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2021年8月22日 (日)

天武紀の「詔」について 【66】のうち【24】~【34】

(24)八年春正月壬午朔丙戌、新羅送使加良井山・金紅世等、向京。戊子、曰「凡當正月之節、諸王諸臣及百寮者、除兄姉以上親及己氏長以外、莫拜焉。其諸王者、雖母非王姓者、莫拜。凡諸臣亦莫拜卑母。雖非正月節、復准此。若有犯者、隨事罪之。」己亥、射于西門。

※「詔」関係部分のみ訳します。目がしょぽしょぼしてますので・・・。

(現代語訳・七日,詔して,「正月の節会のときに,諸臣および百寮は,兄姉以上の親族および自分の氏神を除いて,この他には拝礼することを禁ずる。

前後の文脈すら・・・主語なし

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(25)二月壬子朔、高麗、遣上部大相桓父・下部大相師需婁等、朝貢。因以、新羅遣奈末甘勿那、送桓父等於筑紫。甲寅、紀臣堅摩呂、卒。以壬申年之功、贈大錦上位。乙卯、曰「及于辛巳年、檢校親王諸臣及百寮人之兵及馬。故、豫貯焉。」是月、降大恩恤貧乏、以給其飢寒。 

(現代語訳・四日,詔して,「天武十年に,親王・諸臣や百寮の人たちの武器や馬の検査を行うから,あらかじめ準備をしておくように」といわれた)

前後の文脈から・・・主語なしだが,天武十年がかかれている

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(26)夏四月辛亥朔乙卯、曰、商量諸有食封寺所由、而可加々之、可除々之。是日、定諸寺名也。己未、祭廣瀬龍田神。

(現代語訳・夏四月五日,詔して「食封を与えられている諸寺の由緒を調べ,加えるべきものは加え,やめるべきものはやめよ」といわれた。この日,諸寺の名をえらび定めた。

前後の文脈から・・・主語なしだが,諸寺の由緒を調べ直す調査なので,近畿の仕事か

☆ 近畿王朝の史料からか

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(27)五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前。

(現代語訳・五月五日,吉野宮に行幸された。六日,天皇は皇后および草壁皇子・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して,「自分は,今日、お前たちと共朝廷で盟約し,千年の後まで,継承の争いを起こすことのないように図りたいと思うがどうか」といわれた )

前後の文脈から・・・主語なしだが,吉野宮・天皇・皇后・子どもたち

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(28)(29)六月庚戌朔、氷零、大如桃子。壬申、雩。乙亥、大錦上大伴杜屋連、卒。秋七月己卯朔甲申、雩。壬辰、祭廣瀬龍田神。乙未、四位葛城王卒。八月己酉朔、曰、諸氏貢女人。己未、幸泊瀬、以宴迹驚淵上。先是、王卿曰「乘馬之外、更設細馬、以隨召出之。」卽自泊瀬還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。庚午、縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴。癸酉、大宅王卒。

(現代語訳・八月一日,詔して,「諸の氏は,それぞれ女人をたてまつれ」といわれた。・・・これよりさき,王卿らに詔して,「乘用馬の他に,さらに別の良馬を用意し,召されることがあったときは,直ぐ差し出せるように」といわれた)

前後の文脈から・・・両方とも主語なしだが,瀧田や泊瀬の地名あり

☆ 近畿王朝の史料ではないか

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(30)九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、曰「朕聞之、近日暴惡者多在巷里。是則王卿等之過也。或聞暴惡者也煩之忍而不治、或見惡人也倦之匿以不正。其隨見聞以糺彈者、豈有暴惡乎。是以、自今以後、無煩倦而上責下過・下諫上暴、乃國家治焉。」

(現代語訳・冬十月二日、詔して,「この頃乱暴で悪事をはたらく者が里に多いと聞く。これは王卿らの落ち度である。乱暴で悪事をはたらく者があると聞いても,面倒と思って表ざたにせず,悪い者を見ても怠って隠して正そうとしない。それを見聞きしたらすぐ糺すすようにすれば,暴悪な者はなくなる。今後煩い怠ることなく,上に立つ者の誤りを攻め,下の者の誤りを責め,下の者は上野者の粗暴な振る舞いをいさめれば,国家は収まるだろう」といわれた )

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(31)冬十月壬寅朔乙巳、恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之、一毎僧尼各絁四匹・綿四屯・布六端、沙彌及白衣各絁二匹・綿二屯・布四端。十一月壬申朔、日蝕之。甲戌、自戌至子、東方明焉。乙亥、高麗人十九人返于本土、是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也。・・・・・戊寅、百官曰、若有利國家寛百姓之術者、詣闕親申、則詞合於理立爲法則。

