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2019年9月

2019年9月28日 (土)

★★下川津★★

(2)下川津(7世紀~10世紀)


後半の2つは,年代を重視して,4色に色分けしてみました。

第1微高地北半部第Ⅲ期建物柵列配置図 

Img_4665

※ B03(8世紀中葉=実年代は8世紀初頭)付近の建物群がロの字型の近畿王朝の官衙

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第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図 

Img_4663

※ 6世紀後半~7世紀前半の官衙群は実年代では6世紀前半~6世紀末ですから九州王朝時代の西偏官衙。★

※ 8世紀前半~半葉の官衙群は実年代では7世紀後半~末ですから九州王朝時代の正方位官衙。

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第2微高地 第Ⅲ期掘立柱建物・柵列・配置図 

Img_4506-1

※ 東西に2つの西偏の官衙群がある

 ・B65とB66を中心にしたもの~8世紀前期の建物を含む。政権が移って,8世紀後半の建物群が増えていった模様

 ・B71を中心としたもの~年代を判定できていない建物ばかりだが,官衙群のように見える

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G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置

Img_4507-1_20191004060601

※ 北部に多くの倉を伴った西偏の官衙群。第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図南部の7世紀代の西偏官衙の付属施設の可能性あり。時代的には九州王朝時代。

※ 9世紀以降も第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図の南部と一体の近畿王朝時代の官衙群が全体に広がっている。

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第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図

Img_4735

※ 南部に7世紀代の西偏の官衙群と北部にも廂付き・倉付きの建物あり

※ 9世紀以降にたくさんの建物群がある。この時期ここが栄えたことを想像させる。

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【5枚の図】と建物データ

2019年9月27日 (金)

★★稲木(B)★★

建物データに載っていた年代を書き込んでみました。

Img_4656

Ⅷ期は「平安時代前期~中期」なので,置くとしても,

基本データに「7世紀末~8世紀初」とあるのに,

建物データには「7世紀」「7世紀中頃」「7世紀後半~末」があるのか不審である。

まだ基本データが「7世紀初頭~8世紀」なら,

Ⅲ期を正方位を「7世紀初頭~前期」と判断する余地もあるが…。

2019年9月25日 (水)

★稲木(B地区)★

(3)稲木(B地区)(7世紀末~8世紀初) ・・・「変遷のルール」から正方位に先行する東偏である「Ⅴ」⇄「Ⅲ」,「Ⅵ」⇄「Ⅳ」を入れ替えてみる。

 

 Ⅰ   Ⅴ  ⇄ Ⅲ  Ⅶ

 Ⅱ   Ⅵ  ⇄ Ⅳ  Ⅷ

 

すると,以下のように年代比定できると思う。

Ⅰ期

Ⅱ期

Ⅲ期(もとⅤ期)・東偏の開始(7世紀中頃)

Ⅳ期(もとⅥ期)・東偏充実期(7世紀中頃~後半)

Ⅴ期(もとⅢ期)・正方位(7世紀後期)

Ⅵ期(もとⅣ期)・正方位・西偏(7世紀後期~末)

Ⅶ期・・・・・・・西偏充実期(8世紀)

Ⅷ期・・・・・・・西偏衰退期(平安前期~中期)

Img_4633

【遺構変遷図】と建物データ

★下川津★ (工事中)

(2)下川津(7世紀~10世紀・・・8世紀中葉に第1微高地南半部に正方位の官衙群が出現

第1微高地北半部第Ⅲ期建物柵列配置図第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図

 

第2微高地第Ⅲ期建物柵列配置図G9区周辺第Ⅲ期建物柵列配置図

 

第4微高地第Ⅲ期建物柵列配置図

 

 

【5枚の図】と建物データ

2019年9月24日 (火)

香川県の〈官衙遺跡〉 9/24

(1)讃岐国府(7世紀後半~8世紀)・・・SB01(大型建物・7世紀中葉~末葉ヵ)が正方位で,その後は西偏か。

33次調査周辺遺構配置図(飛鳥末~奈良初)】【33次調査周辺遺構配置図(奈良~平安)

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(2)下川津(7世紀~10世紀)・・・東偏・西偏が入り混じるが,8世紀中葉を中心に正方位・ほぼ正方位が登場する。

BS35~45に直交に近いものがある。それ以前の時期に東偏が多く,それ以降の時期に西偏が多くなる。

第1微高地南半部第Ⅲ期建物柵列配置図】などの図と建物データ

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(3)稲木(B地区)(7世紀末~8世紀初)・・・Ⅲ期に正方位が登場。次のⅣ期が7世紀後半から7世紀末のようなので,正方位の時期を7世紀中頃と考えた。以降は,西偏のようである。

Img_4480-1

【遺構変遷図】と建物データ

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(4)稲木北(8世紀)・・・主要遺構がほとんど出土していることから,復元図に従って西偏。

Photo_20190924131501

主要遺構復元図】と建物データ

2019年9月23日 (月)

★岸の上★

(1)岸の上(6世紀後半~10世紀後半)・・・倉であるが,早い時期の正方位。その後,西偏。

 1期(7世紀末より以前)・・・正方位

 2期(7世紀末~8世紀初)・・・西偏

 3期(8世紀第2四半期)・・・西偏

遺構図(平成26年度調査)】【遺構図(平成28年度調査) 】と建物データ

香川県の〈官衙遺跡〉 9/23

(1)岸の上(6世紀後半~10世紀後半)・・・BS2001とBS2002が直交している。西偏

遺構図(平成26年度調査)】と建物データ

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(2)郡家原7世紀中葉~10世紀前葉)・・・A区は,四面廂のSB17付近にある建物群が直交している。西偏 

