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2021年8月 6日 (金)

敏達紀の「詔」について【13】

敏達天皇

(1)丙辰、天皇、執高麗表䟽、授於大臣、召聚諸史令讀解之。是時、諸史、於三日內皆不能讀。爰有船史祖王辰爾、能奉讀釋。由是、天皇與大臣倶爲讚美曰「勤乎辰爾、懿哉辰爾。汝、若不愛於學、誰能讀解。宜從今始近侍殿中。」既而、東西諸史曰「汝等、所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。」 天皇與大臣倶爲讚美曰「勤乎辰爾、懿哉辰爾。汝、若不愛於學、誰能讀解。宜從今始近侍殿中。」既而、東西諸史曰「汝等、所習之業、何故不就。汝等雖衆、不及辰爾。」

(現代語訳・・・ 十五日,天皇は高麗の国書をとって大臣に授けられた。そして多くの史を召し集めて解読させられた。この時史たちは三日かかっても誰も読むことができなかった。そのとき船史の祖先,王辰爾が読み解いて奉ったので,「よくやった。辰爾。立派なことだ。お前がもし学問に親しんでいなかったら,誰もこの文章を読み得たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように」といわれた。そして東西の史に,「お前たちの習業はまだ足りない。お前たちの数は多いが,辰爾一人に及ばないではないか」といわれた )

前後の文脈・・・主語なし・国書

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(2)冬十月戊子朔丙申、遣蘇我馬子大臣於吉備國、増益白猪屯倉與田部。卽以田部名籍、授于白猪史膽津。戊戌、船史王辰爾弟牛、賜姓爲津史。十一月、新羅遣使進調。

(現代語訳・冬十月九日,蘇我馬子大臣を吉備國に遣わして,白猪の屯倉と田部の農民を殖やされた。田部の名籍を白猪膽津に授けられた。十一日,船史王辰爾の弟・牛に詔され,姓を賜って津史とされた。十一月,新羅が使いを遣わして調をたてまつった )

前後の文脈・・・吉備は九州王朝の版図。新羅が使いを贈る相手は九州王朝

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(3)二月壬辰朔、馬子宿禰大臣還于京師、復命屯倉之事。乙丑、百濟遣使進調、多益恆歲。天皇、以新羅未建任那、皇子與大臣曰、莫懶懈於任那之事。

(現代語訳・二月一日,馬子宿禰大臣は京に帰り,屯倉のことを復命された。十一日,百濟が使いを遣わして調をたてまつった。超は例年よりも多かった。天皇は,皇子と大臣とに詔して,「任那のことを怠らないように」といわれた )

前後の文脈・・・京師は都・任那

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(4)五年春三月五年春三月己卯朔戊子、有司請立皇后、 立豐御食炊屋姬尊、爲皇后。

(現代語訳・五年春三月十日,役人が皇后を立てられるよう申し上げた。そこで詔して,豐御食炊屋姬尊を皇后とした )

前後の文脈・・・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用と思われる。

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(5)六年春二月一日,置日祀部・私部。夏五月癸酉朔丁丑、遣大別王與小黑吉士、宰於百濟國。

(現代語訳・六年春二月一日,詔により日祀部と私部を置いた。夏五月五日,大別王と小黑吉士を遣わして,百濟國の宰とした。 )

前後の文脈・・・主語なし・百済国の宰

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(6)十年春潤二月、蝦夷數千冦於邊境。由是、召其魁帥綾糟等魁帥者、大毛人也曰「惟、儞蝦夷者、大足彥天皇之世合殺者斬應原者赦。今朕遵彼前例、欲誅元惡。」於是、綾糟等、懼然恐懼、乃下泊瀬中流、面三諸岳、歃水而盟曰「臣等蝦夷、自今以後子々孫々古語云、生兒八十綿連用淸明心、事奉天闕。臣等若違盟者、天地諸神及天皇靈、絶滅臣種矣。」

