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2021年8月13日 (金)

孝徳紀の「詔」について 【45】のうち【1~9】

(1)天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望、不亦可乎。

(現代語訳・皇極天皇の四年六月十四日,皇極天皇が位を中大兄に伝えようと思われ,詔して云々といわれた。中大兄は退出して中臣鎌子連に相談された。中臣鎌子連は意見をのべて,古人大兄は殿下の兄上です。輕皇子は殿下の叔父上です。古人大兄がおいでになる今,殿下が天皇の位を継いだら,人の弟として兄に従うという道に背くでしょうしばらく叔父上を建てられて,人々の望みに叶うなら良いではありませんか」といった )

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(2)(3)(4)(5)大化元年秋七月丁卯朔戊辰、立息長足日廣額天皇女間人皇女、爲皇后。立二妃。元妃、阿倍倉梯麻呂大臣女曰小足媛、生有間皇子。次妃、蘇我山田石川麻呂大臣女曰乳娘。丙子、高麗・百濟・新羅、並遣使進調。百濟調使、兼領任那使、進任那調。唯百濟大使佐平緣福、遇病留津館而不入於京。巨勢德太臣、於高麗使曰、明神御宇日本天皇旨、天皇所遣之使、與高麗神子奉遣之使、既往短而將來長。是故、可以温和之心、相繼往來而已。又於百濟使曰、明神御宇日本天皇旨、始我遠皇祖之世、以百濟國爲內官家、譬如三絞之綱。中間以任那國、屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那國堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題國與所出調。汝佐平等、不易面來。早須明報。今重遣三輪君東人・馬飼造闕名。又勅、可送遣鬼部率意斯妻子等。

(現代語訳・大化元年秋七月二日,舒明天皇の女の間人皇女を建てて皇后とした。二人の妃を立てた。第一の妃は,阿倍倉梯麻呂大臣の女で小足媛という。有間皇子を生んだ。第二の妃は蘇我山田石川麻呂大臣の女で曰乳といった。十日,高麗・百濟・新羅が使いを遣わして,調を奉った。百濟の調の使いが,任那の使いを兼ねて,任那の調も奉った。ただ百濟の大使佐平緣福だけは病になり,難波津の館に留まり,京には入らなかった。巨勢德太臣が,高麗の使いに詔を伝えた。「明神として天下を治められる日本天皇が詔を宣う。天皇の遣わす使いと、高麗の神の子が遣わした使いとは,過去は短いが將来は長いだろう。この故に,温和な心を持って末永く行き来したい。また百済の使いに詔して,「明神として天下を治められる日本天皇が,詔として,次のように仰せられる。始め遠いわが皇祖の世に,百濟國を内官家としたもうたことは,例えていえば,三つ組の綱のようであった。なかごろ,任那を百濟に属させた。後に三輪栗隈君東人を遣わして,任那國の堺を刺殺させたところ,百済王は勅のままにすべてその境界を示した。しかし是,この旅のし調は欠るところがあった。そのため調が返却される。任那の奉ったものは天皇が親しくご覧になるところである。今後は詳しく国名と調をしるすようにせよ。汝佐平らよ,心変わりせず,来朝せよ。ぜひとも早く王に報告するように。今重ねて三輪君東人・馬飼造を遣わすことにする」といわれた。又勅して,鬼部率意斯の際し妻子らを百済に送り遣わすように」といわれた )

前後の文脈から・・・外国関係の内容

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(6)(7)戊寅、天皇阿倍倉梯萬侶大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、當遵上古聖王之跡、而治天下。復當有信、可治天下。己卯、天皇阿倍倉梯麻呂大臣・蘇我石川萬侶大臣曰、可歷問大夫與百伴造等、以悅使民之路。庚辰、蘇我石川麻呂大臣奏曰、先以祭鎭神祗、然後應議政事。是日、遣倭漢直比羅夫於尾張國、忌部首子麻呂於美濃國、課供神之幣。

(現代語訳・十二日,天皇は阿倍倉梯萬侶大臣・蘇我石川萬侶大臣に詔して,「まさに上古の聖王の跡に従い,天下を治めよう。また信をもって天下を治めよう」といわれた。十三日,天皇は阿倍倉梯麻呂大臣・蘇我石川萬侶大臣に詔して,「大夫たち多くの伴造らに,人民が喜びをもって使われるような方法を尋ねよ」といわれた。十四日,蘇我石川麻呂大臣が奏上して,「まず神祇を祭り鎮められてのち,政事を議るべきであります」といった。この日,倭漢直比羅夫尾張國,忌部首子麻呂を美濃國に遣わし,神に供える幣を課せられた )

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(8)八月丙申朔庚子、拜東國等國司。仍國司等曰、隨天神之所奉寄、方今始將修萬國。

(現代語訳・八月五日,東國の國司を召された。國司らに詔して,「天つ神の命ぜられるままに、,今はじめて日本国内のすべての国ぐに治めようと思う )

