2021年7月 5日 (月)

●肥後国分寺の再検討1(川瀬さん)

●肥後国分寺の再検討1

 肥後国分寺跡は、熊本県熊本市中央区出水1丁目1−56にある国分寺付近だと考えられている。
 しかし従来考古学的発掘は、昭和45年46年に松本雅明氏らによって行われたものが唯一であった。
 『新修国分寺の研究』に収められている肥後国分寺関係の論文集「第四 肥後」の冒頭の「一 国分寺」は、この発掘調査に基づく松本氏の論文である。
 そしてこの論文による復元が従来の肥後国分寺についての理解であった。
 まずこの論文を要約してその復元を概観し、次のこの復元の問題点をつかんでおきたい。

1:伽藍配置(松本氏の復元)

 松本氏は次の「肥後国分寺伽藍復元図」のように、その伽藍と寺地を復元している。

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 すなわち回廊の内に、東に金堂西に塔を配置する「法隆寺式」伽藍の変形で、西に回廊で囲まれた塔院を置き、その東に東と南を回廊で囲まれた金堂。これらの北に、講堂と僧房を置いた、とても珍しい伽藍である。

 だがこの根拠となった遺構は極めて限られており、あとはすべて推定に過ぎない。
 根拠となった遺構は以下の通り。
(「肥後国分寺塔院・講堂復元図」を参照)

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★塔院

 現在塔の心礎は現国分寺の少し南にある「熊野神社」の境内に置かれている。
 だがもともとこの礎石はこの神社の西側の住宅地にあったもので、その位置は、現在の国分寺門前の東西の道路に直角に通じる南北の路地。この路地の途中に心礎があったと伝えられている。

a:心礎跡の確認と塔基壇の確認
 この路地を発掘して、心礎を置いた穴とその底を固めた安山岩の径20から40㎝の石多数を確認。ここから路地を東西にそして付近の民家の庭先などをボーリング調査で地中を確認したことろ、塔の基壇の端は心礎中心から6.3mの地点にあることを確認し、一辺12.6mの基壇と確認された。

b:回廊の確認
 またこの心礎中心から東に位置する熊野神社の境内に社殿の北と南に並行する二本のトレンチを入れたところ、幅5mほどの固く突き固めた黒褐色土の基壇が南北に連なることが確認された。ここは塔心礎中心からの距離は26m余の地点であった。
 さらに塔心礎中心から北に26m余の地点の現国分寺参道の脇にも南北にトレンチを入れたところ、ここにも南北幅が2m以上の規模で突き固めた灰褐色土の基壇状のものが見られた。
 (「肥後国分寺塔回廊基壇」を参照)

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 以上の調査結果から、元の塔は塔院の形をとり、東西南北のそれぞれの幅が57.5mの、回廊自体の幅がおよそ5mの回廊で囲まれていると判断された。

★講堂
 講堂は、現国分寺本堂の床下に7つの古い礎石が存在し、その規則的配置から、建物の西南の端と理解され、塔との位置関係から、ここを西南の端としてさらに東に広がる講堂の跡と推定された。

 さきの変形の法隆寺式伽藍との復元の根拠となった事実はこれだけなのだ。

★松本復元案の問題点。
a:塔院という判断は正しいのか?
 塔心礎の東26m余の所に、幅5mほどの南北に連なる回廊があったことは確実。だがこの回廊が塔の北にも回っているとの判断の根拠は、現国分寺参道脇のトレンチから見つかった南北幅3m以上の基壇だが、この基壇の土は灰褐色土であるのに対して、熊野神社境内から見つかった幅5mの南北の基壇は黒褐色土である。
 松本氏はこの土質の違いを無視して、一連の塔の周りを取り巻く回廊と判断している。
 これは勇み足ではないか。
 塔の東と北にほぼ心礎から等距離で回廊状の基壇があることは事実だが、これが塔の周りを囲むとは断定できず、むしろ基壇土の違いから、心礎の東の回廊と北の回廊は異なる時期に作られた回廊の一部と判断することも可能である。
 したがって塔院との判断は保留せざるを得ない。

b:塔の北の建物は講堂なのか?
(「肥後国分寺講堂復元図」を参照)

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 塔の北、現国分寺の地下に古い時代の礎石が残存し、それらが付き固めた基壇の上にあることは事実だ。
 だが現存するのは7つの礎石であり、「肥後国分寺講堂復元図」に見られる「4」の石は、現本堂の須弥壇の礎石として「5」の礎石を割った東半分をここに移動したものだが、他の六つの礎石は完形でなく一部を砕かれたものもあるが、元位置を動いていないと判断されている。
 しかしこの礎石列の東側は現国分寺本堂よりも70~80㎝地面が低くなり、そこにある礎石状の石も庭石として配置されたものなので、元位置を復元できない。
 松本氏は東側の民家が現本堂に比べて低いのは後世に地面が掘削されたからと即断しているが、これは早計である。
 現本堂の床下にある古い礎石は、元の位置を保っている六つの礎石で判断すると、建物の規模は東西南北それぞれ10m弱のもので、塔との位置関係を考えると、経堂か鐘楼。それも古代かどうかは確定できない。

 こう検討すれば、変形の法隆寺式との松本復元案は机上の空論に過ぎないと思う。

c:松本復元案の方位は?
 もう一つ問題なのは、松本氏の講堂復元図や塔院・講堂復元図には方位記号が記されているが、それが磁北を示すのか、真北を示すのかが不明なことだ。
 本論文に掲載された「肥後国分寺の地割」(「肥後国分寺伽藍復元図」として本論には掲載)は、その街路などの向きからして、伽藍が真北で復元されたように見える。
 だが塔院・講堂復元図と同じ場所をGoogleマップで確認すると、どうやら元図は「磁北」で作られていることがわかるのだ。
 (「肥後国分寺塔院・講堂Googleマップ」参照)

Google

 松本氏の復元図で塔院の回廊の向きを方位記号と比べてみれば、まったく一致しているので、松本氏は肥後国分寺伽藍を磁北で、つまり西偏で復元されたことがわかる。
 だが冒頭に見た「伽藍復元図」ではそれは真北で復元されている。
 この復元図は松本氏の発掘に基づいた「塔院・講堂復元図」の方位記号を真北と誤解してつくられたものであると思う。
岡山理科大学の日本考古磁気データベースで肥後国分寺の場所での磁北の変化を確認する。http://mag.center.ous.ac.jp/
 これによると、肥後国分寺の場所での磁北の変化は以下のとおり。
 2000年 西偏7.5度
1980年 西偏7.2度
1960年 西偏6.9度
 松本氏の調査は昭和45年46年だから1960年の西偏6.9度がこの時期の磁北だ。
 とすれば松本氏の復元案は西偏6.9度で伽藍を想定していることになる。
 「伽藍復元図」は、伽藍復元案を真北ではなく、西偏6.9度で作り直すべきだと思う。

 ※注:この松本復元案が西偏6.9度の磁北で作られているという認識は重要である。なぜなら、後に見るように、多くの論考が、肥後国分寺を真北の伽藍として考察してしまい、そのため肥後国分寺と肥後国府周辺の条理遺構が西偏であることと齟齬をきたし、このままだと国分寺の成立過程やその性格の把握に間違いが生じるからである。

なお2020年の磁北を調べると、国土地理院地磁気測量
https://vldb.gsi.go.jp/sokuchi/geomag/menu_00/index.html
の1999/1/1~2020/6/30のデータを使用して作成した地磁気時空間モデルを使用して計算すると、
 2020年 西偏7.18度
である。
  磁北は常に移動しているので、考古学発掘に基づく遺跡や遺構の図面を正確に把握できなくなる。やはり真北もしくはこれと同等の座標北を基準に遺跡や遺構の図面は作られるべきであり、どうしても磁北で測定されたものは、その図面作成時点のその地点の磁北の数値を明記する必要があると思う。

 

2:出土瓦から見た国分寺の変遷、

 松本論文には肥後国分寺から出土した軒瓦の一覧がある。
 まず軒丸瓦を見ておこう(「肥後国分寺軒丸瓦」「肥後国分寺軒平瓦」を参照)。

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1:複弁8葉蓮華文軒丸瓦
 松本氏はこれを創建瓦とする。国分尼寺でも出土。つまり8世紀中頃の瓦と見ている。
2:単弁8葉蓮華文軒丸瓦
 蓮弁の周囲に唐草文を施す。国分尼寺でも出土。これも外郭は重圏文。8世紀後期とする。
3:複弁8葉蓮華文軒丸瓦
 新羅系統の瓦の影響と松本氏は見る。8世紀後期。
4:複弁8葉蓮華文軒丸瓦
 蓮弁は二重の線で描かれる。平安時代初期。
5:単弁8葉蓮華文軒丸瓦
 2と同様に蓮弁の外側に唐草文を施す。平安時代初期。
6:単弁10葉蓮華文軒丸瓦
 平安中期としている。
7:2の小片。
8:単弁8葉蓮華文軒丸瓦
 蓮弁は輪郭線だけで表す。平安末期。
9:単弁18葉蓮華文軒丸瓦
 熊本市池上町の池辺寺塔跡から同じものが出土。平安末期。
15:単弁8葉蓮華文軒丸瓦
 2とよく似る。退化形式化。平安初期。
16:複弁8葉蓮華文軒丸瓦
 平安前期か。

 軒平瓦は次の通り。
10:均正唐草文軒平瓦
 1の複弁8葉蓮華文軒丸瓦とセットの瓦と見る。
11:均正唐草文軒平瓦
 10の変形。国分尼寺でも出土。2の単弁8葉蓮華文軒丸瓦とセットの瓦と見る。唐草文の下は重圏文。
 以上二つが奈良時代の創建瓦とし、その他の12・13・14・17・18・19は皆、平安時代初期から後期と見る。
 
★松本氏の年代観の疑問点
 松本氏は国分寺は聖武詔でできたと考えているので、創建瓦は8世紀中頃とする。
 このため蓮弁に子葉が表現されていない瓦、いわゆる素弁瓦と見ることのできる8・9は、退化した瓦とみなされて平安時代末期にされてしまっている。
 だがこれらは6世紀末頃に比定されるべきもの。
 これらの素弁瓦が創建瓦と見るべきだ。
 さらに肥後国分寺の軒丸瓦の中に、8世紀初頭から中頃の平城宮瓦とよく似たものが見られる。
軒丸瓦1:松本氏は注目していないが、最も外側に重圏文を施しており、これとよく似た瓦が平城宮からも出ている(「平城宮瓦6235E」を参照)。

6235e


軒丸瓦6:この瓦も蓮弁の外側が重圏文になっており、これとよく似た瓦が平城宮から出ている(「平城宮瓦6127A」を参照)。

6127a


 つまりこの二つの瓦は6世紀末に作られた最初の寺院が、8世紀中頃の聖武詔で改造された可能性を示している。

 「新修国分時の研究」所収の松本氏による「肥後国分寺」についての論文の概要とその疑問点は以上の通りである。
 この論文の元になった昭和45年46年の発掘以後、熊本市のさらなる都市化に伴い、消滅する恐れのある国分寺遺構を探るためいくつか本格的な考古学的発掘が行われている。
 そのうちの現国分寺のすぐ北側の区画整理事業に伴って行われたE地点の発掘は、松本試案とはことなる、肥後国分寺の様相を明らかにしている。
 『新修国分寺の研究』では、松本論文に続いてこのE地点の発掘の成果について詳しく記してあり、さらにこの昭和56年の発掘の報告書はネットでも見られるので、項を改めて、その後の発掘成果を見ておこう。

2021年7月4日
※肥後国分寺については、3月2日から28日にかけて、肥沼さんが再検討したものを川瀬がチェックして論じたものがあるが、元資料を見ていない人には何を論じてるか不明な点が多いので、ここに川瀬が再度資料を精査して再検討し、文章化した。

2021年5月31日 (月)

●大隅国分寺の再検討(川瀬さん)・本文に図を挿入した版

●大隅国分寺の再検討

 大隅国分寺跡は鹿児島県霧島市国分中央1丁目23−1794、旧国分町の市街地のど真ん中にある。

(「大隅国分寺跡の位置」を参照)

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 国分の市街地は、関ヶ原の合戦に敗北した島津義久が、1604年に新たに築いた城・舞鶴城と城下町がもとになったものである。
 市街地の一番北にある国分小学校が旧御殿跡で、その北にある標高192.6mの城山と呼ばれるところが詰めの城。その南側に碁盤の目状に作られた街路で区切られて城下町が作られた。この近世城下町がそのまま継承された市街地だ。
 この市街地は、標高8~11mの微高地に作られ、市街地の街路の方位は東偏30度である。
 この旧御殿跡の西100mほどの所に、北辺30m、東辺60mほどの長方形の区画が大隅国分寺跡であり、旧国分寺の遺構としては、その西北中央付近に六重の多層石塔と半身の石製仁王像などが残されている。
 明治初年において廃仏毀釈によって寺院が廃絶したときの状況は、この長方形の地の北側が国分寺で、観音堂が一つと石塔のみの小さな草庵であり、南側が墓地であった(『新修国分寺の研究』所収の「第八大隅」論文などによる)。

(「大隅国分寺跡石塔」を参照)

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『新修国分寺の研究』所収の「第八大隅」論文では、この国分寺跡の考古学的調査はなされておらず、確認できるのは、前記の六層の石塔の三層に「康治元年壬戌十一月六日」の銘があり、このころまで存続していた国分寺であるが木製の塔を失い、康治元年、すなわち1142年にその再興を願って建てられたのがこの石塔ではないかと論じている。
 さらにこの地が大隅国分寺跡に違いないと断定する根拠は、この地で採集される古瓦であり、その軒丸瓦の瓦当文から奈良時代後期の特徴を持っていると判断できるからである。
 