(現代語訳・冬十月壬寅朔乙巳、恤京內諸寺貧乏僧尼及百姓而賑給之、一毎僧尼各絁四匹・綿四屯・布六端、沙彌及白衣各絁二匹・綿二屯・布四端。十一月壬申朔、日蝕之。甲戌、自戌至子、東方明焉。乙亥、高麗人十九人返于本土、是當後岡本天皇之喪而弔使留之未還者也。

・・・・・七日,百官に詔して,「もし国家に利益となり,人民を豊かにする術があれば,朝に参ってみずから申し述べ。いうところの利に叶えれば取り上げて,法律として実施しよう」と言われた )

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(32)十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人拜朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍賜姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。・・・・・己丑、畿內及諸國修理天社地社神宮。

(現代語訳・十年春正月辛未朔壬申、頒幣帛於諸神祗。癸酉、百寮諸人拜朝庭。丁丑、天皇、御向小殿而宴之。是日、親王諸王引入內安殿、諸臣皆侍于外安殿、共置酒以賜樂。則大山上草香部吉士大形授小錦下位、仍賜姓曰難波連。辛巳、勅境部連石積、封六十戸、因以給絁卅匹・綿百五十斤・布百五十端・钁一百口。丁亥、親王以下小建以上、射于朝庭。・・・・・十九日,畿內および諸國に詔して,諸の神社の社殿を修理させた )

前後の文脈から・・・主語なし・畿内

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(33)二月庚子朔甲子、天皇々后共居于大極殿、以喚親王諸王及諸臣、之曰「朕今更欲定律令改法式、故倶修是事。然頓就是務公事有闕、分人應行。」・・・・・是日、立草壁皇子尊爲皇太子、因以令攝萬機。戊辰、阿倍夫人薨。己巳、小紫位當摩公豐濱薨。

(現代語訳・二月二十五日,天皇・皇后ご一緒に大極殿にお出ましになり,親王・諸王および諸臣をお召しになって詔し,「自分は今ここに律令を定め,法式を改めたいと思う。それ故皆この事に取り掛かるように。しかし急にこれのみを仕事とすれば,公事を欠くことがあろうから,分担して行うようにせよ」といわれた

前後の文脈から・・・大極殿

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(34)三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。庚寅、地震。甲午、天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲、仍令調習。

(現代語訳・三月四日,阿倍夫人を葬った。十七日,天皇は大極殿にお出ましになり,川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首に詔して,帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した。二十一日,地震があった。。二十五日,天皇は新宮の井のそばにおいでになり,試みに鼓や笛の音を出して見られ,練習をさせられた )

前後の文脈から・・・大極殿

☆ 九州王朝の史料からの盗用ではないか

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コメント

天武紀の詔24~34の検証お疲れ様。

 またまた間違いがとても多い。
 
詔25:天武10年が入っているを理由にして近畿天皇家の事績としたが、原文は単に干支で「辛巳年」としているのだから天武10年というのは解釈に過ぎない。原文に即してみれば九州王朝の事績。

詔26:諸寺の由緒を調べ直す調査だからとして近畿天皇家の事績としたが、九州王朝天皇の命令として出されたとするべき。主語が省略された文だから。

詔28・29:瀧田や泊瀬の地名ありを理由として近畿天皇家の事績としたが、この二つの地名はそれぞれの詔に入ってはおらず、別の文だ。「秋七月己卯朔甲申、雩。壬辰、祭廣瀬龍田神。」と「卽自泊瀬還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。」の二つは詔とは関係のない別の事項。
 だから詔は九州王朝の事績。

詔33:律令を定めて法式を変えるという詔。詔の主体は、その前に天皇皇后ともに大極殿におわして、諸王諸臣を招いて、詔すとあるから、主語が天皇であることが明記されている。肥沼さんは「大極殿」があるから九州王朝の事績としたが、次の34の詔の後に「天皇居新宮」とあって、これが前期難波宮と考えられるので、九州王朝天皇のために作った大極殿のある宮で、近畿大王が「律令を制定したい」と詔したと考えることができる。
 天智10年にすでに新律令制定の記事があるから、これが九州王朝最初の律令。
 天武10年のこれは近畿天皇家としての最初の律令制定開始の詔。
 これは近畿天皇家の事績です。

詔34:これも大極殿の言葉があるから九州王朝の事績としたが、ここでも詔の主語は、その前の「天皇御于大極殿」=天皇は大極殿におわしてを受けたものだから、詔の主語は近畿大王天武だ。
 これは史書編纂のために「帝紀および上古の諸事を記し」たもの。これが「古事記」編纂の始まりだ。
 ということでここも近畿天皇家の事績。

