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2021年7月16日 (金)

垂仁紀の「詔」について【14】

続いて垂仁紀に入る。

ここは先日見たように,天皇という言葉が「有」「無」入り混じる。

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【垂仁14】

(1)一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」對諮「甚望也。」天皇阿羅斯等曰「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。

(現代語訳・ある説によると,崇神天皇の御世に,額に角の生えた人が,ひとつの船に乗って越の国の筍飯の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿という。「何処の国の人か」と尋ねると,「大加羅国の王の子,名は都怒我阿羅斯等,またの名は干斯岐阿利叱智干岐という。日本の国に聖王がおいでになると聞いてやってきました。穴戸についたとき,その国の伊都都比古が私に『自分はこの国の王である。自分の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』といいました。しかし私はよくよくその人となりを見て,これは王ではあるまいと思いました。そこでそこから退出しました。しかし,道が分からず島浦を伝い歩き,北海から回って出雲国を経てここに来ました」といった。このとき天皇の崩御があったと。そこで留まって垂仁天皇に仕えて,三年たった。天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ,「自分の国に帰りたいか」といわれ「大変帰りたいです」と答えた。天皇は彼に「お前が道に迷わず速くやってきていたら,先皇にも会えたことだろう。そこでお前の本国の名を改めて,御間城天皇の御名をとって,お前の国の名にせよ」といわれた。そして赤織の絹を阿羅斯等に賜わり,元の国に返された。だからその国を名づけてみまなの国というのは,この縁によるものである。阿羅斯等は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた。新羅の人がそれを聞いて兵を起こしてやってきて,その絹を皆,奪った。これから両国の争いが始まったという)み

(「古事記」には,任那や加羅の話は,登場しない)

☆ 天皇とあるが,新羅・任那が古事記には登場しないところから,九州王朝系史料の盗用ではないか。

(2)三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物。仍天日槍曰「播磨國宍粟邑、淡路島出淺邑、是二邑、汝任意居之。」時、天日槍啓之曰「臣將住處、若垂天恩聽臣情、願地者、臣親歷視諸國則合于臣心欲被給。」乃聽之。於是、天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之從人也。故天日槍、娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏、生但馬諸助也。諸助、生但馬日楢杵。日楢杵、生淸彥。淸彥、生田道間守也。

(現代語訳・三年春三月,新羅の王の子,天日槍がきた。持ってきたのは,羽太の玉一つ・足高玉一つ・鵜鹿々の赤石の玉一つ・出石の小刀一つ・出石の桙一つ・日鏡一つ・熊の神籬一具、あわせて七点であった。それを但馬国におさめて神宝とした。一説には,初め天日槍は,船に乗って播磨国にきて宍栗邑にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と,倭直の祖の長尾市とを遣わして,天日槍に「お前は誰か。また何れの国の人か」と尋ねられた。天日槍は,「手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がいると聞いて,自分の国を弟知古に授けてやってきました」という。そして奉まつったのは,葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日の鏡・熊の神籬・膽狹淺の大刀,あわせて八種類である。天皇は天日槍 に詔して,播磨国の宍粟邑と,淡路島の出浅邑の二つに,汝の心のままに住みなさい」といわれた。天日槍は申し上げるのに,「私の住む所は,もし私の望みを許して頂けるなら,自ら諸国を巡り歩いて,私の心に適った所を選ばせてもらいたい」と言った。お許しがあった。そこで,天日槍は宇治河を遡って,近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て,但馬国に至り居処を定めた。それで近江国の鏡邑が谷の陶人は,天日に従槍っていた者である。,天日槍は但馬国の出石の人,大耳の娘麻多鳥をめとって,但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守を生んだという)

(古事記には,この話は登場しないが,田道間守と同人物と思わせる多遅摩毛理の話が最後に少し出てくる。常世の国に非常の香の実を求める話だ。)

☆ 以上の経緯から,ほぼ関係が薄いと思われる。

(3)七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。

(現代語訳・七年秋七月己巳朔乙亥,おそばの者が申し上げ,「当麻邑に勇敢な人がいます。当麻クエ速といい,その人は力が強くて,角を折ったり曲がった釣をのばしたりします。人々に語って『四方に求めても,自分に並ぶ者はないだろう。何とかして,強力の者に会い,生死を問わず力比べしたい』と言っています。天皇はこれをお聞きになり,群卿たちに詔して,「当麻クエ速は天下の力持ちだという。これに勝う者はあるだろうか」といわれた。ひとりの臣が進み出て,「出雲国」に野見宿禰という勇士があると聞いています。この人をクエ速に取組ませてみたらと思います」という。野見宿禰は出雲からやってきた。当麻クエ速と野見宿禰に角力をさせた。二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて殴り合った。野見宿禰は当麻クエ速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した。そこで当麻クエ速の土地を没収して,すべて野見宿禰に与えられた。これがその邑に腰折田のあるわけである。野見宿禰はそのまま留まってお仕えした)