 その後調べてみると、昭和56年と62年に緊急発掘がなされ、さらに国分寺跡の範囲確認のために、平成11年度から13年度まで霧島市教育委員会が鹿児島県教育委員会の協力を得て考古学調査をしたことが確認される。
 しかしこれらの調査の報告書はネットでは公開されていないが、鹿児島県文化振興財団「上野原縄文の森」が公開している文書「大隅国分寺跡」https://www.jomon-no-mori.jp/old/sensikodai/319.pdf
に、発掘の成果の概略が記されているので、これに基づいて考察する。

1:伽藍について

 大隅国分寺に関する遺構として出てきたものは、その寺域北限と見られる「溝遺構」と、この溝近くで出土した「柱穴列」だけである。

(「大隅国分寺・溝遺構」「大隅国分寺・柱穴列」「大隅国分寺跡周辺地形図」を参照のこと)

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 溝遺構は、昭和62年の調査で出土した。大隅国分寺跡の北西150mほどの所だ(鍛冶屋馬場遺跡)。
 溝1は幅5.6m、深さ2.0mの規模で遺構断面図からわかることはV字型をした薬研堀と呼ばれる形式の溝である。そして溝2は幅0.8m、深さ0.9mの規模で、断面図からはU字型の溝である。最後にこの溝2に並行して走る溝3は、幅0.4m、深さ0.25mであった。
 どちらの溝も方位は東偏10度。
 この溝はさらに、平成11年から13年の確認調査でさらに西に延びていることが確認され、寺域北限の溝とされている。
 しかしV字型の薬研堀の溝は中世から江戸時代に特有な溝なので、これは古代の寺院の北限溝という判断は当たらないと思う。図にあるように溝のすぐ横に接続する形で、径6.2m、深さ1.1mの土坑があり、これはため池と考えられるので、溝1は水田や畑を潤す感慨水路と思われる。古代の寺院北限と見るべきはU字型をした溝2の方であろう。
 この溝の方位は先に見たように東偏10度で、島津義久によって作られた近世城下町の東偏30度とは異なるので、確実に他の時代の遺構である。そして古代の寺院や官衙を取り巻く区画溝の特徴は底がU字型であることに鑑み、溝2をどの時代とは確定できないが、すぐ東南にある国分寺の北限区画溝と考えることは可能である。
 どの溝からも底から見つかる遺物の大部分が布目瓦であるとのことだから、古代の国分寺が廃絶した後で掘られた溝という可能性もある。大隅国分寺は何度も廃絶しては再興されているので、この幾度かの再興時の北限区画溝とみることもできる。

 そしてもう一つの遺構は、平成11年から13年にかけての確認調査で見つかった、柱穴列だ。
 この文書では、当初はその位置から寺院食堂跡ではないかとの想定で調査したが、当時の国分寺食堂に該当しないとし、目的はわからないが国分寺の建物の一つとしている。
 遺構図を見ると、東西2間以上、南北4間以上の規模の掘立柱建物である。この建物の方位は真北、正方位で建てられた建物である。

 以上の二つの遺構からわかることは、北限溝遺構からは、大隅国分寺の前身寺院として、東偏の寺院があったのではないかとの想定が可能である。つまり大隅国ができたのは、713年和銅6年に、日向国から、肝坏(きもつき)、囎唹(そお)、大隅、姶(あいら)の4郡を割いて建国したことに始まり、その後囎唹郡より桑原郡を分出し、さらに755年天平勝宝7年には菱刈(ひしかり)郡をその北に新設し、824年天長元年には多褹島(たねのしま)を廃して大隅国にあわせ、熊毛(くまげ)、馭謨(ごむ)の2郡を置いたことに始まる。
 大隅国府と国分寺が置かれた場所は桑原郡であるから、ここにはここが日向国の囎唹郡であった時代のなんらかの役所と寺院があった可能性がある。そしてこれらは近畿王朝の前の九州王朝時代に遡る可能性もあるから、この九州王朝時代の寺院の北限溝である可能性が示されるわけだ。
 ただし先に見たように、国分寺は何度も廃絶しては再興された。
 『新修国分寺の研究』所収の「第八大隅」論文によれば、最初の廃絶は平安末期から戦国末期の間。天文年間に隣接した村・清水村の寺院の住職がその末寺として再興したとの記録がある。天文年間だから1532年から55年、後に見る磁気偏角(磁北が真北からずれる角度)永年変化表で確認すると、このころのこの地の磁気偏角は東偏であるので、この戦国末期の再建の際の北限区画溝と見ることも可能である。

(「大隅国分寺付近磁気偏角変遷図」参照)

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 また正方位の柱穴列=掘立柱建物からわかることは、当初は東偏で作られた寺院が、いつの時代かに正方位で建て替えられた可能性を示すのだ。
 正方位で寺院が建てられたのは、九州王朝時代の6世紀末から7世紀初頭、次は近畿王朝時代の8世紀になってからのこと。正方位の掘立柱建物は、このどちらかの時代に属する可能性がある。前者なら葺かれた瓦は素弁蓮華文軒丸瓦。後者なら、この地で多数採集される、平城宮系の単弁蓮華文軒丸瓦である。 
 さらに2021年4月3日の新聞によれば、大隅国分寺跡に残された六層の石塔を解体修理する工事に際して、石塔の直下から、木造塔の心柱を支える塔心礎とその他の礎石が見つかったことが報じられている。
 この発見は2月末に終了した石塔の修復作業中のこと。塔心礎は楕円形で最長部の直径は約1.5mで、中心に柱を置く穴と見られる直径27㎝深さ7㎝の穴が開いていた。

 (「大隅国分寺塔心礎」を参照)

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 この塔心礎などの礎石は発掘状況から、元の場所から移動したものと判断されて掘り出されて移動された。残念ながら元あった場所はわからないが、元の木造塔が何らかの原因で失われたあと、塔再建を願って六層の石塔が建立され、さらにその地下に塔心礎などの礎石を埋納したのではないかと考えられている。
 この塔心礎の大きさと柱穴の直径から、木造塔の大きさはあまり大きなものではないことはわかっている。

 大隅国分寺を物語る遺構は以上の通り。
 まだまだどのような伽藍であったかは五里霧中の状態である。

2:出土瓦からわかること

 先の文献には、出土瓦の分類図も掲載されている。

(「大隅国分寺軒丸瓦分類」を参照)

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 全部で5種類の軒丸瓦が確認されている。
 Ⅰ類からⅣ類までは、蓮華文軒丸瓦の蓮花弁の形が細長い形態から、平城宮瓦の系譜を引く、単弁蓮華文軒丸瓦ではないかと思われる。この文様からは8世紀中葉から後半が想定できる。またⅤ類は、蓮花の外側に巴文が彫られていることから、これは平安時代、つまり9世紀以降の瓦であることがわかる。

 この出土瓦からわかることは、寺院創建は聖武詔の出された8世紀中葉以後、その後平安時代までは存続したことは確実である。
 だが先にみた寺院北限溝が東偏であることを考慮すると、8世紀中頃の瓦よりも古い、7世紀代の瓦がまだ土中に眠っていることも想定できる。
 先に見た長方形の史跡に指定されている区域はおそらく大隅国分寺の寺院中枢域であろうが、この地域は瓦の表面採取はなされたが、本格的な考古学調査はなされていない。大隅国分寺の全体像を明らかにするためには、周辺の地区の調査だけではなく、この史跡に指定された地区の本格的調査が望まれる。

3:国府との位置関係

 大隅国府は、大隅国分寺跡の西1㎞ほどにある国分府中町がその地として想定されている。ここは国分寺跡のある台地の西方で、間に低地を挟んで対峙する台地で、現在はこの台地の北から西側を流れて天降川に合流する手籠川が、昔は台地の東側を流れてそのまま直接鹿児島湾に注いでいた。
 この川の痕跡は地図をみてもわかる。

(「大隅国分寺付近地形図」を参照)

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 国分府中の町がある台地のすぐ南側で日豊本線の線路の北側の地は、府中の町と同様に東偏3度の街路や畦道となっている。しかしその南の田園地帯は西偏5度の街路や畦道となっており、この地区の東に接する国分の市街が東偏30度となっていることと大いに異なる。
 そして国分市街のすぐ南の旧田園地帯の街路や畦道は東偏25度で、二つの地区が交わるところから南、鹿児島湾に至る地域の街路や畦道は正方位となっている。
 おそらく手籠川は、府中台地と国分台地の中間を南進し、西偏5度と東偏25度の旧田園地帯の境を南下して、そのまま正方位で区画田園化された地域を通って鹿児島湾に至っていたものと思われる。
 
 この府中台地と周囲の田園が東偏5度で整地されていることは興味深い。
 「第八大隅」論文では国府が置かれたと想定される台地もまったく考古学調査はなされず、府中の中央に鎮座する公守神社周辺が国府で、その西に古瓦の出土する台地の西端の地付近が国分尼寺のあった場所と想定されていると記している。
 国府の西に尼寺が隣接し、国分寺は間に川を挟んだ1㎞東という想定もこの論文が記すように不自然である。
 むしろ府中台地には、もともと九州王朝時代に何らかの東偏の官衙が設けられ、近畿王朝時代になってここが日向国から分離独立し、この地に日向国府が作られるに際して、府中台地は狭いので、その東のより広い国分台地にも何らかの東偏の官衙や寺院があったので、ここに、新たに国府と国分寺・国分尼寺が正方位で隣接して作られた。だがいつの頃か、府中との地名は室町時代に国府があったことを示す地名なので、室町時代に後に府中と地名が付いた地に、国府が移動したと考えた方が妥当と思われる。
 この場合には、元々の国府は国分寺のすぐ東にある国分小学校、そして国分尼寺は国分寺のすぐ北側ではないだろうか。
 国分寺跡の西1㎞ほどに「向花」という地名がある。
 国分尼寺は、大隅法華滅寺と近畿王朝時代には呼びならわされていたので、法華寺と通称されていた可能性がある。この「華」の字が「花」に転化し、法華寺に向き合った地として「向花」という地名ができた可能性がある。
 こう考えると国分尼寺は国分寺跡のすぐ北500mほどの九州学院大学南の広い空き地に想定できる。

 そして府中台地が東偏5度で整地され、国分寺北限とされる溝が東偏10度であったことは、これらの役所や国府と国分寺とされる遺構が、6世紀中頃の九州王朝時代の何らかの役所か評衙と評寺であった可能性を示すものと言わざるを得ない。

 なお国分の市街地が東偏30度で作られていることは、1604年にこの城と城下町が作られた時代の磁石の北は、正方位に対して東偏であったことに由来するものと思われる。
 ちなみに、岡山大学の日本考古地磁気データベース、
http://mag.ifst.ous.ac.jp/による地磁気永年変化モデル(JRFM2K.1)による計算結果では、1604年の磁気偏角は5.7度である。古代の窯跡などで出土する焼土などから算定した古代磁気偏角の復元であるから、実際の数値とは異なるが、1604年に国分の市街ができた当時の磁石の指す北が、東に偏っていたことは確認できる。
 またこのシステムによって、聖武詔が出された741年のこの地の磁気偏角を算出すると、それは西偏11度。そして西暦400年から2000年までの磁気偏角の永年変化を見ればわかるように、ここに寺院が作られたと想定できる6世紀から8世紀の時代は磁気偏角は西偏であり、こうした時代にこの地に、東偏や正方位で寺院を作ることは、磁石に頼った設計ではない、政治的な意図があったことを示すものと思われる。

(「大隅国分寺付近磁気偏角変遷図」を参照)

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 大隅国分寺の再検討は以上である。

2021年5月30日

 

2021年5月24日 (月)

●日向国分寺の再検討4

●日向国分寺の再検討4

 本稿では、日向国府との関係を論じる。

〇はじめに:

 日向国府は従来、日向総社と推定されてきた児湯郡三宅村大字三宅に鎮座する三宅神社(国分寺の北西0.5㎞ほどの所にある)の周辺か、同じ大字内で国分寺の南0.6㎞に鎮座する印錀神社周辺と考えられてきた。
 しかし、日向国分寺跡から北に1.4㎞の所にある寺崎遺跡は、従来から古瓦が出土し、さらに古代の硯も出土していることから注目され、昭和63~平成12年度にかけて、宮崎県教育委員会の調査により同遺跡から、正殿・東脇殿・西側築地塀などの遺構が確認された。また「国厨」と墨書を施した土師器婉や円面硯。石帯。土馬などの遺物も出土し、平成12年3月、国史跡として指定を受けた。
 また「平成3年から4年にかけて行われた県教育委員会による調査で、寺崎遺跡のすぐ東にある上妻遺跡からも多量の布目瓦が出土し、その中には豊前金剛宝戒寺
(大分市)と同箔の可能性の強い白鳳様式の百済系瓦(単弁八菓蓬華文軒丸瓦)が見られ初期の国衙あるいは寺院が想定される」としている(1994年刊宮崎県教育委員会「国衙・郡衙・古寺跡等範囲確認調査概要報告書Ⅲ」)。


 (「日向国分寺と日向国府関係地図」を参照)

 さらにこの寺埼遺跡を、西都市教育委員会が、平成22年度から平成27年度にかけて再調査し、従来の県教委の調査では部分的にしか確認されていなかった、正殿などの中枢建物の全体像を明らかにし、かつ史跡の保存と活用の方法を探るための調査を行った。
 この結果、8世紀後半から12世紀初めまでのⅢ期にわたる国庁遺構と、その下部に、7世紀末から8世紀中葉のⅢ期にわたる前身官衙遺構とが確認された。
 そしてこの前身官衙からは「主帳」と墨書した土器があり、郡衙的な機能も想定される。