                      B区は,SB40を中心に,他の建物が直交。西偏(8世紀)

                      C区は,まだ姿を見せていないメインの建物が北方にあると考え,

                      それに直交しているので東偏

A区遺構配置図】【B区遺構配置図】【c区遺構配置図 】と建物データ

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(3)川津一ノ又7世紀中~10世紀前半、中心は8世紀前葉~10世紀前半)・・・全体的に西偏

遺構変遷図】と建物データ

Img_4477

2019年9月22日 (日)

香川県の〈寺院遺跡〉の集計 9/22

【讃岐】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・田村廃寺・下層(東),宝寺(西),開法寺(西),仲村廃寺(西),白鳥廃寺(西)

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・讃岐国分寺(やや西偏),讃岐国分尼寺(正方位?)

8世紀後半・・・中寺廃寺・B地区(東)

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・田村廃寺・上層(ほぼ正方位),中寺廃寺・A地区(西),屋島寺(10世紀前半。ほぼ正方位)

2019年9月21日 (土)

香川県の〈寺院遺跡〉 9/21

(1)宝幢寺(白鳳時代~)・・・「塔心礎を中心とした土壇状の高まりは夥しい河原石が散在しており、

N20゜W東西100mの方形を呈する 」というメモの表現からは,一応西偏が予想される。

【地形実測図】と建物データ

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(2)開法寺 (白鳳時代~)・・・西偏と考える。

【遺構配置図】と建物データ

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(3)仲村廃寺 (白鳳期。7世紀後半ヵ)・・・大きく西偏?

遺構平面図(2次調査)】と建物データ

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(4)白鳥廃寺(7世紀後半~)・・・全体として,伽藍が10°Wか。西偏。

【伽藍復元】と建物データ

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(5)始覚寺 (白鳳期~)・・・寺域推定図 からは,「やや西偏」に思えるが・・・。

寺域推定図】と建物データ

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(6)弘安寺(7世紀末葉~8世紀前半 )・・・ほぼ正方位かやや西偏

寺域推定範囲】と建物データ

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(7)中寺廃寺(8世紀後半~11世紀)・・・山岳寺院なので,判定しにくてが,建物データでは東偏が多い。

遺構変遷図】と建物データ

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これで,香川県の〈寺院遺跡〉おしまいです。

次回は,集計してみます。

2019年9月20日 (金)

香川県の〈寺院遺跡〉 9/20

(1)讃岐国分寺(8世紀中葉~)・・・2°Wくらいのやや西偏

【伽藍配置図】と建物データ

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(2)讃岐国分尼寺(奈良時代~平安時代)・・・南北棟の正方位か。金堂や塔ではなく,寺院内の施設のよう。

第2次調査B~Eトレンチ遺構図】と建物データ

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(3)屋島寺(10世紀前半)・・・ほぼ正方位に見える。

【調査区】と建物データ

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(4)田村廃寺(7世紀後半~8世紀)・・・ほぼ正方位 → 大きく東偏か

上層 9世紀以降~大きく東偏

下層 7世紀以降~ほぼ正方位

遺構変遷図(百十四銀行調査区)】と建物データ

2019年9月17日 (火)

長崎県の〈官衙遺跡〉の集計 9/17

【肥前】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・十園(東)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

長崎県の〈寺院遺跡〉の集計 9/17

【壱岐】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・

7世紀末葉・・・

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・壱岐国分寺(正方位)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・

9世紀以降~・・・

2019年9月16日 (月)

長崎県の〈官衙遺跡〉 9/16

(1)十園(8世紀)・・・東西棟・24~25°EのSB01に,南北棟のSB02がほぼ直交しているので,東偏

【建物配置】と【建物配置(47区)】と建物データ

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長崎県の〈官衙遺跡〉は,これでおしまいです。またも1件・・・

2019年9月15日 (日)

長崎県の〈寺院遺跡〉 9/16

(1)壱岐国分寺(8世紀中頃~10世紀前半代頃)・・・塔跡はほぼ正方位に,他は西偏に見えるが・・・

Photo_20190916044701

【遺構配置図】と建物データ

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長崎県の〈寺院遺跡〉はこれでおしまいです!なんと1件・・・

2019年9月14日 (土)

肥前国の中の「東偏」「正方位」の分布図

川瀬さんの「リクエスト」にお応えして,

肥前の中の「東偏」「正方位」の分布図を描いてみました。

見事に「筑前と接する地域」ですね。

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Img_4500

2019年9月13日 (金)

佐賀県の〈官衙遺跡〉の集計 9/13

【肥前】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・千々賀古園(西),寺浦(西),原古賀黒木(東)

7世紀末葉・・・御手水(正方位)

8世紀初頭・・・久地井B・Ⅲ区(西),中原(西)

8世紀前半・・・北原・一次調査区(東),惣座(西)

8世紀半ば・・・西山田三本松(西),蔵上(西),八ツ並金丸(東),志波屋三の坪乙(正方位),志波屋三の坪甲(ほぼ正方位),中園(全体として西。地区によって方位はバラバラ),志波屋四の坪(西→正方位),志波屋二の坪(西),吉野ヶ里丘陵地区Ⅴ区(西)

8世紀後半・・・久地井B・Ⅲ区(正方位),久地井六本杉(西),惣座(ほぼ正方位),東古賀(BC区と1区4区はほぼ正方位・3区は西偏),肥前国府(小規模の西。9世紀前半に大規模の西),坊所一本谷Ⅰ区(東)

