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2021年7月17日 (土)

景行紀~成務紀の「詔」について【12】

【景行~成務12】

(1)十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其狀。

(現代語訳・熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。八月十五日,天皇は筑紫に向かわれた。周芳の紗娑バ着かれた。天皇は南方を眺めて群卿にいわれた。「南の方に煙が多くたっている。きっと賊がいるのだろう」と。そこでまず多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の兎名手・物部君の祖の夏花を遣わして,その様子を見させられた)

(前後の文脈・・・九州が舞台になっている。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で膨らませたものか

 

(2)十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。 。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」

(現代語訳・十一月,日向国について行宮を立ててお住みになった。十二月五日,襲の国を平らげられた。聞くところによると,襲の国にアツカヤ・サカヤという者がおり,二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十タケルといっている。勢いがさかんでかなう者がない。軍勢が少なくては,敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし多勢の兵を動かせば,百姓の害になる。兵士の威力をかりないで,ひとりでに熊襲の国をたいらげられないものか」といわれた。

(前後の文脈・・・九州が舞台となっている。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・似た話は「古事記」にも出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で話を膨らませたか

 

(3)時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇可也。」

(現代語訳・一人の臣が進み出て言った。「熊襲タケルに二人の娘があります。姉を市乾鹿文といい,妹を市鹿文といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈り物して手下に入れるのがよいでしょう。タケルの様子をうかがわせて不意を突けば,刃に血ぬらずして,敵を破ることもできましょう」と。天皇は「良い考えだ」と言われた)

(前後の文脈)・・・九州が舞台。)

(「古事記」に出て来るか・・・似ている話は出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で話を膨らませたか

 

 

(4)十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、於是天皇遙望之、左右曰「其集者何人也、若賊乎。」乃遣兄夷守・弟夷守一人二人令覩。乃弟夷守、還來而諮之曰「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」

(現代語訳・十八年春三月,天皇は都に向かわれようとして,筑紫の国を巡行された。最初に夷守に着かれた。このとき岩瀬川のほとりに群衆が集まっていた。天皇は遥かに眺められて,お側の者に,「あの集ま提る人たちは何だろう。賊だろうか」といわれた。兄夷守・弟夷守の二人を遣わして見させられた。弟夷守が帰ってきて,「諸県君泉媛が,帝にお召し上がりものを奉ろうとして,その仲間が集まっているのです」といった)

(前後の文脈・・・九州が舞台)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用ではないか

 

(5)五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是日沒也、夜冥不知著岸。遙視火光、天皇挾杪者曰「直指火處。」因指火往之、卽得著岸。天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」國人對曰「是八代縣豐村。」亦尋其火「是誰人之火也。」然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國也。

(現代語訳・五月一日,葦北から船出して火国についた。ここで日が暮れた。暗くて岸につくことが難しかった。遥かに火の光が見えた。天皇は船頭に詔して,「まっすぐに火のもとへ向かっていけ」といわれた。それで火に向かって行くと,岸につくことができた。天皇はその火の光るもとを尋ねて,「何という邑か」と聞かれた。国人は答えて,「これは八代県の豊村です」といった。「これはだれの火か」と。しかし主が判らない。人の燃やす火ではないということから,その国を名づけて火国とした。

(前後の文脈・・・九州が舞台。火国の地名説話)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

 

(6)爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。

(現代語訳・天皇は「これは何の樹か」と尋ねられた。一人の老人が申し上げるのに,「これはクヌギといいます。以前まだ倒れていなかった時は,朝日の光に照らされて,杵島山を隠すほどでした。夕日の光に照らされると,阿蘇山を隠すほどでした」といった。天皇は「この樹は神木である。この国を御木国とよぼう」といわれた。七日,八女県に着いた。藤山を越え,南方の粟崎を望まれた。詔して「その山の峯は,幾重も重なって大変うるわして。きっと神は,その山におられるだろう」といわれた。ときに水沼県主猿大海が申し上げ起こった。るのに,「女神がおられます。名を八女津媛といいます。常に山の中においでです」と。それで八女国の名はそこから起こった)

(前後の文脈・・・九州が舞台。阿蘇山・八女・水沼。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

(7)卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇群卿曰「今東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。

