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2021年7月20日 (火)

応神紀の「詔」について【3】

應神天皇

(1)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。

(現代語訳・十六年春二月・王仁がきた。太子兎道稚郎子はこれを師とされた。諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた。王仁は書首の先祖である。この年百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王をよんで語っていわれた。「あなたは国に帰って位につくなさい。」と。よって東韓の地を賜りり遣わされた。東韓とは,甘羅城・高難城・爾林城がこれである。八月,平群木兎宿禰・的戸田宿禰を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して,「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち,その道を開け」といわれた。木兎宿禰らは兵を進めて,新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて,襲津彦と共に還ってきた)

(前後の文脈・・・主語なし・九州が舞台だが,加羅に行った将軍が戻ってこられないのは

新羅が邪魔をしていると判断して援軍を送り、無事将軍を倭国に帰還させた話ということで)

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 近畿王朝の説話がもとになっている。

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(2)(3)卅一年秋八月、群卿曰「官船名枯野者、伊豆國所貢之船也、是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘、何其船名勿絶而得傳後葉焉。」群卿便被、以令有司取其船材爲薪而燒鹽、於是得五百籠鹽、則施之周賜諸國、因令造船。是以、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門。

(現代語訳・三十一年八月,群卿に詔していわれるのに,官船の枯野は,伊豆の国から奉ったものであるが,いまは朽ちてきて用に堪えない。しかし長らく官用を勤め,功は忘れられない。その船の名を他絶やさず,後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて,その材を取り,薪として塩を焼かせた。五百籠の塩が得られた。それをあまねく諸国に施しされたそして船を造ることになり,諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港に集まった)

(前後の文脈・・・主語なし・武庫という地名は関西にある)

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 近畿王朝の説話がもとになっている。

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 急ぎすぎです。
 応神紀で一回。仁徳紀で一回。それぞれ別々に検討しましょう。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月20日 (火) 17時27分

了解しました。

投稿: 肥さん | 2021年7月20日 (火) 18時47分

肥沼さんへ

 行方不明の詔。
 二つ目の31年秋の詔の文の中に二つ詔がありますよ。

1:詔に番号をつけること
2:詔の出てこない文は、詔と関係がなければ削除する。

3:31年8月の二つ目の詔
 現代語訳や前後の文などが、一つ目の詔のものになっています。

4:16年8月の一つ目の詔
 九州が舞台としていますが、そうではない。加羅に行った将軍が戻ってこられないのは新羅が邪魔をしていると判断して援軍を送り、無事将軍を倭国に帰還させた話。

 もっと丁寧に見直しましょう。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月21日 (水) 12時33分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。


その後,訂正しました。
昨日のものから切り貼りしとていたら,
ごちゃごちゃになってしまいました。

投稿: 肥さん | 2021年7月21日 (水) 14時01分

肥沼さんへ

 検証おつかれさま。
 しかし三つの詔のすべてが
☆ 近畿王朝の説話がもとになっている。
 との結論になるのはなぜ?

 どれも
1:詔の主語は省略されている。
2:話の舞台は伊豆と兵庫県の武庫。
3:どちらの話も古事記にはない。
 これだけそろえば結論は

★九州王朝史書からの盗用

 にしかならないと思う。

 単なる不注意の間違いなのでしょうか。
 1は九州ー加羅
 2は

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月21日 (水) 14時27分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 これだけそろえば結論は

★九州王朝史書からの盗用

 にしかならないと思う。

最初そう考えたのですが(一時が書いたではないか),
前に「近畿王朝の別史料があるかもしれない」ということがあったので,
今回はそれではないかと思ってしまいました。
これからは「思ったままに書く」ことにします。

投稿: 肥さん | 2021年7月21日 (水) 21時37分

肥沼さんへ
>前に「近畿王朝の別史料があるかもしれない」ということがあったので,

 思い付きで何でもかんでも適用してはだめ。
 「近畿王朝の別史料がある」との考えは、古事記にない話ではあるが、どう読んでも九州王朝の話ではなくて近畿天皇家の話としか読めない記事があった時の話です。
 1の話は新羅・加羅にかかわる話。近畿の話ではないし、古事記には外国記事は出てこないから、外国記事の多くは九州王朝関連と考えて間違いない。
 2の記事は昔伊豆国から献上された官船が古くなったのでその材を塩をたく燃料としてできた諸国に配り、諸国から5百の船が献上されて、武庫に集まったという話。
 肥沼さんはこの武庫を関西にあると単純に考えて近畿の話としたのかもしれませんが、武庫があるのは播磨。播磨は近畿天皇家の畿内には入らない。そして元の船を献上した伊豆も近畿天皇家の畿内ではない。
 播磨は大和に仏教が入った時の話で大和に初めて寺を作るに際して、播磨から僧侶を招いたとあるように、すでに仏教が普及していた九州王朝の版図だ。