8世紀末葉・・・西山田二本松A・B(西・官衙群が南に異動する+西側に小型の高床倉庫が作られる)

9世紀以降~・・・コマガリ(ほぼ正方位),北原・三次調査区(9世紀後半はほぼ正方位→10世紀後半は東偏7度),東山田一本杉(9世紀初に正方位),惣楽(東),吉野ヶ里地区Ⅱ~Ⅴ区(西),塚原(西)

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※ 大黒町(年代不明だが,東・正方位)

※ 坊所一本谷Ⅱ区は,年代不明。方位は総柱建物群は,西偏。他は,東偏。

※ 八藤は,5区:総柱建物群 西偏
       6・7区:北部=西偏 

       中央部=東偏と正方位
       8・9区:正方位と西
      

       10・11区:西偏

2019年9月12日 (木)

★坊所一本谷 ★

Ⅰ区については「8世紀後半ヵ」とありました。

しかし,Ⅱ区については建物データに何も書いてないようです。

Img_4468-1

★八藤★

建物データには,年代のところがが空欄です。

こういう時は,どうしたらいいのでしょうか。

Img_4469-1

2019年9月11日 (水)

佐賀県の〈官衙遺跡〉9/11

(1)坊所一本谷 (8世紀~9世紀)・・・Ⅰ区は中央に東偏のロの字型官衙で,Ⅱ区はSB220とSB201がほぼ直交なので,東偏官衙を構成しそう。

Photo_20190911112401

 

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遺構配置図(Ⅰ区)】【遺構配置図(Ⅱ区)】と建物データ

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(2)八藤(奈良時代から平安時代)・・・もし直交する建物があれば,【6・7区】では西偏と東偏の,【8・9区】では正方位や西偏の,【10・11区】では西偏の官衙群が期待できる。

6・7区遺構配置図】【・9区遺構配置図】【10・11区遺構配置図 】と建物データ

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(3)原古賀黒木(7世紀後半~9世紀前半頃)・・・南北棟の建物たちと直交する東偏の建物を期待して,東偏。

Photo_20190911120201

【遺構平面図】と建物データ

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これで佐賀県の〈官衙遺跡〉はおしまいです。

次回は集計をしたいと思います。

★佐賀県の〈官衙遺跡〉9/11★

(2)吉野ヶ里丘陵地区Ⅴ区(8世紀 )・・・西偏の官衙群

Img_4468

遺構平面図(吉野ヶ里地区Ⅴ区・丘陵地区Ⅲ区)】と建物データ

2019年9月10日 (火)

質問1~5について【9/11・12・13・14・15・17改訂】(工事中)

質問1~畿内を中心として東西で100年中間地帯で50年編年がずらされていることがわかったというが,このずれの年代をどのように測定したのですか?

→  最初に奈良県の古代遺跡を調べてみたところ、正方位の出現が6世紀末から7世紀初頭であることがわかりました。この典型的な遺跡は飛鳥寺。この寺の建造年代は書紀で明らかなので、この正方位出現は絶対年代であることがわかります。

 西偏の時代に正方位にしたということは何か政治的意図があるわけで、その普及は全国一斉であると考えて、この正方位出現時期=6世紀末から7世紀初頭を基準にして、各地方における編年のずれを測定してみました。


 奈良文化財研究所のデータベースを使い古代寺院遺跡と古代官衙遺跡のすべての方位をを県ごとに調べて行きました。すると,「正方位の出現時期」は、それぞれの時期が近畿から遠ざかるほどずれて行き,一番遠い関東・東北や九州で100年,中間地帯である中部や四国・中国で50年の差があることがわかりました。これらの命令は瞬く間に伝わったと思われるので,逆に編年の方がずらされていると考えました。

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質問2~九州王朝の方位の変遷を,5世紀中頃を画期としてそれ以前は西偏,それ以後を東偏とした根拠はなんですか。同じく6世紀末から7世紀初頭にかけて正方位と替えたと判断した根拠はなんですか。

  九州王朝における方位の変遷は、その中枢の筑前地域の官衙遺跡の精査でわかります。

 この地域では6世紀半ばに始まる鹿部田渕遺跡(福岡県古賀市,糟谷屯倉か?)・練原遺跡(福岡県福津市奴山字練原、集落)が西偏であるのに対し、6世紀後半に始まる比恵遺跡(福岡県福岡市博多区博多駅前、那津官家?)・柏原遺跡群柏原M遺跡(福岡県福岡市南区柏原林崎、官衙)・黒山遺跡群(福岡県遠賀郡岡垣町黒山、豪族居宅?)はみな東偏へと変わり、この傾向は7世紀に入っても続きます(7世紀初頭に始まる杷木宮原遺跡・福岡県朝倉市大字志波字宮原は西偏ですが、これは朝倉地域の近畿天皇家の宮である朝倉橘広庭宮=井出野遺跡、福岡県朝倉市比良松周辺の官衙と考えられ、近畿天皇家は九州王朝が東偏で宮や官衙を作り始めてもそれに従わなかった可能性があります)。


 この従来の編年は近畿に比べて100年下げられていると思われるので、筑前における西偏と東偏の境目は6世紀半ばと6世紀後半にあるので、境目は100年挙げて5世紀中ごろと思われます。


