」と「高知」はおしまいです。次回は「徳島」に行きます。

2019年10月 7日 (月)

愛媛県の〈寺院遺跡〉 10/7

(1)朝美澤廃寺(平安中期)・・・出土した第1号建物(SB01は)は,無廂で,南北棟・11°W。寺の建物ではあるが,金堂や講堂ではないと考えられ,中心方位は西偏の寺院だと考えた。

Photo_20191007052301

【調査区全測図】と建物データ

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(2)来住廃寺(7世紀後葉~)・・・金堂などほぼ正方位。ほぼ正方位で良いと考える。

Photo_20191007063201

15次調査とその周辺】と建物データ 

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(3)伊予国分寺(8世紀中葉~940年焼失、再建)・・・塔がほぼ真北なので,ほぼ正方位と考える。

Photo_20191007070701

【調査区の位置】と建物データ

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(4)他中廃寺(史跡伊予国分尼寺塔跡)(白鳳~ 7世紀後半ヵ)・・・塔なのに長方形(堂の間違い?)。東西棟・20°Eだと,東偏。

Photo_20191007070301

遺跡の位置と周辺の遺跡】と建物データ

2019年10月 6日 (日)

★香川県の〈官衙遺跡〉の集計 10/6★

【讃岐国】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・下川津(西),岸の上(東)

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・稲木(B)(正方位)

7世紀半ば・・・郡家原(西),川津一ノ又(西),讃岐国府下層・大型建物(正方位)

7世紀後半・・・川北(西),岸の上(正方位)

7世紀末葉・・・岸の上(西)

8世紀初頭・・・稲木北(西)

8世紀前半・・・讃岐国府(西),岸の上(西),下川津(正方位)

8世紀半ば・・・

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・下川津(西),買田岡下(西),岸の上(西)

※ 買田岡下の8世紀に正方位に近い建物群あり。近畿王朝時代のものか。 

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川瀬さんご指摘の通り,精査力も集中力も私にはないようです。

また修正がありましたら,お願いします。

 

 

2019年10月 5日 (土)

香川県の官衙遺跡 10/5

(1)金蔵寺下所(奈良~平安)・・・正方位&ほぼ正方位・8Eの東偏(斜線)・大きく西偏の3種類があると考えた。

建物データの年代が空欄で先後関係は不明。

Img_4775

【遺構平面図】と建物データ

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(2)川北(7世紀後半~8世紀代)・・・多くが東偏建物なので,それと直交する中心建物の方位は西編。

Img_4774

【遺構変遷図】と建物データ

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(3)買田岡下(平安前)・・・全体に西偏が多く,建物データに唯一掲載の片廂SB20もその1つ。

Img_4773

掘立柱建物跡配置図】と建物データ

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これで香川県の〈官衙遺跡〉はおしまいです。

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