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2021年8月14日 (土)

孝徳紀の「詔」について 【45】のうち【10〜23】

(10)(11)(12)癸卯、遣使於大寺、喚聚僧尼而曰。於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百濟明王、奉傳佛法於我大倭。是時、群臣倶不欲傳、而蘇我稻目宿禰、獨信其法。天皇乃稻目宿禰、使奉其法。於譯語田宮御宇天皇之世、蘇我馬子宿禰、追遵考父之風、猶重能仁世之教。而餘臣不信、此典幾亡。天皇、馬子宿禰而使奉其法。

(現代語訳・八日,大寺に使いを遣わして,僧尼を召し集めして,「欽明天皇の十三年に,百濟の聖明王が仏法わが朝に伝えた。このとき群臣は皆ひろめることを欲しなかった。ところが蘇我稻目宿禰は,一人でその法を受け入れた。天皇は稲目宿禰にして信奉させられた。敏達天皇の世に蘇我馬子宿禰は,父の遺法を尊び,仏の教を信じた。しかし他の臣は信じなかったので,ほとんど滅びそうであった。天皇は,馬子にして馬子にその法を尊ばせられた

前後の文脈から・・・主語なしと主語あり

☆ 九州王朝系の史料のと近畿王朝の史料の両方

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(13)甲申、遣使者於諸國錄民元數。仍曰。自古以降毎天皇時、置標代民、垂名於後。

(現代語訳・十九日,使者を国々に遣わして人民の総数を記録させた。詔して,「古来,天皇の御代ごとに名代を置いて,天皇の名を後世に残そうとした

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(14)二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之曰。其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。

(現代語訳・二年春正月一日,賀正の礼が終わって,改新の詔が発せられた。その第一。昔の天皇たちの立てられた子代の民・各地の屯倉と臣・連・伴造・國造・村の首長の支配する部民・豪族の経営す各所の土地を廃止する )

前後の文脈から・・・主語なし・京師や国司

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(15)是月、天皇、御子代離宮。遣使者、郡國修營兵庫。蝦夷親附。

(現代語訳・この月,天皇は,御子代離宮においでになった。使者を遣わし,群国に詔して武器庫を造らせた。蝦夷が帰順してきた。

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 近畿王朝の史料に九州王朝系の史料をプラスしたものではないか

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(16)(17)(18)(19)(20)(21)(22)二月甲午朔戊申、天皇幸宮東門、使蘇我右大臣曰。明神御宇日本倭根子天皇、於集侍卿等臣連國造伴造及諸百姓。朕聞、明哲之御民者、懸鍾於闕而觀百姓之憂、作屋於衢而聽路行之謗。雖蒭蕘之說、親問爲師。由是、朕前下曰、古之治天下、朝有進善之旌・誹謗之木、所以通治道而來諫者也、皆所以廣詢于下也。管子曰、黃帝立明堂之議者上觀於賢也、堯有衢室之問者下聽於民也、舜有告善之旌而主不蔽也、禹立建鼓於朝而備訊望也、湯有總術之廷以觀民非也、武王有靈臺之囿而賢者進也。此故、聖帝明王、所以有而勿失、得而勿亡也。所以、懸鍾設匱拜收表人、使憂諫人納表于匱、收表人毎旦奏請。朕得奏請、仍示群卿便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃・或阿黨比周、朕復不肯聽諫、憂訴之人當可撞鍾。已如此。既而有民明直心・懷國土之風・切諫陳䟽、納於設匱。故、今顯示集在黎民。其表稱、緣奉國政到於京民、官留使於雜役、云々。朕猶以之傷惻、民豈復思至此。然遷都未久、還似于賓、由是、不得不使而强役之。毎念於斯、未嘗安寢。朕觀此表、嘉歎難休。故隨所諫之言、罷處々之雜役。昔曰、諫者題名。而不隨。今者、自非求利而將助國。不言題不、諫朕癈忘。

(現代語訳・二月十五日,天皇は離宮の東門においでになり,蘇我右大臣に詔を伝えさせ,「明神として天下を治める日本天皇は,ここに集まった卿ら・臣・連・國造・伴造および諸々の人民に告げる。明哲の人が民を治めるには,鍾を宮殿に掛け,それをつかせて人民の憂えを聞か,舎を街角に造って,通行人の不平を聴取すると,草刈りや木こりの言うことでも,親しく問うて手本とすれるという。先に詔を出して,「古の君が天下を治めるのに,善言を進める者は,道に設けた旗の下で自由に述べさせ,不平を述べたい者は,橋上の木に勝手に書かせたのは,諫めを聞き,下の意見を問う為であった。管子の言に「黃帝は明堂の議を設け,上は賢人のなすところをよく見,衢室で民衆の声をよく聴いた。舜は善言を述べる者の旗を設け,兎は鼓を朝に立て望む者に打たせた。スる湯王は総術の庭を造って,人民の非難を聞くところとした。 武王は霊台の園があって,賢者の言を聞いた。 このようにして聖帝明王は過ちのない政治を行った」と。それで自分も鐘を掛け匱設け,収表の係を命じた。訴えのある者は表を毎朝奏上する。自分はそれを見た上で群卿に示し,処置を講じさせる。処置が滞らないように望む。もし群卿が怠ったり,よくないことに加担したり,自分の諫めも受け入れなかったりしたら,訴えをする人は鐘をつくがよい」といった。 このような詔を下したところ,人民の真っすぐな明るい心に,国を思う気風が生じ,已如此。政治の非を忠告する申し出を文を,用意の櫃に入れた。 今それを公表すると,国屋や納税のために都には来た人民を,引き留めて雑役に使っている。云々とのことである。自分もこれをいたましく思う。民もきっと思いがけなかったとことであろう。 都を移して間もないため,旅人のようで落ち着くところもないこのため使ってならないのに,やむを得ず使う。こういうことを思うごとに,安く寝ぬることもできぬ。自分はこの表を見て,よく言ってくれたとほめる言葉を止めがたい。故に,忠告に従って,各地で行われている雑徭を停止する。前の詔にいさめる者は記名せよと述べたが,守られていない。しかし,自らの利を求めるのではなく,国を助けようとする気持ちに出たものであろう。これからは記名の有無は問わず,自分が怠り忘れていることをいさめてもらいたい )

