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2018年5月 4日 (金)

●服部氏の「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」の再検討(川瀬さん)

●服部氏の「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」の再検討
 
                                           川瀬健一
 
 多元の会の4月例会で服部氏が発表した「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」はとても意欲的な労作で、その検討結果として、600年前後創建と見られる「素弁蓮華文軒丸瓦」を持った寺院が全国に多数みられることを確認し、これは国家的事業ではないかとしたことは、「九州王朝」史を考える時に画期的なものと思う。
 しかしいくつか論を進める上での問題点も見られ、さらに論究が不十分なところも見られるので、以下に、服部氏の論の再検討を行う。
 ※この再検討は、服部氏の当日の発表で使われたパワーポイント資料を基に再検討したものである。後に服部氏が作られた要約がパワーポイント資料とは多少加筆修正されており、さらにスライド38番以後の問題は「要約」からは削除されている。このため「要約」だけ見ていると、以下の再検討は理解できなくなる。「要約」についての再検討は後に行う。
 
★研究姿勢の問題点
 
1:研究の基礎を、石田茂作著『飛鳥時代寺院址の研究』聖徳太子奉讃会 1936年(1977年復刻)に置いている。
 なぜこれほど昔の著作を基礎に据えたのか。すでに80年前の物。その後の研究の進展でこの石田氏の認識に修正なり批判が加えられているはず。
 ここを確認する必要がある。
 つまり石田氏の論考の研究史上の位置づけが不明瞭なのだ。
 
2:石田氏が特定の寺院を飛鳥時代創建と判断した基準があるはずだが、なぜ「石田氏自身の基準」を紹介せずに、それを服部氏が自分なりに解釈した基準を紹介しこれを考察の基本とするのか。
 石田氏の基本を示しそれを批判して新たな基準を示すのが学問ではないのか?
 この手法では服部氏の理解・解釈が正しいかどうかをこの論考だけでは判断できず、石田氏の著書を読む必要が出てきてしまう。
 もちろん再考するに際して原典にあたるのは基本だが、原典を引用しておけばその手間が省けることも事実である。原典の記述の簡明な引用とその記述がある原典のページ数も提示しておくことは、学問上の作法である。こうして初めて、服部氏の論を、他の人間が再検証することが可能になるからである。
 同じ疑問を古賀氏や正木氏の論文でも感じたことがある。
 ※以上は服部氏の手法についての疑問点。
 
