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2021年8月11日 (水)

舒明紀の「詔」について【11】

舒明天皇

(1)(2)九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家。食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

(現代語訳・九月に葬礼は終わったが,まだ皇位は定まらなかった。このとき,蘇我蝦夷臣は大臣大臣であった。ひとりで皇嗣を決めようと思ったが,群臣が承服しないのではないかと恐れた。不從怖いいれた。阿倍麻呂臣と議り,群臣を集めて大臣の饗応した。食事が終わってさんかいしようとするとき,大臣は阿倍臣に命じ群臣にかたらせて,「いま,天皇はほうぎょされたままで後継者がない。もし速やかにきめなかったら,乱れがあろうかと恐れる。ところで,何れの王を日嗣にすべきであろうか。推古天皇が病臥なさった日に,詔して田村皇子に天下を治めるということは大任である。たやすく言うべきものではない。田村皇子よ,慎重によく物事を見通すようにして,しっかりとやりなさい」と仰せられた。次に山背大兄王に詔して,「お前はやかましく騒いではならぬ。必ず群臣の言葉にしたがって,慎んで道を誤たぬように」といわれた。これが天皇の遺言である。さて,誰を天皇にすべきだろうか )

前後の文脈から・・・近畿王朝内の出来事(次の天皇は誰にするか)

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(3)時群臣默之、無答、亦問之、非答。强且問之。於是、大伴鯨連進曰「既從天皇遺命耳。更不可待群言。」阿倍臣則問曰「何謂也、開其意。」對曰「天皇曷思歟、田村皇子曰天下大任也不可緩。因此而言皇位既定、誰人異言。」時、采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺、四臣曰「隨大伴連言、更無異。」許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手、三人進曰「山背大兄王、是宜爲天皇。」唯、蘇我倉麻呂臣更名雄當臣獨曰「臣也當時不得便言、更思之後啓。」爰大臣知群臣不和而不能成事、退之。

(現代語訳・群臣は答えることがとがなかった。もう一度尋ねたが答えはなかった。強いてまた問うと,大伴鯨連が進み出て,「天皇の遺命のままにすべきでしょう。このうえ群臣の意見を待つまでもないでしょう」といった。阿部氏は「どういうことなのか思うことをはっきり述べよ」といった。答えて,「天皇はどのよう思われて,田村皇子に詔して「天下を治めることは大任である。しっかりやるように」といわれたのでしょう。このお言葉からすれば,皇位は決まったと同じです。誰も異議をいうものはないでしょう」といった。このとき,采女臣摩禮志・高向臣宇摩・中臣連彌氣・難波吉士身刺の四人の臣たちが,「大伴連の言葉の通り,まったく意義はありません」といった。許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣鹽手の三人が進みでて,「山背大兄王,この人を天皇とすべきである」といった。ただ,蘇我倉麻呂臣だけは,「私はここで即座に申すことができません。もう少し考えて後に申しましょう。といった。蝦夷大臣は群臣が折り合わず,意見をまとめることは出来ぬと知って退席した

前後の文脈から・・・(1)(2)の続きの場面(次の天皇を誰にするか)

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(4)於是、大臣、得山背大兄之告而不能獨對、則喚阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等、仍曲舉山背大兄之語。既而便且謂大夫等曰、汝大夫等共詣於斑鳩宮、當啓山背大兄王曰「賤臣何之獨輙定嗣位、唯舉天皇之遺以告于群臣。群臣並言、如遺言、田村皇子自當嗣位、更詎異言。是群卿言也、特非臣心。但雖有臣私意而惶之不得傳啓、乃面日親啓焉。」

(現代語訳・蝦夷大臣は,山背大兄の訴えに自分からは返答しかねた。阿倍臣・中臣連・紀臣・河邊臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣等らをよんで,つぶさに山背大兄の言葉を説明した。そしてまた蝦夷は大夫たちに「大夫たちは共に斑鳩宮に参って,山背大兄王に「賤しい臣(蝦夷)がどうしてたやすく皇嗣を定められましょうか。ただ,天皇の遺詔を群臣につげるだけです。群臣らの言うには天皇の遺嗣のごとくならば田村皇子がどうしても皇嗣になられるべきです。誰も異議はありませぬと。これは群臣の言葉で,私だけの気持ちではありません。私だけの考えがあったとしても,恐れ多くて人づてには申し上げられません。直接お目にかかったときに,親しく申しましょうとこのように申し上げよ」といった

