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2017年2月26日 (日)

「信濃国分寺」の伽藍配置は?

長野県上田市のYさんより,
「地元の上田市にある「信濃国分寺」は何伽藍配置か?」
というご質問をいただきました。
これっていわゆる東大寺(国分寺)式ってやつでしたっけ?
山田さんと連絡を取りたいということでしたが,
ちょっと失念してしまいましたので,「夢ブログ」に書きますね。
 
 
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kokubunji/park.htm
 
※ 「肥さんの夢ブログ」より,こちらのサイトに引越いたします。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

「肥さんの夢ブログ」の方に載ったコメントを,
こちらに引越します。
日時も載っていた方がいいので,
コピー&ペーストでやります。(肥沼)

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Yさんへ

次のように題して、多元的「国分寺」研究サークルのコメントとして書いたものを、肥さんが記事として載せてくれた拙稿に、信濃国分寺の現地説明板(Wikipediaの引用)と資料館ホームページの説明文に対する批判が入っています。その部分を抜粋して転載します。
「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―
(抜粋)
「信濃国分寺跡
国分寺(僧寺)跡は現国分寺の南方に位置する。寺域は東西176.56メートル、南北178.05メートル(約100間四方)。金堂、講堂、中門、塔、回廊、僧房の跡が確認され、南大門の位置も推定されている。伽藍配置は中門、金堂、講堂を南北一直線に配置し、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。塔は回廊外の南東にあった[6]。」
〔この注[6]は「現地説明板」と記されている。ゴチック(字体)は山田によるもの。〕
こちらは、信濃国分寺資料館ホームページ(museum.umic.ueda.nagano.jp)の「信濃国分寺史跡公園ガイド」で同じ信濃国分寺跡だ。
「伽藍配置は、中門・金堂・講堂が南北一直線にならび、中門と講堂を回廊でつなぎ、さらに、塔を金堂の南東に置く、東大寺(国分寺)式といわれる様式です。」
現地説明板の説明の方は、信濃国分寺が東大寺式かどうか以前に、「東大寺式」の認識に誤りがある。東大寺の回廊は金堂(大仏殿)に取り付いており、講堂ではない。回廊内には伽藍はなく、信濃国分寺の回廊内には金堂が存在する。それとも東大寺の金堂に取り付いている回廊を藤原京大官大寺の中央回廊に見立てているのか。藤原京大官大寺の金堂に取り付く回廊が「中央回廊」と言われるのは、中央回廊の北側の回廊内に講堂が南側の回廊内には塔が存在するからだ。東大寺の金堂の北側回廊内はとても狭くて(金堂裏に沿って巡っているもので)「庭」と呼べるほどの余地はない。また、東大寺の講堂は、その北側回廊の外にあり、先に述べたように中門から出た回廊は講堂には取り付いていない。信濃国分寺を「東大寺式」とすれば東大寺は東大寺式ではないことになる。

もう一方の資料館の説明文には「東大寺(国分寺)式」とある。異なる様式を「法隆寺(四天王寺)式」などとは書けないので、「東大寺式=国分寺式」という認識なのだ。現地説明板の「東大寺式」という説明の誤りは既に指摘したので、ここでは資料館の説明の方の「東大寺(国分寺)式」が「自称」である点を指摘する。「東大寺(国分寺)式といわれる様式」とあり、「東大寺式=国分寺式」が“通説・定説”であるとの認識で、「東大寺式=国分寺式」としているようだ。

