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2021年8月 8日 (日)

用明紀~崇峻紀の「詔」について 【10】

用明天皇

(1)九月甲寅朔戊午、天皇卽天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申、曰、云々。以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮奉日神祀。是皇女、自此天皇時逮乎炊屋姬天皇之世、奉日神祀。

(現代語訳・九月五日に用明天皇は即位された。磐余の地に宮をつくられた。名づけて邊雙槻宮という。蘇我馬子宿禰を大臣とし,物部弓削守屋を大連とすることはもとの通りであった。十九日に詔して,「云々」といわれた。酢香手姬皇女を伊勢神宮に遣わし,斎宮として仕えさせた

前後の文脈から・・・主語なし・「詔日,云々」は,近畿王朝の記録にないということではないか

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか 

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(2)(3)(4)二年夏四月乙巳朔丙午、御新嘗於磐余河上。是日、天皇得病還入於宮、群臣侍焉。天皇群臣曰「朕思欲歸三寶、卿等議之。」群臣入朝而議、物部守屋大連與中臣勝海連、違議曰「何背國神、敬他神也。由來不識若斯事矣。」蘇我馬子宿禰大臣曰「可隨而奉助、詎生異計。」於是、皇弟皇子皇弟皇子者、穴穗部皇子、卽天皇庶弟引豐國法師闕名也入於內裏。物部守屋大連、耶睨大怒。

(現代語訳・二年夏四月二日,磐余の河上で,新嘗の大祭が行われた。この日天皇は病にかかられて宮中に替えられた。群臣はおそばに侍り,天皇は群臣にいわれた。「自分は仏・法・僧の三宝に帰依したいと思う。卿らもよく考えて欲しい」と。群臣は参内して相談した。物部守屋大連と中臣勝海連は,勅命の会議に反対して,「どうして国つ神に背い,他国の神を敬うことがあろうか。大体ここのようなことは今まで聞いたことがない」といった。蘇我馬子宿禰大臣は,「詔に従ってご協力すべきである。誰がそれ以外の相談をすることになろうか」といった。穴穗部皇子は,豐國法師をつれて內裏にはいられた。。物部守屋大連はこれを睨んで大いに怒った )

前後の文脈から・・・神仏の件の続き

☆ 近畿王朝の史料によるものと考える

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崇峻天皇

(5)六月甲辰朔庚戌、蘇我馬子宿禰等、奉炊屋姬尊、佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙曰「汝等、嚴兵速往、誅殺穴穗部皇子與宅部皇子。」是日夜半、佐伯連丹經手等、圍穴穗部皇子宮。於是、衞士先登樓上、擊穴穗部皇子肩。皇子落於樓下走入偏室、衞士等舉燭而誅。辛亥、誅宅部皇子宅部皇子。)

(現代語訳・六月七日,蘇我馬子宿禰らは,炊屋姬尊を奉じて,佐伯連丹經手・土師連磐村・的臣眞嚙に詔して,「お前達,兵備を整え急行しし,穴穗部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じた )

前後の文脈から・・・神仏の件の続き

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(6)(7)四年夏四月壬子朔甲子、葬譯語田天皇於磯長陵、是其妣皇后所葬之陵也。秋八月庚戌朔、天皇群臣曰「朕思欲建任那、卿等何如。」群臣奏言「可建任那官家、皆同陛下所 。」

(現代語訳・四年夏四月十三日,敏達天皇を磯長陵に葬った。これはその母の皇后の葬られた陵である。秋八月一日,天皇は群臣に,「自分は新羅に滅ぼされた任那を再建したいと思うが,たちはどう思うか。」とお尋ねになった。群臣はお答えしていった。「任那の官家を復興すべきであります。みな陛下の思し召しと同じです。」

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか。

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(8)(9)五年冬十月癸酉朔丙子、有獻山猪、天皇指猪曰「何時、如斷此猪之頸斷朕所嫌之人。」多設兵仗、有異於常。壬午、蘇我馬子宿禰、聞天皇所、恐嫌於己。招聚儻者、謀弑天皇。是月、起大法興寺佛堂與步廊。

(現代語訳・五年冬十月四日,猪を奉る者があった。天皇は猪を指さしておっしゃった。「いつの日かこの猪の頸を斬るように,自分がにくいと思うところの人を斬りたいものだ」と。)

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿天皇家の史料によるものではないか。

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(10)十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東國之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。是日、葬天皇于倉梯岡陵。或本云、大伴嬪小手子、恨寵之衰、使人於蘇我馬子宿禰曰「頃者有獻山猪、天皇指猪而曰、如斷猪頸何時斷朕思人。且於內裏大作兵仗。」於是、馬子宿禰聽而驚之。

(現代語訳・十一月三日,馬子宿禰は群臣をだましていう野には,「今日東の國から調を奉ってくると」と。そして東漢直駒を使って天皇を弑してたてまつった。ある本には,東漢直駒は,東漢直磐の子であるとある。この日,天皇を于倉梯陵に葬むった。。またある本には,大伴嬪小手子が,寵愛の衰えたことを恨んで,人を蘇我馬子宿禰のもとに送り,「この頃獻山猪を奉ったもの者がありました。天皇は猪を指さして,「猪を指さして,何時の日火,自分が思っているある人を斬りたい」と言われ又。また內裏に多くの武器を集めておられます」とつげた。これを聞いて馬子宿禰大変驚いたとある。 )

前後の文脈から・・・主語あり

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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コメント

詔1~10の検証お疲れ様。

 2~10が近畿天皇家の事績でその史料によるものとの判断で良いと思います。


 ではなぜ1だけ九州王朝史料の盗用と判定したのでしょうか。
 詔の主語はないですが、文脈からこれは新たに大王に即位した用明のものと判断できます。

 だが肥沼さんは、詔の内容が省略されている方に意識が行ってしまい、「近畿天皇家の史料にない」のだから=盗用としてしまったのでしょうか。
 近畿天皇家の記録にないのは用明の即位の詔だけであって、大王に即位したことはちゃんと記録されていたのです。
 即位の詔はそもそもないのではないでしょうか。それを書紀を編纂した史官が「ないのはおかしい」と造作するのではなくて省略という手法で記録しただけだと思います。
 この1の話は明らかに近畿大王用明即位に関する話なのですから、話の内容からも盗用とは考えようがありません。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 9日 (月) 16時54分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 詔の主語はないですが、文脈からこれは新たに大王に即位した用明のものと判断できます。

(1)は内容がはっきりせず,すごく迷って,〈2〉〜(10)を先にやってから最後に(1)をやって「盗用」としました。
「大王に即位した」という記録というのは,これまでありましたっけ?

投稿: 肥さん | 2021年8月 9日 (月) 17時15分

>「大王に即位した」という記録というのは,これまでありましたっけ?

何をボケているの?
 どの「紀」でも冒頭に、即位前紀に続いてこの記述があります。
 用明紀が異例なのは、即位にあたっての詔の内容が省略されていること。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 9日 (月) 17時57分

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