2017年3月11日 (土)

武蔵国分寺の塔は南朝尺ではつくられていない(川瀬さん)

武蔵国分寺の塔は南朝尺ではつくられていない。
肥沼さんの「発見」はまぼろしです。

なぜこういえるか。
塔の大きさは一辺9.8mではなくて、10m、詳しくいうと9m99㎝9㎜。
この数字は、国分寺市教育委員会発行の「見学ガイド 武蔵国分寺のはなし」でも、福田信夫さんの「鎮護国家の大伽藍 武蔵国分寺」でも、塔の大きさを10mとしている。

肥沼さんが見られたパンフの。9.8mは間違いです。

なぜ間違いが生じたか。
これは発掘報告書に、塔の礎石から見た大きさは
33尺=10.7+11.6+10.7(石田茂作博士の復元による)だと、「新修国分寺の研究」の滝口論文でも示しているのですが、この尺は、現在の尺で、1尺=303㎜。これをパンフを書いた人が勘違いして、1尺=29.6mの天平尺(実際は唐尺)で書いたものと誤認して計算間違いをしたもの。

 滝口論文には三つの単位が混在します。現行の尺・寸。そしてcm。そして現行の尺の0.977倍とした天平尺(1尺=29.6㎝)。これは発掘調査が長年にわたっていたため、初期のころは尺寸で測定していたが、その後はcmで測定した結果。そして国分寺ですから古代寺院の建築に用いた尺はなんだろうということで、天平尺が出されている。
 滝口論文では尺を使うとき、天平尺の場合は、その記述の中に「天平尺」である旨が必ず書かれている。そして現行尺の場合は単に尺と表記する。
 先の塔の大きさを示した数値は、石田博士の復元によるものと明記されて、何の注記もないまま尺が使用されている。したがってこれは現行の尺だ。
 第一天平尺なら、なぜ柱間の長さが整数になっていないのか。整数になるか近似値ではなければ天平尺とは判断できない。

 よって塔の大きさ 33尺=10.7+11.6+10.7 は現行尺での実測値だ。

 だのに昔の発掘報告書に基づいて何度も転記しているうちに、この尺の単位がなんであるかが忘れ去られて、単位が混在したままで、さまざまな文書に書いてしまった。パンフはその一例だ。

 じつは最新の報告書でも、同じことが起きている。平成28年3月刊の僧寺発掘報告書。
p17と19に金堂の柱間寸法が㎝と尺で書かれているが、この尺が現行の尺なのか、それとも天平尺(塔尺)なのかの注記はない。そして問題の塔の部分。p50にあの「33尺=10.7+11.6+10.7)が記されているが、尺の説明はない。そしてp55の塔2が塔1とほぼ同じ大きさの塔だと論証する箇所で、塔2の掘り込み地業の大きさが一辺11.4mであり、これなら塔1の大きさの9.8mがすっぽりはいるから、塔2も塔1とほぼ同じ大きさだと論じ、ここに33尺=9.8mという誤った計算結果が示されている。
 数値を転記していくうちにその内実が忘れ去られ一人歩きした悪い例ですね。

 武蔵国分僧寺の塔の大きさは
   999.90㎜=324.21㎜+351.48㎜+324.21㎜ です。
これをいろいろな尺で割り算してみましょう。
1尺=29.6の唐尺なら
  33.78尺=10.95尺+11.87尺+10.95尺 きわめて整数に近い数値です。
1尺=24.5の南朝尺なら
  40.81尺=13.23尺+14.35尺+13.23尺 これもかなり整数に近い数値です。

わずかに唐尺の方が整数に近いと思いますね。
 したがって肥沼さんの、武蔵国分寺僧寺の塔が南朝尺でつくられていたという「発見」はまぼろしです。

※考えてみれば南朝尺の遺跡がでるはずがないのです。この塔は
1:最初は九州王朝時代につくられたことはたしかです。この時は南朝尺。
2:聖武詔によって七重塔に改造された。基壇が各2m拡大された。この時は確実に唐尺。
3:平安時代の9世紀中ごろに落雷で焼失。
4:すぐに再建したが、焼け残った礎石をそのままに、火災で崩れた基壇は白粘土で補修して、焼失前の塔を再現して再建。このときも確実に唐尺。

 発掘で明らかになり、現在地表に出ている遺跡はこの4の時なのですから。この地下に七重塔に改造するまえの礎石を据えた根石の痕跡でも出てこない限り、塔から南朝尺の遺跡が出てくるはずはないのです。
 この事実を確認していれば、塔身9.8mを南朝尺で割ると、40という整数になる。だからこの塔は南朝尺で作られたと即断せず、もっと冷静に数値そのものの淵源を確認する作業ができたわけです。

 以上、肥沼さんの発見についての再検証の結果です。

追伸:ただしこの考察は無意味ではありません。金堂や講堂の柱間寸法もいくつもの尺で割ってみたことで、これらが唐尺である可能性が高いことが確認できました。しかしこれらの堂の配置は、きわめて古式です。信濃国分寺よりも、そして藤原京の小山廃寺よりもさらに古式。つまりは7世紀中ごろの伽藍配置。こんな古式の伽藍が唐尺でできている。つまり金堂院は南朝尺で作られていた伽藍がたとえば火災などで全焼し再建する際に、あらたな唐尺で作ったが、伽藍の配置やもしかしたら建物そのものも往時の姿をそのまま再現したかもしれないのです。金堂は焼失の痕跡も再建の痕跡もなく、講堂は一度建て替えられていることが発掘からは言われていますが、金堂も建て替えられている可能性が出てきました。興味深い発見です。

2017年3月 8日 (水)

『法隆寺のものさし』

上田市の「信濃国分寺」を訪問し,吉村さんとお話していて,
川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)から学ぶ必要を感じた。
 
P3072535
 
川端さんは,法隆寺についての再建・非再建論争にからんで,
その塔の木材が594年に伐採された事実(年輪年代法により,2001年に明らかになる)により,
法隆寺が別のX寺(日本書紀も名前を隠すほど有名だった寺院)を移築したものであると指摘し,
建築のもとになる「ものさし」を,太宰府政庁や観世音寺などと同じ南朝尺とした。
これは九州王朝が中国の南朝の冊封体制のもとにあったから当然のことだったが,
白村江の戦いで敗戦・滅亡すると,それに取って代わった大和政権は唐尺を採用した。
そこで,多元史観の人には「南朝尺と唐尺」が混在しているように理解できるわけだが,
一元史観でしかものを考えられないと,長さの単位の混乱の整理がつかず,
挙句の果て実際には存在しない「高麗尺」という単位まで実在したとする「幻覚」にさらされるのだ。
(実は,私もそうだった(^-^;)
 
基本的な構造は,以下のようである。
 
九州王朝が政権を持っていた7世紀末まで・・・南朝尺(1尺=24.5cm)
大和に政権が移った8世紀以降・・・唐尺(1尺=29.7cm)
 
つまり法隆寺(X寺)は南朝尺によって作られたの建物だったのを,
日本書紀を信じて唐尺(挙句の果てに高麗尺)で作られた建物と考えたので,
いろいろな混乱(再建・非再建論争など)が生じてきたということだ。
しかし,これからは逆にこれを利用することが可能となる。
 
南朝尺が使われていれば,九州王朝の時代に建てられたもの(国府寺など)
唐尺が使われていれば,大和政権の時代に建られたもの

という理解である。
 
そのように考えた時,思いついたのが,
<u>もしかしたら「武蔵国分寺」の塔は,南朝尺で建てられたのではないか?</u>
というスタートラインに立った考えだった。以下,別項にて・・・。

武蔵国分寺の塔は「何尺」で建てられたか?

何気なく「武蔵国分寺」のパンフレットを読んでいたら,
以下のような記述に出くわした。
 
「再建塔の基壇は一辺17,7m四方の乱石積基壇で,
その上に9,8m四方の礎石建物が建ち,高さは60mを越えるものと推定されています」
 
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/004/239/news10.pdf#search=%27%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%9B%BD%E5%88%86%E5%AF%BA+%E5%A1%94+%E5%AE%9F%E6%B8%AC%E5%80%A4%27
 
昨日から川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)を読んでいた私は,
何かあったら割り算をしてみようと電卓を持ち歩いていた。
(というのは半分嘘で,あと1クラス残っているテストの採点で使おうと持ち帰ったのだった)
さっそく9,8mを南朝尺の24,5cmで割ってみた。すると・・・
 
980÷24,5(南朝尺)=40尺
 
うそっ!まさに整数値中の整数値である。(端数がまったくない!)
「武蔵国分寺」(国府寺)の塔は,南朝尺=太宰府政庁や観世音寺,法隆寺らと共に
九州王朝採用の尺で作られていたのか。(当り前と言えば,当たり前だが)
ということで,今後ほかの「国分寺」を調べる際に,
「24.5で割る」という作業が有効だと思われます!
 
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※ ちなみに,武蔵国分寺の金堂の柱と柱の間の距離は,
592.0÷29.6(唐尺)=20
532.8÷29.6(唐尺)=18
384.8÷29.6(唐尺)=13
444.0÷29.6(唐尺)=15
というように唐尺(1尺=29.6cm。大和政権が採用した尺)を利用している。
(『法隆寺のものさし』の中では,29.7cmとしている)
明らかに,塔と金堂以下の建物は違う尺をもとに建てられたと言える。
 
私の「武蔵国分寺」への最初のこだわりは,
「同じ「武蔵国分寺」の伽藍なのに,どうして塔と金堂以下の建物の方位は
7度も違っているのだろう?もしかしたら建てた王朝が違うのではないか?」
(塔が南北軸に対して,金堂以下は7度西偏している)というものだった。
今回「南朝尺」と「唐尺」というそれぞれの王朝の採用した「ものさし」の違いから,
私の疑問が解けるのではないかと思い拙文を書かせていただいた。
いかがでしょうか。
 
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※ 「甲斐国分寺」の塔も,9.6m四方に見えるので,
これも「武蔵国分寺」と同規模=南朝尺の40尺ではないだろうか。
『国分寺の創建 組織・技術編』P354
 
※ 武蔵国分尼寺についても,南朝尺が使用されたと思われるが,
まだ実測値が入手できていないので,「宿題」とさせていただく。

2017年3月 6日 (月)

「信濃国分寺」訪問記

昨日の午前中,Yさん(もう吉村さんでいいでしょう)に案内をお願いして,
「信濃国分寺」を訪問してきた。
 
午前9時過ぎ,上田駅前のコーヒー店で打ち合わせ。
村上和夫著『瓦当文様の謎を追って』(岩波ブックサ-ビスセンター,1990年)の中に入っている
「信濃国分寺址出土の蕨手文鐙瓦の研究」という論文に,興味深いことが書かれていたそうだ。
 
P3052533
 
長野県坂城町の土井の入瓦窯址で焼かれ,
込山廃寺で出土した「蕨手紋」の瓦と同じものが,
国分尼寺から出土しているのだが,
込山廃寺の場合礎石配置が3.10m離れているように,
国分尼寺のそれも3.10mなのだ。
実はこの長さは,九州王朝の使用した「南朝尺」にとってふさわしいもので,
(それまで尼寺は僧寺をサイズダウンしたものとされていたようだ)
それを導入すると,以下の疑問が氷解するというのだ。
 
吉村さんのお話とお手紙をまとめると,次のようになる。
 
(1) 中心線が2度異なっている(東偏3度と東偏5度)
(2) 僧寺と尼寺が近すぎる距離(40m)である
(3) それなのに両者の間に通路がない
(4) 瓦窯の位置が不自然である(尼寺は近く,僧寺は遠い)
(5) 出土した瓦は尼寺の方が古い
(6) 雨落溝の造作が,僧寺より尼寺の方が立派
 
本来国府寺として建てられたものを,
「国分尼寺」として活用したのではないか・・・。
あなたはどう思いますか?(文責は,肥沼)
 
※ 参考文献 川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)
 
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12時38分の新幹線に乗り,私は高崎サークルへと向かったのでありました。
吉村さん,ご案内ありがとうございました!m●m
 

建築物の配置とその規模

斎藤忠『日本古代遺跡の研究・総説』(吉川弘文館)の中の,
「建築物の配置とその規模」を写真で転載します。
 
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2017年2月26日 (日)

「信濃国分寺」の伽藍配置は?

