2021年4月21日 (水)

豊後国分寺の再検討1(川瀬さん)

●豊後国分寺の再検討1

 『新修 国分寺の研究』第五巻下西海道所載の「第六 豊後」の論文によって精査する。

1:伽藍配置と伽藍中軸線の方位。

 この報告では、金堂に取りついた回廊の中に、金堂の南西に塔を置き、南門―中門ー金堂ー講堂が南北に連なる、大官大寺式の伽藍を想定している。
 (「豊後国分寺跡主要遺構配置図」参照)

 そして伽藍中軸線は、東偏の2度30分としている。

▼想定への疑問
 だがこの伽藍配置と伽藍中軸線の復元には大いに異論がある。

 まず国分寺遺構の上には今も続く豊後国分寺の堂舎が立ち、古の伽藍の基壇や礎石などが確認できない。
 唯一発掘によって、その基壇の一部と掘り込み地業を確認できて、建物の方位も確認できたのは、金堂と目される位置に立つ薬師堂の北にあった、講堂と目される建物だけ。
 まず講堂遺構を見ておこう。

★講堂遺構
 (「豊後国分寺講堂跡復元想定図」参照)

 当該地の西側と南側にほったトレンチ1・3から、1.5mほどの幅で伸びる黄色粘質土層が発見され、これは掘り込み地業の周縁を強く突き固めた跡と判断され、掘り込み地業の南西の角とそこから北および東に延びる箇所と確認された。
 この掘り込み地業を確認したトレンチの北側に10m四方程度の地域を掘ったところ(4発掘区)、礎石の根締石上面まで削られていたが、かなり良好な基壇が発掘され、ここには建物の北東隅と見られる礎石跡の根石を六ケ所発見。さらに基壇北面に接して掘られた雨溝とその縁を覆う栗石列、さらにこの栗石列に接して瓦を積み上げた跡が見つかり、基壇中央と思われる場所の北側に階段跡と思われる遺構も発見された。
 そしてこの基壇の特徴は、金堂の基壇とはことなり、地山を彫り込んでその上に版築を施すのではなく、当時の地面の上にいきなり版築をしていることだ。
 報告書は何も指摘しないが、この版築の事実はこの建物が、金堂とされる建物などとは別の時期に立てられ、しかもかなり急ごしらえで作られた可能性を示すことだ。

 これらの事実をもとに復元された建物の大きさは、
 基壇:東西27m 南北18.7m
 建物:東西7間・南北4間
とされ、
 その方位は図面で測ると、磁北に対して東に9度ほどである。
 この報告にはこの地の磁北は6度21分42秒西偏とあるので、この差が、伽藍中軸線の方位とされた東偏2度30分と思われる。
 だが図面を見ると、復元された基壇と建物の方位がおかしいことに気づく。
 明らかに掘り込み地業の根固め溝の西南部とわかる遺構の方位が、磁北に4度ほど東偏する程度の角度、つまり西偏2度30分程度を示しているのに対して、復元された基壇と建物の方位が、大いに東に振られていることがわかる。
 この根拠の一つが基壇北面に見つかった栗石列と雨溝であろうが、図の栗石列の復元線…を見ると、明らかに想定された伽藍中軸線に直角の方向に引かれている。
 そして発見された礎石の根締石の並び方も基壇の向きを判断する材料として使われたようだが、根締石だけで礎石の場所が正確に確定できるわけではなく、根締石の所に引かれた線も、明らかに想定された伽藍中軸線に直角の向きで引かれている。
 
 報告の冒頭に基準方位は、「塔跡の礎石を利用して方位を求めた」とされ、基準線の方位は真北から3度50分38秒東に触れた方位に設定されたと明記されている。
 通常発掘の基準方位は、真北またはそれに等しい座標北、もしくは磁北をもとに決められる。
 なぜこの通常の設定をせず、塔跡の礎石を利用して基準方位を決めた理由は「基準方位は調査の結果判明するであろう伽藍中軸線と大幅に違わないことが望ましいので」と明記されている。
 これはおかしい。
 発掘の基準方位が伽藍中軸線とほぼ同じになるかどうかは、発掘の結果であって、この一致を前提にすること自体がおかしい。
 そしてこの報告では、塔跡と考えられる観音堂の礎石が昔のままと想定しているが、これもおかしなことである。

 つまりこの発掘調査は、最初から塔あとの礎石は昔のままの位置であるとの推論をもとにして、この塔跡礎石の方位に沿うように、各々の建物の方位を復元している可能性が高いのである。
 では次にその塔跡を見てみよう。

★塔あとの状況
 (「豊後国分寺塔跡図」を参照)

 塔あととされる場所には、塔の礎石を利用して観音堂が立っている。
 この建物は江戸中期と伝えられている。
 本論文所収の塔跡の図面で観音堂周辺の状況を確認すると、北側に礎石が四つ、南側に礎石が四つ確認でき、西側にも礎石が一つ確認できる。そして、観音堂はその内側に規則的に並べられた東西南北各四列の計12個の礎石を利用して建てられている。この12個の礎石は塔の内陣の礎石をそのまま利用したようにも見える。
 この規則的配置が、塔跡の礎石は昔のままと判断された根拠であろうが、観音堂の床下にある塔心礎の位置は、これらの礎石の中心と想定される場所近くにあることが、塔跡の礎石は元のままと想定された根拠の一つであろうが、明らかに内陣の礎石群は元の位置を保ってはいない。
 ここに注目すれば塔礎石全体も元の位置ではないと考えるべきである。
 さらにこの観音堂に利用された塔跡の礎石の方位を調べると、磁北に対して10度ほど東に寄っており、この方位は、金堂跡と目される薬師堂の礎石の方位とほぼ同じである。
 つまり東偏4度前後。
 この数値が発掘調査にあたって元の伽藍中軸線方位に近いと想定された数値、東偏2度30分である。
 つまり薬師堂と観音堂はほぼ同じ時期に作られたことをこれは示し、観音堂が江戸中期と伝えられのだから、薬師堂も同じ時期。
 この江戸中期の再建に際して、塔跡の礎石も金堂跡の礎石も動かされて再利用されたと考えるべきである。
 実際薬師堂の周辺を調査した結果を見ると、薬師堂の東側に残る7つの大型礎石はすべて移動しており、原位置の痕跡すらないとされている。

 以上から塔跡礎石の示す方位は、江戸時代中期にこれらの建物が作られたときの方位を示しているのであり、調査に際して塔跡の礎石の方向をもって調査基準線としたこと自体が間違いで、講堂の復元に際して、この基準線の方位に引っ張られる形で、掘り込み地業が示す方位が無視された可能性が高いと判断される。

