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2022年1月

2022年1月31日 (月)

神代下紀の中の「拝」について(工事中)

【神代下紀】1

於是、豐玉彥遣人問曰「客是誰者、何以至此。」火火出見尊對曰「吾是天神之孫也。」乃遂言來意、時海神迎延入、慇懃奉慰、因以女豐玉姬妻之。故留住海宮、已經三載。是後火火出見尊、數有歎息、豐玉姬問曰「天孫、豈欲還故鄕歟。」對曰「然。」豐玉姬卽白父神曰「在此貴客、意望欲還上國。」海神、於是、總集海魚、覓問其鉤、有一魚、對曰「赤女久有口疾。或云、赤鯛。疑是之呑乎。」故卽召赤女、見其口者、鉤猶在口。便得之、乃以授彥火火出見尊。因教之曰「以鉤與汝兄時、則可詛言『貧窮之本、飢饉之始、困苦之根。』而後與之。又汝兄渉海時、吾必起迅風洪濤、令其沒溺辛苦矣。」於是、乘火火出見尊於大鰐、以送致本鄕。

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神武紀の中の「拝」について(工事中)

【神武紀】1

秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比鄧誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班賜軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。

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景行紀の中の「拝」について(工事中)

【景行紀】5

於是、日本武尊乃受斧鉞、以再奏之曰「嘗西征之年、頼皇靈之威、提三尺劒、擊熊襲國、未經浹辰、賊首伏罪。今亦頼神祗之靈借天皇之威、往臨其境示以德教、猶有不服卽舉兵擊。」仍重再之。天皇、則命吉備武彥與大伴武日連、令從日本武尊。亦以七掬脛爲膳夫。

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冬十月壬子朔癸丑、日本武尊發路之。戊午、抂道伊勢神宮、仍辭于倭姬命曰「今被天皇之命而東征將誅諸叛者、故辭之。」於是、倭姬命取草薙劒、授日本武尊曰「愼之。莫怠也。」是歲、日本武尊初至駿河、其處賊陽從之欺曰「是野也、糜鹿甚多、氣如朝霧、足如茂林。臨而應狩。」日本武尊信其言、入野中而覓獸。賊有殺王之情王謂日本武尊也、放火燒其野。王、知被欺則以燧出火之、向燒而得免。一云、王所佩劒藂雲、自抽之、薙攘王之傍草。因是得免、故號其劒曰草薙也。藂雲、此云茂羅玖毛。王曰「殆被欺。」則悉焚其賊衆而滅之、故號其處曰燒津。

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爰日本武尊、則從上總轉、入陸奧國。時、大鏡懸於王船、從海路𢌞於葦浦、横渡玉浦、至蝦夷境。蝦夷賊首嶋津神・國津神等、屯於竹水門而欲距、然遙視王船、豫怖其威勢而心裏知之不可勝、悉捨弓矢、望之曰「仰視君容、秀於人倫、若神之乎。欲知姓名。」王對之曰「吾是現人神之子也。」於是、蝦夷等悉慄、則褰裳披浪、自扶王船而着岸。仍面縛服罪、故免其罪、因以、俘其首帥而令從身也。蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

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五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。

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神功紀の中の「拝」について(工事中)

【神功紀】2

既而、神有誨曰「和魂服王身而守壽命、荒魂爲先鋒而導師船。」和魂、此云珥岐瀰多摩。荒魂、此云阿邏瀰多摩。卽得神教而禮之、因以依網吾彥男垂見、爲祭神主。于時也、適當皇后之開胎、皇后則取石插腰而祈之曰「事竟還日、産於茲土。」其石今在于伊都縣道邊。既而則撝荒魂、爲軍先鋒、請和魂、爲王船鎭。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十三年春二月丁巳朔甲子、命武內宿禰、從太子、令角鹿笥飯大神。癸酉、太子至自角鹿、是日皇太后、宴太子於大殿。皇太后舉觴以壽于太子、因以歌曰、

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応神紀の中の「拝」について(工事中)

【応神紀】1

譽田天皇、足仲彥天皇第四子也、母曰氣長足姬尊。天皇、以皇后討新羅之年、歲次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田。幼而聰達、玄監深遠、動容進止、聖表有異焉。皇太后攝政之三年、立爲皇太子。時年三。初天皇、在孕而天神地祇授三韓。既産之、宍生腕上、其形如鞆、是肖皇太后爲雄裝之負鞆肖、此云阿叡、故稱其名謂譽田天皇。上古時俗、號鞆謂褒武多焉。一云「初天皇爲太子、行于越國、祭角鹿笥飯大神。時、大神與太子、名相易、故號大神曰去來紗別神、太子名譽田別尊。」然則、可謂大神本名譽田別神、太子元名去來紗別尊、然無所見也、未詳。攝政六十九年夏四月、皇太后崩。時年百歲。

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仁徳紀の中の「拝」について(工事中)

【仁徳紀】1

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以朝。明日、美盾人宿禰而賜名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣賜名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豐之。

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允恭紀の中の「拝」について(工事中)

【允恭紀】2

群臣再言「夫帝位不可以久曠、天命不可以謙距。今大王留時逆衆不正號位、臣等恐百姓望絶也。願大王雖勞猶卽天皇位。」雄朝津間稚子宿禰皇子曰「奉宗廟社稷重事也。寡人篤疾、不足以稱。」猶辭而不聽。於是、群臣皆固請曰「臣伏計之、大王奉皇祖宗廟最宜稱。雖天下萬民、皆以爲宜。願大王聽之。」

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皇子顧之驚、則扶起謂之曰「嗣位重事、不得輙就、是以、於今不從。然今群臣之請、事理灼然、何遂謝耶。」爰大中姬命仰歡、則謂群卿曰「皇子將聽群臣之請、今當上天皇璽符。」於是、群臣大喜、卽日捧天皇之璽符、再上焉。皇子曰「群卿共爲天下請寡人、寡人何敢遂辭。」乃卽帝位。是年也、太歲壬子。

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雄略紀の中の「拝」について(工事中)

【雄略紀】3

大臣、裝束已畢、進軍門跪曰「臣雖被戮、莫敢聽命。古人有云匹夫之志難可奪、方屬乎臣。伏願大王、奉獻臣女韓媛與葛城宅七區、請以贖罪。」天皇不許、縱火燔宅。於是、大臣與黑彥皇子眉輪王倶被燔死、時坂合部連贄宿禰、抱皇子屍而見燔死。其舍人等闕名、收取所燒、遂難擇骨、盛之一棺、合葬新漢𣝅本南丘。𣝅字未詳、蓋是槻乎。

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是歲、吉備上道臣田狹、侍於殿側、盛稱稚媛於朋友曰「天下麗人、莫若吾婦。茂矣綽矣、諸好備矣、曄矣温矣、種相足矣、鉛花弗御、蘭澤無加。曠世罕儔、當時獨秀者也。」天皇、傾耳遙聽而心悅焉、便欲自求稚媛爲女御、田狹爲任那國司、俄而、天皇幸稚媛。田狹臣、娶稚媛而生兄君・弟君。別本云「田狹臣婦、名毛媛者、葛城襲津彥子・玉田宿禰之女也。天皇、聞體貌閑麗、殺夫、自幸焉。」

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三月、天皇欲親伐新羅、神戒天皇曰「無往也。」天皇由是、不果行、乃勅紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連談、此云箇陀利・小鹿火宿禰等曰「新羅、自居西土、累葉稱臣、朝聘無違、貢職允濟。逮乎朕之王天下、投身對馬之外、竄跡匝羅之表、阻高麗之貢、呑百濟之城。況復朝聘既闕、貢職莫脩。狼子野心、飽飛、飢附。以汝四卿、爲大將、宜以王師薄伐、天罰龔行。」

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清寧紀の中の「拝」について(工事中)

【清寧紀】3

小楯、大驚離席、悵然再。承事供給、率屬欽伏、於是、悉發郡民造宮、不日權奉安置、乃詣京都求迎二王。白髮天皇、聞憙咨歎曰「朕無子也、可以爲嗣。」與大臣・大連定策禁中、仍使播磨國司來目部小楯、持節將左右舍人、至赤石奉迎。

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冬十一月、飯豐靑尊崩、葬葛城埴口丘陵。十二月百官大會、皇太子億計、取天皇之璽、置之天皇之坐、再從諸臣之位曰「此天子之位、有功者可以處之。著貴蒙迎、皆弟之謀也。」以天下、讓天皇。天皇、顧讓以弟、莫敢卽位。又、奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子、前後固辭曰「日月出矣而爝火不息、其於光也不亦難乎。時雨降矣而猶浸灌、不亦勞乎。所貴爲人弟者、奉兄・謀逃脱難・照德解紛而無處也。卽有處者非弟恭之義、弘計不忍處也。兄友・弟恭不易之典、聞諸古老、安自獨輕。」

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三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

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継体紀の中の「拝」について(工事中)

【継体紀】3

二月辛卯朔甲午、大伴金村大連、乃跪、上天子鏡劒璽符、再。男大迹天皇謝曰「子民治國、重事也。寡人不才不足以稱。願請、𢌞慮擇賢者。寡人不敢當。」大伴大連、伏地固請。男大迹天皇、西向讓者三、南向讓者再。大伴大連等皆曰「臣伏計之、大王、子民治國、最宜稱。臣等、爲宗廟社稷、計不敢忽。幸藉衆願、乞垂聽納。」男大迹天皇曰「大臣・大連・將相・諸臣、咸推寡人、寡人敢不乖。」乃受璽符、是日、卽天皇位。以大伴金村大連爲大連、許勢男人大臣爲大臣、物部麁鹿火大連爲大連、並如故。是以、大臣大連等各依職位焉。

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癸酉、納八妃。納八妃、雖有先後而此曰癸酉納者、據卽天位、占擇良日初後宮、爲文。他皆效此。元妃、尾張連草香女曰目子媛更名色部、生二子、皆有天下、其一曰勾大兄皇子是爲廣國排武金日尊、其二曰檜隈高田皇子是爲武小廣國排盾尊。次妃、三尾角折君妹曰稚子媛、生大郎皇子與出雲皇女。次、坂田大跨王女曰廣媛、生三女、長曰神前皇女、仲曰茨田皇女、少曰馬來田皇女。次、息長眞手王女曰麻績娘子、生荳角皇女荳角、此云娑佐礙、是侍伊勢大神祠。次、茨田連小望女或曰妹曰關媛、生三女、長曰茨田大娘皇女、仲曰白坂活日姬皇女、少曰小野稚郎皇女更名長石姬。次、三尾君堅楲女曰倭媛、生二男二女、其一曰大娘子皇女、其二曰椀子皇子、是三國公之先也、其三曰耳皇子、其四曰赤姬皇女。次、和珥臣河內女曰荑媛、生一男二女、其一曰稚綾姬皇女、其二曰圓娘皇女、其三曰厚皇子。次、根王女曰廣媛、生二男、長曰兔皇子、是酒人公之先也、少曰中皇子、是坂田公之先也。是年也、太歲丁亥。

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秋八月辛卯朔、詔曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」

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欽明紀の中の「拝」について(工事中)

【欽明紀】8

於是、忻喜遍身、歎未曾夢、乃告之曰、汝有何事。答云「無也。但臣向伊勢、商價來還山逢二狼相鬪汙血、乃下馬、洗漱口手、祈請曰『汝、是貴神而樂麁行。儻逢獵士、見禽尤速。』乃抑止相鬪、拭洗血毛、遂遣放之、倶令全命。」天皇曰、必此報也。乃令近侍優寵日新、大致饒富。及至踐祚、大藏省。

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冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」 

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是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」乃歷問群臣曰「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」蘇我大臣稻目宿禰奏曰「西蕃諸國一皆禮之、豐秋日本豈獨背也。」物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「我國家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭爲事。方今改蕃神、恐致國神之怒。」天皇曰「宜付情願人稻目宿禰試令禮。」

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是時、新羅、謂佐知村飼馬奴苦都更名谷智曰「苦都賤奴也、明王名主也。今、使賤奴殺名主。冀傳後世、莫忘於口。」已而、苦都、乃獲明王、再曰「請斬王首。」明王對曰「王頭、不合受奴手。」苦都曰「我國法、違背所盟、雖曰國王、當受奴手。」一本云「明王、乘踞胡床、解授佩刀、於谷知令斬。」明王、仰天、大憩涕泣、許諾曰「寡人、毎念常痛入骨髄、願計不可苟活」乃延首受斬。苦都、斬首而殺、掘坎而埋。一本云「新羅、留理明王頭骨、而以禮送餘骨於百濟。今新羅王、埋明王骨於北廳階下、名此廳曰都堂。」

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卅年春正月辛卯朔、詔曰「量置田部、其來尚矣。年甫十餘、脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者、王辰爾之甥也檢定白猪田部丁籍。」夏四月、膽津、檢閲白猪田部丁者依詔定籍、果成田戸。天皇、嘉膽津定籍之功、賜姓爲白猪史、尋田令爲瑞子之副。瑞子、見上。

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五月、遣膳臣傾子於越、饗高麗使。傾子、此云舸陀部古。大使審知膳臣是皇華使、乃謂道君曰「汝非天皇、果如我疑。汝既伏膳臣、倍復足知百姓、而前詐余、取調入己。宜速還之、莫煩飾語。」膳臣聞之、使人探索其調、具爲與之、還京復命。秋七月壬子朔、高麗使到于近江。

 

 

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敏達紀の中の「拝」について(工事中)

【敏達紀】3

六月、高麗大使、謂副使等曰「磯城嶋天皇時、汝等違吾所議、被欺於他、妄分國調、輙與微者。豈非汝等過歟。其若我國王聞、必誅汝等。」副使等自相謂之曰「若吾等至國時、大使顯噵吾過、是下祥事也。思欲偸殺而斷其口。」是夕、謀泄。大使知之、裝束衣帶獨自潛行、立館中庭、不知所計。時有賊一人、以杖出來、打大使頭而退。次有賊一人、直向大使、打頭與手而退。大使、尚嘿然立地而拭面血。更有賊一人、執刀急來、刺大使腹而退。是時、大使恐伏地。後有賊一人、既殺而去。明旦、領客東漢坂上直子麻呂等、推問其由。副使等乃作矯詐曰「天皇賜妻於大使、大使違勅不受、無禮茲甚。是以、臣等爲天皇殺焉。」有司、以禮收葬。秋七月、高麗使人罷歸。是年也、太歲壬辰。

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於是、百濟國主、怖畏天朝不敢違勅、奉遣以日羅・恩率・德爾・余怒・奇奴知・參官・柁師德率次干德・水手等若干人。日羅等、行到吉備兒嶋屯倉。朝庭遣大伴糠手子連而慰勞焉、復遣大夫等於難波館使訪日羅。是時、日羅被甲乘馬到門底下、乃進廳前、進退跪、歎恨而曰「於檜隈宮御㝢天皇之世、我君大伴金村大連、奉爲國家使於海表。火葦北國造刑部靫部阿利斯登之子・臣達率日羅、聞天皇召、恐畏來朝。」乃解其甲、奉於天皇。乃營館於阿斗桑市、使住日羅、供給隨欲。

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十四年春二月戊子朔壬寅、蘇我大臣馬子宿禰、起塔於大野丘北、大會設齋。卽以達等前所獲舍利、藏塔柱頭。辛亥、蘇我大臣患疾。問於卜者、卜者對言「祟於父時所祭佛神之心也。」大臣卽遣子弟、奏其占狀。詔曰「宜依卜者之言、祭祠父神。」大臣奉詔、禮石像、乞延壽命。是時、國行疫疾、民死者衆。

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用明紀の中の「拝」について(工事中)

【用明紀】1

九月甲寅朔戊午、天皇卽天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申、詔曰、云々。以酢香手姬皇女、伊勢神宮奉日神祀。是皇女、自此天皇時逮乎炊屋姬天皇之世、奉日神祀。自退葛城而薨。見炊屋姬天皇紀。或本云、卅七年間奉日神祀、自退而薨。

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推古紀の中の「拝」について(工事中)

【推古紀】8

四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。

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十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰「我有尊佛像、誰得是像以恭。」時、秦造河勝進曰、臣之。便受佛像、因以造蜂岡寺。是月、皇太子請于天皇、以作大楯及靫靫此云由岐、又繪于旗幟。

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十五年春二月庚辰朔、定壬生部。戊子、詔曰「朕聞之、曩者、我皇祖天皇等宰世也、跼天蹐地、敦禮神祗、周祠山川、幽通乾坤。是以、陰陽開和、造化共調。今當朕世、祭祠神祗、豈有怠乎。故、群臣共爲竭心、宜神祗。」甲午、皇太子及大臣、率百寮以祭神祗。

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秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉。壬子、召唐客於朝庭令奏使旨。時、阿倍鳥臣・物部依網連抱二人、爲客之導者也。於是、大唐之國信物、置於庭中。時、使主裴世淸、親持書兩度再、言上使旨而立之。其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、遠脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別。」時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。事畢而退焉。是時、皇子諸王諸臣、悉以金髻花着頭、亦衣服皆用錦紫繡織及五色綾羅。一云、服色皆用冠色。丙辰、饗唐客等於朝。

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是日、命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長、以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長、卽安置阿斗河邊館。丁酉、客等朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟爲新羅導者、以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠爲任那導者、共引以自南門入之、立于庭中。時、大伴咋連・蘇我豐浦蝦兩臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是、兩國客等各再、以奏使旨。乃四大夫、起進啓於大臣、時大臣自位起、立廳前而聽焉。既而賜祿諸客、各有差。乙巳、饗使人等於朝、以河內漢直贄爲新羅共食者、錦織首久僧爲任那共食者。辛亥、客等禮畢、以歸焉。

 

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舒明紀の中の「拝」について(工事中)