長野県上田市のYさんより,
「地元の上田市にある「信濃国分寺」は何伽藍配置か?」
というご質問をいただきました。
これっていわゆる東大寺(国分寺)式ってやつでしたっけ?
山田さんと連絡を取りたいということでしたが,
ちょっと失念してしまいましたので,「夢ブログ」に書きますね。
 
 
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/kokubunji/park.htm
 
※ 「肥さんの夢ブログ」より,こちらのサイトに引越いたします。

長門国府と国分寺の復原図

『新修 国分寺の研究』第七巻・補遺をパラパラ見ていたら,
川瀬さんの論文の中で「不明欄」が目立った長門国分寺についての論文が
掲載されているのに気が付いた。
特に「長門国府と国分寺の復原図」は,イメージを広げるのにいいと思い,
川瀬さんにメール添付で送るとともに,「夢ブログ」にも掲載します。
九州王朝の国府寺 → 大和政権の国分寺への転用という感じがしますが・・・。
P1282229
写真をクリックすると拡大します。

2017年1月23日 (月)

★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(訂正版2-9③)

  • 9)26ヶ国の「国分寺」の再検討

  ③南海道諸国の国分寺

 

 次に26ヶ国国分寺の中の南海道諸国の国分寺を検討しておこう。ここには五か国国分寺、紀伊・阿波・讃岐・伊予・土佐が挙げられている。南海道諸国の中では淡路だけが抜けている。

 

16.紀伊国分寺

 和歌山県紀の川市東国分にある。現在跡地には後継の寺院・紀伊国分寺があり、本堂は、創建時の講堂基壇の上に立っている。

 創建時の寺域は2町四方(約218メートル四方)。伽藍は南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧房が一直線に配置されている。また塔は金堂の東前方に、鐘楼と経蔵は金堂の後方に配置される。さらに、中門左右から出た回廊は金堂・塔・鐘楼・経蔵を内に囲んで講堂と接続していた。寺の東側は雑舎に当てられたものと推測されている。塔は七重塔と推測され、一辺16.4メートルの瓦積基壇上に緑泥片岩製の心礎を始め全ての礎石が旧状を保っている。

 

        Photo_2

             (「紀伊国分寺伽藍図」)

 

 復元された伽藍配置図を見ると、伽藍は大官大寺式で伽藍の基軸は真北から5度ほど東に傾いている。

 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データで各伽藍のデータを詳しく調べてみた。これによると、創建金堂は平面規模は再建期とほぼ同規模(東西45m・南北30m)と考えられ、基壇南面8mにわたり高さ25㎝平瓦1012枚が残存するのみ。基壇は地山を50㎝程度掘り下げて、その上に10㎝程度の厚さで土を交互につき固めて土壇を形成。基壇外装は瓦積。 講堂は、基壇は二重基壇で下壇は、東西32.6m南北20.4m、上壇は東西幅29.96m南北17.56mと考えられる。基壇南面中央には瓦積階段が設けられている。建物の規模は桁行26.6m、梁行14.4m。僧房は、講堂と僧房が軒廊により結ばれている。基壇は第Ⅱ期僧房建立のため削平されており全体規模不明。桁行38.48m 梁行10.36m。金堂と僧堂は、元慶3(879)年火災焼失後、延喜9(909)年以降の再建(以上『紀伊国分寺-紀伊国分寺跡・西国分廃寺の調査-』 発行所 和歌山県教育委員会 発行年 1979 より)。さらに塔は、(基壇は16.4m四方で)塔建物は桁行9.3m梁行9.26m。基壇北面中央には、創建期の基壇縁瓦積化粧の一部を取り除き、平安時代初頭に瓦積による階段をつくりつけている。創建時に北面に階段があったかどうかは不明。基壇は地山を1mほど掘り下げて穴を掘り、その上に版築工法で、10㎝ほどの厚さで交互に土を突き固め、地山上には510㎝ほどの厚さで交互に土を突き固めて高さ1.2mほどの高さの土壇を形成している(以上は「紀伊」『新修国分寺の研究第5巻上 南海道』発行所 吉川弘文館 発行年 1987 よりー)。

 以上のように建物データを詳しく見ると、塔と金堂の基壇構造は、地山を50cmもしくは1m掘り下げてそこから10cmほどの厚さで土を交互につき固めて土壇を築き上げる、総地業方式であることが判明。しっかりと堅固に作られた古式の寺院であることがわかる。

 この国分寺は、紀伊国府跡と思われる和歌山市の府中の府守神社から東に10㌔ほど離れている。しかし、西の尼寺跡と思われる西国分塔跡が白鳳寺院であることから、この近辺に初期国府があったことが想定されている。

 

        Photo_6  

 (「遷都に伴う駅路の変遷」・(『国府』p271

 

 『国府』の著者木下良は、紀伊国分寺が紀伊国府の東方10㎞と離れた位置にあるのは、南海道が付け変わったことに伴って紀伊国府が変わったことによると述べている(p269272)。これによると、奈良時代の南海道駅路は、藤原京や平城京からさらに南に奈良盆地を進み、現在の五條市付近で紀ノ川上流に出て、紀ノ川右岸沿いに進み、紀ノ川河口の北方の紀淡海峡渡海地点に設置された賀太駅家に至っていたと。しかし都が平安京へと移された後の弘仁2年(811年)に、この紀ノ川右岸沿いにあった南海道の二つの駅(萩原・名草)が廃止され、代わりに(新)萩原駅が設置され、南海道は、平安京から河内・和泉の諸駅を通り、山越えして紀ノ川下流に至り、賀太駅家に至って紀淡海峡を渡るものに変更されたのではないかとしている。したがってこれに伴い、従来国分寺の西1㎞ほどのところにあった紀伊国府を廃して、紀ノ川河口に近い和歌山市の府中の府守神社付近に移されたと。

 そして紀伊国分尼寺ではないかとされている西国分廃寺の南側約500mにかけて存在する西国分Ⅱ・岡田遺跡は7世紀後半に始まり9世紀には廃絶した地方官衙遺跡と考えられているが、これが初期紀伊国府であったのではないかと推定している。

 したがって紀伊国分寺は、当時の紀伊国府の東1㎞ほどのところにあった古式の大官大寺式伽藍の形式の「国府寺」の塔を拡大改造して(塔基壇を拡充改造した痕跡はまだ確認できないが)七重塔とした改造国分寺であったと考えられる。

 なお紀伊国分尼寺は、僧寺の西方約800mに残る西国分廃寺跡とされ、ここは塔心礎が残され白鳳時代に始まる寺院と考えられているので、これも国府近傍の古寺を国分尼寺に転用したものと考えられる。

 

17:阿波国分寺

 徳島県徳島市国府町矢野に存在する寺院遺跡。遺跡地には後継寺院の阿波国分寺が存在する。

 中心伽藍の調査が不十分なため、今後の検討の余地を有しているが、「塔ノ本」の地名などからして、南面した伽藍配置の場合は西側に塔を配した伽藍様式を示すものと思われる。伽藍配置については再検討を要するが、回廊で囲まれた中心伽藍の外側に塔を独立させ、 8世紀中葉に開始されたといわれる東大寺式の系統に属するものと思われる(以上は、「徳島市埋蔵文化財調査報告書第9集 阿波国分寺跡第3次調査概報-1980年度―」による)。

 

          Photo_8  

 

           (阿波国分寺跡調査地点図)

 

 奈良文化財研究所の古代寺院遺跡データベースによると、A地区からは僧房と思われる5.4×5.4mの建物が見つかり、礎石上に焼失痕がみられ、建物北・東側に焼土の堆積が一部見られる。北・西・南に地覆石と思われるものがみられる。B地区から発見された講堂と思われる建物から「根石を敷き詰めた柱穴を確認」とある。調査B地区から金堂と見られる建物の礎石抜き取り穴二つとその北側に東西に走る石列を発見。D地区からは東辺北回廊の一部と見られる瓦が満ちた溝を発見(4.8m)。また塔については、塔心礎―長さ3.78、幅1.75、高さ0.7mの自然石。外径1.05m、内径0.545mの環状の (ホゾ)穴あり―のみ確認。現国分寺西側築地の外側に「塔ノ本」と呼ばれる地があり、そこから運ばれたとされている(以上出典は「阿波国分寺」『新修国分寺の研究 第5巻上 南海道』)。

 こうしたデータから講堂・金堂・中門・南大門が南北に一直線に並び、中門から伸びた回廊が金堂に取りつき、塔はこの金堂院の西側、中門と南大門との間に存在する伽藍が復元されたもののようだ。

         Photo_3

(阿波国分寺跡伽藍配置推定図)

 

 なお伽藍中軸線は真北に対して西に10度偏しており、発掘報告書『徳島市埋蔵文化財調査報告書第9集阿波国分寺跡第3次調査概報一-1980年度』

http://sitereports.nabunken.go.jp/14035

には出土瓦の中の「重圏文軒丸瓦は平城宮跡の6012A系統と思われるものが認められ」とあり、創建年代は奈良時代末と見られているとある。

 しかし重圏文軒丸瓦は神亀三(726)年に聖武天皇が藤原宇合に命じて造らせた難波宮(大阪府大阪市中央区法円坂)の大極殿院や朝堂院の軒先瓦に求めることができるとされており、その中の平城宮跡の6012A系統という瓦は、これまでに32点ほど出土していて東三坊大路(左京一条)で14点、平城宮跡からは6点しかみつかっていないという非常に珍しい瓦とされている。この手の瓦が出土するということは、阿波国分寺の造営時期は、奈良時代中ごろとするのが適当であると思われる(以上瓦については、

https://www.city.ichihara.chiba.jp/maibun/note/notebook32.htm

市原市埋蔵文化財調査センターサイトの「研究ノート 瓦の話 -第1回 重圏紋のルーツ- -第2回 国分寺創建以前の重圏紋- -第3回 国分僧寺に葺かれた重圏紋-」高橋康男著」による)。

