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2018年4月29日 (日)

『古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究』要約(服部さん)4/29・30版

服部さんの古代瓦についての論文を掲載するつもりで頑張ってきたのですが,
肥沼の知識の無さと,パソコンの不調から
写真のような重いファイルを載せることが出来ず延び延びになっていました。
川瀬さんの助けを借りて,とりあえず文章の部分を掲載します。
よろしくお願いいたします。(肥沼)
 
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肥沼さんへ。
 服部さんのまとめ論文のアップに苦心されているようですね。しかもテキスト部分も。
 このコメント欄に、服部論文のテキスト部分を全部張り付けておきますので、あとでテキストだけでも作り直しておいてください。
 画像は、通信状態がよくなったら再度張り付けてください。(川瀬さん)
 
★4/29 服部論文のテキスト部分アップ 
☆4/30 画像の貼り付け
 
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『古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究』要約(服部さん)
 
1、目的
 
主に畿内の発掘成果によると、我国に瓦が伝わったのは600年前後のいわゆる飛鳥時代であって、それらは「素弁蓮華文軒丸瓦」と言われるものであって、福岡県・佐賀県の例を除いて全てが寺院建物に用いられたものとされている。
そこで、ここでは瓦を題材にして、600年前後に創建された寺院の全国分布を示し、そこから九州王朝の仏教政策を考える。
 
2、素弁蓮華文軒丸瓦とは
 
①軒丸瓦とは:右図のように軒先に瓦当部を持つ瓦で、時代により変遷する文様が描かれている。この文様で時代変遷が分かり易いので取り上げる。
②蓮華文とは:蓮の花をモチーフにした文様で、蓮弁・中房・外縁部で構成されている。中房には蓮子が配置されている。
③素弁とは:構成単位の1つの弁が複数に分かれているものを複弁、いないものを単弁と言うが、この単弁の中に子葉を持たないものを「素弁」、子葉を持つものを「単弁」と言う。ここで「素弁」を「単弁無子葉」とし、「単弁」を「単弁有子葉」としたり、「素弁」と「単弁」を分けずに併せて「単弁」とする研究者も多数いるので注意が必要である。又、拓本ではこの子葉の有無が判定しづらいので、現物や写真で判定するべきである。
 
      Photo
 
3、古代寺院の創建年代は瓦から推察される
 
石田茂作氏は(『飛鳥時代寺院址の研究』聖徳太子奉讃会 1936年によると)、出土瓦から次のような基準で古代寺院の創建年代を判断する。(ただし以下は、石田氏の基準を私なりに解釈したものです。)
①1つの寺院址に複数の時代を隔てた様式の瓦が出土するが、その内の最も古い様式=創建瓦と考える。
②飛鳥寺址出土の素弁蓮華文軒丸瓦は百済夫余出土と同形式。飛鳥寺は日本書紀より596年創建と見られることから、素弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代(600年前後)の創建と見る。
 同じ素弁であっても豊浦寺出土の創建瓦は弁に稜線のあるもので、森郁夫氏(『続・瓦と古代寺院』1993年)によると、宇治市隼上り瓦窯跡で作られたことが判明しており、その窯の出土須恵器より7世紀第1四半期とする。
③山田寺は日本書紀から641~643年の建立と見られる。ここから単弁蓮華文軒丸瓦が出土する。単弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代末(7世紀中葉)の創建と見る。
④川原寺、法隆寺西院で複弁蓮華文軒丸瓦が出土している。石田氏は後者を飛鳥末、前者を白鳳時代とし、複弁軒丸瓦は時代をまたぐ(7世紀後半)様式と見る。
⑤ただし、同じ素弁蓮華文軒丸瓦であっても新しいものがある。右図のように時代が下る素弁軒丸瓦は、外縁が幅広・外縁に珠文や唐草文が入る文字が入るなど、装飾的に変化していることで判別できる。
 
       Photo_2
 
4、中国における瓦の変遷(『古代造瓦史-東アジアと日本-』山崎信二2011年による)
 
