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2021年8月 1日 (日)

欽明紀の「詔」について【44】 (40/44が「盗用」か)

欽明天皇

 

(1)元年春正月庚戌朔甲子、有司請立皇后、曰、立正妃武小廣國押盾天皇女石姬爲皇后。是生二男一女、長曰箭田珠勝大兄皇子、仲曰譯語田渟中倉太珠敷尊、少曰笠縫皇女。更名狹田毛皇女。

(現代語訳・元年春一月十五日,有志たちが皇后をお立てになるようにお願いしたところ,詔して「正妃の宣化天皇の女・石姬を立てて皇后としよう」と仰せられた。二男一女をうまれた)

前後の文脈・・・主語なし

☆ 九州王朝系史料の盗用と考える。

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(2)於是、大伴大連金村、居住吉宅、稱疾不朝。天皇、遣靑海夫人勾子、慰問慇懃。大連怖謝曰「臣所疾者、非餘事也。今諸臣等謂臣滅任那。故恐怖不朝耳。」乃以鞍馬贈使、厚相資敬。靑海夫人、依實顯奏、曰「久竭忠誠、莫恤衆口。」遂不爲罪、優寵彌深。是年也、太歲庚申。

(現代語訳・こんなこと(任那を失ったこと)のために,大伴金村は住吉の家にこもり,病と称して出仕しなかった資しなかった。・・・詔して,「忠誠の心をもって,長らく公に尽くしたのだから,人の噂を気にしなくてもよい」と仰せられた。ついに罪とはされず,いっそう手厚く待遇された)

前後の文脈・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系史料の盗用と考える。

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(3)(4)夏四月、安羅で次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利・加羅上首位古殿奚・卒麻旱岐・散半奚旱岐兒・多羅下旱岐夷他・斯二岐旱岐兒・子他旱岐等、與任那日本府吉備臣闕名字、往赴百濟、倶聽書。百濟聖明王、謂任那旱岐等言「日本天皇所者全以復建任那、今用何策起建任那、盍各盡忠奉展聖懷。」任那旱岐等對曰「前再三𢌞與新羅議、而無答報。所圖之旨、更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使往奏天皇。夫建任那者爰在大王之意、祗承教旨、誰敢間言。然、任那境接新羅、恐致卓淳等禍。」等、謂㖨己呑・加羅。言、卓淳等國有敗亡之禍。

(現代語訳・夏四月,安羅で次旱岐夷呑奚・大不孫・久取柔利,加羅の上首位古殿奚・卒麻旱岐・散半奚旱岐兒・多羅下旱岐夷他・斯二岐の旱岐の子・子他旱岐らと、任那の日本府の吉備臣(闕名字)が赴百濟に行って,共に詔書。をうけたまわった。百済の聖明王は任那の旱岐らに語って,「日本の天皇の意志は,もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか。皆が忠誠を尽くして御心を安んじようではないか」といった )

前後の文脈・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える。

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(5)今天皇稱、速建任那。由是、欲共爾曹謨計樹立任那國、宜善圖之。

(現代語訳・天皇が,「速やかに任那を再興させよう」と仰せられるので・・・任那の再建を考えたい

前後の文脈・・・外国関係の記事・主語あり

☆ 九州王朝系の記事を使って近畿王朝の史官がが作文したと考えた

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(6)蓋聞、爲人後者、貴能負荷先軌、克昌堂構、以成勳業也。故、今追崇先世和親之好、敬順天皇 故、今追崇先世和親之好、敬順天皇勅之詞、拔取新羅所折之國南加羅・㖨己呑等、還屬本貫、遷實任那、永作父兄、恆朝日本。

(現代語訳・世の中でもあとをつぐ人は,父祖の行を担って,それを盛んにし,功績を成し遂げることを喜ぶ。だから今からでも,先祖の図った親交を尊重し,天皇の詔勅に従って,新羅が掠めとった国,南加羅・とくことんらを奪いかえし,もとの任那に返し,日本を父とも兄とも立てて,永く仕えようと考えている)

前後の文脈・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(7)(8)(9)(10)聖明王更謂任那日本府曰「天皇稱『任那若滅汝則無資、任那若興汝則有援。今宜興建任那、使如舊日、以爲汝助、撫養黎民。』謹承勅、悚懼塡胸、誓效丹誠、冀隆任那、永事天皇、猶如往日。先慮未然、然後康樂。今日本府、復能依救助任那、是爲天皇所必褒讚・汝身所當賞祿。又日本卿等、久住任那之國、近接新羅之境、新羅情狀亦是所知。毒害任那、謨防日本、其來尚矣、匪唯今年。而不敢動者、近羞百濟、遠恐天皇、誘事朝庭、偽和任那。如斯感激任那日本府者、以未禽任那之間、偽示伏從之狀。願今候其間隙、估其不備、一舉兵而取之。天皇勅、勸立南加羅・㖨己呑、非但數十年。而新羅一不聽命、亦卿所知。且夫信敬天皇、爲立任那、豈若是乎。恐卿等輙信甘言、輕被謾語、滅任那國、奉辱天皇。卿其戒之、勿爲他欺。