 筑前における正方位遺構の最初は7世紀後半に始まる太宰府政庁Ⅰ期遺構(福岡県太宰府市)です。同じ時期に属する那珂遺跡群(福岡県福岡市博多区那珂)や井尻B遺跡群(福岡県福岡市南区井尻)では、東偏から正方位への移行が見られるので、筑前における正方位の出現は7世紀後半、実年代では6世紀後半であると見られます。


 そしてこの傾向は8世紀初頭、つまり実年代で7世紀初頭には広がり、太宰府政庁遺跡は中国朝堂院式の宮殿官衙に作り変えられ、正方位の条坊を備えた大規模な都市となりました。そして西偏や東偏ですでに始まっていた外国使節迎賓館である鴻臚館遺跡(福岡県福岡市中央区城内)では、8世紀前半、つまり実年代で7世紀前半に北館も南館も正方位に建て替えられ、小郡の屯倉(西偏から東偏に実年代で6世紀後半までには建て替えられた)が、実年代で7世紀中葉から後半にかけて、大規模な正方位の宮に建て替えられています(小郡官衙遺跡・福岡県小郡市小郡字向築地)。


 以上のように九州王朝における正方位の建物の出現とその広がりの時期は、実年代で6世紀後半に始まり、6世紀末から7世紀初頭・前半にかけて、各地に正方位の官衙が広がったと見られます。


 この傾向は筑後でも同様で、それまで東偏だった筑後国府前身官衙(福岡県久留米市合川町)が、7世紀後半(実年代6世紀後半)以後は正方位に建て替えられています。


 九州王朝における、西偏⇒東偏⇒正方位の変遷は以上のように各地の遺構から考えられます。


 なお一つの遺跡でこの移行を確かめることができるのは、前述の小郡官衙遺跡だけです。


 ここでは、実年代で6世紀後半以前に遡る屯倉は西偏でつくられ、6世紀後半にはいくつも正倉を備えた大規模な屯倉に建て替えられています。そして6世紀末にはこれが大規模な東偏の政庁を備えた官衙に作り変えられ、さらに7世紀中葉には正方位の大規模な宮に建て替えられます。


 この屯倉から宮への建て替えは、書紀孝徳紀に見られる、孝徳三年(大化三年)に見られる記事「是歳、壊小郡而営宮。天皇、處小郡宮而定礼法」に相当するものと思われます(647年に比定される)。

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質問3~近畿天皇家は6世紀までは九州王朝に倣って東偏だったが,その後は西偏に変更したとの判断の根拠はなんですか。また,7世紀後半から正方位に替えたとの判断の根拠はなんですか。