【舒明紀】1

是歲、蝦夷叛以不朝。卽大仁上毛野君形名爲將軍令討、還爲蝦夷見敗而走入壘、遂爲賊所圍。軍衆悉漏城空之、將軍迷不知所如、時日暮、踰垣欲逃。爰、方名君妻歎曰「慷哉、爲蝦夷將見殺。」則謂夫曰「汝祖等、渡蒼海跨萬里平水表政、以威武傳於後葉。今汝頓屈先祖之名、必爲後世見嗤。」乃酌酒、强之令飲夫、而親佩夫之劒、張十弓、令女人數十俾鳴弦。既而夫更起之、取仗而進之。蝦夷以爲軍衆猶多、而稍引退之。於是、散卒更聚、亦振旅焉。擊蝦夷大敗、以悉虜。

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皇極紀の中の「拝」について(工事中)

【皇極紀】4

三月丙辰朔戊午、無雲而雨。辛酉、新羅遣賀騰極使與弔喪使。庚午、新羅使人罷歸。是月、霖雨。夏四月丙戌朔癸巳、太使翹岐、將其從者朝。乙未、蘇我大臣、於畝傍家、喚百濟翹岐等。親對語話。仍賜良馬一匹・鐵廿鋌。唯不喚塞上。是月、霖雨。

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秋七月甲寅朔壬戌、客星入月。乙亥、饗百濟使人大佐平智積等於朝。或本云、百濟使人大佐平智積及兒達率 闕名・恩率軍善。乃命健兒、相撲於翹岐前。智積等、宴畢而退、翹岐門。丙子、蘇我臣人鹿豎者、獲白雀子。是日同時、有人、以白雀納籠、而送蘇我大臣。戊寅、群臣相謂之曰、隨村々祝部所教、或殺牛馬、祭諸社神。或頻移市。或禱河伯。既無所效。蘇我大臣報曰、可於寺々轉讀大乘經典。悔過如佛所說、敬而祈雨。庚辰、於大寺南庭、嚴佛菩薩像與四天王像、屈請衆僧、讀大雲經等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、燒香發願。辛巳、微雨。壬午、不能祈雨。故停讀經。

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八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇。己丑、百濟使參官等罷歸。仍賜大舶與同船三艘。同船、母慮紀舟。是日夜半、雷鳴於西南角、而風雨。參官等所乘船舶、觸岸而破。丙申、以小德授百濟質達率長福。中客以下、授位一級。賜物各有差。戊戌、以船賜百濟參官等發遣。己亥、高麗使人罷歸。己酉、百濟・新羅使人罷歸。

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三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。謂充舍人爲駈使也。舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅。

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孝徳紀の中の「拝」について(工事中)

【孝徳紀】8

由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德字馬飼。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故、進退廢置計從事立、云々。以沙門旻法師・高向史玄理、爲國博士。辛亥、以金策、賜阿倍倉梯麻呂大臣與蘇我山田石川麻呂大臣。或本云、賜練金。乙卯、天皇・皇祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰。告天神地祇曰「天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。皇天假手於我、誅殄暴逆。今共瀝心血。而自今以後、君無二政、臣無貳朝。若貳此盟、天災地妖、鬼誅人伐。皎如日月也。」改天豐財重日足姬天皇四年、爲大化元年。

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八月丙申朔庚子、東國等國司。仍詔國司等曰、隨天神之所奉寄、方今始將修萬國。凡國家所有公民大小所領人衆、汝等之任、皆作戸籍及校田畝。其薗池水陸之利、與百姓倶。又國司等、在國不得判罪、不得取他貨賂令致民於貧苦。上京之時、不得多從百姓於己、唯得使從國造・郡領。但以公事往來之時、得騎部內之馬、得飡部內之飯。介以上、奉法必須褒賞、違法當降爵位。判官以下、取他貨賂、二倍徵之、遂以輕重科罪。其長官從者九人、次官從者七人、主典從者五人。若違限外將者、主與所從之人、並當科罪。若有求名之人、元非國造・伴造・縣稻置而輙詐訴言、自我祖時領此官家治是郡縣、汝等國司不得隨詐便牒於朝、審得實狀而後可申。又於閑曠之所、起造兵庫收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者、可盡數集其兵。而猶假授本主。其於倭國六縣被遣使者、宜造戸籍、幷校田畝。謂檢覈墾田頃畝及民戸口年紀。汝等國司、可明聽退。卽賜帛布、各有差。

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癸卯、遣使於大寺、喚聚僧尼而詔曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百濟明王、奉傳佛法於我大倭。是時、群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰、獨信其法。天皇乃詔稻目宿禰、使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、詔馬子宿禰而使奉其法。於小墾田宮御宇天皇之世、馬子宿禰、奉爲天皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。朕、更復思崇正教光啓大猷。故、以沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙、而爲十師。別、以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等、宜能教導衆僧修行釋教、要使如法。凡自天皇至于伴造所造之寺、不能營者朕皆助作。今、寺司等與寺主。巡行諸寺、驗僧尼・奴婢・田畝之實、而盡顯奏。卽以來目臣闕名・三輪色夫君・額田部連甥、爲法頭。

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二月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇、詔於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓。朕聞、明哲之御民者、懸鍾於闕而觀百姓之憂、作屋於衢而聽路行之謗。雖蒭蕘之說、親問爲師。由是、朕前下詔曰、古之治天下、朝有進善之旌・誹謗之木、所以通治道而來諫者也、皆所以廣詢于下也。管子曰、黃帝立明堂之議者上觀於賢也、堯有衢室之問者下聽於民也、舜有告善之旌而主不蔽也、禹立建鼓於朝而備訊望也、湯有總術之廷以觀民非也、武王有靈臺之囿而賢者進也。此故、聖帝明王、所以有而勿失、得而勿亡也。所以、懸鍾設匱收表人、使憂諫人納表于匱、詔收表人毎旦奏請。朕得奏請、仍示群卿便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃・或阿黨比周、朕復不肯聽諫、憂訴之人當可撞鍾。詔已如此。既而有民明直心・懷國土之風・切諫陳䟽、納於設匱。故、今顯示集在黎民。其表稱、緣奉國政到於京民、官留使於雜役、云々。朕猶以之傷惻、民豈復思至此。然遷都未久、還似于賓、由是、不得不使而强役之。毎念於斯、未嘗安寢。朕觀此表、嘉歎難休。故隨所諫之言、罷處々之雜役。昔詔曰、諫者題名。而不隨詔。今者、自非求利而將助國。不言題不、諫朕癈忘。

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是歲、壞小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。

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是月、遣使者收山田大臣資財。資財之中、於好書上題皇太子書、於重寶上題皇太子物。使者還申所收之狀、皇太子始知大臣心猶貞淨、追生悔恥、哀歎難休。卽日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰、是隱流乎。皇太子妃蘇我造媛、聞父大臣爲鹽所斬、傷心痛惋、惡聞鹽名。所以、近侍於造媛者、諱稱鹽名改曰堅鹽。造媛、遂因傷心而致死焉。皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。於是、野中川原史滿、進而奉歌。歌曰、

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甲申、朝庭隊仗如元會儀、左右大臣百官人等爲四列於紫門外。以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。使三國公麻呂・猪名公高見・三輪君甕穗・紀臣乎麻呂岐太四人代執雉輿而進殿前。時、左右大臣就執輿前頭、伊勢王・三國公麻呂・倉臣小屎執輿後頭、置於御座之前。天皇卽召皇太子共執而觀、皇太子退而再。使巨勢大臣奉賀曰「公卿百官人等奉賀。陛下以淸平之德治天下之故、爰有白雉自西方出。乃是、陛下及至千秋萬歲淨治四方大八嶋。公卿百官及諸百姓等、冀磬忠誠勤將事。」奉賀訖再

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天智紀の中の「拝」について(工事中)

【天智紀】5

秋七月、高麗、從越之路遣使進調。風浪高、故不得歸。以栗前王、筑紫率。于時、近江國講武、又多置牧而放馬。又越國獻燃土與燃水。又於濱臺之下諸魚覆水而至、又饗蝦夷、又命舍人等爲宴於所々。時人曰、天皇天命將及乎。

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八年春正月庚辰朔戊子、以蘇我赤兄臣筑紫率。三月己卯朔己丑、耽羅、遣王子久麻伎等貢獻。丙申、賜耽羅王五穀種、是日、王子久麻伎等罷歸。夏五月戊寅朔壬午、天皇、縱獵於山科野。大皇弟・藤原內大臣及群臣皆悉從焉。

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十年春正月己亥朔庚子、大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前、奏賀正事。癸卯、大錦上中臣金連命宣神事。是日、以大友皇子太政大臣、以蘇我赤兄臣爲左大臣、以中臣金連爲右大臣、以蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣爲御史大夫。御史蓋今之大納言乎。甲辰、東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。

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庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥內、詔曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。於是、再稱疾固辭、不受曰「請奉洪業付屬大后・令大友王奉宣諸政。臣請願奉爲天皇出家修道。」天皇許焉。東宮起而再、便向於內裏佛殿之南、踞坐胡床、剃除鬢髮、爲沙門。於是、天皇遣次田生磐、送袈裟。壬午、東宮見天皇請之吉野修行佛道、天皇許焉。東宮、卽入於吉野。大臣等侍送、至菟道而還。

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2022年1月30日 (日)

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【天武紀上】5

元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再進書函與信物。

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丙戌旦、於朝明郡迹太川邊、望天照大神。是時、益人到之奏曰「所置關者、非山部王・石川王、是大津皇子也。」便隨益人參來矣。大分君惠尺・難波吉士三綱・駒田勝忍人・山邊君安麻呂・小墾田猪手・泥部眡枳・大分君稚臣・根連金身・漆部友背之輩從之、天皇大喜。將及郡家、男依乘驛來奏曰「發美濃師三千人、得塞不破道。」於是、天皇、美雄依之務。既到郡家、先遣高市皇子於不破令監軍事、遣山背部小田・安斗連阿加布發東海軍、又遣稚櫻部臣五百瀬・土師連馬手發東山軍。是日、天皇、宿于桑名郡家、卽停以不進。

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是日、大伴連吹負、密與留守司坂上直熊毛、議之謂一二漢直等曰「我詐稱高市皇子、率數十騎、自飛鳥寺北路出之臨營。乃汝內應之。」既而繕兵於百濟家、自南門出之。先秦造熊、令犢鼻而乘馬馳之、俾唱於寺西營中、曰「高市皇子、自不破至。軍衆多從。」爰、留守司高坂王及興兵使者穗積臣百足等、據飛鳥寺西槻下、爲營。唯百足、居小墾田兵庫、運兵於近江。時、營中軍衆、聞熊叫聲、悉散走。仍大伴連吹負、率數十騎劇來。則熊毛及諸直等共與連和、軍士亦從。乃舉高市皇子之命、喚穗積臣百足於小墾田兵庫。爰、百足乘馬緩來、逮于飛鳥寺西槻下、有人曰「下馬也。」時百足、下馬遲之。便取其襟以引墮、射中一箭、因拔刀斬而殺之。乃禁穗積臣五百枝・物部首日向、俄而赦之置軍中。且喚高坂王・稚狹王而令從先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭拜御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。然後、壹伎史韓國、自大坂來。故時人曰、二社神所教之辭適是也。又村屋神着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。 軍焉。既而遣大伴連安麻呂・坂上直老・佐味君宿那麻呂等於不破宮、令奏事狀。天皇大喜之、因乃令吹負將軍。是時、三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷等及群豪傑者、如響悉會將軍麾下。乃規襲近江、撰衆中之英俊爲別將及軍監。庚寅、初向乃樂。

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時、近江命山部王・蘇賀臣果安・巨勢臣比等、率數萬衆將襲不破而軍于犬上川濱。山部王、爲蘇賀臣果安・巨勢臣比等見殺。由是亂以軍不進。乃蘇賀臣果安、自犬上返、刺頸而死。是時、近江將軍羽田公矢國・其子大人等、率己族來降。因授斧鉞將軍、卽北入越。先是、近江放精兵、忽衝玉倉部邑。則遣出雲臣狛、擊追之。

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先是、軍金綱井之時、高市郡大領高市縣主許梅、儵忽口閉而不能言也。三日之後、方着神以言「吾者高市社所居、名事代主神。又身狹社所居、名生靈神者也。」乃顯之曰「於神日本磐余彥天皇之陵、奉馬及種々兵器。」便亦言「吾者立皇御孫命之前後、以送奉于不破而還焉。今且立官軍中而守護之。」且言「自西道軍衆將至之、宜愼也。」言訖則醒矣。故、是以、便遣許梅而祭御陵、因以奉馬及兵器、又捧幣而禮祭高市・身狹二社之神。然後、壹伎史韓國、自大坂來。故時人曰、二社神所教之辭適是也。又村屋神着祝曰「今自吾社中道、軍衆將至。故宜塞社中道。」故未經幾日、廬井造鯨軍、自中道至。時人曰、卽神所教之辭是也。軍政既訖、將軍等舉是三神教言而奏之。卽勅登進三神之品以祠焉。

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天武紀下の中の「拝」について(工事中)

【天武紀上】17

十二月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。戊戌、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、造高市大寺司。今大官大寺、是。時、知事福林僧、由老辭知事、然不聽焉。戊申、以義成僧、爲小僧都。是日、更加佐官二僧。其有四佐官、始起于此時也。是年也、太歲癸酉。

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四年春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮、及舍衞女・墮羅女・百濟王善光・新羅仕丁等、捧藥及珍異等物進。丁未、皇子以下百寮諸人、朝。戊申、百寮三月辛巳朔丙戌、兵衞大分君稚見、死。當壬申年大役、爲先鋒之、破瀬田營。由是功、贈外小錦上位。丁亥、天皇幸於越智、拜後岡本天皇陵。己丑、吉備大宰石川王、病之薨於吉備。天皇聞之大哀、則降大恩、云々。贈諸王二位。壬寅、貧乏僧尼、施絁綿布。 諸人初位以上、進薪。庚戌、始興占星臺。壬子、賜宴群臣於朝庭。壬戌、公卿大夫及百寮諸人初位以上、射于西門庭。是日、大倭國貢瑞鶏、東國貢白鷹、近江國貢白鵄。戊辰、祭幣諸社。

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五年春正月庚子朔、群臣百寮朝。癸卯、高市皇子以下小錦以上大夫等、賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖、唯小錦三階不賜机。丙午、小錦以上大夫等、賜祿各有差。甲寅、百寮初位以上、進薪。卽日、悉集朝庭賜宴。乙卯、置祿射于西門庭、中的者則給祿有差。是日、天皇御嶋宮、宴之。甲子、詔曰、凡任國司者、除畿內及陸奧・長門國、以外皆任大山位下人。

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八年春正月壬午朔丙戌、新羅送使加良井山・金紅世等、向京。戊子、詔曰「凡當正月之節、諸王諸臣及百寮者、除兄姉以上親及己氏長以外、莫焉。其諸王者、雖母非王姓者、莫。凡諸臣亦莫卑母。雖非正月節、復准此。若有犯者、隨事罪之。」己亥、射于西門。

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三月辛巳朔丙戌、兵衞大分君稚見、死。當壬申年大役、爲先鋒之、破瀬田營。由是功、贈外小錦上位。丁亥、天皇幸於越智、後岡本天皇陵。己丑、吉備大宰石川王、病之薨於吉備。天皇聞之大哀、則降大恩、云々。贈諸王二位。壬寅、貧乏僧尼、施絁綿布。

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五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共天皇於大殿前。

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九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者多在巷里。是則王卿等之過也。或聞暴惡者也煩之忍而不治、或見惡人也倦之匿以不正。其隨見聞以糺彈者、豈有暴惡乎。是以、自今以後、無煩倦而上責下過・下諫上暴、乃國家治焉。」

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九年春正月丁丑朔甲申、天皇、御于向小殿而宴王卿於大殿之庭。是日、忌部首首賜姓曰連、則與弟色弗共悅。癸巳、親王以下至于小建、射南門。丙申、攝津國言、活田村桃李實也。

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十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍賜姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。己丑、詔畿內及諸國修理天社地社神宮。

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九月丁酉朔己亥、遣高麗新羅使人等共至之朝。辛丑、周芳國貢赤龜、乃放嶋宮池。甲辰、詔曰、凡諸氏有氏上未定者、各定氏上而申送于理官。庚戌、饗多禰嶋人等于飛鳥寺西河邊、奏種々樂。壬子、篲星見。癸丑、熒惑入月。

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夏四月癸亥朔辛未、祭廣瀬龍田神。癸未、筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢大鐘。甲申、越蝦夷伊高岐那等、請俘人七十戸爲一郡、乃聽之。乙酉、詔曰「自今以後、男女悉結髮。十二月卅日以前、結訖之。唯結髮之日、亦待勅旨。」婦女、乘馬如男夫、其起于是日也。五月癸巳朔甲辰、倭漢直等賜姓曰連。戊申、遣高麗大使佐伯連廣足・小使小墾田臣麻呂等、奏使旨於御所。己未、倭漢直等男女悉參赴之、悅賜姓而朝。

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十二年春正月己丑朔庚寅、百寮朝庭。筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢三足雀。乙未、親王以下及群卿、喚于大極殿前而宴之、仍以三足雀示于群臣。

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十四年春正月丁未朔戊申、百寮朝庭。丁卯、更改爵位之號、仍増加階級。明位二階・淨位四階、毎階有大廣、幷十二階、以前諸王已上之位。正位四階・直位四階・勤位四階・務位四階・追位四階・進位四階、毎階有大廣、幷卌八階、以前諸臣之位。是日、草壁皇子尊授淨廣壹位、大津皇子授淨大貳位、高市皇子授淨廣貳位、川嶋皇子・忍壁皇子授淨大參位。自此以下諸王諸臣等、増加爵位各有差。

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二月丁丑朔庚辰、大唐人・百濟人・高麗人、幷百卌七人賜爵位。三月丙午朔己未、饗金物儒於筑紫、卽從筑紫歸之、仍流着新羅人七口附物儒還之。辛酉、京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努、卒。壬申、詔、諸國毎家作佛舍、乃置佛像及經、以禮供養。是月、灰零於信濃國、草木皆枯焉。夏四月丙子朔己卯、紀伊國司言、牟婁湯泉沒而不出也。丁亥、祭廣瀬龍田神。壬辰、新羅人金主山、歸之。庚寅、始請僧尼安居于宮中。

 