(現代語訳・聖明王はまた任那の日本府に語り,「天皇は詔して,『任那がもし滅んだら,汝の依りどころを失う。任那が興れば汝の助けにもなろう。今,任那をもとのごとく興し、汝の助毛として,人民を満足させよ』と仰せられた。勅を賜り胸いっぱいである。誠心を尽くして任那を栄えさせたい。天皇に仕えることは昔のように,今後のことを充分配慮し,はじめて安奉がある。今,日本府が詔のまま任那を救えば,天皇からもほめられ賞録もあろう。日本の諸卿は永く任那の国にあっい,新羅に交わり,新羅の実情はご存じである。任那を侵し,日本の力をはばもうとするのは久しいもので,今年のみではない。だがあえて新羅が動いていないのは,近くは百済を警戒し,遠くは天皇を恐れてである。          朝廷を巧みに操り,偽って任那と親しくしている。新羅が任那の日本府に取り入っているのは,まだ任那を取れないから偽装しているのである。今その隙間をうかがい兵をあげ討ちとるのがよい。天皇が南加羅・㖨己呑を建てよと勧められることは近年だけのことではない。新羅がその命に従わぬことは卿らもよく知っている。天皇の詔を承って,任那をたてるためにこのままにこのままでよいことはない。卿らが甘言を信じて偽りにのせられ,任那国を滅ぼし,天皇を辱めたてまつることのないよう充分慎んで欺かれないように」といった )

前後の文脈から・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(11)(12)(13)冬十一月丁亥朔甲午、遣津守連、百濟曰「在任那之下韓、百濟郡令・城主、宜附日本府。」幷持書、宣曰「爾、屢抗表、稱當建任那、十餘年矣。表奏如此、尚未成之。且夫任那者爲爾國之棟梁、如折棟梁、詎成屋宇。朕念在茲、爾須早建。汝若早建任那、河內直等河內直已見上文自當止退、豈足云乎。」是日、聖明王聞宣勅已、歷問三佐平內頭及諸臣、曰「勅如是、當復何如。」三佐平等答曰「在下韓之我郡令・城主、不可出之。建國之事、宜早聽聖勅。」

(現代語訳・冬十一月八日,津守連を遣わして百濟に詔し,「任那の下韓にある百濟の郡令・城主は,日本府に帰属させる」といわれ,併せて詔書を持たせて,「王はしばしば書をたてまつって,今にも任を立てるように言い,十余年になる。申すことはこのようながら,いまだに出来ない。任那は爾の国の柱である。柱が折れては誰が家を建てられようか。これが心配だ。早く任那を復興せよ。もし早く復興したら河內直らが引き上げることはいうまでもない」と。この日,聖明王は,勅を承り終わって,三人の佐平內頭と諸臣につぎつぎに尋ねた。「詔勅はかくのごとくである」と。三人の佐平らは答えて,「下韓のわが郡令・城主を引き上げることはできません。任那の国を復興させることは早速に,天皇の勅に従うべきでしよう」といった )

前後の文脈・・・外国関係の記事

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(14)(15)(16)十二月、百濟聖明王、復以前、普示群臣曰「天皇勅如是、當復何如。」上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・德率鼻利莫古・德率東城道天・德率木刕昧淳・德率國雖多・奈率燕比善那等、同議曰「臣等、禀性愚闇、都無智略。建任那、早須奉勅。今宜召任那執事・國々旱岐等、倶謀同計、抗表述志。又河內直・移那斯・麻都等猶住安羅、任那恐難建之。故亦幷表、乞移本處也。」聖明王曰「群臣所議、甚稱寡人之心。」是月、乃遣施德高分、召任那執事與日本府執事。倶答言「過正旦而往聽焉。」

(現代語訳・十二月,百濟の聖明王はまた先の詔をもって,あまねく群臣に示して,「天皇の勅はかくのごとくである。いかにすべきか」と尋ねた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・德率鼻利莫古・德率東城道天・德率木刕昧淳・德率國雖多・奈率燕比善那らはあいはかって,「私どもは天性愚かで,いずれも智略がありません。任那を建てよとの詔には,早速従うこととし,任那の執事・国々旱岐らを呼んで,共に謀り,意見を申しのべましょう。 )