(現代語訳・十年春潤二月,蝦夷數千が辺境を犯し荒らした。これによりその首領らを召して詔され,「思うに,お前たち蝦夷らを景行天皇の御代に討伐され,殺すべきものは殺し,許すべきものは許した。今,自分は前例に従って首領者である者は殺そうと思う其といわれた。綾糟ら畏れかしこみ,泊瀬川の川中に入り水をすすって,三輪山に向かい誓って,「私ども蝦夷、自今は,今から後,子々孫々に至るまで,清く明るい心をもって,帝にお仕え致します,もし誓いに背いたら,天地の諸神と天皇の霊に,私どもの種族は絶滅されるでしょう」といった

前後の文脈・・・初瀬川・三輪山は近畿の地名だが,景行天皇のことが出て来るし,主語なし

☆ 九州王朝の説話かもしれない。

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(7)十二年秋七月丁酉朔、曰「屬我先考天皇之世、新羅滅內官家之國。天國排開廣庭天皇廿三年、任那爲新羅所滅、故云新羅滅我內官家也。先考天皇謀復任那、不果而崩、不成其志。是以、朕當奉助神謀復興任那。   今在百濟、火葦北國造阿利斯登子達率日羅、賢而有勇。故、朕欲與其人相計。」乃遣紀國造押勝與吉備海部直羽嶋、喚於百濟。冬十月、紀國造押勝等還自百濟、復命於朝曰「百濟國主、奉惜日羅、不肯聽上。」

(現代語訳・十二年秋七月一日,詔して,「なき父,欽明天皇の御代に手,新羅は任那の内官家を滅ぼした。。欽明天皇二十三年に,任那は新羅はわが內官家を滅ぼしたというのである。欽明天皇は,任那の回復を図られた。しかし果たされないで亡くなられたのである。それで自分は尊い計画をお助けして,任那を復興しようと思う )

前後の文脈・・・主語なし・外国関係記事(侵略計画)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(8)天皇、贄子大連・糠手子連令收葬於小郡西畔丘前、以其妻子・水手等居于石川。於是、大伴糠手子連議曰「聚居一處、恐生其變。」乃以妻子居于石川百濟村、水手等居于石川大伴村。收縛德爾等、置於下百濟阿田村。遣數大夫推問其事、德爾等伏罪言「信是、恩率・參官教使爲也。僕等、爲人之下不敢違矣。」由是、下獄、復命於朝庭。

(現代語訳・天皇は、贄子大連・糠手子連に詔して,小郡の西の畔の丘の先に,収め葬るよう,その妻子・水手らを石川に住まわせるととせたが,大伴糠手子連が議って,「一か所に纏めておいては,恐らく何か変事を起こすかも知れません」といった。そこで妻子は石川百濟村に置き,水夫らを石川大伴村に置いた。德爾らを捕縛して、下百濟の河田村に置いた。大夫たちを遣わして尋問した。德爾らは罪を認めて,「本当でございます。これは恩率・參官が教えてさせたのです。私たちは部下として,命令に背けなかったのです」といった。これにより,獄舎に下して,朝廷に報告した。

前後の文脈・・・主語あり・朝廷

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(9)(10)十四年春二月戊子朔壬寅、蘇我大臣馬子宿禰、起塔於大野丘北、大會設齋。卽以達等前所獲舍利、藏塔柱頭。辛亥、蘇我大臣患疾。問於卜者、卜者對言「祟於父時所祭佛神之心也。」大臣卽遣子弟、奏其占狀。曰「宜依卜者之言、祭祠父神。」大臣奉、禮拜石像、乞延壽命。是時、國行疫疾、民死者衆。

(現代語訳・十四年春二月十五日,蘇我大臣馬子宿禰は,塔を大野丘の北に建てて,法会の設齋を行った。先に達らが得た舍利を、塔の心柱の下に埋めた。二十四日に蘇我大臣は病気になった。卜者に占わせると,卜者は,「父の時に祀った仏に祟られています」といった。大臣は子弟を遣わして,その占いに表われた亀裂の形を奏上した。詔帝は「卜者の言葉に従って父のあがめられて仏をお祀りするように」といわれた。大大臣はおおせに従い,石像を礼拝し,寿命を延べ給えとお祈りした。このとき国内に疫病かおこって人民の死ぬ者が多かった )