森郁夫氏が「国分寺の伽藍配置は一定していない」と言うように、資料館の認識している「東大寺(国分寺)式」とは異なる、中門から出た回廊が金堂に取り付き、塔は東西どこでも良いとする“典型的”「国分寺式伽藍配置」(斎藤忠『日本古代遺跡の研究 総説』)〔塔は中門より北の回廊外に配する、回廊は正方形に近い〕といわれる「国分寺式」がある。
以上のように批判をしました。
私見ですが、“国分寺式”伽藍配置とされているものは、次の三種類があります。
(1)角田文衛氏の説で、『続日本紀』に「頒下国分二寺図」とある「国分二寺図」の伽藍配置を国分寺式とするもの。事例:播磨国分寺。
(2)斎藤忠氏の説で、金堂に取り付く正方形に近い横長回廊の中には伽藍が無く、塔を回廊外に置くというもの。事例:遠江国分寺。
(3)誰の説か未調査ですが、講堂に取り付く回廊の中に金堂を配し、塔は回廊外に置くというもの。信濃国分寺遺跡の現地説明板によれば「東大寺式」で、信濃国分寺資料館によれば「東大寺(国分寺)式」。事例:信濃国分寺。
この三種類の伽藍配置がそれぞれ“国分寺式”だと主張していますから、「自称国分寺式」と批判したわけです。

投稿: 山田 | 2017年2月24日 (金) 02:54

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Yさんへ

先のコメントを書いた後、Yさんが途方に暮れるシーンを思い浮かべてしまいました。
信濃国分寺は何伽藍配置なのですか?というご質問に回答していないからです。
でもそれは、私が不親切だからではないことはお分かりいただいていると思います。
そこで提案をしましょう。
この信濃国分寺の伽藍配置は何という名の伽藍配置か?ということですから、
どうせ“国分寺式”などというのは自称なのですから、堂々と
「信濃国分寺式」と言えばいいのではないでしょうか?
メットライフ球場のように命名権をもっている者がいるわけではないし、信濃国分寺がその伽藍配置なのは事実ですから、「信濃国分寺式」を名乗って誰も非難はできないわけです。もちろん最も早くこの伽藍配置をとった寺院がわかれば、その寺院の名をつけて「○〇寺式(伽藍配置)」と呼ぶのが学術的なのでしょうが。この伽藍配置をとるそれぞれの寺院が「●●寺式」、「■■寺式」を名乗って、どの寺院が一番早くこの伽藍配置様式をとったのか、その解明争いが起きれば私の手間が省けます(横着者め!)。
ということで、上田の皆様は、「信濃国分寺は、講堂に取り付く回廊内に金堂を置き、塔を回廊外に配する“信濃国分寺式”といわれる伽藍配置です。」とされればよろしいかと存じます。東大寺式ではないことは確かですし、こんなのは言ったもん勝ちです。
このキーポイントは、自分で‘言って’おきながら「“信濃国分寺式”と‘言われる’伽藍配置です」と言うところでしょうか(巧みというかずるいというか)。

