2018年4月19日 (木)

古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究(服部さん)

ついに画期的な論文
「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究(服部さん)」を
このサイトに掲載させていただきます。
 
この論文は多元的「国分寺」研究にとって,
計り知れない価値があるものと考えます。
その主張にまず耳を傾け,同意できるところは素直に認め,
その後で差異部分について検討していただけたら,
素晴らしい成果が上がるのではないでしょうか。
 
例によって,パソコン技術には無知であることに,
確かな自信をもっている私がアップにチャレンジしますので,
気長にお待ち下さるよう,よろしくお願いいたします。(肥沼)
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究
                          服部静尚
 
1、古代寺院の創建年代は瓦から推察される
 
①石田茂作氏『飛鳥時代寺院址の研究』の紹介
②「素弁蓮華文軒丸瓦」が出土すれば600年前後の創建
➂瓦の変遷のおさらい、中国⇒百済⇒倭国
 
2、全国に分布する「素弁蓮華文軒丸瓦」
 
④デザイン・流行・リバイバルという見方をすると全国に分布
 
3、素弁蓮華文の分布によって判ること
 
⑤倭国の仏教受容 ;  初期段階・国家仏教・僧尼令
⑥九州王朝が導入した国家仏教と十七条憲法          

2018年4月18日 (水)

再開の言葉~蓮華紋軒丸瓦の「素」「単」「複」調査

お待たせしました。
多元的「国分寺」研究サークルを再開します!ヽ(´▽`)/
昨年度は開設者・肥沼の退職の年となり,この多元的「国分寺」研究サークルは,
「肥沼が退職したら再開する」ということで,半年あまりお休みをいただきました。
 
4月に入って「そろそろ再開したいなあ」と思っていたところ,
4月7日(日)の多元の会で服部さんが講演なさるということを聞き,
「古代瓦の変遷と飛鳥寺院の研究」という題から,
「きっと多元的「国分寺」研究に役立つものに違いない」と予想し,
その例会に参加しました。
結果は,もちろん正解だったのですが,それを越えて私の古代史研究の再開をも
手伝っていただけることになりました。(「瓦」の研究だけでなく,東山道なども)
 
まず,最初にその成果を示し,
次にそのもとになった服部さんの研究内容(パワポ資料)をお示しし,
皆さんのご意見をいただきたいと思います。
 
今回は,まず肥沼の行った基礎研究の掲載です。
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-24d1.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-ddee.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-cbd8.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-eea3.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-05a6.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-4f69-1.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-8318.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-6b33.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-6b33.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-fb81.html
 
http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/04/post-1dc4.html

2017年8月22日 (火)

肥さんの国分寺関連書籍

P8190897

2017年3月11日 (土)

武蔵国分寺の塔は南朝尺ではつくられていない(川瀬さん)

武蔵国分寺の塔は南朝尺ではつくられていない。
肥沼さんの「発見」はまぼろしです。

なぜこういえるか。
塔の大きさは一辺9.8mではなくて、10m、詳しくいうと9m99㎝9㎜。
この数字は、国分寺市教育委員会発行の「見学ガイド 武蔵国分寺のはなし」でも、福田信夫さんの「鎮護国家の大伽藍 武蔵国分寺」でも、塔の大きさを10mとしている。

肥沼さんが見られたパンフの。9.8mは間違いです。

なぜ間違いが生じたか。
これは発掘報告書に、塔の礎石から見た大きさは
33尺=10.7+11.6+10.7(石田茂作博士の復元による)だと、「新修国分寺の研究」の滝口論文でも示しているのですが、この尺は、現在の尺で、1尺=303㎜。これをパンフを書いた人が勘違いして、1尺=29.6mの天平尺(実際は唐尺)で書いたものと誤認して計算間違いをしたもの。

