石岡のどこかに12m幅道路(古代ハイウェー)が
私の考えでは,7世紀半ばに12m幅の古代道が
全国6300kmに張り巡らされていたのだが,
それは各地の国府を結んでいたと考えるのが筋だろう。
ウィキペディア「東海道」を検索してみて,びっくり。
次の記述があったからだ。
「相模国では国府津から大磯まで相模湾沿いに東へ進み、相模国中部(寒川町南西付近)で相模川を渡った[4]。鎌倉からは、東京湾岸の河川の渡河を避け海路をとるため、三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島(上総国富津)に入った[1][5]。そこから北上して、上総国府(現在の千葉県市原市)を経て下総国荒海駅(成田市)で香取海を渡船し常陸国榎浦津駅(稲敷市柴崎)へ入り、常陸国府(茨城県石岡市)へ至った。安房国府へは富津から南下する分岐路を通った。上総国府から下総国府(千葉県市川市)へも分岐路が伸びていた。」
この石岡市は,古代・東海道の終点だったのだった。
ということは,もし外城遺跡を「古代・東海道」が通っていたとしたら,
それは古代ハイウェーで「九州王朝の国府」といえるかも。
そんな風に考えが進んできました。
ご意見お聞かせください。
http://hyakkaido.travel.coocan.jp/kodaitoukaidousimousahitati9tutiuraisioka.htm
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肥さん
わくわくする話ですね。まだ、記事などを全部読みきっていないのでこれについて意見を言えませんが、脇を新幹線が通っているのが面白いです。高速道路や新幹線を通そうとすると古代の道路遺跡に出くわすことが多く、地形を考慮して速く移動するルートは 既に古代に見いだされていた、というような見解をどこかで読んだことを思い出しました(これでは小学生の感想文ですね)。
投稿: 山田 | 2016年6月 4日 (土) 17時53分
山田さんへ
コメントありがとうございます。
そして,ごめんなさい。
どうも「外城遺跡」というのが2つあるようで,
栃木県小山市のものをリンクしてしまったようです。
(だから,東北新幹線や東北自動車道が出てきます)
茨城県石岡市の「外城遺跡」はそれとは関係ないのですが,
ウィキペディア「東海道」によると,古代ハイウェーが石岡市を通っていたらしい。(終点)
もしそれが「外城遺跡」を通っているとすれば,
国府と考えられるという形に変更しました。
投稿: 肥さん | 2016年6月 4日 (土) 19時10分
石岡市の外城遺跡は、岡田稲荷神社の西側の台地、茨城廃寺は東北側の台地のようですね。どちらも国府遺跡と同じく、二つの川に挟まれた河岸段丘の尾根の中心線上。どちらも東南から北上してきた古代道の沿道上にあったように思えます。
投稿: 川瀬 | 2016年6月 5日 (日) 00時38分
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
ということは,「外城遺跡」は国府として,「茨城廃寺」は国府寺として,
候補にあげてもおかしくない遺跡であるということになりますね。
投稿: 肥さん | 2016年6月 5日 (日) 03時38分