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2017年1月23日 (月)

★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2-9③)

  • 9)26ヶ国の「国分寺」の再検討

  ③南海道諸国の国分寺

 

 次に26ヶ国国分寺の中の南海道諸国の国分寺を検討しておこう。ここには五か国国分寺、紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐が挙げられている。南海道諸国の中では淡路だけが抜けている。

 

16.紀伊国分寺

 和歌山県紀の川市東国分にある。現在跡地には後継の寺院・紀伊国分寺があり、本堂は、創建時の講堂基壇の上に立っている。

 創建時の寺域は2町四方(約218メートル四方)。伽藍は南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧房が一直線に配置されている。また塔は金堂の東前方に、鐘楼と経蔵は金堂の後方に配置される。さらに、中門左右から出た回廊は金堂・塔・鐘楼・経蔵を内に囲んで講堂と接続していた。寺の東側は雑舎に当てられたものと推測されている。塔は七重塔と推測され、一辺16.4メートルの瓦積基壇上に緑泥片岩製の心礎を始め全ての礎石が旧状を保っている。

 

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             (「紀伊国分寺伽藍図」)

 

 復元された伽藍配置図を見ると、伽藍は大官大寺式で伽藍の基軸は真北から5度ほど東に傾いている。

 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データで各伽藍のデータを詳しく調べてみた。これによると、創建金堂は平面規模は再建期とほぼ同規模(東西45m・南北30m)と考えられ、基壇南面8mにわたり高さ25㎝平瓦1012枚が残存するのみ。基壇は地山を50㎝程度掘り下げて、その上に10㎝程度の厚さで土を交互につき固めて土壇を形成。基壇外装は瓦積。 講堂は、基壇は二重基壇で下壇は、東西32.6m南北20.4m、上壇は東西幅29.96m南北17.56mと考えられる。基壇南面中央には瓦積階段が設けられている。建物の規模は桁行26.6m、梁行14.4m。僧房は、講堂と僧房が軒廊により結ばれている。基壇は第Ⅱ期僧房建立のため削平されており全体規模不明。桁行38.48m 梁行10.36m。金堂と僧堂は、元慶3(879)年火災焼失後、延喜9(909)年以降の再建(以上『紀伊国分寺-紀伊国分寺跡・西国分廃寺の調査-』 発行所 和歌山県教育委員会 発行年 1979 より)。さらに塔は、(基壇は16.4m四方で)塔建物は桁行9.3m梁行9.26m。基壇北面中央には、創建期の基壇縁瓦積化粧の一部を取り除き、平安時代初頭に瓦積による階段をつくりつけている。創建時に北面に階段があったかどうかは不明。基壇は地山を1mほど掘り下げて穴を掘り、その上に版築工法で、10㎝ほどの厚さで交互に土を突き固め、地山上には510㎝ほどの厚さで交互に土を突き固めて高さ1.2mほどの高さの土壇を形成している(以上は「紀伊」『新修国分寺の研究第5巻上 南海道』発行所 吉川弘文館 発行年 1987 よりー)。

 以上のように建物データを詳しく見ると、塔と金堂の基壇構造は、地山を50cmもしくは1m掘り下げてそこから10cmほどの厚さで土を交互につき固めて土壇を築き上げる、総地業方式であることが判明。しっかりと堅固に作られた古式の寺院であることがわかる。

 この国分寺は、紀伊国府跡と思われる和歌山市の府中の府守神社から東に10㌔ほど離れている。しかし、西の尼寺跡と思われる西国分塔跡が白鳳寺院であることから、この近辺に初期国府があったことが想定されている。

 

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 (「遷都に伴う駅路の変遷」・(『国府』p271

 

 『国府』の著者木下良は、紀伊国分寺が紀伊国府の東方10㎞と離れた位置にあるのは、南海道が付け変わったことに伴って紀伊国府が変わったことによると述べている(p269272)。これによると、奈良時代の南海道駅路は、藤原京や平城京からさらに南に奈良盆地を進み、現在の五條市付近で紀ノ川上流に出て、紀ノ川右岸沿いに進み、紀ノ川河口の北方の紀淡海峡渡海地点に設置された賀太駅家に至っていたと。しかし都が平安京へと移された後の弘仁2年(811年)に、この紀ノ川右岸沿いにあった南海道の二つの駅(萩原・名草)が廃止され、代わりに(新)萩原駅が設置され、南海道は、平安京から河内・和泉の諸駅を通り、山越えして紀ノ川下流に至り、賀太駅家に至って紀淡海峡を渡るものに変更されたのではないかとしている。したがってこれに伴い、従来国分寺の西1㎞ほどのところにあった紀伊国府を廃して、紀ノ川河口に近い和歌山市の府中の府守神社付近に移されたと。

