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2019年9月28日 (土)

★★下川津★★

(2)下川津(7世紀~10世紀)


後半の2つは,年代を重視して,4色に色分けしてみました。

第1微高地北半部第Ⅲ期建物柵列配置図 

Img_4665

※ B03(8世紀中葉=実年代は8世紀初頭)付近の建物群がロの字型の近畿王朝の官衙

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第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 

Img_4663

※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群は実年代では6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙。★

※ 8世紀前半~半葉の官衙群は実年代では7世紀後半~末ですから九州王朝時代の正方位官衙。

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第2微高地 第Ⅲ期掘立柱建物・柵列・配置図 

Img_4506-1

※ 東西に2つの西偏の官衙群がある

 ・B65とB66を中心にしたもの~8世紀前期の建物を含む。政権が移って,8世紀後半の建物群が増えていった模様

 ・B71を中心としたもの~年代を判定できていない建物ばかりだが,官衙群のように見える

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G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置

Img_4507-1_20191004060601

※ 北部に多くの倉を伴った西偏の官衙群。第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図南部の7世紀代の西偏官衙の付属施設の可能性あり。時代的には九州王朝時代。

※ 9世紀以降も第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図の南部と一体の近畿王朝時代の官衙群が全体に広がっている。

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第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図

Img_4735

※ 南部に7世紀代の西偏の官衙群と北部にも廂付き・倉付きの建物あり

※ 9世紀以降にたくさんの建物群がある。この時期ここが栄えたことを想像させる。

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【5枚の図】と建物データ

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

●第1微高地北半部第Ⅲ期建物柵列配置図
 「B03(8世紀中葉=実年代は8世紀初頭)付近の建物群が直交しているように」どころか、ロの字型に並んでいると思います。ロの字を確認したら、当該の建物の年代を確認して確定してください。

●第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図
 二つの年代の異なる官衙群があることはその通りですが、方位と性格は違うと思います。
 ■6世紀後半~7世紀前半の官衙群(九州王朝の東偏か)
  北側の群ですが、どうして東偏なのか。主殿はB29ですから西偏と判断すべきではないでしょうか。
  年代は50年上げれば、6世紀前半~6世紀末。九州王朝の時代ではありますが。
 ■8世紀前半~中葉の官衙群(近畿王朝の正方位か)
  年代を50年あげれば、7世紀後半~7世紀末。ぎりぎり近畿王朝かな? 九州王朝時代かもしれない。

●第2微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
 ただやみくもに建物データから年代を入れていませんか?
 最初に建物の方位が同じもの(これと直交するものも含めて)を選んで、コの字型なりロの字型の官衙を摘出し、そのうえで建物データの年代を参考にしないと、精査できないと思います。
 東側にB71を中心とするコの字型の西偏の官衙、西側にはB65・B66を中心とする、同じく西偏のロの字型の官衙があると思います。
 再度確認してください。

●G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
 これはどういった色分けなのでしょうか。二色あるが、方位が異なっていたり直交したりしていないので同じ色で塗られているので、どういう建物群があるのかつかめていないように思います。
 ここもやみくもに建物の年代を入れていませんか?
 色を四色ぐらい使って、同じ方位のもの(+これに直交するもの)を選んで群れをつくり、それから建物データで年代を確認してください。
 逆にやると深い森の中に迷い込みます。

●第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
 これは不思議な図面です。ほぼ中央の一角の建物群には名称が全くついていない。
 ということで他の図と較べると、一つ先の「G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置」がこの中央部分にあたるのではないでしょうか。
 ここも建物が多いので、ただやみくもに建物データで年代を入れたのでは深い森の中に迷います。
 四色くらい使うつもりで、まず同じ方位のもの(+これに直交するもの)を選んで群れをつくり、それから建物データで根代を確認してください。

