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2021年8月20日 (金)

天武紀の「詔」について 【66】のうち【1】~【3】

【上】

(1)癸未 、至吉野而居之。是時、聚諸舍人謂之曰「我今入道修行、故隨欲修道者留之。若仕欲成名者、還仕於司。」然无退者。更聚舍人而如前。是以、舍人等半留半退。十二月、天命開別天皇崩。

(現代語訳・天武天皇は,吉野へおつきになった。このとき多くの舍人を集めて,「自分はこれから仏道に入り修行をする。自分といっしょに修道をしようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は引き返して役所へ戻るように」といわれた。しかし帰る者はなかった。さらに舎人を集めて,前のごとく告げられると,舎人の半分は留まり半分は退出した。十二月,天智天皇はお崩 れになった)

前後の文脈から・・・大海人皇子の吉野入り

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(2) 是月、朴井連雄君、奏天皇曰・・・・・「臣、以有私事、獨至美濃。時、朝庭宣美濃・尾張兩國司曰、爲造山陵、豫差定人夫。則人別令執兵。臣以爲、非爲山陵必有事矣、若不早避當有危歟。」或有人奏曰「自近江京至于倭京、處々置候。亦命菟道守橋者、遮皇大弟宮舍人運私粮事。」天皇惡之、因令問察、以知事已實。於是曰「朕、所以讓位遁世者、獨治病全身永終百年。然今不獲已應承禍、何默亡身耶。」

(現代語訳・この月,朴井連雄君は天皇(大海人皇子)に奏上して,・・・・・(美濃へ行った話。近江朝廷の行動 ・・・・・そこで,詔して「私が皇位を辞退して,身を引いたのはひとりで療養につとめ,天命をまっとうしようとしたからである。それなのにいま避けられない禍を受けようとしている。どうしてこのままだまっておられようか 

前後の文脈から・・・大海人皇子VS天智天皇

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(3)六月辛酉朔壬午、村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣、曰「今聞、近江朝庭之臣等、爲朕謀害。是以、汝等三人、急往美濃國・告安八磨郡湯沐令多臣品治・宣示機要而先發當郡兵、仍經國司等・差發諸軍・急塞不破道。朕今發路。

(現代語訳・六月二十二日,「村國連男依・和珥部臣君手・身毛君廣に詔して,聞くところによると,近江朝庭の臣たちは私を亡き者にしようと謀っている。お前たち三人は,速やかに美濃國に行き,安八磨郡の湯沐令の多臣品治に機密を打ち明け,まずその地の兵を集めよ。なお国司らに触れて軍勢を発し速やかに不破道を塞げ。自分もすぐ出発する」

前後の文脈から・・・大海人皇子VS天智天皇

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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コメント

天武紀上の詔の最初の4つ。
これは内容的にも明確に近畿天皇家内部の話ですし、詔の主語は省略されているが、前後の文脈から大海人皇子であることは明確です。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月21日 (土) 13時12分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

そろそろ,「主語なし」近畿が来るものと思っていました。
(4)が迷いました。

投稿: 肥さん | 2021年8月21日 (土) 16時23分

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