 これらの官衙遺構の年代は、方位の考古学の成果に基づいて修正すれば、それぞれ
★前身官衙:6世紀末から7世紀中葉。
★日向国庁:7世紀後半から12世紀。
 となる。

 日向国分寺は再検討2・3で指摘したように、6世紀末から7世紀初頭に始まる、回廊内に塔と金堂がならぶ古式伽藍で、創建瓦は素弁蓮華文軒丸瓦である。そして寺院の伽藍中軸線は東偏3から5度。
 この国分寺に対応した国府であれば、その年代は6世紀末から始まるもので、その方位も東偏でなければならない。なぜなら国府が先に作られ、その付属寺院として「国分寺」が建てられるものだからだ。

 こう考えると、前身官衙は年代的に日向国分寺に対応してはいるが、その性格が郡衙であるならば、6世紀末から始まる日向国府は別の場所にあるはずである。
 寺崎遺跡から確認された日向国庁は、7世紀後半からであるから、それ以前に6世紀末に創建された別の場所の国府が、7世紀後半にここに移動したと考えることが可能である。
 そしてこの前身官衙や日向国庁の方位が東偏なのかどうか。ここも確かめねばならない。

 そこで本稿では、この国庁遺構と前身官衙遺構の詳細を調べ、これが日向国分寺に対応した日向国庁であるかどうかを確認したい。

 ただ残念ながら、西都市教育委員会の調査の最終報告書である平成27年の報告書は、ネットでは公開されていない。奈良文化財研究所のデータベース、全国遺跡総覧で確認できるのは、平成23年度と平成24年度のものまでである。
 またネット上には平成26年度までの成果をもとにした「日向国庁遺構配置図」に平成27年度の調査区を図示したものが掲載されている。
 「律令時代の日向の中心地」https://23871594.at.webry.info/201710/article_1.html
 さらには、奈良文化財研究所データベースの一つの「古代地方官衙関係遺跡データベース」(現在調整中)には日向国府の遺構概要がまとめられている。

 本稿では、この「古代地方官衙関係遺跡データベース」のデータと、「日向国庁遺構配置図」をもとに考察する。


1:日向国庁遺構と前身官衙遺構

 (「日向国庁遺構配置図」を参照)

●前身官衙
 この官衙は、いわゆる長舎型官衙であって、南北に二棟ずつ、東西に二棟ずつの長い掘立柱建物がぐるっと周囲を囲んだ空間に、四面廂と考えられる東西棟の主殿を置き、南側の二つの長舎の間に、大型の八脚門を置いた建物配置となっている。その規模は南北およそ70m、東西およそ50mで、官衙中軸線の方位はほぼ真北である。
 発掘の結果Ⅲ期にわたる遺構が確認され、二度の建て替えがなされていることが分かっている。
 
 Ⅰa期(前身官衙)・・・7世紀末葉~8世紀中葉      ※・・・主殿 東西棟・0°4面廂か
 Ⅰb期 同上
 Ⅰc期 同上

 方位の考古学の成果により年代を修正すれば、
 6世紀末葉~7世紀中葉の遺構となる。

 この規模と建物配置から、明らかにこの前身官衙は、郡衙もしくは評衙と考えられる。すなわちこの遺構の有る郡は日向国児湯郡だから、児湯郡衙、もしくは児湯評衙である。
 年代は方位の考古学の成果により100年上に年代をずらすので6世紀末葉から7世紀中葉となり、この年代からは初期の児湯評衙と考えられる。つまり行政組織が評から郡に代わるのが西暦700年頃であるから、中後期の児湯評衙と児湯郡衙は、こことは別の場所に作られたことになる。

 したがってこの前身官衙は、日向国分寺と一体のものとして作られた日向国府と同時代の、評の政治の中心となった評衙と考えられる。

 さらにこの寺崎遺跡のすぐ東にある上妻遺跡から、豊前金剛宝戒寺(大分市)と同箔の可能性の強い白鳳様式の百済系瓦(単弁八菓蓬華文軒丸瓦)が出土している件であるが、この瓦は九州では7世紀後半の白鳳期と認識されているが、明らかに素弁蓮華文軒丸瓦であり、実年代は6世紀末から7世紀初頭を下るものではない。
 したがってこの前身官衙と同時代の遺構となり、おそらく児湯評衙とセットとなる、児湯評寺と考えることができる。

●日向国庁
 この官衙は、南北二面廂の東西棟の正殿を中心に、その少し南側東西に、南北二棟の長舎型の東西の脇殿を、全体として品字型に配置し、その周囲を築地塀で囲み、北と南に大型の門を配置した構造である。
 その規模はおよそ南北110m、東西100m。

 この官衙の変遷は以下のとおり。
 Ⅱa期(国庁)・・・・・・8世紀後半            ※正殿 東西棟・1°E 二面廂
 Ⅱb 同上 ・・・・・・8世紀末葉~9世紀初め
 Ⅱc 同上 ・・・・・・9世紀中葉          ※ここから礎石礎石建物となる
 Ⅱd 同上 ・・・・・・9世紀末葉~10世紀前半
 Ⅲ期 同上 ・・・・・・11世紀末葉~12世紀初め    ※正殿 東西棟・8°E 二面廂
             

 国庁は全部で5期にわたる建物なわけだが、その最初のⅡa期からⅡd期までは、東偏1度というほぼ正方位で建てられた。そしてa期からb期は掘立柱建物であったが、c期からは礎石建物となる。
 そしてⅢ期で建物は大きく建て替わり、東偏8度となる。
 ここまでが古代の国庁だ。

 方位の考古学の成果により年代を修正すれば
 Ⅱa期・・・・・・・・・・7世紀後半
 Ⅱb期・・・・・・・・・・7世紀末葉~8世紀初め
 Ⅱc期・・・・・・・・・・8世紀中葉~9世紀中葉
        ※ここから礎石建物
 Ⅱd期・・・・・・・・・・9世紀末葉~10世紀前半
 Ⅲ期・・・・・・・・・・11世紀末葉~12世紀初め
 
 この国庁は7世紀後半にこの場所に正方位で作られた。この7世紀後半とは、いわゆる大化改新(九州王朝の年号では常色)で全国的に公地公民制が敷かれ、それまで諸豪族のものであった土地や人民すべてが、天皇の物に変えられた時期に相当する。つまり従来の地方豪族主導下での国府から、中央政府主導下の国府に組み替えられた時期だ。
 要するにこの日向国府は、九州王朝の中央政府主導下の国府として従来の国府に代わって新たに作られた国府という性格を持つと考えられる。
 そして11世紀末葉、つまり平安時代中頃には東偏8度で建て替えられ、12世紀初め、すなわち平安時代末まで続き、その後どこかに移動したということだ。これは、平安時代末では国庁消滅には早すぎ、国庁消滅は通常室町期と考えられるからだ。

 やはりこの日向国庁は、6世紀末から7世紀初頭に東偏3度で建てられた日向国分寺に対応した国庁ではないことは明らかである。
 したがってやはり、日向国分寺に対応した初期日向国庁は、この寺崎遺跡の地ではないことは確実だ。

2:日向国分寺に対応した初期日向国庁はどこに?

 なお日向国分寺のネットで見ることのできる報告書の最後の(2009年刊)『日向国分寺 主要伽藍及び寺域の確認調査』には、国府についての最新の知見がまとめられていた。
 すなわち、
 「平成12年には国分寺跡の北1.4㎞のところに、9世紀中頃の国府跡が見つかり国史跡に指定されたが、逆にこのことによって印錀社周辺に創建期の日向国府がある可能性が高いことが確かめられている。」と。

 通説では国分寺は8世紀中頃の聖武詔で作られたとなているのだから、この時期に確認されていた礎石建物の国庁建物は9世紀中葉と判断されていたので、どうみても国分寺に比べて100年もあとのものだ。
 したがってそれより前の初期国庁は、従来から考えられてきた、国分寺の南0.6㎞の所にある印錀神社周辺と考えたわけだ。
 その後の発掘調査で日向国庁の年代はさらに早まり、掘立柱の最初の国庁の年代は、8世紀後半とされた。
 この年代であれば、聖武詔で作られたと考えられてきた国分寺の年代は8世紀後半だから、まさにこの寺崎遺跡で見つかった国府が、国分寺と同時代の初期国府となるの。したがって、先の報告書(2009年刊)『日向国分寺 主要伽藍及び寺域の確認調査』の、「印錀社周辺に創建期の日向国府がある可能性が高い」との見解は撤回された可能性が高い。

 だが、私たちは方位の考古学の年代法により、日向国庁の年代を上記のように7世紀後半以後の遺構と修正した。
 これに依拠すればこの国庁は、日向国分寺よりも100年ほど後の時代の国庁となる。

 では6世紀末から7世紀初頭に創建された日向国分寺に対応した初期国府はどこにあったのだろうか。

 これは日向国分寺の遺構と遺物から明らかになった性格が指し示している。
 日向国分寺は先に、再検討2・3で見たように、
 伽藍形式:回廊と講堂に囲まれる空間の中に塔と金堂が東西にならぶ形式。おそらく観世音寺式で伽藍中軸線は東偏3度。。
 ということはその伽藍形式からは7世紀前半の古式の寺院であることは確実であり、東偏ということで、九州王朝がその官衙や宮や寺院を東偏に取った時代、すなわち5世紀中頃から6世紀末までの時代に属することも確実である。
 したがってこの寺院は、九州王朝時代の初期国府に付属した「国寺」と呼ばれた寺院であることは確実である。
 そうであれば、この寺院に対応した国府は、その直ぐそば、1㎞以内の所にあったと思われる。

 報告書は日向国分寺の立地を次のように記している。
「市の北には熊本県境の西米良村から派生した県下第3位の水量を誇る一ツ瀬川を始め、中央に三納川、南に二財川が東流し、日向灘へ注ぐ。西都平野の右岸はほば―ツ瀬川の浸食により形成された沖積平野であり、沖積平野の西には洪積世台地が南に向かつて舌状に延びる。この洪積世台地上の標高50~ 80mには国指定特別史跡西都原古墳群が所在し、台地東側には南北帯状に標高約20~ 30mの中間台地が延び、さらに下ると標高12m程の沖積平野である市街地へと至る。日向国分寺跡はこの中間台地のほば中央、西都市大字三宅宇国分に所在する。」

 北から南に舌状に延びる洪積世台地と沖積平野の間に台地にそって北から南に延びる中間台地のほぼ中央に国分寺は存在するわけだ。

(「日向国分寺周辺遺跡と地形」を参照)

 この近辺で国府を作れる平坦地で、しかも河川の洪水被害を受けにくい場所は限られている。
 一つは国分寺の北西0.5㎞ほどの所にある台地上の三宅神社の東側の中間台地上。つまり日向国分尼寺跡と推定される県立妻高等学校と日向国分寺の中間点。もう一つは、国分寺の南0.6㎞の所にある印錀神社周辺の中間台地先端部。
 この二つである。
 三宅神社の東側の中間台地に初期国府があったのなら、国府のすぐ北側0.3㎞に国分尼寺、国府の南0.6㎞ほどに国分寺が置かれたことになる。
 また印錀神社周辺に初期国府があったのなら、国府の北0.6㎞の所に国分寺が置かれ、そのさらに北0.6㎞の所に国分尼寺が置かれたことになる。

 このどちらであろうか。
 判断する材料は三宅神社と印錀神社という二つの神社の性格にある。
 『新修国分寺の研究』所収の論文「第七 日向」には両神社についての詳しい史料を伴う記述がある。
 三宅神社はもともとは覆野大神宮というニニギノミコトを祭る神社であったが、後には福野八幡宮と名前を変え、八幡神を祭る神社に変わる。三宅神社と改名したのは明治4年のこと。
 現在の祭神にはニニギノミコトはないが、その子とされるホホデミノミコトが祀られ、もともとはかなり古い神社と思われる。また八幡宮となった痕跡は、祭神に八幡神とされている応神天皇(誉田別命)が祀られていることに示されている。

 八幡宮の大本である宇佐八幡宮の勢力が日向に延びてきたのは、8世紀初期の日向・大隅隼人反乱の後である。
 列島支配権が近畿王朝に移ったあと、班田収授の法の施行を巡って国府と現地住民との対立が起こり、ついには、現地豪族を頭とした反乱がに発展する。
 この反乱に際して、先に鎮定された日向が、大隅の隼人反乱鎮圧の前線基地となり、隼人反乱鎮圧の主力を担った宇佐八幡宮の勢力が日向に進出してくる。
 日向国庁遺構の時期でいえば、Ⅱ期a~bの時期。
 そして宇佐八幡宮の勢力が日向に延びてくるとともに、古来この地域の中心であった神社に宇佐八幡が合祀されたのではないだろうか。
 この結果古来の中心で、後の時代でも「上の宮」と呼ばれていた覆野大神宮が福野八幡宮と名を変え、引き続き、新たに総社となった都萬神社や日向一宮である都農神社を従える地位を持っていたたのではなかろうか。
 そして「大光寺文書」という中世の古文書には、「日向留守所」の下文として、留守所が穂北郷の田を、僧覚金に命じて、八幡宮の仁王講田として運用させたという資料が残っている。
 留守所とは、平安時代末になると国司は現地に赴かず、現地の在庁官人たちに国政を委ねることとなった。このため国府には国司がいないので、国庁を「国府留守所」と称するようになったものだ。
 実質的には国府だ。
 その日向国府留守所が八幡宮と密接な関係を持っていたことを示す先の古文書の年代は、文治3年(1187年)9月。文書には実質的な国府の支配者である権介の日下部氏の名が記されている。
 日下部氏とは、都萬神社の神官の一人であり、次第に勢力を拡大して、日向国庁の在庁官人の筆頭になった一族だ。
 この時期は治承寿永の争乱(源平合戦)の最中であり、12世紀の末である。寺崎遺跡で見つかった日向国庁遺跡でいえばⅢ期の終末以後。つまり寺崎の日向国庁が廃絶して、どこかに移った後の話である。
 この日向国府留守所が、三宅神社、つまり福野八幡宮と密接な関係にあったわけだ。
 ということは寺崎遺跡の日向国庁が廃絶されて次に移った場所は、元の国庁があった三宅神社、つまり福野八幡宮の東側か、さらにその南の印錀神社周辺であったと思われる。

