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2021年7月27日 (火)

顯宗紀の「詔」について【6】

顕宗天皇

(1)(2)二月戊戌朔壬寅、曰「先王、遭離多難、殞命荒郊。朕在幼年、亡逃自匿、猥遇求迎、升纂大業。廣求御骨、莫能知者。」畢、與皇太子億計泣哭憤惋、不能自勝。

(現代語訳・二月五日詔して,「先王は離に遭われて,荒野に落命された。自分はまだ幼かったので,逃げて身を隠した。強いて求められて大業を継いだ。お骨を得たいと求めて探したが,よく知っている者がなかった。仰せ終わって億計皇子と共に,声をあげ泣かれ,堪えられないご様子であった

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料を膨らませたものではないか

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(3)(4)(5)老嫗置目、居于宮傍近處、優崇賜䘏、使無乏少。是月、曰「老嫗、伶俜羸弱、不便行步、宜張繩引絚扶而出入。繩端懸鐸、無勞謁者、入則鳴之、朕知汝到。」於是、老嫗奉、嗚鐸而進、天皇遙聞鐸聲、

(現代語訳・)詔して「老婆はよろめき歩き,衰えて,しっかりできない。縄を引き渡して,それにつかまって出入りしなさい。縄の端に鈴をつけて,取次のものは取次きの者を煩わすことなく,はいってきたら鳴らしなさい。来たことが私に分音のねかるように」といわれた。老婆は仰せ承って,鈴を鳴らして入った。天皇は遥かに鈴の音を聞かれて,歌を詠まれた)

前後の文脈から・・・最勝王経,除病品によるか

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料を膨らませたものか

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(6)三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。

(現代語訳・三月三日,御苑にお出ましになって,曲水の宴を行われた。夏四月十一日,詔して「およそ人民が,人民を勧め励ます方法は,樹授官であり,国をおこす方法は,行賞である)

前後の文脈から・・・曲水宴(初出)・「芸文類聚巻五十二,地政部,論政」からの盗用

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官のによる中国史料からの盗用

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コメント

肥沼さんへ

 検証お疲れ様。
 1・2・3・4・5の結論は正しい。全部市邊押磐皇子の殺害に関する話。

 実は6も市邊押磐皇子の殺害の後日談だ。
 三月上巳、幸後苑、曲水宴。
 ここで一旦文章は切れる。顕宗紀には何度も曲水の宴が出てくる。
 6番目の詔に関する文章は次の文。
>夏四月丁酉朔丁未、詔曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。夫前播磨國司來目部小楯更名磐楯、求迎舉朕、厥功茂焉。所志願、勿難言。」小楯謝曰「山官、宿所願。」乃拜山官、改賜姓山部連氏、以吉備臣爲副、以山守部爲民、裒善顯功、酬恩答厚、寵愛殊絶、富莫能儔。
 自分を播磨の屯倉で見出してくれた播磨國司來目部小楯に褒美をやった話。
 詔の冒頭の
>凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。
 が「芸文類聚巻五十二,地政部,論政」の文を踏まえた作文。盗用ではない。
 詔の本体はその次の播磨國司來目部小楯に褒美をやる部分。

 だから、顕宗紀の詔はすべて近畿天皇家の話で、市邊押磐皇子の殺害に関する話なのです。
 

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月29日 (木) 21時20分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

『日本書紀(三)』を買いに行った甲斐がありました。

投稿: 肥さん | 2021年7月29日 (木) 22時03分

追伸

6の詔について
 もしかしたらこの詔自体が近畿王朝の史官による造作かもしれません。
 そう考える理由は
1:褒美をもらう播磨国司を任命できる者は、この話の当時は九州王朝だと思う。九州王朝の版図だから。
2:したがって近畿大王である顕宗が「我を求めて迎え入れてくれた」と播磨国司に褒美を与えるわけがない。あったとしても九州王朝経由で。
3:だからこの命令も褒美もなかった。
4:しかしこの当時の政治的状況を知らない近畿王朝の史官が、「市邊押磐皇子の埋葬場所を知らせた嫗には褒美が与えられたのに、皇子たちを見つけた播磨国司に褒美が与えられていないのはおかしい」と考えて、「芸文類聚巻五十二,地政部,論政」の文を踏まえて詔の前文を造作し、前播磨国司に褒美を与えた詔自体を造作した。

 と考えることもできますね。
 あるいは古事記以外の近畿天皇家の史料に近畿の大王が播磨国司に褒美を与えたとの記録があった可能性もあります。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月29日 (木) 23時36分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

なるほど。
いろいろな可能性があるという訳ですね。

投稿: 肥さん | 2021年7月30日 (金) 04時08分

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