2020年12月15日 (火)

2つの歴史のヒストリー

先日社会科サークルで使用した「2つの歴史のヒストリー」に,

ちょっと色付けしてみた。こんな感じだ。

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A 小学・中学・高校で勉強し,会社を引退後も郷土史で勉強(復習)する

歴史教科書のストーリー

Img_8684

B 古田武彦氏の多元的古代の著作等で歴史を学び直し,

自分の頭で構築する歴史のストーリー

Img_8685

どちらが本当の歴史なのか,未来にははっきりする。

でも,生きているうちにわかりたい,と私は思う。

2020年10月14日 (水)

「古事記」には,主権国家として出ているべき10の項目が出て来ない!

山田さんの「防人」も使わせていただいて,こういうのはいかがでしょうか?

全文検索という方法で,さらにできることがあるのではないかな。

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【「古事記」には,古代官道(東山道・東海道・北陸道)も駅鈴も防人も出て来ない!】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/10/post-e30c73.html

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これは,以下の項目にも言えることでした。

・古事記には,「律令」も「暦」も「銭」も出て来ない!

・古事記には,「畿(き)」も出て来ない!

・古事記には,「大王」も「隋」も「任那」も出て来ない!

つまりこれら政治・経済・社会・外交にわたる10項目の出てこない近畿王朝の「古事記」が,

少なくとも推古天皇の時代まで「主権国家」であったはずはありえないと考えます。

では,どこの王朝が日本列島を支配していたか?

それは九州王朝であると考えるのが自然なのです。

だから日本書紀では,神武から大和王朝をスタートさせ,卑弥呼も神功皇后で隠し,

「日本列島をずっと支配してきたのは我が王朝」としなければならなかったのです。

そして,「続日本紀」は正直に告白しています。

私たちは初めて年号を定めた。

それは,701年の大宝だと。(建元=年号を始めた)

九州王朝が白村江の戦いをきっかけに滅亡した後,

ようやく「自分の番」がやってきたという訳です。

2020年10月 8日 (木)

新ガリ本の候補原稿

【新ガリ本の候補原稿】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/10/post-7a6694.html

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(0)このガリ本を読んで下さる皆さんへ(1ぺ)

(1)「神無月」の夢物語(4ぺ)

(2)方位の考古学(5ぺ)

(3)官衙の定型化の過程~近畿王朝の定型化の前に九州王朝の定型化あり(4ぺ)

 

(4)近所の神社には,古代からの歴史が刻まれている~日月神社と八雲神社と氷川神社(1ぺ)

(5)まだ発見されていない金印「親魏倭王」の大きさ(1ぺ)

(6)東北侵略でも,九州王朝は近畿王朝に先在した(1ぺ)

(7)東山道・東海道・北陸道の全文検索(「紀」には数か所,「記」にはゼロ!)(2ぺ)

 

(8)多元的「国分寺」研究サークルの現状(1ぺ)

(9)「国分寺建立の詔」には,「国分寺」はなかった!(2ぺ)

(10)国分寺周辺の地図(2ぺ)

(11)川瀬さんの「武蔵国分寺」「武蔵国府」研究(2ぺ)

 

(12)古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?(7ぺ)

(13)九州王朝は,駅鈴も作ったか?(3ぺ)

(14)ONラインは,王朝交代のライン~新年号「大宝」の建元・評から郡へ・冠から位記へ・新しい国印等(1ぺ)

 

(15)〈方位の考古学〉と瓦塔~瓦塔は,いつどの王朝が作ったものか?(1ぺ)

 

(16)古事記には,「古代官道(東山道・東海道・北陸道)」も「駅鈴」も「防人」も出て来ない!

(17)古事記には,「律令」も「暦」も「銭」も出て来ない!

(18)古事記には,「畿(き)」も出て来ない!

(19)古事記には,「大王」も「隋」も「任那」も出て来ない!

2020年10月 6日 (火)

多元的「国分寺」研究サークルの現状

このサイトを訪問して下さっている方々に,

上記のことをお知らせしておくのがいいかなと思い書くことにしました。

(1)文献的な問題

国分寺については,『続日本紀』の741年の聖武天皇の「国分寺建立の詔」が

通説では採用されていて,ここから国分寺作りが始まったことになります。

この「国分寺建立の詔」は素直に読めば,「七重塔を作れ。そうしたら金泥の経を納める」というのが主文です。

しかし,この詔には,なんと「国分寺」という言葉は原文に一回も登場してこないのです。

「国分寺はすでにあって,他の建物(七重塔以外)はすでに建てられている」ということが前提になっている(隠されている)のです。

裸の王様では,子どもが「王様は裸だ」と叫んで,事実が明らかになる訳ですが,

私たちも「国分寺建立の詔」には,一回も「国分寺」が登場せず,

すでに他の王朝(九州王朝)によって建てられていることを知る必要があります。(7世紀後半の白鳳瓦が出土など)