 そして紀伊国分尼寺ではないかとされている西国分廃寺の南側約500mにかけて存在する西国分Ⅱ・岡田遺跡は7世紀後半に始まり9世紀には廃絶した地方官衙遺跡と考えられているが、これが初期紀伊国府であったのではないかと推定している。

 したがって紀伊国分寺は、当時の紀伊国府の東1㎞ほどのところにあった古式の大官大寺式伽藍の形式の「国府寺」の塔を拡大改造して(塔基壇を拡充改造した痕跡はまだ確認できないが)七重塔とした改造国分寺であったと考えられる。

 なお紀伊国分尼寺は、僧寺の西方約800mに残る西国分廃寺跡とされ、ここは塔心礎が残され白鳳時代に始まる寺院と考えられているので、これも国府近傍の古寺を国分尼寺に転用したものと考えられる。

 

17:阿波国分寺

 徳島県徳島市国府町矢野に存在する寺院遺跡。遺跡地には後継寺院の阿波国分寺が存在する。

 中心伽藍の調査が不十分なため、今後の検討の余地を有しているが、「塔ノ本」の地名などからして、南面した伽藍配置の場合は西側に塔を配した伽藍様式を示すものと思われる。伽藍配置については再検討を要するが、回廊で囲まれた中心伽藍の外側に塔を独立させ、 8世紀中葉に開始されたといわれる東大寺式の系統に属するものと思われる(以上は、「徳島市埋蔵文化財調査報告書第9集 阿波国分寺跡第3次調査概報-1980年度―」による)。

 

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           (阿波国分寺跡調査地点図)

 

 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データベースによると、A地区からは僧房と思われる5.4×5.4mの建物が見つかり、礎石上に焼失痕がみられ、建物北・東側に焼土の堆積が一部見られる。北・西・南に地覆石と思われるものがみられる。B地区から発見された講堂と思われる建物から「根石を敷き詰めた柱穴を確認」とある。調査B地区から金堂と見られる建物の礎石抜き取り穴二つとその北側に東西に走る石列を発見。D地区からは東辺北回廊の一部と見られる瓦が満ちた溝を発見(4.8m)。また塔については、塔心礎―長さ3.78、幅1.75、高さ0.7mの自然石。外径1.05m、内径0.545mの環状の (ホゾ)穴あり―のみ確認。現国分寺西側築地の外側に「塔ノ本」と呼ばれる地があり、そこから運ばれたとされている(以上出典は「阿波国分寺」『新修国分寺の研究 第5巻上 南海道』)。

 こうしたデータから講堂・金堂・中門・南大門が南北に一直線に並び、中門から伸びた回廊が金堂に取りつき、塔はこの金堂院の西側、中門と南大門との間に存在する伽藍が復元されたもののようだ。

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(阿波国分寺跡伽藍配置推定図)

 

 なお伽藍中軸線は真北に対して西に10度偏しており、発掘報告書『徳島市埋蔵文化財調査報告書第9集阿波国分寺跡第3次調査概報一-1980年度』

http://sitereports.nabunken.go.jp/14035

には出土瓦の中の「重圏文軒丸瓦は平城宮跡の6012A系統と思われるものが認められ」とあり、創建年代は奈良時代末と見られているとある。

 しかし重圏文軒丸瓦は神亀三(726)年に聖武天皇が藤原宇合に命じて造らせた難波宮(大阪府大阪市中央区法円坂)の大極殿院や朝堂院の軒先瓦に求めることができるとされており、その中の平城宮跡の6012A系統という瓦は、これまでに32点ほど出土していて東三坊大路(左京一条)で14点、平城宮跡からは6点しかみつかっていないという非常に珍しい瓦とされている。この手の瓦が出土するということは、阿波国分寺の造営時期は、奈良時代中ごろとするのが適当であると思われる(以上瓦については、

https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook32.htm

市原市埋蔵文化財調査センターサイトの「研究ノート 瓦の話 -第1回 重圏紋のルーツ- -第2回 国分寺創建以前の重圏紋- -第3回 国分僧寺に葺かれた重圏紋-」高橋康男著」による)。