(古事記には,角力・相撲の話は出て来ない。日本書紀には,雄略紀・皇極紀・天武紀・持統紀に「相撲」の記事あり)

☆ 今でも「横綱」への昇格時には,九州の熊本市の吉田司に挨拶に行く習わしがあるようだ。九州王朝系史料の盗用のようである

(4)(5)廿三年秋九月二日朔丁卯、群卿曰「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。」因有司而議之。冬十月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、譽津別皇子侍之。時有鳴鵠、度大虛、皇子仰觀鵠曰「是何物耶。」天皇則知皇子見鵠得言而喜之、左右曰「誰能捕是鳥獻之。」於是、鳥取造祖天湯河板舉奏言「臣必捕而獻。」卽天皇勅湯河板舉板舉、此云拕儺曰「汝獻是鳥、必敦賞矣。」時湯河板舉、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。或曰、得于但馬國。十一月甲午朔乙未、湯河板舉、獻鵠也。譽津別命、弄是鵠、遂得言語。由是、以敦賞湯河板舉、則賜姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部

(現代語訳・二十三年秋九月丙寅朔丁卯,群卿に詔して「誉津別命は三十歳になり,長いあご髯が伸びるまで,赤児のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことがないのは何故か。皆で考えて欲しい」といわれた。冬十月八日天皇は大殿の前にお立ちになり,誉津別皇子はそのそばにつき従っていた。そのとき白鳥のくぐいが,大空を飛んでいた。皇子は空を仰いで,くぐいをごらんになっり「あれは何物か」といわれた。「誰かこの鳥を捕らえて献上せよ」といわれた。そこで鳥取造の祖,天湯河板挙が「手前が必ず捕まえましょう」といった。天皇は天湯河板挙にいわれた。「お前がこの鳥を捕まえたら,きっと十分褒美をやろう」と。湯河板挙はくぐいの飛んで行った方向を追って,出雲まで行きついに捕えた。ある人は「但馬国」ともいう。十一月二日,湯河板挙がくぐいをたてまつった。誉津別命はこのくぐいをもてあそび,ついに物が言えるようになった。これによって湯河板挙に賞を賜り,姓を授けられ,鳥取造という。そして,鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた。)

(古事記には,似た話が出ています。)

☆ 近畿王朝にあった話を膨らませたように考えました。。

(6)廿五年春二月丁巳朔甲子、阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、五大夫曰「我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」

(現代語訳・二十五年二月八日,阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日 らの五大夫に詔して,「先帝,崇神天皇は賢くて聖であり,聡明闊達,政治をよくご覧になり,神々を救い,身弓を慎まれた。それで人民は豊かになり,天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを,怠ってはならない」といわれた)

(古事記には,この記事はない)

☆ 古事記にない記事なので,九州王朝系の史料からの盗用と考えた。

(7)廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

(現代語訳・二十八年十月五日,天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。十一月二日,倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬った。このとき近習の者を集めて,全員を生きたままで,陵のめぐりに埋めたてた。日を経ても死なず,昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき,犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声をきかれて,心を痛められた。群卿に詔して,「生きているときに愛し使われた人々を,亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても,良くないことは従わなくてもよい。これから後は議って殉死を止めるように」といわれた)

(古事記には,この記事は出て来ない)

☆ 古事記にでてこないので,゜この殉死記事は九州王朝系の史料の盗用ではないか。

(8)(9)(10)卅年春正月己未朔甲子、天皇五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇之曰「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命、仍大足彥尊曰「汝必繼朕位。」

(現代語訳・三十年春一月六日,天皇は五十瓊敷命 ・大足彦尊に詔して,「お前たちそれぞれに欲しい物を言ってみよ」といわれた。兄王は「弓矢がほしいです」といわれた。弟王は「天皇の位が欲しいです」といわれた。そこで天皇は詔して,「それぞれの望みのままにしよう」といわれた。弓矢を五十瓊敷命 に賜り,大足彦命には「お前は必ずわが位を継げと仰せられた)

(古事記には,この話は出て来ない)

