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2022年1月31日 (月)

清寧紀の中の「拝」について(工事中)

【清寧紀】3

小楯、大驚離席、悵然再。承事供給、率屬欽伏、於是、悉發郡民造宮、不日權奉安置、乃詣京都求迎二王。白髮天皇、聞憙咨歎曰「朕無子也、可以爲嗣。」與大臣・大連定策禁中、仍使播磨國司來目部小楯、持節將左右舍人、至赤石奉迎。

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冬十一月、飯豐靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、再從諸臣之位曰「此天子之位、有功者可以處之。著貴蒙迎、皆弟之謀也。」以天下、讓天皇。天皇、顧讓以弟、莫敢卽位。又、奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子、前後固辭曰「日月出矣而爝火不息、其於光也不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌、不亦勞乎。所貴爲人弟者、奉兄・謀逃脱難・照德解紛而無處也。卽有處者非弟恭之義、弘計不忍處也。兄友・弟恭不易之典、聞諸古老、安自獨輕。」

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三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

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