 そして阿波国分寺と阿波国府との関係であるが、従来は阿波国分寺の北北東1200m付近にある徳島市国府町府中の大御和神社を中心に展開したものと推定されており、この神社を北端の中心において、東西南北800m四方ほどの正方位の街路がみられることから、ここが阿波国府の候補地とされてきた。しかし近年の発掘調査から、この地域からは何らの遺構が発見されず、この地域の西部にある府中町観音寺遺跡から大規模な掘立柱建物が発掘され、国庁にかかわると思われる大量の木簡が出土したことから、阿波国府跡は字観音寺から北の字敷地方面に広がり, 国庁跡は字観音寺周辺が, その有力な候補地として考えられるに至っている。そしてこの遺跡から発見された掘立柱建物には正方位のものと、西に10度偏したものとがあり、正方位のものは7世紀中葉から末造営なので、西に10度偏した建物群は8世紀のものと考えられている。

 この観音寺地域は阿波国分寺跡から北に約1㎞の地点。この地点にある国庁に関連した西に10度偏した掘立柱建物は8世紀のものと考えられていることから、同じく西に10度偏した伽藍中軸線をもった阿波国分寺は、確証はないが、その伽藍配置からして、8世紀の阿波国府近傍に造られた新造の国分寺の可能性を有している。

 なお阿波国分尼寺は、僧寺の北へ約1km、昭和4546年に発掘調査が行われ、金堂・北門跡・寺域などが確認され、寺域は約160m四方に及ぶ広大なもの。昭和48414日指定、住所は名西郡石井町字尼寺12-1。この場所は、あららに阿波国府跡として注目されている観音寺地区のすぐ西側。

 

18:讃岐国分寺

 香川県高松市国分寺町国分。後継寺院国分寺がその境内に立つ。発掘調査で明らかとなった奈良時代の寺域は南北240m、東西220mで、現在の国分寺や東隣にある宝林寺を含んでいる。伽藍は大官大寺式伽藍配置で、中門・金堂・講堂が南北一直線上に並び、中門と金堂を回廊で結んだ内側の区画の東側に塔が建てられていた。

 遺構の保存状況はよく、金堂、七重塔などの礎石が原位置に残っている。

現国分寺の本堂は奈良時代の講堂跡に建ち、現本堂はこの礎石を再利用している。他に、回廊・僧房・鐘楼・掘立柱建物・築地塀の遺構が発掘で確認されているほか、中門・南大門があったと推定される。

 讃岐国分寺資料館の詳しい説明や奈良文化財研究所のデータによると、現在の国分寺境内寺域の北側・南側の線上、西から4分1のところを結ぶ南北線が、讃岐国分寺の伽藍の軸となる。つまり寺地の西半分に七堂伽藍が立ち並び、東側には様々な寺務を執り行う役所が建てられていた。

 金堂は、礎石の現状などから、基壇の規模は、東西34.9m、南北21.3m、建物の規模は、7間×4間で桁行27.8m、梁行14.2mと推定されている。礎石のみむき出しの状態であり、それ以上の発掘はなされていないため、基壇の構造などは不明(『特別史跡 讃岐国分寺跡 昭和58年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1984 

 塔は、礎石のみ遺存で基壇は不明。礎石の現状から、塔建物は33間で10m四方。高さ63mの七重の塔に復原可能(『特別史跡 讃岐国分寺跡 昭和58年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1984 

 講堂は、現本堂は創建時の講堂の礎石を利用して建てられており、ほぼ原位置を保っているものと考えられる。創建当時の講堂の規模は、74間で22.79m×12.73m(「讃岐国分寺跡」『香川県埋蔵文化財調査年報』平成3年度 発行所 香川県教育委員会 発行年 1992 )。

 中門から金堂に取りつく回廊は、発掘調査の結果から、基壇は盛土で、基壇の幅は6.5m、建物の幅は3.6m程度と推定(『特別史跡 讃岐国分寺 平成3年度発掘調査概報』 発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1992 

 僧坊は、基壇の規模は、東西87.99m、南北16.0m、建物の規模は、桁行83.9m、梁行12.0m。3間を単位とする坊で、中央3間を食堂として利用する。東西各3坊は3間の中央間を通路とし、両側に方1間の室を計4室設ける。21間×3間。基壇は地山削りだし(『特別史跡讃岐国分寺跡保存整備事業報告書』発行所 国分寺町教育委員会 発行年 1996 )。

 伽藍中軸線や各堂塔の軸は、西に2度偏している。

         Photo_10

 (「讃岐国分寺伽藍配置」)

 

 讃岐国分寺は、讃岐国府の東北東約2㎞にあり、尼寺はその約2km北東にある国分尼寺の後継寺院と云える法華寺の境内に礎石が残っている。

 興味深いことに、現在讃岐国府遺跡とされて発掘が続いている遺跡は、その南北軸は、真北に対して西に約20度偏しており、国分寺の様相とはことなる。

 

          Photo_4

 

          (「讃岐国府周辺の歴史環境」)

 

 そして国府遺跡の中からは、発掘記録では国府内の建物群の中に正方位の物が出現しているようである。24年度報告に「現在、讃岐国府跡の調査を進めていますが、調査で見つかっているのは国府の時代のものばかりではありません。国府が設置された奈良・平安時代の建物跡や柵列跡などはおおむね周辺の地割と同じ方向を向いていますが、その中に真北を向く建物跡が1棟見つかりました。平成23年度の調査で真北を向く大型建物が見つかっていますが、おそらくこれとほぼ同時期で、国府が設置される直前の7世紀後半~8世紀初頭頃の建物と考えられます。この頃は、国府の西側にそびえる城山に古代山城が築かれた時期でもあります。真北を向く建物がどのような性質のものか、今後の検討課題です。」とある。

 http://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/s_k_tyosa24.html

 つまり7世紀後半のこの地にはほぼ真北を向いて役所群があったということであり、この役所群の西側の城山に古代山城が築かれていたということで、これは九州王朝時代の遺構だということだ。

 そして2009(平成21)年から始まる8次に及ぶ国府探索事業の実施にもかかわらず、いまだ8世紀奈良時代の国府関連の建物群は見つかっていない。発掘された中心的建物群は、8世紀末から910世紀の平安時代から鎌倉時代のものである。

 ということは7世紀後半から8世紀・奈良時代の讃岐国府は現在の場所ではない可能性があるということだ。

 讃岐国分寺の伽藍中軸線はわずかに西に2度偏する。そして讃岐国分寺と讃岐国分尼寺が存在する高松市の西部、本津川流域の平野部(盆地)には、この国分寺の中軸線とほぼ同じく真北に近い向きの条理遺構が広がっている。

 この平地は現在讃岐国府とされている坂出市府中付近の綾川流域とは、南北に延びる標高およそ300mほどの山塊で隔てられており、二つの平地の間はもっとも狭い場所では幅100mほどの谷でつながっている。そして古い時代の道路は国分寺のすぐ南200mほどのところを東西にうねりながら走り、その南400mほどのところを南から来る本津川に合流する支流(国分寺の北西から南下した川)が西から東に流れている。またこの支流と本津川の北側で国分寺の東に広がる平地には、国分寺伽藍中軸線とほぼ同じく真北に西に2度傾いた条理遺構が広がっている。

 最近の推定では、この本津川の支流の南側を古代南海道は通り、先ほどの狭い谷に入る前の現在の関ノ池(江戸時代初期に堰き止めて生まれたとされる)の西側の平地である府中前谷地区に古代の駅家河内駅家があったと想定され、さらにここから狭い谷を抜けて南海道は西に向かって綾川流域に至り、現在讃岐国府とされた地は、この古代南海道のすぐ北側に面している。

 可能性だが、讃岐国分寺の東から南に広がる平地に7世紀後半から8世紀初頭の讃岐国府はあったのではないだろうか。だとすれば、最近讃岐国府跡とされる遺跡群の中から出てきた正方位の建物群は阿野郡家となろう。ということは、讃岐国分寺の前身寺院がこの初期讃岐国府に付随する寺院である可能性を示している。

ここに国府があったとすれば国府からの距離は西に数百mにすぎない。

 讃岐国分寺は塔基壇や金堂基壇など詳しい調査がされていないので詳細は不明であるが、古式の大官大寺式の寺院の回廊内の塔を造りなおして七重塔とした改造国分寺である可能性が大きい。

 

19:伊予国分寺

 愛媛県今治市国分にある寺院跡。塔跡の西にあたる亀山には、四国霊場59番札所である現在の国分寺がある。

 塔の存在が古くから知られていたことから、1921年(大正10)に国の史跡に指定。1968年(昭和43)に塔の規模や寺域を確認するための調査が行われた結果、基壇は117.4mの正方形で12個の礎石が現存し、そのうちの心礎、北東隅の側柱礎石3個、西北の四天柱が原位置を保っており、その他は移動または傾いていることが判明。心礎の南27mの地点(東20m)で南回廊と思われる、北側幅4m、南側幅6m2本の溝に挟まれた幅6mの整地部分が確認された。

 

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             (伊予国分寺調査区図)

 

奈良文化財研究所のデータや『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』(昭和57年3月31日発行)などによると、塔基壇は、総地業で版築盛り土基壇。南北軸はほぼ真北。基壇幅は17.4m四方。心礎を含む12個の礎石が残存していた(原位置は4個で他は移動)。3間×3間。建物は10m四方と推定(「伊予国分寺」『新修国分寺の研究 第5巻上 南海道』 発行所 吉川弘文館 発行年 1987 )。

 塔基壇は基壇平面の規模で地山が掘り下げられ、70㎝以上の深さで赤土粘土や砂質土が計9層につき固められていることが確認されている。

 心礎の南26mの地点(東23m)で発見された南回廊と思われる遺構は、幅5.5m。その北・南側には北溝(幅約3m)、南溝(幅約4m)が伴走している。礎石位置のみに壺地業。

 伽藍配置不明であるが、地形と塔・回廊の位置を考えると、塔は西塔。金堂院が塔の東側。金堂は塔の横東側か?。塔心の南で見つかった遺構が回廊だとすると、塔も金堂も回廊の中にある形式で、法隆寺式の古式寺院を改造したのではないかとも考えられている。しかしこの溝を伴う遺構は、礎石、基壇などが確認されておらず、回廊とするより、寺域を示す築地状遺構とみた方が無理がないように思われる。したがって塔は回廊外にあった可能性が強いというのが、県史の結論である。