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【持統紀】9

九月壬戌朔庚午、設國忌齋於京師諸寺。辛未、設齋於殯宮。甲申、新羅、遣王子金霜林・級飡金薩慕及級飡金仁述・大舍蘇陽信等、奏請國政、且獻調賦。學問僧智隆、附而至焉。筑紫大宰便告天皇崩於霜林等、卽日霜林等皆着喪服東向三三發哭焉。

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六月壬午朔、賜衣裳筑紫大宰等。癸未、以皇子施基・直廣肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣齊齊、此云牟吾閉・勤廣肆伊余部連馬飼・調忌寸老人・務大參大伴宿禰手拍與巨勢朝臣多益須等、撰善言司。庚子、賜大唐續守言・薩弘恪等稻、各有差。辛丑、詔筑紫大宰粟田眞人朝臣等、賜學問僧明聰・觀智等爲送新羅師友、綿各一百四十斤。乙巳、於筑紫小郡、設新羅弔使金道那等、賜物各有差。庚戌、班賜諸司令、一部廿二卷。

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四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。公卿百寮、羅列匝而拍手焉。己卯、公卿百寮、朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣、奏賀騰極。庚辰、宴公卿於內裏。壬辰、百寮進薪。甲午、大赦天下、唯常赦所不免、不在赦例。賜有位人爵一級。鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者、賜稻、蠲服調役。丁酉、以解部一百人、刑部省。庚子、班幣於畿內天神地祗、及増神戸田地。

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五年春正月癸酉朔、賜親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、賜公卿飲食衣裳、優賜正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、賜食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。

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三月甲申朔、日有蝕之。乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。賜其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。」乙巳、奉幣於諸社。丙午、賜神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差。

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八月壬子朔戊辰、爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。九月壬午朔、日有蝕之。乙酉、幸吉野宮。癸卯、以淨廣肆三野王筑紫大宰率。冬十月辛亥朔庚午、以進大肆賜獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國部弟日、幷賜絁四匹・綿四屯・布十端、其戸課役限身悉免。十一月辛巳朔丙午、赦殊死以下。

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十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

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神代上の中の「賜」について(工事中)

【神代上】2

一書曰、天神謂伊弉諾尊・伊弉冉尊曰「有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之。」廼天瓊戈。於是二神、立於天上浮橋、投戈求地。因畫滄海而引舉之、卽戈鋒垂落之潮、結而爲嶋、名曰磤馭慮嶋。二神、降居彼嶋、化作八尋之殿、又化竪天柱。陽神問陰神曰「汝身有何成耶。」對曰「吾身具成而有稱陰元者一處。」陽神曰「吾身亦具成而有稱陽元者一處。思欲以吾身陽元合汝身之陰元。」云爾。卽將巡天柱、約束曰「妹自左巡、吾當右巡。」既而分巡相遇、陰神乃先唱曰「姸哉、可愛少男歟。」陽神、後和之曰「姸哉、可愛少女歟。」遂爲夫婦、先生蛭兒、便載葦船而流之。次生淡洲、此亦不以充兒數。故、還復上詣於天具奏其狀、時天神、以太占而卜合之、乃教曰「婦人之辭、其已先揚乎。宜更還去。」乃卜定時日而降之。故二神、改復巡柱、陽神自左、陰神自右、既遇之時、陽神先唱曰「姸哉、可愛少女歟。」陰神、後和之曰「姸哉、可愛少男歟。」然後、同宮共住而生兒、號大日本豐秋津洲。次淡路洲、次伊豫二名洲、次筑紫洲、次億岐三子洲、次佐度洲、次越洲、次吉備子洲。由此謂之大八洲國矣。瑞、此云彌圖。姸哉、此云阿那而惠夜。可愛、此云哀。太占、此云布刀磨爾。

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然後、行覓將婚之處、遂到出雲之淸地焉。淸地、此云素鵝。乃言曰「吾心淸淸之。」此今呼此地曰淸。於彼處建宮。或云「時、武素戔嗚尊歌之曰、夜句茂多兔、伊弩毛夜覇餓岐、兔磨語昧爾、夜覇餓枳都倶盧、贈廼夜覇餓岐廻。」乃相與遘合而生兒大己貴神。因勅之曰「吾兒宮首者、卽脚摩乳・手摩乳也。」故、號於二神曰稻田宮主神。已而素戔嗚尊、遂就於根國矣。

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神代下の中の「賜」について(工事中)

【神代下】9

故、高皇産靈尊、更會諸神既而天照大神、以思兼神妹萬幡豐秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃、令降之於葦原中國。是時、勝速日天忍穗耳尊、立于天浮橋而臨睨之曰「彼地未平矣、不須也頗傾凶目杵之國歟。」乃更還登、具陳不降之狀。故、天照大神、復遣武甕槌神及經津主神、先行駈除。時二神、降到出雲、便問大己貴神曰「汝、將此國、奉天神耶以不。」對曰「吾兒事代主、射鳥遨遊在三津之碕。今當問以報之。」乃遣使人訪焉、對曰「天神所求、何不奉歟。」故、大己貴神、以其子之辭、報乎二神。二神乃昇天、復命而告之曰「葦原中國、皆已平竟。」時天照大神勅曰「若然者、方當降吾兒矣。」且將降間、皇孫已生、號曰天津彥彥火瓊瓊杵尊。時有奏曰「欲以此皇孫代降。」故天照大神、乃賜天津彥彥火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劒、三種寶物。又以中臣上祖天兒屋命・忌部上祖太玉命・猨女上祖天鈿女命・鏡作上祖石凝姥命・玉作上祖玉屋命凡五部神、使配侍焉。因勅皇孫曰「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」 、問當遣者、僉曰「天國玉之子天稚彥、是壯士也。宜試之。」於是、高皇産靈尊、天稚彥天鹿兒弓及天羽羽矢以遣之。此神亦不忠誠也、來到卽娶顯國玉之女子下照姬亦名高姬、亦名稚國玉、因留住之曰「吾亦欲馭葦原中國。」遂不復命。是時、高皇産靈尊、怪其久不來報、乃遣無名雉伺之。其雉飛降、止於天稚彥門前所植植、此云多底婁湯津杜木之杪。杜木、此云可豆邏也。時、天探女天探女、此云阿麻能左愚謎見而謂天稚彥曰「奇鳥來、居杜杪。」天稚彥、乃取高皇産靈尊所天鹿兒弓・天羽羽矢、射雉斃之。其矢、洞達雉胸而至高皇産靈尊之座前也、時高皇産靈尊見其矢曰「是矢、則昔我天稚彥之矢也。血染其矢、蓋與國神相戰而然歟。」於是、取矢還投下之、其矢落下則中天稚彥之胸上。于時、天稚彥、新嘗休臥之時也、中矢立死。此世人所謂反矢可畏之緣也。

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一書曰、天照大神、勅天稚彥曰「豐葦原中國、是吾兒可王之地也。然慮、有殘賊强暴横惡之神者。故汝先往平之。」乃天鹿兒弓及天眞鹿兒矢遣之。天稚彥、受勅來降、則多娶國神女子、經八年無以報命。故、天照大神、乃召思兼神、問其不來之狀。時思兼神、思而告曰「宜且遣雉問之。」於是、從彼神謀、乃使雉往候之。其雉飛下、居于天稚彥門前湯津杜樹之杪而鳴之曰「天稚彥、何故八年之間未有復命。」時有國神、號天探女、見其雉曰「鳴聲惡鳥、在此樹上。可射之。」天稚彥、乃取天神所天鹿兒弓・天眞鹿兒矢、便射之。則矢達雉胸、遂至天神所處。時天神見其矢曰「此昔我天稚彥之矢也。今何故來。」乃取矢而呪之曰「若以惡心射者、則天稚彥必當遭害。若以平心射者、則當無恙。」因還投之、卽其矢落下、中于天稚彥之高胸、因以立死。此世人所謂返矢可畏緣也。

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既而天照大神、以思兼神妹萬幡豐秋津媛命、配正哉吾勝勝速日天忍穗耳尊爲妃、令降之於葦原中國。是時、勝速日天忍穗耳尊、立于天浮橋而臨睨之曰「彼地未平矣、不須也頗傾凶目杵之國歟。」乃更還登、具陳不降之狀。故、天照大神、復遣武甕槌神及經津主神、先行駈除。時二神、降到出雲、便問大己貴神曰「汝、將此國、奉天神耶以不。」對曰「吾兒事代主、射鳥遨遊在三津之碕。今當問以報之。」乃遣使人訪焉、對曰「天神所求、何不奉歟。」故、大己貴神、以其子之辭、報乎二神。二神乃昇天、復命而告之曰「葦原中國、皆已平竟。」時天照大神勅曰「若然者、方當降吾兒矣已而且降之間、先驅者還白「有一神、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。」卽遣從神往問。時有八十萬神、皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰「汝是目勝於人者、宜往問之。」天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帶於臍下、而咲㖸向立。是時、衢神問曰「天鈿女、汝爲之何故耶。」對曰「天照大神之子所幸道路、有如此居之者誰也、敢問之。」衢神對曰「聞天照大神之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彥大神。」時天鈿女復問曰「汝將先我行乎、抑我先汝行乎。」對曰「吾先啓行。」天鈿女復問曰「汝何處到耶。皇孫何處到耶。」對曰「天神之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彥神者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彥神所乞、遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命「汝、宜以所顯神名爲姓氏焉。」因賜猨女君之號。故、猨女君等男女、皆呼爲君、此其緣也。高胸、此云多歌武娜娑歌。頗傾也、此云歌矛志。 。」且將降間、皇孫已生、號曰天津彥彥火瓊瓊杵尊。時有奏曰「欲以此皇孫代降。」故天照大神、乃天津彥彥火瓊瓊杵尊、八坂瓊曲玉及八咫鏡・草薙劒、三種寶物。又以中臣上祖天兒屋命・忌部上祖太玉命・猨女上祖天鈿女命・鏡作上祖石凝姥命・玉作上祖玉屋命凡五部神、使配侍焉。因勅皇孫曰「葦原千五百秋之瑞穗國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣、寶祚之隆、當與天壤無窮者矣。」

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已而且降之間、先驅者還白「有一神、居天八達之衢。其鼻長七咫、背長七尺餘、當言七尋。且口尻明耀、眼如八咫鏡而赩然似赤酸醤也。」卽遣從神往問。時有八十萬神、皆不得目勝相問。故特勅天鈿女曰「汝是目勝於人者、宜往問之。」天鈿女、乃露其胸乳、抑裳帶於臍下、而咲㖸向立。是時、衢神問曰「天鈿女、汝爲之何故耶。」對曰「天照大神之子所幸道路、有如此居之者誰也、敢問之。」衢神對曰「聞天照大神之子今當降行、故奉迎相待。吾名是猨田彥大神。」時天鈿女復問曰「汝將先我行乎、抑我先汝行乎。」對曰「吾先啓行。」天鈿女復問曰「汝何處到耶。皇孫何處到耶。」對曰「天神之子、則當到筑紫日向高千穗槵觸之峯。吾則應到伊勢之狹長田五十鈴川上。」因曰「發顯我者汝也。故汝可以送我而致之矣。」天鈿女、還詣報狀。皇孫、於是、脱離天磐座、排分天八重雲、稜威道別道別、而天降之也。果如先期、皇孫則到筑紫日向高千穗槵觸之峯。其猨田彥神者、則到伊勢之狹長田五十鈴川上。卽天鈿女命、隨猨田彥神所乞、遂以侍送焉。時皇孫勅天鈿女命「汝、宜以所顯神名爲姓氏焉。」因猨女君之號。故、猨女君等男女、皆呼爲君、此其緣也。高胸、此云多歌武娜娑歌。頗傾也、此云歌矛志。

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及至將歸、海神乃召鯛女、探其口者、卽得鉤焉。於是、進此鉤于彥火火出見尊、因奉教之曰「以此與汝兄時、乃可稱曰『大鉤、踉䠙鉤、貧鉤、癡騃鉤。』言訖、則可以後手投。」已而召集鰐魚問之曰「天神之孫、今當還去。儞等幾日之內、將作以奉致。」時諸鰐魚、各隨其長短、定其日數、中有一尋鰐、自言「一日之內、則當致焉。」故卽遣一尋鰐魚、以奉送焉。復進潮滿瓊・潮涸瓊二種寶物、仍教用瓊之法、又教曰「兄作高田者、汝可作洿田。兄作洿田者、汝可作高田。」海神盡誠奉助、如此矣。時彥火火出見尊、已歸來、一遵神教依而行之、其後火酢芹命、日以襤褸而憂之曰「吾已貧矣。」乃歸伏於弟。弟時出潮滿瓊、卽兄舉手溺困。還出潮涸瓊、則休而平復。

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神武紀の中の「賜」について(工事中)

【神武紀】5

其年冬十月丁巳朔辛酉、天皇親帥諸皇子舟師東征。至速吸之門、時有一漁人乘艇而至、天皇招之、因問曰「汝誰也。」對曰「臣是國神、名曰珍彥、釣魚於曲浦。聞天神子來、故卽奉迎。」又問之曰「汝能爲我導耶。」對曰「導之矣。」天皇、勅授漁人椎㰏末、令執而牽納於皇舟、以爲海導者。乃特名、爲椎根津彥椎、此云辭毗、此卽倭直部始祖也。行至筑紫國菟狹。菟狹者地名也、此云宇佐。時有菟狹國造祖、號曰菟狹津彥・菟狹津媛、乃於菟狹川上、造一柱騰宮而奉饗焉。一柱騰宮、此云阿斯毗苔徒鞅餓離能宮。是時、勅以菟狹津媛、妻之於侍臣天種子命。天種子命、是中臣氏之遠祖也。

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秋八月甲午朔乙未、天皇使徵兄猾及弟猾者。猾、此云字介志。是兩人、菟田縣之魁帥者也。魁帥、此云比鄧誤廼伽瀰。時、兄猾不來、弟猾卽詣至、因拜軍門而告之曰「臣兄々猾之爲逆狀也、聞天孫且到、卽起兵將襲。望見皇師之威、懼不敢敵、乃潛伏其兵、權作新宮而殿內施機、欲因請饗以作難。願知此詐、善爲之備。」天皇卽遣道臣命、察其逆狀。時道臣命、審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰「虜、爾所造屋、爾自居之。」爾、此云飫例。因案劒彎弓、逼令催入。兄猾、獲罪於天、事無所辭、乃自蹈機而壓死、時陳其屍而斬之、流血沒踝、故號其地、曰菟田血原。已而弟猾大設牛酒、以勞饗皇師焉。天皇以其酒宍、班軍卒、乃爲御謠之曰、謠、此云宇哆預瀰。

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長髄彥、卽取饒速日命之天羽々矢一隻及步靫、以奉示天皇。天皇覽之曰「事不虛也。」還以所御天羽々矢一隻及步靫、示於長髄彥。長髄彥、見其天表、益懷踧踖、然而凶器已構、其勢不得中休、而猶守迷圖、無復改意。饒速日命、本知天神慇懃唯天孫是與、且見夫長髄彥禀性愎佷、不可教以天人之際、乃殺之、帥其衆而歸順焉。天皇、素聞鐃速日命是自天降者而今果立忠效、則褒而寵之。此物部氏之遠祖也。

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二年春二月甲辰朔乙巳、天皇定功行賞。道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之。亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也。以珍彥爲倭國造。珍彥、此云于砮毗故。又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也。弟磯城、名黑速、爲磯城縣主。復以劒根者、爲葛城國造。又、頭八咫烏亦入賞例、其苗裔卽葛野主殿縣主部是也。

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垂仁紀の中の「賜」について(工事中)

【成務紀】7

二年春二月辛未朔己卯、立狹穗姬爲皇后。后生譽津別命、生而天皇愛之、常在左右、及壯而不言。冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。是歲、任那人蘇那曷叱智請之、欲歸于國。蓋先皇之世來朝未還歟。故敦賞蘇那曷叱智、仍齎赤絹一百匹、任那王。然、新羅人遮之於道而奪焉。其二國之怨、始起於是時也。

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七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、詔群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。

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十一月甲午朔乙未、湯河板舉、獻鵠也。譽津別命、弄是鵠、遂得言語。由是、以敦賞湯河板舉、則姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部。

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卅年春正月己未朔甲子、天皇詔五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇詔之曰「各宜隨情。」則弓矢五十瓊敷命、仍詔大足彥尊曰「汝必繼朕位。」

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天皇、厚賞野見宿禰之功、亦鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。

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卅九年冬十月、五十瓊敷命、居於茅渟菟砥川上宮、作劒一千口。因名其劒、謂川上部、亦名曰裸伴裸伴、此云阿箇播娜我等母、藏于石上神宮也。是後、命五十瓊敷命、俾主石上神宮之神寶。一云、五十瓊敷皇子、居于茅渟菟砥河上、而喚鍛名河上、作大刀一千口。是時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・大刀佩部、幷十箇品部、五十瓊敷皇子。其一千口大刀者、藏于忍坂邑。然後、從忍坂移之、藏于石上神宮。是時、神乞之言「春日臣族名市河、令治。」因以命市河令治、是今物部首之始祖也。

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八十八年秋七月己酉朔戊午、詔群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、詔天日槍之曾孫淸彥而令獻。於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰淸彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂淸彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府。

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成務紀の中の「賜」について(工事中)

【成務紀】1

五年秋九月、令諸國、以國郡立造長、縣邑置稻置、並楯矛以爲表。則隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里。因以東西爲日縱、南北爲日横、山陽曰影面、山陰曰背面。是以、百姓安居、天下無事焉。

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景行紀の中の「賜」について(工事中)

【景行紀】4

爰有女人、曰神夏磯媛、其徒衆甚多、一國之魁帥也。聆天皇之使者至、則拔磯津山之賢木、以上枝挂八握劒、中枝挂八咫鏡、下枝挂八尺瓊、亦素幡樹于船舳、參向而啓之曰「願無下兵。我之屬類、必不有違者、今將歸德矣。唯有殘賊者、一曰鼻垂、妄假名號、山谷響聚、屯結於菟狹川上。二曰耳垂、殘賊貧婪、屢略人民、是居於御木木、此云開川上。三曰麻剥、潛聚徒黨、居於高羽川上。四曰土折猪折、隱住於緑野川上、獨恃山川之險、以多掠人民。是四人也、其所據並要害之地、故各領眷屬、爲一處之長也。皆曰『不從皇命。』願急擊之。勿失。」於是、武諸木等、先誘麻剥之徒。仍赤衣・褌及種々奇物、兼令撝不服之三人。乃率己衆而參來、悉捕誅之。天皇遂幸筑紫、到豐前國長峽縣、興行宮而居、故號其處曰京也。