 以上のように考えると、もともとの日向の総社の役割を果たしていたのは覆野大神宮である三宅神社であったと思われ、初期国府はこの神社のすぐ東側にあったものと思われる。
 しかし公地公民制が敷かれるとともに、国府は現地豪族の拠点から少し離れた寺崎の地に移り、新たに国府総社として作られたのが都萬神社ではなかったか。
 だが隼人反乱鎮定過程で日向に宇佐八幡宮勢力が進出し、やがてこれは現地豪族をも吸収して、その祖神であったろう覆野大神宮も吸収して福野八幡宮と改名し、八幡神傘下の現地豪族が再び日向国政の実権を握った平安末から鎌倉初期にかけて、再び日向国政の中心は、寺崎の地を離れ、旧来の現地豪族の中心地域に戻ったものと思われる。
 この土地が、印錀神社の周辺ではなかったか。
 印錀神社は社伝では成務天皇の時代に創建されたというが、これは確実に後世の付託であり、御神体に国府で使われた印と錀をン祀るという性格から、確実に国府消滅後に、国府の権威を象徴してきた印錀を神として、この神社が創建されたものに違いない。
 そしてなぜこの神社が鎮座する中間台地の先端地が新たな国府の地に選ばれたか。
 それは、この地は、日向から大隅を経由しないで薩摩に至る官道の至近の地であったからだと思われる。そして印錀神社とは国府消滅の後に、その国府の権威をその印錀に仮託して神とし祀ったものであるのだから、この印錀神社周辺こそが国府消滅の地であったと思われるる。

 したがって日向国府は次のように移動したと思われる。

▼1期:6世紀末~7世紀中頃
 北から南に舌状に延びる洪積世台地の南端である三宅神社の東にある中間台地に作られる。東偏の建物群であったと思われる。
 そしてこの時期に、国府に隣接して南側に僧寺と北側に尼寺が建設された。これが後に国分寺と国分尼寺と呼ばれた寺院である。
 さらにこの初期国府に伴う総社は、もともとこの地の有力豪族の祖先神を祭った覆野大神宮(後の三宅神社)が務め、この神社の麓に国庁が作られたと考えられる。

▼2期:7世紀後半~12世紀初め
 北から南に舌状に延びる洪積世台地の北端に近い所に隣接する広い中間台地、、後の都萬神社の西側に移設。正方位の建物群で、公地公民制下の新たな中央政府主導下の国府として作られる。そしてこの新国府の総社としてすぐ東に都萬神社が創建され、この神社は国内の主要神社の御霊も併せて祀ったので五社明神と呼ばれた。
 さらに、国府は北に移動したが、新国府との距離は1㎞余と比較的近い距離であったため、付属の僧寺と尼寺は従来の場所にそのまま残存。8世紀中頃以後それぞれ国分寺・国分尼寺と呼ばれるようになった。

▼3期:12世紀前半以後~
 北から南に舌状に延びる洪積世台地と沖積平野の間に台地にそって北から南に延びる中間台地の最先端部の印錀神社周辺に度国府が移る。
 そして中世のいずれかの時期に国府は消滅し、その中心部に近い場所に、日向国府の印錀をご神体として印錀神社が成立した。


 日向国分寺はその創建時には、ごく近接した距離にあった日向国府に付属した僧寺であった可能性は高い。その古式の寺院が、8世紀中頃の聖武詔によって日向国に七重塔を作るに際して候補地に選定され、回廊と講堂とによって囲まれた空間内にあった塔を解体して、この空間の外に新たに七重塔を置く形に改造した可能性は高い。

 以上で日向国分寺の再検討を終える。

2021年5月23日

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●日向国分寺の再検討3(改正版)

●日向国分寺の再検討3(訂正版)

 今回は出土瓦からみた伽藍変遷を考察する。
 1995(平成7年)の第一次調査から、2006(平成18)年・2007(平成19)年の第12次調査にまでわたる調査の結果、軒丸瓦は全部で59点出土し、そのうち瓦当の文様が確認できたのは32点。この32点の軒丸瓦と、昭和36年の調査で出土したものや、それ以前に各地の博物館などに所蔵されたものを合わせて、軒丸瓦の形式分類を行い、さらにその年代比定を行っている。
 このため資料としては、奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」のhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/8029?all=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1 からダウンロードできる報告書、2009年西都市教育委員会刊『西都市埋蔵文化財発掘調査報告書56:日向国分寺跡』を使用してまとめの軒丸瓦分類と軒瓦の変遷を確認し、同じく「全国遺跡報告総覧」のhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/7648?all=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BAからダウンロードできる報告書、1963年・宮崎県教育委員会刊『日向遺跡総合調査報告3:日向国分寺趾』で昭和36年の調査で確認された瓦とそれ以前に各地の博物館などに所蔵された瓦を使用した分類を確認し、それを再検討してみた。

1:報告書の軒丸瓦の分類と変遷

 2009年西都市教育委員会刊『西都市埋蔵文化財発掘調査報告書56:日向国分寺跡』における軒丸瓦の分類は以下の通りである。

(「日向国分寺出土の軒丸瓦分類」を参照のこと)

 なおここに「軒丸瓦〇〇」と番号が記してあるものは、12次にわたる調査で出土した瓦を分類したもの、またこうした軒丸瓦の番号がないものは、昭和36年の調査やそれ以前に各地の博物館などに収納された瓦を分類したものである。
 またこの軒丸瓦とセットとなる軒平瓦を特定して年代比定したものは、以下の通りである(「日向国分寺軒瓦変遷図」を参照)。

 まず軒丸瓦の分類の詳細を記しておこう。
 全部で11種類。
 そして同じ種類の中でも花弁の文様の彫の違いや周囲の文様の違いで、一つの種類をabcなどに分類している。

● 1類は「花弁は細く先端は尖る」デザインが特徴で、これは8世紀中頃に見られる平城宮瓦の中の単弁瓦の系譜をひくものと思われる。
『平城宮出土軒瓦形式一覧』(1978年奈良国立文化財研究所刊)所収の「6144a」がこの1類によく似ている。

 (「平城宮瓦6144a」参照))

1a類:軒丸瓦12 塔跡出土 単弁8葉蓮華文
1b類:軒丸瓦1 中門跡出土 単弁8葉蓮華文
1c類:軒丸瓦14 推定東門跡出土 単弁8葉蓮華文
 
●2類も1類と同様に「花弁は細く先端が尖る」デザインで、報告者は「1類の簡略化」と判断しているので、これも平城宮瓦の単弁瓦の系譜をひくものと思われる。

2類: 今回は出土なし(東京国立博物館資料)単弁7葉蓮華文

 
● 3類は花弁の数が多くなり、その形は「丸く細長い」もので、先の平城宮瓦の単弁のものから、9世紀・平安時代の瓦である「菊花文」へと変化する過程のものと考えられる。

3a類:軒丸瓦6 西門跡出土 単弁11葉蓮華文
3b類:軒丸瓦16 推定東門跡出土 単弁11葉蓮華文
3c類:軒丸瓦3 中門跡出土   単弁11葉蓮華文


● 4類は日向国分寺では数少ない複弁蓮華文軒丸瓦。報告者は、九州に多い老司系や鴻臚館系の複弁蓮華文軒丸瓦の系譜を引いた、その文様が雑になったものと判断している。

4類:軒丸瓦2 中門跡出土 複弁8葉蓮華文


●5類は「蓮弁は2個の連弁を4組十字形に並べ、その間にやや小振りな蓮弁を配したもの、周囲に珠文を配する」デザイン。花弁は平坦。

5a類:今回は出土なし 宮崎県立博物館資料 単弁16葉蓮華文
5b類:軒丸瓦32 塔想定箇所(西側)出土
5c類:今回は出土なし 類例は不明 蓮弁が線刻になっている。

●6類は「蓮弁は細く削出し先端が鋭く尖る」デザインで、形からして平城宮系瓦の単純化したものではないだろうか。

6類:国分尼寺出土瓦拓影 昭和37年調査トレンチ11ー7 単弁8葉蓮華文

●7類は、「蓮弁はやや中膨らみの細長いもので先端は尖る」デザインで6類に類似している。平城宮系瓦の単純化か?

7類:昭和37年調査トレンチ11ー8・東京国立博物館資料単弁7葉蓮華文
   
●8類は、蓮弁の表現はlc類と類似するが、外区内側の圏線内で連弁が収まらず、圏線で切られた様な形状を採る。また、 1類と大きく異なるのは珠文の省略である。2類と同類か。

8a類:軒丸瓦8 西門跡出土 単弁で7・8葉蓮華文
8b類:軒丸瓦9 西門跡出土

●9類も日向国分寺では数少ない複弁蓮華文軒丸瓦。4類が簡略化されたもの。

9類:軒丸瓦18 推定東門跡出土 複弁8葉蓮華文
  
●10類は、「蓮弁は細長く先端が丸まる」デザイン。

10類:軒丸瓦13         単弁12葉連華文
●11類は、10類の「蓮弁は細長く先端が丸まる」デザインに「弁間に中房側が細く表現された子葉が配される」特異なデザイン。

11類:軒丸瓦17 伽藍東門推定箇所周辺出土

 この10類11類はほぼ同じデザインの軒丸瓦だが、『平城宮出土軒瓦形式一覧』(1978年奈良国立文化財研究所刊)所収の「6091」類、とりわけa類が良く似たデザインである。これも平城宮瓦の単弁瓦の系譜を引いたもののようである。
 
 報告書は、日向国分寺出土の軒丸瓦の特徴を次のようにまとめる。
a:多くが単弁蓮華文軒丸瓦であること。
b:複弁蓮華文軒丸瓦はわずか2例しかないこと。
 
 すなわち、2例の複弁蓮華文軒丸瓦とは、上の分類の4類と9類であり、これらは九州で一般的な老司式や鴻臚館式の瓦の文様が少し崩れたものと判断されている。

 また軒平瓦とセットにされた軒瓦の変遷図をみると、二つの複弁蓮華文軒丸瓦は、軒丸瓦の変遷図で見るとわかるように、本来の老司式や鴻臚館式瓦よりもずっと後の年代の9世紀後半にそれぞれ比定されている。そして他の単弁瓦のうち、1類・2類・3類・6類・7類・8類・10類・11類はみな、8世紀中頃の平城宮瓦に見られる装飾的で花弁が細く尖ったものの系統をひいているので、これらの年代は8世紀後半から9世紀中頃、さらには9世紀後半から末に年代比定されている。

 つまり瓦変遷は、平城宮系の単弁瓦のデザインの変遷に沿って考えられ、最もデザインが明瞭な1類が最初で、聖武詔が出された8世紀後半(第1期)にこの1類を創建瓦として寺院が成立し、以後1類の細い花弁を線刻で表現した2類が第2期として9世紀初めに置かれ、ついで第3期として、1類の花弁の先端が切れたデザインになっている8類が9世紀前半、そして第4期の9世紀中頃に、平城宮系単弁瓦から平安時代の菊花文の途中の過程である第3類を置き、最後に第5期の9世紀後半に平城宮瓦単弁の中でも特徴的な蓮弁の細長い10類と11類を置くというものが主な流れとして考えられている。
 この流れに並行したものとして2・3期に第5類、そして4・5期に複弁瓦の4類9類を置いている。
(「変遷図」に間違いがある。5期の11類は10類の誤記で、12類は11類の誤記。2期3期の9類は8類の誤記である)

 そして報告者がどこにも入れられなかったのが6類と7類。単弁の花弁が細く先が尖った傾向を持っていることは 1類2類と同じだが、花弁が高く浮き彫りになっているデザインの瓦だ。
さらに日向国分寺跡から出土した瓦の中で、本報告書が無視した瓦が二つある。
 一つは早稲田大学所蔵の「菊花文」軒丸瓦(「菊花文軒丸瓦(早稲田大学蔵)」を参照)。
 もう一つは、昭和36年の発掘で出土した「巴文」軒丸瓦だ(「巴文軒丸瓦(昭和36年日向国分寺跡出土」参照)。
 後者の「巴文」については、本報告書では「古代の瓦ではない」として分類に入れなかったとしている。

2:報告書の軒丸瓦年代比定の誤り

 しかしこの報告書における各瓦の年代比定と、瓦変遷は、極めておかしなものである。
 「日向国分寺軒瓦変遷図」を見れば明確だが、すべての瓦を第1期の8世紀後半以後の瓦だとしている。
 この年代比定は、国分寺が741年の聖武詔によって建立されたという通説的理解に基づいたものだが、そもそもこの詔は、「国分寺を建立せよ」との内容ではなくて「(諸国の僧寺に七重塔を建立せよ」との内容なので、七重塔が作られた寺院はこの時にすでに建立されていた既存の寺院だということなる。
 したがって「国分寺」の多くは8世紀中頃以前に建立された寺院なので、当然その遺跡からは8世紀中頃以前の瓦が出てくるのだが、本報告書の瓦分類の項は、これを完全に無視したものなのだ。
 そして先に示された11種類の軒丸瓦の中に、8世紀中頃以前の瓦が存在する。