 そして阿波国分寺と阿波国府との関係であるが、従来は阿波国分寺の北北東1200m付近にある徳島市国府町府中の大御和神社を中心に展開したものと推定されており、この神社を北端の中心において、東西南北800m四方ほどの正方位の街路がみられることから、ここが阿波国府の候補地とされてきた。しかし近年の発掘調査から、この地域からは何らの遺構が発見されず、この地域の西部にある府中町観音寺遺跡から大規模な掘立柱建物が発掘され、国庁にかかわると思われる大量の木簡が出土したことから、阿波国府跡は字観音寺から北の字敷地方面に広がり, 国庁跡は字観音寺周辺が, その有力な候補地として考えられるに至っている。そしてこの遺跡から発見された掘立柱建物には正方位のものと、西に10度偏したものとがあり、正方位のものは7世紀中葉から末造営なので、西に10度偏した建物群は8世紀のものと考えられている。

 この観音寺地域は阿波国分寺跡から北に約1㎞の地点。この地点にある国庁に関連した西に10度偏した掘立柱建物は8世紀のものと考えられていることから、同じく西に10度偏した伽藍中軸線をもった阿波国分寺は、確証はないが、その伽藍配置からして、8世紀の阿波国府近傍に造られた新造の国分寺の可能性を有している。

 なお阿波国分尼寺は、僧寺の北へ約1km、昭和4546年に発掘調査が行われ、金堂・北門跡・寺域などが確認され、寺域は約160m四方に及ぶ広大なもの。昭和48414日指定、住所は名西郡石井町字尼寺12-1。この場所は、あららに阿波国府跡として注目されている観音寺地区のすぐ西側。

 

18:讃岐国分寺

 香川県高松市国分寺町国分。後継寺院国分寺がその境内に立つ。発掘調査で明らかとなった奈良時代の寺域は南北240m、東西220mで、現在の国分寺や東隣にある宝林寺を含んでいる。伽藍は大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていた。

 遺構の保存状況はよく、金堂、七重塔などの礎石が原位置に残っている。

現国分寺の本堂は奈良時代の講堂跡に建ち、現本堂はこの礎石を再利用している。他に、回廊・僧房・鐘楼・掘立柱建物・築地塀の遺構が発掘で確認されているほか、中門・南大門があったと推定される。

 讃岐国分寺資料館の詳しい説明や奈良文化財研究所のデータによると、現在の国分寺境内寺域の北側・南側の線上、西から4分1のところを結ぶ南北線が、讃岐国分寺の伽藍の軸となる。つまり寺地の西半分に七堂伽藍が立ち並び、東側には様々な寺務を執り行う役所が建てられていた。

 金堂は、礎石の現状などから、基壇の規模は、東西34.9m、南北21.3m、建物の規模は、7間×4間で桁行27.8m、梁行14.2mと推定されている。礎石のみむき出しの状態であり、それ以上の発掘はなされていないため、基壇の構造などは不明(『特別史跡 讃岐国分寺跡 昭和58年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1984 

 塔は、礎石のみ遺存で基壇は不明。礎石の現状から、塔建物は33間で10m四方。高さ63mの七重の塔に復原可能(『特別史跡 讃岐国分寺跡 昭和58年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1984 

 講堂は、現本堂は創建時の講堂の礎石を利用して建てられており、ほぼ原位置を保っているものと考えられる。創建当時の講堂の規模は、74間で22.79m×12.73m(「讃岐国分寺跡」『香川県埋蔵文化財調査年報』平成3年度 発行所 香川県教育委員会 発行年 1992 )。

 中門から金堂に取りつく回廊は、発掘調査の結果から、基壇は盛土で、基壇の幅は6.5m、建物の幅は3.6m程度と推定(『特別史跡 讃岐国分寺 平成3年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1992 

 僧坊は、基壇の規模は、東西87.99m、南北16.0m、建物の規模は、桁行83.9m、梁行12.0m。3間を単位とする坊で、中央3間を食堂として利用する。東西各3坊は3間の中央間を通路とし、両側に方1間の室を計4室設ける。21間×3間。基壇は地山削りだし(『特別史跡讃岐国分寺跡保存整備事業報告書』発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1996 )。