★研究報告の内容の可否
 
1:その上でこの石田氏の基準の判定は?(実態は服部氏の理解であるが)
 ①1つの寺院址に複数の時代を隔てた様式の瓦が出土するが、その内の最も古い様式=創建瓦と考える。
  ※これは妥当である。出土物の中の最も古いものをもってその遺構の初源の時期を判断するのは考古学の常道である。
 ②飛鳥寺址出土の素弁蓮華紋軒丸瓦は百済夫余出土と同形式。飛鳥寺は日本書紀より596年創建と見られることから、素弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代(600年前後)の創建と見る。
  ※これも妥当である。遺物単独では絶対年代は得られない。飛鳥寺は日本書紀で創建年代がわかっているわけだから、この年代比定は妥当である。
 ③山田寺は日本書紀から641~643年の建立と見られる。ここから単弁蓮華紋軒丸瓦が出土する。単弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代末(7世紀中葉)の創建と見る。
  ※山田寺から出土する瓦のもっとも古い様式が単弁蓮華紋軒丸瓦であるのならば、この年代観は妥当であるが、ここが明示されていない(石田氏の判断も明示されていない)
 ※調べてみた所、「出土する瓦は単弁八葉蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦の組み合わせからなる『山田寺式』と呼ばれるもので、各地の古代寺院から同種の瓦が出土し、建築年代を推定する指標となっている。」とのことなのでこの判断は妥当である。
 ④川原寺、法隆寺西院で複弁蓮華紋軒丸瓦が出土している。石田氏は後者を飛鳥末、前者を白鳳時代とし、複弁軒丸瓦は時代をまたぐ(7世紀後半)様式と見る。
 ※川原寺は書紀に創建年代が不記載。ということは九州から移築された可能性あり。したがって創建年代は出土した瓦では判断できない。出土瓦は移築された年代を示すだけ(『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を載せているが、「川原寺跡からの出土遺物(瓦など)の年代から見て、そこまでさかのぼるとは考えられない。」とされている)。法隆寺西院も移築された寺院なので出土瓦は移築された年代を示すだけ。川原寺式瓦の模様は複弁蓮華文(ふくべんれんげもん)とよばれ,蓮の花を真上から見たものがデザインの基になっている。真ん中に1個,その周りに5個,さらにその周りに9個の蓮子(種子)が描かれている。
 石田氏の川原寺の複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀後半との判断は書紀記述によるもの(天武期に重用される。斉明の川原宮は655年。)。
 したがってこのころ(天武期)には「移築された」と判断すれば複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀後半との判断は妥当である。
 だが法隆寺西院はどうか。
 すでに若草伽藍が発見され、これが法隆寺の創建伽藍で670年に炎上したとの記事が書紀にある斑鳩寺と考えられるので、現在の法隆寺西院はこれ以後のものであるので、石田氏が、法隆寺西院の複弁蓮華文軒丸瓦はこのころとしたのは妥当である。しかし九州王朝論からすれば西院は九州の寺院の移築であるのでこれも移築年代を示すに過ぎない。そして西院がいつ移築されたかについては異論がいくつも出されているので7世紀末とは断定できない。
 さらに九州王朝論からすれば仏教が最初に普及したのは九州であるから、それぞれの軒丸瓦の出現も近畿より九州の方が少し早い。
 服部氏もこう考えたに違いない。だからそれぞれの瓦の年代指標となる寺院の建立年代よりも少し前にその瓦の出現時期を設定している。これは妥当と思われる。
 そしてそれぞれの瓦が流行した時期は、次の瓦の出現時期ごろまでと限定できる。
 したがってそれぞれの瓦の出現時期と流行時期を明記すれば以下のようになる。
 ①素弁蓮華文軒丸瓦:600年より少し前に出現し、630・640年代頃まで流行。
 ②単弁蓮華文軒丸瓦:630・640年ごろに出現し、670年ごろまで流行。
 ③複弁蓮華文軒丸瓦:670年前後に出現した。
 この最後の複弁蓮華文軒丸瓦の流行時期は、服部論文では明らかになっていない。なぜならば次に流行した軒丸瓦のことがまったく記されていないからだ。
 でもこれは調べてみればすぐにわかる。
 鎌倉時代以後は巴文を付けた軒丸瓦が流行しているのだから、蓮華文自体が平安時代までということだ。
 すなわち複弁蓮華文軒丸瓦の流行時期は平安時代までなのである。
 このそれぞれの蓮華文軒丸瓦の出現から流行の時期の確認は重要である。
 なぜならそれぞれの軒丸瓦を持った寺院の創建がその始まりの年代に限定されると即断してしまう危険があるからだ。一つの瓦には流行時期があるという想定は重要だ。
 現に肥沼さんは、蓮華文軒丸瓦を持っていればどれでも西暦700年よりも前の創建なのだから、すべての国分寺は全部700年以前の創建になり、これは全部、聖武の詔で作られたものではなく、すべて前王朝の九州王朝創建の「国府寺」だと驚喜した。これは誤った理解を生み出す。
 
2:したがって「素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院は600年前後の創建」とした服部氏の判断は妥当である。そして石田氏が見出した飛鳥時代の寺院58寺からこの瓦を出土した寺を抽出し、奈良25・大阪11・京都2・三重1・愛知3・岡山1・愛媛2・大分1の合計ぴったり46寺とし、これなら書紀推古紀の32年(624)の寺院数46に相当すると石田氏が判断したのも当然である。
 だが服部氏はここに安住せず、これ以外に素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院はないのかと探索を進めたことも妥当である。なぜなら石田氏の研究は戦前のもの。戦後の国土開発で膨大な数の古代寺院遺跡が出現しているはずだから、素弁軒丸瓦を持つ寺院はもっと多くなっていると考えられるからである。
 
3:次の中国百済の瓦の変遷の検討から言えることは、倭国の素弁蓮華文軒丸瓦は、中国なら南朝系で韓国なら扶余系だということ。北朝系は単弁・複弁。此処を指摘しておく必要があったと思う。
 つまり北朝系である単弁と複弁が出てきた7世紀中ごろ以後は北朝である隋・唐の影響が直接入ってきていることを指摘して置いても良いと思う。
 