 一つは、複弁瓦とされた4類と9類だ。

●複弁瓦の正しい年代は
 4類は第4期の9世紀中頃に、そして9類は第5期の9世紀後半から末の時期に年代比定されている。

 (「日向国分寺出土軒丸瓦2:分類4類」「日向国分寺出土軒丸瓦18:分類9類」参照)

 この二種類の瓦は明らかに複弁蓮華文軒丸瓦だが、発掘例が部分的な破片なので、それが老司式なのか鴻臚館式なのかは判別できていない。
 九州では老司式は7世紀末から8世紀前半に、鴻臚館式は8世紀後半から9世紀初めとされているので、4・9類は鴻臚館式より少し後の時代に、つまり鴻臚館式の瓦の少し文様が崩れたものとの扱いを受けているのだ。
 しかし近畿地方では複弁瓦は7世紀後半に出現する。
 九州の複弁瓦は近畿地方に比べて50年から100年年代が下げられているわけだ。
 この年代が下げられた理由は「文化伝搬における時間差」が理由であるが、極めて近畿中心主義的な意図的引き下げと言わざるを得ない。
 九州の複弁瓦の内、鴻臚館式は、大宰府政庁Ⅱ期で大量に使用されている。
 大宰府政庁Ⅱ期は土器編年によって8世紀前半とされている。
 この大宰府政庁Ⅱ期の年代観からしても、鴻臚館式瓦の年代はおかしい。
 さらに九州の土器編年もまた、近畿地方に比べて約100年年代が下げられていることから考えると、大宰府政庁Ⅱ期の正しい年代は7世紀前半となる。
 だから鴻臚館式瓦の正しい年代は7世紀前半である。
 したがってこの直前の7世紀末から8世紀前半に比定されている老司式瓦の正しい年代も、6世紀末から7世紀初頭となるのだ。
 したがって日向国分寺出土の4類と9類の複弁式軒丸瓦が、老司式や鴻臚館式の瓦の文様が少し崩れたものだとするのであれば、その正しい年代は、鴻臚館式の7世紀前半より少しあとの、7世紀中頃から後半とするのが正しいと思われる。

●5類は素弁蓮華文である
 また5類として分類されている軒丸瓦は、その花弁が真っ平で、その中に子葉が表現されていないことから判断すると、これは素弁蓮華文軒丸瓦、もしくは単弁無子葉蓮華文軒丸瓦と言われる瓦だと判断できる。

 (「日向国分寺出土軒丸瓦32:分類5類b」参照)

 そして丸っこい花弁の間に銀杏型の花弁を配する形式は、豊前の椿市廃寺などで出土する「百済系」と呼ばれる素弁蓮華文軒丸瓦の文様が少し崩れたものと考えることができる。

 (「百済系瓦(豊前椿市廃寺出土」を参照)

 この「百済系」とされる素弁蓮華文軒丸瓦も九州では、7世紀末から8世紀前半に比定されているが、近畿地方における素弁蓮華文軒丸瓦の年代が6世紀末から7世紀初頭とされていることに鑑みると、この瓦の年代も約100年後ろにずらされているものと思われる。
 5類がこの「百済系」とされる素弁蓮華文軒丸瓦の文様が少し崩れたものと判断できれば、その正しい年代は、7世紀初頭から前半とすべきではないだろうか。


 したがって日向国分寺の正しい瓦変遷は、報告書の1期から5期の前に、素弁蓮華文軒丸瓦の5類を葺いたプレⅠ期:6世紀末から7世紀前半と、さらには複弁蓮華文軒丸瓦の文様が変化した4類と9類を葺いたプレ2期:7世紀中頃から後半、の二つの画期が存在したと思われる。
 そして第5期:9世紀後半から9世紀末に加えられる瓦が、報告書が無視した、「菊花文」軒丸瓦だ。
 そしてこの第5期の次に、第6期:10世紀、つまり平安時代の時期があり、ここに属するのが、「巴文」軒丸瓦だ。
 さらに報告書がどこにもいれられなかった6類と7類は、平城宮瓦という蓮の花弁が細い尖った形を極端に浮き彫りにしたものなので、それを線彫りにした2類の置かれた第2期:9世紀初に置くのが妥当だと思われる。

 したがって日向国分寺出土瓦変遷は以下のように訂正すべきだ。

▼プレ1期:6世紀末から7世紀前半 5類の素弁瓦
▼プレ2期:7世紀中頃から後半   複弁瓦が変化した4類と9類
▼1期:8世紀後半から末      単弁瓦1類
▼2期:9世紀初          単弁瓦2類と6類と7類
▼3期:9世紀前半         単弁瓦8類
▼4期:9世紀中頃         単弁瓦3類
▼5期:9世紀後半から末      菊花文と10類11類
▼6期:10世紀           巴文

 プレ1期が伽藍の創建期で、塔と金堂とが回廊と講堂に囲まれた空間に置かれた伽藍配置、おそらく観世音寺式伽藍配置を取った時代である。
 そして1期が、聖武詔で七重塔を作るに際して伽藍が改造された時期で、塔が回廊外に移動され、中門が礎石建物に変えられた時期である。

 以上が出土瓦からみた日向国分寺の変遷である。
 
 次の項を改めて、日向国府との関係を論じる。

2021年5月13日 5月23日訂正

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6091 6144a

2021年5月13日 (木)

●日向国分寺の再検討3(2)(川瀬さん)

10ファイルまでなので,一つだけはみ出ました。

Photo_20210513060201

●日向国分寺の再検討3(川瀬さん)

●日向国分寺の再検討3

 今回は出土瓦からみた伽藍変遷を考察する。
 1995(平成7年)の第一次調査から、2006(平成18)年・2007(平成19)年の第12次調査にまでわたる調査の結果、軒丸瓦は全部で59点出土し、そのうち瓦当の文様が確認できたのは32点。この32点の軒丸瓦と、昭和36年の調査で出土したものや、それ以前に各地の博物館などに所蔵されたものを合わせて、軒丸瓦の形式分類を行い、さらにその年代比定を行っている。
 このため資料としては、奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」のhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/8029?all=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1 からダウンロードできる報告書、2009年西都市教育委員会刊『西都市埋蔵文化財発掘調査報告書56:日向国分寺跡』を使用してまとめの軒丸瓦分類と軒瓦の変遷を確認し、同じく「全国遺跡報告総覧」のhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/7648?all=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BAからダウンロードできる報告書、1963年・宮崎県教育委員会刊『日向遺跡総合調査報告3:日向国分寺趾』で昭和36年の調査で確認された瓦とそれ以前に各地の博物館などに所蔵された瓦を使用した分類を確認し、それを再検討してみた。

1:報告書の軒丸瓦の分類と変遷

 2009年西都市教育委員会刊『西都市埋蔵文化財発掘調査報告書56:日向国分寺跡』における軒丸瓦の分類は以下の通りである(「日向国分寺出土の軒丸瓦分類」を参照のこと)。
 なおここに「軒丸瓦〇〇」と番号が記してあるものは、12次にわたる調査で出土した瓦を分類したもの、またこうした軒丸瓦の番号がないものは、昭和36年の調査やそれ以前に各地の博物館などに収納された瓦を分類したものである。
 またこの軒丸瓦とセットとなる軒平瓦を特定して年代比定したものは、以下の通りである(「日向国分寺軒瓦変遷図」を参照)。

 まず軒丸瓦の分類の詳細を記しておこう。
 全部で11種類。
 そして同じ種類の中でも花弁の文様の彫の違いや周囲の文様の違いで、一つの種類をabcなどに分類している。

● Ⅰ類は「花弁は細く先端は尖る」デザインが特徴で、これは8世紀中頃に見られる平城宮瓦の中の単弁瓦の系譜をひくものと思われる。

1a類:軒丸瓦12 塔跡出土 単弁8葉蓮華文
1b類:軒丸瓦1 中門跡出土 単弁8葉蓮華文
1c類:軒丸瓦14 推定東門跡出土 単弁8葉蓮華文
 
●2類も1類と同様に「花弁は細く先端が尖る」デザインで、報告者は「1類の簡略化」と判断しているので、これも平城宮瓦の単弁瓦の系譜をひくものと思われる。

2類: 今回は出土なし(東京国立博物館資料)単弁7葉蓮華文

 
● 3類は花弁の数が多くなり、その形は「丸く細長い」もので、先の平城宮瓦の単弁のものから、9世紀・平安時代の瓦である「菊花文」へと変化する過程のものと考えられる。

3a類:軒丸瓦6 西門跡出土 単弁11葉蓮華文
3b類:軒丸瓦16 推定東門跡出土 単弁11葉蓮華文
3c類:軒丸瓦3 中門跡出土   単弁11葉蓮華文


● 4類は日向国分寺では数少ない複弁蓮華文軒丸瓦。報告者は、九州に多い老司系や鴻臚館系の複弁蓮華文軒丸瓦の系譜を引いた、その文様が雑になったものと判断している。

4類:軒丸瓦2 中門跡出土 複弁8葉蓮華文


●5類は「蓮弁は2個の連弁を4組十字形に並べ、その間にやや小振りな蓮弁を配したもの、周囲に珠文を配する」デザイン。花弁は平坦

5a類:今回は出土なし 宮崎県立博物館資料 単弁16葉蓮華文
5b類:軒丸瓦32 塔想定箇所(西側)出土
5c類:今回は出土なし 類例は不明 蓮弁が線刻になっている。

●6類は「蓮弁は細く削出し先端が鋭く尖る」デザインで、形からして平城宮系瓦の単純化したものではないだろうか。

6類:国分尼寺出土瓦拓影 昭和37年調査トレンチ11ー7 単弁8葉蓮華文

●7類は、「蓮弁はやや中膨らみの細長いもので先端は尖る」デザインで6類に類似している。平城宮系瓦の単純化か?

7類:昭和37年調査トレンチ11ー8・東京国立博物館資料単弁7葉蓮華文
   
●8類は、蓮弁の表現はlc類と類似するが、外区内側の圏線内で連弁が収まらず、圏線で切られた様な形状を採る。また、 1類と大きく異なるのは珠文の省略である。2類と同類か。

8a類:軒丸瓦8 西門跡出土 単弁で7・8葉蓮華文
8b類:軒丸瓦9 西門跡出土

●9類も日向国分寺では数少ない複弁蓮華文軒丸瓦。4類が簡略化されたもの。

9類:軒丸瓦18 推定東門跡出土 複弁8葉蓮華文
  
●10類は、「蓮弁は細長く先端が丸まる」デザイン。

10類:軒丸瓦13         単弁12葉連華文

●11類は、「弁間に中房側が細く表現された支葉が配される」特異なデザイン。

11類:軒丸瓦17 伽藍東門推定箇所周辺出土
 
 報告書は、日向国分寺出土の軒丸瓦の特徴を次のようにまとめる。
a:多くが単弁蓮華文軒丸瓦であること。
b:複弁蓮華文軒丸瓦はわずか2例しかないこと。
 
 すなわち、2例の複弁蓮華文軒丸瓦とは、上の分類の4類と9類であり、これらは九州で一般的な老司式や鴻臚館式の瓦の文様が少し崩れたものと判断されている。

 また軒平瓦とセットにされた軒瓦の変遷図をみると、二つの複弁蓮華文軒丸瓦は、軒丸瓦の変遷図で見るとわかるように、本来の老司式や鴻臚館式瓦よりもずっと後の年代の9世紀後半にそれぞれ比定されている。そして他の単弁瓦のうち、1類・2類・3類・6類・7類・8類はみな、8世紀中頃の平城宮瓦に見られる装飾的で花弁が細く尖ったものの系統をひいているので、これらの年代は8世紀後半から9世紀中頃に年代比定されている。

 つまり瓦変遷は、平城宮系の単弁瓦のデザインの変遷に沿って考えられ、最もデザインが明瞭な1類が最初で、聖武詔が出された8世紀後半(第1期)にこの1類を創建瓦として寺院が成立し、以後1類の細い花弁を線刻で表現した2類が第2期として9世紀初めに置かれ、ついで第3期として、1類の花弁の先端が切れたデザインになっている8類が9世紀前半、そして第4期の9世紀中頃に、平城宮系単弁瓦から平安時代の菊花文の途中の過程である第3類を置き、最後に第5期の9世紀後半に蓮弁の細長い10類と11類を置くというものが主な流れとして考えられている。
 この流れに並行したものとして2・3期に第5類、そして4・5期に複弁瓦の4類9類を置いている。
(「変遷図」に間違いがある。5期の11類は10類の誤記で、12類は11類の誤記。2期3期の9類は8類の誤記である)

 そして報告者がどこにも入れられなかったのが6類と7類。単弁の花弁が細く先が尖った傾向を持っていることは 1類2類と同じだが、花弁が高く浮き彫りになっているデザインの瓦だ。
さらに日向国分寺跡から出土した瓦の中で、本報告書が無視した瓦が二つある。
 一つは早稲田大学所蔵の「菊花文」軒丸瓦(「菊花文軒丸瓦(早稲田大学蔵)」を参照)。
 もう一つは、昭和36年の発掘で出土した「巴文」軒丸瓦だ(「巴文軒丸瓦(昭和36年日向国分寺跡出土」参照)。
 後者の「巴文」については、本報告書では「古代の瓦ではない」として分類に入れなかったとしている。