 伽藍中軸線や各堂塔の軸は、西に2度偏している。

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 (「讃岐国分寺伽藍配置」)

 

 讃岐国分寺は、讃岐国府の東北東約2㎞にあり、尼寺はその約2km北東にある国分尼寺の後継寺院と云える法華寺の境内に礎石が残っている。

 興味深いことに、現在讃岐国府遺跡とされて発掘が続いている遺跡は、その南北軸は、真北に対して西に約20度偏しており、国分寺の様相とはことなる。

 

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          (「讃岐国府周辺の歴史環境」)

 

 そして国府遺跡の中からは、発掘記録では国府内の建物群の中に正方位の物が出現しているようである。24年度報告に「現在、讃岐国府跡の調査を進めていますが、調査で見つかっているのは国府の時代のものばかりではありません。国府が設置された奈良・平安時代の建物跡や柵列跡などはおおむね周辺の地割と同じ方向を向いていますが、その中に真北を向く建物跡が1棟見つかりました。平成23年度の調査で真北を向く大型建物が見つかっていますが、おそらくこれとほぼ同時期で、国府が設置される直前の7世紀後半~8世紀初頭頃の建物と考えられます。この頃は、国府の西側にそびえる城山に古代山城が築かれた時期でもあります。真北を向く建物がどのような性質のものか、今後の検討課題です。」とある。

 http://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/s_k_tyosa24.html

 つまり7世紀後半のこの地にはほぼ真北を向いて役所群があったということであり、この役所群の西側の城山に古代山城が築かれていたということで、これは九州王朝時代の遺構だということだ。

 そして2009(平成21)年から始まる8次に及ぶ国府探索事業の実施にもかかわらず、いまだ8世紀奈良時代の国府関連の建物群は見つかっていない。発掘された中心的建物群は、8世紀末から910世紀の平安時代から鎌倉時代のものである。

 ということは7世紀後半から8世紀・奈良時代の讃岐国府は現在の場所ではない可能性があるということだ。

 讃岐国分寺の伽藍中軸線はわずかに西に2度偏する。そして讃岐国分寺と讃岐国分尼寺が存在する高松市の西部、本津川流域の平野部(盆地)には、この国分寺の中軸線とほぼ同じく真北に近い向きの条理遺構が広がっている。

 この平地は現在讃岐国府とされている坂出市府中付近の綾川流域とは、南北に延びる標高およそ300mほどの山塊で隔てられており、二つの平地の間はもっとも狭い場所では幅100mほどの谷でつながっている。そして古い時代の道路は国分寺のすぐ南200mほどのところを東西にうねりながら走り、その南400mほどのところを南から来る本津川に合流する支流(国分寺の北西から南下した川)が西から東に流れている。またこの支流と本津川の北側で国分寺の東に広がる平地には、国分寺伽藍中軸線とほぼ同じく真北に西に2度傾いた条理遺構が広がっている。

 最近の推定では、この本津川の支流の南側を古代南海道は通り、先ほどの狭い谷に入る前の現在の関ノ池(江戸時代初期に堰き止めて生まれたとされる)の西側の平地である府中前谷地区に古代の駅家河内駅家があったと想定され、さらにここから狭い谷を抜けて南海道は西に向かって綾川流域に至り、現在讃岐国府とされた地は、この古代南海道のすぐ北側に面している。

 可能性だが、讃岐国分寺の東から南に広がる平地に7世紀後半から8世紀初頭の讃岐国府はあったのではないだろうか。だとすれば、最近讃岐国府跡とされる遺跡群の中から出てきた正方位の建物群は阿野郡家となろう。ということは、讃岐国分寺の前身寺院がこの初期讃岐国府に付随する寺院である可能性を示している。

ここに国府があったとすれば国府からの距離は西に数百mにすぎない。

 讃岐国分寺は塔基壇や金堂基壇など詳しい調査がされていないので詳細は不明であるが、古式の大官大寺式の寺院の回廊内の塔を造りなおして七重塔とした改造国分寺である可能性が大きい。

 