 また塔跡の発掘だが、観音堂の基壇の周りには昭和9年の火災の後で、東側を除いてがれきを大量に盛り上げているので、塔の基壇を確認できない。
 このため薬師堂の西側の北と南と中央南に三条のトレンチを入れて、塔基壇を確認しようとしている。
 その結果、栗石積みの基壇端化粧を施した一辺18m強の基壇が見つかったとされる。
 ただトレンチの幅は1m程度と短く、このトレンチ内で塔基壇の端が確認されても、それを結んで塔の基壇の向きと方位を推定することは無理だと思う。

 ただ伽藍全体を示した図面を見ると、金堂や講堂などの方位に比べて少し東偏の向きに塔基壇の向きが描かれているので、復元された塔基壇の向きや位置大きさは、現在みられる塔礎石が心礎を除いて皆もとに位置にあると仮定して復元されたことは明白であり、文にもそう記されている。
 塔の復元に際して礎石のどこに柱があったかを示す資料が存在しないので、柱間の距離の取り方で復元された塔の大きさが異なり、これによって塔心礎の位置も異なるため、異なる大きさの建物と方位が示されている。
 一つは、一辺11.10mの建物。
 この場合は方位は東偏2度40分。
 他の一つは、一辺10.95mの建物。
 この場合の方位は、東偏3度40分。
 どうやら二つ目の大きさと方位が採用されているようだ。
 だから全体図面にしてみると、塔だけわずかに東に傾いた方位となるわけだ。
 また塔跡の周囲からは大量の瓦が出土していることが特徴だと記されている。出土総数1万4000点と。
 これも遺構がもとのままと判断した理由のようだ。
 だがトレンチを掘って礎石の周囲や礎石の下の根石の状態を確認することが可能であったにもかかわらずこれをしなかった。
 つまり礎石がもとのままだとの思い込みで調査をした証拠だ。
 この調査をして、さらにトレンチを観音堂基壇の東西南北に複数のトレンチを入れて調査していれば、塔の元の大きさや方位が正確にだせたものと思われる。
 一辺18mの基壇は参考数値に過ぎない。
 そしてその基壇方位東偏3度40分は、現状に過ぎないのだ。

 次に推定金堂あとの状況を見ておこう。

★推定金堂跡
(「豊後国分寺推定金堂跡遺構図」を参照)

 ここには薬師堂が立っている。
 そしてその東に残存する金堂の礎石と思しき石もすべて原位置から動かされ、原位置を示す痕跡すらないので、金堂の復元は、薬師堂の周囲に掘ったトレンチで確認できた掘り込み地業の跡にしか依拠できない。
 だが周囲のトレンチで見つかった掘り込み地業の跡が示す線は、まちまちの方向を向いているので、基壇の縁の線を確定できなかった。
 本来ならば復元不可能とすべき状況だ。
 だが復元された金堂基壇の線をみると、磁北に対して8度ほど東に傾いた線で復元されている。
 明らかに金堂復元は、講堂と目された遺構の中軸線方位東偏2度30分に従って行われたに違いない。
  したがって復元金堂の
 基壇:東西32.6m 南北21.6m
 建物:東西7間 南北4間
 の数値も、まったく信用するに値しない。

 だが薬師堂基壇の各地に掘ったトレンチによって、本来の金堂の基壇が確認され、その基壇の作り方も確認できている。
 これによると、当時の表土を覆う黒色火山灰土70㎝を取り除き、その下の地山を40㎝ほど掘り下げてその中に人頭大の栗石を敷き詰める。その上に何層もの土層を突き固めて基壇はできていた。
 ただ基壇の外面化粧が何であったかはわかっていない。

 金堂基壇の向きだが、あくまでも参考だが、北側のトレンチ1に見られる東西方向の基壇の端の線と西側のトレンチ3に見られる南北方向の基壇の端の線は、ほぼ直角をなしているように思われる。 
 これを基準として基壇の方位を測定すると磁北に対して東に4度ほど傾いている。
 つまり西偏2度30分程度である。

★その他の遺構。
1:回廊遺構
 だが金堂に取りつく東西に長い回廊がめぐらされ、その中に、金堂の西南に塔がおかれたとの想定は、間違いではないと思う。
 回廊の痕跡は、薬師堂の東側にほった二本の南北トレンチで確認され、塔跡の観音堂の西側にほった南北トレンチでも回廊跡が確認されている。さらにこの回廊に東門と西門があったことも遺構が確認されているからだ。

2:区画溝
 さらにこの回廊の外側、南と東と西には幅3mほどの溝が彫られ、北側には講堂を越えてさらに北に広がっていることが確認されている(北辺は掘っていないので未確認)。
 この溝で特徴的なのは、東側と西側の溝が、わずかに伽藍中軸線から西に傾いていることである。
 図面で測ってみると、およそ5度。
 つまり伽藍中軸線が東偏2度30分としているのだから、東と西の溝は西偏2度30分ほどの向きを示しているのだ。
 ここにも注意したい。

3:回廊内不明建物
 さらに回廊の中、塔の東側にも建物があったことが確認されている。
 つまり堂前とされる地区に、版築状に整地された跡と石列または根締石状の遺構がでていることだ。
 建物全体は確認できないが、その位置からして回廊内の金堂の可能性がある。

4:食堂跡?
 また講堂跡と想定された基壇から北に32mの遅地点の地中(水田面下80㎝)に礎石が一つ見いだされ、ここが食堂もしくは僧坊と推定されている。
 礎石の下には根締石が確認できたが、その周囲に版築を行った形跡は見られない。
 つまりこの建物は、先に見た講堂と見られる建物以上に急ごしらえなのだ。
 

◎伽藍配置と方位ーまとめ

 以上の各遺構の検討により、本報告書とは異なる伽藍配置と方位の寺院が復元できる。

 まず伽藍配置であるが、
 回廊内の塔の西側に見つかった版築状の整地遺構と根締石は明らかに建物であるので、その位置から、これが本来の金堂であった可能性が高い。
 したがって今回金堂とされた遺構は講堂となる。

 つまり本来の伽藍配置は、講堂に取りついた東西に長い回廊の中に、塔が西、金堂が東に置かれた法隆寺式伽藍である。
 
 またこの寺院の建設時期だが、法隆寺式であるので7世紀前半には属するであろう。

 その伽藍中軸線の方位であるが、講堂とされた遺構の本来の推定方位と金堂とされた遺構の本来の推定方位、さらには回廊の北方に延びた区画溝の方位がすべて一致する。
 西偏2度30分。
 これが本来の伽藍の中軸線方位である。