 ※総じて再度やり直しですね。

 近畿に近いから近畿王朝の影響力が強いというのは思い込みだと思います。時代によって異なると思います。

●第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 
※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群(九州王朝から独自の動きを始めた近畿王朝の西偏か) 
  →実年代は6世紀前半~6世紀末もしくは7世紀初頭。どう考えても九州王朝時代。
   近畿天皇家が独自の動きを始めたのは6世紀末。
   6世紀前半であれば九州王朝のまだ西偏の時代(九州王朝が東偏に変えたのは6世紀中頃以後)。したがって九州王朝時代の西偏の古い官衙だと思います。
 ※ 8世紀前半~半葉の官衙群(近畿王朝の正方位か)
  →実年代は7世紀後半~7世紀末(もしくは8世紀初頭)。九州王朝時代の正方位で良いと思う。近畿王朝が正方位にしたのは畿内、それも中心的な宮と寺院だけだと思う。讃岐は畿内には入らない。


●G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
この西部にある7世紀代の官衙。これこそ東偏じゃないですか?
 中心建物はSB168と174.この建物の方位を重視すれば東偏です。

※一つ質問です。ここには正方位の建物群はないのでしょうか。B239がほぼ正方位だと思います。そして周囲にはこれと同じ方位の建物が結構あります。建物データで方位と年代を再確認してください。

●第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
 この南部にある官衙群も7世紀。そしてここも東偏と判断できます。

今回は東偏と西偏の判断がぶれすぎです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ●第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 
※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群(九州王朝から独自の動きを始めた近畿王朝の西偏か) 
  →実年代は6世紀前半~6世紀末もしくは7世紀初頭。どう考えても九州王朝時代。
   近畿天皇家が独自の動きを始めたのは6世紀末。
   6世紀前半であれば九州王朝のまだ西偏の時代(九州王朝が東偏に変えたのは6世紀中頃以後)。したがって九州王朝時代の西偏の古い官衙だと思います。
 ※ 8世紀前半~半葉の官衙群(近畿王朝の正方位か)
  →実年代は7世紀後半~7世紀末(もしくは8世紀初頭)。九州王朝時代の正方位で良いと思う。近畿王朝が正方位にしたのは畿内、それも中心的な宮と寺院だけだと思う。讃岐は畿内には入らない。

➙ 九州王朝(西偏)と九州王朝(正方位)ということでいいですか。東偏は登場しませんが・・・。

〉 ●G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
この西部にある7世紀代の官衙。これこそ東偏じゃないですか?
 中心建物はSB168と174.この建物の方位を重視すれば東偏です。
※一つ質問です。ここには正方位の建物群はないのでしょうか。B239がほぼ正方位だと思います。そして周囲にはこれと同じ方位の建物が結構あります。建物データで方位と年代を再確認してください。

➙ 建物データに載っているものは,図で色付けしてあります。なので,色を付けていないB239や
その付近のB221.B256などは建物データに出ていないということになります。

〉 ●第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
 この南部にある官衙群も7世紀。そしてここも東偏と判断できます。

➙ そうすると,中心建物はB292ということですか。

➙ 九州王朝(西偏)と九州王朝(正方位)ということでいいですか。東偏は登場しませんが・・・。

なぜ東偏官衙がないといけなないのでしょうか。
 九州王朝の方位が西偏⇒東偏⇒正方位と変遷したからといって、すべての官衙がこの変遷をたどったとは言えないと思います。
 ここは西偏時代に作られた官衙が東偏には建て替えられず、正方位になってから場所を移して建て替えられたということだとおもいます。

➙ 建物データに載っているものは,図で色付けしてあります。なので,色を付けていないB239や
その付近のB221.B256などは建物データに出ていないということになります。

 それは残念ですね。正方位の建物群が明らかに存在するのに。
 ※やはり肥沼さんは、建物データに有る建物すべての年代を入れてから考えたのですね。先に図面を見て方位の異なる建物群を見つけてからやらないと。本当に正方位の建物は一つも年代が判定されていないのでしょうか?