前後の文脈から・・・(3)の続き(次の天皇を誰にするか)

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(5)(6)(7)爰、群大夫等、受大臣之言、共詣于斑鳩宮。使三國王・櫻井臣以大臣之辭啓於山背大兄。時、大兄王、使傳問群大夫等曰「天皇遺奈之何。」對曰、臣等不知其深、唯得大臣語狀、稱、天皇臥病之日、田村皇子曰「非輕輙言來之國政。是以、爾田村皇子、愼以言之、不可緩。」次大兄王曰「汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。」是乃、近侍諸女王及采女等、悉知之、且大王所察。」

(現代語訳・そこで大夫たちは,蝦夷大臣の命を受けて,斑鳩宮に参った。三國王・櫻井臣を通じて,山背大兄に大臣の言葉を伝えた。大兄王は,三国王らを通じて大夫らに「天皇の遺詔とはどのようなことだったのか」といわれた。大夫たちは,手前どもは深いことは分かりませぬが,大臣の語っておられるところによると,天皇の病臥された日田村皇子に詔して,「軽々しく行く先の国政のことを言ってはならない。それゆえ田村皇子は,言葉を慎んで心をゆるめないように」と言われ,次に大兄王に詔して,「お前はまだ未熟であるから,あれこれあれこれと言ってはならぬ。群臣の言葉に従いなさい」つ仰せられた。これはお側近くにいた女王および采女などの全部がしていることであり,王も明らかにごぞんじのことであります」といった

前後の文脈から・・・(4)の続き(次の天皇を誰にするか)

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(8)(9)(10)於是、大兄王、且令問之曰「是遺也、專誰人聆焉。」答曰「臣等、不知其密。」既而更亦令告群大夫等、曰「愛之叔父、勞思、非一介之使遣重臣等而教覺、是大恩也。然、今群卿所噵天皇遺命者、少々違我之所聆。吾、聞天皇臥病而馳上之侍于門下。時、中臣連彌氣、自禁省出之曰、天皇命以喚之。則參進向于閤門。亦、栗隈采女黑女、迎於庭中引入大殿。於是、近習者栗下女王爲首、女孺・鮪女等八人、幷數十人侍於天皇之側。且、田村皇子在焉。時、天皇、沈病不能覩我。乃栗下女王奏曰、所喚山背大兄王參赴。卽天皇起臨之曰『朕、以寡薄久勞大業。今曆運將終、以病不可諱。故、汝本爲朕之心腹、愛寵之情不可爲比。其國家大基、是非朕世、自本務之。汝雖肝稚、愼以言。』乃當時侍之近習者、悉知焉。故、我蒙是大恩而一則以懼一則以悲、踊躍歡喜不知所如。仍以爲、社稷宗廟重事也、我眇少以不賢、何敢當焉。當是時思欲語叔父及群卿等、然未有可噵之時、於今非言耳。吾曾將訊叔父之病、向京而居豐浦寺。是日、天皇遣八口采女鮪女、之曰『汝叔父大臣常爲汝愁言、百歲之後嗣位非當汝乎。故、愼以自愛矣。』既分明有是事、何疑也。然、我豈餮天下、唯顯聆事耳。則天神地祇共證之。是以、冀正欲知天皇之遺勅。亦大臣所遣群卿者、從來如嚴矛嚴矛、此云伊箇之倍虛取中事而奏請人等也。故、能宜白叔父。」

