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2016年1月30日 (土)

「国分寺」はなかった!

『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事
『続日本紀』に見える、天平13年(741)の年に聖武天皇の「国分寺建立の詔」記事
との間にどんなことがあったのかを解明していくのが,
多元的「国分寺」研究のキモである。
その手始めに,「国分寺建立の詔」を読んでみることにした。
 
http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html
 
(うまく移動できない場合は,「国分寺建立の詔」で検索をして下さい)
 
ところが私が「国分寺建立の詔」を読んで驚いたことに・・・
そこには「国分寺」という言葉が1つも出てこないのだ。
確かに「七重塔を造れ」ということは書いてあるが,
「国分寺」という言葉はない。
これはいったいどういうことなのだろう。
 
実はこれと同じような経験をしたことがある。
東山道武蔵路の研究をしていて不思議に思ったのだが,
これについての初出記事は「この道を作った」ではなく,
「771年に,コースを変更した」という記事なのだった。
「全国6300キロにもわたる日本古代ハイウェーを建設した」という記事がないのに,
そのコース変更した記事が初出とは,これは「命じた主体を隠している」と言われても
仕方がないのではないかと思う。
そして,私は「日本古代ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?」を書くことになった。
(拙論の中で,東山道武蔵路を作ったのは,側溝出土の土器から7世紀半ばと考えた)
 
話をもとに戻そう。
「七重塔を造れ」ということは,「(これまである伽藍に加えて)七重塔を造れ」とも読める。
実際国分寺は「七重塔を持っているものが多い」が,それはほとんど主要伽藍の外である。
こう書いていて怖くなってきたが,もしかしたらそれまであった主要伽藍の回廊の中に
七重塔を作るのは不可能だから,伽藍の外に七重塔を作ったのではないか。
皆さん,どう思われますか?
 
PS これの応用問題で,「東大寺」もなかった!
(米田良三さんによると,大分県からの移築)

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コメント

早速の投稿、幸先よい「タブンケン」の船出ですね。面白い視点と思いました。
「七重塔」は八世紀のもので、九州王朝の時代は「五重塔」だったのではないでしょうか。

古賀さんへ
コメントありがとうございます。

そうすると,九州王朝の建てた「国分寺」には五重塔があったが,
それを聖武天皇は「七重塔に建て替えよ」,という命令を出した!と,
私などは想像してしまうのですが,いかがなものでしょうか。

 灯台もと暗しですね。確かにこの詔には国分寺を作れとの命令はなく、七重の塔を作れとしかないし、これまで丈六の仏像を作れと言ってきたし、これからは合わせて金光明最勝経を書写して諸国の寺に納め寺の名前を改めよでしかない。
 肥さんがおっしゃるとおり、既存の国府寺にまず、丈六の仏像をつくらせ、それにふかして七重の塔を作り経を納めよとこの命令は言っているにすぎません。
 こう考えると七重の塔が寺の中心域の外にある例があることの意味がよくわかりますね。
 大発見だ!。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

多元的「国分寺」研究をするのに,「国分寺建立の詔」も読んでいないとなると
議論もできないと思って,検索してみたら・・・
「あれーっ,国分寺という言葉がどこにもないぞ。
じゃあこれは一体何をするための命令だったんだ!」と気付いたのです。
そう思い直したら,これは例の「途中から書く」という手口ではないか,と。
前にも東山道武蔵路の件で,「建設記事」がないのに,
「コース変更記事」が初出で,狐につままれたみたいなことがありました。
ということで,「国分寺建立の詔」の中に「国分寺」はなかった!という題名になりました。
(ちょっと『「邪馬台国」はなかった』も意識)
これからどんな展開になるのか楽しみです。

PS 国分寺という言葉は,誰が作り,
いつごろから使われているのかな?
というのが今の疑問です。

国分寺という呼び名がいつから始まり誰が創始したのか。これは大事なことですね。ところで関連しますが、九州王朝が全国に作らせた寺は「国府寺」というようですが、これはどのような史料に依拠したものなのでしょうか。続日本紀でこの寺を単に「僧寺」「僧尼寺」と呼んで寺の名前を記さないのは、これが九州王朝創設だということが周知の事実だからでしょう。だから金光明最勝経を書写してこれを「国府寺」に納めさせ、以後この寺を「金光明寺」と呼ばせたということだと思います。そして、大和の「金光明寺」に大仏を建立しこれを東大寺と称したとき、金光明寺という名前は東大寺の別名になり、それで諸国の国府にある寺の名前を変えた。これが国分寺の寺名の由来という推理が成り立ちます。いかがでしょうか。この痕跡を史料からたどってみましょうかね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

川瀬さんが「参戦」して下されば,「百人力」です。
よろしくお願いいたします。

どのような史料に依拠したものかと問われれば,この項の最初に出ている
〈『聖徳太子伝記』に見える、告貴元年(594)の年に「66国の国府寺建立」記事〉
ということになるでしょうか。
この「聖徳太子」は「九州王朝の天子・多利思北孤」のことと考えられ,
彼が全国に「国府寺の建立」を命じたと考えているわけです。

ちょっと確認。ネット検索すると『聖徳太子伝記』と『聖徳太子伝暦』という史料があり、前者は近世のもの。後者が平安時代のもの。『聖徳太子伝暦』ではないですか。「国府寺」建立の話を伝えているのは?

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

前者だと思います。
「新古代学の扉」サイトを貼りつけますね。

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nikki10/nikki718.html

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