清寧紀の「詔」について【4】
淸寧天皇
(1)(2)廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺詔、今將至矣。宜從遺詔、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。
(現代語訳・大伴室屋大連は,東漢掬直に言って「雄略天皇の遺詔のことが,いま到来しようとしている。皇太子にお仕えせねばならぬ」といった。兵士を出動させて大蔵を取り囲んだ。外から防ぎ固めて,火をつけて焼き殺した )
前後の文脈から・・・雄略天皇の遺詔自体が外国史書の盗用だったので
「古事記」に出て来るか・・・出て来ない
☆ 外国の史書の盗用から始まる話なので盗用
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(3)冬十月壬午朔乙酉、詔「犬・馬・器翫、不得獻上。」
(現代語訳・冬十月4日,詔して「犬・馬などの生き物の翫弄び物は,献上してはならぬ」といわれた )
前後の文脈から・・・主語なし
「古事記」に出て来るか・・・出て来ない
☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える
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(4)九月丙子朔、天皇、御射殿、詔百寮及海表使者射、賜物各有差。
(現代語訳・九月一日,天皇は弓殿においでになり,百寮と海外の使者に詔して,弓を射させられた)
前後の文脈から・・・主語あり・海外との関係
「古事記」に出て来るか・・・出て来ない
☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える
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コメント
検証お疲れ様
残念ながら4つとも間違いです。
1・2:雄略の遺詔自身が隋書高祖紀の詔を盗用したのだから、雄略の遺詔はない。
したがってこの話自体が書紀編者による創作だ。
言い換えると雄略の死後に他の皇子を倒して太子を擁立したのが九州王朝だということ。大伴室屋大連と東漢掬直は雄略の詔の中で九州王朝の史料からの盗用記事に出てくる重臣。つまり九州王朝の重臣だ。
なお1・2は詔の数に入れる必要はないと思います。雄略紀の最後の二つの詔を指しているのですから。
3・4 二つとも隋書高祖紀の詔の盗用であることは先人たちが明らかにしています。
岩波文庫本3巻のp103の注10・11の解説を見てください。
肥沼さんは書紀の現代語訳を確認しただけで、原文に研究者が付けた注や補注を確認していませんね。ここを確認しないと現代語訳が正しいかどうか判断できません。
※なお雄略紀と清寧紀にだけ、隋書高祖紀の詔が多数盗用されていることは、昔から学者の間で議論されてきました。大多数の理解は「隋書が正史の手本とにんしきされていたから」というものです。
だがこれでは説明できない。そうなら二つの紀だけではなくもっと書紀全体で隋書高祖紀が盗用されていてもおかしくはない。
私の理解。
書紀を実際に書いた史官が、書記は「主語有無の論証」を使って、九州王朝の事績と近畿天皇家の事績を書き分けたということをほのめかしているのだと思う。
そう考える理由。
1:高祖紀は前半は主語明記で書かれ後半は主語が省略されている。なぜなら彼は最初は政府高官にすぎす、魏の王から禅譲で天子となったからだ。つまり高官時代はきちんと彼の名前を明記して記述され、天子となってからは彼の名前も、天子という言葉さえ省略してしるされた。この主語の記し方が正史の正しい記述方法だ。
2:この記述法を書紀を記述した史官も知っていたのだろう。書紀の紀の多くに即位前紀があるが、天皇(近畿大王)でない段階なので名前をきちんと表記して記述されており、即位して以後は天皇となっている。
3:だが雄略紀と清寧紀の即位前紀はこの原則を無視している。雄略の即位前紀は全部「天皇」とし、皇子時代の名前を使用していない。清寧の即位前紀の多くは主語を即位前の皇子の名か皇太子名で記しているが、一か所だけ「天皇」と記したところがある。
つまり書紀を書いた史官は、隋書高祖紀を多数盗用することでこれに注目させ、雄略と清寧の即位前紀の主語の書き方は誤っている、つまり天皇ではないものを天皇としてはいけないことに読者に注意を促しているのだ。
だがここに気が付けば読者は、雄略紀や清寧紀、いや他の紀でも「天皇」と名前を明記すること自体が、中国正史の書き方に違反していることに気が付くだろう。
なぜ天皇名を省略しないのか。恐れ入るほどの高貴の人だから名を口にすることすらはばかられるのにと。
ここまで認識を深めれば、さらに書記の記述は記述法としておかしいことに気が付くだろう。
つまり天皇と主語明記していない誤った用法と、天皇名を省略する正しい用法とが混在していることに。
なぜ二つの記述法が混在しているのか?
ここまでくれば答えは明白。
天皇との主語を省略した正しい用法で書かれた部分は、真の天皇、つまり九州王朝の天皇の事績を記した部分。
天皇と主語を明記した部分は、本当は天皇ではない人物、つまり近畿の大王の事績を示した部分。
このように語法の違いで歴史を盗用した手口を告白しているのではないか。
読者がこのような推論に至る可能性を見て書紀史官が行ったのが、雄略と清寧の即位前紀を天皇名で記す誤りをわざと行い、この二つの紀に即位前は実名で、即位後は天子名すら省略する正しい用法で書かれた隋書高祖紀から多数の詔を盗用することだったのではないでしょうか。
以上「主語有無の論証」の正しさの傍証と見ました。
投稿: 川瀬健一 | 2021年7月28日 (水) 12時59分
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉岩波文庫本3巻のp103の注10・11の解説を見てください。
昨日同じようなことがあったので,岩波文庫を本棚に探しにいったのですが,1・2・4・5はあるのに,なぜか3巻だけがどこかに行っていました。目の付け所は悪くなかったですね…。
投稿: 肥さん | 2021年7月28日 (水) 13時55分