 『愛媛県史 原始・古代Ⅰ』(昭和57年3月31日発行)はデジタル版が公開されている。

 http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/61/contents

 興味深いのはこの遺跡の出土遺物で、軒丸瓦一四点、軒平瓦一種類二点、鬼瓦片のほか丸瓦では玉縁本瓦と行基瓦、平瓦では布目瓦(下面縄目)などが主に南溝から出土している。軒丸瓦は主として素弁蓮華文や複弁蓮華文瓦であり、軒平瓦は均整唐草文瓦が多い。これらの中には数点ではあるが白鳳期的要素をもつ素弁蓮華文軒丸瓦や瓦当の両端が三角形(隅切り)で深顎形式の型引四重弧文軒平瓦が含まれている。ほかに、単弁八弁蓮華文や難波宮跡出土瓦に類似した軒丸瓦が出土している。

 この白鳳期の要素を持った瓦が出土していることも法隆寺式の古式の寺院を改造したとの見解を支えるもので、難波宮跡出土瓦に類似した瓦が出土していることは、奈良時代中ごろに古式の寺院を改造した可能性を示している。

 なお伊予国分尼寺は、僧寺の南東1600mのところにある桜井小学校の敷地から唐草文軒平瓦が出土しているのでこの地と考えられている。ここからは軒丸瓦では白鳳期の単弁蓮華文瓦や複弁八葉蓮華文が出土しており、五重塔と推定される塔基壇と礎石が残存していることからも、白鳳期の古式の寺院の転用も想定されている。

 国分僧寺の南220mには、南海道に比定されている県道乃万桜井線が通り、北東約1.8㎞のところは伊予国府跡として有力視されている今治市上徳(富田小学校付近)である。

 だが今治市上徳からは特に国府関連の遺構は発見されておらず、伊予国分寺と国分尼寺が1.6㎞の距離をおいて、古代南海道の北側と南側に存在していることや、二つの寺院の中間の南海道の南側の地域、すなわち今治市旦(旧越智郡桜井村字旦)は古代伊予軍団が置かれた地とも想定されているのだから、このあたりが初期の伊予国府と想定できる。

 

         Photo_13

 

(「伊予国分寺付近図」)

 

 この地は真ん中を桜井川が西から東に古代南海道に沿って流れており、その東端にある国分尼寺から桜井川河口の港までは約670mであるので、内陸にありながら水運の便にも優れた土地だと考えられる。

 この今治市旦が初期国府だとすれば、国分寺は国府の北500mほど、国分尼寺は国府の東500mほどとなり、両寺ともに国府に付属した国府寺を改造して僧寺尼寺とした可能性も高まる。

 

20:土佐国分寺

 高知県南国市国分にある寺院跡。高知平野のほぼ中央北部を、南西に蛇行しながら流れる国分川右岸沿いに所在。寺跡は現在、国分寺(四国霊場29番札所)によって法灯が受け継がれており、土塁などが遺存する奈良時代の国分寺跡であり、土佐の代表的な古代寺院跡であることから、1922(大正11)に国の史跡に指定された。

 発掘調査は国分寺の現状変更に伴う調査や国庫補助を受けた調査など何次にもわたって行われているが、未だ伽藍配置の全体像など明らかにはなっていない。ただし現本堂が旧金堂の跡に造られたと考えられ、塔跡と思われる場所などの位置関係から、東大寺式伽藍と想定されている。

 しかし発掘調査報告書などで精査してみると、そうとは言い切れない。

 

 現本堂周辺の発掘調査からは、旧金堂の基壇の掘り込み地業跡が見いだされ、旧金堂の大きさや位置などが明らかとなった。

 金堂は、現在の本堂及び大師堂にかけての範囲から版築を施した掘込地業(東西約30m南北18m)を検出する。建立された金堂の規模は4間×57間と考えられる。また、基壇跡の方向は真北に対して東に16度偏しており、土塁等と同じ方向を示している。掘込み地業は深さ6070cmを測り、厚さ10cm前後の暗褐色粘質土等を交互に叩き締めた版築層により構築されており、上面は削平を受けているようである(土佐国分寺跡-第4次発掘調査報告書-)。

            Photo

           (「土佐国分寺検出遺構図」)

 

 しかしこれ以外の主要堂塔の位置や規模は未だ不明。

 塔の心礎と考えられる石が、現国分寺の庭園に残されている。

 硅岩製。幅1.1m以上長さ1.5m以上。中央に心礎柱座とみられる径68㎝深さ5.5㎝の穴が、またその中に心柱の枘穴と考えられる径20㎝深さ5㎝の穴をもち、一本の排水溝を有する(土佐国分寺跡第一次発掘調査概報1988年)。そしてこの塔心礎は元々境内地南東の歴代住職の墓所にあり、秋葉社の土台として使われていた。歴代住職墓所が塔跡の可能性を示している。礎石の最大厚は70㎝(土佐国分寺跡第四次発掘報告書2009年)。

たしかに歴代住職墓所は現在でも土壇状を呈しているので塔跡の可能性があるものの、調査されていないので真偽のほどは不明である。

 また旧金堂の真南の伽藍中軸線に直交するように6間×3間の礎石建物が掘り出され、この建物の軸も真北に東に16度偏しており、位置から考えると中門の可能性があるものの、建物の中央部の柱間が狭くなる構造を示しているため、門以外の建物と想定されている。礎石の掘方内から白鳳期末とみられる須恵器杯蓋が出土し、さらに須恵器窯で焼成された平瓦も出土。 白鳳末期~奈良時代初頭の遺物を検出することから国分寺造営時以前の建物である可能性がある(南国市教育委員会 書名・雑誌名 『土佐国分寺跡-第二次発掘調査概報-』 発行所 南国市教育委員会 発行年 1989 )。この遺構はすでに礎石も取り外されてないことから、国分寺創建期に、それ以前からあった寺院の堂舎が取り壊された可能性も示しているのだが、建物の軸が、金堂や寺域を区画する土塁と同じく真北に対して16度東に偏しているので、理解に苦しむところである。

 土佐国分寺跡の特徴は、寺域が、残存する北・東・南の土塁から一辺約150mのほぼ正方形と考えられており、先の図でもわかるように、金堂がそのほぼ中央に位置していることである。そして興味深いことに、塔が歴代住職墓所だとすると、その西側、伽藍中軸線からの距離がほぼ等しい距離に総社が置かれた高まりがあり、この二つの東西の高まりを結んだ線と伽藍中軸線との交点から、金堂と総社・墓所との距離がほぼ等しいことが興味深い。この二つの東西の高まりが塔だとすると、土佐国分寺の伽藍配置は薬師寺式となるのである。

 しかし近年の発掘から、寺域を限る土塁を断ち割って調べたところ、これは創建時のものではなく、中世の城館に特徴的な構造を示しているので、中世に寺域を城館として利用した際の構造物と断定された。ただし東側の土塁の下には、ずっと古い時期の溝が存在し、これが国分寺創建時の寺域を区画する溝と考えられるにいたっている。そして寺域の北側は、北側の同じく中世の土塁の延長上が北限と考えられていたが、この北限域を超えて北に続く白鳳期から奈良・平安時代の掘立建物が出現し、これらから寺域がさらに北に延びていることが確認されている(第三次発掘調査概報・第四次発掘調査報告)。こうして、寺域は方形ではなく、北に長く続くことが想定されるようになった。

 こうした最近の調査結果から、金堂と思われる建物は寺域の中心にはなく、さらに金堂と塔伝承場所との関係から東大寺式と想定された伽藍配置では中門と考えられる場所に、門ではない、国分寺創建時以前にさかのぼる可能性のある礎石建物が出てきたことで、この伽藍配置想定は根本的に覆る可能性が出てきている。現状では土佐国分寺の伽藍配置は不明である。

 土佐国分寺の発掘調査報告は、奈良文化財研究所のデータベース「全国遺跡報告総覧」の中に、掲載されている。

 

 第一次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9952

 第二次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9600

 第三次調査概報は、http://sitereports.nabunken.go.jp/9846

 第四次調査報告書は、http://sitereports.nabunken.go.jp/11006

 

             Photo_2

         (土佐国府・国分寺・国分尼寺関係地図)

 

 この土佐国分寺跡から北東に800mほどのところに、土佐国府跡と推定されている遺跡がある。すでに25次におよぶ発掘調査がなされているが、国衙関連と見られる柱穴や硯などの遺物は見つかっているが、国府中心部の様相や全体的な官衙配置を確定するには至っていない。この南国市比江の地には「内裏」「国庁」「府中」などの字が残り、この付近に国府があったことは間違いないとされている。

 ただし土佐国府の発掘データを奈良文化財研究所のデータベースで見てみると、掘り出された掘立建物には、その南北軸が、真北から東に13度傾いたもの、11度東に傾いたもの、12度東に傾いたもの、14度東に傾いたもの、9.5度東に傾いたもの、8度東に傾いたもの、ほぼ真北を向いたもの、西に2度傾いたものなど様々にあるが、このうちの8度~14度東に傾いたものは8世紀後半から9世紀と推定され、ほぼ真北のものと西に2度傾いたものは8世紀前半と推定されているので、国府遺跡そのものが二次にわたって造営された可能性が見て取れる。

 なお土佐国分尼寺の跡は、この土佐国府跡の北400mほどのところにある比江廃寺跡とされている。

 この遺跡は、当初は法隆寺式伽藍配置で白鳳期創建と考えられていたが、塔基壇版築から8世紀の須恵器が出てきたので否定され、さらに塔跡の北側に南北5間東西8間の礎石建物が検出され、その礎石建物の西側に東西5間南北4間の礎石建物も検出され、法隆寺式伽藍配置も再考されはじめている。なおこの寺院跡の塔心礎は巨大で、3.24×2.21m、厚さ1.80m。ほぼ中央に径0.81m深さ0.10mの柱座を彫り、その中央やや北寄りに径0.20m深さ0.12mの舎利孔を穿つ。石英・長石・泥岩で構成された砂岩で、四万十帯のものに似、周辺から調達されたとみられる。(『高知県埋蔵文化財センター発掘調査報告書 97 比江廃寺跡Ⅲ 平成67年度の確認調査報告書』 発行所 ()高知県文化財団埋蔵文化財センター 発行年 2007 )。このため塔の規模は11.4m四方と推定され、高知県内最大の五重塔ではなかったかと推定されいる。

 なおこの塔跡の北に発見された南北5間東西8間の金堂と思しき礎石建物の軸は西に1度偏しており、この角度は、周辺にある国府遺跡と思われるところの条理の向きや国府遺跡の中の8世紀前半と推定される建物の方位ともほぼ一致し、国分寺遺跡が全体として東に16度偏しているのと好対照である。