 滝口論文には三つの単位が混在します。現行の尺・寸。そしてcm。そして現行の尺の0.977倍とした天平尺(1尺=29.6㎝)。これは発掘調査が長年にわたっていたため、初期のころは尺寸で測定していたが、その後はcmで測定した結果。そして国分寺ですから古代寺院の建築に用いた尺はなんだろうということで、天平尺が出されている。
 滝口論文では尺を使うとき、天平尺の場合は、その記述の中に「天平尺」である旨が必ず書かれている。そして現行尺の場合は単に尺と表記する。
 先の塔の大きさを示した数値は、石田博士の復元によるものと明記されて、何の注記もないまま尺が使用されている。したがってこれは現行の尺だ。
 第一天平尺なら、なぜ柱間の長さが整数になっていないのか。整数になるか近似値ではなければ天平尺とは判断できない。

 よって塔の大きさ 33尺=10.7+11.6+10.7 は現行尺での実測値だ。

 だのに昔の発掘報告書に基づいて何度も転記しているうちに、この尺の単位がなんであるかが忘れ去られて、単位が混在したままで、さまざまな文書に書いてしまった。パンフはその一例だ。

 じつは最新の報告書でも、同じことが起きている。平成28年3月刊の僧寺発掘報告書。
p17と19に金堂の柱間寸法が㎝と尺で書かれているが、この尺が現行の尺なのか、それとも天平尺(塔尺)なのかの注記はない。そして問題の塔の部分。p50にあの「33尺=10.7+11.6+10.7)が記されているが、尺の説明はない。そしてp55の塔2が塔1とほぼ同じ大きさの塔だと論証する箇所で、塔2の掘り込み地業の大きさが一辺11.4mであり、これなら塔1の大きさの9.8mがすっぽりはいるから、塔2も塔1とほぼ同じ大きさだと論じ、ここに33尺=9.8mという誤った計算結果が示されている。
 数値を転記していくうちにその内実が忘れ去られ一人歩きした悪い例ですね。

 武蔵国分僧寺の塔の大きさは
   999.90㎜=324.21㎜+351.48㎜+324.21㎜ です。
これをいろいろな尺で割り算してみましょう。
1尺=29.6の唐尺なら
  33.78尺=10.95尺+11.87尺+10.95尺 きわめて整数に近い数値です。
1尺=24.5の南朝尺なら
  40.81尺=13.23尺+14.35尺+13.23尺 これもかなり整数に近い数値です。

わずかに唐尺の方が整数に近いと思いますね。
 したがって肥沼さんの、武蔵国分寺僧寺の塔が南朝尺でつくられていたという「発見」はまぼろしです。

※考えてみれば南朝尺の遺跡がでるはずがないのです。この塔は
1:最初は九州王朝時代につくられたことはたしかです。この時は南朝尺。
2:聖武詔によって七重塔に改造された。基壇が各2m拡大された。この時は確実に唐尺。
3:平安時代の9世紀中ごろに落雷で焼失。
4:すぐに再建したが、焼け残った礎石をそのままに、火災で崩れた基壇は白粘土で補修して、焼失前の塔を再現して再建。このときも確実に唐尺。

 発掘で明らかになり、現在地表に出ている遺跡はこの4の時なのですから。この地下に七重塔に改造するまえの礎石を据えた根石の痕跡でも出てこない限り、塔から南朝尺の遺跡が出てくるはずはないのです。
 この事実を確認していれば、塔身9.8mを南朝尺で割ると、40という整数になる。だからこの塔は南朝尺で作られたと即断せず、もっと冷静に数値そのものの淵源を確認する作業ができたわけです。

 以上、肥沼さんの発見についての再検証の結果です。

追伸:ただしこの考察は無意味ではありません。金堂や講堂の柱間寸法もいくつもの尺で割ってみたことで、これらが唐尺である可能性が高いことが確認できました。しかしこれらの堂の配置は、きわめて古式です。信濃国分寺よりも、そして藤原京の小山廃寺よりもさらに古式。つまりは7世紀中ごろの伽藍配置。こんな古式の伽藍が唐尺でできている。つまり金堂院は南朝尺で作られていた伽藍がたとえば火災などで全焼し再建する際に、あらたな唐尺で作ったが、伽藍の配置やもしかしたら建物そのものも往時の姿をそのまま再現したかもしれないのです。金堂は焼失の痕跡も再建の痕跡もなく、講堂は一度建て替えられていることが発掘からは言われていますが、金堂も建て替えられている可能性が出てきました。興味深い発見です。