(現代語訳・大兄王はまた,「「この遺詔は,誰が聞いたのか」と言われると,「手前たちはそのような機密は存じませぬ」と答えた。そこでまた郡大夫らに,「親愛なる叔父上の思いやりで,一人の使者ではなく,重臣らを遣わし教え諭して下さり,大きな恵みであると思う。しかるに今お前たちの述べる天皇のご遺言は,少々私の聞いていたところとは少し違う。私は天皇が病臥されたとうかがって,急いで禁中に参ったのだ。そのとき中臣連彌氣が中から出てきて言うのに,「天皇がお召しになっています」と。それで内門に入った。栗隈采女黑女が中庭に迎えて,大殿に案内した。入ってみると,近習の栗下女王を首として女孺・鮪女ら八人と,全部では數十人のものが天皇のお側ちかくにいた。また田村皇子もおられた。天皇は病が重くて,私をご覧になれなかった。栗下女王が奏上して,「お召の山背大兄王が參りました」というと,天皇身を起こして詔りされ,『自分はつたない身で久しく大業をつとめてきた。しかし今まさに終わろうとしている。病は避けることができない。お前はもとから私と心の通じ合った仲である。寵愛の心は他に比べる者がない。皇位が国家にとって大切なことは,いまの世に限ったことではない。お前はまだ心が未熟であるから言葉は慎重にするように」と言われた。そこに侍っていた近習の者は皆知っている。それで自分はこの有難い言葉を頂いて,一度は恐れ,一度は悲しく思った。しかし心は躍り上がり,感激して為すところを知らぬ有様であった。思うに天子として国を治めることは重大なことである。自分は若くも賢くもない。どうして大任に当れようか。このとき叔父や群卿らに話そうと思ったが,いうべき時がなく,今日まで言えなかった。自分はかつて叔父の病気を見舞おうと思って,都に行き,豊浦寺にいたことがある。この日,天皇は八口采女鮪女を遣わして詔りされ,『お前の叔父の大臣は,常にお前のことを心配していつかはきっと皇位がお前に行くのではなかろうか,といっていた。だから行いを慎み自愛するように」と仰せられた。すでにはっきりとこんなことがあったので,何を疑おうか。しかし自分は,天下をむさぼる気はない。ただ自分が聞いたことを明らかにするだけである。天神地祇も証明しておられる。こういう訳で,天皇の遺勅を知りたく思った。また大臣の遣わした郡卿は,もとより厳矛をまっすぐに立てるように,臣下の申し上げる公正に伝えることを務めとする人々である。それ故よく叔父に申し伝えてほしい」といわれた

前後の文脈から・・・(7)の続き(次の天皇を誰にするか)

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(11)十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還自温湯。乙卯、新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟。丙辰、無雲而雷。丙寅、大風而雨。己巳、長星見西北、時旻師曰「彗星也、見則飢之。」秋七月曰、今年、造作大宮及大寺。則以百濟川側爲宮處。

(現代語訳・十一年春一月八日,天皇の一行は有馬から帰えられた。十一日新嘗の祀りを行われた。有馬に行幸しておられ,新嘗を行われなかったようである。十二日,天に雲がないのに,雷が鳴った。二十二、,大風が吹いて,雨が降った罠師が「彗星である。これが現われると,凶作になる」といわれた、。秋七月,詔して,「今年、大宮と大寺を造らせる」といわれた。百済川のほとりを宮の地とした )

前後の文脈から・・・主語なし・前年に「百済・新羅・任那が朝貢してきた」という記事

☆ 九州王朝の史料の盗用によるものではないか

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コメント

肥沼さんへ
 舒明紀の詔の検証お疲れ様。
 1~10が近畿天皇家の史料による近畿天皇家の記事との判断。
 これで良いと思います。

 だが11は違う。
 一見して見事に主語が省略されている記事だ。
 前年に有馬の湯に行った話も「幸有馬温湯宮」だし、この年に有馬から戻ったときも「車駕還自温湯」という、天皇・天子にしかつかわない「車駕」で帰るという言葉を使っている。
 そして詔も主語がない。
 だから九州王朝史料からの盗用と肥沼さんは結論した。

 だが「大宮・大寺」を作るとの詔は舒明のもの。なぜならこの次の記事に 
 百済川のほとりにつくる
とあるし、舒明が亡くなった場所も百済宮だ。

 注:この百済川側の大寺が百済寺(吉備池廃寺)で正方位の寺だ。

 有馬の湯に行ってきたのは九州王朝の天皇。
 そして「大宮・大寺」を作ると言ったのは近畿大王舒明と読むべきです。
 この詔直前の「百済・新羅・任那が朝貢してきた」という記事ももちろん九州王朝の話。
 ここは九州王朝の話と近畿天皇家の話が絡み合って記述されているので間違いやすい。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月12日 (木) 21時38分

追伸
 8・9・10の詔の現代語訳。途中から原文の漢文のままになっている。
 直しておいてください。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月12日 (木) 21時40分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 ここは九州王朝の話と近畿天皇家の話が絡み合って記述されているので間違いやすい。

そういうことでしたか!

投稿: 肥さん | 2021年8月12日 (木) 22時36分

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