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2021年7月

2021年7月31日 (土)

安閑紀~宣化紀の「詔」について【9】

安閑天皇

(1)秋七月辛巳朔、曰「皇后、雖體同天子而內外之名殊隔。亦可以充屯倉之地、式樹椒庭、後代遺迹。」

(現代語訳・秋七月一日,詔して,「皇后は身分は天皇に等しいが,後宮にあるため外部には知らぬ者も多い。それで屯倉の地を充てて,皇后の宮殿を建て,後の世に跡を残すことにしたい」といわれた。)

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない(わずか3行)

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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(2)(3)冬十月庚戌朔甲子、天皇勅大伴大連金村曰「朕、納四妻、至今無嗣、萬歲之後朕名絶矣。大伴伯父、今作何計。毎念於茲、憂慮何已。」大伴大連金村奏曰「亦臣所憂也。夫我國家之王天下者、不論有嗣無嗣、要須因物爲名。請爲皇后次妃建立屯倉之地、使留後代令顯前迹。」曰「可矣。宜早安置。」大伴大連金村奏稱「宜以小墾田屯倉與毎國田部給貺紗手媛、以櫻井屯倉一本云「加貺茅渟山屯倉也。」與毎國田部給賜香々有媛、以難波屯倉與毎郡钁丁給貺宅媛。以示於後、式觀乎昔。」曰「依奏施行。」

(現代語訳・(1)の話の続き。詔して,「よろしい。速やかに設けよう。」といわれた。詔して,「お前の言う通りに施行しよう」といわれた。)

前後の文脈から・・・(1)の話の続き。主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない(わずか3行)

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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(4)二年春正月戊申朔壬子、曰「間者連年、登穀接境無虞。元々蒼生、樂於稼穡、業々黔首、兔於飢饉。仁風鬯乎宇宙、美聲塞乎乾𡿦。內外淸通、國家殷富。朕甚欣焉。可大酺五日爲天下之歡。」

(現代語訳・二年春一月五日,詔して,「このところ毎年穀物がよく稔って,辺境に憂えもない。万民は生業に安んじ飢餓もない。天皇の仁慈は全土に拡がり,天子を誉める声は天地に充満した。内外平穏で国家は富み栄え,私の喜びは大変大きい。人々に酒を賜り,五日間盛大な宴を催し,天かこぞって歓びを交わすがよい」と仰せられた。)

前後の文脈から・・・漢書,元帝紀,参照して反対のことを表わそうとしたか

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない(わずか3行)

☆ 近畿王朝の中国史料を使った作文

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(5)(6)秋八月乙亥朔、置國々犬養部。九月甲辰朔丙午、櫻井田部連・縣犬養連・難波吉士等、主掌屯倉之税。丙辰、別勅大連云「宜放牛於難破大隅嶋與媛嶋松原。冀垂名於後。」

(現代語訳・秋八月一日,詔して国々に犬養部を置いた。九月三日,桜井田部連・県犬養連・難波吉士らに詔して,屯倉の税をつかさどらせた。十三日,別に大連に詔して,「牛を難波大隅島と姫島の松原とに放って,名を後の世に残そう」と仰せられた。)

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない(わずか3行)

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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宣化天皇

(7)三月壬寅朔、有司請立皇后。己酉、曰「立前正妃億計天皇女橘仲皇女、爲皇后。」

(現代語訳・三月一日,詔していわれるのに,前の正妃,仁賢天皇の女橘仲皇女を皇后としたい」と仰せられた。)

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来る

☆ 近畿王朝の史官が史料を膨らませて作文したか

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(8)夏五月辛丑朔、曰「食者天下之本也。黃金萬貫、不可療飢、白玉千箱、何能救冷。夫筑紫國者、遐邇之所朝屆、去來之所關門、是以、海表之國、候海水以來賓、望天雲而奉貢。自胎中之帝洎于朕身、收藏穀稼、蓄積儲粮、遙設凶年、厚饗良客。安國之方、更無過此。故、朕遣阿蘇仍君未詳也、加運河內國茨田郡屯倉之穀。蘇我大臣稻目宿禰、宜遣尾張連、運尾張國屯倉之穀。物部大連麁鹿火、宜遣新家連、運新家屯倉之穀。阿倍臣、宜遣伊賀臣、運伊賀國屯倉之穀。修造官家那津之口。又其筑紫肥豐三國屯倉、散在懸隔、運輸遙阻。儻如須要、難以備卒。亦宜課諸郡分移聚建那津之口、以備非常、永爲民命。早下郡縣、令知朕心。」秋七月、物部麁鹿火大連、薨。是年也、太歲丙辰。

(現代語訳・夏五月一日,詔して,「食は天下の本である。黄金が万貫あっても,飢えをいやすことはできない。真珠が千箱あっても,どうしてこごえるのを救えようか」・・・)

前後の文脈から・・・漢書,景帝紀,に「農天下之本也,黄金珠玉,」

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史官が,漢書の一部を借用している。それをさらに近畿王朝の史官が作文したか

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(9)二年冬十月壬辰朔、天皇、以新羅冦於任那、大伴金村大連、遣其子磐與狹手彥、以助任那。是時、磐、留筑紫執其國政、以備三韓。狹手彥、往鎭任那、加救百濟。

(現代語訳・二年十月一日,天皇は新羅が任那に害を加えるので,大伴金村大連に命じて,その子磐と狭手彦を遣わして,任那を助けさせ狭山た。この時に磐は筑紫に留まり,その国の政治をとり三韓に備えた。狭手彦はかの地に行って任那を鎮めまた百済を救った)