2:報告書の軒丸瓦年代比定の誤り

 しかしこの報告書における各瓦の年代比定と、瓦変遷は、極めておかしなものである。
 「日向国分寺軒瓦変遷図」を見れば明確だが、すべての瓦を第1期の8世紀後半以後の瓦だとしている。
 この年代比定は、国分寺が741年の聖武詔によって建立されたという通説的理解に基づいたものだが、そもそもこの詔は、「国分寺を建立せよ」との内容ではなくて「(諸国の僧寺に七重塔を建立せよ」との内容なので、七重塔が作られた寺院はこの時にすでに建立されていた既存の寺院だということなる。
 したがって「国分寺」の多くは8世紀中頃以前に建立された寺院なので、当然その遺跡からは8世紀中頃以前の瓦が出てくるのだが、本報告書の瓦分類の項は、これを完全に無視したものなのだ。
 そして先に示された11種類の軒丸瓦の中に、8世紀中頃以前の瓦が存在する。
 一つは、複弁瓦とされた4類と9類だ。

●複弁瓦の正しい年代は
 4類は第4期の9世紀中頃に、そして9類は第5期の9世紀後半から末の時期に年代比定されている。
 (「日向国分寺出土軒丸瓦2:分類4類」「日向国分寺出土軒丸瓦18:分類9類」参照)
 この二種類の瓦は明らかに複弁蓮華文軒丸瓦だが、発掘例が部分的な破片なので、それが老司式なのか鴻臚館式なのかは判別できていない。
 九州では老司式は7世紀末から8世紀前半に、鴻臚館式は8世紀後半から9世紀初めとされているので、4・9類は鴻臚館式より少し後の時代に、つまり鴻臚館式の瓦の少し文様が崩れたものとの扱いを受けているのだ。
 しかし近畿地方では複弁瓦は7世紀後半に出現する。
 九州の複弁瓦は近畿地方に比べて50年から100年年代が下げられているわけだ。
 この年代が下げられた理由は「文化伝搬における時間差」が理由であるが、極めて近畿中心主義的な意図的引き下げと言わざるを得ない。
 九州の複弁瓦の内、鴻臚館式は、大宰府政庁Ⅱ期で大量に使用されている。
 大宰府政庁Ⅱ期は土器編年によって8世紀前半とされている。
 この大宰府政庁Ⅱ期の年代観からしても、鴻臚館式瓦の年代はおかしい。
 さらに九州の土器編年もまた、近畿地方に比べて約100年年代が下げられていることから考えると、大宰府政庁Ⅱ期の正しい年代は7世紀前半となる。
 だから鴻臚館式瓦の正しい年代は7世紀前半である。
 したがってこの直前の7世紀末から8世紀前半に比定されている老司式瓦の正しい年代も、6世紀末から7世紀初頭となるのだ。
 したがって日向国分寺出土の4類と9類の複弁式軒丸瓦が、老司式や鴻臚館式の瓦の文様が少し崩れたものだとするのであれば、その正しい年代は、鴻臚館式の7世紀前半より少しあとの、7世紀中頃から後半とするのが正しいと思われる。

●5類は素弁蓮華文である
 また5類として分類されている軒丸瓦は、その花弁が真っ平で、その中に子葉が表現されていないことから判断すると、これは素弁蓮華文軒丸瓦、もしくは単弁無子葉蓮華文軒丸瓦と言われる瓦だと判断できる。
 (「日向国分寺出土軒丸瓦32:分類5類b」参照)
 そして丸っこい花弁の間に銀杏型の花弁を配する形式は、豊前の椿市廃寺などで出土する「百済系」と呼ばれる素弁蓮華文軒丸瓦の文様が少し崩れたものと考えることができる。
 (「百済系瓦(豊前椿市廃寺出土」を参照)
 この「百済系」とされる素弁蓮華文軒丸瓦も九州では、7世紀末から8世紀前半に比定されているが、近畿地方における素弁蓮華文軒丸瓦の年代が6世紀末から7世紀初頭とされていることに鑑みると、この瓦の年代も約100年後ろにずらされているものと思われる。
 5類がこの「百済系」とされる素弁蓮華文軒丸瓦の文様が少し崩れたものと判断できれば、その正しい年代は、7世紀初頭から前半とすべきではないだろうか。

●10類と11類は素弁⇒単弁の時期の瓦
 さらに10類と11類の瓦の年代比定も間違っている。
 (「日向国分寺出土軒丸瓦13:分類10類」「日向国分寺出土軒丸瓦17:分類11類」を参照)
 二つを比べると、ともに花弁がヘラ状の細長い形をして、中に子葉が表現されていないので、素弁と見られるが、11類はこのヘラ状の細長い花弁の間に「中房側が細く表現された支葉」を置くという特異な形をしている。
 つまり10類は明確に素弁蓮華文軒丸瓦であり、11類はこの花弁の間に別に子葉を置くという形をとって、単弁蓮華文軒丸瓦へと移行する過程と思われる。
 さらにこのような素弁の花弁の間に矢印状の子葉を置くという形の瓦が、武蔵国分寺で出土しており、これは「高句麗系」とされ、日向国分寺の11類とよく似たデザインである。
 (「高句麗系瓦(武蔵国分寺出土)」を参照)
 ようするに10類と11類は「高句麗系」の素弁蓮華文軒丸瓦であり、11類はそこに子葉を入れて単弁瓦に変化する過程のものと思われる。
 この「高句麗系」の素弁蓮華文軒丸瓦も九州では、7世紀末から8世紀前半に比定され、近畿地方の素弁に比べて約100年年代が下げられている。
 したがって10類の正しい年代は、6世紀末から7世紀初頭。
 11類はそれが単弁に変化する過程とすれば、7世紀前半から中頃とするのが正しいものと思われる。

 したがって日向国分寺の正しい瓦変遷は、報告書の1期から5期の前に、素弁蓮華文軒丸瓦の10類を葺いたプレⅠ期:6世紀末から7世紀初頭と、素弁蓮華文軒丸瓦の文様が変化した11類と5類を葺いたプレ2期:7世紀前半、さらには複弁蓮華文軒丸瓦の文様が変化した4類と9類を葺いたプレ3期:7世紀中頃から後半、の三つの画期が存在したと思われる。
 そして分類された瓦が全部なくなった第5期:9世紀後半から9世紀末に属する瓦が、報告書が無視した、「菊花文」軒丸瓦と、「巴文」軒丸瓦だ。
 さらに報告書がどこにもいれられなかった6類と7類は、平城宮瓦という蓮の花弁が細い尖った形を極端に浮き彫りにしたものなので、それを線彫りにした2類の置かれた第2期:9世紀初に置くのが妥当だと思われる。

 したがって日向国分寺出土瓦変遷は以下のように訂正すべきだ。

▼プレ1期:6世紀末から7世紀初頭 10類の素弁瓦
▼プレ2期:7世紀前半       素弁瓦が変化した11類と5類
▼プレ3期:7世紀中頃から後半   複弁瓦が変化した4類と9類
▼1期:8世紀後半から末      単弁瓦1類
▼2期:9世紀初          単弁瓦2類と6類と7類
▼3期:9世紀前半         単弁瓦8類
▼4期:9世紀中頃         単弁瓦3類
▼5期:9世紀後半から末      菊花文と巴文

 プレ1期が伽藍の創建期で、塔と金堂とが回廊と講堂に囲まれた空間に置かれた伽藍配置、おそらく観世音寺式伽藍配置を取った時代である。
 そして1期が、聖武詔で七重塔を作るに際して伽藍が改造された時期で、塔が回廊外に移動され、中門が礎石建物に変えられた時期である。

 以上が出土瓦からみた日向国分寺の変遷である。
 
 次の項を改めて、日向国府との関係を論じる。

2021年5月13日

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2021年5月 5日 (水)

●日向国分寺の再検討2(川瀬さん)

●日向国分寺の再検討2

 奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」のhttps://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search/item/8029?all=%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA%E8%B7%A1 からダウンロードできる報告書、2009年刊『西都市埋蔵文化財発掘調査報告書56:日向国分寺跡』によって再検討する。

1;伽藍と方位

 日向国分寺跡の本格的な考古学調査は、1995(平成7年)の第一次調査から、2006(平成18)年・2007(平成19)年の第12次調査にまでわたる調査の結果、寺域と伽藍域、さらにはいくつかの建物を確認した。

●大官大寺式伽藍を復元
 確認された遺構は、伽藍東南隅の掘立柱式回廊とそれにそった区画溝、伽藍西部の西門遺構、伽藍北西部隅で東西から南北に折れる区画溝、さらに伽藍北部の講堂と考えられた掘立柱東西建物とその西側の性格不明の掘立柱南北建物、そして中門跡。さらには伽藍東北隅の外には食堂と判断された掘立柱東西建物、そして伽藍東、回廊上の東門と考えられるところのすぐ東の南側には性格不明な大型掘立柱南北建物が確認された。
 これらの確認された遺構をもとに伽藍を復元し、これに未発見の金堂や塔の位置をいくつかの遺構に基づいて推定位置を入れて作ったのが、「日向国分寺跡推定寺域及び伽藍復元図」である。
 これによると寺域は、東西152.33m、南北193.587mと復元され、柱穴列や塀で囲まれていたと考えられている。
 そしてこの中にある伽藍だが、東西81m幅の区画溝と南北76~77m幅の区画溝で囲まれる中に、主要伽藍がある。
 この主要伽藍だが、北側には講堂と考えられる掘立柱建物があり、その南に金堂があり、その南に中門があり、中門から伸びる掘立柱式回廊が、中門から東西に、さらに東と西の隅で北に延長され、講堂と金堂との間に東西に設けられた門までこの回廊が続いていた。そしてその北側の講堂の東西と北側は柵列で区切られ、さらに金堂の東南隅に塔があったと考えられている。

要するにこの伽藍は、大官大寺式を基本とし、回廊だけが金堂に取りつかない形式だということである。

●大官大寺式復元の誤りー真実は回廊内に塔・金堂がならぶ古式伽藍
 だが遺構の詳細を検討してみると、このような復元は間違ったものだとわかる。この復元は、「国分寺は大官大寺式か東大寺式伽藍のはず」という思い込みで発掘し、出ていた遺構を素直にとらえようとせず、この想定に合わせて解釈しようとしたために誤った結果であったと思う。
 実際の日向国分寺は、もっと古い7世紀前半台の伽藍形式、講堂に取りついた回廊の中に金堂と塔が東西に並ぶ形式を基本にしたものだったのだ。
 次に各遺構詳細を記し検討し、どこが間違いか記しておこう。

a:中門
 中門は南面する八脚門で、3期にわたる。
 Ⅰ期は桁行2.lm(7尺)・梁行1.5m(5尺)の2間で3.Om(10尺)で、梁行が回廊と同じ規模なので、回廊の一部を門にしたような形状をなす。
 Ⅱ期は、桁行2.lm(7尺)・梁行2.4m(8尺)の2間で4.8m(16尺)と南北に拡大。
 Ⅲ期はさらに拡大され一部しか確認できなかったが、桁行3間・梁行2間の八脚
門と推定した場合、第3期中門は東西9.9m。南北4.8mの八脚門になる。
 そしてⅠ・Ⅱ期は共に回廊と同じく掘立柱式だが、Ⅲ期のみ柱穴の中に柱の痕跡が確認できず、穴底に川原石や瓦片が確認されたので、礎石建物と判断されている。
 また中門には基壇の痕跡も見られないので、地山上に直接柱を建てた構造と考えれている。
 
b:回廊(「日向国分寺回廊遺構」を参照)
 回廊は中門と同じく3期にわたるもので、すべて掘立柱式の単廊である。
 Ⅰ期は桁行2,4m(8尺)、梁行3.Om(10尺)。
 Ⅱ期は桁行・梁行ともに3.Om(10尺)。
 Ⅲ期も桁行・梁行ともに3.Om(10尺)。
 また第1期柱掘方内の埋土に瓦片等が混入しているものもあることから、回廊は創建期には所在しておらず、金堂などの主要建物よりやや遅れて建立されたと予想される。
 またⅢ期の回廊だけが、Ⅰ・Ⅱ期の回廊より、中門を中心に時計回りに1.5° 程振れていることが確認されている。 

c:西門
 西門は南北1間、東西2間の一辺3mの四脚門である。
 この門の東側には何らの施設が接続しておらず、門の南側には回廊が接続し、門の北側は柵列が接続していたと考えられている。

d:講堂⇒小子房付の僧房とするべし!(「日向国分寺講堂遺構」を参照)
 講堂は、2期存在する。どちらも掘立柱式建物。
 Ⅰ期は、桁行7間梁行2間で、北側に10.5尺の広庇がつく。
 柱間8尺なので東西16.8m。南北7.95m。
 Ⅱ期は、桁行9間梁行1間で、北側に12尺の隅欠庇がつく。
 柱間9尺なので、東西東西24.3m。南北7.8m。