 以上のデータから、土佐国分尼寺と推定される比江廃寺は土佐国府の初期の物に伴って造られた国府寺を転用したものと想定され、土佐国分寺は、8世紀の末から9世紀の時期の国府に伴って、それ以前に存在した寺院を改造して造られたものと考えることができるわけである。 

 また古代南海道はこの国府の南辺を通って国分寺のすぐ北側を通っている。

 

●南海道諸国国分寺のまとめ

 以上が南海道諸国国分寺再検討である。要点をまとめておこう。

 

                                                           
 

国分寺名

 
 

伽藍配置

 
 

塔基壇の規模

 
 

国府からの距離

 
 

タイプ

 
 

16:紀伊

 
 

大官大寺式・東5

 
 

16.4m四方

 
 

東1㎞

 
 

 
 

17:阿波

 
 

東大寺式・西10

 
 

不明

 
 

南1㎞

 
 

③のb

 
 

18:讃岐

 
 

大官大寺式・西2度

 
 

塔身10m四方

 
 

西数百m

 
 

  

 
 

19:伊予

 
 

不明・真北

 
 

17.4m四方

 

塔身10m四方

 
 

500

 
 

 or③のa

 
 

20:土佐

 
 

不明・東16

 
 

不明

 
 

南西800

 
 

 or③のa

 

 

 南海道諸国国分寺の特徴は、すべて国府の近傍にあることである。そして紀伊・讃岐は国府近傍の国府寺の改造、伊予・土佐もその可能性を持っている。

 しかし阿波国分寺は、その伽藍配置が東大寺をモデルとしたものになっていることと、伽藍中軸線が8世紀には通常の、真北に対して西に10度傾いていることから、国府近傍に地方権力によって新たな国分寺が造られた可能性を唯一示している。

 また伽藍中心軸の向きであるが、紀伊国分寺の東5度、讃岐国分寺の西2度、伊予国分寺のほぼ真北は、いずれも山陰道・山陽道諸国国分寺でも見たように、国府近傍の国府寺の改造と見られた寺院に特徴的な数値である。つまりこの紀伊・讃岐・伊予国分寺の前身となる国府寺は、中央権力によって造営されたことを示している。

そして阿波国分寺の西に10度という数値は、聖武詔の時期における平均的な数値なので、この時期に地方権力によって磁石で方位を測定して作られた寺院とすれば、妥当な数値となる。

 しかし土佐国分寺の東16度という数値は理解しがたい。

 古代の窯跡などから得られたデータを基にした磁気偏角は、南海道諸国国分寺付近の西暦700年の磁気偏角は、すべて西に9.2度~9.4度偏している状態である。この西暦700年という時期は、寺院が急増した時期から聖武による「国分寺建立」詔までの時期のほぼ中間にあたる時期で、この時期の中では磁気偏角が東に傾いた時期であり、聖武詔の時期になれば磁気偏角は123度ほど西に偏している。

 したがって磁石で寺地を決める際の方位を測定すれば、西に10度程度傾くのがふつうである。そして真北を測定できる天文学的知識を使って中央権力が寺地決定の際の方位を測定すれば、ほぼ真北に近い数値となるのだ。

 だから土佐国分寺の東に16度偏しているという数値はありえない。

 そして同じ数値が土佐国府を構成する掘立建物からも出てくるので、この数値は土佐国分寺だけのものではなく、おそらく8世紀後半における土佐国一般の数値と考えられる。このことは土佐国分尼寺と考えられる比江廃寺の西2度という数値と、土佐国府の中の同じ数値または真北を示す掘立柱建物の存在を考慮に入れれば、土佐国において8世紀の土佐国府と国府寺は中央権力によって造営されたことを示すので、東16度という数値を示す8世紀後半以降の土佐国府と土佐国分寺は地方権力によって造営されたと考えざるをえないのだが、磁石で測定した北が真北から東に16度傾く時代ではないので、この点不可解である。

 

 次に26ヶ国国分寺再検討の最後に、西海道諸国国分寺の再検討を行うこととする。

2017年1月10日 (火)

「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた                         ―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―

※ 以下の論文は,山田さんが多元的「国分寺」研究サークルのサイトの
コメント欄に寄せていただいたものです。
質量ともに素晴らしいもので,本サイトに投稿して下さった論文と考え,
ここにアップさせていただきます。
川瀬さんの論文に加え,山田さんの論文が登場したことで,
ますます研究の土台が固まりつつあります。
ぜひお読みいただき,ご検討いただければ幸いです。(肥沼)
 
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「国分寺式」伽藍配置図は諸国に配られた
―作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置―
 
はじめに
森郁夫氏が論文「わが国古代寺院の伽藍配置」の末尾で「ただ鎮護国家を標榜して各国に造営された国分寺の伽藍配置は一定していない。今後の重要な課題である」と記しているように、「国分寺式」される国分寺遺跡は、その伽藍配置が一致していない。学術用語の伽藍様式はその伽藍配置を一意に描くことができる。しかし、「国分寺式(伽藍配置)」は一意に描くことができない。よって、現在使われている「国分寺式(伽藍配置)」という言葉は「学術用語」ではない。
 
本稿は、諸国国分寺遺跡の伽藍配置状況から共通しているところを抽出して「国分寺式(伽藍様式)」を定める従来の方法論は誤っていることを指摘し、『国分二寺図』の僧寺伽藍配置を指して「国分寺式(伽藍配置)」と言うべきことを明らかにした上で、作業仮説として、真の「国分寺式(伽藍配置)」である『国分二寺図』の僧寺伽藍配置を具体的に提示する。
 
なお、本稿は現実の国分寺遺跡がどのような状態であるか調べ上げずに、聖武詔勅(七重塔を建てよ)、「周忌御斎」を行ったのが東大寺と26ヶ国の国分寺という事実、「総国分寺」東大寺の竣工、「頒下国分二寺図」によって、推測と推論によって「国分寺式伽藍配置」を立論しようとする試みなので、実証的なことはほとんどないことをあらかじめお断りしておく。具体的な国分寺遺跡との関わりは、東大寺とそこから抽出した「国分二寺図」の僧寺伽藍配置という作業仮説に基づいた諸国国分寺の伽藍配置の検索作業、その検索結果として発見した播磨国分寺遺跡くらいである。だからと言って、「ああも言えれば、こうも言える」というものでもないと自負してはいるが、読者の判断は私の自負とは異なるかもしれない。
 
一意に描ける伽藍様式
学術的定義がされていれば「〇〇寺式(伽藍様式)」の伽藍配置は一意に描ける。
「回廊」は、中枢伽藍(基本的には塔・金堂)を囲って「内郭区画」を定める。回廊ではなく塀で内郭区画を囲うこともある。内郭区画内に入るための入口が「中門(inner gate)」と呼ばれ、回廊は必ず中門の左右から出る。「回廊が〇〇(金堂や講堂などの伽藍)に取り付く」と書かれない場合は、内郭区画を定める回廊に入口(中門)をつけただけで、回廊は中門から出て内郭区画を一周してそのまま中門に戻る。内郭区画の外側に伽藍地(中枢伽藍以外の伽藍も含む敷地)を囲う「外郭区画」があり、外郭区画の入口は南につけるので「南大門または南門(outer gate)」と呼ぶ。南大門に加えて他の方位にも外郭区画の入口を設けることもある。伽藍地の外側に「寺地(寺の土地)」をもっていることもある。
以上を前提として、伽藍配置を一意に描ける伽藍様式は次のように記述される。下記以外にもあるが、どのように伽藍様式が記述されるのか、その例として掲げている。
 
飛鳥寺式:回廊内に塔を中心に塔に向いた三金堂(東金堂、中金堂、西金堂)を置く。
山田寺式:縦型の回廊内に北に金堂、南に塔を置く。
法隆寺式:横型の回廊内に東に南面する金堂、西に塔を置く。
四天王寺式:縦型の回廊内に北に金堂、南に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
法起寺式:横型の回廊内に西に南面する金堂、東に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
観世音寺式:横型の回廊内に西に東面する金堂、東に塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
大官大寺式:回廊内に北から講堂、金堂、双塔を置き、中央廻廊が金堂の両妻に取り付く。
薬師寺式:回廊の中央に金堂、南両隅に双塔を置き、回廊は講堂の両妻に取り付く。
東大寺式:回廊は金堂に取り付き、講堂は回廊外に置き、双塔を中門と南大門の間に置く。
大安寺式:回廊は金堂に取り付き、講堂は回廊外に置き、双塔を南大門の外に置く。
“川原寺式”:観世音寺式の講堂の位置に中金堂を置き、その北の講堂を(僧坊院のような)広い回廊状のもので囲う。〔脚注1〕
 
「一意に描ける伽藍配置」の判断基準
一意に描ける伽藍配置は、次のような客観的基準に依拠して判別される。
(1)回廊内の置かれた伽藍は何か。回廊が中門以外に繋がっている場合は「回廊は〇〇の△△に取り付く」と表現される。伽藍は基本的には南から、南大門、中門、金堂、講堂、僧坊(尼坊)の順に並ぶので、回廊がどの伽藍に取り付いているかで、回廊内に置かれている伽藍が定まる。
(2)伽藍配置の型(縦・横)。内郭区画内に金堂・塔が存在する古式寺院はこの伽藍配置の型が回廊に反映される。
(3)塔や金堂の個数。
(4)伽藍正面の向き(東西南北)。
(5)塔の位置(東西と南北)。
金堂(中軸線)、中門(内郭区画)、南大門(外郭区画)との塔の位置関係が明示される。塔が金堂(中軸線)の東西のどちらにあるか。塔は金堂以南に置かれるので、南北に関しては、中門の北に塔があれば回廊(内郭区画)の内で、中門の南に塔があれば回廊(内郭区画)の外で、南大門の南に塔があれば外郭区画の外となる。塔の位置(南北)を具体的に場合分けすれば、例外で異常な⑤を除いて、次の①~④の四通りが原則である。
①中門の北で金堂と並ぶ(内郭区画内)。
②中門の北で金堂との間(内郭区画内)。
③中門の南で南大門との間(内郭区画外で外郭区間内)。
④南大門の南(外郭区画外)。
⑤塔が中門の北でありながら回廊外(内郭区画外で外郭区間内)。
塔が中門の北で回廊(内郭区画)内にある①と②は「古式」寺院である。
塔が中門の南で回廊(内郭区画)外にある③と④は「新式」寺院である。
塔が中門の北で回廊(内郭区画)外にある⑤は、「古式」を「新式」に改造したものである。
塔を中門の南で回廊(内郭区画)外に置こうとしても、古式寺院なので中門と南大門の間が狭く塔を置く余地がないことから、塔を中門の北に置かざるを得なかったのだ。
このように、伽藍配置が描ける学術的伽藍様式の判断基準は客観的なものである。
森郁夫氏が「国分寺の伽藍配置は一定していない」というのは、「国分寺式」と称する伽藍配置は、一つに定まっていないということだ。
 