☆ 古事記にはこの話は出て来ないので,九州王朝系の史料の盗用だと考える。

(11)(12)卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。臨葬有日焉、天皇【?】群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。

(現代語訳・)三十二年秋七月六日,皇后日葉酢媛命が亡くなられた。葬るのにはまだ間があった。天皇は群卿に詔して,「從死がよくないことは前にわかった。。今後の葬はどうしようか」といわれた。野見宿禰が進んでいうのに,「君王の陵墓に、生きた人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今,適当な方法を考えて奏上させて下さい」と。使者を出して出雲国の土部百人をよんで,土部たちを使い,埴土で人や厩いろいろの物の形を造って,天皇にしていうのに,「これから後,この土物を以て生きた人に替え,陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は、大いに喜ばれ,野見宿禰に詔して,「お前の方便はまことにわが意を得たものだ」といわれ,その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは,立物ともいった。命を下されて,「今から後,陵墓には必ずこの土物をたてて,人損なってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて,鍛地を賜った。そして土師の職に任ぜられ,それで本姓を土部臣という。連等之コれが土部連らが,天皇の喪葬を司るいわれである。

(古事記には,この話は出て来ない。)

☆ 古事記に出て来ないので,九州王朝系の史料の盗用と考える。

(13)(14)八十八年秋七月己酉朔戊午、群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、天日槍之曾孫淸彥而令獻。於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉詔一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之賜酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰淸彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂淸彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府。然後、開寶府而視之、小刀自失。則使問淸彥曰「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。」淸彥答曰「昨夕、刀子自然至於臣家。乃明旦失焉。」天皇則惶之、且更勿覓。是後、出石刀子、自然至于淡路嶋。其嶋人、謂神而爲刀子立祠、是於今所祠也。昔有一人乘艇而泊于但馬國、因問曰「汝何國人也。」對曰「新羅王子、名曰天日槍。」則留于但馬、娶其國前津耳一云前津見、一云太耳女、麻拕能烏、生但馬諸助。是淸彥之祖父也。

(現代語訳・八十八年秋七月十日,群卿に詔して,「新羅の王子・天日槍が始めてやってきたときに,持ってきた宝物はいま但馬にある。國人に尊ばれて神宝となっている。自分は今その宝を見たいと思う」といわれた。その日に使いを遣わして,天日槍の曾孫淸彥に詔された。淸彥は勅を受けて,自ら神宝を法を捧げて献上した。羽太玉一つ・足高玉一つ・鵜鹿鹿赤石玉一つ・日鏡一つ・熊神籬一つである。淸彥は急に刀子はたてまつるまいと思って,衣の中に隠して,自分の身につけた。天皇はそれに気づかれず,淸彥をねぎらうため御所で酒を賜った。ところが刀子は衣の中から現れてしまった。天皇はご覧になって清彦に尋ねて,「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」といわれた。淸彥はかくすことはむできないと思って白状し,「たてまつるところの神宝の一つです」といった。 天皇は「その神宝は仲間と一緒でなくても差し支えないのか」といわれた。そこでこれを差し出し奉った。神宝は全部,神府に納められた。その後神府を開いてみると,刀子はなくなっていた。清彦に尋ねさせられ,「お前がたてまつった刀子が急になくなった。お前のところに行っているのではないか」といわれた。清彦は答えて「昨夕刀子がひとりで私の家にやってきましたが,今朝はもうありません」といった。天皇は畏れ慎まれてまた求めようとはされなかった。その後,出石の刀子は,ひとりでに淡路島に行った。その島の人はそれは神だと思って,刀子のために祠を立て,今でもまつられている。

(古事記には,この話はない)

☆ 古事記にないので,この話も九州王朝系の史料の盗用だと思われる。

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垂仁紀の「詔」を含む文章は,大部分が古事記に出て来ないものだった。

以上,「多くの例が九州王朝系の史料の盗用だと」だと思った。

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コメント

肥沼さんへ
>垂仁紀の「詔」を含む文章は,どれも古事記に出て来ないものだった。
以上の以って,「すべての霊が九州王朝系の史料の盗用だと」だと結論していいのか。
あまりにも,結果がはっきりしてしまって,逆に信じられない気分だ。

 はい。肥沼さんの誤りです。
 私が盗用と判定するときの条件は二つあったはずです。
1:詔の主語が省略されており、前後の文脈からも近畿の大王が主語とは判断できない。
2:古事記には出てこない。

