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2021年7月22日 (木)

履中紀~反正紀の「詔」 について【3】

履中天皇

(1)元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豐皇女。次妃幡梭皇女、生中磯皇女。是年也、太歲庚子。

(現代語訳・元年春二月一日,皇太子は磐余の稚桜宮に即位された。夏四月十七日,阿曇連浜子を召していわれた。「お前は仲皇子と共に反逆を謀って,国家を傾けようとした。死罪に当る。しかし大恩を垂れて,死を免じて額に入墨の刑とする」と。その日に目の縁に入墨をした。時の人はそれを阿曇目といった。浜子に従った野島の漁師たちのつみを許して,倭のこも代屯倉で労に服させられた)

前後の文脈・・・主語なし・屯倉というキーワード

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(2)三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。膳臣餘磯獻酒、時櫻花落于御盞、天皇異之則召物部長眞膽連、之曰「是花也非時而來、其何處之花矣、汝自可求。」於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、卽爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之緣也。是日、改長眞膽連之本姓曰稚櫻部造、又號膳臣餘磯曰稚櫻部臣。

(現代語訳・三年冬十一月六日,天皇は両股船を磐余の市磯池にうかべられた。妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。膳臣の余磯が酒を奉った。そのとき,桜の花びらが盃に散った。天皇は怪しまれて,物部長真胆連を召して,詔して「この花は咲くべきないときに散ってきた。どこの花だろうか。お前が探してこい」といわれた。長真胆連はひとり花を尋ねて,腋上の室山で,花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで,宮の名とされた。磐余若桜宮というのはこれがそのもとである。この日,長真胆連の本姓を改めて,幼桜部造として,膳臣余磯を名づけて稚桜部臣とされた)

前後の文脈・・・天皇あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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(3)冬十月甲寅朔甲子、葬皇妃。既而天皇、悔之不治神崇而亡皇妃、更求其咎、或者曰「車持君、行於筑紫國而悉校車持部、兼取充神者。必是罪矣。」天皇則喚車持君、以推問之、事既得實焉。因以、數之曰「爾雖車持君、縱檢校天子之百姓、罪一也。既分寄于神車持部、兼奪取之、罪二也。」則負惡解除・善解除而出於長渚崎令秡禊。既而之曰「自今以後、不得掌筑紫之車持部。」乃悉收以更分之、奉於三神。

(現代語訳・冬十月十一日,妃を葬られた。天皇は神の祟りをおさめないで,妃を亡くされたことを悔いられ,その咎のもとを探された。ある人のいうのに「車持君が筑紫に行き,車持部をすべて調査し収め,その上充部民を奪ってしまいました。きっとこの罪でしょう」といった。天皇は車持君を呼んで,調べ尋ねられると,それは事実であった。そこで責められていわれるのに,「お前は車持といっても,勝手に天子の人民を検校した。罪の第一である。また神にお配り申した車持部を奪いとった。罪の第二である」と。それで悪解徐・善解除を負わせて,長渚崎に出かけさせて祓いみそぎをさせられた。詔して,「今から後,筑紫の車持部を担当してはならぬ」とされた。そこでことごとく取上げて,あらためて三柱の神に奉られた。)

前後の文脈・・・天皇あり・

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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コメント

肥沼さんへ

 検証お疲れ様です。

1の詔:詔の主語は省略されているが、前後の文脈から、それまで太子であった履中が即位して言った言葉であることは明白。
 そして古事記の履中記は、この住吉(墨江)仲皇子の反乱の記事で埋め尽くされている。書紀の履中紀の冒頭の即位前記事はまさしく、古事記の仲皇子反乱記事をもっと詳しくしたもの。詔を含むこの記事は住住吉仲皇子反乱の結論部分。
 一体どこを読んでいるのか?
 屯倉という特徴的言葉があるから九州王朝史書からと判断されているが、屯倉は全国どこの豪族の領地でも置かれた九州王朝天皇の直轄領。倭蔣代屯倉と書かれているので、大和国の中に置かれた屯倉だ。
 九州王朝の史書からの盗用ではない。

2の詔:詔の主語は省略されているが肥沼さんも気が付いているように、この主語は天皇(=近畿大王)であることは明白。
 そして古事記にこの話はないが、古事記冒頭に履中は「坐伊波禮之若櫻宮、治天下也」と記しており、この宮の名の由来を語ったのが書紀のこの記事だ。
 九州王朝史料の盗用ではなく、近畿天皇家内部の話を古事記より詳しく記したもの。

3の詔:詔の主語は省略されているが前後の文脈から天皇(近畿大王)であるかのように読める。しかしこの話は筑紫の宗像大社の神部を車持君が奪い取り、そのことを神が天皇の夢枕にたって告げたのに神を敬わらずに改善しなかった(五年春三月戊午朔、於筑紫所居三神、見于宮中、言「何奪我民矣、吾今慚汝。」於是、禱而不祠。事に対する神罰として皇后が死んだという話。
 舞台はまさしく筑紫。
 そして岩波本の注ではこの「車持君」については「名未詳」としていてこの話が他の史書からの盗用の可能性を示している。
 古事記には全くない話であり、九州王朝系史料からの盗用であるとの肥沼さんの結論は正しい。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月24日 (土) 00時04分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

難しいです。

投稿: 肥さん | 2021年7月24日 (土) 01時34分

肥沼さんへ

 もしかして古事記の現代語訳を持っていないのではないですか?
 
 岩波文庫本は原文と読み下しだけのはず。

 だから肥沼さんは古事記の内容を把握できない。

 持っていないのなら速やかに購入すべし。

 『口語訳古事記 神代篇・人代篇』三浦佑之(文春文庫)全2冊。

 がよさそうです。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月24日 (土) 12時14分

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