4:ところが現在の考古学会では、素弁蓮華文軒丸瓦は畿内で発生したと考えられ、地方のものは、伝わるのに時間がなかったから後の物とか、後の時代になってからのリバイバルと判断されて600年前後の創建の寺院とは判断されていないと、服部氏は指摘した。
 この指摘は重要である。
 つまり後世の装飾的になった素弁蓮華文軒丸瓦を除き、単純な素弁蓮華文軒丸瓦が出土した場合には、考古学の原則に乗っ取るならば、それは皆、600年前後の創建の寺院と判断すべきなのだ。だが現在の考古学会はそれをしていない。
 なぜならば、6世紀もしくは7世紀に、日本列島全体に統一的な基準で寺院が建立されたことを裏付ける記事が、「日本書紀」にはないからである。日本の史書にこの列島全体に統一的な基準で寺院が建立されたことを示す記事は、「続日本紀」の聖武天皇の「国分寺建立の詔」(天平13年・741年)が初めてだからである。
 だから素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院が通説で日本の中心とされてきた近畿地方以外でみつかった場合には、流行時期が地方なら遅れると考えて、その寺院の創建年代を600年前後よりもあとに想定しているし、国分寺の場合では、741年以前の創建は考えられないとして、素弁蓮華文が出土した場合には、後の時代になってからのリバイバルであると考えることが通例で、国分寺の前に、そこにはその前身寺院となる600年前後の創建の素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院があったとは捉えられていないのである。
 そして実は国分寺にも多くの素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この従来の考古学会の素弁蓮華文軒丸瓦の年代観を批判することは、多元史観からの国分寺研究にとっては不可欠だからである。だから詳細な批判が不可欠である。
 できれば原典に即して、それぞれの寺院の創建年代が如何に判定されているかを詳しく述べて欲しかった。そうすることで従来の考古学の年代観の可笑しさが浮き彫りになる。この点で、33・34・35のスライドの記述は不十分である。
 研究論文として発表される際には、ここをもっと精緻に批判検討することが不可欠である。
 
5:服部氏が素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院を調べた結果は、初期の「素弁蓮華文軒丸瓦」を持つ全国の「寺院」は74寺。そしてこれは服部氏の眼にとまったものだけなのだから、もっと多くの寺院がある可能性をしめし、服部氏の調査結果はまだ近畿中心の分布だが、もっと多くの寺院を調べれば、九州や瀬戸内・山陰、さらに東海・北陸・関東にも素弁蓮華文軒丸瓦をもった寺院があった可能性を示している。
 つまり600年前後に全国一斉に素弁蓮華文軒丸瓦をもった寺院が造られた可能性を示している。そしてこのことは国家的事業ではないかとの服部氏の推定は妥当である。
 またこのことは、先の書紀推古紀32年の寺院数46をはるかに上回る結果であることから、この推古紀寺院数の意味が再検討されるべきことも明らかである。つまり推古紀の46との寺院数は、どの地域の寺院の総数なのかということだ。
 従来はこれは全国の寺院数と考えられた。だが服部試案を元にすれば、全国の半数ほど。
 これは一体どこの寺院数なのか。
 この問題は「日本書紀」という史書の性格に直結する。
 九州王朝説にたてば、推古紀32年の寺院数は、近畿天皇家の畿内の寺院数を意味するか、もしくは同時代の九州王朝の畿内の寺院数を意味するか、このどちらかである。
 加えて「寺院以外」の遺跡が、福岡県佐賀県に計8件。この「寺院以外の遺跡」を良く見ると、「大宰府政庁Ⅰ期政庁跡」「大野城」「基肄城」が主な地点。すなわち九州王朝の中枢の建物である。現在の考古学者は「百済滅亡ともに百済人によって伝えられた」とか「畿内の素弁瓦が時代を経て九州に伝えられた」とかの判断らしいが、ここはもっと批判しても良いのではないか。
 つまり大宰府Ⅰ期政庁の創建年代を600年前後。さらには大宰府を守る山城の創建年代も600年前後と、通説をかなり遡る可能性があることも指摘しておいてよい。
 