横行する自称「国分寺式」
ほんの一例として信濃国分寺をWikipediaから引用する。信濃国分寺をやり玉にあげているのではない。単なる一例として示しているだけで、他意はない。
 
「信濃国分寺跡
国分寺(僧寺)跡は現国分寺の南方に位置する。寺域は東西176.56メートル、南北178.05メートル(約100間四方)。金堂、講堂、中門、塔、回廊、僧房の跡が確認され、南大門の位置も推定されている。伽藍配置は中門、金堂、講堂を南北一直線に配置し、中門左右から出た回廊が講堂左右に取り付く東大寺式である。塔は回廊外の南東にあった[6]。」
〔この注[6]は「現地説明板」と記されている。ゴチック(字体)は山田によるもの。〕
こちらは、信濃国分寺資料館ホームページ(museum.umic.ueda.nagano.jp)の「信濃国分寺史跡公園ガイド」で同じ信濃国分寺跡だ。
「伽藍配置は、中門・金堂・講堂が南北一直線にならび、中門と講堂を回廊でつなぎ、さらに、塔を金堂の南東に置く、東大寺(国分寺)式といわれる様式です。」
現地説明板の説明の方は、信濃国分寺が東大寺式かどうか以前に、「東大寺式」の認識に誤りがある。東大寺の回廊は金堂(大仏殿)に取り付いており、講堂ではない。回廊内には伽藍はなく、信濃国分寺の回廊内には金堂が存在する。それとも東大寺の金堂に取り付いている回廊を藤原京大官大寺の中央回廊に見立てているのか。藤原京大官大寺の金堂に取り付く回廊が「中央回廊」と言われるのは、中央回廊の北側の回廊内に講堂が南側の回廊内には塔が存在するからだ。東大寺の金堂の北側回廊内はとても狭くて(金堂裏に沿って巡っているもので)「庭」と呼べるほどの余地はない。また、東大寺の講堂は、その北側回廊の外にあり、先に述べたように中門から出た回廊は講堂には取り付いていない。信濃国分寺を「東大寺式」とすれば東大寺は東大寺式ではないことになる。
 
もう一方の資料館の説明文には「東大寺(国分寺)式」とある。異なる様式を「法隆寺(四天王寺)式」などとは書けないので、「東大寺式=国分寺式」という認識なのだ。現地説明板の「東大寺式」という説明の誤りは既に指摘したので、ここでは資料館の説明の方の「東大寺(国分寺)式」が「自称」である点を指摘する。「東大寺(国分寺)式といわれる様式」とあり、「東大寺式=国分寺式」が“通説・定説”であるとの認識で、「東大寺式=国分寺式」としているようだ。
 
森郁夫氏が「国分寺の伽藍配置は一定していない」と言うように、資料館の認識している「東大寺(国分寺)式」とは異なる、中門から出た回廊が金堂に取り付き、塔は東西どこでも良いとする“典型的”「国分寺式伽藍配置」(斎藤忠『日本古代遺跡の研究 総説』)〔塔は中門より北の回廊外に配する、回廊は正方形に近い〕といわれる「国分寺式」がある。
どちらが「東大寺(国分寺)式」なのか。「『国分寺式』という伽藍配置は諸説ある」という話なら、それぞれが称する「国分寺式」は「(私の説、または、私が支持する説では)国分寺式」ということであり、これは「自称」にほかならない。
従来説については、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-7)と題して、九州王朝と国府寺の関係、国府と国府付属寺院の位置関係、伽藍形式と国府の位置関係なども含めて、川瀬さんが詳しく説明している。是非ご覧いただきたい。
 
このように、信濃国分寺を一例としてあげたが、いわゆる「国分寺式」が“厳密な定義のない伽藍様式”なので、多くの国分寺遺跡の説明が「国分寺式」や「東大寺(国分寺)式」を都合よく自称しているのがいわゆる「国分寺式(伽藍配置)」と称される“伽藍様式”なのだ。
互いに全く異なる「伽藍様式」を「国分寺式」と主張していながら論争もせず結論もださずに、「(自称)国分寺式」を数多横行させている、これが現在の学界の状況である。
伽藍様式としての「国分寺式(伽藍配置)」に定説がないのは、国分寺遺跡の伽藍配置が一定していないことを反映している。
 
諸国国分寺の伽藍配置が定まっていない原因は、
①通説で「国分寺建立の詔」とされている聖武天皇の詔は、実は「七重塔を建てよ」であり、「寺院を建てよ」ではなかった。
②その詔の18年後に、寺院を新造する場合の基本計画図(『国分二寺図』)が配られた。
③詔(①)と『国分二寺図』(②)に対して、諸国の取り組み状況が異なった。
以上の三点に求められる。
この三点を考察する前に、七重塔建立詔から国分二寺図頒下の前後にわたる年表を確認しておこう。
 
国分寺関連年表
710年(和銅三年)  平城京遷都(奈良時代の始点)。
724年(神亀元年)  聖武天皇が即位。
741年(天平十三年)3/24 聖武天皇の詔〔「七重塔」を建てよ、「寺」を建てよではない〕。
745年(天平十七年) 東大寺大仏制作開始。
746年(天平十八年) 恭仁京政庁建物を山城国分寺の堂塔に転用。
749年(天平勝宝元年)孝謙天皇即位。
752年(天平勝宝四年)  東大寺大仏開眼供養。
756年(天平勝宝八年)5/2 聖武太上天皇崩御。
同年   12月20日 太上天皇の一周忌斎会用幡・綱が26ヶ国の国分寺に配られた。
757年(天平宝字元年)5/2 太上天皇(聖武天皇)一周忌斎会東大寺以下26ヶ国で開催。
758年(天平宝字二年)  東大寺竣工。
759年(天平宝字三年)11/9 国分二寺図、諸国に配られる。〔はじめて寺の図面が配られた〕
760年(天平宝字四年)光明皇太后崩御
770年(宝亀元年)  孝謙天皇崩御。道鏡、下野薬師寺に左遷。
上記年表から次の事実が確認できる。
(a)741年の七重塔建立の詔から、759年に「国分二寺図」が頒下されるまで18年間ある。
(b)757年の太上天皇(聖武)「周忌御斎」を行ったのは東大寺と26ヶ国の国分寺。
(c)759年(「総国分寺」東大寺が竣工した翌年)に「国分二寺図」が配られた。
 
「国分寺建立の詔」ではなかった
『続日本紀』(朝日新聞本)の聖武詔勅の原文を次に掲げる。
《天平十三年(七四一)三月乙巳【廿四】》○乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主、皆能先業。国泰人楽。災除福至。修何政化。能臻此道。頃者、年穀不豊。疫癘頻至。慙懼交集。唯労罪己。是以、広為蒼生、遍求景福。故前年、馳駅増飾天下神宮。去歳、普令天下造釈迦牟尼仏尊像、高一丈六尺者、各一鋪。并写大般若経各一部。自今春已来。至于秋稼。風雨順序。五穀豊穰。此乃、徴誠啓願。霊〓[貝+兄]如答。載惶載懼、無以自寧。案経云。若有国土講宣読誦。恭敬供養。流通此経王者。我等四王。常来擁護。一切災障。皆使消殄。憂愁疾疫。亦令除差。所願遂心。恒生歓喜者。宜令天下諸国各令敬造七重塔一区。并写金光明最勝王経。妙法蓮華経各一部。朕、又別擬、写金字金光明最勝王経。毎塔各令置一部。所冀。聖法之盛。与天地而永流。擁護之恩。被幽明而恒満。其造塔之寺。兼為国華。必択好処。実可長久。近人則不欲薫臭所及。遠人則不欲労衆帰集。国司等、各宜務存厳飾。兼尽潔清。近感諸天。庶幾臨護。布告遐邇。令知朕意。又毎国僧寺。施封五十戸。水田一十町。尼寺水田十町。僧寺必令有廿僧。其寺名、為金光明四天王護国之寺。尼寺一十尼。其寺名為法華滅罪之寺。両寺相共、宜受教戒。若有闕者。即須補満。其僧尼。毎月八日。必応転読最勝王経。毎至月半。誦戒羯磨。毎月六斎日。公私不得漁猟殺生。国司等宜恒加検校。
 
このとおり、国分寺(寺院)を建てよという文言はどこにも無く、七重塔を建てて(「敬造七重塔一区」)、金光明最勝王経と妙法蓮華経各一部(「金光明最勝王経。妙法蓮華経各一部」)を配ってその塔に置かせる(「塔各令置一部」)ための詔である。「国分寺」の名称は、「諸国に金光明最勝王経と妙法蓮華経を分け与えた寺」に由来している。
この詔については、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-6)と題して、七重塔を建てる寺院として既に国府ごとに「国府付属寺院」(国府寺)が建てられており、七重塔を建てる場所として指定された僧寺とはこの「国府付属寺院」であった可能性が高いことなど、川瀬さんが詳しく説明している。是非ご覧いただきたい。
 
詔への諸国の異なる対応
諸国の聖武天皇詔に対する対応は異なり、次のように分かれる。
A群:ただちに七重塔の建立に着手した国。
B群:何らかの事情で七重塔の建立の着手が遅れた国。
C群:何らかの事情で七重塔の建立に着手していなかった国。
 
757年(天平宝字元年)の「太上天皇周忌御斎」(聖武天皇の一周忌斎会)を行えるまでに整った国分寺は26ヶ国となっており、諸国の数を66ヶ国と仮定すると残りの40ヶ国(6割以上)は塔が完成していなかった事実がある。この26ヶ国がただちに七重塔の建立に着手した国(A群)である。残りの40か国がB群とC群で、着手していない国もあったと考えられ、これがC群である。今はB群とC群を分けることはできない。
「周忌御斎」に使う飾り物を配られた26ヶ国に関する『続日本紀』(朝日新聞本)の原文を次に掲げる。
《天平勝宝八歳(七五六)十二月己亥【二十】》○己亥。越後。丹波。丹後。但馬。因幡。伯耆。出雲。石見。美作。備前。備中。備後。安芸。周防。長門。紀伊。阿波。讃岐。伊予。土左。筑後。肥前。肥後。豊前。豊後。日向等廿六国。国別頒下灌頂幡一具。道場幡〓九首。緋綱二条。以充周忌御斎荘飾。用了、収置金光明寺。永為寺物。随事出用之。
さらに、この26ヶ国は、山陰道・山陽道・南海道・西海道の諸国で、例外は北陸道の越後国分寺だけという地域的偏りがあることも注目される。地域的に偏った26ヶ国の国分寺については、川瀬論文、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-9①~②)を参照してもらいたい。この26ヶ国の国分寺遺跡が改造・転用されたものかどうか、川瀬さんが詳しく検討されているので、是非ご覧いただきたい。
 