2017年3月 8日 (水)

『法隆寺のものさし』

上田市の「信濃国分寺」を訪問し,吉村さんとお話していて,
川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)から学ぶ必要を感じた。
 
P3072535
 
川端さんは,法隆寺についての再建・非再建論争にからんで,
その塔の木材が594年に伐採された事実(年輪年代法により,2001年に明らかになる)により,
法隆寺が別のX寺(日本書紀も名前を隠すほど有名だった寺院)を移築したものであると指摘し,
建築のもとになる「ものさし」を,太宰府政庁や観世音寺などと同じ南朝尺とした。
これは九州王朝が中国の南朝の冊封体制のもとにあったから当然のことだったが,
白村江の戦いで敗戦・滅亡すると,それに取って代わった大和政権は唐尺を採用した。
そこで,多元史観の人には「南朝尺と唐尺」が混在しているように理解できるわけだが,
一元史観でしかものを考えられないと,長さの単位の混乱の整理がつかず,
挙句の果て実際には存在しない「高麗尺」という単位まで実在したとする「幻覚」にさらされるのだ。
(実は,私もそうだった(^-^;)
 
基本的な構造は,以下のようである。
 
九州王朝が政権を持っていた7世紀末まで・・・南朝尺(1尺=24.5cm)
大和に政権が移った8世紀以降・・・唐尺(1尺=29.7cm)
 
つまり法隆寺(X寺)は南朝尺によって作られたの建物だったのを,
日本書紀を信じて唐尺(挙句の果てに高麗尺)で作られた建物と考えたので,
いろいろな混乱(再建・非再建論争など)が生じてきたということだ。
しかし,これからは逆にこれを利用することが可能となる。
 
南朝尺が使われていれば,九州王朝の時代に建てられたもの(国府寺など)
唐尺が使われていれば,大和政権の時代に建られたもの

という理解である。
 
そのように考えた時,思いついたのが,
<u>もしかしたら「武蔵国分寺」の塔は,南朝尺で建てられたのではないか?</u>
というスタートラインに立った考えだった。以下,別項にて・・・。

武蔵国分寺の塔は「何尺」で建てられたか?

何気なく「武蔵国分寺」のパンフレットを読んでいたら,
以下のような記述に出くわした。
 
「再建塔の基壇は一辺17,7m四方の乱石積基壇で,
その上に9,8m四方の礎石建物が建ち,高さは60mを越えるものと推定されています」
 
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/239/news10.pdf#search=%27%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA+%E5%A1%94+%E5%AE%9F%E6%B8%AC%E5%80%A4%27
 
昨日から川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)を読んでいた私は,
何かあったら割り算をしてみようと電卓を持ち歩いていた。
(というのは半分嘘で,あと1クラス残っているテストの採点で使おうと持ち帰ったのだった)
さっそく9,8mを南朝尺の24,5cmで割ってみた。すると・・・
 
980÷24,5(南朝尺)=40尺
 
うそっ!まさに整数値中の整数値である。(端数がまったくない!)
「武蔵国分寺」(国府寺)の塔は,南朝尺=太宰府政庁や観世音寺,法隆寺らと共に
九州王朝採用の尺で作られていたのか。(当り前と言えば,当たり前だが)
ということで,今後ほかの「国分寺」を調べる際に,
「24.5で割る」という作業が有効だと思われます!
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
※ ちなみに,武蔵国分寺の金堂の柱と柱の間の距離は,
592.0÷29.6(唐尺)=20
532.8÷29.6(唐尺)=18
384.8÷29.6(唐尺)=13
444.0÷29.6(唐尺)=15
というように唐尺(1尺=29.6cm。大和政権が採用した尺)を利用している。
(『法隆寺のものさし』の中では,29.7cmとしている)
明らかに,塔と金堂以下の建物は違う尺をもとに建てられたと言える。
 