 この古式寺院がいつの頃か改造された。
 つまり回廊内の金堂を解体し、本来の講堂を金堂に転用し、さらに本来の講堂の北に新たに急ごしらえで講堂を建築した(地山を掘って版築を根固めした上に基壇を版築するのではなく、地面の上にそのまま版築しているゆえ)。
 ではこの改造は何のためだったのか。
 推定するにこれはおそらく塔を大きく改造するためであろう。
 つまり聖武詔による七重塔への改造である。
 このため建物のバランス上、回廊内の金堂は撤去され、本来の講堂を金堂に転用し、その北に新たに講堂を作った。
 この改造が8世紀中頃以後に行われたのだ。

まとめると以下の通り。
1:創建時 7世紀前半
  法隆寺式伽藍
  伽藍中軸線方位は西偏2度30分

2:改造時 8世紀中頃以後
  回廊内の金堂を解体
  本来の講堂を金堂に転用
  回廊内の塔を七重塔に改造
  金堂の北に新たに講堂を建設

 この伽藍変遷の推定が出土瓦で確かめられるか。これが次の課題である。

(2021年4月21日)

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2021年4月17日 (土)

豊前国分寺の再精査3(川瀬さん)

●豊前国分寺の再精査3

 1995年刊の『史跡 豊前国分寺跡ー発掘調査及び環境整事業実施報告書』(豊津町教育委員会刊)によってこれまでの発掘結果を精査した。

1:伽藍配置

★現本堂の北に講堂と思われる基壇を発掘。
 東西約27m。南北幅は未確認。
 地山を削り出したもの。
 確認された高さは0.1~0.3m。
 基壇の北側に幅3.5mの階段が付く。

※ここまでは「再調査2」と同様だが、基壇の主軸が異なっている。
 現国分寺の主軸はほぼ座標北(=真北)に一致しており、講堂と思しき基壇の方位は、西偏3度としている。
 
 したがって中世のものと判断された寺域区画溝の方位西偏5度とは異なることが確定。

 周辺の遺物から、基壇外面に外装として塼を積み、基壇上には礎石を置いていたことがわかる。
 中世の14・15世紀には破壊された模様。
※ここも「再精査2」と同じ。

★現本堂の西のF地区から
 幅2.1mで南北に8.7m伸びる二条の柱穴列(SB4002)発見。この方位は基壇の方位とほぼ同じか?
 柱穴の大きさは40㎝前後。

 報告書ではまとめである「小結」でこの二条の柱穴列(SB4002)に言及し、「回廊の可能性あり」とはするが、調査範囲が狭いことを理由に結論を出さず。
 これが回廊だとすると、先の講堂と思しき基壇の中心からの距離は約30mであり、講堂に取りつく回廊と考えれば、回廊の東西幅は約60mとなり、講堂の幅27mの約倍と狭い形式となる。

 これを踏まえると、西偏3度の伽藍は、講堂に東西幅60mの南北に長い回廊が取りつく形となり、伽藍形式としては、南大門ー中門ー塔ー金堂ー講堂が南北に一直線に並ぶ四天王寺式が想定でき、金堂は現本堂の辺り、塔は現鐘楼門のあたり、中門が現山門の少し北と推定できる。

 またこの南北の二条の柱穴(SB4002)のすぐ西2.5mほどの場所で、SB4002の南側をほぼ東西に延びる、幅2mで東西に7.9m伸びる二条の柱穴列(SB4001)がみつかっており、「小結」では、現在の本堂の西に位置することから、「金堂から西方に延びたのち南方に屈折する回廊の一部か」と推定しているが、これも調査範囲の狭さを理由に結論を保留している。
 この二条の柱穴列は西側で中世の区画溝で切断されているので、その東西幅は確定できないが、中世の溝で切断された地点で、講堂と判断された基壇遺構の中軸線からの距離は45mほどあり、これを東側に延ばせば、東西幅およそ90m近くの回廊となり、この遺構は、西偏3度の伽藍に先行する正方位の、東西幅90mほどの東西に長い回廊の一部であり、現本堂の場所にあるのは金堂ではなくて講堂で、回廊の中に塔と金堂とが東西に並ぶ形式などが想定される。

★出土遺物のうち瓦については、表採資料も含めてさまざまな形式のものが出土している。軒丸瓦では、百済系単弁八葉・高句麗系・老司系単弁一九葉・鴻臚館系複弁七葉のほかにも単弁一三葉・単弁一六葉・単弁三七葉・複弁八葉などがある。軒平瓦では、重弧文・新羅系・老司系・法隆寺系などがあり、鬼瓦は大宰府系である。これらの瓦のうち、老司系と鴻臚館系の軒丸瓦及び老司系の軒平瓦は豊前国府跡出土のものと同笵である。法隆寺系軒平瓦は築城町船迫堂帰り瓦窯跡で製作されている。

※以上は「再精査2」で記述したところだが、本報告書で確認したところ、この平成6年の調査で確認された瓦は、
1:軒丸瓦
 ・鴻臚館系複弁7葉蓮華文
 ・老司系単弁19葉蓮華文
 ・高句麗系単弁蓮華文
2:軒平瓦
 ・老司系偏行唐草文
 ・法隆寺系忍冬唐草文
 ・重圏文
と報告されている。
 軒丸瓦の高句麗系は明らかに素弁であり、従来報告されている百済系単弁8葉と同様にもっとも古い時期の瓦であり、これとセットで使われたのが、重圏文軒平瓦である。

 以上を総合すると
1:創建期 6世紀末~7世紀初。
 百済系単弁八葉蓮華文軒丸瓦+重圏文軒平瓦が出土しているため。
 伽藍方位は正方位。
 伽藍配置は、講堂に回廊が取りつき、東西に長い回廊の中に塔と金堂がある形式。

2:再建期 7世紀前半~7世紀中頃
 老司系単弁蓮華文軒丸瓦や鴻臚館系複弁軒丸瓦が出土し、これとセットになる老司系偏行軒平瓦が出土しているため。

※従来これらは7世紀後半から末と考えたが、鴻臚館系複弁瓦は、太宰府Ⅱ期政庁跡から大量に出土していることがわかり、この正方位の政庁は8世紀中頃からとされているので、方位の考古学により年代を動かし7世紀中頃とする。
 ということは鴻臚館系複弁瓦の年代が7世紀中頃に遡り、これは畿内におけるその出現の7世紀末よりも早くなり、鴻臚館系よりわずかに早い老司系単弁瓦の年代も7世紀前半に遡る可能性が出てきた。     