 なんとこの「講堂」と判断された建物は、庇を除いた建物本体部分は、Ⅰ期では梁行2間で桁行7間の東西に長い建物。そしてⅡ期でも、梁行1間で桁行9間の東西に長い建物なのだ。
 この報告書は「講堂」としたが、このような形状の建物は通常、僧房か僧房に付属した、寺僧の従者たちの宿所である小子房と見られる。なぜなら僧房とは、一間ないし二間の広さの小さな個室化した空間が一人の僧に割り当てられた形式をとるのが通常なので、とても長細い形式になるからだ。
 おそらく北側の「庇」とされたところが従者のための「小子房」で南側の建物が「僧房」であろう。
 報告書がこの建物を「講堂」としたのは、そもそもこの伽藍は大官大寺式か東大寺式と想定して発掘しており、この建物が確認されたすぐ南が金堂と考えていたためである。
 こうした大官大寺式とか東大寺式とかの思い込みを排除すれば、この建物は小子房を伴った僧房と判断すべきだ。
 またもう一つの想定が可能だ。
 このⅡ期にわたる掘立柱建物は従者の宿所である「小子房」と判断すると、その西側に確認できた大型の南北棟掘立柱式建物こそ僧坊であり、「小子房」の東西に同規模の僧房が存在したと判断することも可能である。

e:金堂⇒講堂とするべし!
 したがってこの僧房の南に存在し「金堂」と想定された建物こそ「講堂」なのだ。
 つまりこの寺院の伽藍中軸線に乗る建物は、南から、中門ー講堂ー僧房なのだ。そしてこの回廊と講堂で囲まれた地域が東西に横長の形態をとっていることを考慮すれば、この寺院の伽藍形式は、金堂や塔が、この「講堂」と東・西・南の回廊で囲まれた地帯に置かれたもので、観世音寺式や法起寺式・法隆寺式と呼ばれる、講堂と中門に回廊が取りつき、この回廊の中に塔と金堂が置かれる形式のいずれかに似た形式が採用されていたものと思われる。

 しかしこの報告書では、一応これらの観世音寺式や法起寺式・法隆寺式の伽藍も想定はしているが、これは否定された。その理由は、中門と講堂との間の区画内に金堂があったと想定することはできないとしているからだ。それはあちこちトレンチを入れて掘ってみたが、想定金堂の南西や南東の地区で、基壇やその下の掘り込み地業すら確認されていないからだ(「日向国分寺跡遺構図」参照)。
 だがそう考えるのならば、塔のみ、この区画の東南側にあったとする想定自体もおかしなことになる。

f:塔⇒憧竿支柱とすべし!(「日向国分寺塔跡土坑」を参照)
 塔は「金堂」の東南か西南にあったはずと想定してトレンチを入れて発掘した二つの地域からも、基壇といわず掘り込み地業跡と言わず、なんらめぼしい遺構は出てこなかった。
 出てきたのは、「金堂」の東南の地区の南北に並ぶ円形の柱掘方二つだけ。
 北側の1号土坑(SC l)は長軸2.6m・短軸2.2m。深さ1.4m、2号土坑(SC 2)は長軸2.lm・短軸1.65m・深さ1.4mを測る。二つの土坑の距離はおよそ3mで、2号土坑からは柱を掘り抜いた際の掘方と推定されるラインも確認されている。
 また、1号土坑の壁面は北側が階段状に掘られているのに対し、2号土坑は全面ほぼ垂直に掘削されている。このことから、 1号土坑は柱を抜き取る際に北側を大きく掘削し、柱を北側に倒したと考えられる
 また、各土坑内から出土じた古瓦は横縄瓦片と無文瓦片が最も多く、縦縄瓦片がこれらの2分の1程度しか出土しておらず、第3期中門や回廊跡の柱掘方、また、伽藍区画溝内から出上した遺物と同様の遺物構成をしていることから、国分寺創建期の建物ではない可能性が高いと推定される。
 つまり第Ⅲ期中門と第Ⅲ期回廊、そしてこの二つの円形柱掘方はともに、この寺院の創建期ではなく、あとの方の時期に作られたということを意味している。
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 この柱掘方が出た場所が、第1・2期南東回廊の東西柱筋から約45° 時計回りに振つた地点に位置することを理由として、報告書では、この地に塔があったと断定し、そこに基壇も掘り込み地業がないことを説明するために、この塔は特殊な作り方をしたと推定した。
 すなわち、塔は心柱を掘立柱で建て、四天柱については周囲から柱掘方が検出されていないことから、掘立柱の心柱を建てた後、心柱を囲うように基壇を築き、その基壇状に礎石が配されたか、掘立柱なのかは不明であるが、そのような構
造であつたと考えるしかない、としているのだ。

 これはあまりに強弁と言わざるをえない。
 そもそもこれも報告書に記されたことなのだが、この円形の掘方二つは、憧竿支柱の柱掘方の可能性も示唆されていた。
 つまり金堂の前庭に大きな幡を立てるための竿(憧竿)の支柱を建てるための穴という理解だ。
 この円形掘方は南北に連なって掘られており、直径は2.0m強、現表土からの深さも約2.0mという巨大なものだ。
 本報告書がこの二つの巨大な穴が憧竿支柱だとする見解を否定した根拠は、一つは幡の支柱を南北に並べた例はなく、通常は東西に並べるものだということ。そして幡の支柱としては2.0mは巨大すぎるというもの。
 だが南北に並んだ類例を知らないからと否定するのは勇み足。
 また幡の支柱が南北に並んだ例を知らないという考えは、その北側の伽藍中軸線上にある建物を金堂と想定したからだ。
 そうではなく、この寺院の金堂は、講堂と回廊に囲まれた地区の西側にあり、しかもそれが南北棟で東を正面とした金堂だったと考えてみよう。つまり観世音寺式の金堂と同じ形式である。
 そうであるなら、この二つの柱穴は、金堂の正面に並んで建つ形になるわけだ。
 そして穴の直径が大きいのは報告書も記しているが、巨大な柱を抜いた跡と考えることができる。巨大な掘立柱をそのまま抜くには柱を傾けて抜くしかないからだ。
 
 こう考えてくれば、この遺構を塔の遺構と考えるよりは、憧竿支柱と考えることができる。そしてむしろこの理解の方が合理的理解だと思う。
 また報告書は全く記していないのだが、南北に並ぶ二つの柱掘方を塔心柱を抜いた跡と考えると、塔は一度建設した後、塔本体を解体して塔心柱を抜いて、再度少し南に建て直したという意味になる。
 こんな無駄な大変なことをするだろうか。
 報告書の図面を見ると(「日向国分寺跡遺構図」)、二つの柱穴の北側の柱穴を中心として塔の位置は復元されている。つまり南側の柱穴は無視されているのだ。つまりこの二つの柱穴を塔心柱の跡と解釈することには無理がある証拠である。

 それよりもこれは塔が一旦解体されて他の場所に移されたあとで、金堂前庭と化したこの場所を飾るために二本の巨大な憧竿支柱が建てられたと考えるべきではなかろうか。つまり日向国分寺は伽藍が改造されたのだ。

●日向国分寺伽藍の変遷
 この伽藍は一度作り替えられたと考えるべきだ。
a:創建時
 つまり創建時には、講堂と中門の間の空間に、塔と金堂とが東西に相対する形式の伽藍であった。
 金堂の位置と向きは、先の二本の憧竿支柱の位置から考えて、この空間の西側に南北棟で東を正面にした形であった。
 そしてこの際には回廊はまだなく、おそらく中門から東西に延びた柵列とこれに沿った区画溝が、ぐるっと北に回って伽藍全体を囲む形式であったと思われる。

b:増改築時
 その後、何らかの折に、講堂より南の地域の柵列は撤去されて、中門に取りつく掘立柱式単廊の回廊が敷設され、その際に中門も大きく改造された。
 そしてこの回廊はその後一度ほぼ同じ位置で建て替えられ、この際に中門はさらに大きなものに建て替えられた。

c:伽藍改造時
 その後、いつのころか伽藍全体が改造されたのではないか。
 つまりこの講堂と回廊との間の空間にあった塔は解体除去され、塔はこの回廊で囲まれた地区の外に新たに作られたのではないか。
 この塔が除去された跡地に大きな幡を立てるための竿(憧竿)の支柱を建てるための穴が二つ並べて掘られ、そこに大きな憧竿が金堂の正面に二本建てられた。
 そして同時に回廊と中門も作り替えられ、中門は掘立柱式から礎石建物に作り替えられ、回廊も建て替えられたが、この際回廊は前の二期よりも少し南に1.5度振れた位置で建て替えられた。

 ということではないだろうか。
 そしてこの伽藍改造の時期は、聖武詔によって、七重塔が作られた時期であったと考える。
 つまり従来の五重塔を七重に改造するには回廊内の空間が小さすぎるので、塔を解体して、回廊の外に新たに七重塔として建設した。

 このような伽藍変遷を辿ったと考えることが可能である。

 さらに回廊と講堂で囲まれた地帯に金堂と塔の基壇や掘り込み地業の跡すら見られないのは、この地域が後世に畑地として利用され、表土をかなり削り取られた結果なのではないだろうか。実際にトレンチを見ると、多数の穴が見られ、これは近世における畑作に伴う穴と理解され、さらに何筋かの溝も確認できたが、これも近世における畑作の水路と理解されている。
 この日向国分寺は、国分寺廃絶後は集落や畑地として再利用され、その際に表土がかなり剥ぎ取られ、下にあった遺構も、深い穴を除いて破壊されたと想定できるのだ。

 なおこの伽藍の方位は、Ⅰ期・Ⅱ期回廊の時代は東偏3度、Ⅲ期回廊の時代は東偏5度程度である。
 つまりこの寺院は、九州王朝がその宮殿や寺院の方位を東偏に取っていた時期、つまり6世紀末以前に創建され、その後増改築されたときも、この伽藍中軸線の方位は基本的に維持されたままであったと思われるのだ。

次に項を改めて、出土瓦からみた伽藍変遷とその時期を検討しよう。

2021年5月5日

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2021年4月30日 (金)

●日向国分寺の再検討1(川瀬さん)

●日向国分寺の再検討1

 『新修国分寺の研究』所収の論文を史料に再検討する。
 日向国分寺跡は、宮崎県西都市大字三宅字国分にある、旧五智山国分寺の境内がそれだと考えられている。

1:伽藍配置と方位

 この論文が刊行された時期には、ここでは本格的な発掘はなされておらず、旧国分寺の本堂である五智堂あたりが金堂で、そこに南から至る小道に中門・南大門があり、五智堂に東から至る坂の途中に礎石が古来あって、ここが東門であると言われてきた。
 この論文で示されている「日向国分寺伽藍地割想定図」は、このような考え方で作られたものなので、何ら信頼できるものではない。
 また図では伽藍地はほぼ正方位に作られているが、この北が磁北なのか真北なのかの区別も記されていないので、想定される伽藍の方位は、磁北ならば西偏、真北ならばやや東偏だということだ。

2:出土瓦の状況

 この論文に掲載された図版(「日向国分寺出土の瓦当文」)を見ると、上の四つが軒丸瓦、下の二つが軒平瓦である。
 軒丸瓦の文様は
 1:上の左:おそらく単弁8葉蓮華文。蓮の花弁が細く、周りに珠文が打たれている。これとよく似た瓦が武蔵国分寺で出土。平城宮系の瓦だ。時代は8世紀中頃。
 2:上右:おそらく複弁8葉蓮華文。九州ならば老司式か鴻臚館式の複弁瓦。7世紀中頃だろうか。
 3:中左:おそらく素弁8葉蓮華文。蓮花弁間が直線で区切られ全体として扇形。中房に接する部分が膨らんでいる。近畿なら飛鳥寺などで出る瓦とよく似ている。時代は6世紀末から7世紀初頭か。
 3:中右:単弁10葉蓮華文。本文では菊花弁24葉の瓦が出ているらしいが、8世紀の単弁蓮華文⇒平安時代の菊花文に変わる途中のものだろうか。奈良時代から平安時代。
 下の二つの軒平瓦は唐草文。上の軒丸瓦でいえば、老司式か鴻臚館式の軒丸瓦に対応した軒平瓦と思われる。

 ★つまり瓦の変遷から日向国分寺の時代と伽藍の変遷が読み取れる。

1:創建期:素弁8葉蓮華文軒丸瓦 6世紀末から7世紀初頭。
      伽藍形式:
回廊が東西に長ければー飛鳥寺式・観世音寺式・法隆寺式・法起寺式
     回廊が南北に長ければー四天王寺式
2:瓦葺き替え期:複弁8葉蓮華文軒丸瓦  7世紀中頃
      伽藍形式:創建期のまま
3:改造期:単弁8葉蓮華文軒丸瓦     8世紀中頃
      伽藍形式:創建期伽藍のままで塔だけ拡大。 
           創建期伽藍を改造して回廊が金堂に取りつく形式で塔が回廊の外に置く形に改造。

3:国府との関係

 日向国府は児湯郡にあると史書には記され、国分寺跡がある児湯郡三宅村の国分寺跡のすぐ南0.6㎞には印錀社があることから、この国分寺近傍付近と古来考えられてきた。
 しかしここも全く発掘調査がなされていないので、未確定である。

 全体としてこの論文を再検討して気が付くことの一つが、本書の論文の著者は、国分寺とは聖武詔でできたとの思い込みで考察しているので、伽藍形式としては8世紀代の金堂に回廊が取りつき、塔がその外に置かれた形式しか想定していない、ことである。
                  

※調べてみると国分寺も国府もともに、本書刊行後に何度も本格的発掘が行われているので、その報告書を参照して再度再検討することとしたい。  

 なお日向国分寺の最新の報告書(2009年刊)『日向国分寺 主要伽藍及び寺域の確認調査』には尼寺と国府のついての最新の知見がまとめられていた。
 平成12年には国分寺跡の北1.4㎞のところに、9世紀中頃の国府跡が見つかり国史跡に指定されたが、逆にこのことによって印錀社周辺に創建期の日向国府がある可能性が高いことが確かめられている。
 また日向国分尼寺は、国分寺跡北側0.7㎞にある県立妻高等学校敷地内と考えられ、昭和63年度と平成7年度に調査のためにグラウンドの発掘が行われたが、尼寺を特定できる遺構は確認されず、校舎下に遺構があると考えられている。

