古田史学

2022年1月31日 (月)

神代下紀の中の「拝」について(工事中)

【神代下紀】1

於是、豐玉彥遣人問曰「客是誰者、何以至此。」火火出見尊對曰「吾是天神之孫也。」乃遂言來意、時海神迎延入、慇懃奉慰、因以女豐玉姬妻之。故留住海宮、已經三載。是後火火出見尊、數有歎息、豐玉姬問曰「天孫、豈欲還故鄕歟。」對曰「然。」豐玉姬卽白父神曰「在此貴客、意望欲還上國。」海神、於是、總集海魚、覓問其鉤、有一魚、對曰「赤女久有口疾。或云、赤鯛。疑是之呑乎。」故卽召赤女、見其口者、鉤猶在口。便得之、乃以授彥火火出見尊。因教之曰「以鉤與汝兄時、則可詛言『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』而後與之。又汝兄渉海時、吾必起迅風洪濤、令其沒溺辛苦矣。」於是、乘火火出見尊於大鰐、以送致本鄕。

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神武紀の中の「拝」について(工事中)

【神武紀】1

秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比鄧誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。

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景行紀の中の「拝」について(工事中)

【景行紀】5

於是、日本武尊乃受斧鉞、以再奏之曰「嘗西征之年、頼皇靈之威、提三尺劒、擊熊襲國、未經浹辰、賊首伏罪。今亦頼神祗之靈借天皇之威、往臨其境示以德教、猶有不服卽舉兵擊。」仍重再之。天皇、則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。

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冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。

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爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路𢌞於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

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五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。

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神功紀の中の「拝」について(工事中)

【神功紀】2

既而、神有誨曰「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。卽得神教而禮之、因以依網吾彥男垂見、爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎、皇后則取石插腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土。」其石今在于伊都縣道邊。既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、令角鹿笥飯大神。癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。皇太后舉觴以壽于太子、因以歌曰、

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応神紀の中の「拝」について(工事中)

【応神紀】1

譽田天皇、足仲彥天皇第四子也、母曰氣長足姬尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。皇太后攝政之三年、立爲皇太子。時年三。初天皇、在孕而天神地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆肖、此云阿叡、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。一云「初天皇爲太子、行于越國、祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。攝政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歲。

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仁徳紀の中の「拝」について(工事中)

【仁徳紀】1

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豐之。

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允恭紀の中の「拝」について(工事中)

【允恭紀】2

群臣再言「夫帝位不可以久曠、天命不可以謙距。今大王留時逆衆不正號位、臣等恐百姓望絶也。願大王雖勞猶卽天皇位。」雄朝津間稚子宿禰皇子曰「奉宗廟社稷重事也。寡人篤疾、不足以稱。」猶辭而不聽。於是、群臣皆固請曰「臣伏計之、大王奉皇祖宗廟最宜稱。雖天下萬民、皆以爲宜。願大王聽之。」

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皇子顧之驚、則扶起謂之曰「嗣位重事、不得輙就、是以、於今不從。然今群臣之請、事理灼然、何遂謝耶。」爰大中姬命仰歡、則謂群卿曰「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。」於是、群臣大喜、卽日捧天皇之璽符、再上焉。皇子曰「群卿共爲天下請寡人、寡人何敢遂辭。」乃卽帝位。是年也、太歲壬子。

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雄略紀の中の「拝」について(工事中)

【雄略紀】3

大臣、裝束已畢、進軍門跪曰「臣雖被戮、莫敢聽命。古人有云匹夫之志難可奪、方屬乎臣。伏願大王、奉獻臣女韓媛與葛城宅七區、請以贖罪。」天皇不許、縱火燔宅。於是、大臣與黑彥皇子眉輪王倶被燔死、時坂合部連贄宿禰、抱皇子屍而見燔死。其舍人等闕名、收取所燒、遂難擇骨、盛之一棺、合葬新漢𣝅本南丘。𣝅字未詳、蓋是槻乎。

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是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

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三月、天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰「無往也。」天皇由是、不果行、乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連談、此云箇陀利・小鹿火宿禰等曰「新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允濟。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百濟之城。況復朝聘既闕、貢職莫脩。狼子野心、飽飛、飢附。以汝四卿、爲大將、宜以王師薄伐、天罰龔行。」

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清寧紀の中の「拝」について(工事中)

【清寧紀】3

小楯、大驚離席、悵然再。承事供給、率屬欽伏、於是、悉發郡民造宮、不日權奉安置、乃詣京都求迎二王。白髮天皇、聞憙咨歎曰「朕無子也、可以爲嗣。」與大臣・大連定策禁中、仍使播磨國司來目部小楯、持節將左右舍人、至赤石奉迎。

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冬十一月、飯豐靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、再從諸臣之位曰「此天子之位、有功者可以處之。著貴蒙迎、皆弟之謀也。」以天下、讓天皇。天皇、顧讓以弟、莫敢卽位。又、奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子、前後固辭曰「日月出矣而爝火不息、其於光也不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌、不亦勞乎。所貴爲人弟者、奉兄・謀逃脱難・照德解紛而無處也。卽有處者非弟恭之義、弘計不忍處也。兄友・弟恭不易之典、聞諸古老、安自獨輕。」

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三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

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継体紀の中の「拝」について(工事中)

【継体紀】3

二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪、上天子鏡劒璽符、再。男大迹天皇謝曰「子民治國、重事也。寡人不才不足以稱。願請、𢌞慮擇賢者。寡人不敢當。」大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向讓者三、南向讓者再。大伴大連等皆曰「臣伏計之、大王、子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。」男大迹天皇曰「大臣・大連・將相・諸臣、咸推寡人、寡人敢不乖。」乃受璽符、是日、卽天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等各依職位焉。

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癸酉、納八妃。納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日初後宮、爲文。他皆效此。元妃、尾張連草香女曰目子媛更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊。次妃、三尾角折君妹曰稚子媛、生大郎皇子與出雲皇女。次、坂田大跨王女曰廣媛、生三女、長曰神前皇女、仲曰茨田皇女、少曰馬來田皇女。次、息長眞手王女曰麻績娘子、生荳角皇女荳角、此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠。次、茨田連小望女或曰妹曰關媛、生三女、長曰茨田大娘皇女、仲曰白坂活日姬皇女、少曰小野稚郎皇女更名長石姬。次、三尾君堅楲女曰倭媛、生二男二女、其一曰大娘子皇女、其二曰椀子皇子、是三國公之先也、其三曰耳皇子、其四曰赤姬皇女。次、和珥臣河內女曰荑媛、生一男二女、其一曰稚綾姬皇女、其二曰圓娘皇女、其三曰厚皇子。次、根王女曰廣媛、生二男、長曰兔皇子、是酒人公之先也、少曰中皇子、是坂田公之先也。是年也、太歲丁亥。

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秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」

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