19:伊予国分寺

 愛媛県今治市国分にある寺院跡。塔跡の西にあたる亀山には、四国霊場59番札所である現在の国分寺がある。

 塔の存在が古くから知られていたことから、1921年(大正10)に国の史跡に指定。1968年(昭和43)に塔の規模や寺域を確認するための調査が行われた結果、基壇は117.4mの正方形で12個の礎石が現存し、そのうちの心礎、北東隅の側柱礎石3個、西北の四天柱が原位置を保っており、その他は移動または傾いていることが判明。心礎の南27mの地点(東20m)で南回廊と思われる、北側幅4m、南側幅6m2本の溝に挟まれた幅6mの整地部分が確認された。

 

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             (伊予国分寺調査区図)

 

奈良文化財研究所のデータや『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』(昭和57年3月31日発行)などによると、塔基壇は、総地業で版築盛り土基壇。南北軸はほぼ真北。基壇幅は17.4m四方。心礎を含む12個の礎石が残存していた(原位置は4個で他は移動)。3間×3間。建物は10m四方と推定(「伊予国分寺」『新修国分寺の研究 第5巻上 南海道』 発行所 吉川弘文館 発行年 1987 )。

 塔基壇は基壇平面の規模で地山が掘り下げられ、70㎝以上の深さで赤土粘土や砂質土が計9層につき固められていることが確認されている。

 心礎の南26mの地点(東23m)で発見された南回廊と思われる遺構は、幅5.5m。その北・南側には北溝(幅約3m)、南溝(幅約4m)が伴走している。礎石位置のみに壺地業。

 伽藍配置不明であるが、地形と塔・回廊の位置を考えると、塔は西塔。金堂院が塔の東側。金堂は塔の横東側か?。塔心の南で見つかった遺構が回廊だとすると、塔も金堂も回廊の中にある形式で、法隆寺式の古式寺院を改造したのではないかとも考えられている。しかしこの溝を伴う遺構は、礎石、基壇などが確認されておらず、回廊とするより、寺域を示す築地状遺構とみた方が無理がないように思われる。したがって塔は回廊外にあった可能性が強いというのが、県史の結論である。

 『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』(昭和57年3月31日発行)はデジタル版が公開されている。

 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/61/contents

 興味深いのはこの遺跡の出土遺物で、軒丸瓦一四点、軒平瓦一種類二点、鬼瓦片のほか丸瓦では玉縁本瓦と行基瓦、平瓦では布目瓦(下面縄目)などが主に南溝から出土している。軒丸瓦は主として素弁蓮華文や複弁蓮華文瓦であり、軒平瓦は均整唐草文瓦が多い。これらの中には数点ではあるが白鳳期的要素をもつ素弁蓮華文軒丸瓦や瓦当の両端が三角形(隅切り)で深顎形式の型引四重弧文軒平瓦が含まれている。ほかに、単弁八弁蓮華文や難波宮跡出土瓦に類似した軒丸瓦が出土している。

 この白鳳期の要素を持った瓦が出土していることも法隆寺式の古式の寺院を改造したとの見解を支えるもので、難波宮跡出土瓦に類似した瓦が出土していることは、奈良時代中ごろに古式の寺院を改造した可能性を示している。

 なお伊予国分尼寺は、僧寺の南東1600mのところにある桜井小学校の敷地から唐草文軒平瓦が出土しているのでこの地と考えられている。ここからは軒丸瓦では白鳳期の単弁蓮華文瓦や複弁八葉蓮華文が出土しており、五重塔と推定される塔基壇と礎石が残存していることからも、白鳳期の古式の寺院の転用も想定されている。

 国分僧寺の南220mには、南海道に比定されている県道乃万桜井線が通り、北東約1.8㎞のところは伊予国府跡として有力視されている今治市上徳(富田小学校付近)である。

 だが今治市上徳からは特に国府関連の遺構は発見されておらず、伊予国分寺と国分尼寺が1.6㎞の距離をおいて、古代南海道の北側と南側に存在していることや、二つの寺院の中間の南海道の南側の地域、すなわち今治市旦(旧越智郡桜井村字旦)は古代伊予軍団が置かれた地とも想定されているのだから、このあたりが初期の伊予国府と想定できる。

 

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(「伊予国分寺付近図」)

 

 この地は真ん中を桜井川が西から東に古代南海道に沿って流れており、その東端にある国分尼寺から桜井川河口の港までは約670mであるので、内陸にありながら水運の便にも優れた土地だと考えられる。