 伽藍方位は西偏3度。
 伽藍配置は回廊と思われる二条の柱列(SB4002)が講堂の中心軸からの距離は約30mとなるので、回廊の東西幅が約60mと、講堂の東西幅の約二倍と狭いものと推定される。
 このことから伽藍配置は、講堂に取りついた南北に長い回廊の中に、金堂と塔が南北に置かれる、講堂ー金堂ー塔ー中門ー南大門と南北に連なる、四天王寺式が想定される。
 報告書は国分寺が聖武詔で作られたと考えているので、回廊は金堂に取りつき、塔は回廊の外、東南側と推定しているのと大いに異なる結果となる。

3:聖武詔による改造の可能性
 塔跡も発見されず、金堂と目される現本堂も発掘していないため、さらには講堂と推定された基壇も上面の削平が激しく、のり面も後世の削平が激しいため確認が難しく、基壇の内部構造や掘り込み地業を確認するためのトレンチも掘っていない。
 このため西偏3度の伽藍はどう改造されたかはまったく不明である。
 そしてまた出土瓦の中に、聖武朝に特徴的な細身の花弁を持つ装飾的な単弁蓮華文軒丸瓦に似たものがある。
 「再検討1」で報告したが、
・珠文縁単弁13弁蓮華文軒丸瓦(図150-4)
  細い花弁。平城宮瓦6138Jに似る。
  8世紀中頃か?
・珠文縁単弁16弁蓮華文軒丸瓦(図150-9)
  細い花弁。平城宮瓦6138Kに似る。
  8世紀中頃か?
 平城宮瓦とよく似た瓦が出土しているのだから、何らかの改造、つまり塔の七重塔への改造などが行われた可能性があるが、残念ながら遺構で確認することはできない。


★国府の発掘結果を踏まえて    

政庁地区の発掘調査の最後平成6年度の調査外報、「豊前国府 平成6年度発掘調査外報」(1995年豊津町教育委員会刊)で確認した。
 豊前国府遺跡はⅠ~Ⅴ期に分かれている。
Ⅰ期:7世紀代~8世紀前葉
      ⇒6世紀代~7世紀前葉
 奈良文化財研究所のデータベースではほぼ正方位だが、現在このデータベースの閲覧ができないため、遺跡のどこにⅠ期遺構があったのかがわからない。
 平成6年度調査の「宮ノ下Lトレンチ」でほぼ正方位で、4.1mの距離を隔てる幅1.3~1.9mの二条の溝がみつかっている。これは政庁を区画する築地塀の雨水溝と考えられ、溝から出た土器からⅢ期の新しい時期と考えられている。
 だが、この溝から南に100mほど離れたところ、総社八幡宮の南の土壇からは百済系単弁蓮華文軒丸瓦とセットになる重圏文軒平瓦が出ているので、この土壇が政庁Ⅰ期の建物跡と考えると、先の正方位の二条の溝と築地塀は、Ⅰ期政庁の東北の区画と見ることも可能である。
 さらにこの二条の溝から北東80mの所にもほぼ正方位で四面廂の大型掘立柱建物が二つあるので、ここもⅠ期政庁の候補となり、そう考えれば先の二条の溝と築地塀は、Ⅰ期政庁の西南の隅の区画と考えることもできる。

Ⅱ期:8世紀中葉~9世紀中葉
      ⇒7世紀中葉~9世紀中葉
 場所は先ほどの正方位の二条の溝の北10mほどの所に、L字型の大きな区画溝SD5012とその東の大型掘立柱建物群がある。L字型の溝は、政庁を区画する溝の東南の隅と考えられている。
 方位は西偏10度前後。

Ⅲ期:9世紀後葉~10世紀後葉
 Ⅱ期建物群の地域と重なり、その東や北に広がる、南北105m、東西80mほどの築地塀とその両側の雨水溝で囲まれた方形区画。
 方位は西偏4度。
 東側の築地塀際に南北二棟からなる、東脇殿と見られる長大な掘立柱建物が見つかっている。

Ⅳ期:11世紀前葉~12世紀前葉
 Ⅲ期の方形区画の北東部に南北二棟の東脇殿と見られる掘立柱建物が見つかっている。
 方位は西偏16度30分
 区画溝や築地塀は見つかっていない。

Ⅴ期:12世紀中葉~13世紀前葉
 ⅢⅣ期政庁の中央と北東部に、東偏10度前後の幅4mほどの区画溝で囲まれた方形区画が二か所見つかっている。
 ここは国府政庁ではなく、豪族居館と考えられている。

 したがって豊前国府政庁は、6世紀代~7世紀前葉に始まり、途中3度の建て替えを経て、12世紀前葉、つまり平安時代末まで存続したことがわかる。

2:国府と国分寺の関係。

 「再精査2」で見たように、復元されたⅢ期政庁の南辺と国分寺との距離は、グーグルマップで見るとおよそ南西に700m。国府近傍の寺だ。
 国分寺は西偏3度。これに最も近い方位の国府遺構は9世紀後葉~10世紀後葉のⅢ期政庁。
 国分寺でいえば、平城宮瓦とよく似た瓦が使われていた時期だ。
 したがってこれ以前の老司系単弁蓮華文軒丸瓦や鴻臚館系複弁蓮華文軒丸瓦が使われていた時期の国分寺、つまり7世紀前半~中葉に始まる時期の国分寺に相当する国府政庁は、西偏10度前後のⅡ期政庁にあたる。
 この時期に国分寺も、正方位から西偏に作り替えられたように思われる。

 また先に見たようにもし国分寺に正方位の時期があったとすれば、これに対応する国府政庁は、6世紀代~7世紀前葉と見られる正方位のⅠ期政庁だ。 
 これは国府では百済系とされる素弁蓮華文軒丸瓦とセットの重圏文軒平瓦が出土しているし、国分寺では、この百済系とされる素弁蓮華文軒丸瓦や高句麗系の素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、さらにこれらとセットの重圏文軒平瓦が出土していることから、6世紀代から7世紀前葉に、700mほどの至近距離に、どちらも正方位の国府と国府に付属した寺院が作られたことは、ほぼ確実である。  