➙ そうすると,中心建物はB292ということですか。

 そう。とりあえずは一番南の東西棟。この建物の北側と東側に柵列がある。この建物は官衙群の南の柵と一体の建物かもね。とすると主殿はこの遺構図の掘られてないところにあるはずだ。
 真ん中の建物が東西対になっているのをお気づきでしょうか。だからこの二つの建物の中間の位置で、建物群の一番北側に中心建物はあると想定できる。

追伸

●第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
※ 中部に10世紀代の4つの棟からなる官衙遺跡らしきもの

 この四棟と同じ方位の建物は、第四微高地の中心である「G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置」の中にたくさんありあますよ。
 ちょうどB267が図の右端に載っているから、これと同じ方位の建物を全部色塗りしてみると良いと思います。
9世紀から10世紀がこの官衙の一番栄えた時代かもしれませんね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 真ん中の建物が東西対になっているのをお気づきでしょうか。

何と何のことでしょうか?

〉 ●第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図
※ 中部に10世紀代の4つの棟からなる官衙遺跡らしきもの
 この四棟と同じ方位の建物は、第四微高地の中心である「G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置」の中にたくさんありあますよ。
 ちょうどB267が図の右端に載っているから、これと同じ方位の建物を全部色塗りしてみると良いと思います。
9世紀から10世紀がこの官衙の一番栄えた時代かもしれませんね。

➙ 同じように見える方位のものを黒枠で色付けして,
それに差し替えてみました。

〉 真ん中の建物が東西対になっているのをお気づきでしょうか。

何と何のことでしょうか?

建物の番号を言われなければわかりませんかね。

第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図の一番南にある7世紀の官衙群。
 ■
 ■   ■ ←←←←←この真ん中の二棟のことを言っているのです。
 ■■(ここは東西に長い一棟)

 この建物配置を見ると本来はロの字型の建物配置であった可能性大です。
 一番南にもう一棟、東西に長い建物。
 真ん中の東側の棟の北側にさらに一棟。
 こうして左右対称となった建物群の北側に東西棟で大きな主殿があるのではないでしょうか。

➙ 同じように見える方位のものを黒枠で色付けして,それに差し替えてみました。
 こうして一つの図にするとよくわかりますね。
 ただしこの9~10世紀の西偏の官衙群はどの建物も小型で大きくても10mには届きませんね。


追伸・
 質問
 ●第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 
    ※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群(九州王朝から独自の動きを始めた近畿王朝の西偏か) 
    ※ 8世紀前半~半葉の官衙群(近畿王朝の正方位か)
 この上の見解はあくまでも堅持されますか?
   6世紀後半~7世紀前半の官衙群は実年代では6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙。
   8世紀前半~半葉の官衙群は実年代では7世紀後半~末ですから九州王朝時代の正方位官衙。

 訂正
 ●G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
  この図は右が南で左が北。上が東で下が西です。
   ※ 西部に多くの倉を伴った西偏(九州王朝から独自の動きをとる近畿王朝)の官衙遺跡群
  この倉を伴う遺構は西部ではなく北部にある。
  ここを東偏と見ましたが、この遺跡群の南部に7世紀代のロの字型の官衙があって、それと建物群の方位が同じなので両者は一体の西偏官衙と考えます。
  九州王朝時代か近畿王朝時代かは判断しかねます。

★これでこの下川津遺跡の変遷が読めますね。
 1:6世紀後半から7世紀前半:第一微高地南半部に西偏の官衙(6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙)
 2:7世紀代:第四微高地南部から中央部に西偏のロの字型官衙(6世紀代に遡れるかどうか?)
 3:8世紀前半~中葉:(7世紀後半~末)
         第一微高地北半部に西偏の官衙。
         第一微高地南半部に正方位のコの字型官衙
         第二微高地に西偏の官衙が二つ。
  この2・3期の西偏・正方位の官衙群は年代的には九州王朝から近畿王朝への移行期にあたると思います。
  第一微高地南半部の正方位官衙は確実に7世紀代ですから九州王朝時代の最後の正方位官衙。その他の西偏の官衙は、近畿王朝時代のものと考えます。
 4:9~10世紀:第四微高地に多くの小型の建物からなる西偏の官衙群。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  質問
 ●第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 
    ※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群(九州王朝から独自の動きを始めた近畿王朝の西偏か) 
    ※ 8世紀前半~半葉の官衙群(近畿王朝の正方位か)
 この上の見解はあくまでも堅持されますか?
   6世紀後半~7世紀前半の官衙群は実年代では6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙。
   8世紀前半~半葉の官衙群は実年代では7世紀後半~末ですから九州王朝時代の正方位官衙。