前後の文脈・・・外国関係の記事

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(17)(18)(19)二月、百濟遣施德馬武・施德高分屋・施德斯那奴次酒等、使于任那、謂日本府與任那旱岐等曰「我、遣紀臣奈率彌麻沙・奈率己連・物部連奈率用奇多、朝謁天皇。彌麻沙等、還自日本、以書宣曰『汝等宜共在彼日本府、早建良圖、副朕所望。爾其戒之、勿被他誑。』又津守連、從日本來百濟本記云津守連己麻奴跪、而語訛不正、未詳勅而問任那之政。故、將欲共日本府・任那執事議定任那之政奉奏天皇、遺召三𢌞、尚不來到。由是、不得共論圖計任那之政奉奏天皇矣。今欲請留津守連、別以疾使、具申情狀遣奏天皇。當以三月十日發遣使於日本。此使便到、天皇必須問汝。汝日本府卿・任那旱岐等、各宜發使、共我使人、往聽天皇所宣之。」

(現代語訳・二月,百濟の施德馬武・施德高分屋・施德斯那奴次酒らを遣わして,天皇のもとへ行かせた。弥麻沙らは日本から帰って詔書をもたらし,「お前たちはそちらの日本府の者と共に,早く良い計画を立てて,わが望みをかなえよ。気をつけて欺かれないように」とあったと告げた。また津守連が二本から来て詔勅を伝え,任那の復興の方策を問うた。さそれで日本府・任那の復興策を協議決定し,天皇に報告しようと呼びにやること三度に及んがそれでもできなかった。それゆえ報告もできない。津守連に逗留を願い,特に急使をを持って,天皇に実情をお伝えしたい。それで三月十日に使いを日本に遣わそう。この使いが届いたら,天皇はきっと詰問されるだろう。日本府の諸卿・任那の王たちもそれぞれ使いを出し,わが使いと共に,こちらに出向いて天皇の宣う詔をうけたまわるように」といった )

前後の文脈から・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える。

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(20)日本府答曰「任那執事不赴召者、是由吾不遣不得往之。吾遣奏天皇、還使宣曰『朕當以印奇臣語訛未詳遣於新羅、以津守連遺於百濟。汝、待聞勅際、莫自勞往新羅百濟也。』宣勅如是。會聞印奇臣使於新羅、乃追遣問天皇所宣、曰『日本臣與任那執事、應就新羅聽天皇勅。』而不宣就百濟聽命也。後、津守連遂來過此、謂之曰『今余被遣於百濟者、將出在下韓之百濟郡令・城主。』唯聞此說。不聞任那與日本府會於百濟聽天皇勅。故不往焉、非任那意。」於是、任那旱岐等曰「由使來召便欲往參、日本府卿不肯發遣、故不往焉。大王、爲建任那觸情曉示。覩茲忻喜、難可具申。」

(現代語訳・日本府がこれに答えて,「任那の執事が呼ばれても来ないのは,自分が使いを遣わさないからです。天皇に掃除用の為遣わした使いが帰っていうのに,『朕は印奇臣を新羅に遣わし,、津守連を百濟に遣わすことにしている。汝は勅を承るまで待て。新羅・百濟には自ら出向くな』とのことでした。ところがたまたま印奇臣が新羅に使いをすると聞いて,呼んで天皇の仰せられるところを尋ねました。詔には,『日本府の臣と任那の執事が新羅に行き,天皇の勅を承れ』といわれました。百済に行き命を聞けとは言われなかったのです。後に,津守連がここに寄った時語って,『今自分が百濟に遣わされるのは,下韓の百濟郡令・城主を撤退させるさ為である』と。ただそれだけで,任那と日本府が百済に集まり,天皇の勅を承れということは聞きませんでした。だからやってこないのは任那の意志ではありません」と答えた。任那の王らの言うには,「使いがきて呼ぶのので参ろうとしますが,日本府の卿がでることをが許さ野ででられないのです。聖明王は任那を建てるために,心の中のこまかいことまで示されました。これを見て言いようもなく嬉しく存じます」といった )