(1)殷の時代に礎石建物が出現していたが、瓦の発明は未だなかった。
(2)西周(BC11~10世紀)時代の瓦が発掘されている。陝西省岐山県鳳雛遺跡(平瓦)
(3)西周中期(BC10~9世紀)丸瓦が加わる。陝西省扶風県召陳遺跡。素文・重環文
(4)春秋(BC8~)時代には半瓦当が出現する。陝西省鳳翔県雍城の馬家庄遺跡
(5)戦国時代、半瓦当で樹木双獣文、樹木文と円点文・渦巻文があらわれる。山東省臨淄県臨淄城出土
(6)秦・漢時代、雲文・文字文(富貴万歳・延年益寿・長楽未央)があらわれる。櫟陽宮・未央宮・桂宮・漢杜陵陵園出土
(7)五胡十六国(4~5世紀)時代、日・月・星辰や樹木・蓮弁状の文様があらわれる。鄴北城出土
 ここで、それまで漢民族が長期に使用した雲文を廃し、遊牧民が敬う文様を採用された。
(8)北魏Ⅰ期(~5世紀中葉)、文字文(萬歳富貴)。
(9)北魏Ⅱ期(470・480年代)、文字文(傳祚無窮)、蓮華文・複弁蓮華文が出現する。中房は半球状で
外区に珠文帯を有するものもある。雲崗。(北朝ではこの時期に蓮華文が発生したと考えられる)
(10)北魏Ⅲ期(491~493年)、獣面文が新たに加わる。北魏洛陽城。
(11)北魏洛陽期前半(493~515年)、複弁蓮花文・獣面文など。北魏洛陽城1号房址出土。
(12)北魏洛陽期後半(516~534年)、獣面文・素弁/複弁蓮華文・忍冬文など。永寧寺。
(13)東魏(534~577年)、ほとんどが素弁蓮華文に統一されている。鄴南城・鄴北城。
⑧ 南朝、雲文および人面文は呉から西晋(229~316年)、獣面文は東晋時代にあらわれる。
 ⑨ 南朝宋(420~479年)間弁の表現が入念な素弁蓮華文 南京三山街・鐘山南朝祭壇遺跡。(南朝では
この時期に蓮華文が発生したと考えられる)
 ⑩ 南朝梁(502~557年)蓮弁を縁取りするもの、外縁に唐草文を入れるものが多くなる。弁端切込式
もあらわれる。蕭偉墓闕遺跡。
 ⑪ 南朝陳(557~589年)弁端が針状になり間弁がT字形に簡略化するもの、蓮弁の端が切込んで間弁
が扇形になって蓮弁の輪郭線とつながるものが主体。
(14)隋(595~618年)有子葉の単弁・複弁蓮華文、外区内縁に珠文帯と蓮弁の間に界線をもたない。
珠文数が40を超えるものも。仁寿宮(九成宮)。
(15)唐(630~650年)複弁蓮華文、外区内縁の珠文帯と蓮弁の間に界線があるもの。九成宮。
 
       Photo_3
 
5、百済における瓦の変遷(『百済軒丸瓦の製作技法』亀田修一氏(「古代瓦研究Ⅰ」奈文研2000年による)
 
(1)百済では漢城時代(~475年)に瓦の使用が始まる ソウル石村洞4号墳・夢村土城
(2)512年公州宋山里6号墳出土文様塼に「梁の官瓦を以て師となす」とヘラ描きがある。
(3)527年創建の公州大通寺と同文の鳳凰洞出土・扶余双北里寺跡・軍守里寺跡出土瓦がある。
(4)扶蘇山城出土の素弁蓮華文軒丸瓦は、倭国へ崇峻元年(588)に瓦博士が伝えたものと考えられる。
(5)600~632年、武王が南方へ勢力拡大するため発展させた益山地域は、別都説・副都説もある。
    蓮弁の端が切込み蓮子配列が二重になった蓮華文:王宮里寺跡や、弥勒寺跡、
    忍冬蓮華文:帝釈寺跡、蓮弁に稜線を入れるもの:金剛寺跡などが出てくる。
(6)660年滅亡の頃、中房の周りに蘂(しべ)を表現したもの:県北里瓦窯跡が出てくる。
 
        Photo_5
 
 以上から、亀田修一氏(上記文献)は「6世紀代のシンプルで整った素弁蓮華文が、600年前後を境にして、蓮弁や中房に変化が起こった。」とする。
また、山崎信二氏(『古代造瓦史東アジアと日本』によると)は「弥勒寺造営最終段階(624~635年)に至って、百済瓦としては、意匠上の大変化がある。」とする。
 
6、中国から百済さらに倭国への瓦の伝播・変遷
 
(1)中国殷の時代に礎石建物、周の時代に瓦が発明される。
(2)南朝宋(5世紀)に素弁蓮華文が出現し、東魏(534~577年)ではほとんどが素弁蓮華文になる。
(3)隋(595~618年)以降、単弁・複弁蓮華文、加えて珠文など装飾が入る。
(4)百済では(5世紀後半)瓦の使用が始まり、6世紀には南朝梁を手本に素弁蓮華文の時代となる。
(5)7世紀前半に素弁蓮華文に意匠上の大変化が起きて、忍冬文・蓮弁に稜線など装飾的になる。
(6)倭国では、素弁蓮華文(600年前後)⇒単弁(7世紀中葉以降 ⇒複弁(7世紀後半以降)と変遷する。
 