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於是、示幣欺其二女而納幕下。天皇則通市乾鹿文而陽寵、時市乾鹿文奏于天皇曰「無愁熊襲之不服。妾有良謀、卽令從一二兵於己。」而返家、以多設醇酒令飲己父、乃醉而寐之。市乾鹿文、密斷父弦、爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇、則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文、仍以弟市鹿文於火國造。

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卽美秉燭人之聰而敦賞。則居是宮、以靫部大伴連之遠祖武日也。於是日本武尊曰「蝦夷凶首、咸伏其辜。唯信濃國・越國、頗未從化。」則自甲斐北、轉歷武藏・上野、西逮于碓日坂。時日本武尊、毎有顧弟橘媛之情、故登碓日嶺而東南望之三歎曰「吾嬬者耶嬬、此云菟摩。」故因號山東諸國、曰吾嬬國也。於是、分道、遣吉備武彥於越國、令監察其地形嶮易及人民順不。

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五十三年秋八月丁卯朔、天皇詔群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。

 

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神功紀の中の「賜」について(工事中)

【神功紀】5

卌九年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等共勒兵而度之、至卓淳國、將襲新羅。時或曰「兵衆少之、不可破新羅。更復、奉上沙白・蓋盧、請増軍士。」卽命木羅斤資・沙々奴跪是二人不知其姓人也、但木羅斤資者百濟將也、領精兵、與沙白・蓋盧共遣之、倶集于卓淳、擊新羅而破之、因以平定比自㶱・南加羅・㖨國・安羅・多羅・卓淳・加羅七國。仍移兵西𢌞、至古爰津、屠南蠻忱彌多禮、以百濟。

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五十年春二月、荒田別等還之。夏五月、千熊長彥・久氐等、至自百濟。於是皇太后、歡之問久氐曰「海西諸韓、既汝國。今何事以頻復來也。」久氐等奏曰「天朝鴻澤、遠及弊邑。吾王歡喜踊躍、不任于心、故因還使、以致至誠。雖逮萬世、何年非朝。」皇太后勅云「善哉汝言、是朕懷也。」増多沙城、爲往還路驛。

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卽年、以千熊長彥、副久氐等遣百濟國、因以、垂大恩曰「朕、從神所驗、始開道路、平定海西、以百濟。今復厚結好、永寵賞之。」是時、百濟王父子、並顙致地、啓曰「貴國鴻恩、重於天地、何日何時、敢有忘哉。聖王在上、明如日月、今臣在下、固如山岳、永爲西蕃、終無貳心。」

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五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。

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応神紀の中の「賜」について(工事中)

【応神紀】5

時武內宿禰、獨大悲之、竊避筑紫浮海以從南海𢌞之、泊於紀水門、僅得逮朝、乃辨無罪。天皇則推問武內宿禰與甘美內宿禰、於是二人各堅執而爭之、是非難決。天皇勅之令請神祇探湯、是以、武內宿禰與甘美內宿禰、共出于磯城川湄、爲探湯。武內宿禰勝之、便執横刀、以毆仆甘美內宿禰、遂欲殺矣。天皇勅之令釋、仍紀伊直等之祖也。

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於是、大鷦鷯尊、蒙御歌、便知得髮長媛而大悅之、報歌曰、

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十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵詔之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。

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秋九月辛巳朔丙戌、天皇狩于淡路嶋。是嶋者横海、在難波之西、峯巖紛錯、陵谷相續、芳草薈蔚、長瀾潺湲。亦麋鹿・鳧・鴈、多在其嶋、故乘輿屢遊之。天皇便自淡路轉、以幸吉備、遊于小豆嶋。庚寅、亦移居於葉田葉田、此云簸娜葦守宮、時御友別參赴之、則以其兄弟子孫爲膳夫而奉饗焉。天皇於是、看御友別謹惶侍奉之狀而有悅情、因以割吉備國封其子等也。則分川嶋縣封長子稻速別、是下道臣之始祖也。次以上道縣封中子仲彥、是上道臣・香屋臣之始祖也。次以三野縣封弟彥、是三野臣之始祖也。復以波區藝縣封御友別弟鴨別、是笠臣之始祖也。卽以苑縣封兄浦凝別、是苑臣之始祖也。卽以織部兄媛、是以、其子孫於今在于吉備國、是其緣也。

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卅一年秋八月、詔群卿曰「官船名枯野者、伊豆國所貢之船也、是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘、何其船名勿絶而得傳後葉焉。」群卿便被詔、以令有司取其船材爲薪而燒鹽、於是得五百籠鹽、則施之周諸國、因令造船。是以、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門。

 

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仁徳紀の中の「賜」について(工事中)

【仁徳紀】4

十二年秋七月辛未朔癸酉、高麗國貢鐵盾・鐵的。八月庚子朔己酉、饗高麗客於朝。是日、集群臣及百寮、令射高麗所獻之鐵盾的、諸人不得射通的、唯的臣祖盾人宿禰射鐵的而通焉、時高麗客等見之、畏其射之勝工、共起以拜朝。明日、美盾人宿禰而名曰的戸田宿禰、同日、小泊瀬造祖宿禰臣名曰賢遺臣。賢遺、此云左舸能莒里。冬十月、掘大溝於山背栗隈縣、以潤田、是以、其百姓毎年豐之。

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卽日、以玖賀媛速待。明日之夕、速待詣于玖賀媛之家、而玖賀媛不和、乃强近帷內。時玖賀媛曰「妾之寡婦以終年、何能爲君之妻乎。」於是天皇、欲遂速待之志、以玖賀媛、副速待、送遣於桑田、則玖賀媛、發病死于道中、故於今有玖賀媛之墓也。

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是歲、當新嘗之月、以宴會日、酒於內外命婦等。於是、近江山君稚守山妻與采女磐坂媛、二女之手有纏良珠。皇后見其珠、既似雌鳥皇女之珠、則疑之、命有司推問其玉所得之由。對言「佐伯直阿俄能胡妻之玉也。」仍推鞫阿俄能胡、對曰「誅皇女之日、探而取之。」卽將殺阿俄能胡。於是阿俄能胡、乃獻己之私地、請贖死。故納其地赦死罪、是以、號其地曰玉代。

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履中紀の中の「賜」について(工事中)

【履中紀】1

仲皇子、思太子巳逃亡而無備。時有近習隼人、曰刺領巾。瑞齒別皇子、陰喚刺領巾而誂之曰「爲我殺皇子、吾必敦報汝。」乃脱錦衣褌、與之。刺領巾、恃其誂言、獨執矛、以伺仲皇子入厠而刺殺、卽隸于瑞齒別皇子。於是木菟宿禰、啓於瑞齒別皇子曰「刺領巾、爲人殺己君。其爲我雖有大功、於己君無慈之甚矣。豈得生乎。」乃殺刺領巾。卽日向倭也、夜半臻於石上而復命。於是、喚弟王以敦寵、仍村合屯倉。是日、捉阿曇連濱子。

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允恭紀の中の「賜」について(工事中)

【允恭紀】

天皇聞之、喚玉田宿禰。玉田宿禰疑之、甲服襖中而參赴、甲端自衣中出之。天皇分明欲知其狀、乃令小墾田采女酒于玉田宿禰、爰采女分明瞻衣中有鎧而具奏于天皇。天皇設兵將殺、玉田宿禰乃密逃出而匿家。天皇更發卒、圍玉田家而捕之乃誅。冬十有一月甲戌朔甲申、葬瑞齒別天皇于耳原陵。

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時烏賊津使主對言「臣既被天皇命、必召率來矣。若不將來、必罪之。故、返被極刑、寧伏庭而死耳。」仍經七日伏於庭中、與飲食而不湌、密食懷中之糒。於是弟姬以爲、妾因皇后之嫉、既拒天皇命、且亡君之忠臣、是亦妾罪。則從烏賊津使主而來之。到倭春日、食于檪井上、弟姬親賜酒于使主、慰其意。使主、卽日至京、留弟姬於倭直吾子籠之家、復命天皇。天皇大歡之、美烏賊津使主而敦寵焉。

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雄略紀の「賜」について(工事中)

【雄略紀】21

夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願君婦而後奉遺。」

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於是、名小野曰道小野。三月辛巳朔丁亥、天皇、欲使后妃親桑以勸蠶事、爰命蜾蠃蜾蠃、人名也、此云須我屢聚國內蠶。於是蜾蠃、誤聚嬰兒奉獻天皇、天皇大咲、嬰兒於九年春二月甲子朔、遣凡河內直香賜與采女、祠胸方神。香賜、既至壇所香賜、此云舸拕夫及將行事、姧其采女。天皇聞之曰「詞神祈福、可不愼歟。」乃遣難波日鷹吉士將誅之、時香賜退逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗、普求國郡縣、遂於三嶋郡藍原、執而斬焉。 蜾蠃曰「汝宜自養。」蜾蠃卽養嬰兒於宮墻下、仍姓爲少子部連。夏四月、吳國遣使貢獻也。

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七年秋七月甲戌朔丙子、天皇詔少子部連蜾蠃曰「朕、欲見三諸岳神之形。或云「此山之神爲大物主神也。」或云「菟田墨坂神也。」汝、膂力過人、自行捉來。」蜾蠃答曰「試往捉之。」乃登三諸岳、捉取大蛇、奉示天皇。天皇不齋戒、其雷虺々、目精赫々。天皇畏、蔽目不見、却入殿中、使放於岳、仍改名爲雷。

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九年春二月甲子朔、遣凡河內直香與采女、祠胸方神。香、既至壇所香、此云舸拕夫及將行事、姧其采女。天皇聞之曰「詞神祈福、可不愼歟。」乃遣難波日鷹吉士將誅之、時香退逃亡不在。天皇復遣弓削連豐穗、普求國郡縣、遂於三嶋郡藍原、執而斬焉。

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於是、紀小弓宿禰、使大伴室屋大連憂陳於天皇曰「臣、雖拙弱、敬奉勅矣。但今、臣婦命過之際、莫能視養臣者。公、冀將此事具陳天皇。」於是、大伴室屋大連具爲陳之、天皇聞悲頽歎、以吉備上道采女大海、於紀小弓宿禰、爲隨身視養。遂推轂以遣焉、紀小弓宿禰等、卽入新羅、行屠傍郡。行屠、並行並擊。新羅王、夜聞官軍四面鼓聲、知盡得喙地、與數百騎亂走。是以、大敗。

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目大連、聞而奏之、天皇使齒田根命資財露置於餌香市邊橘本之土、遂以餌香長野邑物部目大連。秋八月、播磨國御井隈人、文石小麻呂、有力强心肆行暴虐、路中抄劫不使通行、又斷商客艖䑧悉以奪取、兼違國法不輸租賦。於是天皇、遣春日小野臣大樹、領敢死士一百並持火炬、圍宅而燒。時、自火炎中、白狗暴出、逐大樹臣、其大如馬。大樹臣、神色不變、拔刀斬之、卽化爲文石小麻呂。

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天皇聞驚大怒、深責根使主、根使主對言「死罪々々、實臣之愆。」詔曰「根使主、自今以後、子々孫々八十聯綿、莫預群臣之例。」乃將欲斬之、根使主逃匿、至於日根造稻城而待戰、遂爲官軍見殺。天皇命有司、二分子孫、一分爲大草香部民以封皇后、一分茅渟縣主爲負嚢者。卽求難波吉士日香々子孫姓爲大草香部吉士、其日香々等語在穴穗天皇紀。事平之後、小根使主小根使主、根使主子也夜臥謂人曰「天皇城不堅、我父城堅。」天皇傳聞是語、使人見根使主宅、實如其言、故收殺之。根使主之後爲坂本臣、自是始焉。

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十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。天皇愛寵之、詔聚秦民、於秦酒公。公、仍領率百八十種勝、奉獻庸調絹縑、充積朝庭、因姓曰禹豆麻佐。一云「禹豆母利麻佐」皆盈積之貌也。

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十六年秋七月詔、宜桑國縣殖桑、又散遷秦民、使獻庸調。冬十月詔、聚漢部、定其伴造者、姓曰直。一云「漢使主等、姓曰直。」

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由是、菟代宿禰、羞愧不克、七日不服命。天皇問侍臣曰「菟代宿禰、何不服命。」爰有讚岐田蟲別、進而奏曰「菟代宿禰怯也、二日一夜之間、不能擒執朝日郎。而物部目連、率筑紫聞物部大斧手、獲斬朝日郎矣。」天皇聞之怒、輙奪菟代宿禰所有猪名部、物部目連。

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廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。

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廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。秋七月辛丑朔、天皇寢疾不預、詔、賞罰支度、事無巨細並付皇太子。

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2022年1月29日 (土)

雄略紀の中の「賜」について(工事中)

【雄略紀】21

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顕宗紀の中の「賜」について(工事中)

【顕宗紀】6

築立稚室葛根、築立柱者、此家長御心之鎭也。取舉棟梁者、此家長御心之林也。取置椽橑者、此家長御心之齊也。取置蘆萑者、此家長御心之平也。蘆萑、此云哀都利。萑音之潤反。取結繩葛者、此家長御壽之堅也。取葺草葉者、此家長御富之餘也。出雲者新墾、新墾之十握稻、於淺甕釀酒、美飲喫哉。美飲喫哉、此云于魔羅儞烏野羅甫屢柯倭。吾子等。子者、男子之通稱也。脚日木此傍山、牡鹿之角牡鹿、此云左鳥子加。舉而吾儛者、旨酒餌香市不以直買、手掌憀亮手掌憀亮、此云陀那則舉謀耶羅々儞。拍上、吾常世等。

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臨穴哀號、言深更慟、自古以來、莫如斯酷。仲子之尸、交横御骨、莫能別者、爰有磐坂皇子之乳母、奏曰「仲子者上齒墮落、以斯可別。」於是、雖由乳母相別髑髏、而竟難別四支諸骨。由是、仍於蚊屋野中、造起雙陵、相似如一、葬儀無異。詔老嫗置目、居于宮傍近處、優崇䘏、使無乏少。是月、詔曰「老嫗、伶俜羸弱、不便行步、宜張繩引絚扶而出入。繩端懸鐸、無勞謁者、入則鳴之、朕知汝到。」於是、老嫗奉詔、嗚鐸而進、天皇遙聞鐸聲、歌曰、

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三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃拜山官、改姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。

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五月、狹々城山君韓帒宿禰、事連謀殺皇子押磐、臨誅叩頭、言詞極哀。天皇、不忍加戮、充陵戸兼守山、削除籍帳、隸山部連。惟倭帒宿禰、因妹置目之功、仍本姓狹々城山君氏。六月、幸避暑殿、奏樂、會群臣、設以酒食。是年也、太歲乙丑。

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九月、置目老困、乞還曰「氣力衰邁、老耄虛羸、要假扶繩、不能進步。願歸桑梓、以送厥終。」天皇聞帵痛、物千段、逆傷岐路、重感難期、乃歌曰、

 

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清寧紀の中の「賜」について(工事中)

【清寧紀】5

是時、吉備稚媛・磐城皇子異父兄々君・城丘前來目闕名、隨星川皇子而被燔殺焉。惟河內三野縣主小根、慓然振怖、避火逃出、抱草香部吉士漢彥脚、因使祈生於大伴室屋大連曰「奴縣主小根、事星川皇子者、信。而無有背於皇太子。乞、降洪恩、救他命。」漢彥、乃具爲啓於大伴大連、不入刑類。小根、仍使漢彥啓於大連曰「大伴大連、我君、降大慈愍、促短之命、既續延長、獲觀日色。」輙以難波來目邑大井戸・田十町送於大連、又以田地與于漢彥、以報其恩。

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二年春二月、天皇、恨無子、乃遣大伴室屋大連於諸國、置白髮部舍人・白髮部膳夫・白髮部靫負、冀垂遺跡令觀於後。冬十一月、依大嘗供奉之料、遣於播磨國司、山部連先祖伊豫來目部小楯、於赤石郡縮見屯倉首忍海部造細目新室、見市邊押磐皇子々億計・弘計、畏敬兼抱、思奉爲君、奉養甚謹、以私供給、便起柴宮、權奉安置。乘騨馳奏、天皇愕然驚歎、良以愴懷曰「懿哉悅哉、天垂博愛、以兩兒。」是月、使小楯持節、將左右舍人、至赤石奉迎、語在弘計天皇紀。

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秋七月、飯豐皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」此曰有夫、未詳也。九月壬子朔癸丑、遣臣連、巡省風俗。冬十月壬午朔乙酉、詔「犬・馬・器翫、不得獻上。」十一月辛亥朔戊辰、宴臣連於大庭、綿帛、皆任其自取、盡力而出。是月、海表諸蕃、並遣使進調。

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四年春正月庚戌朔丙辰、宴海表諸蕃使者於朝堂、物各有差。夏閏五月、大餔五日。秋八月丁未朔癸丑、天皇、親錄囚徒。是日、蝦夷・隼人並內附。九月丙子朔、天皇、御射殿、詔百寮及海表使者射、物各有差。

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継体紀の中の「賜」について(工事中)

【継体紀】18

六年夏四月辛酉朔丙寅、遣穗積臣押山、使於百濟。仍筑紫國馬卌匹。冬十二月、百濟遣使貢調、別表請任那國上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁、四縣。哆唎國守穗積臣押山奏曰「此四縣、近連百濟、遠隔日本、旦暮易通、鶏犬難別。今百濟合爲同國、固存之策、無以過此。然縱合國、後世猶危、況爲異場、幾年能守。」大伴大連金村、具得是言、同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛宣勅使。