前後の文脈・・・外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(21)(22)(23)三月、百濟、遺奈率阿乇得文・ク陀羅尼壱岐,許勢奈率奇麻・物部奈率歌非等、上表曰「奈率彌麻沙・奈率己連等至臣蕃奉書曰『爾等、宜共在彼日本府同謀善計早建任那。爾其戒之、勿被他誑。』又、津守連等至臣蕃奉勅書問建任那。恭承來勅、不敢停時、爲欲共謀。乃遣使召日本府百濟本記云、遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。與任那、倶對言『新年既至、願過而往。』久而不就、復遣使召、倶對言『祭時既至、願過而往。』久而不就、復遣使召。而由遣微者、不得同計。夫任那之不赴召者、非其意焉。是阿賢移那斯・佐魯麻都二人名也、已見上文。姧佞之所作也。夫任那者以安羅爲兄、唯從其意。安羅人者以日本府爲天、唯從其意。百濟本記云、以安羅爲父、以日本府爲本也。今的臣・吉備臣・河內直等咸從移那斯・麻都指撝而已。移那斯・麻都、雖是小家微者、專擅日本府之政。又制任那、障而勿遣。由是、不得同計奏答天皇。故、留己麻奴跪蓋是津守連也、別遣疾使迅如飛烏、奉奏天皇。假使二人二人者、移那斯與麻都也在於安羅多行姧佞、任那難建、海西諸國必不獲事。伏請、移此二人還其本處、勅喩日本府與任那而圖建任那。故、臣遣奈率彌麻沙・奈率己連等、副己麻奴跪、上表以聞。於是、曰『的臣等等者、謂吉備弟君臣・河內直等也往來新羅、非朕心也。曩者、印支彌未詳與阿鹵旱岐在時、爲新羅所逼而不得耕種。百濟路迥、不能救急。由的臣等往來新羅、方得耕種、朕所曾聞。若已建任那、移那斯・麻都自然却退。豈足云乎。』伏承此、喜懼兼懷。而新羅誑朝、知匪天勅。新羅春取㖨淳、仍擯出我久禮山戍而遂有之。近安羅處、安羅耕種。近久禮山處、斯羅耕種。各自耕之、不相侵奪。而移那斯・麻都、過耕他界、六月逃去。於印支彌後來、許勢臣時、百濟本記云、我留印支彌之後、至既洒臣時。皆未詳。新羅無復侵逼他境、安羅不言爲新羅逼不得耕種。臣嘗聞、新羅毎春秋、多聚兵甲、欲襲安羅與荷山。或聞、當襲加羅。頃得書信。便遣將士擁守任那、無懈息也。頻發鋭兵、應時往救。是以、任那隨序耕種、新羅不敢侵逼。而奏百濟路迥不能救急・由的臣等往來新羅方得耕種、是上欺天朝轉成姧佞也。曉然若是尚欺天朝、自餘虛妄必多有之。的臣等猶住安羅、任那之國恐難建立。宜早退却。臣深懼之、佐魯麻都、雖是韓腹位居大連、廁日本執事之間入榮班貴盛之例、而今反着新羅奈麻禮冠、卽身心歸附於他易照。熟觀所作、都無怖畏、故前奏惡行、具錄聞訖。今猶着他服、日赴新羅域、公私往還、都無所憚。夫㖨國之滅、匪由他也。㖨國之函跛旱岐、貳心加羅國而內應新羅、加羅自外合戰、由是滅焉。若使函跛旱岐不爲內應、㖨國雖少未必亡也。至於卓淳、亦復然之。假使卓淳國主不爲內應新羅招冦、豈至滅乎。歷觀諸國敗亡之禍、皆由內應貳心人者。今麻都等、腹心新羅、遂着其服、往還旦夕、陰搆姧心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅、臣國孤危。思欲朝之、豈復得耶。伏願天皇、玄鑒遠察、速移本處、以安任那。」

(現代語訳・)

前後の文脈から・・・長文を書き写していたら目がショボショボするようになりました。現代語訳は短文のもののみにさせて下さい。

(21)詔書(名詞)

(22)於是,詔曰 ~ 主語なし

(23)詔(名詞)

外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用

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(24)(25)於是、百濟王聖明、略以書示曰「吾遣奈率彌麻佐・奈率己連・奈率用奇多等、朝於日本。曰、早建任那。又津守連、奉勅、問成任那。故遣召之、當復何如能建任那、請各陳謀。」吉備臣・任那旱岐等曰「夫建任那國、唯在大王。欲冀遵王倶奏聽勅。」

(現代語訳・百済の聖明王は,詔書を示して言った。「自分は,奈率彌麻佐・奈率己連・奈率用奇多らを遣わして,日本に行かせたとき,詔は,「早く任那を建てよ」ということであった。また津守連が勅を承って,任那復興ののことはできたかと尋ねられた。それゆえ皆を呼んだ。さてどうして任那を建てようか。どうかそれぞれの計略を宣べて欲しい 」といった。吉備臣や任那の旱岐 は,「任那の復興は,ただ大王の決意如何です。吾々は王に従って共に勅を承ります」といった)

前後の文脈・・・

(24)詔書(名詞)