 この今治市旦が初期国府だとすれば、国分寺は国府の北500mほど、国分尼寺は国府の東500mほどとなり、両寺ともに国府に付属した国府寺を改造して僧寺尼寺とした可能性も高まる。

 

20:土佐国分寺

 高知県南国市国分にある寺院跡。高知平野のほぼ中央北部を、南西に蛇行しながら流れる国分川右岸沿いに所在。寺跡は現在、国分寺(四国霊場29番札所)によって法灯が受け継がれており、土塁などが遺存する奈良時代の国分寺跡であり、土佐の代表的な古代寺院跡であることから、1922(大正11)に国の史跡に指定された。

 発掘調査は国分寺の現状変更に伴う調査や国庫補助を受けた調査など何次にもわたって行われているが、未だ伽藍配置の全体像など明らかにはなっていない。ただし現本堂が旧金堂の跡に造られたと考えられ、塔跡と思われる場所などの位置関係から、東大寺式伽藍と想定されている。

 しかし発掘調査報告書などで精査してみると、そうとは言い切れない。

 

 現本堂周辺の発掘調査からは、旧金堂の基壇の掘り込み地業跡が見いだされ、旧金堂の大きさや位置などが明らかとなった。

 金堂は、現在の本堂及び大師堂にかけての範囲から版築を施した掘込地業(東西約30m南北18m)を検出する。建立された金堂の規模は4間×57間と考えられる。また、基壇跡の方向は真北に対して東に16度偏しており、土塁等と同じ方向を示している。掘込み地業は深さ6070cmを測り、厚さ10cm前後の暗褐色粘質土等を交互に叩き締めた版築層により構築されており、上面は削平を受けているようである(土佐国分寺跡-第4次発掘調査報告書-)。

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           (「土佐国分寺検出遺構図」)

 

 しかしこれ以外の主要堂塔の位置や規模は未だ不明。

 塔の心礎と考えられる石が、現国分寺の庭園に残されている。

 硅岩製。幅1.1m以上長さ1.5m以上。中央に心礎柱座とみられる径68㎝深さ5.5㎝の穴が、またその中に心柱の枘穴と考えられる径20㎝深さ5㎝の穴をもち、一本の排水溝を有する(土佐国分寺跡第一次発掘調査概報1988年)。そしてこの塔心礎は元々境内地南東の歴代住職の墓所にあり、秋葉社の土台として使われていた。歴代住職墓所が塔跡の可能性を示している。礎石の最大厚は70㎝(土佐国分寺跡第四次発掘報告書2009年)。

たしかに歴代住職墓所は現在でも土壇状を呈しているので塔跡の可能性があるものの、調査されていないので真偽のほどは不明である。

 また旧金堂の真南の伽藍中軸線に直交するように6間×3間の礎石建物が掘り出され、この建物の軸も真北に東に16度偏しており、位置から考えると中門の可能性があるものの、建物の中央部の柱間が狭くなる構造を示しているため、門以外の建物と想定されている。礎石の掘方内から白鳳期末とみられる須恵器杯蓋が出土し、さらに須恵器窯で焼成された平瓦も出土。 白鳳末期~奈良時代初頭の遺物を検出することから国分寺造営時以前の建物である可能性がある(南国市教育委員会 書名・雑誌名 『土佐国分寺跡-第二次発掘調査概報-』 発行所 南国市教育委員会 発行年 1989 )。この遺構はすでに礎石も取り外されてないことから、国分寺創建期に、それ以前からあった寺院の堂舎が取り壊された可能性も示しているのだが、建物の軸が、金堂や寺域を区画する土塁と同じく真北に対して16度東に偏しているので、理解に苦しむところである。

 土佐国分寺跡の特徴は、寺域が、残存する北・東・南の土塁から一辺約150mのほぼ正方形と考えられており、先の図でもわかるように、金堂がそのほぼ中央に位置していることである。そして興味深いことに、塔が歴代住職墓所だとすると、その西側、伽藍中軸線からの距離がほぼ等しい距離に総社が置かれた高まりがあり、この二つの東西の高まりを結んだ線と伽藍中軸線との交点から、金堂と総社・墓所との距離がほぼ等しいことが興味深い。この二つの東西の高まりが塔だとすると、土佐国分寺の伽藍配置は薬師寺式となるのである。