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物部大連、方欲發向難波館、宣勅於百濟客、其妻固要曰「夫住吉大神、初以海表金銀之國高麗・百濟・新羅・任那等、授記胎中譽田天皇。故、大后息長足姬尊與大臣武內宿禰、毎國初置官家爲海表之蕃屏、其來尚矣。抑有由焉、縱削他、違本區域。綿世之刺、詎離於口。」大連、報曰「教示合理、恐背天勅。」其妻切諫云「稱疾、莫宣。」大連依諫。

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由是、改使而宣勅、付物、幷制旨、依表任那四縣。大兄皇子、前有緣事、不關國、晩知宣勅、驚悔欲改、令曰「自胎中之帝置官家之國、輕隨蕃乞、輙爾乎。」乃遣日鷹吉士、改宣百濟客。使者答啓「父天皇、圖計便宜、勅既畢。子皇子、豈違帝勅、妄改而令、必是虛也。縱是實者、持杖大頭打孰與持杖小頭打、痛乎。」遂罷。於是、或有流言曰「大伴大連與哆唎國守穗積臣押山、受百濟之賂矣。」

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冬十一月辛亥朔乙卯、於朝庭、引列百濟姐彌文貴將軍・斯羅汶得至・安羅辛已奚及賁巴委佐・伴跛既殿奚及竹汶至等、奉宣恩勅、以己汶・帶沙百濟國。是月、伴跛國、遣戢支獻珍寶、乞己汶之地、而終不

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別遣錄史、果扶余。由是、加羅、結儻新羅、生怨日本。加羅王、娶新羅王女、遂有兒息。新羅、初送女時、幷遣百人爲女從、受而散置諸懸令着新羅衣冠。阿利斯等、嗔其變服、遣使徵還。新羅、大羞、翻欲還女曰「前承汝聘、吾便許婚。今既若斯、請、還王女。」加羅己富利知伽未詳報云「配合夫婦、安得更離。亦有息兒、棄之何往。」遂於所經、拔刀伽・古跛・布那牟羅三城、亦拔北境五城。

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夏四月壬午朔戊子、任那王己能末多干岐、來朝言己能末多者、蓋阿利斯等也、啓大伴大連金村曰「夫海表諸蕃、自胎中天皇置內官家、不棄本土、因封其地、良有以也。今新羅、違元所封限、數越境以來侵。請、奏天皇、救助臣國。」大伴大連、依乞奏聞。

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八年春正月、太子妃春日皇女、晨朝晏出、有異於常。太子意疑、入殿而見、妃臥床涕泣、惋痛不能自勝。太子怪問曰「今旦涕泣、有何恨乎。」妃曰、「非餘事也。唯妾所悲者、飛天之鳥、爲愛養兒樹巓作樔、其愛深矣。伏地之蟲、爲護衞子土中作窟、其護厚焉。乃至於人、豈得无慮。無嗣之恨、方鍾太子、妾名隨絶。」於是、太子感痛而奏天皇、詔曰「朕子麻呂古、汝妃之詞深稱於理。安得空爾無答慰乎。宜匝布屯倉表妃名於萬代。

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十年夏五月、百濟遣前部木刕不麻甲背、迎勞物部連等於己汶而引導入國。群臣各出衣裳・斧鐵・帛布、助加國物、積置朝庭。慰問慇懃、賞祿優節。秋九月、百濟遺州利卽次將軍、副物部連來、謝己汶之地、別貢五經博士漢高安茂、請代博士段楊爾。依請代之。戊寅、百濟遺灼莫古將軍・日本斯那奴阿比多、副高麗使安定等、來朝結好。」

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是月、遣物部伊勢連父根・吉士老等、以津百濟王。於是、加羅王謂勅使云「此津、從置官家以來、爲臣朝貢津渉。安得輙改隣國。違元所封限地。」勅使父根等、因斯、難以面、却還大嶋。

 

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安閑紀の中の「賜」について(工事中)

【安閑紀】1

冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」詔曰「可矣。宜早安置。」大伴大連金村奏稱「宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛、以櫻井屯倉一本云「加貺茅渟山屯倉也。」與毎國田部給香々有媛、以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛。以示於後、式觀乎昔。」詔曰「依奏施行。」

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欽明紀の中の「賜」について(工事中)

【欽明紀】12

九月乙亥朔己卯、幸難波祝津宮、大伴大連金村・許勢臣稻持・物部大連尾輿等從焉。天皇問諸臣曰「幾許軍卒、伐得新羅。」物部大連尾輿等奏曰「少許軍卒、不可易征。曩者、男大迹天皇六年、百濟遣使表請任那上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁四縣、大伴大連金村輙依表請許所求。由是、新羅怨曠積年、不可輕爾而伐。」

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七年春正月甲辰朔丙午、百濟使人中部奈率己連等罷歸、仍以良馬七十匹・船一十隻。夏六月壬申朔癸未、百濟遣中部奈率掠葉禮等、獻調。

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十一年春二月辛巳朔庚寅、遣使詔于百濟百濟本記云「三月十二日辛酉、日本使人阿比多、率三舟來至都下。」曰「朕、依施德久貴・固德馬進文等所上表意、一々教示如視掌中、思欲具情、冀將盡抱。大市頭歸後如常無異、今但欲審報辭、故遣使之。又復朕聞、奈率馬武是王之股肱臣也、納上傳下、甚協王心而爲王佐。若欲國家無事・長作官家・永奉天皇、宜以馬武爲大使遣朝而已。」重詔曰「朕聞、北敵强暴。故矢卅具。庶防一處。」

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十二年春三月、以麥種一千斛百濟王。是歲、百濟聖明王、親率衆及二國兵二國、謂新羅・任那也往伐高麗、獲漢城之地。又、進軍討平壤、凡六郡之地遂復故地。

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六月、遣內臣闕名使於百濟、仍良馬二匹・同船二隻・弓五十張・箭五十具。勅云「所請軍者、隨王所須。」別勅「醫博士・易博士・曆博士等、宜依番上下。今上件色人、正當相代年月、宜付還使相代。又卜書・曆本・種々藥物、可付送。」秋七月辛酉朔甲子、幸樟勾宮。蘇我大臣稻目宿禰、奉勅遣王辰爾、數錄船賦。卽以王辰爾爲船長、因姓爲船史。今船連之先也。

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十五年春正月戊子朔甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊、爲皇太子。丙申、百濟遣中部木刕施德文次・前部施德曰佐分屋等於筑紫、諮內臣・佐伯連等曰「德率次酒・杆率塞敦等、以去年閏月四日到來云、臣等臣等者謂內臣也以來年正月到。如此噵而未審、來不也、又軍數幾何。願聞若干、預治營壁。」別諮「方聞、奉可畏天皇之詔、來詣筑紫、看送軍。聞之歡喜、無能比者。此年之役甚危於前、願遣軍使逮正月。」於是、內臣奉勅而答報曰「卽令遣助軍數一千・馬一百匹・船卌隻。」

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十六年春二月、百濟王子餘昌、遣王子惠王子惠者、威德王之弟也奏曰「聖明王、爲賊見殺。」十五年、爲新羅所殺、故今奏之。天皇聞而傷恨、廼遣使者迎津慰問。於是、許勢臣問王子惠曰「爲當欲留此間、爲當欲向本鄕。」惠答曰「依憑天皇之德、冀報考王之讎。若垂哀憐多兵革、雪垢復讎臣之願也。臣之去留、敢不唯命是從。」

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十七年春正月、百濟王子惠、請罷。仍兵仗良馬甚多、亦頻賞祿、衆所欽歎。於是、遣阿倍臣・佐伯連・播磨直、率筑紫國舟師、衞送達國。別遣筑紫火君百濟本記云「筑紫君兒、火中君弟。」率勇士一千衞送彌弖彌弖、津名。因令守津路要害之地焉。

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廿一年秋九月、新羅遣彌至己知奈末、獻調賦。饗邁常、奈末喜歡而罷曰「調賦使者、國家之所貴重而私議之所輕賤。行李者、百姓之所懸命而選用之所卑下。王政之弊、未必不由此也。請差良家子爲使者、不可以卑賤爲使。」

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卅年春正月辛卯朔、詔曰「量置田部、其來尚矣。年甫十餘、脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者、王辰爾之甥也檢定白猪田部丁籍。」夏四月、膽津、檢閲白猪田部丁者依詔定籍、果成田戸。天皇、嘉膽津定籍之功、姓爲白猪史、尋拜田令爲瑞子之副。瑞子、見上。

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敏達紀の中の「賜」について(工事中)

【敏達紀】5

六月、高麗大使、謂副使等曰「磯城嶋天皇時、汝等違吾所議、被欺於他、妄分國調、輙與微者。豈非汝等過歟。其若我國王聞、必誅汝等。」副使等自相謂之曰「若吾等至國時、大使顯噵吾過、是下祥事也。思欲偸殺而斷其口。」是夕、謀泄。大使知之、裝束衣帶獨自潛行、立館中庭、不知所計。時有賊一人、以杖出來、打大使頭而退。次有賊一人、直向大使、打頭與手而退。大使、尚嘿然立地而拭面血。更有賊一人、執刀急來、刺大使腹而退。是時、大使恐伏地拜。後有賊一人、既殺而去。明旦、領客東漢坂上直子麻呂等、推問其由。副使等乃作矯詐曰「天皇妻於大使、大使違勅不受、無禮茲甚。是以、臣等爲天皇殺焉。」有司、以禮收葬。秋七月、高麗使人罷歸。是年也、太歲壬辰。

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冬十月戊子朔丙申、遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部。卽以田部名籍、授于白猪史膽津。戊戌、詔船史王辰爾弟牛、姓爲津史。十一月、新羅遣使進調。

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又奏言「百濟人謀言、有船三百、欲請筑紫。若其實請、宜陽予。然則百濟、欲新造國必先以女人・小子載船而至。國家望於此時、壹伎・對馬多置伏兵、候至而殺。莫翻被詐、毎於要害之所堅築壘塞矣。」

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於是、恩率・參官臨罷國時舊本、以恩率爲一人以參官爲一人也竊語德爾等、言「計吾過筑紫許、汝等偸殺日羅者、吾具白王當高爵身及妻子垂榮於後。

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由是、下獄、復命於朝庭。乃遣使於葦北、悉召日羅眷屬、德爾等任情決罪。是時、葦北君等、受而皆殺、投彌賣嶋。彌賣嶋、蓋姬嶋也。以日羅、移葬於葦北。於後、海畔者言「恩率之船、被風沒海。參官之船、漂泊津嶋、乃始得歸。」

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崇峻紀の中の「賜」について(工事中)

【崇峻紀】1

爰有迹見首赤檮、射墮大連於枝下而誅大連幷其子等。由是、大連之軍忽然自敗、合軍悉被皁衣、馳獵廣瀬勾原而散之。是役、大連兒息與眷屬、或有逃匿葦原改姓換名者、或有逃亡不知所向者。時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」平亂之後、於攝津國造四天王寺。分大連奴半與宅、爲大寺奴田庄。以田一萬頃、迹見首赤檮。蘇我大臣、亦依本願、於飛鳥地起法興寺。

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推古紀の中の「賜」について(工事中)

【推古紀】3

十二年春正月戊戌朔、始冠位於諸臣、各有差。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子親肇作憲法十七條。
一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。
二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也、則四生之終歸萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡、能教從之。其不歸三寶、何以直枉。

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五月甲寅朔戊午、勅鞍作鳥曰「朕、欲興隆內典、方將建佛刹、肇求舍利。時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於國無僧尼。於是、汝父多須那、爲橘豐日天皇、出家恭敬佛法。又汝姨嶋女、初出家、爲諸尼導者、以修行釋教。今朕爲造丈六佛、以求好佛像、汝之所獻佛本則合朕心。又造佛像既訖、不得入堂、諸工人不能計、以將破堂戸、然汝不破戸而得入、此皆汝之功也。」則大仁位。因以給近江國坂田郡水田廿町焉。鳥、以此田爲天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺。

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是日、命額田部連比羅夫爲迎新羅客莊馬之長、以膳臣大伴爲迎任那客莊馬之長、卽安置阿斗河邊館。丁酉、客等拜朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟爲新羅導者、以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠爲任那導者、共引以自南門入之、立于庭中。時、大伴咋連・蘇我豐浦蝦兩臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是、兩國客等各再拜、以奏使旨。乃四大夫、起進啓於大臣、時大臣自位起、立廳前而聽焉。既而祿諸客、各有差。乙巳、饗使人等於朝、以河內漢直贄爲新羅共食者、錦織首久僧爲任那共食者。辛亥、客等禮畢、以歸焉。

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舒明紀の中の「賜」について(工事中)

【舒明紀】2

四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐國使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝、迎之。」時、高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘以迎之、歡愧也。」於是、令難波吉士小槻・大河內直矢伏爲導者、到干館前。乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館。卽日、給神酒。

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十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。五月丁酉朔辛丑、大設齋、因以請惠隱僧令說無量壽經。冬十月乙丑朔乙亥、大唐學問僧淸安・學生高向漢人玄理、傳新羅而至之、仍百濟・新羅朝貢之使共從來之、則各爵一級。是月、徙於百濟宮。

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皇極紀の中の「賜」について(工事中)

【皇極紀】8

三月丙辰朔戊午、無雲而雨。辛酉、新羅遣賀騰極使與弔喪使。庚午、新羅使人罷歸。是月、霖雨。夏四月丙戌朔癸巳、太使翹岐、將其從者拜朝。乙未、蘇我大臣、於畝傍家、喚百濟翹岐等。親對語話。仍良馬一匹・鐵廿鋌。唯不喚塞上。是月、霖雨。

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八月甲申朔、天皇幸南淵河上、跪拜四方、仰天而祈。卽雷大雨。遂雨五日、溥潤天下。或本云、五日連雨、九穀登熟。於是、天下百姓、倶稱萬歲曰、至德天皇。己丑、百濟使參官等罷歸。仍大舶與同船三艘。同船、母慮紀舟。是日夜半、雷鳴於西南角、而風雨。參官等所乘船舶、觸岸而破。丙申、以小德授百濟質達率長福。中客以下、授位一級。物各有差。戊戌、以船百濟參官等發遣。己亥、高麗使人罷歸。己酉、百濟・新羅使人罷歸。

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八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。九月丁丑朔壬午、葬息長足日廣額天皇于押坂陵。或本云、呼廣額天皇、爲高市天皇也。丁亥、吉備嶋皇祖母命薨。癸巳、詔土師娑婆連猪手、視皇祖母命喪。天皇、自皇祖母命臥病、及至發喪、不避床側、視養無倦。乙未、葬皇祖母命于檀弓岡。是日、大雨而雹。丙午、罷造皇祖母命墓役。仍臣連伴造帛布、各有差。是月、茨田池水漸々變成白色。亦無臭氣。

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冬十月丁未朔己酉、饗群臣伴造於朝堂庭、而議授位之事。遂詔國司。如前所勅、更無改換、宜之厥任、愼爾所治。壬子、蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。復呼其弟、曰物部大臣。大臣之祖母、物部弓削大連之妹。故因母財、取威於世。戊午、蘇我臣入鹿、獨謀、將廢上宮王等、而立古人大兄爲天皇。于時、有童謠曰、

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有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣國押曰、速可向山求捉彼王。國押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。

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是日、雨下潦水溢庭、以席障子覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。卽入臥內、杜門不出。中大兄、卽入法興寺爲城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造國造、悉皆隨侍。使人鞍作臣屍於大臣蝦夷。

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孝徳紀の中の「賜」について(工事中)

【孝徳紀】13

由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德字馬飼。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故、進退廢置計從事立、云々。以沙門旻法師・高向史玄理、爲國博士。辛亥、以金策、阿倍倉梯麻呂大臣與蘇我山田石川麻呂大臣。或本云、練金。乙卯、天皇・皇祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰。告天神地祇曰「天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。皇天假手於我、誅殄暴逆。今共瀝心血。而自今以後、君無二政、臣無貳朝。若貳此盟、天災地妖、鬼誅人伐。皎如日月也。」改天豐財重日足姬天皇四年、爲大化元年。

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大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后。立二妃。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛、生有間皇子。次妃、蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘。丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平緣福、遇病留津館而不入於京。巨勢德太臣、詔於高麗使曰、明神御宇日本天皇詔旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。又詔於百濟使曰、明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百濟國爲內官家、譬如三絞之綱。中間以任那國、屬百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那國堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題國與所出調。汝佐平等、不易面來。早須明報。今重遣三輪君東人・馬飼造闕名。又勅、可送遣鬼部率意斯妻子等。

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八月丙申朔庚子、拜東國等國司。仍詔國司等曰、隨天神之所奉寄、方今始將修萬國。凡國家所有公民大小所領人衆、汝等之任、皆作戸籍及校田畝。其薗池水陸之利、與百姓倶。又國司等、在國不得判罪、不得取他貨賂令致民於貧苦。上京之時、不得多從百姓於己、唯得使從國造・郡領。但以公事往來之時、得騎部內之馬、得飡部內之飯。介以上、奉法必須褒賞、違法當降爵位。判官以下、取他貨賂、二倍徵之、遂以輕重科罪。其長官從者九人、次官從者七人、主典從者五人。若違限外將者、主與所從之人、並當科罪。若有求名之人、元非國造・伴造・縣稻置而輙詐訴言、自我祖時領此官家治是郡縣、汝等國司不得隨詐便牒於朝、審得實狀而後可申。又於閑曠之所、起造兵庫收聚國郡刀甲弓矢。邊國近與蝦夷接境處者、可盡數集其兵。而猶假授本主。其於倭國六縣被遣使者、宜造戸籍、幷校田畝。謂檢覈墾田頃畝及民戸口年紀。汝等國司、可明聽退。卽帛布、各有差。

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二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。仍食封大夫以上、各有差。降以布帛官人百姓、有差。