(25)詔日~主語なし

 外国関係の記事

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(26)(27)(28)聖明王謂之曰「任那之國與吾百濟、自古以來約爲子弟。今、日本府印岐彌謂在任那日本臣名也既討新羅、更將伐我、又樂聽新羅虛誕謾語也。夫遣印支彌於任那者、本非侵害其國。未詳。往古來今、新羅無導、食言違信而滅卓淳。股肱之國、欲快返悔。故遣召到、倶承恩、欲冀興繼任那之國猶如舊日永爲兄弟。竊聞、新羅・安羅兩國之境有大江水、要害之地也。吾欲據此修繕六城、謹請天皇三千兵士毎城充以五百幷我兵士勿使作田而逼惱者、久禮山之五城庶自投兵降首。卓淳之國亦復當興。所請兵士、吾給衣粮。欲奏天皇其策一也。猶於南韓置郡令・城主者、豈欲違背天皇遮斷貢調之路。唯庶、剋濟多難殲撲强敵、凡厥凶黨誰不謀附。北敵强大、我國微弱。若不置南韓郡領・城主修理防護、不可以禦此强敵、亦不可以制新羅。故猶置之攻逼新羅、撫存任那。若不爾者、恐見滅亡、不得朝聘。欲奏天皇、其策二也。又吉備臣・河內直・移那斯・麻都猶在任那國者、天皇雖建成任那不可得也。請、移此四人各遣還其本邑。奏於天皇、其策三也。宜與日本臣・任那旱岐等倶奉遣使、同奏天皇乞聽恩。」

(現代語訳・)

前後の文脈・・・

(26)恩詔(名詞)

(27)又吉備臣・河內直・移那斯・麻都がいつまでも任那国にいると, 天皇が任那の復興を仰せられても,叶わぬことである。

(28)恩詔(名詞)

外国関係の記事

☆ 九州王朝王朝系の史料の盗用と考える

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(29)(30)九年春正月癸巳朔乙未、百濟使人前部德率眞慕宣文等、請罷。因曰「所乞救軍、必當遣救。宜速報王。」夏四月壬戌朔甲子、百濟遣中部杆率掠葉禮等、奏曰「德率宣文等、奉勅至臣蕃曰、所乞救兵應時遣送。祗承恩、喜慶無限。

(現代語訳・九年春一月三日,百濟の使人前部德率眞慕宣文らが帰国を願い出た。そこで詔して,「要請のあった援軍は,必ず派遣しよう。速やかに王に報告するがよい」といわれた。夏四月三日,百濟は中部杆率掠葉禮らを遣わして奏上し,「德率宣文らが勅を承り,国に帰って,乞うところの援軍は,必要な時に送り送り遣わす」というありがたい恩詔を頂き,喜びこの上もありません。 )

前後の文脈・・・外国関係の話。恩詔=名詞

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(31)曰「式聞呈奏、爰覿所憂、日本府與安羅不救隣難、亦朕所疾也。又復密使于高麗者、不可信也。朕命卽自遣之、不命何容可得。」

(現代語訳・詔して,「使人のもたらした申しことを聞き,心配することがよく分かった。日本府と安羅が隣の災難を救わなかったのは,自分も心苦しく重っいている。高麗にこっそり使いをやったというごときは信じるべきではない。自分が命ずるのなら

ときはときは如きとき信ずるべきではない。」)

前後の文脈・・・ 日本府の記事・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(32)六月辛酉朔壬戌、遣使于百濟曰「德率宣文取歸以後、當復何如、消憩何如。朕聞、汝國爲狛賊所害。宜共任那、策勵同謀、如前防距。」

(現代語訳・六月二日,百濟に使いを遣わして,「德率宣文が帰国してその後どうであろうか,高句麗のために侵害されたと聞くが,任那と共に謀り励み,心を同じくして前回のようによく防ぐよう」といわれた )

前後の文脈・・・外国との関係・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(33)十年夏六月乙酉朔辛卯、將德久貴・固德馬次文等、請罷歸。因曰「延那斯・麻都、陰私遣使高麗者、朕當遣問虛實。所乞軍者、依願停之。」

(現代語訳・十年夏六月七日,將德久貴・固德馬次文らが,帰国したいと願った。よって詔して,「延那斯・麻都がひそかに使いを高麗に遣わしたことについては,虚実を質し者を遣わそうと思う。乞うていた援軍は,願いがあったので停止したのである」といわれた )

前後の文脈・・・外国関係の記事。主語なし。

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(34)(35)十一年春二月辛巳朔庚寅、遣使于百濟。・・・

曰「朕聞、北敵强暴。故賜矢卅具。庶防一處。」

(現代語訳・十一年春二月十日,百済に使いを遣わして・・・

重ねて詔して,高句麗は強暴であるという。矢三十具を贈ろう。大事な所はしっかり守ってほしい」といわれた。

前後の文脈・・・外国関係の記事。主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(36)十三年夏四月・・・曰「今、百濟王・安羅王・加羅王與日本府臣等、倶遣使奏狀、聞訖。亦宜共任那幷心一力。猶尚若茲、必蒙上天擁護之福、亦頼可畏天皇之靈也。」