 国府と国分寺の関係ーまとめー
1:豊前国府と国分寺は6世紀末から7世紀初頭の時期に、近接した位置に、正方位で作られた。伽藍配置は、塔と金堂が東西に長い回廊の中に置かれた古式の寺院が想定できる。。

2:7世紀中葉以後に、国府と国分寺は共に西偏で作り直された。現在国分寺で確認できる古代の遺構の大部分はこの時期のもの。
 伽藍配置は、中門ー塔ー金堂ー講堂が南北に並び、中門と講堂を回廊でつないだ中に、塔と金堂が南北に並ぶ、四天王寺式が想定できる。

3:8世紀中葉の聖武朝期に、平城京系の軒丸瓦が出土しているので、国分寺に大規模な改造が加えられた可能性はあるが、確認されたのが講堂と見られる基壇だけで、塔や金堂基壇も発見されていないので、遺構で改造を確認することはできない。

 以上で豊前国分寺の再考察は終える。

2021年4月17日

 

※ 図は,再精査1と再精査2のものを使用する。

2021年4月13日 (火)

国分寺の方位~西日本編

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6世紀末~7世紀初頭の九州王朝を取りまく情勢

6世紀末~7世紀初頭の九州王朝を取りまく情勢を地図にしてみました。(汚くてすいません)

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2021年4月11日 (日)

豊前国分寺の再精査2(川瀬さん)

●豊前国分寺の再精査2

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11D0/WJJS05U/4062555100/4062555100200040?dtl=all
で公開されている、みやこ町史の、第三編 古代(奈良・平安時代)・第三章 律令政治の展開と郷土-奈良・平安時代-・第六節 豊前国分寺の建立と移り変わりに記されている、昭和60・62年の発掘結果を踏まえて

1:伽藍配置

★現本堂の北に講堂と思われる基壇を発掘。
 東西約27m。南北幅は未確認。
 地山を削り出したもの。
 確認された高さは0.1~0.3m。
 基壇の北側に幅3.5mの階段が付く。
 基壇の主軸は現在の国分寺の主軸から西側に約3度振っている。

 ※報告書まとめは西偏3度としているが、これは現国分寺の軸が真北と誤認しての結論。地形図では現国分寺の軸は、磁北から東に5度偏したもの。つまり西偏2度。
 これから西に3度偏するのだから西偏5度。
 これは中世のものと判断された寺域区画溝の方位と同じ。
 
 周辺の遺物から、基壇外面に外装として塼を積み、基壇上には礎石を置いていたことがわあかる。
 中世の14・15世紀には破壊された模様。

★現本堂の西の地区から
 幅2.1mで南北に8.7m伸びる二条の柱穴発見。この方位は基壇の方位とほぼ同じか?
 柱穴の大きさは40㎝前後。
 ※報告書は性格を規定していないが、位置からして講堂に取りつく掘立柱式の回廊かも?

 このすぐ南に幅2mで東西に8m伸びる二条の柱穴発見。柱穴の大きさは50㎝。柱抜き取り孔は15~20㎝。

★現在の山門の南数メートルの地点から花崗岩の礎石が一基出土しており、この位置を創建時の南門と推定。指定地北辺段落ちまでの南北の長さは約一八〇メートルとなる。この敷地内に建立された七堂伽藍のうち、D区の調査で講堂の位置が明確になった。金堂は現在の本堂の位置と重複するかやや南にあったと推定されている。中門は現鐘楼門より南側、南門は現山門より数メートル南側の位置と考えられる。塔は従来、現三重塔の位置に創建時も建っていたと考えられていたが、周辺のC区の調査では創建時の遺構・遺物がまったくなかったことから、参道を挟んで逆の東側の位置について考慮に入れる必要がある。僧坊・食堂についてはまったく不明であるが、講堂の北部から西部にかけての地域に十分な空白地がある。

★中世の寺域については、A区・D区・F区で検出された南北方向・東西方向の溝(SD2004・SD3102・SD4001)を一連の区画施設として考えることができる。この場合、寺域の東西幅は溝の芯々で計測して約八四メートルとなる。その方位はN-約5°-Wである。

★出土遺物のうち瓦については、表採資料も含めてさまざまな形式のものが出土している。軒丸瓦では、百済系単弁八弁・高句麗系・老司系単弁一九弁・鴻臚館系複弁七弁のほかにも単弁一三弁・単弁一六弁・単弁三七弁・複弁八弁などがある。軒平瓦では、重弧文・新羅系・老司系・法隆寺系などがあり、鬼瓦は大宰府系である。これらの瓦のうち、老司系と鴻臚館系の軒丸瓦及び老司系の軒平瓦は豊前国府跡出土のものと同笵である。法隆寺系軒平瓦は築城町船迫堂帰り瓦窯跡で製作されている。

 以上を総合すると
1:創建年代 6世紀末~7世紀初。
 百済系単弁八葉が出土しているため。
 
2:伽藍配置
 報告書が想定するのは、南大門ー中門ー金堂ー講堂が南北に一直線になる、大官大寺式か東大寺式だが、現本堂の西のF区から見つかった2.1m幅の二条の柱列が掘立柱式の回廊と考え、これが講堂に取りつく回廊と見れば、伽藍形式は回廊の中に塔や金堂がおかれる古式寺院となる。
 想定される形式は、中門が現鐘楼門のすぐ南で南門が現山門のすぐ南と考えれば、塔と金堂が東西にならぶ、法隆寺式か法起寺式、あるいは観世音寺式。現山門のすぐ南の遺構が中門と考えると、中門ー塔ー金堂ー講堂が南北に並ぶ四天王寺式も考えられる。

★国府の発掘結果を踏まえて

https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11D0/WJJS05U/4062555100/4062555100200040?dtl=all
で公開されている、みやこ町史の、第三編 古代(奈良・平安時代)・第三章 律令政治の展開と郷土-奈良・平安時代-・第二節 地方行政のしくみ・一 豊前国府に記されている発掘結果を踏まえて考察する。

①発掘結果の要約

 国府跡は豊津町大字国作・惣社地区から発見された。
 政庁の存在が有力視された国作字御所・宮ノ下地区の調査は、平成元年度(第五次)から六年度(第九次)まで継続して行われた。

★豊前国府の範囲
 国府の範囲を復元すると、第Ⅲ期政庁の時期で南北の長さが約六五〇メートル、東西の幅が約四九〇メートルと推定される。
★国府地区の変遷
Ⅰ期:第Ⅰ期に属する遺物は整地層・包含層などから出土しており、惣社地区と同様の集落が広がっていたことも想定されるが、政庁建設の際に破壊されたと考えられる。