6:「素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院は600年前後の創建」とすれば、全国同時期に圧倒的な勢いで寺院が建立された可能性があると結論できる。
 特にその中に「武蔵国分寺」の例があるが、服部氏はまったく言及していないが、これは「武蔵国分寺」の創建が600年前後であることを示しており、この寺が九州王朝創建の「武蔵国府寺」であった可能性を示唆している。
 そして武蔵国分寺についての文献を渉猟してみればわかることだが、ここで素弁蓮華文軒丸瓦が出土するのは、創建伽藍と考えられる建物の軸が真北を向いた塔の周辺と、その北にある同じく創建伽藍の一部と考えられ「国師」館と考えられている建物周辺にしかでないことがわかる。そしてこの創建伽藍は完成しないうちに中止され、その西に伽藍軸が西に7度ぶれた形の新たな伽藍が創建され、ここからでる瓦は単弁であることも記されている。
 そしてここから出る複弁の瓦は皆、平安時代に焼けたあとの再建寺院のものと判断されている。
 つまり武蔵国分寺は元々九州王朝の「国府寺」として発足し、それも一度計画変更がなされ、そののちに聖武詔によって武蔵金光明寺と寺名変更と塔の七重への改築がなされ、後には「武蔵国分寺」と改名されたことがわかるのだ。
 この視点を入れ、全国の「国分寺」に「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土していないかどうか調査すると、次のスライド38番以後の九州王朝の仏教政策の展開に直接この前半の論考がつながったのではないだろうか?
 つまりスライド43の「国家権力の意図的政策」との推定の根拠になったものと思う。
 
★研究報告全体の構成
 
1:スライド38番以前と以後とは別の論考として区別すべし。
 
2:スライド41で遣隋使で倭国が隋に多数の学僧を送っている時期と素弁蓮華文軒丸瓦をもつ寺院が全国に作られた時期が一致しているとの指摘。この指摘は妥当。隋を睨んでの国家政策との判断だ。
 
3:スライド42でこれを元に倭国が全国を直接統治するために東進との仮説を示したが、これは勇み足。
 これは古田史学の会会長古賀氏の前期難波宮九州王朝副都説を前提にした仮説。
 前期難波宮九州王朝副都説を前提としなくても、600年前後に全国に素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院が多数創建されたことは、隋に対抗して倭国が、全国の直接統治に手を付け始めたと解釈することは可能だ。そしてその首都は太宰府と考えることも可能である。
 
4:スライド44・45で17条憲法が倭国の全国直接統治の先駆けとなっているとの指摘は妥当。この憲法の精神を制度として制定したのがいわゆる大化改新の詔だ(ただしくは常色の改革とした正木説も妥当)。
 この場合の九州王朝の全国直接統治の拠点は太宰府で良い。そして全国直接統治と言ってもまだこの時期は九州王朝の直轄地(九州王朝の固有の版図と、他の分王朝内にある九州王朝直轄地=屯倉)の範囲だけだと「大化改新の詔」の分析から、私はこう考える。
 
★結語
 
 以上雑駁だが、服部氏の所論を再検討してみた。
 結論として立論の不十分さや論究の不十分さが見られるものの、従来の考古学者が畿内中心で瓦の分布を解釈してしまう一元史観にとらわれていることを指摘し、これを外して考えれば、600年前後に全国的に統一的仕様で(ここでは素弁蓮華文軒丸瓦。これ以外に伽藍形式も想定できる)寺院が一斉に多数作られた可能性があり、これは対隋を睨んでの、九州王朝・倭国(すでに日本国と自称していたはず。推古朝の近畿天皇家はすでに自国を倭国と自称していたのだから)の全国直接統治に向けた政策であった可能性を指摘したことは、注目に値する。
 さらに事例を増やして論を補強することが求められる。(2018年4月11日筆・5月3日加筆))

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コメント

川瀬様
的確なご指摘ご評価ありがとうございます。
わたしの意図したところが全て川瀬さんにご理解いただけたと喜んでおります。深謝。
以下言訳になりますがコメントさせていただきます。
(以下の番号を川瀬さんがフラれた番号と合致させていない点はすみません)