7、ここで素人ながら、現在の考古学者による素弁蓮華文軒丸瓦の編年について異議を唱える
 
 ①「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土すれば600年前後の創建する見方は浸透しているが、例えば奥山久米寺出土
瓦は稜線入りの素弁であるが、森郁夫氏(『続・瓦と古代寺院』1993年)によると「ここでは複弁が主要瓦であって、これが藤原京と同范瓦もあることから7世紀末とする」。前者の7世紀第1四半期と後者藤原京の複弁では半世紀のズレがある。一般的な瓦の耐用年数(50~100年)からみて、前者の時期に規模は別にして、(石田氏の基準のように)その地に寺院の創建があったとするべきである。
 ②同じ「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土しても、出土地が例えば武蔵であるとか九州であるとかの場合、地方だ
から遅れて伝播したとする見方がある。武蔵国分寺で学芸員の方から私はこのような説明を受けたし、又石田茂作氏は(『東大寺と国分寺』1996年)「素弁蓮花文は我が飛鳥時代の美術に最も多く用いられ、従ってそれは又飛鳥時代古瓦の一特徴でもあったが、白鳳時代以降漸く少なくなった。しかし、その系統を継ぐものは国分寺古瓦中にもなお若干認められる。(出土例として、伊勢・尾張・遠江・駿河・甲斐・伊豆・武蔵・安房・常陸・美濃・信濃・上野・下野・陸奥・佐渡・伯耆・播磨・美作・備後・周防・讃岐・筑前・豊前・肥後・日向・大隅の28寺を挙げている)畿内に皆無で東海・東山に多い事は(中略)奈良時代当時における、文化状態を考える為の好資料ではあるまいか。」と言う。要するに、地方だから遅れて伝播したという考えであろう。
 しかし、右図のようにこの蓮華文様は大胆にデフォルメされたデザインで、実際の花を見て万人が決して同じ文様を作れないものであることは自明である。工人や見本が無ければ再現できないものを数十年を隔てて、どのように地方に伝わったのか、しかも広範囲に、という点
 
       Photo_6
 
は説明不能であろう。ファッションであれば、リバイバルという見方はあるが、その場合はその時代の感覚を入れての再現であるので、3-⑤で示したように変化がある(シンプルな素弁が時代を経て装飾的に変化する)のである。つまり、シンプルか装飾的かの見極めが大事であって、シンプルな素弁蓮華文軒丸瓦が出土すれば、それが地方であろうと、600年前後の創建と考えるべきである。
 ③大野城はじめ太宰府や豊前で発掘された素弁蓮華文軒丸瓦は、(日本書紀によると)大野城は百済滅亡の前後に倭国にやって来た百済人の技術で作られたとあるので、600年前後では無くて660年以降から7世紀末のものとする見方がある。しかし、百済では7世紀前半に素弁蓮華文に意匠上の大変化が起きて、忍冬文・蓮弁に稜線など装飾的になっているわけである。7世紀初頭のシンプルな素弁蓮華文がなぜ半世紀を隔てて百済人によってもたらされたのかの説明が必要である。その説明ができなければ、やはりここでも600年前後のものと解釈せざるを得ない。
 
8、素弁蓮華文軒丸瓦の全国分布
 
 石田氏が『飛鳥時代寺院址の研究』の中で、日本書紀推古32年(624)の「寺及僧尼をかぞえて、つぶさに其寺所造之縁をしるし、亦僧尼の入道之縁及び得度之年月日をしるす。是時にあたりて寺卌六所有り、僧八百十六人・尼五百六十九人、併せて一千三百八十五人有り。」の記事の46所寺院を目安に調査されたのは、戦前のことである。それ以後考古学の成果は積み重ねられていると考え、併せて先に示した基準で調べたところ、一覧表に示すように、初期の「素弁蓮華文軒丸瓦」を持つ全国の「寺院」は74寺、加えて「寺院以外」の遺跡が、福岡県佐賀県に計8件となった。地図上に表記するとこれらは全国に分布するが、まだまだ奈良県・大阪府に圧倒的に多い。これは考古学の素人(私)が短期間に調べたものだが、この見方で調査を続けると更に増えるのではないかと考える。
 
        Photo_4
 
9、素弁蓮華文軒丸瓦の全国分布より九州王朝の仏教政策を考える
 
 素弁蓮華文軒丸瓦の寺院が建造された時期、つまり600年前後は、倭国が大業3年(607)遣隋使で「聞海西菩薩天子重興仏法 故遣朝拝 兼沙門数十人求学仏法」と新しい仏教を取り入れようとした時期に一致する。この新しい隋の仏教は「天子が菩薩となって民を導く」という国家仏教である。一方先にその分布を示すように、6世紀末~7世紀初頭にかけて同じ文様の瓦を持つ寺院が、全国一斉に建造されたわけで、これらは国家権力による意図的政策と考えるのが妥当である。
 これを私は、九州を本拠地にしていた倭国が、その時期に全国直轄統治のため東進を行なおうと、国家仏教をひっさげて行った事業であるとの仮設を立てた。
 この点については、「古田史学会報」№145に掲載の『十七条憲法とは何か』を参照ください。
 