→ ●近畿天皇家の方位変遷

 大和国(奈良県)の官衙遺跡と寺院遺跡を見ていくと、近畿天皇家の方位の変遷がわかります。
 まず官衙遺跡でみていくと、古墳時代前期に属する遺跡は西偏であることがわかります。
 和邇遺跡(天理市和爾町・豪族居館?)11次13区発掘地には古墳時代前期と見られる南北棟の掘立柱建物があり、短辺の向きが5度Eなので西偏と考えられます。
 古墳時代前期は西偏であったわけですが、その後の5世紀から6世紀後半までの古墳時代中期・末期に属する遺跡はみな、東偏で作られていることがわかります。
 和邇遺跡(天理市和爾町・豪族居館?)には5世紀末葉以後と見られる四面廂の大きな建物を中心としたものですが、これが東偏。さらに同じく豪族居館と思われる極楽寺ヒビキ遺跡(御所市極楽寺小字ヒビキ)は5世紀の大型方形四面廂建物を中心とする遺跡ですがこれも東偏。また脇本遺跡(櫻井市脇本・豪族居館か泊瀬朝倉宮?)は5世紀後半以後6世紀後半にかけての大型掘立柱建物群からなるの遺跡ですがこれもまた東偏。そして南郷遺跡群井戸大田台遺跡(御所市井戸・豪族居館)は5?6世紀の遺跡ですがこれもまた東偏。最後に同じ南郷遺跡群南郷安田遺跡(御所市南郷・豪族居館か祭祀場?)は大型四面廂建物を中心とした5世紀中葉から6世紀までの遺跡ですがこれも東偏。
 方位が確認できる遺跡の中で5世紀から6世紀後半までの物はすべて東偏でした。
 これは九州王朝でも5世紀半ばには従来西偏であったものを東偏にしていることに対応したものと思われます。
 しかし傾向が一変します。それは6世紀後半以後。
 聖徳太子の宮と考えられる上之宮遺跡(桜井市上之宮・宮)は6世紀後半から7世紀初頭の、大型四面廂建物を中心として園池遺構まで伴った遺跡ですが、ここを画期として宮や居館などは西偏の物ばかりとなり、この傾向は7世紀中ごろから後半まで続きます。
 先の上之宮遺跡に続き、平尾山遺跡(天理市石上町・居館)は6世紀末葉?7世紀前半の居館遺跡ですが、四面廂建物を中心とした西偏の遺構。さらに飛鳥京遺跡(高市郡明日香村岡・宮)の後岡本宮と考えられる7世紀後半の遺構の下層には7世紀前半に属する西偏の建物群が存在します。さらに後に藤原京が作られた場所にある香山正倉遺跡(橿原市木之本町)は7世紀代には西偏で建物が作られています。その他この時期の官衙や宮はすべて西偏で作られています。
 ただし6世紀末において九州王朝の正方位化政策をまったく取り入れなかったわけではありません。
 これは寺院遺跡を見ていくとわかります。
 それは6世紀末から7世紀初頭に、いくつかの正方位の寺院が作られていることです。
 すなわち飛鳥寺(高市郡明日香村飛鳥)。この寺院は日本書紀によってその創建年代が絶対年代として確認できるものですが、この寺院は588年から造営に入り596年に竣工しています。そして少し時期が遅れますが7世紀前半の寺院、奥山久米寺(高市郡明日香村字奥山)も正方位、さらに7世紀初頭の平隆寺(生駒郡三郷町勢野)も正方位なのです。
 しかし正方位の寺院はこの三つだけで、同じ6世紀末から7世紀前半の時期の他の寺院は、坂田寺(高市郡明日香村祝戸)・定林寺(高市郡明日香村立部字堂山)・和田廃寺(橿原市和田町)・巨勢寺(御所市古瀬字大口)と東偏のものもあり、さらに大部分のこの時期の寺院は宮や居館・官衙と同様に西偏で作られていました。特に正方位寺院と同じく7世紀初頭から前半に属する西偏寺院としては、豊浦寺(高市郡明日香村豊浦)、橘寺(高市郡明日香村橘)、中宮寺(生駒郡斑鳩町幸前字田殿)・法隆寺若草伽藍(生駒郡斑鳩町法隆寺)・法輪寺(生駒郡斑鳩町三井字井垣)・法起寺(生駒郡斑鳩町岡本字池尻)などがあります。
 6世紀後半から7世紀前半における近畿天皇家の領域での正方位の採用は、官衙や宮や居館ではなく、わずかに三つの寺院でのみ採用されたのです。他の寺院はいくつかは従来の東偏で作られ、大部分は官衙や宮・居館と同様に西偏で作られたわけです。これは同じ時期の九州王朝が寺院や宮や官衙を正方位で作ったのとは大いに異なります。
 近畿天皇家が再び正方位で宮や官衙を作り始めるのは、7世紀後半からです。
 7世紀後半の飛鳥後岡本宮が正方位で作られたのを画期として、多くの宮や官衙が正方位で作られ、これは7世紀末の藤原京(橿原市)へと続きます。この中で先に東偏の遺構として見た脇本遺跡(櫻井市脇本・豪族居館か泊瀬朝倉宮?)は、東偏だったものを正方位に建て替え、また西偏の遺構としてみた香山正倉遺跡(橿原市木之本町)も7世紀後半にこの地に藤原京が作られるとともに正方位に建て替えられました。
 そしてこの傾向は寺院でも顕著で、7世紀中葉とみられる山田寺(桜井市山田)がほぼ正方位で作られたのを画期として、以後7世紀後半以後に作られた寺院の多くは、藤原京条坊に伴って造られた本薬師寺・小山廃寺・大官大寺などの寺院だけではなく、横井廃寺(奈良市藤原町横井字堂所)・願興寺(天理市和爾町・中ノ庄町)・軽寺(橿原市大軽町字寺垣内)・川原寺(高市郡明日香村川原)など他の地域の寺院も正方位で作られました。
 7世紀後半以後の近畿天皇家の宮・寺院・官衙のほとんどは正方位が採用されたことがわかります。
 これは九州王朝が白村江の戦いの敗戦で急速に力を失い、近畿天皇家に取って代わられる時期に相当します。
 以上の傾向は大和だけではなく、河内・摂津(大阪府)や山城(京都府)・近江(滋賀県)など近畿天皇家の中枢領域で後に畿内とされた地域でも確認できます。

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質問4~この50年から100年編年がずらされている現象は,実年代でいつ頃からいつ頃まで続いたのでしょうか。

→ 上限は3世紀,下限は9世紀中頃と考えています。

上限について確かめられたのは、5世紀中頃まで。東偏の出現が近畿の大和(奈良県)で5世紀後半なのですが、九州の福岡ではそれは6世紀後半、関東の郡までは6世紀後半になっているので、この古墳時代の後期までは編年がずらされていることを確認しました。すなわち東偏の出現は5世紀中頃を画期とした5世紀後半なのですが、近畿から遠ざかるにつれて50年・100年編年がずらされていると。


 これ以前の古墳時代前期中期に遡るかどうかは、奈良文化財研究所の古代官衙データベースでこれより古いデータがないので確認できません。


 しかし、古墳時代の開始を従来は、近畿で3世紀とし、関東では100年ずらした4世紀としてきましたが、関東、特に千葉県で古墳時代の始まりの時期の群集墳が出てきて、それが近畿の奈良県の物とほぼ同じなので、最近では古墳時代の始まりも全国一斉と考えられ、土器編年の見直しが始まっています。この視点からみると、編年が近畿を中心に関東で100年ずらされた最初は、古墳時代の始まりである3世紀にまで遡るものと思われます。


 下限については、福岡県の太宰府政庁遺跡で、Ⅲ期政庁は、その前のⅡ期政庁が藤原純友の乱(940年頃)で焼失したあと、その焼土の上に建てられており、Ⅲ期政庁の基壇からは、Ⅱ期政庁があった時代にこの地に流されて客死した菅原道真を祀った寺院の瓦が出土しています。このためⅢ期政庁の年代として10世紀後半からと従来比定されてきた年代は、正しい実年代と判断します。したがって年代のずれは10世紀には及んでいないことがこの遺跡で確かめられます。また福島県の泉官衙遺跡では、この郡庁と考えられる遺跡と一体関係にある金沢製鉄遺構だけではなく、より内陸部に豪族所管の製鉄遺構が広がり、両者は一体のものとして発展してきました。ところが9世紀後半になると泉官衙遺跡と、これと一体の神奈川製鉄遺構は廃絶したのに、内陸の製鉄遺構はその後もずっと続いていたことが遺跡で確かめられています。この現象は869年に三陸の地を襲った貞観地震に伴う津波によって海岸部の官衙と製鉄所が被災したが、内陸には被害が及ばなかったという事実を示すものと考えられています。したがって泉官衙遺跡と金沢製鉄遺跡廃絶の9世紀後半は実年代と思われます。