Ⅱ期:第Ⅱ期の遺構は、基本的に当地区の西部に広く分布する暗褐色整地層の下から検出される遺構である。全体としてこの時期の遺構は少なく、南西部で検出された逆L字形に曲がる溝(SD5012)と二棟の掘立柱建物跡(SB5012・SB7003)のほか、南東部の数条の南北溝と不整形土壙が確認されるにとどまる。SD5012は二段掘りで直角に近く屈折するが、その方向性からみて政庁を直接区画する溝とは考えにくい。SB5012は柱穴が一辺八〇~一〇〇センチメートルの方形をなす、官衙的な色彩の強い東西棟の建物である。規模は桁行が五間(一〇・五メートル)、梁間が三間(四・五メートル)で、床面積は約四七平方メートルである。この時期の遺物としては鴻臚館(こうろかん)系や老司(ろうじ)系の軒瓦があり、一部は瓦葺(ぶ)き建物であったと考えられる。

Ⅲ期:この時期の施設は暗褐色土の整地を行ったのち建設している。
●この時期の基準となる遺構は政庁東辺を区画する二条の南北溝で、築地塀の両側の雨落ち溝である(第12図)。政庁地区南東部でこの溝から西方に屈折する一条と、南西部で平行して外側を走るもう一条の溝があり、この両方の溝の間に南辺の築地塀が想定できる。また、北辺でも同一の方位をとる大溝が確認されている。
●政庁内部の建物では東辺築地塀の中央付近に隣接して、南北に長大な同じ構造の掘立柱建物が二棟連続して配置されている(SB5009・SB6020)。SB5009(第13図)は北側の建物で西面に廂を持つ南北棟の建物で、桁行八間(一七・四メートル)・梁間三間(四・九〇メートル)で、床面積は約八五平方メートルである。SB6020も同様の建物であるが、桁行が一八・四メートルとやや長く、床面積は約九〇平方メートルである。これらの建物は政庁の東脇殿であるが、政庁南部の中央付近で中門の可能性がある総柱状の掘立柱建物跡(SB6018、第14図)が検出された。この建物は東西棟で、桁行三間(六・八メートル)・梁間二間(三・四メートル)で、八脚門の形態をなす。
●以上の遺構はⅢ期のなかでも前半代に属するものであるが、これとは別にやや新しい十世紀後半の遺構もある。それはⅢ期政庁の南西部の築地塀外側で、南北に平行して走る二条の溝(SD9005・SD9006)である。二つの溝の間隔は芯々で約四・二メートルを計り、Ⅲ期前半代の東辺の築地塀に比べ幅の広い築地塀が南北に通っていたと考えられる。

Ⅳ期:Ⅳ期以降になると、政庁地区には多数の掘立柱建物が建築される。調査区北東部で検出された大形の掘立柱建物群(SB5001・SB5002・SB5003)と柱穴列(SA5001・SA5002・SA5005)は、この時期に属する可能性がある(第15図)。これらの遺構群はほぼ同じ方位(N-17°±1°-W)をとり、柱穴から瓦器片が出土している。SB5001は南北棟の建物で、桁行一四間(三〇・二メートル)、梁間三間(六・〇メートル)を計る長大な建物である。床面積も一八一平方メートルに達する。柱穴は一辺が九〇センチメートル前後の方形で、深いものでも四〇センチメートル程度、浅いものでは五センチメートル足らずしか残存していなかった。この建物は一回以上の建て替えが行われている。SB5003は時期的にSB5001に先行する建物で、桁行三間(九・〇メートル)・梁間二間(六・〇メートル)の南北棟の総柱建物である。東西面に出入り口を持つ八脚門の可能性もある。またこの建物中軸線から連続して南方へ延びるSA5005は、SB5003と同じ柱間をなし、板塀状の施設であったと考えられる。

Ⅴ期:Ⅴ期の遺構では、方形にめぐる大形の溝がある。この溝は政庁地区北西部(SD5022)と中央部(SD5030)との二か所にあり、SD5030は第二次の御所地区トレンチでも続きが確認されている。この溝は幅二~三・五メートルで、断面が逆台形をなし、溝で囲まれた範囲は南北約八八メートルである。

★国府政庁の規模と方位
 政庁はⅢ期のものが最もよく分かっており(第16図)、その規模は南北の長さ(南辺築地塀の芯から北辺大溝の掘り込み内側上場まで)一〇五メートルで、幅(東辺築地塀を中門で折り返した場合の芯々で)七九・二メートルである。また南北の中軸線はN-約4°-Wの方位をとる。

 この町史の記述ではⅡ期以降が豊前国府であるがそれぞれの年代は示されていない。
 奈良文化財研究所のデータベースの中の古代地方官衙関係遺跡データベースの「豊前国府」を見ると、各時期の年代がわかる。
 これと先の町史の国府についての記述を比較すると、町史のⅡ期の前に、正方位の遺構が発見されてこれがⅠ期とされている。

★奈良文化財研究所データベースデータ検証

(3)豊前国府(7世紀中葉~13世紀前葉)
 遺構図を見る限り、少なくともⅢ期にわたる遺構が重なっている。建物データで見るとⅠ~Ⅳ期。
Ⅰ期:ほぼ正方位
Ⅱ期:わずかに西偏 8世紀中葉~9世紀中葉 SB5012 東西棟で9゜W
Ⅲ期:わずかに西偏 9世紀後葉~10世紀後葉 東脇殿SB5009 南北棟で4゜W
Ⅳ期:11世紀前葉~12世紀前葉 東脇殿SB5001 南北棟で16゜30´W

 おそらくⅠ期が7世紀中葉以前の正方位の建物群だと思う。SB5005とSB5006の二棟の四面廂建物。ここが九州王朝時代の豊前国府。
 Ⅱ期の前半、7世紀中頃から8世紀初は九州王朝時代。なんと西偏。
 Ⅱ期の後半が近畿王朝時代の豊前国府。8世紀初から9世紀中葉。ここも西偏。4度。この方位が国分寺の方位とほぼ同じ。
 Ⅲ期も近畿王朝時代の豊前国府。9世紀後葉~10世紀後葉。ここも西偏4度。
 Ⅳ期はすでに平安末期。11世紀前葉~12世紀前葉。西偏16度。

★福岡県行橋市主催のシンポジウム「豊前国府誕生ー福原長者原遺跡とその時代」(平成29年3月4日実施)の資料
 http://www.city.yukuhashi.fukuoka.jp/doc/2017041200045/files/fukubaru_sympo.pdf