※服部さんの論文の項目7が二か所あったので、8・9と訂正しておきました。
 行替えや文頭の空白など、直しておいてください。

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コメント

肥沼さんへ
 服部論文の掲載。御疲れ様でした。ワード文書をテキスト化することと、文書の中の画像を保存する技術を身に着けないといけませんね。
 
 この服部論文をよく読むと、多元的古代研究会の研究報告とは少しことなり、加筆訂正されていることがわかります。
 それは私が批判した「石田論文の現在における位置づけ」であり「素弁蓮華文軒丸瓦を持つ国分寺の例の検討」です。また「素弁瓦を持っていても600年前後とされずずっと後世の寺院と判断した理由の批判」も少し詳しくなっていますね。そして最後の「九州王朝の東遷」が大幅カットされています。ここは古賀さんの前期難波宮九州王朝副都説を基礎にした仮説だからでしょう。
 この要約が当初の報告と違うことも含めて、服部論文の私の評価を文にしますので、のちほどこのブログへのアップをお願いします。
 服部論文の歴史的性格は、素弁蓮華文軒丸瓦をもった寺院の年代を、これが発見されている飛鳥寺の書紀による創建年代を基礎にして、600年前後としたところに一番の価値があります。そして国分寺の中に30寺もこの瓦をもった物があることから、国分寺の創建は600年前後と確定でき、これは聖武詔で作られた寺院ではなく、もっと前、九州王朝の時代に全国的に一斉に作られた国立寺院であることを意味します。要するにこの寺院は私たちが想定してきた「国府寺」です。
 このため600年前後に九州王朝は、全国的に同じ仕様での国立寺院を国府に建設したことが明らかになり、このような宗教政策をとったことの歴史的意味が問われることになります。
 ただいくつか問題点がまだ残っていますので、ここも含めて評価したいと考えています。

 もう一つ。肥沼さんに宿題。
 肥沼さんの国分寺悉皆調査で出てきた、素弁蓮華文軒丸瓦が出土した国分寺のリストと、服部さんの要約論文で石田氏が挙げた国分寺リストが一致しません。石田氏が挙げた寺院の数の方が多いのです。二つを比較してみて、悉皆調査で素弁瓦がでていないと肥沼さんが判断した寺院で、石田氏が出土しているとした国分寺を確認し、再度手持ちの資料で本当にそうなのか再確認してください。
 これをやっておくと、「瓦と伽藍配置で見た、国分寺の全国分布」図を作ることができ、今後の国分寺の一つ一つの再調査に役立ちますので。
 よろしくお願いします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  服部論文の掲載。御疲れ様でした。ワード文書をテキスト化することと、文書の中の画像を保存する技術を身に着けないといけませんね。

ご指示に従ってやったつもりだったのですがうまくいかず,
送っていただいたものは短時間でできました。
今回の服部論文の場合は,最初からその方法が良かったかもしれません。
もちろん私も出来るようにはなりたいです。
(パソコン操作は,わからないまま時間が経つので,精神上良くないです)

〉  もう一つ。肥沼さんに宿題。
 肥沼さんの国分寺悉皆調査で出てきた、素弁蓮華文軒丸瓦が出土した国分寺のリストと、服部さんの要約論文で石田氏が挙げた国分寺リストが一致しません。石田氏が挙げた寺院の数の方が多いのです。二つを比較してみて、悉皆調査で素弁瓦がでていないと肥沼さんが判断した寺院で、石田氏が出土しているとした国分寺を確認し、再度手持ちの資料で本当にそうなのか再確認してください。
 これをやっておくと、「瓦と伽藍配置で見た、国分寺の全国分布」図を作ることができ、今後の国分寺の一つ一つの再調査に役立ちますので。
 よろしくお願いします。

はい,わかりました。にわか引越しには「5月半ばまで」という締め切りがあるので,
それをやりつつ作業を行っていきたいと思います。分布図作りはぜひしてみたいです。

肥沼様
ご指摘の通り28寺は数え間違いで、26寺が正しいです。すみません。
ここで、26寺と言うのも鵜呑みしないで、疑問の目で見てください。
石田氏が著作の中で示している図は、例えば、下野国分寺は忍冬文があり、常陸国分寺・美濃国分寺・伯耆国分寺は珠文があるなど、明らかに後代の(装飾的な)素弁です。しかも拓本なので判りにくいものです。これらの寺院には著作に示された以外の素弁が無いのかも含めて、現物もしくは写真で確認しないときちんとした考察はできません。
肥沼さんが引用されている文献で判りやすい写真があるなら、そちらを優先願います。確実なもの、今後再確認が必要なものと注記付きでの考察をお願いします。

川瀬様
「多元的古代研究会の研究報告とは少しことなり、加筆訂正」があるのは、口頭で説明させていただいた所を必要最低限加筆いたしました。十七条憲法と九州王朝の東進の話は、前者は会報に掲載いただいたので省略、後者は皆さんのご興味の範囲外だと知りましたので割愛しました。
決してこれら仮説を取り下げたわけではありません。ただし立証できたとは思っていないので、引き続きこれらの仮説の立証をはかっていこうと詰めの作業を行っています。