→ 差し替えました。

〉 ★これでこの下川津遺跡の変遷が読めますね。
 1:6世紀後半から7世紀前半:第一微高地南半部に西偏の官衙(6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙)
 2:7世紀代:第四微高地南部から中央部に西偏のロの字型官衙(6世紀代に遡れるかどうか?)
 3:8世紀前半~中葉:(7世紀後半~末)
         第一微高地北半部に西偏の官衙。
         第一微高地南半部に正方位のコの字型官衙
         第二微高地に西偏の官衙が二つ。
  この2・3期の西偏・正方位の官衙群は年代的には九州王朝から近畿王朝への移行期にあたると思います。
  第一微高地南半部の正方位官衙は確実に7世紀代ですから九州王朝時代の最後の正方位官衙。その他の西偏の官衙は、近畿王朝時代のものと考えます。
 4:9~10世紀:第四微高地に多くの小型の建物からなる西偏の官衙群。

→ 今回は「九州王朝の西偏の官衙」という発想が抜けていたため,混乱してしまいました。
次の遺跡に進んでいいですか?

肥沼さんへ

 次の遺跡に進む前に、以下のところを書き換えておいてください。

★G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
 ※ 西部に多くの倉を伴った西偏(九州王朝から独自の動きをとる近畿王朝)の官衙遺跡群
   →北部に多くの倉を伴った西偏の官衙群。第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図南部の7世紀代の西偏官衙の付属施設の可能性あり。時代的には九州王朝時代。
※ 9世紀以降も,東部に近畿王朝の官衙遺跡群のようなものあり
  →9世紀以降も第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図の南部と一体の近畿王朝時代の官衙群が全体に広がっている。

>今回は「九州王朝の西偏の官衙」という発想が抜けていたため,混乱してしまいました。
肥沼さんは「西偏官衙=近畿天皇家のもの」と覚えてしまったのでしょうね。
 このテーゼが成り立つのは、「九州王朝が東偏や正方位にその官衙の方位を変えてしまった時代において、西偏を保っている官衙があれば・・・」との条件下でのことです。
 これは「西偏官衙=近畿天皇家のもの」ではない。

 九州王朝も中国に対抗して官衙を東偏に変える以前においては(ほぼ6世紀中頃以前)、磁石に従った西偏でその官衙を建てていたことは、すでに筑前筑後などで確認できています。
 この香川県(伊予)をやる直前に検討した佐賀県(肥前)の多くの地域の官衙や寺院が、九州王朝が東偏や正方位に替えた時代なのに西偏であったことから、肥前国(正確には近江国だと思う。畿内の近江は「近つ淡海」だったはず。)は古くから近畿天皇家の領域であったのではないかとの仮説が出てきました。この検討の中で、先のような「西偏官衙=近畿天皇家」との誤った認識が生まれ、九州王朝にも西偏官衙の時代があったという認識が、消えてしまったものと思われます。
 なんでも覚えてしまおうという肥沼さんの悪い性癖が生んだ結果だと思います。
 必要以上に公式化して覚えてはいけない。

 肝に銘じてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  次の遺跡に進む前に、以下のところを書き換えておいてください。
★G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置
 ※ 西部に多くの倉を伴った西偏(九州王朝から独自の動きをとる近畿王朝)の官衙遺跡群
   →北部に多くの倉を伴った西偏の官衙群。第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図南部の7世紀代の西偏官衙の付属施設の可能性あり。時代的には九州王朝時代。
※ 9世紀以降も,東部に近畿王朝の官衙遺跡群のようなものあり
  →9世紀以降も第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図の南部と一体の近畿王朝時代の官衙群が全体に広がっている。

→ 差し替えたので,ご覧になって下さい。

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