« 石岡のどこかに12m幅道路(古代ハイウェー)が | トップページ | 日月神社の謎 »

2016年6月 5日 (日)

「古東海道官道遺跡」の証言

素晴らしいサイトを発見しました!
まほらにふく風に乗って」というサイトです。
ぜひ訪問してみて下さい!!
 
それは下記のものなのですが,これによると,
古東海道は「茨城廃寺のすぐ近くは通っている」が,
石岡小学校から発掘された大和政権による「新国府」や
これも大和政権による「新国分寺」「新国分尼寺」のそばを通っていない!
と証言しているように私には思えます。
(もうひとつ言えば,「この古東海道は九州王朝が作ったものだ」とも)
 
http://mahoranokaze.com/blog-category-65.html
 
いかがだったでしょうか。
まだ調べ途中ですが,もしこの古東海道の終点が常陸国府だとすれば,
九州王朝の作った旧国府はこの道のどこかの場所に
あると言えるのではないでしょうか。(もちろん外城遺跡も含む)
 
とにかく,かなりの朗報と思いますので,
まずサークルの皆様に報告する次第です。
 
PS もう1つ,良さそうな論文がヒットしました。下記の論文です。
リンクしておいたので,ぜひお読み下さい。
これで「常陸国府・国分寺・国分尼寺」問題を「卒業」できるかな?
 
http://www.tsukuba-g.ac.jp/library/kiyou/2010/16CHIBA.pdf

« 石岡のどこかに12m幅道路(古代ハイウェー)が | トップページ | 日月神社の謎 »

古田史学」カテゴリの記事

コメント

興味深いサイトを見つけましたね。
 中津川遺跡の古代官道跡。幅6メートルと、肥さんのおっしゃる12メートルには満たなかったものの、かなりな立派な道です。これが現代の高浜道に平行に走っている。つまり高浜道は古代官道の名残。この道が茨城廃寺跡・外城遺跡のところで北に大きく膨らんで外れ、やがて日天宮のところでいきなり直角に北方向に方向転換するのが気になりますね。
 つまり現在の常陸国府ができる前は、この日天宮のところが古代東海道の終点だったと。
 この日天宮・月天宮という社も気になります。
 要するにもっとも古い時代の・7世紀の常陸国府は、この古代官道の南側の遺跡群全体なのではないか。 そして新たに8世紀になってその西方に常陸国府が造営され、そのとき古代東海道が北に直角に延伸されたと。
 こう考えることも可能です。
 そして茨城廃寺の「茨城寺」との墨書銘があった土器は9世紀のものであるそうな。
 つまり7世紀や8世紀は「茨城寺」ではなかったかもしれませんね。つまりこれが国府寺だとすると「常陸寺」となるわけです。
 なかなか興味深い発見でした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

古代道(東山道武蔵路)で始まった私の研究は,
またここで古代道(古東海道)と「再会」しました。
人が道を作り,歴史を作るわけですから,
当たり前といえば当たり前ですが,
今回も「道に助けられた」という感じがします。
フォローの解説ありがとうございます。
「常陸国分寺の謎解き」も折り返しに来ましたか?

肥さん
中国では皇帝専用(皇帝以外が使うと重罪)の道として一番広く立派な一直線の道(高速道路)がつくられたようですから、古代では権力と道は密接な関係だったようです(軍事用なのだと思います)。まあ、今日では別の目的(利権)で密接なようですが。

肥さん
「常陸国茨城郡衙の一考察」(茨城学院大学千葉隆司氏の論文)のなかに、「図1 茨城郡衙関連遺跡分布図」が記載されていて遺跡の位置関係がわかりやすかったです。PDFファイルです。題で検索すれば容易に見つかると思います。論文そのものは精査していませんが、既存の土器や瓦の編年に依拠した年代推定に気を付ければ、参考になることもあるかも。

しまった。論文が重複していた。

肥さんが紹介された(私も注目して紹介したら肥さんが既に紹介済でした)千葉隆司さんの論文「常陸国茨城郡衙の一考察」のなかで『常陸国風土記』の茨城郡の条「謂わゆる茨城郡は、今那珂郡の西にあり、古者郡家を置ければ、即ち茨城郡の内なりき」を引用して、中山信名がこれを「那賀郡の西部地域は以前に茨城郡に属していて茨城郡衙が置かれていた」と解した、と紹介している。
この中山信名の説もあって、笠間市(旧友部町)小原に茨城郡衙を比定するのが定説化しつつあるという(茨城郡衙は今の茨城郡内にはないとの説)。
風土記原文を見たかったのだが、はずかしながら素人のかなしさ、手元にないのでネットを検索したが見つからなかったので、論文中の訳文によって、中山信名の解釈の妥当性を検証してみた。全く正しい解釈であると結論を得た。だとなれば、茨城郡衙跡と見なされている外城遺跡は何か、国衙でもなく郡衙でもない、それに匹敵する規模をもったより古いものということなのだ。大和王権に先立つ九州王朝の国衙という説明以外になかろう。史料批判をパスしていないので、上記訳文が誤りと証明されればいつでも撤回する。
中山信名の解釈は正しいという論証は極めて簡単、小学生でもわかるものです。以下がそれ。
今と古(いにしえ)が対比された明晰な文なので。これをわからないとするのは、わからなくしようとしているからだ。