服部さんへ
コメントありがとうございます。

では,26寺より少ないかもしれないということですね。
私の悉皆調査とあまりにも数が違うので,
ショックを受けていたのでした。
もっともこちらもすべてが写真という訳ではありませんので,
そこが難しいところです。

服部さんへ
 「要約版」での加筆・削除のご説明ありがとうございます。

肥沼さんへ
 服部さんの御説明で、石田氏の本での「素弁」の扱いの内容が分りました。明らかに後代のものも含んでいるのですね。
 石田氏の『東大寺と国分寺』の本もネットで手に入りますので(500円から1000円くらい)、これも手に入れてしっかり確認することが必要ですね。
 あと「夢ブログ」の「石田・地図」のコメントに書いておきましたが、肥沼さんのお持ちの資料以外に、実際の発掘報告書で確認する必要も出てくるかと思います。
 まああせらずじっくり時間をかけていきましょう。
 この報告書確認は、あとで国分寺を一つ一つ確認する作業に入ったときにやればよいかもしれません。まずは全体状況の確認だけに止めておいて。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

600円くらいだったので,『東大寺と国分寺』はすでに発注いたしました。
逆に『飛鳥時代寺院址の研究』は6万円ということで遠慮しました。
国分寺関係の研究書の時は頑張ったので,
今回は服部さんにお任せするということで・・・。

肥沼さんへ
 『飛鳥時代寺院址の研究』ですが、「日本の古本屋」で検索すると一番安いのは9200円(昭和19年版)、13000円(復刻版)でした。
 サイトアドレスを載せておきます。
 https://www.kosho.or.jp/products/list.php?transactionid=ad2e3c0826a846ca967212427b27eadd4fc1db4a&mode=search&search_only_has_stock=1&search_word=%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E6%99%82%E4%BB%A3%E5%AF%BA%E9%99%A2%E5%9D%80%E3%81%AE%E7%A0%94%E7%A9%B6

 アマゾンの古書はバカに高いです。日本の古本屋の方が安いものが多いです。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

13000円のものを買うことにしました。
何でこんなに違うのでしょうね?

肥沼さんへ
 アマゾンの古書店は出店料金が高いので、全体的に高くなるのだと思います。
 あとは値段をつける古書店主の主観。
 古代史関係を専門としていない店主だと、かつての定価の半分という古書の値段の基本の値段に近い値段にすることがあります。ちょっと古代史に詳しい人だと、「これは希少本だ」と判断して高めに設定する。
 大量に古書を購入して大量販売する古書店は、他よりも少し安くなります。在庫を減らしたいから。薄利多売ということでしょうか。
 神田は比較的高いです。神田でも神保町から少し離れた御茶ノ水近辺は少し安いです。
 そして都内でも神田以外はかなり安くなり、地方に行くほどに安くなります。やはり古書を求める人口が多いかどうかでしょうね。
 今はネットで全国どこでも古書を変えるのに、面白いですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 今はネットで全国どこでも古書を変えるのに、面白いですね。

本当ですね。
前に「国分寺関係の本たち」の時も大枚を投じましたが,
その甲斐あって「いつでも論文を見られる」という環境を来ることが出来ました。
今回の『飛鳥時代寺院址の研究』は,最初「6万円」で断念しそうになったので,
川瀬情報の「13000円」がとても安く感じられました。

肥沼さんへ
 服部さんの論文の再検討した小論を書きました。ただしまだスライドの再検討です。以下に張り付けておきますので、別スレッドにして公開してください。

●服部氏の「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」の再検討

   川瀬健一

 多元の会の4月例会で服部氏が発表した「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」はとても意欲的な労作で、その検討結果として、600年前後創建と見られる「素弁蓮華文軒丸瓦」を持った寺院が全国に多数みられることを確認し、これは国家的事業ではないかとしたことは、「九州王朝」史を考える時に画期的なものと思う。
 しかしいくつか論を進める上での問題点も見られ、さらに論究が不十分なところも見られるので、以下に、服部氏の論の再検討を行う。
 ※この再検討は、服部氏の当日の発表で使われたパワーポイント資料を基に再検討したものである。後に服部氏が作られた要約がパワーポイント資料とは多少加筆修正されており、さらにスライド38番以後の問題は「要約」からは削除されている。このため「要約」だけ見ていると、以下の再検討は理解できなくなる。「要約」についての再検討は後に行う。

★研究姿勢の問題点

1:研究の基礎を、石田茂作著『飛鳥時代寺院址の研究』聖徳太子奉讃会 1936年(1977年復刻)に置いている。
 なぜこれほど昔の著作を基礎に据えたのか。すでに80年前の物。その後の研究の進展でこの石田氏の認識に修正なり批判が加えられているはず。
 ここを確認する必要がある。
 つまり石田氏の論考の研究史上の位置づけが不明瞭なのだ。