 この10年の二つの記事はともに大極殿で行われている。

 書紀における大極殿初出は皇極紀のいわゆる蘇我入鹿暗殺事件の場として。ここは九州王朝の宮・難波宮の大極殿と考えられる。
 そして次に4件大極殿が出てくるのが天武紀下。
 10年の2月3月の律令と帝紀編纂の話の場として。
 次は12年の正月朝拝に続く宴の場としての大極殿前庭。
 4つ目が天武15年(7月に改元して朱鳥元年)の正月の諸王卿の宴の場として。
 天武紀の4つの大極殿は九州王朝の宮の大極殿であろうか?
 12年の正月の大極殿は先に見たように新宮の大極殿と見られ、前期難波宮だろう。
 では15年の大極殿は?
 この15年の正月宴の直後に「難波大藏省失火、宮室悉焚。」の記事が出てくるのでこれは九州博多の難波宮焼失記事であるとおもわれるので、大極殿も九州難波宮のそれ。
 だから九州王朝は直ちに新宮造営に入ったのではないか。
 それは早くも7月に完成し、「飛鳥淨御原宮」と名付けられた。天武紀下の冒頭に天武が大王に即位した「飛鳥淨御原宮」とは別の宮だ。

 ついでに九州王朝天皇の動向を正月の拝朝記事で見ておこう。
 正月の拝朝が行われたのは
 まず天武4年と5年。
 次は天武10年。
 天武5年までは九州王朝天皇は飛鳥にいたが(岡本宮)、その後は九州に戻ったのではないか。
 9年の9月に新羅や高麗・耽羅の使人が拝朝している。これは九州に違いない。
 そして天武10年の新宮での拝朝。
 九州王朝天皇のための新宮(名前は記されない・今の前期難波宮と思われる)ができたので、九州王朝天皇は戻ってきた。
 そして次に正月拝朝が行われたのは
 天武12年。
 その次が天武14年。
 なんと11年と13年は正月の拝朝は行われていない。
 もしかして一年毎に九州ー近畿の宮を移動していた?

 そして天武15年。一年毎に近畿―九州を移動ならこの年は九州だ。そして直後に難波宮の焼失。
 だからここで燃えたのは九州難波宮。
 直後に新宮を作られた。九州の飛鳥浄御原宮だ。

 次に九州王朝天皇が動くのが
 持統6年3月。いわゆる伊勢行幸。九州⇒(海路)⇒伊勢⇒(陸路)⇒飛鳥の行程か?

 そして次に正月の拝朝が行われるのは持統8年。だが拝朝とは記していない。この年の12月に藤原宮に遷宮。
 続く9年10年11年も正月の拝朝と思しき儀式が行われているが拝朝とは記していない。
 そして11年8月に皇太子に禅譲。

 

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月23日 (月) 01時04分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉またまた間違いがとても多い。

ノーミソがぐにゃぐゃになっています。
Aということに注目すると,Bということを忘れているし,前期難波宮の大極殿という存在が急に現れるし・・・。
天武紀の「詔」でこんなにバタバタしているので,持統紀の「詔」ではどうなってしまうのか・・・。
でも,逆に言うと(24)(27)(30)(31)(32)の5つは正解だったわけですね。
本来近畿天皇の「詔」と思っていたものが
実は九州王朝の天皇の「詔」だったわけですから,このことにも触れていただければと思います。

今回の内容は,私にはむずかしすぎます。天武紀の「詔」までは今の形で,持統紀の「詔」については,私が準備はして,川瀬さんの回答で〆ていただきたいと思うのですが,いかがでしょう。
読者の方々もそうお考えではないでしょうか。

投稿: 肥さん | 2021年8月23日 (月) 08時26分

>天武紀の「詔」までは今の形で,持統紀の「詔」については,私が準備はして,川瀬さんの回答で〆ていただきたいと思うのですが,いかがでしょう。
読者の方々もそうお考えではないでしょうか。

お断りします。
 まずは肥沼さんがご自身で検証してください。
 そんなに難しくはないです。
 今回だって半分は正解なのです。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月23日 (月) 08時40分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉お断りします。
 まずは肥沼さんがご自身で検証してください。
 そんなに難しくはないです。
 今回だって半分は正解なのです。

そうですか。
では,持統紀の最後まで,
私の回答にお付き合い下さい。

考えてみると「半分正解」というのは,とてもすごいことですよね。
これも「主語有無」のお陰です。

投稿: 肥さん | 2021年8月23日 (月) 12時44分

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