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2021年8月19日 (木)

天智紀の「詔」について 【6】

(1)冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃曰「天道輔仁、何乃虛說。・・・・・」

(現代語訳・冬十月十日,天皇は藤原内大臣の家にお越しになり,親しく病を見舞われた。しかし衰弱が激しかった。それで詔して,「天道が仁者を助けるということに偽りがあろうか。・・・・・」といわれた)

前後の文脈から・・・天智天皇と藤原鎌足

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(2)甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩、仍賜金香鑪。

(現代語訳・十五日,天皇は藤原内大臣の家にお出ましになり,大錦上蘇我赤兄臣に命じて,恵みふかい詔を詠みあげさせられた。また金の

香鑪を賜った)

前後の文脈から・・・天智天皇と藤原鎌足

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(3)九年春正月乙亥朔辛巳、士大夫等、大射宮大射宮門內。戊子、宣朝庭之禮儀與行路之相避。復禁斷誣妄・妖偽。

(現代語訳・九年一月七日,士大夫らを詔して,宮廷内で大射礼があった。十四日,朝廷の礼儀と,道路で貴人に行きあったとき,道を避けるべきことを仰せ出られた。また,たわごと・流言などを禁じられた)

前後の文脈から・・・白村江の戦い(敗戦)の後・戦後の治安維持

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(4)庚辰、天皇疾病彌留。勅喚東宮引入臥內、曰、朕疾甚、以後事屬汝、云々。

(現代語訳・十七日,天皇の病が重くなり,東宮が呼ばれ,寝床に召されて詔し,「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々いわれた。)

前後の文脈から・・・天智天皇と大海人皇子とのやりとり

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(5)(6)丙辰、大友皇子在於內裏西殿織佛像前、左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍焉。大友皇子、手執香鑪、先起誓盟曰、六人同心奉天皇、若有違者必被天罰、云々。於是、左大臣蘇我赤兄臣等、手執香鑪、隨次而起、泣血誓盟曰、臣等五人隨於殿下奉天皇、若有違者四天王打、天神地祇亦復誅罰、卅三天證知此事、子孫當絶家門必亡、云々。

(現代語訳・二十三日,大友皇子は內裏の西殿の織物の仏像の前におられた。左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連・蘇我果安臣・巨勢人臣・紀大人臣侍っていた。大友皇子,手に香鑪をとり,まず立ち上がって,六人は心を同じくして天皇の詔をうけたまわります。もし違背する者があれば必ず天罰を受けるでしょう」云々とお誓いになった。そこで左大臣蘇我赤兄臣らも,手に香鑪を取り,順序に従って,立ち上がり涙を流しつつ,「臣等五人は殿下と共に天皇の詔を承ります。もしそれに違うことがあれば,四天王がわれわれを打ち天地の神々もまた罰を与えるでしょう。三十三天も,このことをはっきり御承知おきください。子孫もまさに絶え,家門も必ず亡びるでしょう」云々と誓い合った )

前後の文脈から・・・大友皇子と家来たち

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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コメント

肥沼さんへ

 天智紀の詔の検証お疲れ様。
 一か所間違っています。
 
 3は九州王朝天皇の詔。
 この文は前後から独立した文で、しかも主語がありません。
 また朝廷の儀礼を定めたものであることも、九州王朝天皇のものと判断できます。
 この時期はまだ文武に天皇位を禅譲する前ですから、形式的にも詔を出せるのは九州王朝天皇だけです。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月20日 (金) 11時46分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 3は九州王朝天皇の詔。
 この文は前後から独立した文で、しかも主語がありません。
 また朝廷の儀礼を定めたものであることも、九州王朝天皇のものと判断できます。
 この時期はまだ文武に天皇位を禅譲する前ですから、形式的にも詔を出せるのは九州王朝天皇だけです。

この儀式は,どこで行われたのでしょう。

投稿: 肥さん | 2021年8月20日 (金) 17時06分

肥沼さんへ

>この儀式は,どこで行われたのでしょう。

 当然天智が九州王朝天皇のために作った大津京でしょう。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月20日 (金) 23時40分

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