を見ると、「豊前国府の成立」という岡山理科大教授の亀田修一の講演記録が掲載されている。この主張は要約すると、7世紀末~8世紀中葉とされる福原長者原遺跡が最初の豊前国府であり、国府はその後8世紀中葉以後は福岡県京都郡みやこ町大字総社にある豊前国府遺跡に移ったと考えるもの。
 ここに豊前国府遺跡の詳しい説明があり、この中に豊前国府跡出土の瓦についての考察がある。。
 これによると、
 豊前地域の百済系単弁8葉蓮華文軒丸瓦とセットをなす重弧文軒平瓦が政庁地区の南西の総社八幡社の南にある土壇で見つかっていることが指摘されている。
 つまり6世紀末から7世紀初とすべき素弁蓮華文軒丸瓦がが豊前国府で使われていたということだ。

 つまり国府遺跡のⅡ期から出土するのは老司系の単弁蓮華文軒丸瓦や鴻臚館系の複弁蓮華文軒丸瓦であるので、このⅡⅢ期は7世紀後半の国府であることを示す資料だが、その前の正方位のⅠ期の時期が示されていなかった。このⅠ期の時期を示すのが、この百済系単弁8葉蓮華文軒丸瓦とセットの重弧文軒平瓦だったのではないかということだ。
 要するに正方位のⅠ期遺構は、6世紀末から7世紀初頭ということ。

2:まとめー国府と国分寺の関係ー

 復元されたⅢ期政庁の南辺と国分寺との距離は、グーグルマップで見るとおよそ南西に700m。国府近傍の寺だ。
 国分寺は約西偏5度。これに近い国府国庁はⅡ期とⅢ期の西偏4度~9度。
Ⅱ期は8世紀中葉~9世紀中葉⇒7世紀中葉から9世紀中葉。
Ⅲ期は9世紀後葉~10世紀後葉

 国府Ⅰ期(7世紀中葉以前)は正方位。
 これに相当する国分寺遺構は今のところ見つからない。この時期に国分寺はなかったということか?
 7世紀中葉以後に西偏で国庁と国分寺ができたということか?
 だが国分寺では百済系とされる素弁8葉蓮華文軒丸瓦が出土し、国府からも百済系とされる素弁8葉蓮華文軒丸瓦とセットになる重弧文軒平瓦が出土しているので、国府と国分寺が同時期に作られたことが示されている。
 このことは国分寺遺跡の中に正方位の遺構が眠っている可能性も示すものだ。
 先の本堂西のF区でほぼ東西の二条の柱列がみつかっていたが、これが6世紀末から7世紀初頭の正方位の国分寺の遺構の可能性が見て取れる。

 国府と国分寺の関係ーまとめー
1:豊前国府と国分寺は6世紀末から7世紀初頭の時期に、近接した位置に、正方位で作られた。
2:7世紀中葉以後に、国府と国分寺は共に西偏で作り直された。現在国分寺で確認できる古代の遺構の大部分はこの時期のもの。

※どちらにしても国分寺は国府近傍の国府と一体の関係にある国府寺または国寺と見られ、その創建時期は6世紀末から7世紀初頭。したがってこの正方位の時期の寺の伽藍形式も、塔が回廊の中にある古式寺院であることは確実だ。
 
 以上WEB関係の資料での考察。

 国分寺の一番新しい報告書である、『史跡豊前国分寺跡 副書名 : 発掘調査及び環境整備事業実施報告書』1995年刊と、国府発掘報告書の中の政庁地区の最初のまとめの報告書である,『豊前国府 副書名 : 発掘調査概報』1995年刊と、政庁地区の御所地域の最新の報告書である、『豊前国府跡御所地区II 副書名 : 共同販売拠点(アンテナショップ)による地域産品等の販路開拓支援事業に係る埋蔵文化財調査報告』2015年刊を手に入れたので、再度詳しく確認してみるつもりである。

2021年4月11日

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2021年4月 9日 (金)

「素弁」からスタートが多数派

今川瀬さんに「国分寺」の精査をしていただいているが,

各国の「国分寺」の創建瓦の傾向が気になっている。

筑前・・・素弁から

筑後・・・素弁から

薩摩・・・素弁から

肥前・・・単弁から★

肥後・・・素弁から

豊前・・・素弁から

というように多数派は「素弁から」だからだ。

肥前の「単弁から」が例外(?)と思えるほど。

やはり国府寺のスタートは九州王朝で6世紀末・7世紀初頭という感じがする。

まだ10分の1(全体が66国とすると)のため,全体がそうとは断言できないが・・・。

2021年4月 8日 (木)

豊前国分寺の再検討1(川瀬さん)4/9版

●豊前国分寺の再検討1
「新修国分寺の研究」所載論文による。

1:伽藍配置と方位:基本的には不明。
 現国分寺の本堂を「金堂」と想定すると、その北に確認された、東西30m、南北20mの基壇は講堂と思われる。
 そして現三重塔が昔の礎石を使用しているとみられることから、ここに塔があったと仮定すると、
 南大門ー中門ー金堂ー講堂が南北に並ぶ伽藍形式であり、金堂の南西に塔を置くものと考えられる。
 しかしあくまでもこれは想定に過ぎない。
★この考察。
 中門と南大門が現状の国分寺のそれぞれの位置と考えると、その距離が約40mと近いので、回廊の中に塔を置いた「古式寺院」と思われる。
 伽藍の方位は、現状の国分寺の中軸線は磁北から東に5度偏しているので、西偏2度前後と思われるが、遺構の方位ではないので、これも想定に過ぎない。

