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2021年8月12日 (木)

皇極紀の「詔」について【6】

(1)大臣曰、以津守連大海可使於高麗。以國勝吉士水鶏可使於百濟。水鶏、此云倶毗那。以草壁吉士眞跡可使於新羅。以坂本吉士長兄可使於任那。庚戌、召翹岐、安置於安曇山背連家。辛亥、饗高麗・百濟客。癸丑、高麗使人・百濟使人、並罷歸。

(現代語訳・蝦夷大臣に詔して,「津守連大海を高麗に,國勝吉士水鶏を百済に,草壁吉士眞跡を新羅に,坂本吉士長兄を任那に遣わすように」といわれた。二十四日,翹岐を呼んで、安曇山背連の家に住まわせた。二十五日,高麗・百濟の客に饗応させた。二十七日,高麗の使者・百濟の使者が共に帰途についた )

前後の文脈から・・・外国への派遣・使者の饗応・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか 

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(2)(3)九月癸丑朔乙卯、天皇大臣曰、朕思欲起造大寺。宜發近江與越之丁。百濟大寺。復課諸國、使造船舶。辛未、天皇大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁。

(現代語訳・九月三日,天皇は大臣に詔して,「大寺を造りたいと思う。近江国と越国の,公用人の夫を集めるように」といわれた。百済大寺である。また諸国に命じて船舶を建造させた。十九日,天皇は大臣に,今月から十二月までの間に,宮殿を造りたいと思う。国々に用材を盗らせるように。また,東は遠江まで,二死は安芸までの国ぐにから,造営の人夫を集めるように」といわれた)

前後の文脈から・・・百済大寺・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(4)癸巳、土師娑婆連猪手、視皇祖母命喪。天皇、自皇祖母命臥病、及至發喪、不避床側、視養無倦。乙未、葬皇祖母命于檀弓岡。是日、大雨而雹。丙午、罷造皇祖母命墓役。仍賜臣連伴造帛布、各有差。是月、茨田池水漸々變成白色。亦無臭氣。

(現代語訳・十七日,土師娑婆連猪手に詔して,皇祖母命の葬儀の儀をとり行わせた。天皇は皇祖母命が病臥されてから,喪を発するに至るまで床のそばを離れず,看病をおつとめになった)

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(5)冬十月丁未朔己酉、饗賜群臣伴造於朝堂庭、而議授位之事。遂國司。如前所勅、更無改換、宜之厥任、愼爾所治。

(現代語訳・冬十月三日,群臣・伴造に朝廷の庭で饗応された。そして叙位のことを議られた。国司に詔して,「以前に詔したように,改めて変わることなく,任命されたところに赴任して,そのつとめを慎んで行うように」と告げられた)

前後の文脈から・・・朝廷・国司

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(6) 天皇大驚、中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。蘇我臣入鹿、更名鞍作。天皇卽起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。

(現代語訳・天皇は大いに驚き中大兄皇子に,「これはいったい何事がおこったのか」といわれた。中大兄は平伏して奏上し,「鞍作(入鹿)は王子たちをすべて滅ぼして,帝位を傾けようとしています。鞍作(入鹿)をもって天子に代えられましょうか」といった。天皇は経って殿舎の中に入られた。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田は入鹿臣を斬った)

前後の文脈から・・・前段に「外国客の儀式」「表文」「大極殿」・しかし主語あり

☆ 九州王朝系の史料を利用して,近畿王朝の出来事のように近畿の史官が作文している

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コメント

肥沼さんへ
 皇極紀の詔の検証おつかれさま。
 1~5の結論はその通りです。
 2・3の詔で、大寺を作るために、近江と越の、そして大宮をつくるために、東は遠江まで西は安芸までから人夫を徴収しようとしたということは、これが近畿天皇家の勢力範囲を示していて興味深いです。

6は違うと思います。
この事件は明らかに近畿天皇家内の王位継承の争いに伴うものです。
 肥沼さんが九州王朝の史料をつかって近畿天皇家の出来事に見せかけたと判断した根拠の、三韓からの上表文や天皇が大極殿に座すという表現。
 これが事実とすれば、蘇我本家の蘇我入鹿を暗殺した場所は飛鳥京ではなくて、九州王朝の都である難波宮だということ。
 つまり何らかの理由で(九州王朝が隋や新羅との関係をどう進めるかで分家までも難波に集めていた)彼らは九州王朝の都におり、蘇我入鹿が邪魔になったので、九州王朝の同意のもとで、三韓の上表文が出されるのでその儀式に大和の幹部も同席せよとの九州王朝天皇の命令を出させて大極殿に誘い出して、そこで殺害したということ。
 したがってこのあと飛鳥に残った蘇我蝦夷らの勢力掃討が問題になり、急遽飛鳥に戻った軽皇子・葛城皇子らの勢力と蘇我本家との戦いになった。
 史料が造作されていないと見れば、こう考えるしかないです。
 もちろん近畿天皇家の史料に基づく記述です。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月13日 (金) 18時20分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 2・3の詔で、大寺を作るために、近江と越の、そして大宮をつくるために、東は遠江まで西は安芸までから人夫を徴収しようとしたということは、これが近畿天皇家の勢力範囲を示していて興味深いです。

なるほど。

〉 史料が造作されていないと見れば、こう考えるしかないです。
 もちろん近畿天皇家の史料に基づく記述です。 

う~ん。

投稿: 肥さん | 2021年8月13日 (金) 21時43分

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