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2019年6月 8日 (土)

二度あることは三度あるか?(工事中)

「二度あることは三度ある」という言い方があるが,

昨夜こんなアイデアが浮かんだことを書き留めておきたいと思う。

これまでの「方位の考古学」の研究の中で,

各地の重要な都市(重要な拠点)に,

九州王朝が「東偏の街づくり」をしてきたことが分かってきた。

例えば山口県防府市や東京都府中市である。

これに今回の茨城県石岡市も入るのではないか,ということである。

証拠はいくつか上がってきた。

(1)常陸国分尼寺・・・東偏5度

(2)常陸国分僧寺・・・地下に東偏を示すものあり

(3)茨城「評衙」・・・「田島遺跡(田島下地区)」がそれにあたるなら東偏。ただし,角度は大きい

これらが単純に点(・)のように作られたのではなく,

東偏の街並みの中につくられたとすると,防府市や府中市と似た形になる。

もちろん証拠はまだ少ないのであるが,石岡市で何か古代の遺構が出土した時,

「東偏の街づくり」という仮説があれば,ピンとくるのではないかと思った。

東山道と東海道が合流すること街は,「重要な拠点」であることは間違いないだろう。

 

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コメント

肥沼さんへ

 茨城廃寺ですが、前に検討した時は西偏2度としました。
 しかし建物データを詳細に見てみると、これも東偏ではないかという結論に至りました。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100924-2990/91398.jpg
 金堂跡の基壇のトレンチ調査ですが、よくみると想定基壇の点線の部分が東偏です。
http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100924-40801/91397.jpg
 講堂も西2度となっていますが、盛り土痕跡を見ているとこれも東偏の可能性ありです。
 さらに塔でも。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100924-40801/91396.jpg
 盛り土痕跡を見ると東偏と思えます。
 したがって西偏2度と想定されて作図されていますが、東偏なのではないか。
 なおこれらの整地層の下には図にあるように西偏の掘立柱建物が多数出土していますし、遺跡変遷図を見ても、http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m100924-40801/91396.jpg
 プレⅠ期に東偏の掘立柱建物がみられます。
 なお区画溝はほぼ正方位です。したがってこの寺院は
1:下層遺構:西偏
2:東偏の寺院 7世紀末 ⇒ 6世紀末
3:正方位の区画溝 8世紀中葉⇒7世紀中葉
 となります。100年編年を動かすと矢印の通り。すべてが九州王朝時代に位置します。

 茨城評寺であるこの茨城寺も東偏であれば、評衙と想定される外城遺跡の周辺の遺跡も東偏なのだから、評衙も当然東偏でしょうし、初期国衙も東偏なのではないでしょうか。
 外城遺跡は残念ながら30年前に掘られただけですが、国府の方はかなり発掘が進んでいるので、ここに東偏の遺構があるかもしれませんね。

 

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

茨城廃寺の再検討,ありがとうございました!
これが東偏となれば,ペアの茨城評衙も東偏となると考えられます。
(少なくとも近くの2つの遺跡が東偏だし)
・・・したがって,常陸国衙の方も,東偏の時代があったと言えそうです。
第三の男・・ではなく,防府・府中に続いて石岡も,
「第三の東偏都市」と言えるかもしれませんね。

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