2:出土瓦による年代判定
 確実に豊前国分寺出土と判定できる瓦がない。「講堂」かと思われる遺構を見つけた発掘では瓦は出土せず、現国分寺や教育委員会などが保有する瓦は、国分寺周辺で採集されたものと、他の寺院周辺で採集されたものとが混在している状況なので、瓦で年代を判定することが難しい。
 一応「豊前国分寺」瓦と伝えられる資料で判断してみると、以下の通り。
a:三重塔周辺で見つかった瓦
・百済系軒丸瓦。
  重圏文単弁8弁蓮華文軒丸瓦(図150ー1)⇒これは重圏文素弁(または単弁無子葉)蓮華文軒丸瓦とすべき。
   ※九州で「百済系」「新羅系」「高句麗系」とされる瓦はみな近畿でいう「素弁」の瓦で蓮の花弁に子葉に相当する浮彫や掘り込みが存在しないもの。近畿では素弁は6世紀末から7世紀初頭に流行するが、九州では近畿より50年以上後に瓦が出現したと定説はしているので、素弁瓦の位置づけができず、朝鮮では素弁瓦が多くでるので、「百済系」「新羅系」「高句麗系」と名付けてごまかしているのでした。
 年代も、7世紀後半から8世紀初頭とされ、近畿より100年近く後ろに動かされています。
 年代は6世紀末から7世紀初頭です。
・般若寺系の19弁軒丸瓦。
 珠文縁複弁8弁蓮華文軒丸瓦(図150ー2)
 老司系の7世紀末のものと思われる。
・鴻臚館系の7弁軒丸瓦。
 珠文縁複弁7弁蓮華文軒丸瓦(図150ー8)
 7世紀末のものと思われる。
・菊花文軒丸瓦。
 陽起鋸歯文縁菊花弁軒丸瓦(図150ー11)
 9世紀平安時代のものと思われる。
b:国分寺の他の場所で見つかった瓦
  陽起鋸歯文縁単弁19弁蓮華文軒丸瓦(図150-3) ふっくらとした単弁瓦:7世紀中頃か?

c:その他の瓦
・珠文縁単弁13弁蓮華文軒丸瓦(図150-4)
  細い花弁。平城宮瓦6138Jに似る。
  8世紀中頃か?
・珠文縁単弁16弁蓮華文軒丸瓦(図150-9)
  細い花弁。平城宮瓦6138Kに似る。
  8世紀中頃か?

★瓦からみた伽藍変遷
・6世紀末から7世紀初頭(創建) 素弁瓦出土
・7世紀中頃 葺き替え 単弁瓦出土
・7世紀末 葺き替え 複弁瓦出土
・8世紀中頃 葺き替え+改造? 平城宮系瓦出土
・9世紀以降 葺き替え 菊花弁瓦出土

3:国府との関係
 詳しい記述なし。
 国分寺の北東、800mほどの所の、総社・国作地域に国府は想定されている。
 これが正しければ、国府近傍の寺院であり、国府と密接な関係にある国府寺・国寺の可能性がある。

 本報告以後、国分寺は昭和60年62年に発掘され、本堂の北に東西幅26.7mで北側に階段を持つ講堂と見られる遺構が確認されている模様。この遺構の方位は西偏3度。
 さらに国府も何度も発掘が繰り返され、国庁と見られる遺構も確認されている模様。
 「みやこ町歴史民俗博物館」がWEBで町史を見られるようにしており、ここに国分寺の発掘と国府の発掘の概要がある。この検討とできればそれぞれの報告書を検討して、さらに考察を深めたい。
 2021年4月8日。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・Photo_20210408152701  Photo_20210408152501

2021年3月30日 (火)

「肥前国府」と「肥後国府」【工事中】

【肥前国府】

(一)政庁跡・・・正殿は掘立柱の四面廂建物・西偏6度50分・前殿・後殿・回廊・脇殿・南門

(二)政庁跡周辺・・・RG地区・掘立柱建物四棟・溝三条,DB地区・掘立建物跡二棟・柵跡二条・築地跡・井戸跡・西偏いろいろ

(三)惣座遺跡・・・嘉瀬川左岸よりわずかの微高地・掘立柱建物跡一五棟・溝四条・西偏四度三六分

(四)久池井B遺跡・・・同川岸よりやや離れた緩やかな微高地上・政庁から北東方向へ二五十m・掘立柱建物跡一四棟・井戸跡二基・溝跡一一条

一区・・・正方位と西偏二度

二区・・・建物がいづれも正方位

(五)・・・東山田一本杉遺跡・・・以上の遺跡とは違い嘉瀬川の西側・大型建物跡四棟・小型建物跡六棟・築地跡二条・井戸跡三基

建物跡には正方位のものと三度西のもの・九世紀代の須恵器と土師器

 

【肥後国府】

(1)益城国府・・・法起寺式・肥後最古の白鳳時代の瓦・奈良朝後期には焼失

(2)託麻国府・・・奈良朝中期の瓦・水禍による崩壊流失・平安朝の遺物はほとんど出土していない

(3)飽田国府・・・平安時代初期?・複弁・巴文

2021年3月28日 (日)

軒丸瓦の分別表(訂正版)

川瀬さんのコメントにより,5つの分け方に訂正したものです。

素弁・単弁・複弁・リバイバル単弁・巴文の5つ。(リバイバル単弁が複弁の後に登場。聖武期)

数字が発掘報告書の瓦の番号です。

「肥前国分寺」と「肥後国分寺」は,こうなります。

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【肥前国分寺】

Img_9681

【肥後国分寺】

Img_9662

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上記の分別表を参考に,先日の課題をといてみると・・・

 

【肥前国分寺】

 1:法起寺式の創建時代:素弁がないから7世紀中頃 瓦は・・・・【単弁の3】

 2:塔を七重に改造した時代:聖武期・8世紀中頃 

   伽藍配置は、法起寺式のままか、大官大寺式に改造化は不明。

   瓦は・・・【リバイバル単弁の4・5】

  複弁が出土しているから、これは1と2の間の時代。瓦は・・・【複弁の1・2】

 3:平安時代:巴文が出ているから 瓦は・・・・【巴文の6】

 

【肥後国分寺】

 1:7世紀初頭から中頃の創建時代:E区の?

    伽藍配置は不明。

    瓦は素弁が出ており、?期基壇から複弁が出ているので3種類の瓦・・・【素弁・単弁・複弁】

 2:8世紀の再建時代:たぶん聖武期 

    伽藍配置はおそらく東大寺式で塔院+金堂院

    瓦は・・・・【リバイバル単弁の10・11】

  1・2の時代の間で洪水で破壊される。E区の?期。

  その時期は複弁の時代(7世紀後半から末)から聖武期の前(8世紀前半)。書紀と続日本紀で肥後洪水を調べればわかる。

   → 744年,肥後大地震で地震・雷雨というものがあったが,少々時期が後か?

2021年3月27日 (土)

「肥前国分寺」と「肥後国分寺の」瓦の分別表

素弁・単弁・複弁・巴文の4つで軒丸瓦を整理する分別表を作ってみました。

数字が発掘報告書の瓦の番号です。

「肥前国分寺」と「肥後国分寺」は,これで良いでしょうか?

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【肥前国分寺】

Img_9643

【肥後国分寺】

Img_9642

«過半数が「複弁が先」

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