 しかし近年の発掘から、寺域を限る土塁を断ち割って調べたところ、これは創建時のものではなく、中世の城館に特徴的な構造を示しているので、中世に寺域を城館として利用した際の構造物と断定された。ただし東側の土塁の下には、ずっと古い時期の溝が存在し、これが国分寺創建時の寺域を区画する溝と考えられるにいたっている。そして寺域の北側は、北側の同じく中世の土塁の延長上が北限と考えられていたが、この北限域を超えて北に続く白鳳期から奈良・平安時代の掘立建物が出現し、これらから寺域がさらに北に延びていることが確認されている(第三次発掘調査概報・第四次発掘調査報告)。こうして、寺域は方形ではなく、北に長く続くことが想定されるようになった。

 こうした最近の調査結果から、金堂と思われる建物は寺域の中心にはなく、さらに金堂と塔伝承場所との関係から東大寺式と想定された伽藍配置では中門と考えられる場所に、門ではない、国分寺創建時以前にさかのぼる可能性のある礎石建物が出てきたことで、この伽藍配置想定は根本的に覆る可能性が出てきている。現状では土佐国分寺の伽藍配置は不明である。

 土佐国分寺の発掘調査報告は、奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」の中に、掲載されている。

 

 第一次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9952

 第二次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9600

 第三次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9846

 第四次調査報告書は、http://sitereports.nabunken.go.jp/11006

 

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         (土佐国府・国分寺・国分尼寺関係地図)

 

 この土佐国分寺跡から北東に800mほどのところに、土佐国府跡と推定されている遺跡がある。すでに25次におよぶ発掘調査がなされているが、国衙関連と見られる柱穴や硯などの遺物は見つかっているが、国府中心部の様相や全体的な官衙配置を確定するには至っていない。この南国市比江の地には「内裏」「国庁」「府中」などの字が残り、この付近に国府があったことは間違いないとされている。

 ただし土佐国府の発掘データを奈良文化財研究所のデータベースで見てみると、掘り出された掘立建物には、その南北軸が、真北から東に13度傾いたもの、11度東に傾いたもの、12度東に傾いたもの、14度東に傾いたもの、9.5度東に傾いたもの、8度東に傾いたもの、ほぼ真北を向いたもの、西に2度傾いたものなど様々にあるが、このうちの8度~14度東に傾いたものは8世紀後半から9世紀と推定され、ほぼ真北のものと西に2度傾いたものは8世紀前半と推定されているので、国府遺跡そのものが二次にわたって造営された可能性が見て取れる。

 なお土佐国分尼寺の跡は、この土佐国府跡の北400mほどのところにある比江廃寺跡とされている。

 この遺跡は、当初は法隆寺式伽藍配置で白鳳期創建と考えられていたが、塔基壇版築から8世紀の須恵器が出てきたので否定され、さらに塔跡の北側に南北5間東西8間の礎石建物が検出され、その礎石建物の西側に東西5間南北4間の礎石建物も検出され、法隆寺式伽藍配置も再考されはじめている。なおこの寺院跡の塔心礎は巨大で、3.24×2.21m、厚さ1.80m。ほぼ中央に径0.81m深さ0.10mの柱座を彫り、その中央やや北寄りに径0.20m深さ0.12mの舎利孔を穿つ。石英・長石・泥岩で構成された砂岩で、四万十帯のものに似、周辺から調達されたとみられる。(『高知県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 97 比江廃寺跡Ⅲ 平成67年度の確認調査報告書』 発行所 ()高知県文化財団埋蔵文化財センター 発行年 2007 )。このため塔の規模は11.4m四方と推定され、高知県内最大の五重塔ではなかったかと推定されいる。

 なおこの塔跡の北に発見された南北5間東西8間の金堂と思しき礎石建物の軸は西に1度偏しており、この角度は、周辺にある国府遺跡と思われるところの条理の向きや国府遺跡の中の8世紀前半と推定される建物の方位ともほぼ一致し、国分寺遺跡が全体として東に16度偏しているのと好対照である。

 以上のデータから、土佐国分尼寺と推定される比江廃寺は土佐国府の初期の物に伴って造られた国府寺を転用したものと想定され、土佐国分寺は、8世紀の末から9世紀の時期の国府に伴って、それ以前に存在した寺院を改造して造られたものと考えることができるわけである。 

 また古代南海道はこの国府の南辺を通って国分寺のすぐ北側を通っている。

 