2:石田氏が特定の寺院を飛鳥時代創建と判断した基準があるはずだが、なぜ「石田氏自身の基準」を紹介せずに、それを服部氏が自分なりに解釈した基準を紹介しこれを考察の基本とするのか。
 石田氏の基本を示しそれを批判して新たな基準を示すのが学問ではないのか?
 この手法では服部氏の理解・解釈が正しいかどうかをこの論考だけでは判断できず、石田氏の著書を読む必要が出てきてしまう。
 もちろん再考するに際して原典にあたるのは基本だが、原典を引用しておけばその手間が省けることも事実である。原典の記述の簡明な引用とその記述がある原典のページ数も提示しておくことは、学問上の作法である。こうして初めて、服部氏の論を、他の人間が再検証することが可能になるからである。
 同じ疑問を古賀氏や正木氏の論文でも感じたことがある。

 ※以上は服部氏の手法についての疑問点。
 
★研究報告の内容の可否

1:その上でこの石田氏の基準の判定は?(実態は服部氏の理解であるが)

 ①1つの寺院址に複数の時代を隔てた様式の瓦が出土するが、その内の最も古い様式=創建瓦と考える。
  ※これは妥当である。出土物の中の最も古いものをもってその遺構の初源の時期を判断するのは考古学の常道である。

 ②飛鳥寺址出土の素弁蓮華紋軒丸瓦は百済夫余出土と同形式。飛鳥寺は日本書紀より596年創建と見られることから、素弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代(600年前後)の創建と見る。
  ※これも妥当である。遺物単独では絶対年代は得られない。飛鳥寺は日本書紀で創建年代がわかっているわけだから、この年代比定は妥当である。

 ③山田寺は日本書紀から641~643年の建立と見られる。ここから単弁蓮華紋軒丸瓦が出土する。単弁軒丸瓦が出土すれば飛鳥時代末(7世紀中葉)の創建と見る。
  ※山田寺から出土する瓦のもっとも古い様式が単弁蓮華紋軒丸瓦であるのならば、この年代観は妥当であるが、ここが明示されていない(石田氏の判断も明示されていない)
 ※調べてみた所、「出土する瓦は単弁八葉蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦の組み合わせからなる『山田寺式』と呼ばれるもので、各地の古代寺院から同種の瓦が出土し、建築年代を推定する指標となっている。」とのことなのでこの判断は妥当である。

 ④川原寺、法隆寺西院で複弁蓮華紋軒丸瓦が出土している。石田氏は後者を飛鳥末、前者を白鳳時代とし、複弁軒丸瓦は時代をまたぐ(7世紀後半)様式と見る。
 ※川原寺は書紀に創建年代が不記載。ということは九州から移築された可能性あり。したがって創建年代は出土した瓦では判断できない。出土瓦は移築された年代を示すだけ(『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を載せているが、「川原寺跡からの出土遺物(瓦など)の年代から見て、そこまでさかのぼるとは考えられない。」とされている)。法隆寺西院も移築された寺院なので出土瓦は移築された年代を示すだけ。川原寺式瓦の模様は複弁蓮華文(ふくべんれんげもん)とよばれ,蓮の花を真上から見たものがデザインの基になっている。真ん中に1個,その周りに5個,さらにその周りに9個の蓮子(種子)が描かれている。
 石田氏の川原寺の複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀後半との判断は書紀記述によるもの(天武期に重用される。斉明の川原宮は655年。)。
 したがってこのころ(天武期)には「移築された」と判断すれば複弁蓮華文軒丸瓦は7世紀後半との判断は妥当である。
 だが法隆寺西院はどうか。
 すでに若草伽藍が発見され、これが法隆寺の創建伽藍で670年に炎上したとの記事が書紀にある斑鳩寺と考えられるので、現在の法隆寺西院はこれ以後のものであるので、石田氏が、法隆寺西院の複弁蓮華文軒丸瓦はこのころとしたのは妥当である。しかし九州王朝論からすれば西院は九州の寺院の移築であるのでこれも移築年代を示すに過ぎない。そして西院がいつ移築されたかについては異論がいくつも出されているので7世紀末とは断定できない。

 さらに九州王朝論からすれば仏教が最初に普及したのは九州であるから、それぞれの軒丸瓦の出現も近畿より九州の方が少し早い。
 服部氏もこう考えたに違いない。だからそれぞれの瓦の年代指標となる寺院の建立年代よりも少し前にその瓦の出現時期を設定している。これは妥当と思われる。
 そしてそれぞれの瓦が流行した時期は、次の瓦の出現時期ごろまでと限定できる。
 したがってそれぞれの瓦の出現時期と流行時期を明記すれば以下のようになる。
 ①素弁蓮華文軒丸瓦:600年より少し前に出現し、630・640年代頃まで流行。
 ②単弁蓮華文軒丸瓦:630・640年ごろに出現し、670年ごろまで流行。
 ③複弁蓮華文軒丸瓦:670年前後に出現した。
 この最後の複弁蓮華文軒丸瓦の流行時期は、服部論文では明らかになっていない。なぜならば次に流行した軒丸瓦のことがまったく記されていないからだ。
 でもこれは調べてみればすぐにわかる。
 鎌倉時代以後は巴文を付けた軒丸瓦が流行しているのだから、蓮華文自体が平安時代までということだ。
 すなわち複弁蓮華文軒丸瓦の流行時期は平安時代までなのである。
 このそれぞれの蓮華文軒丸瓦の出現から流行の時期の確認は重要である。
 なぜならそれぞれの軒丸瓦を持った寺院の創建がその始まりの年代に限定されると即断してしまう危険があるからだ。一つの瓦には流行時期があるという想定は重要だ。
 現に肥沼さんは、蓮華文軒丸瓦を持っていればどれでも西暦700年よりも前の創建なのだから、すべての国分寺は全部700年以前の創建になり、これは全部、聖武の詔で作られたものではなく、すべて前王朝の九州王朝創建の「国府寺」だと驚喜した。これは誤った理解を生み出す。

