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2021年7月23日 (金)

允恭紀~安康紀の「詔」について【3】

允恭天皇

(1)(2)四年秋九月辛巳朔己丑、曰「上古之治、人民得所、姓名勿錯。今朕踐祚於茲四年矣、上下相爭、百姓不安、或誤失己姓、或故認高氏。其不至於治者蓋由是也、朕雖不賢、豈非正其錯乎、群臣議定奏之。」群臣皆言「陛下舉失正枉而定氏姓者、臣等冒死。」奏可。戊申、曰「群卿百寮及諸國造等、皆各言、或帝皇之裔・或異之天降。然、三才顯分以來多歷萬歲、是以、一氏蕃息更爲萬姓、難知其實。故、諸氏姓人等、沐浴齊戒、各爲盟神探湯。」

(現代語意訳・四年秋九月九日,詔して,「国がよく治っていた時は,人民も所を得て,氏姓が誤れることもなかった。しかし,自分の時代になって四年経つが氏姓が乱れている・・・盟神探湯によって証明すべきである」)

文脈から・・・主語なし

「古事記」には・・・同じような話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料が元になっている

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先是、衣通郎姬居于藤原宮、時天皇大伴室屋連曰「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何。」室屋連、依勅而奏可、則科諸國造等、爲衣通郎姬定藤原部。

(現代語訳・これより先,衣通郎姫が藤原宮においでになったとき,天皇は大伴室屋連に詔して,「私はこの頃美人の嬢女を得た。皇后の妹である。特別に可愛いと思う。どうかその名を後世に残していきたいと思うが,どうだろう」といわれた。室屋連が勅にしたがって奏上したことをお許しになった。すなわち諸国の造らに仰せられて衣通郎姫のために,藤原部を定められた)

文脈から・・・主語あり

「古事記」には・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料が元になっているる

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安康天皇

「詔」なし

 

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コメント

肥沼さんへ

1・2の詔。ここは見事に主語が省略され九州王朝史書からの盗用のように見えるが、まさしく同じ話が簡略だが古事記にある。
 ということで近畿天皇家の話であることは白日。

3の詔。この話は妃の大中姫の妹・衣通郎姬を密かに妃としたときの話。大伴室屋連に詔した主語ははっきりと天皇と明記されている。

 だが「「古事記」には・・・似た話が出て来る」のだろうか。
 実はまったくない。
 古事記では妃の大中姫が生んだ子供の一人として輕大郎女があげられ、彼女のまたの名として衣通郎女が挙げられ、この名の由来として「御名所以負衣通王者、其身之光自衣通出也」と説明されているだけ。

 古事記と日本書紀では、天皇と衣通郎女の関係が全く異なる。

 結論としては近畿天皇家の話であることは確かだが、「似たような話」で済まされるものではないと思います。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月24日 (土) 17時04分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 古事記と日本書紀では、天皇と衣通郎女の関係が全く異なる。

そんなんですか。
わかりませんでした。

投稿: 肥さん | 2021年7月24日 (土) 23時41分

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