今:那珂郡の西にある。→
古:那珂郡の西にはなかった。
古:郡家が置かれていたから茨城郡内にあった。→
今:(郡家が置かれていた場所は)茨城郡内にない。→ではどこにあるのか?書いてあるではないか。
「謂わゆる茨城郡は今那珂郡の西にあり」→
今:茨城郡(郡家のあった地域)は那珂郡の西(西部)にある。
この部分の「謂わゆる茨城郡」の茨城郡とは「郡家の置かれていた茨城郡の一部地域」と解さねばいけない。なぜか、風土記は読者が今も茨城郡が存在することを知っている前提で書いている。茨城郡の一部ではない=茨城郡全部だと解すると、茨城郡が消えてしまうからである。消えてしまつているのにこんな話をするのはばかげている。また「那珂郡の西」を「那珂郡の西方」と解することはできない。そう解するとどうなるか。「いわゆる茨城郡は、今は那珂郡の西方にあります(古は何方にあつたの?今どこにあるかは言われなくとも知ってるよ)。郡家が置かれていたので茨城郡のなかにありました。」こんな報告を受けたら皇帝は怒るであろう。
以上で、中山信名の解釈は正しかったことが確認された。論理的に正しかったのだ。
反証しょうとするものは、茨城郡家が茨城郡内に置かれなかった事実を示せばよいだろう。
私は思う。わからない、わからないと大合唱されているものは、自らわからなくしているものが多い。文字史料は素直に読むことが第一に心がけることだと思う。

山田さんへ
コメントありがとうございます。

軍用道路 ~ 4年前に私が「古田史学会報」に書いた文章には,
「日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」という長い題名を付けました。
あまり古代道について書く人がいないので,私が古代道に詳しいと勘違いして下さる方がいますが,
「私が古田さんの考えを適用するとすれば,これが一番ぴったりくる」と思ったのが古代道でした。
その後は,古代道についてとても意識するようになりました。(自分が仮説を提出したので,
それが正しいか間違っているか,とても気になるのだと思います)

「常陸国茨城郡衙の一考察」(茨城学院大学千葉隆司氏の論文) ~ 私も今回初めて千葉さんの
論文を知りました。山田さんがコメントを書く,わずか12時間前のことです。
古東海道のコースだけでも良かったのですが,ダメ押しをするためこの論文を使いました。

 「常陸国分寺」のなぞ解きは、古代官道・古式伽藍寺院・国衙かもしれない遺跡の三点セットの「発見」で、ほぼ着地点に到達したと思います。
 今後全国の国分寺を確定していく作業で、考古学の方ではすでに「国府付属寺院」という意味での「国府寺」という概念が出されているようなので、この二つのキーワードで検索してみると、いろいろ出てくるかもしれませんね。

 「国府付属寺院」でネット検索していたら、木下良さんの「国府」に、「郡衙の整備が最も進んだのは7C末から8C前半、国庁整備の多くは8世紀後半、整備以前の国府・国庁は、国府所在郡の郡家に併置されていたのではないか」との記述があるようです。
 とすれば常陸国府と国府付属寺院ですが、現在の常陸国府跡のすぐ東南際にある外城遺跡を中心とした茨城郡衙に、現在の国府が建設されるまでは国府機能が併設されていたと考えれば良いのだと思います。だからその郡衙に付属したように建てられている茨城廃寺は、初期常陸国府の付属寺院で良いのだと思います。
 また国府寺の寺名ですが、初期国府が国府がおかれた郡の郡衙に併設されていて、そこに付属寺院もあったとすれば、国府寺の寺名は、「国名+寺」ではなく、「国府所在の郡名+寺」であってもおかしくはないわけです。こう考えれば茨城寺は初期国府の時代からそう呼ばれていたのかも。
 この考えを敷衍していけば、たとえば初期近江国府は、国府がおかれた郡である甲賀郡の郡衙に併設されていたと考えられるので、近江国府寺は、かの甲賀寺、のちの崇福寺ということになり、観世音寺式伽藍配置で、塔の心礎から無紋銀銭が出てきたあの寺院ということになります。
 そして全国の観世音寺式伽藍配置の寺院の考察の中で、郡衙に併設された郡寺とみられるものが多数あるのも、初期国府が国府がおかれた郡の郡衙に併設されていたので、国府寺が郡寺とみられるものであったと理解できます。たとえば福島県いわきの寺は、磐城郡衙に付属する郡寺とされていますが、ここがまさに磐城国の国府であり国府寺であったと理解できるわけです。
 やはり一度木下良さんの『国府』はきちんと読んでおく必要がありますね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

週末にこれまで頑張ってきた成果が出て,
今後に明るい見通しが持てました。
いよいよ各地の「国分寺」の精査に入っていくことにします。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

古代ハイウェーでお世話になった木下良さんに,
また「国府」「国分寺」問題でお世話になろうとは,
何だか縁を感じます。

木下良著『国府~その変遷を主にして』 を
Amazonに注文しました。
これまでの国分寺本の値段(合計6万円)に比べたら,
1600円なんて,ただみたいなものです。(笑)

先のコメントの訂正です。
 近江の国府寺と思われる崇福寺ですが、名称を間違えました。甲賀寺ではなくて志我山寺でした。志賀山寺とも書き、志賀郡の郡衙に近江国府の機能が併置されている時代の国府寺と考えられます。僕も木下良著『国府~その変遷を主にして』を夕べ「日本の古本屋」経由で注文しました。書籍代金1200円+送料300円で1500円でした。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「甲賀寺」ではなく,「志我山寺」ないし「志賀山寺」ですか。了解いたしました。

〉 僕も木下良著『国府~その変遷を主にして』を夕べ「日本の古本屋」経由で注文しました。
〉 書籍代金1200円+送料300円で1500円でした。

昨日注文した『国府』が,もう届きました。本によっては,24時間以内なのですね。
あっという間に届きました。

〉 志賀郡の郡衙に近江国府の機能が併置されている時代の国府寺

う~ん,複雑な表現です。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 石岡のどこかに12m幅道路(古代ハイウェー)が | トップページ | 日月神社の謎 »

2021年3月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ

最近のトラックバック