(現代語訳・詔して,「今,百済の王・安羅の王・加羅の王日本府の臣らと共に使いを遣わして,申してきたことは聞きいれた。また任那と共に心を合わせ,力を専らにせよ。そうすれば,きっと上天の擁護の福を蒙り,天皇の霊威にあずかれるであろう」といわれた)

前後の文脈・・・外国関係の記事。主語なし。

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(37)是日、天皇聞已、歡喜踊躍、使者云「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」乃歷問群臣曰「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」蘇我大臣稻目宿禰奏曰「西蕃諸國一皆禮之、豐秋日本豈獨背也。」物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「我國家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致國神之怒。」天皇曰「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜。」

(現代語訳・この日、,天皇はこれを聞き給わって,欣喜雀躍なさって,使者に詔して,「自分は昔からこれまで,まだこのような妙法を聞かなかった。けれども,自分一人では決定はしない」といわれた。群臣に一人一人尋ねられ,「西の国から伝わった仏の顔は,端麗の美を備え,まだ見たこともないものである。これを祀るべきかでうか」といわれた。蘇我大臣稻目宿禰が申すのに,「西の国の諸国は皆礼拝しています。豐秋の日本だけが,それに背くべきでしょうか」と。物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく申すのには,「わが帝の天下に王としておいでになるのは,常に天地社稷の百八十神を手か春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むとなると,恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と。天皇はいわれた。「それでは願人の稻目宿禰に授けて,試しに礼拜させてみよう」と。

前後の文脈から・・・外国関係の記事・「古事記」(仏でヒットせず)にもない

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(38)八月辛卯朔丁酉、百濟遺上部奈率科野新羅・下部固德汶休帶山等、上表曰「去年臣等同議、遣內臣德率次酒・任那大夫等、奏海表諸彌移居之事。伏待恩、如春草之仰甘雨也。今年忽聞、新羅與狛國通謀云『百濟與任那頻詣日本、意謂是乞軍兵伐我國歟。事若實者、國之敗亡可企踵而待。庶先日本軍兵未發之間、伐取安羅、絶日本路。』其謀若是。臣等聞茲、深懷危懼、卽遣疾使輕舟馳表以聞。伏願、天慈速遣前軍後軍相續來救。逮于秋節、以固海表彌移居也。若遲晩者、噬臍無及矣。所遣軍衆來到臣國、衣粮之費、臣當充給。來到任那、亦復如是。若不堪給、臣必助充、令無乏少。別的臣、敬受天勅、來撫臣蕃、夙夜乾々、勤修庶務。由是、海表諸蕃、皆稱其善、謂當萬歲肅淸海表。不幸云亡、深用追痛。今任那之事、誰可修治。伏願、天慈速遣其代以鎭任那。又復海表諸國甚乏弓馬、自古迄今受之天皇以禦强敵。伏願、天慈多貺弓馬。」

(現代語訳・八月七日,百濟は上部奈率科野新羅・下部固德汶休帶山らを遣わして上表し,「去年,私どもは会議をして,內臣德率次酒・任那大夫らを遣わし,海外の官家のことを申し上げました。恩詔を待つことは,春草の甘雨を仰ぐようであります。・・・ )

前後の文脈・・・海外関係の記事

恩詔=名詞

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(39)十五年春正月戊子朔甲午、立皇子渟中倉太珠敷尊、爲皇太子。丙申、百濟遣中部木刕施德文次・前部施德曰佐分屋等於筑紫、諮內臣・佐伯連等曰「德率次酒・杆率塞敦等、以去年閏月四日到來云、臣等臣等者謂內臣也以來年正月到。如此噵而未審、來不也、又軍數幾何。願聞若干、預治營壁。」別諮「方聞、奉可畏天皇之、來詣筑紫、看送賜軍。聞之歡喜、無能比者。此年之役甚危於前、願遣賜軍使逮正月。」於是、內臣奉勅而答報曰「卽令遣助軍數一千・馬一百匹・船卌隻。」

(現代語訳・)