 したがって編年がずらされている現象の下限は、9世紀中頃までと判断しています。

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質問5~九州王朝が5世紀中頃に中国に倣って東偏にしたことの意味は何だとお考えですか。同じく6世紀末から隋王朝の設計思想に倣って正方位に替えたことの意味は何だとお考えですか。

→ 5世紀中頃から6世紀中頃までは,磁北が西偏だったことが分かっています。なので,磁石で方位をきめていれば普通は西偏です。ところが,中国南朝の柵封体制の中で,一番の地位を占めたいと考えた倭国は,南朝に「倭の五王」の使いを派遣し,その都と同じ方位である東偏をマネすることによって忖度したものと思われます。それでもなかなか思うように地位があげてもらえないので,「九州年号」を定めたり,「日本国天皇」を名乗るようになる。南朝が滅んで,北に隋が現れると,隋が正方位の都を採用するに至って,倭国も対抗上,正方位を採用したものと思われます。今や南朝側のトップとなった「日出ずる処の天子」が「日没する処の天子」に劣る訳にはいきませんから。

しかし,隋や唐に対抗することになる九州王朝の正方位は,かなり危険な選択だったと思われます。大陸や半島から離れた近畿天皇家は,「政治的意思表明をさける選択=東偏でもなく正方位でもない」をしたものと思われます。しかし,白村江で倭国が滅び,近畿天皇家は唐に寄り添う態度を示したので,年号や正方位の使用については特に無視されていたようです。

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/10

(1)中園(8世紀)・・・SB3014~3016がほぼ同じ角度で西面している。中央の3014を中心とした官衙と思った。西偏。

Photo_20190910083901

Bf-04区遺構配置図】と建物データ

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(2)吉野ヶ里丘陵地区Ⅴ区(8世紀)・・・SB1030しか倉以外の建物データ(南北棟・12.5゜W )はないが,

地形に合わせた東偏の建物群のように見える。

Photo_20190910101701

遺構平面図(吉野ヶ里地区Ⅴ区・丘陵地区Ⅲ区)】と建物データ

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(3)吉野ヶ里地区Ⅱ~Ⅴ区 (9~10世紀)・・・全体して西偏。Ⅲ区の建物は,倉をコの字に従えて,西偏の官衙風。

遺構配置図(平安)】と建物データ

 

2019年9月 9日 (月)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/9

(1)志波屋四の坪 (8世紀)・・・西偏の官衙群

Img_4417

遺構平面図(南段丘上)】と建物データ

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(2)志波屋二の坪 (8世紀)・・・西偏の官衙群

Img_4416

A地区Ⅰ次調査区遺構配置図】と建物データ

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(3)塚原(平安時代)・・・南北棟の建物群に直交する南方の建物を期待して,西偏。

Img_4419

遺構平面図】と建物データ

 

 

2019年9月 8日 (日)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/8

(1)大黒町(8世紀)・・・片廂の13号建物が南北棟・0゜47´E 。これを中心建物と考えると,ほぼ正方位。

建物配置図】と建物データ

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(2)熊谷(8世紀~9世紀)・・・いずれも四面廂の建物1(6°W)と建物2(5.5°W)のデータしかないが,いずれも西偏なので, 西偏で。

建物データ

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(3)志波屋三の坪乙(8世紀)・・・南北棟・0°の館群にびっくり。当然正方位。

Img_4042

遺構配置図(段丘上)】と建物データ

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(4)志波屋三の坪甲 (8世紀)・・・中央に位置するSB335とSB336はン木刀・0°で正方位。ほぼ正方位のものもある。こういう場合は,正方位でまとめていいのか。

Photo_20190908062701

遺構配置図(志波屋三の坪甲地区南部)】と建物データ

2019年9月 7日 (土)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/7

(1)惣楽(平安時代)・・・四面廂のSB03を中心に考えて,東偏。

【4区全体図】と建物データ

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(2)八ツ並金丸 (8世紀)・・・SB4025を中心に,4024と4021がコの字型の配置となるので,東偏。

Img_4372

遺構配置図2】と建物データ

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(3)寺浦(7世紀後半)・・・SB01とSB02が並んで東面しているので,

  これに直交する中心的建物があれば,西偏。

遺構平面図】と建物データ

2019年9月 6日 (金)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/6

(1)千々賀古園 (7世紀後半~9世紀初)・・・西偏の官衙群

Img_4028

  1次調査区~2号と5号の北側に,まだ発掘されていない主殿が直交するのではないかと考えて,西偏の官衙群。

  2次調査区~1号と2号建物が共に南北棟・5°Eなので,それと直交する3号(主殿)と官衙を構成すると考えた。

 西偏の官衙群。

1・2次調査遺構配置図】と建物データ

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(2)中原(6世紀後半~9世紀前半)・・・SB226を主殿に,SB202とSB213を脇殿に考えて,東偏。8世紀。

Img_4027

遺構平面図】と建物データ

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(3)蔵上(8世紀代)・・・SB4504とSB4505を東西の脇殿とする主殿を北方の予測して,西偏。