前後の文脈から・・・国司・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(9)是日、設鍾匱於朝。而曰、若憂訴之人、有伴造者、其伴造先勘當而奏。

(現代語訳・この日,鍾と匱を朝廷に設け,詔して,「もし訴えごとのある人が伴造に訴えたら,伴造はまずよく取り調べて奏上せよ

前後の文脈から・・・朝=朝廷・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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コメント

肥沼さんへ

 孝徳紀詔1~9の検証お疲れ様。
 どの結論も正しいと思います。

 2~5の詔関連の文で、高麗と百済の使いが「日本天皇」と述べていることに注目。
 つまり遅くともこの時期には九州王朝は「日本国」と名乗っていたことは明らか。
 したがってこの紀で倭国と表記されるところは、大和国、近畿天皇家の版図です。
 ここに注目しましょう。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月14日 (土) 23時43分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 孝徳紀詔1~9の検証お疲れ様。
 どの結論も正しいと思います。

うれしいです。
どの紀でも第1回は緊張します。

〉 2~5の詔関連の文で、高麗と百済の使いが「日本天皇」と述べていることに注目。
 つまり遅くともこの時期には九州王朝は「日本国」と名乗っていたことは明らか。
 したがってこの紀で倭国と表記されるところは、大和国、近畿天皇家の版図です。
 ここに注目しましょう。

私も「おやっ」と思いました。
情勢の変化ということですかね。 

投稿: 肥さん | 2021年8月15日 (日) 15時55分

肥沼さんへ
>情勢の変化ということですかね。

 いやそういう問題じゃないと思う。
 「日本国」という表記は神代の巻にも出て来るし神武紀からずっと使われているので、日本国表記がいつ始まったかの検証にはつかえない。
 でも「日本天皇」で検索すると、継体紀が最初。
 継体天皇の死を伝えた記述の後に注として、百済記に曰くとして・・・日本天皇と皇太子が死ぬという記事が出てくる。
 つまり継体と同時代の九州王朝天皇、おそらく磐井と戦った天皇から日本天皇と名乗っていたのであり、国名も日本国となったのだと思う。
 時代は6世紀半ば少し前。倭の五王の次の時代で、中国で北魏が南朝を圧迫し北を統一した時期。あとは南朝を抑え込めば統一中国が生まれるという時期。
 この時期に九州王朝は、年号を採用しているから、我こそは世界の中心と認識し、衰えた南朝に変わって東アジア世界の中心に躍り出ようとしたのでしょう。これは北魏に対抗してという意味でもある。
 日本国という国名。
 後にタリシホコが隋の皇帝に送った国書で、自らを「日出る国の天子」と名乗り、隋の皇帝を「日没する国の天子」としたことにつながる。
 どちらが優位と認識していたかわかりますね。

 だから一般的な情勢の変化ではなく、東アジアの国家間情勢が変化したことにともなう、国家意識の変化。

 倭国⇒日本国となったことで、倭=大和に変化する。
 つまり近畿天皇家の国号が倭国になるわけだ。
 この変化も継体紀の時代からと考えて良いと思う。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月15日 (日) 17時26分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  いやそういう問題じゃないと思う。
 「日本国」という表記は神代の巻にも出て来るし神武紀からずっと使われているので、日本国表記がいつ始まったかの検証にはつかえない。
 でも「日本天皇」で検索すると、継体紀が最初。
 継体天皇の死を伝えた記述の後に注として、百済記に曰くとして・・・日本天皇と皇太子が死ぬという記事が出てくる。
 つまり継体と同時代の九州王朝天皇、おそらく磐井と戦った天皇から日本天皇と名乗っていたのであり、国名も日本国となったのだと思う。
 時代は6世紀半ば少し前。倭の五王の次の時代で、中国で北魏が南朝を圧迫し北を統一した時期。あとは南朝を抑え込めば統一中国が生まれるという時期。
 この時期に九州王朝は、年号を採用しているから、我こそは世界の中心と認識し、衰えた南朝に変わって東アジア世界の中心に躍り出ようとしたのでしょう。これは北魏に対抗してという意味でもある。
 日本国という国名。
 後にタリシホコが隋の皇帝に送った国書で、自らを「日出る国の天子」と名乗り、隋の皇帝を「日没する国の天子」としたことにつながる。
 どちらが優位と認識していたかわかりますね。

 だから一般的な情勢の変化ではなく、東アジアの国家間情勢が変化したことにともなう、国家意識の変化。

 倭国⇒日本国となったことで、倭=大和に変化する。
 つまり近畿天皇家の国号が倭国になるわけだ。
 この変化も継体紀の時代からと考えて良いと思う。

なるほど!そういうことですか。
それは大きな意識の変化ですね。

投稿: 肥さん | 2021年8月15日 (日) 23時50分

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