私の「武蔵国分寺」への最初のこだわりは,
「同じ「武蔵国分寺」の伽藍なのに,どうして塔と金堂以下の建物の方位は
7度も違っているのだろう?もしかしたら建てた王朝が違うのではないか?」
(塔が南北軸に対して,金堂以下は7度西偏している)というものだった。
今回「南朝尺」と「唐尺」というそれぞれの王朝の採用した「ものさし」の違いから,
私の疑問が解けるのではないかと思い拙文を書かせていただいた。
いかがでしょうか。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
※ 「甲斐国分寺」の塔も,9.6m四方に見えるので,
これも「武蔵国分寺」と同規模=南朝尺の40尺ではないだろうか。
『国分寺の創建 組織・技術編』P354
 
※ 武蔵国分尼寺についても,南朝尺が使用されたと思われるが,
まだ実測値が入手できていないので,「宿題」とさせていただく。

2017年3月 6日 (月)

「信濃国分寺」訪問記

昨日の午前中,Yさん(もう吉村さんでいいでしょう)に案内をお願いして,
「信濃国分寺」を訪問してきた。
 
午前9時過ぎ,上田駅前のコーヒー店で打ち合わせ。
村上和夫著『瓦当文様の謎を追って』(岩波ブックサ-ビスセンター,1990年)の中に入っている
「信濃国分寺址出土の蕨手文鐙瓦の研究」という論文に,興味深いことが書かれていたそうだ。
 
P3052533
 
長野県坂城町の土井の入瓦窯址で焼かれ,
込山廃寺で出土した「蕨手紋」の瓦と同じものが,
国分尼寺から出土しているのだが,
込山廃寺の場合礎石配置が3.10m離れているように,
国分尼寺のそれも3.10mなのだ。
実はこの長さは,九州王朝の使用した「南朝尺」にとってふさわしいもので,
(それまで尼寺は僧寺をサイズダウンしたものとされていたようだ)
それを導入すると,以下の疑問が氷解するというのだ。
 
吉村さんのお話とお手紙をまとめると,次のようになる。
 
(1) 中心線が2度異なっている(東偏3度と東偏5度)
(2) 僧寺と尼寺が近すぎる距離(40m)である
(3) それなのに両者の間に通路がない
(4) 瓦窯の位置が不自然である(尼寺は近く,僧寺は遠い)
(5) 出土した瓦は尼寺の方が古い
(6) 雨落溝の造作が,僧寺より尼寺の方が立派
 
本来国府寺として建てられたものを,
「国分尼寺」として活用したのではないか・・・。
あなたはどう思いますか?(文責は,肥沼)
 
※ 参考文献 川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)
 
P3042492
 
P3042497
 
P3042499
 
P3042507
 
P3042508
 
P3042512
 
P3052530
 
P3042514
 
12時38分の新幹線に乗り,私は高崎サークルへと向かったのでありました。
吉村さん,ご案内ありがとうございました!m●m
 

建築物の配置とその規模

斎藤忠『日本古代遺跡の研究・総説』(吉川弘文館)の中の,
「建築物の配置とその規模」を写真で転載します。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
P3012471
 
P3012466
 
P3012473
 
P3012467
 
P3012468_2
 
P3012469_2
 
P3012470

2017年2月26日 (日)

「信濃国分寺」の伽藍配置は?

長野県上田市のYさんより,
「地元の上田市にある「信濃国分寺」は何伽藍配置か?」
というご質問をいただきました。
これっていわゆる東大寺(国分寺)式ってやつでしたっけ?
山田さんと連絡を取りたいということでしたが,
ちょっと失念してしまいましたので,「夢ブログ」に書きますね。
 
 
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kokubunji/park.htm
 
※ 「肥さんの夢ブログ」より,こちらのサイトに引越いたします。

長門国府と国分寺の復原図

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺をパラパラ見ていたら,
川瀬さんの論文の中で「不明欄」が目立った長門国分寺についての論文が
掲載されているのに気が付いた。
特に「長門国府と国分寺の復原図」は,イメージを広げるのにいいと思い,
川瀬さんにメール添付で送るとともに,「夢ブログ」にも掲載します。
九州王朝の国府寺 → 大和政権の国分寺への転用という感じがしますが・・・。
P1282229
写真をクリックすると拡大します。

«★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2-9③)

2018年4月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          
無料ブログはココログ

最近のトラックバック