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以此觀之、紀麻利耆拕臣・巨勢德禰臣・穗積咋臣、汝等三人之所怠拙也。念斯違詔、豈不勞情。夫爲君臣以牧民者、自率而正、孰敢不直。若君或臣不正心者、當受其罪。追悔何及。是以、凡諸國司、隨過輕重考而罰之。又諸國造、違詔、送財於己國司、遂倶求利、恆懷穢惡。不可不治。念雖若是、始處新宮、將幣諸神、屬乎今歲。又於農月不合使民、緣造新宮固不獲已。深感二途、大赦天下。自今以後、國司郡司、勉之勗之、勿爲放逸。宜遣使者、諸國流人及獄中囚、一皆放捨。別鹽屋鯯魚鯯魚、此云舉能之慮・神社福草・朝倉君・椀子連・三河大伴直・蘆尾直四人並闕名、此六人、奉順天皇。朕深讚美厥心。宜罷官司處々屯田及吉備嶋皇祖母處々貸稻、以其屯田班群臣及伴造等。又於脱籍寺、入田與山。

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夏四月丁巳朔壬午、詔曰。惟神惟神者、謂隨神道。亦謂自有神道也、我子應治故寄。是以、與天地之初、君臨之國也。自始治國皇祖之時、天下大同、都無彼此者也。既而頃者、始於神名・天皇名々、或別爲臣連之氏、或別爲造等之色。由是、率土民心、固執彼此、深生我汝、各守名々。又拙弱臣連伴造國造、以彼爲姓神名王名、逐自心之所歸、妄付前々處々前々、猶謂人々也。。爰以神名王名、爲人賂物之故、入他奴婢穢汚淸名、遂卽民心不整、國政難治。是故、今者、隨在天神屬可治平之運、使悟斯等而將治國治民。是先是後、今日明日、次而續詔。然素頼天皇聖化而習舊俗之民、未詔之間、必當難待。故、始於皇子群臣及諸百姓、將庸調。

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皇太子、慨然頽歎、褒美曰、善矣悲矣。乃授御琴而使唱。絹四匹・布廿端・綿二褁。

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仍禁放鷹於穴戸堺、公卿大夫以下至于令史、各有差。於是、褒美國司草壁連醜經、授大山、幷大給祿、復穴戸三年調役。

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冬十月、爲入宮地所壞丘墓及被遷人者、物各有差。卽遣將作大匠荒田井直比羅夫、立宮堺標。是月、始造丈六繡像・侠侍・八部等卌六像。是歲、漢山口直大口、奉詔、刻千佛像。遣倭漢直縣・白髮部連鐙・難波吉士胡床、於安藝國、使造百濟舶二隻。

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夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向。秋七月甲戌朔丁酉、西海使吉士長丹等、共百濟・新羅送使、泊于筑紫。是月、褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物、授小山上大使吉士長丹以少花下、封二百戸、姓爲吳氏。授小乙上副使吉士駒以小山上。

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【斉明紀】5

秋七月辛巳朔甲申、蝦夷二百餘詣闕朝獻、饗贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階、渟代郡大領沙尼具那小乙下或所云授位二階使檢戸口、少領宇婆左建武、勇健者二人位一階、別沙尼具那等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上、少領靑蒜小乙下、勇健者二人位一階、別馬武等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授都岐沙羅柵造闕名位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那、檢覈蝦夷戸口與虜戸口。

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五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。三月戊寅朔、天皇幸吉野而肆宴焉。庚辰、天皇幸近江之平浦平、此云毗羅。丁亥、吐火羅人共妻舍衞婦人來。甲午、甘檮丘東之川上、造須彌山而饗陸奧與越蝦夷。檮此云柯之、川上此云箇播羅。是月、遣阿倍臣闕名率船師一百八十艘討蝦夷國。阿倍臣簡集飽田・渟代二郡蝦夷二百卌一人・其虜卅一人・津輕郡蝦夷一百十二人・其虜四人・膽振鉏蝦夷廿人、於一所而大饗祿。膽振鉏、此云伊浮梨娑陛。卽以船一隻與五色綵帛、祭彼地神。至肉入籠時、問菟蝦夷膽鹿嶋・菟穗名二人進曰、可以後方羊蹄爲政所焉。肉入籠此云之々梨姑、問菟此云塗毗宇、菟穗名此云宇保那、後方羊蹄此云斯梨蔽之。政所、蓋蝦夷郡乎。隨膽鹿嶋等語、遂置郡領而歸。授道奧與越國司位各二階、郡領與主政各一階。或本云、阿倍引田臣比羅夫、與肅愼戰而歸、獻虜卌九人。

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秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。又覩貨羅人乾豆波斯達阿、欲歸本土求請送使曰、願後朝於大國、所以留妻爲表。乃與數十人入于西海之路。高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪國柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣國而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本國。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・國辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日勞、廿四日發自東京。」

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【天智紀】21

元年春正月辛卯朔丁巳、百濟佐平鬼室福信矢十萬隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千端・韋一千張・稻種三千斛。三月庚寅朔癸巳、百濟王布三百端。是月、唐人・新羅人伐高麗、高麗乞救國家、仍遣軍將據䟽留城。由是、唐人不得略其南堺・新羅不獲輸其西壘。夏四月鼠産於馬尾、釋道顯占曰、北國之人將附南國、蓋高麗破而屬日本乎。

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五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。

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三年春二月己卯朔丁亥、天皇命大皇弟、宣増換冠位階名及氏上・民部・家部等事。其冠有廿六階。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、是爲廿六階焉。改前花曰錦、從錦至乙加十階。又加換前初位一階、爲大建・小建二階。以此爲異、餘並依前。 其大氏之氏上、大刀。小氏之氏上、小刀。其伴造等之氏上、干楯・弓矢。亦定其民部・家部。

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冬十月乙亥朔、宣發遣郭務悰等勅。是日、中臣內臣、遣沙門智祥物於郭務悰。戊寅、饗郭務悰等。是月、高麗大臣蓋金、終於其國、遣言於兒等曰「汝等兄弟、和如魚水勿爭爵位。若不如是必爲隣咲。」

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秋八月、遣達率答㶱春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。九月庚午朔壬辰、唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德高等。等謂、右戎衞郎將上柱國百濟禰軍・朝散大夫柱國郭務悰、凡二百五十四人。七月廿八日至于對馬、九月廿日至于筑紫、廿二日進表函焉。冬十月己亥朔己酉、大閲于菟道。十一月己巳朔辛巳、饗劉德高等。十二月戊戌朔辛亥、物於劉德高等。是月、劉德高等罷歸。是歲、遣小錦守君大石等於大唐、云々。等謂、小山坂合部連石積・大乙吉士岐彌・吉士針間。蓋送唐使人乎。

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五年春正月戊辰朔戊寅、高麗遣前部能婁等進調。是日、耽羅遣王子姑如等貢獻。三月、皇太子親往於佐伯子麻呂連家、問其所患、慨歎元從之功。夏六月乙未朔戊戌、高麗前部能婁等罷歸。秋七月、大水。是秋、復租調。冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。͡是冬、京都之鼠、向近江移。以百濟男女二千餘人、居于東國。凡不擇緇素、起癸亥年至于三歲、並官食。倭漢沙門智由、獻指南車。

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十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。己巳、司馬法聰等罷歸。以小山下伊吉連博德・大乙下笠臣諸石、爲送使。是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。潤十一月丁亥朔丁酉、以錦十四匹・纈十九匹・緋廿四匹・紺布廿四端・桃染布五十八端・斧廿六・釤六十四・刀子六十二枚、椽磨等。

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秋九月壬午朔癸巳、新羅、遣沙㖨級飡金東嚴等進調。丁未、中臣內臣、使沙門法辨・秦筆、新羅上臣大角干庾信船一隻、付東嚴等。庚戌、使布勢臣耳麻呂、新羅王輸御調船一隻、付東嚴等。

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十一月辛巳朔、新羅王八年春正月庚辰朔戊子、以蘇我赤兄臣拜筑紫率。三月己卯朔己丑、耽羅、遣王子久麻伎等貢獻。丙申、耽羅王五穀種、是日、王子久麻伎等罷歸。

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八年春正月庚辰朔戊子、以蘇我赤兄臣拜筑紫率。三月己卯朔己丑、耽羅、遣王子久麻伎等貢獻。丙申、耽羅王五穀種、是日、王子久麻伎等罷歸。夏五月戊寅朔壬午、天皇、縱獵於山科野。大皇弟・藤原內大臣及群臣皆悉從焉。

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庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍姓爲藤原氏。自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨。日本世記曰「內大臣、春秋五十薨于私第、遷殯於山南。天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉。」碑曰「春秋五十有六而薨。」甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔、仍金香鑪。

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八月乙丑朔丁卯、高麗上部大相可婁等罷歸。壬午、饗蝦夷。九月、天皇寢疾不豫。或本云八月天皇疾病。冬十月甲子朔庚午、新羅遣沙飡金萬物等、進調。辛未、於內裏、開百佛眼。是月、天皇遣使、奉袈裟・金鉢・象牙・沈水香・栴檀香及諸珍財於法興寺佛。

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丁巳、災近江宮、從大藏省第三倉出。壬戌、五臣奉大友皇子、盟天皇前。是日、新羅王、絹五十匹・絁五十匹・綿一千斤・韋一百枚。

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2022年1月28日 (金)

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【天武紀(上)】6

元年春三月壬辰朔己酉、遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫、告天皇喪於郭務悰等。於是、郭務悰等、咸着喪服三遍舉哀、向東稽首。壬子、郭務悰等、再拜進書函與信十二月戊午朔辛酉、選諸有功勳者、増加冠位。仍小山位以上、各有差。壬申、船一隻新羅客。癸未、金押實等罷歸。是月、大紫韋那公高見、薨。 物。

夏五月辛卯朔壬寅、以甲冑弓矢郭務悰等。是日郭務悰等物、總合絁一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。戊午、高麗遣前部富加抃等進調。庚申、郭務悰等罷歸。

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丁亥、高市皇子、遣使於桑名郡家、以奏言「遠居御所、行政不便。宜御近處。」卽日、天皇留皇后而入不破。比及郡家、尾張國司守小子部連鉏鉤、率二萬衆歸之。天皇卽美之、分其軍塞處々道也。到于野上、高市皇子自和蹔參迎、以便奏言「昨夜、自近江朝驛使馳至。因以伏兵而捕者則書直藥・忍坂直大麻呂也。問何所往、答曰、爲所居吉野大皇弟而遣發東國軍、韋那公磐鍬之徒也。然、磐鍬、見兵起乃逃還之。」既而天皇謂高市皇子曰「其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議、今朕無與計事者、唯有幼少孺子耳。奈之何。」皇子、攘臂案劒奏言「近江群臣、雖多何敢逆天皇之靈哉。天皇雖獨、則臣高市、頼神祇之靈、請天皇之命、引率諸將而征討。豈有距乎。」爰天皇譽之、携手撫背曰「愼不可怠。」因鞍馬、悉授軍事。皇子則還和蹔。天皇於茲、行宮興野上而居焉。此夜、雷電雨甚。天皇祈之曰、天神地祇扶朕者雷雨息矣。言訖卽雷雨止之。

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九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。冬十一月戊子朔辛亥、饗新羅客金押實等於筑紫。卽日、祿各有差。

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十二月戊午朔辛酉、選諸有功勳者、増加冠位。仍小山位以上、各有差。壬申、船一隻新羅客。癸未、金押實等罷歸。是月、大紫韋那公高見、薨。

 

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天武紀(下)の中の「賜」について(工事中)

【天武紀(下)】71

二年春正月丁亥朔癸巳、置酒宴群臣。二月丁巳朔癸未、天皇命有司設壇場、卽帝位於飛鳥淨御原宮。立正妃爲皇后、后生草壁皇子尊。先納皇后姉大田皇女爲妃、生大來皇女與大津皇子。次妃大江皇女、生長皇子與弓削皇子。次妃新田部皇女、生舍人皇子。又夫人藤原大臣女氷上娘、生但馬皇女。次夫人氷上娘弟五百重娘、生新田部皇子。次夫人蘇我赤兄大臣女大蕤娘、生一男二女、其一曰穗積皇子・其二曰紀皇女・其三曰田形皇女。天皇初娶鏡王女額田姬王、生十市皇女。次納胸形君德善女尼子娘、生高市皇子命。次宍人臣大麻呂女□媛娘、生二男二女、其一曰忍壁皇子・其二曰磯城皇子・其三曰泊瀬部皇女・其四曰託基皇女。乙酉、有勳功人等、爵有差。

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閏六月乙酉朔庚寅、大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智、時稱秀才。於是、天皇驚之、降恩以贈外小紫位、重本國大佐平位。

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壬辰、耽羅、遣王子久麻藝・都羅・宇麻等朝貢。己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪九月癸丑朔庚辰、饗金承元等於難波、奏種々樂、賜物各有差。冬十一月壬子朔、金承元罷歸之。壬申、饗高麗邯子・新羅薩儒等於筑紫大郡祿各有差。 一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫祿各有差、卽從筑紫返于國。

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秋八月甲申朔壬辰、詔在伊賀國紀臣阿閉麻呂等壬申年勞勳之狀、而顯寵賞。癸卯、高麗、遣上部位頭大兄邯子・前部大兄碩千等、朝貢。仍新羅、遣韓奈末金利益、送高麗使人于筑紫。戊申、喚賀騰極使金承元等中客以上廿七人於京。因命大宰、詔耽羅使人曰「天皇、新平天下、初之卽位。由是、唯除賀使以外不召、則汝等親所見。亦時寒浪嶮、久淹留之還爲汝愁、故宜疾歸。」仍在國王及使者久麻藝等、肇爵位。其爵者大乙上、更以錦繡潤飾之、當其國之佐平位。則自筑紫返之。

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九月癸丑朔庚辰、饗金承元等於難波、奏種々樂、物各有差。冬十一月壬子朔、金承元罷歸之。壬申、饗高麗邯子・新羅薩儒等於筑紫大郡、祿各有差。

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十二月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉祿、因以郡司等各爵一級。戊戌、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拜造高市大寺司。今大官大寺、是。時、知事福林僧、由老辭知事、然不聽焉。戊申、以義成僧、爲小僧都。是日、更加佐官二僧。其有四佐官、始起于此時也。是年也、太歲癸酉。

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三年春正月辛亥朔庚申、百濟王昌成薨、贈此小紫位。二月辛巳朔戊申、紀臣阿閉麻呂卒。天皇大悲之、以勞壬申年之役贈大紫位。三月庚戌朔丙辰、對馬國司守忍海造大國言、銀始出于當國、卽貢上。由是、大國授小錦下位。凡銀有倭國、初出于此時。故、悉奉諸神祗、亦周小錦以上大夫等。秋八月戊寅朔庚辰、遣忍壁皇子於石上神宮、以膏油瑩神寶。卽日勅曰、元來諸家貯於神府寶物、今皆還其子孫。冬十月丁丑朔乙酉、大來皇女、自泊瀬齋宮向伊勢神宮。

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四年春正月丙午朔、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮、及舍衞女・墮羅女・百濟王善光・新羅仕丁等、捧藥及珍異等物進。丁未、皇子以下百寮諸人、拜朝。戊申、百寮諸人初位以上、進薪。庚戌、始興占星臺。壬子、宴群臣於朝庭。壬戌、公卿大夫及百寮諸人初位以上、射于西門庭。是日、大倭國貢瑞鶏、東國貢白鷹、近江國貢白鵄。戊辰、祭幣諸社。

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二月乙亥朔癸未、勅大倭・河內・攝津・山背・播磨・淡路・丹波・但馬・近江・若狹・伊勢・美濃・尾張等國曰、選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上。丁亥、十市皇女・阿閉皇女、參赴於伊勢神宮。己丑、詔曰「甲子年諸氏被給部曲者、自今以後、皆除之。又親王諸王及諸臣幷諸寺等所山澤・嶋浦・林野・陂池、前後並除焉。」癸巳、詔曰「群臣百寮及天下人民、莫作諸惡。若有犯者、隨事罪之。」丁酉、天皇幸於高安城。

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秋七月癸卯朔己酉、小錦上大伴連國麻呂爲大使・小錦下三宅吉士入石爲副使、遣于新羅。八月壬申朔、耽羅調使王子久麻伎、泊筑紫。癸巳、大風飛沙破屋。丙申、忠五年春正月庚子朔、群臣百寮拜朝。癸卯、高市皇子以下小錦以上大夫等、賜衣袴褶腰帶脚帶及机杖、唯小錦三階不賜机。丙午、小錦以上大夫等、賜祿各有差。甲寅、百寮初位以上、進薪。卽日、悉集朝庭賜宴。乙卯、置祿射于西門庭、中的者則給祿有差。是日、天皇御嶋宮、宴之。甲子、詔曰、凡任國司者、除畿內及陸奧・長門國、以外皆任大山位下人。

元、禮畢以歸之、自難波發船。己亥、新羅・高麗二國調使、饗於筑紫祿有差。九月壬寅朔戊辰、耽羅王姑如、到難波。

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冬十月辛未朔癸酉、遣使於四方、覓一切經。庚辰、置酒宴群臣。丙戌、自筑紫貢唐人卅口、則遣遠江國而安置。庚寅、詔曰、諸王以下初位以上、毎人備兵。是日、相摸國言、高倉郡女人生三男。十一月辛丑朔癸卯、有人、登宮東岳、妖言而自刎死之。當是夜直者、悉爵一級。是月、大地動。

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五年春正月庚子朔、群臣百寮拜朝。癸卯、高市皇子以下小錦以上大夫等、衣袴褶腰帶脚帶及机杖、唯小錦三階不机。丙午、小錦以上大夫等、祿各有差。甲寅、百寮初位以上、進薪。卽日、悉集朝庭宴。乙卯、置祿射于西門庭、中的者則給祿有差。是日、天皇御嶋宮、宴之。甲子、詔曰、凡任國司者、除畿內及陸奧・長門國、以外皆任大山位下人。

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二月庚午朔癸巳、耽羅客、船一艘。是月、大伴連國摩呂等、至自新羅。

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六月、四位栗隈王、得病薨。物部雄君連、忽發病而卒。天皇、聞之大驚。其壬申年、從車駕入東國、以有大功、降恩贈內大紫位、因氏上。是夏、大旱。遣使四方、以捧幣帛祈諸神祗、亦請諸僧尼祈于三寶。然不雨、由是五穀不登、百姓飢之。