国分寺式伽藍配置図は諸国に配られた
『続日本紀』(朝日新聞本)の原文を次に掲げる。
《天平宝字三年(七五九)十一月辛未【九】》
○辛未。勅坂東八国。陸奥国若有急速、索援軍者。国別差発二千已下兵。択国司精幹者一人。押領速相救援。」頒下国分二寺図於天下諸国。
このように「頒下国分二寺図於天下諸国」とあり、天平宝字三年(759年)11月9日に七重塔の描かれた国分寺(僧寺・尼寺)の「国分二寺図」が諸国に配られている。「二寺図」とあるので、少なくとも七重塔を含む僧寺・尼寺の伽藍配置図が描かれた基本図(マスタープラン)であるとせねばならない。詔から18年経てから伽藍配置が描かれた国分寺の図面が初めて配られたのである。〔脚注3〕〔脚注4〕
 
「国分二寺図」への諸国の対応
配られた「国分二寺図」を諸国側から見てみよう。先に国分寺をA、B、Cの三群にわけたが、「太上天皇(聖武)周忌御斎」に間に合った26ヶ国の国分寺がA群である。A群の26ヶ国は、「国分二寺図」にする対応で区分するとさらに次の3群に分けられる。
A1.「周忌御斎」を行った寺院と別に、「国分二寺図」通りの「国分寺」を新たに建立する。
A2. 「周忌御斎」を行った寺院を「国分二寺図」に合わせて改造を試みる(改造後の完成度は別問題)。
A3.七重塔を建てた寺院で「周忌斎会」も済ませているので何もしない。
A1.について考える。律令国家の諸国は、現代で例えれば「地方自治体」で地方自治体は地方自治体としての予算がある。予算を考慮すればA1.という対応は考えにくいし、また、「周忌御斎」を済ませた「国分寺」であるから、新造したら国分寺を付け替える手続き(申請と承認)をせねばならない。予算を無駄遣いしてまでそうしなければならない理由は全くないのだから、A1.という対応はなかったと考える。そうまでなければならなかったと考えると、諸国国分寺は皆そうしなければならなかったはずで、そうならば「国分寺の伽藍配置は一定していない」(森郁夫氏)という状況にはならなかったはずである。諸国国分寺がそうしなかったことによって起きている遺跡状況があるのに、A1.という対応をした国があったかもしれないと反論するなら、26ヶ国うちのある国が「周忌御斎」を行った国分寺とは別に新たに国分寺を新造して「国分寺」を付け替える手続きをしたことを立証していただけば良い。挙証責任は反論する側にある。
A2.について考える。国分寺を付け替える手続きは不要であるが、すでに「周忌御斎」を済ませた「国分寺」であるから、A1.と同様に予算を考慮すれば、そこまでしなければならない理由はない。A2.を行った国は皆無だと断言できないだけで、A2.という対応もなかったと考える。とすれば、26ヶ国の諸国は皆A3.という対応をしたに違いない。A2.という対応があったかもしれないという反論は、A1.同様で、挙証責任は反論側にある。
以上から、26ヶ国の国分寺は既存寺院(おそらく「国府付属寺院」)を改造して七重塔を建てたことが容易に見て取れるものと予想される。26ヶ国の国分寺の遺跡状況についてこの予想が当を得ているかいないかは26ヶ国の国分寺を検討した前掲川瀬論文★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-9①~②)を参照して確認されたい。古式伽藍をどのように改造できるかについては、★「武蔵国府寺」創建伽藍の復元(改訂版2-8)で川瀬さんが詳しく考察しているので、是非ご覧いただきたい。
次に、26ヶ国以外の(6割以上の40か国、B群とC群からなる)国分寺を考察してみよう。図面が届いた時の対応状況で場合分ける試みであるが、その前にB群とC群では対応が異なることを確認しておこう。B群は、「周忌御斎」に間に合わなかったが七重塔の建立に着手している。C群は七重塔の建立に未着手である。
B群は「国分二寺図」が頒下された時点で七重塔の建立に着手済である。塔基壇などが完成して心礎も既に据えてあったかもしれないし、もっと進捗していて七重塔の何層までかでき上っていたかもしれない。これはご愁傷さまではあるが、「二寺図」への対応はごく限られる。建立過程中の七重塔を放棄して図面通りの国分寺を新造するという選択肢は予算の無駄遣いとなるのでまずない。そう考えると、次の二通りである。
B1.七重塔を完成させて、伽藍を「国分二寺図」に似せて改造(偽装)する。
B2.七重塔を完成させて、それ以上の改造は行わない(「周忌御斎」を行わなかったことを除外すれば、A3.と遺跡状況は同じになる)。
C群は、次の三通りの対応に分けられる。
C1.「国分二寺図」の伽藍配置の通りの国分寺を新造する(「国分二寺図」通りにできる)。
C2.既存寺院を改造して「国分二寺図」の寺院に偽装する(「国分二寺図」通りにはならない)。
C3.何らかの事情で国分寺(「国分二寺図」も無視)は造営しない(「国分寺」が存在しない)。
26ヶ国以外の国分寺に「国分二寺図」通りの国分寺が存在する可能性がある
C1.に注目してもらいたい。26ヶ国以外の40ヶ国(66ヶ国と仮定しているが数は問題ではない)の国分寺のなかに「国分二寺図」通りの国分寺が存在する可能性がある、このことである。
諸国の国分寺を総括すると、国分寺は次のα群、β群、γ群の三通りがあることになる。
α群:既存寺院に七重塔を建てたことが明白な国分寺。
A3.七重塔を建てた寺院で「周忌斎会」も済ませているので何もしなかった国分寺。
B2.七重塔を完成させて、それ以上の改造は行わなかった国分寺。
α群は、「改造国分寺式」を堂々と名乗れる国分寺である。
β群:既存寺院に七重塔を建てた上に、さらに「国分二寺図」に似せて改造した国分寺(似てはいるが一定はしない国分寺が多数出現する)。
A2. 「周忌御斎」を行った寺院を「国分二寺図」に似せて改造した国分寺。
B1.七重塔を完成させて、伽藍を「国分二寺図」に似せて改造した国分寺。
C2.既存寺院を改造して「国分二寺図」の寺院に似せて改造した国分寺。
β群は、「偽装国分寺式」と呼ばれたくない国分寺である。
γ群:「国分二寺図」通りに造営された国分寺。完全な新造国分寺。
C1.「国分二寺図」の伽藍配置の通りの国分寺を新造する(「国分二寺図」通りにできる)。
A1.「周忌御斎」を行った寺院とは別な「国分二寺図」通りの「国分寺」を新たに建立する(この可能性は頭の中だけに存在し、現実にはありえない)。
γ群は、唯一「国分寺式」を名乗れる、いや、名乗るべき国分寺である。
δ群:国分寺が存在しない(可能性は薄いので、今はとりあえず0ヶ国としておく)。
C3.何らかの事情で国分寺(「国分二寺図」も無視)は造営しない(「国分寺」が存在しない)。
よって、国分寺の数は、諸国の数を66と仮定すると、
α群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数+γ群(「新造国分寺」)の数=66
となる。
 
従来の方法論の誤り
天平十三年(741)聖武天皇の詔(「七重塔一区を建てよ」)から、二寺(金光明最勝王経護国之寺、法華滅罪之寺)の「国分二寺図」(国分二寺のマスタープラン)が配られた天平宝字三年(759年)11月9日「頒下国分二寺図於天下諸国」(『続日本紀』)まで18年間あり、諸国では天平宝字元年(756年)12月20日までに七重塔を建て伽藍を整備した国(26ヶ国)もあれば、「七重塔」が完成できていなかった国(40ヶ国)もあった。
七重塔を完成し伽藍を整備できた国(26ヶ国)でも、まだ「国分二寺図」(国分二寺のマスタープラン)は配られていないから、既存寺院を転用・改造した国の伽藍配置がそろうはずはなく、新たに伽藍を新造したと仮定しても「国分二寺図」は配られていないので、伽藍配置がそろうはずがない。
「国分二寺図」が頒下された時点で、そのマスタープランに従って寺院を新造できた国は、その時点でまだ「七重塔の造営に未着手であった国」しかない。「七重塔の造営に未着手であった国」が40ヶ国の多数であるならその40ヶ国の多数の国の国分寺はマスタープラン通りに出来上がり、「国分寺式伽藍配置」の学界の混迷ぶりも生じないので、「国分二寺図」通りに新造された国分寺はごく少数だった(が存在する可能性は否定できない)とするしかない。
 
α群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数+γ群(「新造国分寺」)の数=66
から、γ群がごく少数ならα群(「改造国分寺」)の数+β群(「偽装国分寺」)の数が大多数となる。この大多数(「改造国分寺」と「偽装国分寺」の合計)の伽藍配置から様式(「共通して認められる一定の在り方」)を抽出しようという方法論は全く誤っているといえる。
 
「国分二寺図」の伽藍配置だけが「国分寺式(伽藍配置)」
この状況の中で何をもって伽藍様式「国分寺式(伽藍配置)」とするか。「国分二寺図」の僧寺伽藍配置こそ(だけ)が「国分寺式(伽藍配置)」である。これが本稿の主張の眼目である。
 
私の作業仮説の前提は、次の通り。
(1)基本計画図(マスタープラン)は配られた(「頒下国分二寺図」『続日本紀』)。
「そんなものは配られなかった」と主張する方は、それを証明されたい。
(2)マスタープランに「七重塔」は描かれてあった(塔だけではないが)。
「七重塔を建てよ」との詔だったから「七重塔」がない基本計画図などあり得ない。
(3)マスタープランが配られる前に七重塔を完成し「周忌御斎」を執り行った国分寺がマスタープランと一致していることなどあり得ない。
(4)配られたのは「周忌御斎」のあと、東大寺竣工の翌年であり、「総国分寺」東大寺の伽藍配置(図面)が参照された可能性が高い。
(5)「国分二寺図」の伽藍配置は「総国分寺」の東大寺と似ているものである。
似ていないものと考えるのは、観世音寺式伽藍配置をとる諸国観世音寺の総本山「筑紫観世音寺」が観世音寺式ではないと考えるのと同じ非合理的な考えである。
(6)「国分二寺図」が配られたとき「七重塔」の建立に未着手の国があったと考えるのは無理なことではなく、「国分二寺図」によって新造した国分寺が存在する可能性がある(新造国分寺が多いか少ないかは問題ではない)。
(7)その未着手のゆえに「国分二寺図」にしたがって国分寺を新造した諸国が存在するなら、東大寺の伽藍配置に似た国分寺が探せば見つかるかもしれない。
(8)七重塔の大きさが諸国で異なっていることを考えれば、「国分二寺図」は実寸を示したものではなく、相対寸法(厳密な比率)が書いてあったと考えられる。
(9)(8)より東大寺に似た新造国分寺は、相対寸法においてかなり厳密な比率が現れるはずで、単に似ているというような程度のものではないと考えられる。
「国分寺式(伽藍配置)」は「東大寺式」がモデル
私は、「国分二寺図」を頒下したのが東大寺竣工の翌年であることに注目した(川瀬さんのご教示による)。
 