投稿: 山田 | 2017年2月24日 (金) 04:45

Yさんへ
 山田さんとは異なる見解を、ここに記しておきます。
 当初私は、信濃国分寺は、大官大寺式を改造したものと考えていました。回廊内の塔を外に移したものと。しかし大官大寺では講堂が回廊内にあるのに対し、信濃国分寺は講堂に回廊が付いていることと、大官大寺では回廊が金堂に取りついて前庭が強調されているのにたいし、信濃国分寺は金堂に回廊が取り付いておらず、前庭が強調されていないので、大官大寺→改造はなりたたないと判断しました。理由を詳しく説明すると以下の通りです。
 信濃国分寺は大官大寺式の伽藍を改造したとの考えを訂正撤回します。
 理由は講堂という建物の位置づけの変化からです。
 講堂は当初は回廊の中にありました。飛鳥寺でも法起寺式でも法隆寺式でも、そして四天王寺式でも講堂は回廊の北側にあり、講堂の左右に中門から伸びてきた回廊が取り付いています。つまり講堂もまた、塔や金堂のように聖なる場所であった。
 このことは7世紀後半の新たな寺院、薬師寺式でも同様で、講堂は回廊の北に取り付いています。
 新たな変化が出たのが大官大寺式。ここでは金堂の位置づけが強化され、回廊が金堂にも取り付き、金堂前庭が重要視されました。
 そして次の大安寺や元興寺では、塔が回廊の外に出される。ただしこのときはまだ塔院の形をとるので、塔も、そして金堂も講堂も聖なる空間であることは変わりがありません。
 そのごいつかはわかりませんが、講堂に回廊が取り付くこともなくなり、塔も回廊を失い、寺院の聖なる空間は金堂だけとなります。
 このように伽藍の変遷を考えると、信濃国分寺はちょっと変です。
 なぜなら講堂に中門から出た回廊が取り付き、金堂にはまだ回廊がついていないので、金堂前庭がまだ独立した空間になっていないのです。つまり大官大寺式以前の古式寺院の様相を持っている。しかるに塔は回廊の外にだされ、しかも回廊をもっていなので、すでに塔が聖なる空間ではないことを示しており、これは最も新しい形式です。
 このためこう考えるべきでしょう。
 信濃国分寺は金堂も講堂も(そしておそらくは塔も)聖なる空間であった時代の伽藍で、これら三つの伽藍が中門から伸びた回廊で囲まれた空間にあり、回廊は一番北側の講堂に取り付いていた。つまりは、大官大寺式よりも少し古い形式の伽藍。もしかしたら金堂に回廊がついていないので、薬師寺式のようの双塔寺院だったかもしれません。
 この古式の寺院の塔を解体して、回廊の外に新たに七重塔を造った。しかも回廊なしで。
 こうして信濃国分寺は、古式の寺院の様相と、もっとも新しい寺院の様相を兼ね備えることとなった。
 こう考えたらどうでしょうか。
 以下に関係する寺院の伽藍図をリンクしておきます。
 大官大寺
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103405-87917/garan.jpg
 薬師寺
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120552-85228/garan2.jpg
 大安寺
  http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104162-89201/up.jpg
 元興寺
  http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104901-89223/up.jpg
 東大寺
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104401-89318/up.jpg

川瀬さんへ

回廊が聖なる空間をつくりだすということ、とても興味深く思いました。
俗世間に結界をはり異なる空間(聖域)をつくる。
俗世間に穿った異空間の穴みたいな感じですね。

位相幾何学(トポロジー)では、球形とドーナッツ形(トーラス)では違うものです。二つのトーラスがくっついたのもまたトーラスとは違うものです。それを平面に射影したものもそれぞれ違う図形です。

この連想から、塔院回廊を除いた中枢域の回廊について、最初は一つの聖域(飛鳥寺、山田寺など)、次が二つの聖域(大官大寺、川原寺、南滋賀町廃寺)、最後が三つの聖域(東大寺)という変遷の大きなくくりも考えられますね。東大寺の金堂裏はなにか?という疑問が出るのでこの思いつきは結局失敗作でしたが。

山田さんへ
 <塔院回廊を除いた中枢域の回廊について、最初は一つの聖域(飛鳥寺、山田寺など)、次が二つの聖域(大官大寺、川原寺、南滋賀町廃寺)、最後が三つの聖域(東大寺)という変遷の大きなくくりも考えられますね。東大寺の金堂裏はなにか?という疑問が出るのでこの思いつきは結局失敗作でしたが。>

 この思いつきですが失敗とは言えないですね。
 東大寺の金堂裏の空間。これは南中門と北中門をむすぶ回廊全体で、金堂という聖なる伽藍を囲む聖域をつくり、この回廊と金堂とを結んで金堂前庭という新たな聖なる空間を強調した結果として生まれたのが金堂裏庭だと。従来はこの裏庭の北側に講堂があったのだが、講堂を金堂の聖域から外に出したために、この裏庭が生まれた。ここもまた、金堂を取り囲む聖域の一部です。
 つまり大官大寺なら金堂裏と講堂前が一体化していたことの名残です。
 こう考えると、伽藍中央の回廊で囲まれた聖域は、一つ⇒二つに分割⇒再度金堂のみの一つ、へと変遷したと考えることが可能です。そして最後の形のときに回廊で囲まれた空間は金堂・講堂・塔の三つに分化したととらえることが可能ですので、山田さんの思いつきは成立します。
 そしてその続きは、塔と講堂が聖なる伽藍ではなくなり回廊もなくなって、回廊内に残るのは金堂のみという形が、最終形態でしょう。

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