●南海道諸国国分寺のまとめ

 以上が南海道諸国国分寺再検討である。要点をまとめておこう。

 

                                                           
 

国分寺名

 
 

伽藍配置

 
 

塔基壇の規模

 
 

国府からの距離

 
 

タイプ

 
 

16:紀伊

 
 

大官大寺式・東5

 
 

16.4m四方

 
 

東1㎞

 
 

 
 

17:阿波

 
 

東大寺式・西10

 
 

不明

 
 

南1㎞

 
 

③のb

 
 

18:讃岐

 
 

大官大寺式・西2度

 
 

塔身10m四方

 
 

西数百m

 
 

  

 
 

19:伊予

 
 

不明・真北

 
 

17.4m四方

 

塔身10m四方

 
 

500

 
 

 or③のa

 
 

20:土佐

 
 

不明・東16

 
 

不明

 
 

南西800

 
 

 or③のa

 

 

 南海道諸国国分寺の特徴は、すべて国府の近傍にあることである。そして紀伊・讃岐は国府近傍の国府寺の改造、伊予・土佐もその可能性を持っている。

 しかし阿波国分寺は、その伽藍配置が東大寺をモデルとしたものになっていることと、伽藍中軸線が8世紀には通常の、真北に対して西に10度傾いていることから、国府近傍に地方権力によって新たな国分寺が造られた可能性を唯一示している。

 また伽藍中心軸の向きであるが、紀伊国分寺の東5度、讃岐国分寺の西2度、伊予国分寺のほぼ真北は、いずれも山陰道・山陽道諸国国分寺でも見たように、国府近傍の国府寺の改造と見られた寺院に特徴的な数値である。つまりこの紀伊・讃岐・伊予国分寺の前身となる国府寺は、中央権力によって造営されたことを示している。

そして阿波国分寺の西に10度という数値は、聖武詔の時期における平均的な数値なので、この時期に地方権力によって磁石で方位を測定して作られた寺院とすれば、妥当な数値となる。

 しかし土佐国分寺の東16度という数値は理解しがたい。

 古代の窯跡などから得られたデータを基にした磁気偏角は、南海道諸国国分寺付近の西暦700年の磁気偏角は、すべて西に9.2度~9.4度偏している状態である。この西暦700年という時期は、寺院が急増した時期から聖武による「国分寺建立」詔までの時期のほぼ中間にあたる時期で、この時期の中では磁気偏角が東に傾いた時期であり、聖武詔の時期になれば磁気偏角は123度ほど西に偏している。

 したがって磁石で寺地を決める際の方位を測定すれば、西に10度程度傾くのがふつうである。そして真北を測定できる天文学的知識を使って中央権力が寺地決定の際の方位を測定すれば、ほぼ真北に近い数値となるのだ。

 だから土佐国分寺の東に16度偏しているという数値はありえない。

 そして同じ数値が土佐国府を構成する掘立建物からも出てくるので、この数値は土佐国分寺だけのものではなく、おそらく8世紀後半における土佐国一般の数値と考えられる。このことは土佐国分尼寺と考えられる比江廃寺の西2度という数値と、土佐国府の中の同じ数値または真北を示す掘立柱建物の存在を考慮に入れれば、土佐国において8世紀の土佐国府と国府寺は中央権力によって造営されたことを示すので、東16度という数値を示す8世紀後半以降の土佐国府と土佐国分寺は地方権力によって造営されたと考えざるをえないのだが、磁石で測定した北が真北から東に16度傾く時代ではないので、この点不可解である。

 

 次に26ヶ国国分寺再検討の最後に、西海道諸国国分寺の再検討を行うこととする。

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コメント

肥沼さんへ
 原稿の掲載。ありがとうございました。間違えはありません。

 ただし一か所元原稿に誤りがありましたので訂正をお願いします。
 20:土佐国分寺の項の発掘報告書の名前
  第三次発掘報告書⇒第四次発掘報告書 へ訂正をお願いします。

川瀬さん

南海道諸国の検討、お疲れさまでした。国府に近く国府寺を改造した可能性が高い寺院が多いということ、その国府寺は九州王朝が建立したと考えられること、まだ結論をだせる段階ではありませんが、研究テーマどうりの結果がでる可能性がさらに高まりましたね。この研究は地道に検討を続ければ実を結ぶと思いました。意欲が高まる論考、ありがとうございました。

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