Img_4030_20190906065901

奈良時代の遺構】と建物データ

2019年9月 5日 (木)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/5

(1)東古賀()・・・8世紀後半で正方位・ほぼ正方位。その後,東→西→西

Img_4025-1

   8世紀後半~9世紀・・・1区で真北,C区で1E°,B区で2°W,2°W,D区で1°W,1°W,3°W

   10世紀・・・東偏

   13世紀~14世紀・・・西偏

   15世紀・・・西偏

遺構全体図 】【遺構変遷図】と建物データ

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(2)東山田一本杉 ()・・・それまで西偏→9世紀初に正方位

Img_4026

   8世紀前半~後半・・・黄色で塗った西偏3~5°Wの官衙群

   9世紀初~後半・・・ピンクで塗った正方位の四面廂(0度)

遺構配置図】【奈良・平安時代前半の遺構配置図】と建物データ

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(3)肥前国府(8世紀前半~11世紀)・・・ずっと西偏だった!?

   国庁Ⅰ期(8世紀前半?)・・・西偏(小規模)

   国庁Ⅱ期・・・西偏(大規模化)

   国庁Ⅲ期・・・西偏

   国庁Ⅳ期・・・西偏

【遺構配置図(国庁Ⅰ期~Ⅳ)】と建物データ

2019年9月 4日 (水)

佐賀県の〈官衙遺跡〉 9/4

(1)惣座 (奈良~平安)・・・8世紀前半~中頃の西偏の高床倉庫群と8世紀後半~9世紀初めのほぼ正方位の正倉院+高床倉庫群

官衙の構造を分かりやすくするために,先行する西偏の倉庫群をピンク色で,次の時代のほぼ正方位の正倉院+高床倉庫群を黄色で塗りました。

   Img_4307

遺構配置図(奈良・平安)】と建物データ

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(2)西山田三本松 (8世紀ヵ)・・・A地区はSB001を中心にした官衙群で,西偏。

Img_4308

                  B地区は二面廂のSB265を中心にした官衙群で,こちらも西偏。

Img_4309

西山田三本松A】【西山田三本松B】と建物データ

※ 川瀬さんの追加情報・・・B地区のⅡ区に、9世紀に西偏の遺構群があります。中心は四面廂のSB310。

他には建物データで見ても9世紀の者はみあたりませんが、この四面廂の北側にきっと西偏の建物群があるとおもわれます。

 ここは佐賀平野の北部。周囲は皆平地ですから。

 

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(3)西山田二本松A・B (7世紀~9世紀代)・・・角度の大きさは変わるが,西偏のまま

    8世紀前半~西側に南北に高床倉庫群が作られる。

    8世紀後半~SB013を中心とした官衙群が登場する

    8世紀末~9世紀初め~官衙群が南に異動する

Img_4310

遺構平面図(A区)】【遺構変遷図】と建物データ

※ 川瀬さんの追加情報・・・ 基本的に肥沼さんが判断した変遷ですが、

 8世紀末~9世紀初め~官衙群が南に異動する+西側に小型の高床倉庫が作られる、を付け加えてください。

 

2019年9月 3日 (火)

★佐賀県の〈官衙遺跡〉9/3★

(2)北原(奈良~中世)・・・8世紀前半(西)→8世紀後半(ほぼ正方位)→10世紀後半(東)

1次調査遺構配置図~西偏→正方位

   (SB1が南北棟・3゜30´E~8世紀前半,SB10南北棟・3゜30´E 8世紀前半,SB15南北棟・0°8世紀後半,

   SB17東西棟・2゜30´E 8世紀前半か,SB2南北棟・2゜30´E 9世紀前半ヵ,SB3南北棟・3°E9世紀前半,

   SB4南北棟・5°E8世紀後半,SB5南北棟・2°E8世紀前半,SB6東西棟・1゜20´E 9世紀前半,

   SB7南北棟・2゜40´E 8世紀前半,SB8南北棟・3゜60´E 8世紀後半,SB9倉南北棟・3°E8世紀後半)

3次調査遺構配置図 ~正方位→東偏

   (SB100が南北棟・1°W~9世紀後半SBSB160東西棟・7°E10世紀後半ヵ,

    SB170東西棟・2°E9世紀後半ヵ,SB180東西棟・0°9世紀後半ヵ,SB190東西棟・6°E10世紀後半ヵ)

1次調査遺構配置図】【3次調査遺構配置図と建物データ

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(3)久池井B8世紀後半~9世紀初頭)・・・久池井Bの遺跡種類のところに「肥前国府」と書いてあったので,

  勘違いしてしまいました。国庁跡の北東の遺跡(国司館)のことなのですね。

 

     Ⅲ区(8世紀初め~8世紀前半)・・・大きな東偏 ・小さな東偏→ Ⅰ・Ⅱ区(8世紀後半)の小さな東偏・ほぼ正方位

遺構平面図(Ⅰ区)】【遺構平面図(Ⅱ区) 】【遺構平面図(ⅲ区)】と建物データ

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(4)久池井六本杉 (8世紀後半)・・・

 

  第1次調査区~西偏と東偏と正方位が混じっているように見えました。

    SB01(8世紀初頭で,東西棟・11°W,8世紀初頭)

    SB15(8世紀後半~9世紀前半で,南北棟・6°W)

    SB16(8世紀後半~9世紀前半で,南北棟・4°W)

    SB17(10世紀後半~11世紀で,東西棟・0゜10´W )など

  第2次調査区~西偏に正方位混じっているように見えました。

    SB01(東西棟25゜30´W

    SB03(?,東西棟・25°W)