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九月丙寅朔、雨、不告朔。乙亥、王卿遣京及畿內、校人別兵。丁丑、筑紫大宰三位屋垣王、有罪流于土左。戊寅、百寮人及諸蕃人等、祿各有差。丙戌、神官奏曰「爲新嘗、卜國郡也。齋忌齋忌此云踰既則尾張國山田郡、次次此云須伎也丹波國訶沙郡、並食卜。」是月、坂田公雷、卒。以壬申年功、贈大紫位。

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秋七月辛酉朔癸亥、祭龍田風神・廣瀬大忌神。八月辛卯朔乙巳、大設齋於飛鳥寺、以讀一切經。便天皇御寺南門而禮三寶。是時、詔親王諸王及群卿、毎人出家一人。其出家者、不問男女長幼、皆隨願度之。因以、會于大齋。丁巳、金淸平歸國。卽漂着朴刺破等、付淸平等返于本土。戊午、耽羅、遣王子都羅、朝貢。九月庚申朔己丑、詔曰、凡浮浪人、其送本土者、猶復還到、彼此並科課役。

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冬十月庚寅朔癸卯、內小錦上河邊臣百枝爲民部卿、內大錦下丹比公麻呂爲攝津職大夫。十一月己未朔、雨、不告朔。筑紫大宰獻赤鳥。則宰府諸司人祿各有差、且專捕赤鳥者爵五級、乃當郡々司等加増爵位、因給復郡內百姓以一年之。是日、大赦天下。己卯、新嘗。辛巳、百寮諸有位人等食。乙酉、侍奉新嘗神官及國司等祿。十二月己丑朔、雪、不告朔。

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十一月丁丑朔庚寅、地震。己亥、大乙下倭馬飼部造連爲大使・小乙下上寸主光父爲小使、遣多禰嶋、仍爵一級。是月、初置關於龍田山・大坂山、仍難波築羅城。

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九年春正月丁丑朔甲申、天皇、御于向小殿而宴王卿於大殿之庭。是日、忌部首首姓曰連、則與弟色弗共悅拜。癸巳、親王以下至于小建、射南門。丙申、攝津國言、活田村桃李實也。

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二月丙午朔癸亥、如鼓音聞于東方。辛未、有人云「得鹿角於葛城山。其角、本二枝而末合有宍、宍上有毛、毛長一寸。則異以獻之。」蓋驎角歟。壬申、新羅仕丁八人返于本土、仍垂恩以祿有差。三月丙子朔乙酉、攝津國貢白巫鳥。巫鳥、此云芝苔々。戊戌、幸于菟田吾城。

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夏四月乙巳朔甲寅、祭廣瀬龍田神。乙卯、橘寺尼房失火、以焚十房。己巳、饗新羅使人項那等於筑紫祿各有差。是月、勅「凡諸寺者自今以後、除爲國大寺二三以外、官司莫治。唯、其有食封者先後限卅年、若數年滿卅則除之。且以爲飛鳥寺不可關于司治、然元爲大寺而官司恆治、復嘗有功、是以猶入官治之例。」 

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十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人拜朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。己丑、詔畿內及諸國修理天社地社神宮。

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庚戌、錦織造小分・田井直吉摩呂・次田倉人椹足椹此云武規石勝・川內直縣・忍海造鏡・荒田・能麻呂・大狛造百枝・足坏・倭直龍麻呂・門部直大嶋・宍人造老・山背狛烏賊麻呂、幷十四人姓曰連。乙卯、饗高麗客卯問等於筑紫祿有差。

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五月己巳朔己卯、祭皇祖御魂。是日詔曰、凡百寮諸人、恭敬宮人過之甚也。或詣其門謁己之訟、或捧幣以媚於其家。自今以後、若有如此者隨事共罪之。甲午、高麗卯問、歸之。六月己亥朔癸卯、饗新羅客若弼於築紫祿各有差。乙卯、雩之。壬戌、地震。

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十一月丙申朔丁酉、地震。十二月乙丑朔甲戌、小錦下河邊臣子首遣筑紫、饗新羅客忠平。癸巳、田中臣鍛師・柿本臣猨・田部連國忍・高向臣麻呂・粟田臣眞人・物部連麻呂・中臣連大嶋・曾禰連韓犬・書直智德、幷壹拾人授小錦下位。是日、舍人造糠蟲・書直智德、姓曰連。

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三月甲午朔、命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形、仍將都矣。乙未、陸奧國蝦夷廿二人爵位。庚子、地震。丙午、命境部連石積等、更肇俾造新字一部卅四卷。己酉、幸于新城。辛酉、詔曰「親王以下百寮諸人、自今已後、位冠及襅褶脛裳、莫着。亦、膳夫・采女等之手繦・肩巾肩巾此云比例並莫服。」是日詔曰、親王以下至于諸臣、被給食封、皆止之、更返於公。是月、土師連眞敷卒、以壬申年功贈大錦上位。

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夏四月癸亥朔辛未、祭廣瀬龍田神。癸未、筑紫大宰丹比眞人嶋等、貢大鐘。甲申、越蝦夷伊高岐那等、請俘人七十戸爲一郡、乃聽之。乙酉、詔曰「自今以後、男女悉結髮。十二月卅日以前、結訖之。唯結髮之日、亦待勅旨。」婦女、乘馬如男夫、其起于是日也。五月癸巳朔甲辰、倭漢直等姓曰連。戊申、遣高麗大使佐伯連廣足・小使小墾田臣麻呂等、奏使旨於御所。己未、倭漢直等男女悉參赴之、悅姓而拜朝。

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秋七月壬辰朔甲午、隼人、多來貢方物。是日、大隅隼人與阿多隼人相撲於朝庭、大隅隼人勝之。庚子、小錦中膳臣摩漏、病。遣草壁皇子尊・高市皇子而訊病。壬寅、祭廣瀬龍田神。戊申、地震。己酉、膳臣摩漏、卒。天皇驚之大哀。壬子、摩漏臣、以壬申年之功贈大紫位及祿、更皇后物、亦准官。丙辰、多禰人・掖玖人・阿麻彌人、祿各有差。戊午、饗隼人等於明日香寺之西、發種々樂、仍祿各有差。道・俗、悉見之。是日、信濃國・吉備國並言、霜降亦大風、五穀不登。

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九月乙酉朔丙戌、大風。丁未、倭直・栗隈首・水取造・矢田部造・藤原部造・刑部造・福草部造・凡河內直・川內漢直・物部首・山背直・葛城直・殿服部造・門部直・錦織造・縵造・鳥取造・來目舍人造・檜隈舍人造・大狛造・秦造・川瀬舍人造・倭馬飼造・川內馬飼造・黃文造・蓆集造・勾筥作造・石上部造・財日奉造・泥部造・穴穗部造・白髮部造・忍海造・羽束造・文首・小泊瀬造・百濟造・語造、凡卅八氏姓曰連。

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冬十月乙卯朔己未、三宅吉士・草壁吉士・伯耆造・船史・壹伎史・娑羅々馬飼造・菟野馬飼造・吉野首・紀酒人直・采女造・阿直史・高市縣主・磯城縣主・鏡作造、幷十四氏姓曰連。丁卯、天皇狩于倉梯。

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十三年春正月甲申朔庚子、三野縣主・內藏衣縫造二氏姓曰連。

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冬十月己卯朔、詔曰、更改諸氏之族姓、作八色之姓、以混天下萬姓。一曰眞人、二曰朝臣、三曰宿禰、四曰忌寸、五曰道師、六曰臣、七曰連、八曰稻置。是日、守山公・路公・高橋公・三國公・當麻公・茨城公・丹比公・猪名公・坂田公・羽田公・息長公・酒人公・山道公、十三氏姓曰眞人。辛巳、遣伊勢王等、定諸國堺。是日、縣犬養連手繦爲大使・川原連加尼爲小使、遣耽羅。

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甲午、諸王卿等祿。

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十一月戊申朔、大三輪君・大春日臣・阿倍臣・巨勢臣・膳臣・紀臣・波多臣・物部連・平群臣・雀部臣・中臣連・大宅臣・栗田臣・石川臣・櫻井臣・采女臣・田中臣・小墾田臣・穗積臣・山背臣・鴨君・小野臣・川邊臣・櫟井臣・柿本臣・輕部臣・若櫻部臣・岸田臣・高向臣・宍人臣・來目臣・犬上君・上毛野君・角臣・星川臣・多臣・胸方君・車持君・綾君・下道臣・伊賀臣・阿閉臣・林臣・波彌臣・下毛野君・佐味君・道守臣・大野君・坂本臣・池田君・玉手臣・笠臣、凡五十二氏姓曰朝臣。

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十二月戊寅朔己卯、大伴連・佐伯連・阿曇連・忌部連・尾張連・倉連・中臣酒人連・土師連・掃部連・境部連・櫻井田部連・伊福部連・巫部連・忍壁連・草壁連・三宅連・兒部連・手繦丹比連・靫丹比連・漆部連・大湯人連・若湯人連・弓削連・神服部連・額田部連・津守連・縣犬養連・稚犬養連・玉祖連・新田部連・倭文連倭文此云之頭於利・氷連・凡海連・山部連・矢集連・狹井連・爪工連・阿刀連・茨田連・田目連・少子部連・菟道連・小治田連・猪使連・海犬養連・間人連・舂米連・美濃矢集連・諸會臣・布留連、五十氏姓曰宿禰。

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二月丁丑朔庚辰、大唐人・百濟人・高麗人、幷百卌七人爵位。

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六月乙亥朔甲午、大倭連・葛城連・凡川內連・山背連・難波連・紀酒人連・倭漢連・河內漢連・秦連・大隅直・書連、幷十一氏姓曰忌寸。

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九月甲辰朔壬子、天皇宴于舊宮安殿之庭。是日、皇太子以下至于忍壁皇子、布各有差。

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是日、詔曰、凡諸歌男・歌女・笛吹者、卽傳己子孫令習歌笛。辛酉、天皇、御大安殿、喚王卿等於殿前以令博戲。是日、宮處王・難波王・竹田王・三國眞人友足・縣犬養宿禰大侶・大伴宿禰御行・境部宿禰石積・多朝臣品治・采女朝臣竹羅・藤原朝臣大嶋、凡十人御衣袴。壬戌、皇太子以下及諸王卿、幷卌八人羆皮山羊皮、各有差。癸亥、遣高麗國使人等還之。丁卯、爲天皇體不豫之、三日誦經於大官大寺・川原寺・飛鳥寺、因以稻納三寺各有差。庚午、化來高麗人等祿各有差。

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冬十月癸酉朔丙子、百濟僧常輝封卅戸、是僧壽百歲。庚辰、遣百濟僧法藏・優婆塞益田直金鍾於美濃、令煎白朮、因以絁綿布。壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。甲申、以淨大肆泊瀬王・直廣肆巨勢朝臣馬飼・判官以下、幷廿人任於畿內之役。己丑、伊勢王等亦向于東國、因以衣袴。是月、說金剛般若經於宮中。

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十二月壬申朔乙亥、遣筑紫防人等、飄蕩海中皆失衣裳、則爲防人衣服以布四百五十八端、給下於筑紫。辛巳、自西發之地震。丁亥、絁綿布以施大官大寺僧等。庚寅、皇后命以、王卿等五十五人朝服各一具。

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朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯、御大極殿宴於諸王卿。是日詔曰、朕問王卿以無端事、仍對言得實必有。於是、高市皇子、被問以實對、蓁揩御衣三具・錦袴二具、幷絁廿匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端。伊勢王、亦得實、卽皁御衣三具・紫袴二具・絁七匹・絲廿斤・綿卌斤・布卌端。是日、攝津國人百濟新興、獻白馬瑙。庚戌、請三綱律師及大官大寺知事・佐官、幷九僧、以俗供養々之、仍施絁綿布各有差。辛亥、諸王卿各袍袴一具。甲寅、召諸才人・博士・陰陽師・醫師者、幷廿餘人、食及祿。

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乙卯酉時、難波大藏省失火、宮室悉焚。或曰、阿斗連藥家失火之引及宮室。唯、兵庫職不焚焉。丁巳、天皇御於大安殿、喚諸王卿宴、因以絁綿布各有差。是日、天皇問群臣以無端事、則當時得實重給絁綿。戊午、宴後宮。己未、朝庭大酺、是日、御窟殿前而倡優等祿有差、亦歌人等袍袴。庚申、地震。是月、爲饗新羅金智祥、遣淨廣肆川內王・直廣參大伴宿禰安麻呂・直大肆藤原朝臣大嶋・直廣肆境部宿禰鯯魚・直廣肆穗積朝臣蟲麻呂等于筑紫

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夏四月庚午朔丁丑、侍醫桑原村主訶都授直廣肆、因以姓曰連。

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五月庚子朔戊申、多紀皇女等至自伊勢。是日、侍醫百濟人億仁、病之臨死、則授勤大壹位、仍封一百戸。癸丑、勅之大官大寺封七百戸、乃納税卅萬束。丙辰、宮人等増加爵位。癸亥、天皇始體不安、因以於川原寺說藥師經、安居于宮中。戊辰、饗金智祥等於筑紫、祿各有差、卽從筑紫退之。是月、勅遣左右大舍人等掃淸諸寺堂塔、則大赦天下、囚獄已空。

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六月己巳朔、槻本村主勝麻呂姓曰連、仍加勤大壹位、封廿戸。

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2022年1月27日 (木)

持統紀の中の「賜」について(工事中)

【持統紀】96

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朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反發覺、逮捕皇子大津、幷捕爲皇子大津所詿誤、直廣肆八口朝臣音橿・小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心及帳內礪杵道作等、卅餘人。庚午、死皇子大津於譯語田舍、時年廿四。

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十一月丁酉朔壬子、奉伊勢神祠皇女大來、還至京師。癸丑、地震。十二月丁卯朔乙酉、奉爲天渟中原瀛眞人天皇、設無遮大會於五寺大官・飛鳥・川原・小墾田豐浦・坂田。壬辰、京師孤獨高年布帛各有差。潤十二月、筑紫大宰、獻三國高麗・百濟・新羅百姓男女幷僧尼六十二人。是歲、蛇犬相交、俄而倶死。

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元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人、誄之、禮也。誄畢衆庶發哀、次梵衆發哀。於是、奉膳紀朝臣眞人等奉奠。奠畢、膳部采女等發哀。樂官奏樂。庚午、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。梵衆隨而發哀。庚辰、京師年自八十以上及篤癃・貧不能自存者、絁綿各有差。甲申、使直廣肆田中朝臣法麻呂與追大貳守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・六月癸巳朔庚申、赦罪人。秋七月癸亥朔甲子、詔曰「凡負債者、自乙酉年以前物、莫收利也。若既役身者、不得役利。」辛未、賞隼人、大隅・阿多魁帥等三百卅七人、各有差。八月壬辰朔丙申、嘗于殯宮、此曰御靑飯也。丁酉、京城耆老男女皆臨慟哭於橋西。己未、天皇、使直大肆藤原朝臣大嶋・直大肆黃書連大伴、請集三百龍象大德等於飛鳥寺、奉施袈裟人別一領。曰、此以天渟中原瀛眞人天皇御服所縫作也。詔詞酸割、不可具陳。

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二年春正月庚申朔、皇太子、率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。辛酉、梵衆發哀於殯宮。丁卯、設無遮大會於藥師寺。壬午、以天皇崩奉宣新羅金霜林等、金霜林等乃三發哭。二月庚寅朔辛卯、大宰獻新羅調賦、金銀絹布・皮銅鐵之類十餘物、幷別所獻佛像・種々彩絹・鳥馬之類十餘種、及霜林所獻金銀彩色・種々珍異之物、幷八十餘物。己亥、饗霜林等於筑紫館物各有差。乙巳、詔曰、自今以後毎取國忌日要須齋也。戊午、霜林等罷歸。

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九月丙辰朔戊寅、饗耽羅佐平加羅等於筑紫館物各有差。冬十一月乙卯朔戊午、皇太子、率公卿百寮人等與諸蕃賓客、適殯宮而慟哭焉。於是、奉奠、奏楯節儛。諸臣各舉己先祖等所仕狀、遞進誄焉。己未、蝦夷百九十餘人、負荷調賦而誄焉。乙丑、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞進而誄。直廣肆當麻眞人智德、奉誄皇祖等之騰極次第。禮也、古云日嗣也。畢葬于大內陵。十二月乙酉朔丙申、饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下、仍授冠位、物各有差。

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三年春正月甲寅朔、天皇、朝萬國于前殿。乙卯、大學寮獻杖八十枚。丙辰、務大肆陸奧國優𡺸曇郡城養蝦夷脂利古男、麻呂與鐵折、請剔鬢髮爲沙門。詔曰「麻呂等、少而閑雅寡欲。遂至於此、蔬食持戒。可隨所請、出家修道。」庚申、宴公卿賜袍袴。辛酉、新羅使人田中朝臣法麻呂等、還自新羅。壬戌、詔出雲國司、上送遭値風浪蕃人。是日、越蝦夷沙門道信、佛像一軀・灌頂幡鍾鉢各一口・五色綵各五尺・綿五屯・布一十端・鍬一十枚・鞍一具。筑紫大宰粟田眞人朝臣等、獻隼人一百七十四人、幷布五十常・牛皮六枚・鹿皮五十枚。戊辰、文武官人進薪。己巳、百官人等食。辛未、天皇幸吉野宮。甲戌、天皇至自吉野宮。

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六月壬午朔、衣裳筑紫大宰等。癸未、以皇子施基・直廣肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣齊齊、此云牟吾閉・勤廣肆伊余部連馬飼・調忌寸老人・務大參大伴宿禰手拍與巨勢朝臣多益須等、拜撰善言司。庚子、大唐續守言・薩弘恪等稻、各有差。辛丑、詔筑紫大宰粟田眞人朝臣等、學問僧明聰・觀智等爲送新羅師友、綿各一百四十斤。乙巳、於筑紫小郡、設新羅弔使金道那等、物各有差。庚戌、班諸司令、一部廿二卷。