(2)考古学的な問題

では,考古学は「白鳳瓦」などを根拠に,の国分寺建立をもっと遡らせて考えているかと言うと,どうもそれはダメのようです。

文献同様「国分寺建立の詔」に縛られ,あるいは忖度(そんたく)し,年代判定も「741年以降に建てらてた」と

書いていてあるものが山ほどありました。〈方位の考古学〉は,考古学による成果を正しく反映させるために導きだしたものですが,

国分寺には適用できません。なにしろ,「741年から国分寺はスタートする」という固い信念の下,記述が行われるのですから。

まるで,国定教科書のように,「結論が決まっている」という訳です。

(3)突破口はないのか

しかし,突破口はあるように思います。服部さんが行っている軒瓦の研究は,国分寺研究を大きく進めたと思います。

また,寺院の伽藍配置も大切な研究だと思います。

少なくとも「741年から国分寺作りは始まった」という常識を崩すところまで,この多元的「国分寺」研究サークルの

解散はないものと考えております。

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【741年,聖武天皇の「国分寺建立の詔」】

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html

原文のなかで「国分寺」という言葉を捜してみて下さい。

すぐに1回も出て来ないことがわかると思います。

それなのに,現代語訳では,原文に「なかった」ものを,さも「あったか」のように書き加えているのです。

これはまるで,王様が何も「着ていなかった」ものを,さも「着ていた」かのように表現している訳です。

ミニ冊子「〈神無月〉の夢物語」

【「ミニ冊子〈神無月〉の夢物語」】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/10/post-2ccb44.html

上記のミニ冊子を作ってみました。

古田史学についての知見を,初めて紹介する際のお土産として,

総論的なお話があったらいいなあと思ったからです。

もちろん個々の研究は細かくやっていくのが良いですが,

それを最初から聞かされたら,せっかくのチャンスを失います。

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【出雲王朝】→【九州王朝(倭国)】→【近畿王朝】

神無月  国譲り    白村江の戦いによる敗戦

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という大まかな日本古代史のストーリーを知っていただく

ミニ冊子という感じです。

 

2020年10月 4日 (日)

「神無月」の夢物語

【「神無月」の夢物語】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/09/post-f24b97.html

2020年10月 1日 (木)

川瀬さんによる今回の「ホームラン」の解説

【川瀬さんによる今回の「ホームラン」の解説】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/09/post-4d2663.html

(1)東偏・・・5世紀中葉
(2)定型化・・・6世紀中葉
(3)正方位・・・6世紀末から7世紀初め

 

2020年9月22日 (火)

「建築の様式」から見ても訂正すべき泉官衙遺跡の年代比定

「肥さんの夢ブログ」に上記の記事を書いたので,リンクしました。

【「建築の様式」から見ても訂正すべき泉官衙遺跡の年代比定】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/09/post-3c3b95.html

Img_5931_20200922045801

Ⅰ期・・・7世紀後半~8世紀初頭

Ⅱ期・・・8世紀初頭~後半

Ⅲ期・・・8世紀後半~9世紀後半

というのが藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)

による年代比定なのだが,これだと「Ⅰ期からⅡ期という定型化の時期に,

まだまだ熱心に評制官衙を作り続けていた」という矛盾が出てくるからである。

 

2020年9月17日 (木)

泉官衙遺跡(福島県)の発掘の意義

この間私は,〈方位の考古学〉でも扱った泉官衙遺跡(福島県)について,

2つほど「肥さんの夢ブログ」に書いてみた。

6つのスライス図の前半の3枚と後半の3枚が,

あまりにその様式を異にしているからである。

とりあえず,「近況報告」として,それらをリンクしておきます。

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【「評制時代の官衙」と「郡制時代の官衙」】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/09/post-b077c8.html

Img_5932_20200919153101

                ↓

Img_5933_20200919153201

【官衙の様式変更も,「ONライン」の例の1つか】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2020/09/post-d40e2e.html

Img_7832

2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を刻んでいた泉官衙遺跡(福島県)

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左側が九州王朝の作  右側が近畿王朝の作

(連結型の官衙)   (定型化した官衙)

建物が塀を兼ねている 塀の中に官衙が配置さてれる

【評制時代】     【7世紀後半から8世紀初頭】

2020年6月15日 (月)

最終まとめのとらえ方の違い

川瀬さんから「最終まとめを」と言っていただいているのですが,

二人の間にかなり考え方の差があるようですので,そこから始めます。

私としては,古代史セミナーの発表はかなりの勇気を必要としたもので,

舌足らずとはいえ,文章も何回も書き直しをしたものです。

なので,「最終まとめ」というのは,発表後に付け加えることとして,

「100年のズレを越える地域がある」という新知見を付け加えることしか頭にありませんでした。

もちろん,発表の内容に足らない部分はたくさんあるでしょう。

全遺跡調査に至るまでのことは資料として付け加える必要があると思いますが,

それはすでにB4判74ページにわたる詳細な資料を川瀬さんが作られているので,

それを今私が「リライト」してもなあ,と思います。

川瀬さんのイメージとしては,どのくらいのものを考えていらっしゃるのでしょうか?

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