2021年4月29日

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2021年4月25日 (日)

●豊後国分寺の再検討3(川瀬さん)

【最終版】

●豊後国分寺の再検討3

国府との関係を考察する。使用した資料は『新修国分寺の研究』所載の「豊後国分寺」と、この論文の元になった、大分市教育委員会1979年刊『豊後国分寺跡』という報告書である。

3:国府との関係

★国府と想定された場所
(「豊後国分寺周辺の地形と遺跡」参照)

 豊後国府は従来、大分市古国府にある印錀社(大国社)がここに国府があった証拠と考えられ、この周辺が調査されたが、ここからは古代の国府に関係すると考えられる遺構は出てきていない。
 ここは国分寺からは東におよそ6㎞ほどの所である。
 しかし近年この古国府のすぐ西側にある大分市羽屋地区で、興味深い遺跡が発見されている。
 すなわち羽屋井戸遺跡である。
(「羽屋井戸遺跡(豊後)遺構図」参照)

 平成8年2月にこの地から、ほぼ正方位に配置された大型掘立柱建物群とこれらをつなぐ木柵列とからなる、官衙もしくは豪族居館と思われる遺構が出てきた。そしてこの遺構に重なって少し下層には、同じく規則的に配置された大型建物群が出ている。この遺構は先の遺構と異なり、その方位が東偏5度程度である。
 この正方位の建物群は、連結された木柵列と掘立柱建物群とで方形に区画された地区を形成た、その南限部分の一部がが出土したものと考えられている。
 またこれらの遺構は、出土土器から7世紀後半~8世紀初頭の時期に包括され、8世紀前半以降のものと断定される資料は皆無とされる。
 さらにこの羽屋井戸遺跡周辺にはその南東80mほどの所にある羽屋園遺跡でも、ほぼ正方位と東偏の大型掘立柱建物群と正倉と考えられる建物群の存在が知られている(出土資料が少なく年代は確定されていない)。
 これらの官衙とも豪族居館とも考えられる遺構は7世紀後半~8世紀初頭とされる。
 これは方位の考古学の知見により100年年代が遡らせることが可能であり、6世紀後半から7世紀初頭と考えることができ、この時期の豊後国府か評衙と考えることができる。
 ここは国分寺からは5.5㎞ほどの所である。

 この従来最有力の国府候補地とされてきた大分市古国府周辺が豊後国府であれば、豊後国分寺は、国府から遠く離れた地に作られたことになる。
 事実二つの報告書ではそのように考え、国分寺の立地が国府からは遠く離れるが、国府から豊前国府や太宰府に至る官道沿いにあり、しかも国府のように河川合流点の低地ではなく、河川合流以前の河岸段丘上で安全であり、しかもその南北には、この地の有力豪族である大分君の奥つ城と考えられる古墳群が広がっているので、この地を、聖武詔で示された、人家密集の不浄の地ではなく、そこから離れた清浄の地に建てられた国分寺と規定している。

 だが二つの報告書のように考えると、その伽藍形式が、7世紀前半に属する法隆寺式か観世音寺式伽藍であること、そして7世紀初頭に属すると思われる素弁蓮華文軒丸瓦が出土していることと矛盾する。
 すでに国府が置かれているのに、そこから遠く離れた僻遠の地に大規模寺院を作ること自体が理解できないのだ。

★新たな国府候補地

 だが先の二つの報告書を精査すると、もう一か所、国府があったと思われる土地を見出すことができる。
 それは、国分寺が乗る河岸段丘の東側のすぐもう一つ下の段丘上である。
(先の「豊後国分寺周辺の地形と遺跡」参照)

報告書の最後で遺構から復元した豊後国分寺の地割を、天平尺(1尺=29.6㎝)の100尺を単位とした方眼で復元したあと、それを国分寺が立地する二等辺三角形全体に適用したところ、そこには現在でmこの方眼に一致する畔が多数あり、しかも国分寺の西側の空間に顕著にみられることがわかった(「豊後国分寺の地割案2」参照)。
 そしてそのほぼ中央に従来から地元で「礎石が存在する」と言われている場所(点線〇)が存在する。
 ここから報告書では、「ここに何らかの関連遺構が存在する可能性は十分ある」としている。
 報告書では明言していないが、『豊後国分寺跡』に添付された資料では、この地は従来から豊後国分尼寺の跡とされてきた場所だ。
 つまり豊後国分寺の立地する二等辺三角形の河岸段丘の西側には、国分寺と並んで国分尼寺が建っていた可能性が高いということをこの報告書は言いたいのだ。

 ではこの結論をさらに敷衍するとどうなるか。
 国分寺と国分尼寺は共に、国府の近傍に近接して設けられることが多い。
 つまり豊後国分寺の立地するところのすぐ近くに国府があった可能性が高いと結論づけることができる。
 報告書がここまで言い切らなかったのは、従来誰もこの地に国府があったとの意見を表明した人がいなかったからであり、この説は、報告書自身が提起する「国府から離れた清浄の地」に国分寺が作られたとの見解をも全面否定するものだからだ。

 では、国分寺と国分尼寺が並んで近接して存在すること以外に、この地に国府があった痕跡はないのだろうか。

 実は存在する。
 それは、国分寺の北500mほどの所に鎮座する春日社と、その北東300mほどのところの、国分寺がある二等辺三角形の河岸段丘面の一つ下の河岸段丘面の真ん中に存在する、春日社の御旅所の存在である。
 この春日社には、860(貞観2)年に豊後国司の藤原世数が豊後国の繁栄を願って奈良の春日社を勧進したとの伝承と、天平年間(729ー748)に豊後国分寺の鎮守として勧進されたとの伝承が伝わっている。
 だが国分寺と春日社との位置関係と、国分寺・国分尼寺の東側の広い河岸段丘の真ん中に、春日社の御旅所が存在することに鑑み、この社は、豊後国府の総社として勧進されたのではないかと考える。
 御旅所とは、神社の祭礼に際して、その祭神の御霊が乗った神輿が一時滞在する場所であるが、本社からわずか300mほど離れた、小さな集落の外れの地に神輿が一時滞在する意味がわからない。
 ここで想起されることは、いくつかの国府跡に置いて、その国の総社と目される神社の神輿が、国府跡に巡行して一時そこに滞在する風習が、各地に残されていることである。
 この例を示したのは、木下良著『国府』である。
 この本の、5国府と神社の最初の項に、国府で行われる総社と国内の宮宮の神輿が集まって行われる神事が紹介されている。
 一つは、相模国府があったとされる神奈川県大磯町国府本郷での祭礼だ。
 ここでは5月5日の国府祭という祭礼が行われる。この祭礼には相模一宮・寒川神社と相模二宮・川勾神社、さらに相模三宮・比々田神社と相模四宮・前鳥神社と平塚八幡宮の五社の神輿が集まる。最初は国府本郷集落の北にある神揃山で神事が行われ、次に総社の御霊代の鉾が国司役の人を伴て村の中心にある大矢場(逢親場=国庁あとと考えられる地)に出御し、先の五社の神輿もここに集まる。そして最初に五社の神官が総社の御霊代を参拝し、次に国司役が五社の神輿を次々と参拝、最後に総社の宮司が五社を四宮から順に参拝して祭礼は終わるという。
 この祭礼は昔国庁で行われた総社と主な神社による国を挙げての祭礼を残したものと言われている。
 さらにもう一つ例が挙げられている。
 それは東京都府中市の大国魂神社の、暗闇祭と呼ばれる六所祭である。これも5月5日だ。
 ここでは武蔵一宮・小野神社、二宮・小河神社、三宮・氷川神社、四宮・秩父神社、五宮・金佐奈神社、六宮・杉山神社に本社である大国魂神社と御霊神社が加わった、都合8基の神輿が本社から出て、西に400mほど離れたところにある御旅所に渡御し、そこに本社の西500mほどの所にある坪宮(国造社)に参拝した本社の神官が参り、8社の神輿の奉幣が行われ、神輿は一晩ここに泊まったあと、早朝に本社に帰って祭礼は終わる。
 この祭りは昔は武蔵国各地からそれぞれの宮から神輿が出御し、数日かけて大国魂社に集まってから祭礼が行われたが、今でのすべての神輿が大国魂社に保管されていて行われる。
 また御旅所も今では大国魂神社の西400mほどに常設して設けられているが、以前はこの辻に仮説でもうけられたもので、もっと昔は、かつて武蔵国庁があったといわれるもう一つの辻に神輿が集まって祭礼が行われたという。
 そしてこの祭りもまた、かつて武蔵国府の国庁に総社と武蔵の諸所の社の神霊が集まって行われた国の祭りの名残と言われている。

 こうした国府での祭礼の、豊後国における名残が、春日社とその御旅所の存在なのではないだろうか(ここで行われる祭礼の詳細は不明だが)。
 すなわちこの春日社御旅所のある場所が、豊後国府の国庁の有ったところ。
 ここを中心にとると、東に200m・西に200m、北に100m、南に300m、つまり東西南北各400mの方形区画を、国分寺と春日社が乗る二等辺三角形状の河岸段丘の一段下の広い河岸段丘上に取ることは可能である。

 ここが豊後国府だったのではないだろうか。


国府と国分寺ーまとめ

 豊後国分寺の北東に展開する広い河岸段丘上を豊後国府と仮定すると、豊後国分寺はまさしく、6世紀末から7世紀初頭の時期に、豊後国府に隣接して作られた、法隆寺式か観世音寺式の真逆の古式の伽藍を持つ、国府と密接な関係をもつ寺院(国府寺ともいわれる)だったのではないだろうか。

2021年4月25日

  以上で豊後国分寺の再検討を終える。

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2021年4月24日 (土)

●豊後国分寺の再検討2(川瀬さん)

●豊後国分寺の再検討2

 今回出土瓦を『新修国分寺の研究』掲載論文にある出土瓦のデータで再検討する。

 比較する平城宮瓦は奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」の中にあり
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/1518
からダウンロードできる
『奈良市埋蔵文化財調査センター資料1:平城京出土軒瓦形式一覧Ⅰ』奈良市教育委員会1985
を参照する。

2:出土瓦の状況

 出土した軒丸瓦の種類は7種類。(「豊後国分寺出土軒丸瓦」と「豊後国分寺出土軒丸瓦拓影」を参照)。

 またそれぞれの瓦がどの遺構からいくら出土したかは「豊後国分寺出土軒先瓦遺構別出土数」の表で確認できる。 

A:8世紀中頃の平城宮系統の瓦
 この表によると、軒丸瓦で最も数多く出土したのはⅡ類である。
 Ⅱ類:複弁11葉蓮華文軒丸瓦。
 そして数は少し少ないが、よく似た文様の
 Ⅰ類:複弁10葉蓮華文軒丸瓦。
 これはⅡ類と異なり、蓮弁の外側の珠文との間の境界線が描かれている。

 これらとそっくりな瓦が平城宮瓦の6304Gである。蓮弁の外側に鍵型文様がついていないこと以外はとても良く似たデザインである。

 またこのⅡ類とよく似ているが花弁が単弁で花弁と花弁との間の子葉が省略されたのがⅢ類である。

 以上のⅠ類Ⅱ類Ⅲ類は平城宮瓦の系統のものなので時代は8世紀中頃。

B:平安時代の菊花文

 この平城京瓦系統に次いで出土数が多いのがⅣ類である。
 Ⅳ類:菊花文軒丸瓦。
 42弁あり、花弁の外側の珠文の外に縁線を画するものをa型、縁線が省略されたものをb型としている。
 菊花文は平安時代の瓦である。

C:最も古い素弁瓦

 次に少量でているのが素弁瓦であるⅤ類。
 Ⅴ類:複式素弁8葉蓮華文軒丸瓦。
 これは素弁の花弁2枚を一組として8組デザインしたもの。花弁の数は16枚になる。
 この報告書では花弁を二枚一組にしてその間に有るべき子葉を省略したものと規定し、まるで複弁瓦であるかのような記述をしているが、奈良時代中葉以後に作られたと考える国分寺に、もっと古い素弁瓦が出土したことを合理化しようとするものと言えよう。
 この見慣れない形の素弁瓦は、素弁なので7世紀初頭か。

D:見慣れぬ単弁瓦

 最後に、塔跡トレンチから1点だけ出土したのがⅥ類。
 Ⅵ類:単弁8葉蓮華文軒丸瓦。
 ふっくらとした8枚の蓮華花弁の真ん中に桃割れ状に溝をほって子葉を表した特異なデザイン。
 単弁瓦なので7世紀中頃か?。

 以上をまとめると

 ●瓦からみた寺院の変遷

1:創建期:7世紀初頭
 Ⅴ類:複式素弁8葉蓮華文軒丸瓦。
2:葺き替え:7世紀中頃
 Ⅵ類:単弁8葉蓮華文軒丸瓦。
3:再建期:8世紀中頃
 Ⅰ類・Ⅱ類・Ⅲ類の平城宮瓦系統のもの。
4:葺き替え:平安時代
 Ⅳ類:菊花文軒丸瓦

 瓦からもこの寺院の創建が7世紀前半に属し、8世紀中頃に聖武詔で塔を七重塔にするなどの改造がなされた可能性を示している。

 残された検討課題は国府との関係である。

2021年4月24日

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«豊後国分寺の再検討1(川瀬さん)

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