1、先ずこれらは論文として書いたものではありません。論文として投稿する場合、川瀬さんのご指摘の点をありがたく反映させていただこうと考えます。
論文でなくて何かと言うと、これは言わば「agitation」を狙ったもので、この1月に大阪i-siteなんばで、3月に久留米大学で、4月に多元の会で発表させてもらいました。
これまで六世紀から七世紀前半にかけて、つまり我国への仏教導入時に創設された寺院は畿内に集中していて九州にはほとんど無いということが「常識」になっていました。しかし、わたしのような素人が少し調べただけでも、それはちょっと違うなということが判りました。専門家も含めて全国で「先の常識」を少し棚上げして見直していただくと、さらに新事実が浮き彫りになってくるのでは、そういう語りかけをさせていただいたわけです。その場をいただいたことで、この寺院分布は1月・3月・4月とその都度大きく変わりました。このように当サークルでも取り上げていただいたので、皆さんの今後の研究でさらに変わっていくものと願っています。

2、(浅学ながら)「先の常識」の発生元はどこかと調べたのですが、石田氏の『飛鳥時代寺院址の研究』以外に全国レベルでの調査研究著作を見出せなかったということで、これをベースに話をスタートさせていただきました。石田氏以降の研究者には例えば森郁夫氏もそうですが、全てを網羅して研究するという、そういう論考は無いようです。(その後「九州には無い」という部分の発生元は、どうも小田富士雄氏ではないかと考えるようになり、現在小田氏の論考を漁っているところです。)

3、石田氏の基準ですが、その判断基準をまとめては記述されていません。全文を読み解くと、伽藍配置とか仏具とかあらゆる材料を並べられているのですが、それらからの推察は困難であって、その中で瓦と文献でのみ創建年代の推察をしておられました。個別の出土瓦の編年もほとんどが図版と編年結果のみの記述であって、これも全文から読み解くしかないので、あのような書き方になりました。

4、太宰府とか大野城の瓦編年につきましては、個別に井上信正さんと、あるいは赤司善彦さんと、下原幸裕さんとメールで議論させていただきました。かれらの(論考に書かれていない所も含めて)言い分を確認して批判しなければ意味が無いと考えたからです。最終的には瓦ではなくて出土土器による編年だとされました。その根拠論文の提示をお願いしたのですがまだいただけておりません。わたしは土器編年も瓦(つまり日本書紀の大野城に関する記述)に引っ張られているのだろうと予想しています。そのあたりの確認のための先の小田富士雄氏の論考漁りです。

5、「勇み足」とのご指摘をいただいた点ですが、仰るとおりです。自分でも意識して勇み足をしています。ここは長時間悩んだ所です。九州王朝が日本列島を統治するのに、(自身が中国に対して経験している)冊封体制を踏襲した統治形態から、(律令政治につながる)直接統治に移行しようとする場合、自分ならどうするかと考えました。冊封臣下の中で一番の実力者、もし抵抗されると強敵になりそうな国に乗り込んで、逆にそこを拠点にする、そこで一大事業を展開して実力を見せ示すのではと考えたわけです。同じ頃、隋は陳を滅ぼし統一した際に、南朝の都(揚州)の傍に江都を設け、大運河事業を展開しました。少し後ですが、百済は南進政策で泗沘の南の益山に都・寺院を作りました。
未だ未だ立証にはほど遠いのですが、1つの視点としての仮説提案です。
こうみると、冨川さんの河内戦争で萬の恨み言がぴったりするのです。

①素弁蓮華文軒丸瓦:600年より少し前に出現し、630・640年代頃まで流行。
②単弁蓮華文軒丸瓦:630・640年ごろに出現し、670年ごろまで流行。
③複弁蓮華文軒丸瓦:670年前後に出現した。

この想定は不自然であり、疑問です。
前の様式が流行しているときには、
次に流行する様式は既に出現していると考えるのが自然です。
流行はスパッと切り替わるという考え方に私は納得できませんでした。
これを納得できる人がいることに驚きました。

山田さんへ
 各瓦の出現時期と流行期についてのご指摘ありがとうございます。
 おっしゃる通りです。スパッと流行時期が切り替わるはずはありません。でも目安として示しておかないと、複数の瓦形式が併存する時期を明記することは、残存した史料からでは不可能ですから。
 この点を明記しておくべきでした。
 以下のように訂正します。
①素弁蓮華文軒丸瓦:600年より少し前に出現し、630・640年代頃まで流行。
②単弁蓮華文軒丸瓦:遅くとも630・640年ごろに出現し、670年ごろまで流行。
③複弁蓮華文軒丸瓦:遅くとも670年前後に出現した。
 ただし、前の様式の流行時期に次の様式が出現していることは確実ですが、流行の重複時期を確定する史料はありませんので、新しい様式の出現時期を「遅くとも」と表現し直しました。

