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2016年2月28日 (日)

(再録)「国分寺」はなかった!

本日は特に新しいニュースはないので,
1月30日に「肥さんの夢ブログ」に書いた文章を再録してみたい。
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『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事
『続日本紀』に見える、天平13年(741)の年に聖武天皇の「国分寺建立の詔」記事
との間にどんなことがあったのかを解明していくのが,
多元的「国分寺」研究のキモである。
その手始めに,「国分寺建立の詔」を読んでみることにした。
 
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html
 
(うまく移動できない場合は,「国分寺建立の詔」で検索をして下さい)
 
ところが私が「国分寺建立の詔」を読んで驚いたことに・・・
そこには「国分寺」という言葉が1つも出てこないのだ。
確かに「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,
「国分寺」という言葉はない。
これはいったいどういうことなのだろう。
 
実はこれと同じような経験をしたことがある。
東山道武蔵路の研究をしていて不思議に思ったのだが,
これについての初出記事は「この道を作った」ではなく,
「771年に,コースを変更した」という記事なのだった。
「全国6300キロにもわたる日本古代ハイウェーを建設した」という記事がないのに,
そのコース変更した記事が初出とは,これは「命じた主体を隠している」と言われても
仕方がないのではないかと思う。
そして,私は「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」を書くことになった。
(拙論の中で,東山道武蔵路を作ったのは,側溝出土の土器から7世紀半ばと考えた)
 
話をもとに戻そう。
「七重塔を造れ」ということは,「(これまである伽藍に加えて)七重塔を造れ」とも読める。
実際国分寺は「七重塔を持っているものが多い」が,それはほとんど主要伽藍の外である。
こう書いていて怖くなってきたが,もしかしたらそれまであった主要伽藍の回廊の中に
七重塔を作るのは不可能だから,伽藍の外に七重塔を作ったのではないか。
皆さん,どう思われますか?
 
PS これの応用問題で,「東大寺」もなかった!
(米田良三さんによると,大分県からの移築)

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