「東大寺式」とは東大寺の形式であり、次の特徴がある。
①中門から出た廻廊(内郭区画)は金堂の両妻の南側に寄る部分に取り付いていて、回廊内には伽藍はない。
②回廊(内郭区画)は、縦横比(東西長:南北長)が2:3の横長である。
③中門金堂、金堂講堂の心々距離は相等しい。
④塔(双塔)は南大門(outer gate)と中門(inner gate)の間に配置される。
これが「東大寺式」伽藍配置であり、金堂の北に配される講堂は横型の回廊(内郭区画)と繋がっていない。
 
                  Photo
 
                (東大寺伽藍配置)
    http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m104401-89318/up.jpg
 
以上をもって諸国国分寺(26ヶ国の「周忌御斎」を行った国分寺を除いて)を探したところ「播磨国分寺」が見つかった。
この播磨国分寺こそ「国分寺式」(七重塔の描かれた「頒下国分二寺図」の僧寺伽藍配置)の国分寺に違いないと考え、この播磨国分寺の伽藍配置から抽出したのが、先に掲げた作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置なのだ。
 
                  Photo_2
                       (播磨国分寺伽藍配置)
     http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m103276-82381/up.jpg
 
おわりに
いわゆる「国分寺式(伽藍配置)」というのは定説がなく、伽藍配置が異なる国分寺遺跡を好き勝手に「国分寺式」と称しているので「国分寺式」といわれてもその伽藍配置を一意には描けない事実を指摘し、「国分寺式」といえるのは「頒下国分二寺」と『続日本紀』がかいている「国分二寺図」の伽藍配置であり、その僧寺伽藍配置を作業仮説として提示した。
本稿の論理は極めて単純である。太上天皇周忌御斎を執り行った寺院は東大寺と26ヶ国の国分寺だけで、この26ヶ国は「七重塔を建てよ」と命じられ七重塔を建てただけであり、この26ヶ国の国分寺(既存寺院を改造して七重塔を建てた「改造国分寺」)が統一された伽藍配置であるわけがないこと、その「周忌御斎」の時点で他の40ヶ国の国分寺は「七重塔」が未完成または未着手の状態であったこと、七重塔を建立中のところに「国分二寺図」を配られた「周忌御斎」に間に合わなかった40ヶ国は建立途上の七重塔を完成させてさらに寺院を「二寺図」の伽藍配置に似せて改造するのが精いっぱい(「偽装国分寺」)であったこと、「改造国分寺」や「偽装国分寺」が統一された伽藍配置になるわけがないこと、以上のことから「改造国分寺」や「偽装国分寺」のなかから「共通して認められる一定の在り方」(様式)を抽出する方法論は誤っており、「国分寺式(伽藍配置)」といえるのは、「国分二寺図」に描かれた僧寺伽藍配置だけであることを主張しているのである。さらに、「二寺図」の伽藍配置を実現できるのは「二寺図」を配られた時点で「七重塔」の建立に18年間も未着手であった国しかない。しかし、「二寺図」を配られた時点で「七重塔」の建立に18年間も未着手であった国は(少ないだろうとは予想できるが)皆無とは断言できない(存在する可能性がある)ことから、国分寺遺跡を探すと「二寺図」通りに新造された国分寺を発見できる可能性があるとし、東大寺と26ヶ国の国分寺が太上天皇周忌御斎を執り行った後で「国分二寺図」が配られたこと、東大寺は26ヶ国の国分寺とともに太上天皇周忌御斎を執り行った「総国分寺」(諸国国分寺の総本山)であることから、配られた「国分二寺図」の僧寺伽藍配置は東大寺に準じた伽藍様式であろうと推測し、その東大寺式伽藍配置の特徴を抽出して」26ヶ国以外の国分寺遺跡を探したところ、ぴったりである播磨国分寺が見つかった。播磨国分寺の方位は何度か西偏している(地方権力の造営と推測できる)が、その伽藍配置は方位を磁北で決めていることにそぐわない精密な伽藍配置であった。これは「中央政権の図面に基づいて地方権力が造営した」と解釈するとうまく説明できることから、播磨国分寺の伽藍配置こそが「国分二寺図」に描かれていた僧寺伽藍配置(「国分寺式」)だとした。そして、その播磨国分寺の特徴を析出したものが《作業仮説:「国分二寺図」の僧寺伽藍配置》である。なお、この「国分二寺図」の僧寺伽藍配置を「東大寺式」と名づけ、別に「国分寺式」を求めようとするのは間違い(もしかすると故意による「フレームアップ」)であることを付言する。
 
この作業仮説のメリットは、次の推定が成立する可能性があることである。
①西塔の国分寺は、図面配布以前(18年の間に)に七重塔(改造含む)を建立した。
②東塔の国分寺であっても、塔が中門と南大門の間(内郭区画外で外郭区画内)に無ければ新造ではない(改造または偽装)。
③中門をでた回廊が金堂に取り付いていない国分寺は新造国分寺ではない(改造または偽装)。
④回廊が縦横比2:3の横型でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑤中門・金堂、金堂・講堂の距離が等しくない寺院は新造ではない(改造または偽装)。
⑥回廊南北幅と中門(内郭区画南辺)・南大門(外郭区画南辺)の距離が等しくない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑦金堂心から塔心々線までの距離が⑥回廊南北幅の1.5倍でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
⑧塔・中軸線間の距離が⑦金堂心から塔心々線までの距離の1.25倍でない国分寺は新造ではない(改造または偽装)。
 
この推定ができたとしても、各国分寺の発掘調査報告書などによって、その改造・偽装の痕跡を探し出さねばならないことは言うまでもないことである。本稿の主張は、作業仮説を当てはめて簡便に国分寺を判定するということではなく、一意に伽藍配置が描けない従来の「(改造・偽装)国分寺式」を非とし、真の「国分寺式(伽藍配置)」は「国分二寺図」の僧寺伽藍配置でなければならない、というところである。それを主張しただけにせず、「国分二寺図」の僧寺伽藍配置は「総国分寺」東大寺をモデルにしたものではないかと推測して、それを探したところ播磨国分寺が見つかったので、この播磨国分寺は「国分二寺図」によって新造された国分寺と考え、この伽藍配置の特徴を一意に描けるような客観的判断基準を作業仮説として提示したのである。作業仮説を再掲しておく。
 
《作業仮説、国分寺式伽藍配置》
(1)回廊(内郭区画)は、縦横比が2:3の横長のもの。
(2)中門からでた回廊は金堂両妻南寄りにとりつく(回廊内に伽藍なし)。
(3)中門・金堂間と金堂・講堂間は等距離〔これは伽藍間距離の関係〕。
(4)回廊(内郭区画)の南北幅(南辺・北辺間)と中門・南大門(内郭・外郭間)は等距離〔これは区画間距離の関係〕。
(5)塔は単塔で東塔(中軸線の東)〔塔は東が伝統。法隆寺は例外的と思えます〕。
(6)(単塔なのであるが、双塔と仮定したときの)塔心々線と金堂心の距離は、(4)の回廊南北幅(南辺・北辺間距離)の1.5倍。比で表すと3:2〔これは、「塔は中門と南大門との中間に置く」を「中心伽藍の金堂を基点として定義したもの」と思われます〕。
(7)金堂中軸線と東塔の距離は、(6)の塔心々線・金堂心間距離の1.25倍。比で表すと5:4〔薬師寺も近い数値なので、塔と金堂(中軸線)の配置はこの程度がバランスが良いとの考えかもしれません〕。
 
「論理の赴くところに行こうではないか、それがどこに行き着くとも。」
 
〔脚注1〕
この“川原寺式”も学術的には少し怪しい“伽藍様式”です。川原寺に似ている寺院に西金堂を南面させた「南滋賀町廃寺」があります(金堂の向きが違うので「観世音寺式」とある部分を「法起寺式」に置き換えると「南滋賀町廃寺」になります)。この二寺以外にこれに似た伽藍配置の寺院はありません。つまり、厳密にはいえば “川原寺式”といわれる伽藍配置は川原寺だけなのです。川原寺特有の伽藍配置を「川原寺式(伽藍様式)」と呼称するのは無理があります。単に「川原寺の伽藍配置」と言えば済むことです。従来説がこぞって「川原寺式」と言っているので、「これは伽藍様式ではありません」と注意を喚起する意味で敢えて記載しました。
 
〔脚注2〕
回廊が取り付いている金堂・講堂を「回廊内」とする見解が一部にみられますが、金堂に回廊が取り付いているが金堂心が回廊外にある寺院(東大寺など)もあり、「回廊内」という表現には違和感があります。私は、回廊が取り付いている伽藍は、回廊の内でも外でもなく、「回廊を構成する要素」であるとしました。回廊が取り付いている伽藍を回廊の内か外かと判別するのは道理がありません。回廊が取り付いた金堂や講堂は、勿論、機能は金堂であり講堂です。金堂や講堂を回廊の単なる一部だと言っているのではなく、伽藍本来の機能の他に「回廊を構成する要素」を併せ持っていると私は理解しています。
 
〔脚注3〕「国分寺(僧寺・尼寺)の伽藍配置図が諸国に配られた」ことの証拠を挙げる責任(挙証責任)は私にはありません。『続日本紀』に「頒下国分二寺図於天下諸国」と書いてあります〔実証しました〕から図面が配られたとしているのです。「そんな図面など無かった」とか「配られなかった」と主張される方がいれば、その方がそのことを立証する責任があります。これは『続日本紀』を鵜呑みにするとかしないとかの話ではありません。『続日本紀』がここで嘘を書くと得になることは無いということと、そう書いてあるから、そうだったとして考えているだけのことです。仮に嘘を書くと得になることを誰かがいくつか思いついたとしても、だから『続日本紀』がここで嘘を書いたのだと証明しなければならない責任(挙証責任)は「嘘がかかれている、配られなかった」と反論する誰か側にあるのです。
 
〔脚注4〕天平十三年(741)3月24日の聖武天皇の詔に「七重塔一区」とあり〔実証しました〕、この詔は「(紫紙金字の)金光明最勝王経」を諸国に分かち与えて〔「国分」の由来〕納める目的であったから「七重塔」としています。「七重塔は描かれていなかった」と反論する方が「国分二寺図」に七重塔が描かれてなかったことを立証してください。

2017年1月 1日 (日)

謹賀新年 2017

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
多元的「国分寺」研究サークルを始めて1年(1月24日)が経とうとしています。
この間川瀬さんと山田さんを中心に(肥沼は周回遅れですが),
着々と「研究的財産」を積み上げつつあると思います。
皆さんのご健勝と多元的「国分寺」研究サークルの発展をお祈りするとともに,
2017年は自分もこの研究に頑張っていきたいです。

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