(現代語訳・四十年夏六月,東国の蝦夷がそむいて,辺境が動揺した。秋七月六日,天皇は群卿に詔して,「いま東国に暴れる神が多く,また蝦夷がすべて背いて,人民を苦しめている。誰を遣わしてその乱を鎮めようか」と問われた。群臣は誰を遣わすべきかわからなかった。ヤマトタケルが申し上げられるのに,「私は先に西の征討に働かせて頂きました。今度の役はオオウス皇子が良いでしょう」といわれた。そときオオウス皇子は,驚いて草の中にかくれられた。使いを遣わしてつれてこられ,天皇が責めて,「お前が望まないのを,無理に遣わすことはない。何ごとだ。まだ敵にも会わないのに,そんなにこわがったりして」といわれた。これによってついに美濃国を任され,任地に行かされた。これが身毛津君・守君二族の先祖である)

(前後の文脈・・・主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

(8)天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。

(現代語訳・天皇は能褒野でオウス皇子が亡くなったことをお聞きにになり,安らかに眠れなかった。食べてもその味もなく,昼夜むせび泣き,胸をうって悲しまれた。大変嘆いて,「わが子,オウス皇子,かつて熊襲の叛いたとき,まだ総角もせぬのに,長い間戦いに出ていつも私を助けてくれた。東夷が騒いで,「他に適当な人がいなかったので,やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれとアマツ業をおさめようか」といわれた。群卿に詔し,百僚に命じて,伊勢国の能褒野の陵に葬られた)

(前後の文脈・・・舞台ははっきりしない。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記に似た話は出て来る)

☆ 九州王朝や東国の説話の盗用か

 

(9)秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。

(現代語訳・秋八月四日,稚足彥尊を立てて皇太子とされた。この日に武內宿禰に命じて,棟梁之臣とされた。。初め日本武尊のさしておられた草薙横刀は,いま尾張國年魚市郡熱田神宮にある。尊が神宮に献上した蝦夷どもは昼夜けたたましく騒いで,出入にも礼儀がなかった。倭姬命は,「「この蝦夷らは神宮に近づいてはならない」といわれ,朝廷に進上された。そこで三輪山の辺りに置かれることになった。いくらもたたな中に,三輪山の木を切ったり,里に大声をあげたりして村人を脅かした。天皇はこれを聞かれ,群卿に詔して,「かの三輪山のほとりに置かれている蝦夷は,人並みではない心の者どもだから,中央には住ませ難い。その希望に従ってそれぞれ畿外に置くがよい」といわれた。これが播磨・讚岐・伊予・安芸・阿波など五つの国の佐伯郡の先祖である )

(前後の文脈・・・近畿の説話か。主語あり)

(「古事記」に出て来るか・・・同じような話が「古事記」に出て来る)

☆ 近畿王朝の説話を膨らませたように思った。

 

(10)五十三年秋八月丁卯朔、天皇群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。

(現代語訳・五十三年秋八月一日、天皇は群卿に詔して,「自分の愛した子を思いしのぶことは,何時の日も止むことか。オウス皇子の平定した国々を,巡行したいと思う。といわれた。この月,天皇の御車は伊勢においでになり,そこから東海道におはりになった。冬十月,上総国に行き,海路安房の水門にお出になった。このとき,覚賀鳥の声が聞こえてきた。その鳥の形を見たいと思われ,海の中までおいでになり,そこで大きなハマグリを得られた。膳臣の先祖で,名は磐鹿六鴈がガマの葉をとって,たすきにかけ,ハマグリをなますに造ってたてまつった。故、で六鴈臣の功績を賞めて膳大伴部の役を賜った。十二月,東国から帰り,伊勢にお住みになった。これを綺宮という )

(前後の文脈・・・主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」にはこの話は出て来ない)

☆ 九州王朝などからの史料の盗用と思われる

 

(11)五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。

五十六年秋八月、御諸別王曰「汝父彥狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。

(現代語訳・五十五年春二月五日,彥狹嶋王を東山道十五国の都督に任じられた。これは豐城命の孫である。そして春日の穴咋邑に至って病に臥してなくなられた。このとき東国の人民は,かの王の来られなかったことを悲しみ,ひそかに王の屍を盗みだして上野国に葬った。