2:したがって「素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院は600年前後の創建」とした服部氏の判断は妥当である。そして石田氏が見出した飛鳥時代の寺院58寺からこの瓦を出土した寺を抽出し、奈良25・大阪11・京都2・三重1・愛知3・岡山1・愛媛2・大分1の合計ぴったり46寺とし、これなら書紀推古紀の32年(624)の寺院数46に相当すると石田氏が判断したのも当然である。
 だが服部氏はここに安住せず、これ以外に素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院はないのかと探索を進めたことも妥当である。なぜなら石田氏の研究は戦前のもの。戦後の国土開発で膨大な数の古代寺院遺跡が出現しているはずだから、素弁軒丸瓦を持つ寺院はもっと多くなっていると考えられるからである。

3:次の中国百済の瓦の変遷の検討から言えることは、倭国の素弁蓮華文軒丸瓦は、中国なら南朝系で韓国なら扶余系だということ。北朝系は単弁・複弁。此処を指摘しておく必要があったと思う。
 つまり北朝系である単弁と複弁が出てきた7世紀中ごろ以後は北朝である隋・唐の影響が直接入ってきていることを指摘して置いても良いと思う。

4:ところが現在の考古学会では、素弁蓮華文軒丸瓦は畿内で発生したと考えられ、地方のものは、伝わるのに時間がなかったから後の物とか、後の時代になってからのリバイバルと判断されて600年前後の創建の寺院とは判断されていないと、服部氏は指摘した。
 この指摘は重要である。
 つまり後世の装飾的になった素弁蓮華文軒丸瓦を除き、単純な素弁蓮華文軒丸瓦が出土した場合には、考古学の原則に乗っ取るならば、それは皆、600年前後の創建の寺院と判断すべきなのだ。だが現在の考古学会はそれをしていない。
 なぜならば、6世紀もしくは7世紀に、日本列島全体に統一的な基準で寺院が建立されたことを裏付ける記事が、「日本書紀」にはないからである。日本の史書にこの列島全体に統一的な基準で寺院が建立されたことを示す記事は、「続日本紀」の聖武天皇の「国分寺建立の詔」(天平13年・741年)が初めてだからである。
 だから素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院が通説で日本の中心とされてきた近畿地方以外でみつかった場合には、流行時期が地方なら遅れると考えて、その寺院の創建年代を600年前後よりもあとに想定しているし、国分寺の場合では、741年以前の創建は考えられないとして、素弁蓮華文が出土した場合には、後の時代になってからのリバイバルであると考えることが通例で、国分寺の前に、そこにはその前身寺院となる600年前後の創建の素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院があったとは捉えられていないのである。
 そして実は国分寺にも多くの素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているので、この従来の考古学会の素弁蓮華文軒丸瓦の年代観を批判することは、多元史観からの国分寺研究にとっては不可欠だからである。だから詳細な批判が不可欠である。
 できれば原典に即して、それぞれの寺院の創建年代が如何に判定されているかを詳しく述べて欲しかった。そうすることで従来の考古学の年代観の可笑しさが浮き彫りになる。この点で、33・34・35のスライドの記述は不十分である。
 研究論文として発表される際には、ここをもっと精緻に批判検討することが不可欠である。