前後の文脈・・・外国関係の記事

天皇の詔=名詞

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(40)夏六月、曰「新羅、西羌小醜、逆天無狀、違我恩義、破我官家、毒害我黎民、誅殘我郡縣。我氣長足姬尊、靈聖聰明、周行天下、劬勞群庶、饗育萬民、哀新羅所窮見歸、全新羅王將戮之首、授新羅要害之地、崇新羅非次之榮。我氣長足姬尊於新羅何薄、我百姓於新羅何怨。而新羅、長戟强弩、凌蹙任那、鉅牙鉤爪、殘虐含靈、刳肝斮趾、不厭其快、曝骨焚屍、不謂其酷。任那族姓、百姓以還、窮刀極爼、既屠且膾。豈有率土之賓・謂爲王臣、乍食人之禾・飲人之水、孰忍聞此而不悼心。況乎太子大臣、處趺蕚之親、泣血銜怨之寄、當蕃屏之任、摩頂至踵之恩、世受前朝之德、身當後代之位。而不能瀝膽抽腸・共誅姧逆・雪天地之痛酷・報君父之仇讎、則死有恨臣子之道不成。」

(現代語訳・夏六月,詔して,「新羅は西に偏した少し卑しい国である。天に逆らい無道で,わが恩義に背き,官家をつぶした。・・・」)

前後の文脈・・・外国関係の記事・主語なし 

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(41)(42)卅年春正月辛卯朔、曰「量置田部、其來尚矣。年甫十餘、脱籍兔課者衆。宜遣膽津膽津者、王辰爾之甥也檢定白猪田部丁籍。」夏四月、膽津、檢閲白猪田部丁者依定籍、果成田戸。天皇、嘉膽津定籍之功、賜姓爲白猪史、尋拜田令爲瑞子之副。瑞子、見上。

(現代語訳・卅年春一月一日,詔して,「田部が設けられて久しいが,年齢が十歳になっても戸籍に漏れているため,課役を免れる者が多い。胆津を遣わして,白猪田部の丁者の籍をあらため調べ確定させよ」夏四月,胆津は白猪田部の丁者を調べて,詔に従い戸籍を定めた。天皇は胆津が戸籍を定めた功をほめて,姓を賜い白猪史とされた。田令に任ぜられて,副官とされた。瑞子、見上。 )

前後の文脈・・・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(43)卅一年春三月甲申朔、蘇我大臣稻目宿禰、薨。夏四月甲申朔乙酉、幸泊瀬柴籬宮。越人・江渟臣裾代、詣京奏曰「高麗使人、辛苦風浪、迷失浦津、任水漂流、忽到着岸。郡司隱匿、故臣顯奏。」曰「朕承帝業、若干年。高麗迷路、始到越岸。雖苦漂溺、尚全性命。豈非徽猷廣被・至德魏々・仁化傍通・洪恩蕩々者哉。有司、宜於山城國相樂郡、起館淨治、厚相資養。」是月、乘輿至自泊瀬柴籬宮、遣東漢氏直糠兒・葛城直難波、迎召高麗使人。

(現代語訳・・・卅一年春三月一日,蘇我大臣稲目が薨じた。夏四月二日天皇は泊瀬柴籬宮においでになった。越の人・江渟臣裾代が京に出て奏上し,「高麗の使人が暴風雨に苦しみ,迷って港が分らなくなり,漂流の果て海岸に辿りつました。郡司は報告せずかくしておりますので,私がお知らせします。 詔して,「自分が帝位について何年かになるが,高麗人が道に迷い,越の浜に着いたという。漂流に苦しみながらも命はは助かった。これは我が政治が広く行き渡り,徳がさかんで恵ある教化が行われ,大きな恩が果てしなく行きわたっていることを示すものではないか・・・有司は山城國相樂郡に館を建て,厚く助け養え」といわれた。この月,天皇は泊瀬柴籬宮より換えられ,東漢氏直糠兒・葛城直難波を遣わして,高麗使人の使人をよび迎えさせられた )

前後の文脈・・・外国関係の記事・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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(44)卅二年春三月戊申朔壬子、遣坂田耳子郎君、使於新羅、問任那滅由。是月、高麗、獻物幷表、未得呈奏、經歷數旬、占待良日。夏四月戊寅朔壬辰、天皇寢疾不豫。皇太子向外不在、驛馬召到、引入臥內、執其手曰「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」是月、天皇遂崩于內寢、時年若干。

(現代語訳・卅二年春三月五日,坂田耳子郎君を使者とし新羅に遣わし,任那の滅んだ訳を問わせた。この月,高麗の貢物や書状を,まだ捧呈できなかっかった。數旬おくれて,適当な日を待った。。夏四月十五日,天皇は病に臥せられた。皇太子は他に赴いて不在であったので,駅馬を走らせて呼び寄せた。大殿に引き入れて,その手をとり詔して,自分は重病である。後のことをお前にゆだねる。お前は新羅を討って,任那を封じ建てよ。またかつてのごとく両者相和すること仲となるならば,死んでも思い残すことはない」といわれた。この月,天皇はついに大殿に崩御された。時に年若干 )