服部さんへ 
 私の再検討に対して、さっそくコメント頂きありがとうございます。
 服部さんの論考が形成された過程がよくわかりました。研究史を遡ってある学説の成立過程をたどることは、歴史研究の王道だと思います。
 瓦の編年についてこの作業を地道になされていることに敬意を表します。 
 この作業はまだ道半ばのようです。今後も地道に研究を積み上げられることを期待します。
 石田氏の論考の問題点については、私も『飛鳥時代寺院址の研究』の本文・図版・総説の三つの復刻版を購入しましたので、じっくり読んで確認します。
 5の九州王朝の東遷の件。仮説との御認識なら、それはそれで結構です。ただし仮説に基づいて自分の論を組み立てて発表する際には、もとになる古賀さんの論を簡単に紹介し、この仮説を自分が支持する理由を述べたうえで、あくまでも仮説に基づいた考えであることをお示しください。
 これをしないで論じると、古賀さんの「前期難波宮九州王朝副都説」が仮説ではなく、すでに確固とした歴史認識であると、人は誤解してしまいますので。
 時間に限りのある報告や長さに限りのある論説で、これをきちんとするは大変ですが、学問的手続きですので、よろしくお願いします。
 なお「古賀大下論争」を扱った私の論文で、冨川さんの「河内戦争」論の批判もしておきましたので、ご一読ください。
 私は書紀崇峻紀の物部守屋大連の事件は近畿天皇家内の事件、そして守屋の資人・捕鳥部萬の事件は九州王朝内の事件と捉えています。理由は二つの事件を記述した文体がまったく異なるからです。守屋事件には、「朝庭」がまったく出現しませんが、萬の事件では朝庭がこれは謀反だと判断して追討軍を送ったと記されています。 したがって二つの事件は関連した一連の事件ですが、起きた場所が全く異なると考えています。
 このため冨川さんの「河内戦争」論が、古賀さんの「前期難波宮九州王朝副都説」を裏付けるものとは考えていません。
 6世紀末からの九州王朝が全国的に統一的に寺院を建立しようとしたこと(「国府寺」建立)も、17条憲法に記されたように、個々の豪族よりも上に天皇を位置づけ国土は天皇のもので、役人は天皇の臣下であると位置づけようとしたことも、のちに「大化改新の詔」(これは正木さんと同じく九州王朝の常色年間の改新の詔と考えます)で具現化された統一王朝としての倭国(すでに日本国と自称していたと考えます)像の先駆けとの服部さんのお考えは支持しますが、こうした動きを行うに際して、首都を(副都という形であれ)東に移して行ったと考える必要はないと考えます。九州の太宰府がこの事業の中心的都城として整備されたと考えることも可能です。
 服部さんが「九州王朝が日本列島を統治するのに、(自身が中国に対して経験している)冊封体制を踏襲した統治形態から、(律令政治につながる)直接統治に移行しようとする場合、自分ならどうするかと考えました」とされましたが、これは歴史研究には使うと危ない議論です。
 私はどんなにやっても当時の倭国の天皇にはなれません。だからどうしても現在の自分の恣意に基づいて考えてしまいます。
 歴史を研究するときは自分の恣意ではなく、あくまでも史料事実(文献・金石文・考古史料)に基づいて推理すべきだと思います。
 隋の南進策からの類推も同様です。それは類推でしかなく、なんら日本の史料には基づいていません。「未だ未だ立証にはほど遠いのですが、1つの視点としての仮説提案です」と言われましたが、仮説ではなく「妄想」の類です。
 今の古田史学の会系の方々には、こうした史料事実に基づかないで、類推や自分の恣意での思い付きを「仮説」と称される方がいますが、これは間違いです。類推などによる思い付きは大事ですが、それが「仮説」として成立するには、一定の歴史的史料事実の裏付けがなければいけません。そしてこの「仮説」が歴史認識となるためには、仮説を裏付けると思われる史料以外の史料との整合性が詳しく吟味されなければいけません。
 ここらあたりを是非お忘れなく。