 この二つの条件を満たして初めて九州王朝の史書からの盗用と考えたのです。

 ところが肥沼さんは、1の条件を無視して2だけで判断した。
 どうしてこんな間違いが生じるのかが不思議です。

 1の条件を考えると
ほどんどの詔が天皇と主語を明記してあるか、省略された場合も前後の文から天皇=近畿天皇家の大王と判断できる場合じゃないでしょうか。
 登場人物も場所も全部近畿だ。
 古事記にないからと言って、もっと詳しい近畿天皇家の史料からの記述と考えることもできますよ。
1:都怒我阿羅斯等は新羅の人だが、漂着したのは、出雲⇒越 九州王朝の領域から近畿天皇家の領域への移動だ。そして彼に

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月17日 (土) 00時06分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 1の条件を考えると
ほどんどの詔が天皇と主語を明記してあるか、省略された場合も前後の文から天皇=近畿天皇家の大王と判断できる場合じゃないでしょうか。
 登場人物も場所も全部近畿だ。
 古事記にないからと言って、もっと詳しい近畿天皇家の史料からの記述と考えることもできますよ。
1:都怒我阿羅斯等は新羅の人だが、漂着したのは、出雲⇒越 九州王朝の領域から近畿天皇家の領域への移動だ。そして彼に

私は1の条件については,なかなか判断がつきません。「もっと詳しい近畿天皇家の史料からの記述と考えることもできる」についてもよくわからないですし・・・。

投稿: 肥さん | 2021年7月17日 (土) 00時27分

肥沼さんへ

>私は1の条件については,なかなか判断がつきません。

 この1の条件が盗用か否かの必要条件です。
 これがあれば2がなくても盗用の可能性は高い。
 この1に加えて2があれば、盗用の可能性はさらに高まり、必要にして十分な条件がなりたつことになるのです。

 1の検証をしないことには、盗用か否かは判定できません。
 これはわからない・・・と言ってしまっては=検証不能と言ったのと同じです。

 では私が判定してみます。
1の詔。この話自体が冒頭の「一云」で明白なように、九州王朝の史書からの盗用です。加羅國王之子が渡ってきた先の国の名を「日本国」と呼んでいることも九州王朝史書からの盗用を示しています。

2の詔。この天日矛の話も「一云」以下で詳しく話を展開していることが、九州王朝史書からの盗用をしめしています。天日矛の子孫に「田道間守」をあげたのは、古事記に伝えられる「多遅摩毛理」の話につなげるためじゃないでしょうか。

3の詔。この話は古事記には出てこない。しかし当麻村に勇者ありと聞いて、これに勝てるものはいないかと聞いた詔は「天皇」と主語を明記している。だから明らかに近畿天皇家の話だ。近畿天皇家傘下の当麻村の勇者よりも、九州王朝傘下の出雲国の勇者の方が優れていたとの話。

4・5の詔。ここは古事記のも同様な話が載っており、近畿天皇家の内部の話を膨らませたとの判断で良いと思います。

6の詔。この詔は明らかに主語が省略されており、前後の文とも何ら関係がなく、しかも古事記にもない話。したがって九州王朝史書からの盗用との判断で正しいと思います。

7の詔。この詔は主語が省略されているが、前後の文のつながりから近畿の大王である天皇と判断できる。そもそもが天皇の母の死にまつわる殉死の話。そして殉死を禁じた話。古事記にはないが近畿天皇家内部の話と判断できる。

8・9・10の詔。8・9の詔には「天皇」と主語が明記されており、この話は近畿天皇家内部の話であることは明白。最後の10はこの流れから主語が近畿大王=天皇であることは明白だから省略されたに過ぎない。
 古事記にはないが別資料による近畿点王家内部の記事と判断できる。

11・12の詔。内容から明らかに7に詔の話の続きとわかる。妃の日葉酢媛命の死にまつわって殉死の代わりに埴輪を収めた話だ。11に詔には「天皇」と主語が明記されていることからも近畿天皇家の話であることは明白。12の詔で主語を省略したのは文脈からわかるから。

13・14の詔。どちらの詔でも主語は省略されている。天日矛の持ってきた宝を見たいとその子孫に命じた話。そのうえ古事記にはない話だから、確実に九州王朝史書からの盗用。

 結論
●九州王朝史書からの盗用は
 1・2・6・13・14
〇近畿天皇家内部の大王の言を詔としたもの
 3・4・5・7・8・9・10・11・12

 1の条件も考えて正しく判断できたものもありましたね。
 あきらめてはいけない。

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月17日 (土) 12時39分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

少しずつ学んでいきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 肥さん | 2021年7月17日 (土) 12時51分

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