前後の文脈・・・ 外国関係の記事・主語なし

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか。

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コメント

作業中ですが一言

 いつまで「古事記に出てくるか」という基準で検証作業をするのですか。
 すでに武烈以後は王の名前と妃の名前などの基本情報しかなくなっている。事績はない。
 これでは九州王朝史料の盗用か否かは判断できません。

 話の内容
 主語有無(近畿大王と判断できるか否か)
 の二つで判定するしかないですよ。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 1日 (日) 08時53分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 話の内容
 主語有無(近畿大王と判断できるか否か)
 の二つで判定するしかないですよ。

では,この項目は外します。

投稿: 肥さん | 2021年8月 1日 (日) 09時18分

肥沼さんへ

 1~10の詔の検証お疲れ様です。
 1と5を除いて、九州王朝史料の盗用との結論はその通りだと思います。

1の詔:これは欽明の立后の詔ですから、九州王朝史料ではないです。近畿天皇家の史料によって、立后の詔の形式で書いただけ。

5の詔:「九州王朝系の記事を使って近畿王朝の史官がが作文したと考えた」という理由がわからない。
 天皇とはあるが、明らかにこれは九州王朝天皇の詔。九州王朝史書からの盗用です。

 欽明紀の主体は、百済聖明王との任那新羅を巡るやりとり。したがってこの欽明紀の天皇の多くは九州王朝の天皇です。
 明らかに近畿天皇家の内部の出来事と読める記事は除きますが。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 2日 (月) 12時16分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

外国関係は欽明に集中していると聞いていたので,それを頭に入れて答えました。

投稿: 肥さん | 2021年8月 2日 (月) 16時48分

肥沼さんへ

 11~20の詔の検証、お疲れ様。
 全部九州王朝の史書からの盗用でしたね。その通りです。
 もしかしたら欽明紀はほとんど盗用かもしれませんね。何しろ武烈までの近畿天皇家の「記録」は、王と王の家族の記録と、王一族内の権力闘争の記録しかないのですから。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 3日 (火) 08時58分

肥沼さんへ

 詔21~28の検討お疲れ様。
 ここもすべて外国関係記事。九州王朝史料からの盗用であることは確実です。

 ※たしかに現代語訳をすべて入れるのは大変。でも肥沼さんも含めて、このサイトを見る人で、返り点のない漢文を読める人はほとんどいないと思います。できるだけ現代語訳を入れてください。
 長文になってしまうのは、21・22・23のように複数の詔や詔の語が複数入っているものを一つにしているからです。
 詔毎に分ければ少しは楽になると思います。
 それから今は「欽明紀の詔について」の題でひとくくりにしていますが、「欽明紀の詔について」①1~10、「欽明紀の詔について」②11~20、「欽明紀の詔について」③21~28、という具合に別に掲載したほうが、見る方も見やすいと思います。コメントもこの方がつけやすい。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 4日 (水) 12時06分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

沢山の「詔」が出て来るものについては,
今後工夫してみます。
欽明紀はこのままでいかせていただきますね。

投稿: 肥さん | 2021年8月 4日 (水) 16時14分

肥沼さんへ

 詔29~36の検証お疲れ様。

 31の判定を忘れていますね。
 日本府に関する詔。主語なし。
 九州王朝史料の盗用ですね。

 ここも全部盗用だった。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 5日 (木) 08時14分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 31の判定を忘れていますね。
日本府に関する詔。主語なし。
 九州王朝史料の盗用

31 失敗しました。

投稿: 肥さん | 2021年8月 5日 (木) 09時45分

肥沼さんへ

 詔37~44の検証お疲れ様。
 二つ間違っています。

詔37:いわゆる仏教公伝記事。でもこれは近畿天皇家の話。理由は
詔主語が「天皇」と明記されている。
百済を「西蕃」と表現していること。倭国からは百済はすぐ北の国。西と表記するのは、視点が大和だから。
 この仏教公伝の話そのものが、倭国への公伝ではなくて、近畿天皇家への公伝の可能性が高いです。

詔43:これも近畿天皇家の話。
高句麗の使いの船が風雨に流されて越の国に漂着したことを越の人がわざわざ都にきて報告した。この知らせを受けた天皇は、泊瀬の宮にいた。そして山城相楽郡に饗応の館を立てさせたあと、泊瀬の宮から都に帰還したと。
 主語は省略されているが、話の場所が近畿だ。

 古事記には外国関係記事はなく、書紀でもこれまで外国関係記事はみな九州王朝史書からの盗用だった。
 欽明紀で初めて近畿天皇家が外国と直接関係を持った話が出てきたので、以後は
 「外国関係記事=盗用」は成り立たなくなる
ので一つ一つ検証が必要です。

 他の詔はみな九州王朝史書からの盗用で良い。

投稿: 川瀬健一 | 2021年8月 6日 (金) 09時13分

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