5:服部氏が素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院を調べた結果は、初期の「素弁蓮華文軒丸瓦」を持つ全国の「寺院」は74寺。そしてこれは服部氏の眼にとまったものだけなのだから、もっと多くの寺院がある可能性をしめし、服部氏の調査結果はまだ近畿中心の分布だが、もっと多くの寺院を調べれば、九州や瀬戸内・山陰、さらに東海・北陸・関東にも素弁蓮華文軒丸瓦をもった寺院があった可能性を示している。
 つまり600年前後に全国一斉に素弁蓮華文軒丸瓦をもった寺院が造られた可能性を示している。そしてこのことは国家的事業ではないかとの服部氏の推定は妥当である。
 またこのことは、先の書紀推古紀32年の寺院数46をはるかに上回る結果であることから、この推古紀寺院数の意味が再検討されるべきことも明らかである。つまり推古紀の46との寺院数は、どの地域の寺院の総数なのかということだ。
 従来はこれは全国の寺院数と考えられた。だが服部試案を元にすれば、全国の半数ほど。
 これは一体どこの寺院数なのか。
 この問題は「日本書紀」という史書の性格に直結する。
 九州王朝説にたてば、推古紀32年の寺院数は、近畿天皇家の畿内の寺院数を意味するか、もしくは同時代の九州王朝の畿内の寺院数を意味するか、このどちらかである。
 加えて「寺院以外」の遺跡が、福岡県佐賀県に計8件。この「寺院以外の遺跡」を良く見ると、「大宰府政庁Ⅰ期政庁跡」「大野城」「基肄城」が主な地点。すなわち九州王朝の中枢の建物である。現在の考古学者は「百済滅亡ともに百済人によって伝えられた」とか「畿内の素弁瓦が時代を経て九州に伝えられた」とかの判断らしいが、ここはもっと批判しても良いのではないか。
 つまり大宰府Ⅰ期政庁の創建年代を600年前後。さらには大宰府を守る山城の創建年代も600年前後と、通説をかなり遡る可能性があることも指摘しておいてよい。


6:「素弁蓮華文軒丸瓦が出土する寺院は600年前後の創建」とすれば、全国同時期に圧倒的な勢いで寺院が建立された可能性があると結論できる。
 特にその中に「武蔵国分寺」の例があるが、服部氏はまったく言及していないが、これは「武蔵国分寺」の創建が600年前後であることを示しており、この寺が九州王朝創建の「武蔵国府寺」であった可能性を示唆している。
 そして武蔵国分寺についての文献を渉猟してみればわかることだが、ここで素弁蓮華文軒丸瓦が出土するのは、創建伽藍と考えられる建物の軸が真北を向いた塔の周辺と、その北にある同じく創建伽藍の一部と考えられ「国師」館と考えられている建物周辺にしかでないことがわかる。そしてこの創建伽藍は完成しないうちに中止され、その西に伽藍軸が西に7度ぶれた形の新たな伽藍が創建され、ここからでる瓦は単弁であることも記されている。
 そしてここから出る複弁の瓦は皆、平安時代に焼けたあとの再建寺院のものと判断されている。
 つまり武蔵国分寺は元々九州王朝の「国府寺」として発足し、それも一度計画変更がなされ、そののちに聖武詔によって武蔵金光明寺と寺名変更と塔の七重への改築がなされ、後には「武蔵国分寺」と改名されたことがわかるのだ。
 この視点を入れ、全国の「国分寺」に「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土していないかどうか調査すると、次のスライド38番以後の九州王朝の仏教政策の展開に直接この前半の論考がつながったのではないだろうか?
 つまりスライド43の「国家権力の意図的政策」との推定の根拠になったものと思う。

★研究報告全体の構成

1:スライド38番以前と以後とは別の論考として区別すべし。
2:スライド41で遣隋使で倭国が隋に多数の学僧を送っている時期と素弁蓮華文軒丸瓦をもつ寺院が全国に作られた時期が一致しているとの指摘。この指摘は妥当。隋を睨んでの国家政策との判断だ。
3:スライド42でこれを元に倭国が全国を直接統治するために東進との仮説を示したが、これは勇み足。
 これは古田史学の会会長古賀氏の前期難波宮九州王朝副都説を前提にした仮説。
 前期難波宮九州王朝副都説を前提としなくても、600年前後に全国に素弁蓮華文軒丸瓦を持った寺院が多数創建されたことは、隋に対抗して倭国が、全国の直接統治に手を付け始めたと解釈することは可能だ。そしてその首都は太宰府と考えることも可能である。

4:スライド44・45で17条憲法が倭国の全国直接統治の先駆けとなっているとの指摘は妥当。この憲法の精神を制度として制定したのがいわゆる大化改新の詔だ(ただしくは常色の改革とした正木説も妥当)。
 この場合の九州王朝の全国直接統治の拠点は太宰府で良い。そして全国直接統治と言ってもまだこの時期は九州王朝の直轄地(九州王朝の固有の版図と、他の分王朝内にある九州王朝直轄地=屯倉)の範囲だけだと「大化改新の詔」の分析から、私はこう考える。

★結語
 以上雑駁だが、服部氏の所論を再検討してみた。
 結論として立論の不十分さや論究の不十分さが見られるものの、従来の考古学者が畿内中心で瓦の分布を解釈してしまう一元史観にとらわれていることを指摘し、これを外して考えれば、600年前後に全国的に統一的仕様で(ここでは素弁蓮華文軒丸瓦。これ以外に伽藍形式も想定できる)寺院が一斉に多数作られた可能性があり、これは対隋を睨んでの、九州王朝・倭国(すでに日本国と自称していたはず。推古朝の近畿天皇家はすでに自国を倭国と自称していたのだから)の全国直接統治に向けた政策であった可能性を指摘したことは、注目に値する。
 さらに事例を増やして論を補強することが求められる。(2018年4月11日筆・5月3日加筆))


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