 以上のように考えれば、二つとも近畿の話ではないのですから、九州王朝の史料からの盗用でしかありえません。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月21日 (水) 23時09分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 以上のように考えれば、二つとも近畿の話ではないのですから、九州王朝の史料からの盗用でしかありえません。

そこまで考えが行きつけば,「盗用でしかありえない」と断言できると思いますが,今の私の「実力」では,単順に「主語なし≒盗用」とする方が正答率が高くなると思ってしまう訳でして,解きながらいつもそういう迷いもあるのです。
前に,成功体験がまずあってその能力が伸びて行くという話を書いたことがありますが,私にはほとんど「成功体験」がないのです。(笑)

投稿: 肥さん | 2021年7月22日 (木) 00時07分

肥沼さんへ
>今の私の「実力」では,単順に「主語なし≒盗用」とする方が正答率が高くなると思ってしまう訳でして,解きながらいつもそういう迷いもあるのです。

 もちろん、主語なし=九州王朝の史料からの盗用 の確率は高いと思います。

 でも主語が省略されていても前後の文脈から近畿天皇家の話だと判断できる話もまたかなりの数であると思う。
 ここを判定することが大事です。
 前に肥沼さんは
 古事記には外国の話はほとんど出てこない
 と言っておられた。
 その通りだと思う。
 だから1の加羅・新羅にかかわる話は九州王朝系と即断しても良いと思う。

 問題は2。
 武庫水門を私は「播磨」としてしまいました。
 でもどうやら摂津だ。
 摂津だと近畿天皇家の畿内。

 そして2の話は、応神紀冒頭の
>五年秋八月庚寅朔壬寅、令諸國、定海人及山守部。冬十月、科伊豆國、令造船、長十丈。船既成之、試浮于海、便輕泛疾行如馳、故名其船曰枯野。由船輕疾名枯野、是義違焉。若謂輕野、後人訛歟。
を受けた話だ。
 
 また古事記の仁徳記に似た話がある。
>此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。

 一本の巨樹から作った船。これがだめになったとき壊して薪にして塩を焼いた。そして燃え残りで琴を作ったら良く響いた。
 古い船を壊して薪にして塩を焼いた
 というところが応神紀の話と同じ。

 もしかしたら応神紀の船の話は、元々は古事記の仁徳記にあった話を作り替えたものかもしれませんね。

 ただし武庫郡は摂津の一番西の郡で隣はすぐ播磨国。 
 古い時代には播磨国も最も東側にある郡だった可能性もあると思いますね。

 ここの判断は難しい。
 武庫水門

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月22日 (木) 12時46分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

「日本旧記」は分家にも配られていたのではないかなんて,ふと思いました。
それで「古事記」にも似た話が出て来るのではないかと…。

投稿: 肥さん | 2021年7月22日 (木) 13時05分

肥沼さんへ

>「日本旧記」は分家にも配られていたのではないか

 案外良い着眼点かもしれませんね。
 九州王朝の正史である「日本紀」がなかなか手に入らなかった。
 そこで天武はすでに手元にあった「日本旧記」を参考にして、近畿天皇家こそ昔から列島王者であったという歴史を書かせた。これが古事記であった。
 と考えるとすでに古事記でも九州王朝の史書からの盗用があったとなりますね。

 となると古事記に有る話はみな近畿王朝の説話という定理は成り立たなくなり、盗用を判断する一つの基準が消滅しますね。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月22日 (木) 17時56分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 となると古事記に有る話はみな近畿王朝の説話という定理は成り立たなくなり、盗用を判断する一つの基準が消滅しますね。

「「古事記」にも似た話があると」,と書きながらも,
なんか腑に落ちない感じがしていましたが, 
「日本旧記」は持っていたと考えると府に落ちる感じがしたもので。
最終的には,禁書を執拗に探し回ることになりますが・・・。

投稿: 肥さん | 2021年7月22日 (木) 22時27分

肥沼さんへ

>「「古事記」にも似た話があると」,と書きながらも,なんか腑に落ちない感じがしていましたが,「日本旧記」は持っていたと考えると府に落ちる感じがした

 でもこの仮説を採用すると、古田さんが古事記と日本書紀を比べて、古事記になくて日本書紀に出てくる話は九州王朝史書からの盗用だとした論(例えば景行紀の九州一円征服の話=実態は襲国と火国の熊県の征服だったのだが)も成り立たなくなってしまうので、
 この仮説は採用できません。
 やはり
1:古事記になくて日本書紀で出てくる話=九州王朝史書からの盗用
2:日本書紀にあって古事記にも似た話がある話は近畿天皇家の史料に基づく話
 としておきたいと思います。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月22日 (木) 23時50分

了解しました。

投稿: 肥さん | 2021年7月23日 (金) 14時39分

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