五十六年秋八月,御諸別王に詔して,「お前の父の彥狹嶋王は,任じたところに行けないで早く死んだ。だからお前は専ら東国を治めよ」といわれた。

父・彦狭嶋王が亡くなったが,息子にその跡を継がさせた

(前後の文脈・・・主語なし。都督は,太宰府の「都府楼」の関連用語。他の地方に地名はない。太宰府を起点にした古代官道を設置した。

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用である。

 

成務天皇

(12)四年春二月丙寅朔、之曰「我先皇大足彥天皇、聰明神武、膺籙受圖、洽天順人、撥賊反正、德侔覆燾、道協造化。是以、普天率土、莫不王臣、稟氣懷靈、何非得處。今朕嗣踐寶祚、夙夜兢惕。然、黎元蠢爾、不悛野心。是、國郡無君長、縣邑無首渠者焉。自今以後、國郡立長、縣邑置首。卽取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之蕃屏也。」

(現代語訳・四年春二月一日、詔して「先帝は聡明で神勇にすぐれ,天の命を受けて皇位につかれた。天意にそい,人に順って,賊を伐ち払い正しきを示された。徳は人民を覆い,道は自然に適っていた。このため天下に従わぬ者なく,すべてのものは安らかであった。いま自分が皇位をつぎ,日夜己をいましめてきた。けれども人民の中には,虫のうごめくように穏やかでないものがある。これは国郡に長がなく,県邑に首がないからである。いまから後は国郡に長を置き,県邑に首を置こう。それぞれの国の長としてふさわしい者を取り立て,国郡の首長に任ぜよ。これが王城を護る垣根となるであろう」といわれた。 

(前後の文脈・・・主語なしで,地域も不明)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には,国郡や県邑は出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用ではないか

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景行紀は,一見わかりやすいかに見えたが,なかなかそうはいかないと思った。

都督みたいなキーワードがもっと出てくれるといいが。

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コメント

2の詔に続く以下の文の中に一つ詔があります。
これが3番目の詔。

時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇詔「可也。」

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月18日 (日) 18時35分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

見逃して消してしまったようです。
見つからなくて困っていました。
これでようやく準備が整いました。

投稿: 肥さん | 2021年7月18日 (日) 20時41分

肥沼さんへ

 検証お疲れ様です。
 お気づきかどうかわからないのですが、1~6の詔はみな、九州王朝の天皇による「九州一円征服譚」を盗用したものだと古田さんが論証したものです。
 だから全部九州王朝史料からの盗用。

 7・8がいわゆる日本武尊の東国遠征の話の部分。この話は古事記にも載っているので九州王朝史料からの盗用ではない。
 7の冒頭の東国の兵乱を受けての詔で、明確に主語を「天皇」としたことがその表れ。

 9の冒頭は明らかに近畿天皇家の話。
 だが途中から話が変わっている。
>於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、詔群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。
 詔はこの中で出てくる。
 神宮に献じられた蝦夷が騒ぐので朝廷に訴えたところ「御諸山」の傍らに移動となった。だがそこでも神山の木を切ったりして騒ぐので「畿外」に移されたという話。
 朝廷・中国・畿外という天皇にまつわる特徴的な語句がならべられているので、九州王朝系史料からの盗用。
 定説では「御諸山」を「三輪山」として大和の話に解釈しているが、「御諸山」とはどこにでもある神山のことで、大和には限定できない。
 神宮⇒「御諸山」に蝦夷が移されたことから古田さんは、鹿島神宮の話とされたが、それだと鹿島の地が畿内となるのでおかしい。
 やはり九州のどこかだと思う。

 10は7・8の日本武尊の遠征の続きの話なので近畿天皇家の話。冒頭の詔に「天皇」と主語が明記されている。

 11は肥沼さんの判断の通り。主語は省略されているし都督という特徴的な用語が九州王朝系史料からの盗用を示す。

 12も肥沼さんの判断の通り。近畿天皇家の大王の名前を挿入しているが、国・郡・県を定めて長を置くという、全国統治にかかわる詔だから九州王朝系史料からの盗用を示している。

★結論
近畿天皇家の話に詔としたもの
 7・8・10
九州王朝史料からの盗用
 1・2・3・4・5・6・9・11・12

投稿: 川瀬健一 | 2021年7月19日 (月) 13時01分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

(7)(8)(10)は日本武尊つながりでしたか。

(9)「畿外」がありましたか。くやしい。

投稿: 肥さん | 2021年7月19日 (月) 16時21分

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