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秋七月壬子朔、付陸奧蝦夷沙門自得所請金銅藥師佛像・觀世音菩薩像各一軀・鍾・娑羅・寶帳・香爐・幡等物。是日、新羅弔使金道那等罷歸。丙寅、詔左右京職及諸國司、築習射所。辛未、流偽兵衞河內國澁川郡人柏原廣山于土左國、以追廣參授捉偽兵衞廣山兵衞生部連虎。甲戌、越蝦夷八釣魚等、各有差。魚、此云儺。

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秋八月辛巳朔壬午、百官會集於神祗官、而奉宣天神地祗之事。甲申、天皇幸吉野宮。丙申、禁斷漁獵於攝津國武庫海一千步內・紀伊國阿提郡那耆野二萬頃・伊賀國伊賀郡身野二萬頃、置守護人、准河內國大鳥郡高脚海。丁酉、賞公卿各有差。辛丑、詔伊豫總領田中朝臣法麻呂等曰、讚吉國御城郡所獲白䴏、宜放養焉。癸卯、觀射。

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潤八月辛亥朔庚申、詔諸國司曰「今冬戸籍可造。宜限九月糺捉浮浪。其兵士者、毎於一國四分而點其一令習武事。」丁丑、以淨廣肆河內王爲筑紫大宰師、授兵仗及物。以直廣壹授直廣貳丹比眞人嶋、増封一百戸通前。

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九月庚辰朔己丑、遣直廣參石上朝臣麻呂・直廣肆石川朝臣蟲名等於筑紫給送位記、且監新城。冬十月庚戌朔庚申、天皇幸高安城。辛未、直廣肆下毛野朝臣子麻呂奏欲免奴婢陸佰口、奏可。十一月己卯朔丙戌、於中市、褒美追廣貳高田首石成之閑於三兵、物。十二月己酉朔丙辰、禁斷雙六。

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四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。公卿百寮、羅列匝拜而拍手焉。己卯、公卿百寮、拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣、奏賀騰極。庚辰、宴公卿於內裏。壬辰、百寮進薪。甲午、大赦天下、唯常赦所不免、不在赦例。有位人爵一級。鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者、稻、蠲服調役。丁酉、以解部一百人、拜刑部省。庚子、班幣於畿內天神地祗、及増神戸田地。

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二月戊申朔壬子、天皇幸于腋上陂、觀公卿大夫之馬。戊午、新羅沙門詮吉・級飡北助知等五十人歸化。甲子、天皇幸吉野宮。丙寅、設齋於內裏。壬申、以歸化新羅韓奈末許滿等十二人、居于武藏國。三月丁丑朔丙申、京與畿內人、年八十以上者、嶋宮稻人廿束。其有位者、加布二端。

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夏四月丁未朔己酉、遣使祭廣瀬大忌神與龍田風神。癸丑、京與畿內耆老耆女五千卅一人、稻人廿束。

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冬十月甲辰朔戊申、天皇幸吉野宮。癸丑、大唐學問僧智宗等、至于京師。戊午、遣使者詔筑紫大宰河內王等曰「饗新羅送使大奈末金高訓等、准上送學生土師宿禰甥等送使之例。其慰勞物、一依詔書。」乙丑、詔軍丁筑紫國上陽咩郡人大伴部博麻曰「於天豐財重日足姬天皇七年、救百濟之役、汝、爲唐軍見虜。洎天命開別天皇三年、土師連富杼・氷連老・筑紫君薩夜麻・弓削連元寶兒、四人、思欲奏聞唐人所計、緣無衣粮、憂不能達。於是、博麻謂土師富杼等曰『我欲共汝還向本朝。緣無衣粮、倶不能去。願賣我身以充衣食。』富杼等、依博麻計、得通天朝。汝獨淹滯他界、於今卅年矣。朕、嘉厥尊朝愛國・賣己顯忠。故、務大肆、幷絁五匹・綿一十屯・布卅端・稻一千束・水田四町。其水田、及至曾孫也。免三族課役、以顯其功。」壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。

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十一月甲戌朔庚辰、賞送使金高訓等、各有差。甲申、奉勅始行元嘉曆與儀鳳曆。

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十二月癸卯朔乙巳、送使金高訓等罷歸。甲寅、天皇幸吉野宮。丙辰、天皇至自吉野宮。辛酉、天皇幸藤原觀宮地、公卿百寮皆從焉。乙丑、賞公卿以下、各有差。

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五年春正月癸酉朔、親王・諸臣・內新王・女王・內命婦等位。己卯、公卿飲食衣裳、優正廣肆百濟王餘禪廣・直大肆遠寶・良虞與南典、各有差。乙酉、増封、皇子高市二千戸通前三千戸、淨廣貳皇子穗積五百戸、淨大參皇子川嶋百戸通前五百戸、正廣參右大臣丹比嶋眞人三百戸通前五百戸、正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸、直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿禰八十戸通前三百戸、其餘増封各有差。丙戌、詔曰「直廣肆筑紫史益、拜筑紫大宰府典以來於今廿九年矣。以淸白忠誠、不敢怠惰。是故、食封五十戸・絁十五匹・綿廿五屯・布五十端・稻五千束。」戊子、天皇幸吉野宮。乙未、天皇至自吉野宮。

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夏四月辛丑朔、詔曰「若氏祖時所免奴婢既除籍者、其眷族等不得更訟言我奴婢。」大學博士上村主百濟大税一千束、以勸其學業也。辛亥、遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。丙辰、天皇幸吉野宮。壬戌、天皇至自吉野宮。五月辛未朔辛卯、褒美百濟淳武微子壬申年功、直大參、仍絁布。

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六月、京師及郡國卌、雨水。戊子、詔曰「此夏陰雨過節、懼必傷稼。夕惕迄朝憂懼、思念厥愆。其令公卿百寮人等禁斷酒宍・攝心悔過、京及畿內諸寺梵衆亦當五日誦經。庶有補焉。」自四月雨、至于是月。己未、大赦天下、但盜賊不在赦例。秋七月庚午朔壬申、天皇幸吉野宮。是日、伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八兩・𨥥一籠。丙子、宴公卿、仍朝服。辛巳、天皇至自吉野。甲申、遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神。

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八月己亥朔辛亥、詔十八氏大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇、上進其祖等墓記。辛酉、遣使者祭龍田風神・信濃須波・水內等神。九月己巳朔壬申、音博士大唐續守言・薩弘恪・書博士百濟末士善信、銀人廿十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。十二月戊戌朔己亥、賜醫博士務大參德自珍・呪禁博士木素丁武・沙宅萬首、銀人廿兩。乙巳、詔曰「賜右大臣宅地四町、直廣貳以上二町、大參以下一町。勤以下至無位、隨其戸口、其上戸一町・中戸半町・下戸四分之一。王等亦准此。」 兩。丁丑、淨大參皇子川嶋薨。辛卯、以直大貳贈佐伯宿禰大目、幷賻物。

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十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷絹等各有差。十二月戊戌朔己亥、醫博士務大參德自珍・呪禁博士木素丁武・沙宅萬首、銀人廿兩。乙巳、詔曰「右大臣宅地四町、直廣貳以上二町、大參以下一町。勤以下至無位、隨其戸口、其上戸一町・中戸半町・下戸四分之一。王等亦准此。」

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六年春正月丁卯朔庚午、増封皇子高市二千戸、通前五千戸。癸酉、饗公卿等、仍衣裳。戊寅、天皇觀新益京路。壬午、饗公卿以下至初位以上。癸巳、天皇幸高宮。甲午、天皇至自高宮。二月丁酉朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣物。陰陽博士沙門法藏・道基、銀人廿兩。乙卯、詔刑部省、赦輕繋。是日、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言諫爭天皇、欲幸伊勢妨於農時。

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三月丙寅朔戊辰、以淨廣肆廣瀬王・直廣參當摩眞人智德・直廣肆紀朝臣弓張等、爲留守官。於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。壬午、所過神郡及伊賀・伊勢・志摩國造等冠位、幷免今年調役、復免供奉騎士・諸司荷丁・造行宮丁今年調役。大赦天下、但盜賊不在赦例。甲申、所過志摩百姓男女年八十以上、稻人五十束。乙酉、車駕還宮。毎所到行、輙會郡縣吏民、務勞作樂。甲午、詔免近江・美濃・尾張・參河・遠江等國供奉騎士戸及諸國荷丁・造行宮丁今年調役。詔令天下百姓、困乏窮者稻、男三束女二束。

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夏四月丙申朔丁酉、贈大伴宿禰友國直大貳、幷賻物。庚子、除四畿內百姓爲荷丁者今年調役。甲寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丙辰、有位親王以下至進廣肆、難波大藏鍫、各有差。庚申、詔曰、凡繋囚見徒、一皆原散。

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五月乙丑朔庚午、御阿胡行宮時、進贄者紀伊國牟婁郡人阿古志海部河瀬麻呂等、兄弟三戸、服十年調役・雜徭。復免挾杪八人、今年調役。辛未、相摸國司獻赤鳥鶵二隻、言、獲於御浦郡。丙子、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。辛巳、遣大夫謁者、祠名山岳瀆請雨。甲申、贈文忌寸智德直大壹、幷賻物。丁亥、遣淨廣肆難波王等、鎭祭藤原宮地。庚寅、遣使者奉幣于四所、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神、告以新宮。

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閏五月乙未朔丁酉、大水。遣使循行郡國、禀貸災害不能自存者、令得漁採山林池澤。詔令京師及四畿內、講說金光明經。戊戌、沙門觀成、絁十五匹・綿卅屯・布五十端、美其所造鉛粉。丁未、伊勢大神奏天皇曰「免伊勢國今年調役。然應輸其二神郡、赤引絲參拾伍斤、於來年、當折其代。」己酉、詔筑紫大宰率河內王等曰「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」

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六月甲子朔壬申、勅郡國長吏、各禱名山岳瀆。甲戌、遣大夫謁者、詣四畿內、請雨。甲申、直丁八人官位、美其造大內陵時勤而不懈。癸巳、天皇觀藤原宮地。

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秋七月甲午朔乙未、大赦天下、但十惡・盜賊不在赦例。相模國司布勢朝臣色布智等・御浦郡少領闕姓名與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟、位及祿。服御浦郡二年調役。庚子、宴公卿。壬寅、幸吉野宮。甲辰、遣使者祀廣瀬與龍田。辛酉、車駕還宮。是夜、熒惑與歲星、於一步內乍光乍沒、相近相避四遍。

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冬十月壬戌朔壬申、授山田史御形務廣肆、前爲沙門學問新羅。癸酉、幸吉野宮。庚辰、車駕還宮。十一月辛卯朔戊戌、新羅遣級飡朴億德・金深薩等、進調。擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・務大貳川內忌寸連等祿、各有差。辛丑、饗祿新羅朴憶德於難波館。

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十二月辛酉朔甲戌、音博士續守言・薩弘恪、水田人四町。甲申、遣大夫等、奉新羅調於五社、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足。

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七年春正月辛卯朔壬辰、以淨廣壹授皇子高市、淨廣貳授皇子長與皇子弓削。是日、詔令天下百姓、服黃色衣、奴皁衣。丁酉、饗公卿大夫等。癸卯、京師及畿內有位年八十以上、人衾一領・絁二匹・綿二屯・布四端。乙巳、以正廣參贈百濟王善光、幷賻物。丙午、京師男女年八十以上・及困乏窮者、布各有差。船瀬沙門法鏡、水田三町。是日、漢人等奏蹈歌。

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二月庚申朔壬戌、新羅遣沙飡金江南・韓奈麻金陽元等、來赴王喪。己巳、詔造京司衣縫王等、收所掘尸。己丑、以流來新羅人牟自毛禮等卅七人、付憶德等。三月庚寅朔、日有蝕之。甲午、大學博士勤廣貳上村主百濟、食封卅戸、以優儒道。乙未、幸吉野宮。庚子、直大貳葛原朝臣大嶋賻物。壬寅、天皇至自吉野宮。乙巳、擬遣新羅使直廣肆息長眞人老・勤大貳大伴宿禰子君等・及學問僧辨通・神叡等、絁綿布各有差。又新羅王賻物。丙午、詔令天下、勸殖桑紵梨栗蕪菁等草木、以助五穀。

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八月戊午朔、幸藤原宮地。甲戌、幸吉野宮。戊寅、車駕還宮。九月丁亥朔、日有蝕之。辛卯、幸多武嶺。壬辰、車駕還宮。丙申、爲淸御原天皇、設無遮大會於內裏。繋囚悉原遣。壬寅、以直廣參贈蚊屋忌寸木間、幷賻物、以褒壬申年之役功。

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十一月丙戌朔庚寅、幸吉野宮。壬辰、耽羅王子・佐平等、各有差。乙未、車駕還宮。己亥、遣沙門法員・善往・眞義等、試飲服近江國益須郡醴泉。戊申、以直大肆授直廣肆引田朝臣少麻呂、仍食封五十戸。十二月丙辰朔丙子、遣陣法博士等、教習諸國。

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三月甲申朔、日有蝕之。乙酉、以直廣肆大宅朝臣麻呂・勤大貳臺忌寸八嶋・黃書連本實等、拜鑄錢司。甲午、詔曰「凡以無位人任郡司者、以進廣貳授大領、以進大參授小領。」己亥、詔曰「粤以七年歲次癸巳、醴泉涌於近江國益須郡都賀山。諸疾病人停宿益須寺而療差者衆。故入水田四町・布六十端、原除益須郡今年調役雜徭、國司頭至目進位一階。其初驗醴泉者、葛野羽衝・百濟土羅々女、人絁二匹・布十端・鍬十口。」乙巳、奉幣於諸社。丙午、神祇官頭至祝部等一百六十四人絁布、各有差。

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夏四月甲寅朔戊午、以淨大肆贈筑紫大宰率河內王、幷賻物。庚申、幸吉野宮。丙寅、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。丁亥、天皇至自吉野宮。庚午、贈律師道光賻物。五月癸未朔戊子、饗公卿大夫於內裏。癸巳、以金光明經一百部送置諸國、必取毎年正月上玄讀之、其布施以當國官物充之。

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六月癸丑朔庚申、河內國更荒郡獻白山鶏。更荒郡大領・小領位人一級、幷物。以進廣貳賜獲者刑部造韓國、幷物。秋七月癸未朔丙戌、遣巡察使於諸國。丁酉、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。

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八月壬子朔戊辰、爲皇女飛鳥、度沙門一百四口。九月壬午朔、日有蝕之。乙酉、幸吉野宮。癸卯、以淨廣肆三野王拜筑紫大宰率。冬十月辛亥朔庚午、以進大肆獲白蝙蝠者飛騨國荒城郡弟國部弟日、幷絁四匹・綿四屯・布十端、其戸課役限身悉免。十一月辛巳朔丙午、赦殊死以下。

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十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

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夏四月戊寅朔丙戌、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。甲午、以直廣參贈賀茂朝臣蝦夷、幷賻物本位勤大壹、以直大肆贈文忌寸赤麻呂、幷賻物本位大山中。五月丁未朔己未、饗隼人大隅。丁卯、觀隼人相撲於西槻下。

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六月丁丑朔己卯、遣大夫謁者詣京師及四畿內諸社請雨。壬辰、賞諸臣年八十以上及痼疾、各有差。甲午、幸吉野宮。壬寅、至自吉野。秋七月丙午朔戊辰、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。辛未、擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野・務大貳伊吉連博德等物、各有差。

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八月丙子朔己亥、幸吉野。乙巳、至自吉野。九月乙巳朔戊申、原放行獄徒繋。庚戌、小野朝臣毛野等、發向新羅。十月乙亥朔乙酉、幸菟田吉隱。丙戌、至自吉隱。十二月甲戌朔戊寅、幸吉野宮。丙戌、至自吉野。淨大肆泊瀬王賻物。

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三月癸卯朔乙巳、幸二槻宮。甲寅、越度嶋蝦夷伊奈理武志與肅愼志良守叡草、錦袍袴・緋紺絁・斧等。夏四月壬申朔辛巳、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。戊戌、以追大貳授伊豫國風速郡物部藥與肥後國皮石郡壬生諸石、幷人絁四匹・絲十絇・布廿端・鍬廿口・稻一千束・水田四町、復戸調役、以慰久苦唐地。己亥、幸吉野宮。五月壬寅朔甲辰、詔大錦上秦造綱手、姓爲忌寸。乙巳、至自吉野。己酉、以直廣肆授尾張宿禰大隅、幷水田卌町。甲寅、以直廣肆贈大狛連百枝、幷賻物。

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六月辛未朔戊子、幸吉野宮。丙申、至自吉野。秋七月辛丑朔、日有蝕之。壬寅、赦罪人。戊申、遣使者祀廣瀬大忌神與龍田風神。庚戌、後皇子尊薨。八月庚午朔甲午、以直廣壹授多臣品治、幷物、褒美元從之功與堅守關事。

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九月庚子朔甲寅、以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬、幷賻物、以顯元從之功。冬十月己巳朔乙酉、右大臣丹比眞人輿杖、以哀致事。庚寅、假正廣參位右大臣丹比眞人資人一百廿人、正廣肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿禰御行並八十人、直廣壹石上朝臣麻呂・直廣貳藤原朝臣不比等並五十人。

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十一月己亥朔戊申、大官大寺沙門辨通、食封卅戸。十二月己巳朔、勅旨、緣讀金光明經、毎年十二月晦日度淨行者一十人。

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十一年春正月甲辰、饗公卿大夫等。戊申、天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者、稻各有差。癸丑、饗公卿百寮。二月丁卯朔甲午、以直廣壹當麻眞人國見爲東宮大傅、直廣參路眞人跡見爲春宮大夫、直大肆巨勢朝臣粟持爲亮。三月丁酉朔甲辰、設無遮大會於春宮。

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六月丙寅朔丁卯、赦罪人。辛未、詔讀經於京畿諸寺。辛巳、遣五位以上、掃灑京寺。甲申、班幣於神祇。辛卯、公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。秋七月乙未朔辛丑夜半、赦常𨰃盜賊一百九人、仍布人四常、但外國者稻人廿束。丙午、遣使者祀廣瀬與龍田。癸亥、公卿百寮、設開佛眼會於藥師寺。

 

 

 

 

 

 

 

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