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2021年7月19日 (月)

仲哀紀~神功紀の「詔」【3+2】

仲哀天皇

元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位。秋九月丙戌朔、尊母皇后曰皇太后。冬十一月乙酉朔、群臣曰「朕、未逮于弱冠、而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天、仰望之情一日勿息。是以、冀獲白鳥養之於陵域之池、因以覩其鳥、欲慰顧情。」則令諸國、俾貢白鳥。

(現代語訳・元年春一月十一日,太子は皇位につかれた。秋九月一日,母の皇后を尊んで皇太后とよばれた。冬十一月一日,群卿に詔して,「自分はまだ二十歳にならぬとき,父の王はすでになくなった。魂は白鳥となって,天に上った。慕い思う日は一日もやむことがない。それで白鳥を陵のまわりの池に飼い,その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」といわれた。)

(前後の文脈・・・九州が舞台のようである。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には登場しない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用と考える

 

秋九月乙亥朔己卯、群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂𣑥衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。」

(現代語訳・秋九月五日,群卿に詔して熊襲を討つことを相談させられた。ときに神があって,皇后に託し神託を垂れ,「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか,そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りないる。この国より勝って宝のある国,譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これをたくぶすま新羅国という。もしよく自分を祀ったら,刀に血ぬらないで,その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには,天皇の御船と穴門直践立が献じようした水田ーー名づけて大田という。これらのものをお供えとしなさい」と。)

(前後の文脈・・・九州が舞台である。主語がない)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。

(現代語訳・九年春二月五日,天皇は急に病気になられ,翌日はもう亡くなられた。時に,年五十二。すなわち,神のお言葉を採用されなかったので早くなくなられたことがうかがわれる。皇后と大臣竹内宿禰は,天皇の喪をかくして天下に知らせなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・大伴武以連に詔して,「いま天下の人は天皇の亡くなったことを知らない。もし人民が知ったなら,気がゆるむかもしれない」といわれ,四人の大夫に命ぜられ,百僚を率いて宮中を守もらせた。)

(前後の文脈・・・九州が舞台である。)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

神功皇后

皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰「吾、被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水、若有驗者、髮自分爲兩。」卽入海洗之、髮自分也。皇后、便結分髮而爲髻、因以謂群臣曰「夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣、是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖、然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者群臣共有功、事不就者吾獨有罪、既有此意、其共議之。」群臣皆曰「皇后、爲天下計所以安宗廟社稷、且罪不及于臣下。頓首奉。」

(現代語訳・は(終りの部分)「群臣はみな,「皇后は天下のために,国家社稷安泰にすることを計っておられます。破れて,罪が臣下に及ぶことはありますまい。謹んで詔を承ります」といった」

(前後の文脈・・・九州が舞台である。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉書印綬、詣倭國也。」

(現代語訳・四十年,ーー魏志にいう。正始元年,建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ,倭国に行かせた。)

(前後の文脈・・・魏志の記事を利用している。古事記には女王の記事がないため,神功皇后の話のところに挿入したと思われる)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

※ 卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

 

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コメント

肥沼さんへ

 いったいどこを見て判断しているの。
 仲哀紀の三つの詔。
 すべて彼が「熊襲=九州王朝」を攻めたときの話。舞台が九州なのはそのせい。

 冒頭の太子とはそのすぐ前の文章
「稚足彥天皇卌八年、立爲太子。時年卅一。稚足彥天皇無男、故立爲嗣。六十年、天皇崩、明年秋九月壬辰朔丁酉、葬于倭國狹城盾列陵。」の太子だ。「稚足彥天皇無男、故立爲嗣」と。そしてその天皇=近畿の大王が無くなったので大王に即位したという話。そして大王に即位したときの言葉を詔とした。
 この話は古事記にはないが、天皇と主語が文脈から判断でき、近畿天皇家の説話である。
 2番目の詔。
 仲哀が熊襲=九州王朝を襲おうと家臣と会議を行ったことを「詔」とした。主語はないがここも主語は仲哀であることは明白。
 3番目の詔。仲哀が熊襲の矢にあたって死んだあと、事実上の大王となった皇后が発した命令。これを詔とした。

 この仲哀が熊襲を討って死んだとの話は古事記にもきちんと記述されている。

 神功紀の詔。
最初のもの。仲哀紀の最後の詔を指したものだ。
 直接この話は古事記にはないが、仲哀の熊襲征討の事後の話。

二番めの詔。これは三国志の魏志からの引用。九州王朝系の資料からの盗用ではなく、神功が卑弥呼と壱輿にあたると考えた書紀編者の創作。
 

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月20日 (火) 12時53分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉いったいどこを見て判断しているの。

古事記では仲哀天皇の話の中に神功皇后が含まれている。
日本書紀では仲哀天皇と神功皇后は別の章立てになっている。
ここで混線してしまったようです。

投稿: 肥さん | 2021年7月20日 (火) 16時29分

肥沼さんへ

 何をこんなに急いでいるのですか?
 天皇の紀。複数が一つにまとまっている場合を除いて、一つ一つじっくりやりましょうよ。

 この場合は
 仲哀紀  そして 神功紀
の順でじっくりやってください。
 一度にたくさんやるから読み間違うのです。
  
 次の応神 と 仁徳 も別々に。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月20日 (火) 17時35分

了解しました。
仲哀と神功は古事記ではひとつの章なので,
そうしてしまいました。

投稿: 肥さん | 2021年7月20日 (火) 18時50分

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