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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(23)。集在國民、所訴多在。今將解理。諦聽所宣。其欲決疑、入京朝集者、且莫退散、聚侍於朝。

(現代語訳・また,詔して,「集まった國民からの訴えは多かった。今これを審理しようと思うので,述べるところをよく聴いてほしい。愁訴のため上京し参集した者は,しばらく退去しないで待っているように」といわれた)

前後の文脈から・・・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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コメント

肥沼さんへ
 孝徳紀詔10~23の検証お疲れ様。
10・11・12:< 九州王朝系の史料のと近畿王朝の史料の両方>との結論に至った理由がわかりません。説明してください。

13・15:九州王朝系の史料の盗用で良いと思います。

16:<近畿王朝の史料に九州王朝系の史料をプラスしたものではないか>との結論に至った理由がわかりません。説明してください。

17~22:この文章は「主語なし」ではないです。冒頭に「天皇が宮の東門に出でまして、蘇我右大臣をして詔を伝えさせて曰く」と、主語が明記されています。
 そしてこの書き方はこの詔はこの天皇が出したものではないから「伝えさせた」になるのです。
 出した人は詔の中に「明神として天下を治める日本天皇は・・・」と書かれているように九州王朝の天皇です。
 この場面はその前に15で出された改新の詔を近畿天皇家の王族や重臣に伝えさせた場面。
 蘇我右大臣とは蘇我倉山田麻呂のこと。
 近畿天皇家の史料に基づいて書かれたもの。

23:九州王朝系の史料の盗用で良いと思います。

 明確な間違いが1点。
 疑問点が2点です。
 疑問点の二か所の結論となった理由を説明してください。

 ※なお14が抜けていますが、肥沼さんが14とすべきところを15としてしまったようです。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月17日 (火) 00時06分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

(10)(11)(12)
大寺が百済大寺と考えると,「近畿」の話ですかね。

(16)
今考えるとこれも「近畿」の話ですかね。

投稿: 肥さん | 2021年8月17日 (火) 09時46分

肥沼さんへ

>(10)(11)(12)
大寺が百済大寺と考えると,「近畿」の話ですかね。

 大寺は飛鳥寺(法興寺)か百済寺でしょう。
 そして天皇の詔の内容をみれば、欽明紀以後の大和での仏教受容過程についての者なのだから、当然近畿の話です。
 肥沼さんは、
●冒頭の「遣使於大寺、喚聚僧尼而詔曰」が主語を省略しているので、ここに引っ張られてしまったようですね。
 でも詔の中で過去の天皇が出した詔の部分ではみな、主語が明記されていることが、この話は近畿の話だと示しています。
 一つの文の冒頭が主語省略だからといって、これが必ずしも九州王朝史書からの盗用ではないという、一つの証拠です。

15(16と書いたのは誤り)
 これは九州王朝史書からの盗用です。
 判断しずらいのは
●冒頭の「是月、天皇、御子代離宮。」が「是月、御子代離宮。」で意味が通るのに、わざわざ天皇と御(おわす)の主語を明記しているところ。
●なのに次の項目の「遣使者、詔郡國修營兵庫。」では、使者を派遣した主語も詔を発した主語も省略されている。

 ここは次の「蝦夷親附。」も別の項目なのだが、すべて「是月」でひとくくりの文章になっているから判断しずらいね。
 この蝦夷の話も九州王朝の話。

 では冒頭の「天皇、御子代離宮」をどう理解すべきか。
 三つで一つの話なのだから、後ろ二つが九州王朝史書からの盗用なのだから、この宮におわす話も九州王朝史書からの盗用とみなすべきだ。
 天皇との主語明記は、書紀を書いた史官が、九州王朝と近畿天皇家の事績を書き分けたことをわかりにくくするための述作。
 これに肥沼さんははまってしまって、宮におわすの部分は近畿の話で、あと二つは九州の話と判断したのかな?
 削除された注に「或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」とあることが、これが九州王朝の話であることを示している。
 屯倉を管理する役所を解体してこれを離宮に変えたということ。
 屯倉は九州王朝天皇の領地。すでに二年正月の詔で屯倉は豪族の領地とともに廃止されて公地公民制が実施されたが、これに伴う処置だ。
 でも旧屯倉を離宮に改造するのも球種王朝天皇の専権事項。
 しかも子代屯倉は難波にあるとの注も重要。この難波は九州博多の難波だ。

 この例は冒頭に主語が明記されているからといって、必ずしも近畿の話とは限らないという例です。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月17日 (火) 12時52分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

(10)(11)(12)・・・ 一つの文の冒頭が主語省略だからといって、これが必ずしも九州王朝史書からの盗用ではないという、一つの証拠です。


(16)・・・ この例は冒頭に主語が明記されているからといって、必ずしも近畿の話とは限らないという例です。

言われてみればそう思いますが,
自分でやっている時は,
そこまで思い浮かびませんね。

投稿: 肥さん | 2021年8月17日 (火) 13時23分

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