前後の文脈・・・神仏の話題がまだ続いている

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(11)三月丁巳朔、物部弓削守屋大連與中臣勝海大夫、奏曰「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、國民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」曰「灼然、宜斷佛法。」丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。

(現代語訳・三月一日,物部弓削守屋大連と中臣勝海大夫は奏上して,「どうして私どもの申し上げたことをお用いにならないのでしょうか。欽明天皇より陛下の代に至るまで,疫病が流行し,国民も死に絶えそうなのは,ひとえに蘇我氏に仏法を広めたことによるものでに相違ありませぬ」といった。天皇は詔して,「これは明白である。早速仏法をやめよ」といわれた。三十日,物部弓削守屋大連は自ら寺に赴き,床几に胡坐をかき,その塔を切り倒させ,火をつけて焼いた。同時に仏像と仏殿も焼いた。焼け残った仏像を集めて,難波の既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。

前後の文脈・・・神仏の話の続き・主語なし

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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(12)天皇、思建任那、差坂田耳子王、爲使。屬此之時、天皇與大連卒患於瘡、故不果遣、橘豐日皇子曰「不可違背考天皇勅、可勤修乎任那之政也。」又發瘡死者充盈於國、其患瘡者言「身、如被燒被打被摧」啼泣而死。老少竊相謂曰「是、燒佛像之罪矣。」

(現代語訳・天皇は任那の再興を考え,坂田耳子王を使いに選ばれた。このとき天皇と大連が急に疱瘡に冒された。それで遣わされるのをやめた。橘豐日皇子に詔して,「先帝の勅に背かぬように,任那復興の政策を怠るな」といわれた。疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。その瘡を病む者が,「体が焼かれ,うちくだかれるように苦しい」といって泣き叫びながら死んでいった。老いも若きもひそかに語り合って,「これは仏像を焼いた罪だろう」と言った

前後の文脈・・・神仏の件の続き

☆ 近畿王朝の史料と考える

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(13)夏六月、馬子宿禰奏曰「臣之疾病至今未愈、不蒙三寶之力難可救治。」於是、馬子宿禰曰「汝可獨行佛法、宜斷餘人。」乃以三尼還付馬子宿禰。馬子宿禰、受而歡悅嘆未曾有、頂禮三尼、新營精舍迎入供養。或本云、物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連、倶謀滅佛法、欲燒寺塔幷棄佛像。馬子宿禰、諍而不從。

(現代語訳・夏六月、馬子宿禰が奏上して,「私の病気が重く,いまに至るもなおりません。仏の力を蒙らなくては,治ることは難しいでしょう」といった。そこで,馬子宿禰に詔して,「お前一人で仏法を行いなさい。他の人にはさせてはならぬ」といわれた。三人の尼を馬子宿禰に返し渡された。馬子宿禰は,これを受けて喜んだ。珍しいことだと感歎し,三人の尼を拝んだ。新しく寺院を作り,仏像を迎え入れ供養した。ある本にはー物部弓削守屋大連・大三輪逆君・中臣磐余連が仏教を滅ぼそうと共謀し,寺塔を焼き仏像を捨てようとしたが,馬子宿禰が反対し,それをさせなかったという )

前後の文脈・・・神仏の件の続き

☆ 近畿王朝の史料によるものではないか

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コメント

肥沼さんへ

 詔1~7の検証お疲れ様。
 今度は何でも九州王朝史料の盗用にしてしまっていますね。
 内容の吟味が足らない。

詔1:欽明紀の最後の方にあった越の国に高麗の使いが漂着した話の続き。国書は九州王朝天皇宛であったろうが、漂着したのが近畿天皇家の管轄域の越であったので近畿天皇家で対応したものだろう。
 近畿天皇家の史料に基づく記述。
 外交関係=盗用
 が成り立たない時期に入ったと、欽明紀で指摘しましたね。