川瀬様 追伸です。
1、「agitation」を狙ったので、各位の主張に対する賛否を(ずるいですが)保留して、その上でそれらを前提条件に話しています。「石田氏の○×が正しいとすれば」とか「石田氏の基準で言うと」とか口頭で説明してきました。皆さんに検証していただくことが目的ですので、その検証の過程で不具合な結論が出た場合に、そこに至るまでどのような前提で検証を進めてきたかを振り返って、あらためてその前提条件に問題ないかを確認していただくためです。ですから私自身もそれら前提条件を確信しているわけではありません。すべての検証が終わって、その上で妥当な結論に至ればそれら前提条件に大きな支障がなかったという感じです。
2、確信していないという点では、ここに取り上げた飛鳥寺は飛鳥寺では無いと考えています。
日本書紀の斉明「三年秋七月丁亥朔己丑(3日)、覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫、言、臣等初漂泊于海見嶋。乃以驛召。辛丑(15日)作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人。」とあります。3日に筑紫に漂泊して、15日に(飛鳥寺もしくは飛鳥寺の西で?)彼らを饗応したとあることから、この飛鳥寺は筑紫もしくはその周辺にあった。おそらく福岡県小郡にあったのではないかと正木さんからお聞きしました。
それなのになぜ飛鳥寺が奈良県にあって六世紀末の創建とされているかというと、日本書紀崇峻紀即位前「蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺。」とあって、崇峻元年(587)「壞飛鳥衣縫造祖樹葉之家、始作法興寺、此地名飛鳥眞神原、亦名飛鳥苫田。是年也、太歳戊申。」とあること、皇極紀3年正月「偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶」と法興寺に槻の木があったとあること、天武紀「六年~二月~饗多禰嶋人等、於飛鳥寺西槻下。」などで飛鳥寺に槻の木があったことから、飛鳥寺=法興寺=「奈良の飛鳥にあった」との通説が出来上がっています。
通説の根拠が槻の木と地名ですが、対して移動時間の説明の方が問題だろうと考え、わたしは九州の飛鳥寺説をとります。
しかし、この寺院名は今回の検討には関係しません。法興寺もしくはその他の名称の寺院がこの時期奈良県の飛鳥に創建されたと考えれば支障ないので、石田氏が言われる飛鳥寺の名称のまま採用したわけです。

山田様
流行様式の重複時期があるはずだとのお考えに賛同します。
しかし、具体的に重複期間の証拠を見つけるというのは余程の僥倖発見がないと難しいと思います。
そのような時期的分布を念頭において、判りやすい説明をするとこうなるという感じと思います。

服部さんへ
 追伸。ありがとうございます。
 人の主張や仮説をベースに自分の論を進める。どうしてもその主張や仮説の検証と賛否を詳しく説明するのは無理がありますね。何しろ時間もスペースも限られるので。この場合は、「詳しい検証と賛否は私の○○の論考を読んでください。基本的にはこの論は妥当だと考えています」ぐらいは言っておいた方が良いと思います。
 飛鳥寺の件。
 私も今の飛鳥寺は、もともとは「法興寺」として作られたものだと思います。たしか天武期に寺名が変えられている。おそらく九州王朝の痕跡を消す作業は天武の時からされていると思います。

○九州王朝東遷の件。
 メールにて、「この東遷の話で私は、古賀さんの論を使っていません。『全国に分布するがそれでも畿内に多い』と言う状況と九州王朝説を結びつけると九州王朝の東遷という仮説に至るという筋立てです。その裏付けとして十七条憲法を持ってきました。これら全体が今回の仮説です。」とお答えを頂きました。
 たしかに古賀さんの説を前提に議論してはいません。
 でも確実に古賀さんの説を念頭においての推論です。
 独自に飛鳥時代の瓦を研究した結果として、「600年前後に素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院が全国的に建立された」という考古的事実と、その「分布の中心が近畿である」という考古的事実。これを見出した時、「古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説」を裏付ける結果が出てきたとお考えになったことはたしかです。
 なぜこういえるか。
 第一にまだ素弁蓮華文軒丸瓦(シンプルな初期の形)をもった寺院の調査は道半ばです。徹底調査をすれば、九州や瀬戸内など九州王朝の領域にも多数出てくる可能性があります。なぜなら一元史観によって九州は畿内から遠く離れているから、同じ素弁でもずっと後世のものと判断されて、報告書などでは小さくしか扱われていない可能性があるからです。したがって分布の中心は畿内とは断定できない。これは九州王朝説に立てば当然の疑問です。
 第二に、したがって全国的な統一的仏教政策がとられたことは伺えても、その政治的中心を近畿と即断する必要はありません。九州中心、おそらくその首都は太宰府で行われた可能性もあると考えるべきです。
 それをせずにすぐに「九州王朝の東遷」の可能性のみ取り上げたということは、古賀説が念頭にあったことは確実ですから。