    SB04(?,東西棟・25°W)

    SB06(?,南北棟・29゜W

    SB11(?,不明・1゜10´W

    SB12(?,斜め?33゜W

    SB18(?,東西棟・28゜40´W )など

第1・2次調査区全体図 】と建物データ

 

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(5)コマガリ(8世紀後半~10世紀前半、12世紀後半~13世紀中頃)・・・西→西→正方位→西→東か

 

           Ⅰ期(8世紀後半~9世紀中頃) 東偏の2棟と直交する主殿を期待して,西偏

            &

           Ⅱ期 南北棟の4棟に対応する主殿を考えて,西偏

 

           Ⅲ期(9世紀前半) 四面廂の建物がⅠ°Wなので,ほぼ正方位

 

           Ⅳ期(12世紀後半~13世紀中頃) 登場している2棟のうちいずれかを主殿と考えて,西偏

            & 

           Ⅴ期 直交する2棟のうち,SB3154を主殿と見て,やや東偏

遺構変遷図】と建物データ

2019年9月 2日 (月)

佐賀県の〈官衙遺跡〉9/2

(1)御手水(4世紀~7世紀)・・・1つは四面廂の建物(東西棟・7度30分W)を中心としたもの。

  もう一つは,ほぼ正方位と思われるもの。

2区遺構配置図】と建物データ

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(2)北原(奈良~中世)・・・100年開いて正方位がある。西→正方位→東西→正方位→東

          8世紀前半 3度30分W,3度30分W,2度30分E,2W,2度40分W

          8世紀後半 0度(正方位),3W,3W,5W

          9世紀前半 1E,2E,2W,3W

          9世紀後半 0度(正方位),2W,1E

          10世紀前半

          10世紀後半 6E,7E

掘立柱建物配置図】と建物データ

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(3)久池井B8世紀後半~9世紀初頭)・・・磁北の図のようなので,正方位またはほぼ正方位

肥前国府関連遺跡遺構配置図1 ・2】と建物データ

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(4)久池井六本杉 (8世紀後半)・・・西→東→西か

           8世紀初 11W

           8世紀前 12W,11W

           8世紀中

           8世紀後 4W,6W,9W

           9世紀前 5W,6W

           9世紀中

           9世紀後

           10世紀前

           10世紀中     

           10世紀後 0度10分

第1・2次調査区全体図 】と建物データ

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(5)コマガリ(8世紀後半~10世紀前半、12世紀後半~13世紀中頃)・・・西→西→正方位→西→東か

           Ⅰ期 東偏の2棟と直交する主殿を期待して,西偏

           Ⅱ期 南北棟の4棟に対応する主殿を考えて,西偏

           Ⅲ期 四面廂の建物がⅠ°Wなので,ほぼ正方位

           Ⅳ期 登場している2棟のうちいずれかを主殿と考えて,西偏 

           Ⅴ期 直交する2棟のうち,SB3154を主殿と見て,やや東偏

遺構変遷図】と建物データ

佐賀県の〈寺院遺跡〉の集計 9/2【9/4修正】




【肥前】

 

~6世紀半ば・・・

6世紀後半・・・

6世紀末葉・・・

7世紀初頭・・・

7世紀前半・・・

7世紀半ば・・・

7世紀後半・・・

7世紀末葉・・・寺浦廃寺(ほぼ正方位)

8世紀初頭・・・

8世紀前半・・・

8世紀半ば・・・肥前国分寺(西)

8世紀後半・・・

8世紀末葉・・・徳永A群(西)

9世紀以降~・・・徳永17区(西)

 

※ 国分(?)(西),

※ 辛上廃寺(?)(東偏5度・正方位・西)




 



 

2019年9月 1日 (日)

佐賀県の〈寺院遺跡〉9/1

(1)国分()・・・時期がわからないが,3種類の時代の混合遺跡で,肥前国分寺の方位は西偏のようである。

          3次4区~30号建物(南北棟・5°W) 東偏

          3次5区~151号建物(総柱の東西棟・8°W),70号建物(東西棟・7°W) 西偏

               65号建物(東西棟・1°W) ほぼ正方位

遺構平面図(4・5区)】【肥前国分寺】と建物データ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(2)徳永(8世紀末~9世紀前半)・・・神社をまつる集落のようである。全体に西偏

               1区は,8世紀末葉~9世紀前半 ・・・四面廂のSB1374(東西棟・17°W)西偏

                                 四面廂のSB1446(東西棟・11°W)西偏

               17区は,9世紀末葉~10世紀初め ・・・四面廂のSB17011(東西棟・5.5°W)西偏

1区遺構配置図】【17区遺構変遷図】と建物データ

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(3)肥前国分寺()・・・地図を見ると西偏にみえるが,磁北の時期と言うことを考えるとほぼ正方位か

調査区の位置と遺構配置】と建物データ

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(4)辛上廃寺 ()・・・金堂か講堂と考えられるSB06が四面廂建物。東西棟・5°Eで東偏。それに合う門もあるが,正方位の八脚門も

遺構配置図】と建物データ

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(5)塔の塚廃寺(8世紀中葉)・・・与えられた資料からは,方位確認できず

遺跡の位置と周辺の遺跡】と建物データ

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(6)寺浦廃寺(7世紀末葉~)・・・建物データが載っていないですが,やや西偏かほぼ正方位ですかね。

推定伽藍配置図2

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これで佐賀県の〈寺院遺跡〉はおしまいです。

次回は,集計します。

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