詔2:これは吉備という九州王朝版図に屯倉を定める記事だから、九州王朝の事績との判断は正しい。
 近畿大王の重臣も九州王朝天皇の命令で動いていたことがわかる例。九州王朝史書からの盗用で良い。
 ただし吉備派遣の記事と次の新羅朝貢の話は別記事。

詔3:これは2の続き。ここも九州王朝史書からの盗用。

詔4:これは敏達の立后の話。近畿天皇家の話。これを立后の詔の形式に書き直しただけ。
 近畿天皇家の史料に基づく記述。

詔5:これは九州王朝史書からの盗用で良い。部を置けるのは天皇の専権事項。
 春2月の記事と夏5月の記事は別記事。
 あとの記事に百済があるからとの理由で前の記事も盗用との論理は使えない。
 

詔6:九州王朝史書からの盗用でよい。「説話」とする理由がわからない。これも外交関係記事。
 大足彦天皇=景行 とは限らない。当時の九州王朝天皇の名かもしれないし、元の詔の名を近畿の大王の当時の名に書き換えた可能性もある。
 泊瀬・三諸岳=近畿の地名とは限らない
 特に三諸岳という名の山は各地にある。

詔7:朝鮮半島での任那を巡って新羅や百済と争ってきたのは九州王朝。天國排開廣庭天皇廿三年とあるが、ここも天皇の名前を近畿王朝史官が書き換えた可能性あり。
 九州王朝史書の盗用でよい。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 7日 (土) 09時00分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

なかなか難しいです。

投稿: 肥さん | 2021年8月 8日 (日) 01時41分

詔8~13の検証お疲れ様。

9~13の詔が近畿天皇家の記事だとの判断はそのとおりです。

8は九州王朝の記事ではなく、近畿天皇家の記事と判断できます。
 任那復興のために百済の高官となっていた日羅(火葦北國造阿利斯登の子)を招いて、任那復興策を建言させたが、一緒に来た百済高官が危険を感じて日羅を暗殺したという話。
 この百済高官らを捕らえて尋問して獄に繋いだあとに、「復命於朝庭。」とある。
 つまり日羅を殺した百済高官らを逮捕したのは朝廷ではない。
 そして百済から招かれた日羅の行程は
 百済⇒吉備児島⇒難波 だ。
 これは北九州を目指さず、近畿の大和を目指す行程。
 したがって日羅を招いた話全体が、近畿天皇家の事績となります。

 ただし朝廷に復命したあとの
 火葦北國造に事態を知らせて、日羅を殺した百済高官らを引き渡した行為の主体は、九州王朝です。
 

 結論として
8の詔は近畿大王の命令となり
関連して
7の「任那復興の詔」も近畿大王の命令となります。

 この日羅の話(とその前の高麗の使いの話ーここでも貢物を京師に送るとあります)から分かることは、これまで外交にはほとんど関わって来なかった近畿天皇家が積極的に外交にかかわり始めたことです。
 欽明紀の記事で明らかなように、この時期の九州王朝は百済を動かして新羅に滅ぼされた任那復興に躍起になっています。
 この動きに、前大王の欽明から、近畿天皇家は積極的にかかわろうとしたのではないでしょうか。つまり親九州王朝の分家として、その対外政策に協力を。

 このように理解すると、12の詔で任那復興を果たそうとして使節を選んだが、国中に疱瘡が流行して使節派遣が中止されたに際して、大王が「仏像を焼いた罪だ」と言ったという話と矛盾が無くなります。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 8日 (日) 12時46分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 この日羅の話(とその前の高麗の使いの話ーここでも貢物を京師に送るとあります)から分かることは、これまで外交にはほとんど関わって来なかった近畿天皇家が積極的に外交にかかわり始めたことです。
 欽明紀の記事で明らかなように、この時期の九州王朝は百済を動かして新羅に滅ぼされた任那復興に躍起になっています。
 この動きに、前大王の欽明から、近畿天皇家は積極的にかかわろうとしたのではないでしょうか。つまり親九州王朝の分家として、その対外政策に協力を。

なるほど,そういうことなのですか。

投稿: 肥さん | 2021年8月 8日 (日) 15時07分

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