○崇峻紀物部守屋の事件とその資人・捕鳥部萬の件。
 「冨川さんの「河内戦争」も同じ立場だと私は考えます。」とメールでは書かれ、冨川さんも古賀説を前提にして論じているわけではないとされた。
 たしかにその通りです。
 でも冨川さんの「河内戦争論」が発表される前にすでに、古賀説は発表されています。冨川さんも独自に書紀の記事を分析していて、捕鳥部萬を反逆者と認定して追討した「朝庭」は当然九州王朝と考えられるので、この事件は九州王朝がすでに近畿の河内国にまで勢力を伸ばしていたことを示す事件だとされた。この結論以外の結論にいく可能性があります。
 それはこの事件に出てくる地名です。
 捕鳥部萬が守っていたのは守屋の館で難波にあった。そして捕鳥部萬が守屋の死を知って逃げた場所は、茅渟県有眞香邑、そして官軍に攻められて山に逃げ込んだが包囲されて死んだ。このことを朝庭に報じたのは「河内国司」。
 これらは通説でも今の近畿の河内の地名だとしてきましたが、冨川さんも同様に判断した。だから九州王朝がすでに東遷しているとの結論になった。
 だが本当にこれらの地名は畿内のそれなのか。こう疑問を呈することもできたのです。
 難波は九州の博多付近にあり長く九州王朝の都が置かれた場。近畿天皇家の有力者であれば、その九州王朝の都の地に館を持っていてもおかしくない。茅渟県有眞香邑が九州にあるかどうかは確認していませんが、「河内国」は確実にあります。「河内国」はすでに書紀宣化紀に九州王朝天子の臣下の阿蘇君の支配地域として現れています。阿蘇の近くなら、今の薩摩川内あたりでしょうか。
 と考えれると萬の死体を八つ裂きにしてさらした「八か国」も近畿の八か国ではなく、九州の九州王朝の版図の八か国と考えることが可能です。
 冨川さんがこう考えなかったのも、古賀説が念頭にあったことは間違いないと思います。
 「河内戦争論」批判は、「いかにして前期難波宮九州王朝副都説が虚妄であることに気が付いたか」との論に詳しく書いておきました。私のサイトから読めます。
 http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kodaisi.htm

「この話はブログでの主体テーマとは異なるのでメールにさせていただきます」と服部さんはメールで申されましたが、すでに公開の場であるブログのコメント欄に記されたものです。個人的にやり取りするのではなく、コメント欄で堂々と議論した方が良いと思いますので。こちらに書かせていただきました。

○34年遡りの件
 今回の議論とは少し離れますが、他のスレッドで(肥沼さんが書かれた「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究(服部さん)の宣伝で)のやり取りで正木さんや古田さんの書紀記事34年遡り説を私が否定したことに対しても、服部さんからメールで問い合わせがありました。「理由のご教示をお願いしています」と。そしてご自身がこれらの説を肯定される理由を論じたものを「未発表だが」とのことでお送りいただきました。
 この場合もたしかにスレッドの基本主題からはずれますが、公開の場で議論した方が良いと思います。
 別スレッドを立てたいときには、コメント欄に詳しく記して肥沼さんに「別スレッドで」とお願いするから、肥沼さんにメールで「別スレッドにしてほしい」とのことで詳しい文を送ればできます。
 私の正木説・古田説の批判は、上記の私のサイトから読めます。
 ○古田説に対して:「書紀持統紀の吉野行幸記事の真実」「中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への盗用について」
 ○正木説に対して:「古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について」
 です。
  
 これらの問題を議論するには、「古田史学の継承のために」のブログの方が適切だと思います。
 私の説はこのブログで大下さん・上城さんとの議論から生まれたものです。
 アドレスは: http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

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