仁徳紀の中の「拝」について(工事中)
【仁徳紀】1
十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以拜朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豐之。
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