前後の文脈から・・・主語あり・外国関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料を使って,近畿王朝の史官が作文したか

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2021年7月30日 (金)

継体紀の「詔」について【12】

継体天皇

(1)三月庚申朔、曰「神祗不可乏主、宇宙不可無君。天生黎庶、樹以元首、使司助養、令全性命。大連、憂朕無息、被誠款以國家、世々盡忠、豈唯朕日歟。宜備禮儀奉迎手白香皇女。」

(現代語訳・三月一日詔して,「天の神・地の神を祀るには神主がなくてはならず,天かを治めるにはくんとゅがなくてはならない。天は人民を生み厳守を立てて人民を助け養わせ,その生を全うさせる。大連は朕に子のないことを心配し,国家の為に世々忠誠を尽している。決してわが世だけのことではない。礼儀を整えて手白課香皇子をお迎えせよ」といわれた)

文脈から・・・主語なし 芸文類聚,帝王部による

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官のによる中国史料からの盗用

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(2)戊辰、曰「朕聞、土有當年而不耕者則天下或受其飢矣、女有當年而不績者天下或受其寒矣、故、帝王躬耕而勸農業、后妃親蠶而勉桑序。況厥百寮曁于萬族、廢棄農績而至殷富者乎。有司、普告天下令識朕懷。」

(現代語訳・九日詔して,「男が耕作しないと,天下はそのために飢えることがあり,女が紡がないと天下はこごえることがある。だから帝王は自ら耕作して農業を勧め,皇妃は自ら養蚕をして,桑を与える時期を誤らないようにすべきである。農桑を怠っては富み栄えることはできなにい。役人たちは天下に告げて私の思うところを人々に識らせるように」といわれた。)

文脈から・・・芸文類聚,帝王部引用の呂氏春秋

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官のによる中国史料からの盗用

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(3)十二月辛巳朔戊子、曰「朕承天緖、獲保宗廟、兢々業々。間者、天下安靜、海內淸平、屢致豐年、頻使饒國。懿哉、摩呂古、示朕心於八方。盛哉、勾大兄、光吾風於萬國。日本邕々、名擅天下、秋津赫々、譽重王畿。所寶惟賢、爲善最樂、聖化憑茲遠扇、玄功藉此長懸、寔汝之力。宜處春宮、助朕於仁、翼吾補闕。」

(現代語訳・十二月八日,詔して,「自分は皇位を継いで,宗廟をお守りし,いつも兢々とお仕えしている。このところ天下安静で,国内平穏,豊年が続き,国を富ませてくれている。有難いことである。)

文脈から・・・毛詩,大雅,雲漢など「兢々業々 」は慣用句

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官による中国史書の盗用か

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(4)於是、太子感痛而奏天皇、曰「朕子麻呂古、汝妃之詞深稱於理。安得空爾無答慰乎。宜賜匝布屯倉表妃名於萬代。」

(現代語訳・太子は心を痛め,天皇に奏上された。天皇は詔して,「わが子麻呂子よ。お前の妃の言葉は誠に理に適っている。どうしてつまらぬことだといって,慰めも与えないでよかろうか。サホの屯倉を設け,妃の名を万世に残すように」と仰せられた)

文脈から・・・主語あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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(5)天皇、大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人等曰「筑紫磐井、反掩、有西戎之地。今誰可將者。」大伴大連等僉曰「正直・仁勇・通於兵事、今無出於麁鹿火右。」天皇曰、可。

(現代語訳・天皇は大伴大連金村・物部大連麁鹿火・許勢大臣男人らに詔して,「筑紫の磐井が反乱して,西の国をわがものとしている。いま誰か将軍の適任者はあるか」といわれた。大伴大連らみなが,「正直で勇に富み,兵事に精通しているのは,いま麁鹿火の右に出る者はありません」とお答えすると,天皇は,「それが良い」といわれた )

前後の文脈から・・・主語あり

「古事記」に出て来るか・・・簡単だが出て来る

☆ 近畿王朝の史料を膨らませたか

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(6)(7)(8)秋八月辛卯朔、曰「咨、大連、惟茲磐井弗率。汝徂征。」物部麁鹿火大連再拜言「嗟、夫磐井西戎之姧猾、負川阻而不庭、憑山峻而稱亂、敗德反道、侮嫚自賢。在昔道臣爰及室屋、助帝而罰・拯民塗炭、彼此一時。唯天所贊、臣恆所重。能不恭伐。」

曰「良將之軍也、施恩推惠、恕己治人。攻如河決、戰如風發。」重曰「大將、民之司命。社稷存亡於是乎在。勗哉、恭行天罰。」天皇親操斧鉞、授大連曰「長門以東朕制之、筑紫以西汝制之。專行賞罰、勿煩頻奏。」

(現代語訳・秋八月一日,詔して「大連よ,磐井が叛いている。お前が行って討て」といわれた。物部麁鹿火大連は再拜して,「磐井は西の果てのずるい奴です。山河の険阻なのを頼みとして,恭順を忘れ乱を起こしたものです。道徳に背き,驕慢でうぬぼれています。私の家系は,祖先から今日まで,帝のために戦いました。人民を苦しみから救うことは,昔も今も変わりありませぬ。よく謹んで討ちましょう」といった。詔に「良將は出陣にあたって将士を恵典思いやりをかける。そして,責める勢いは怒涛や疾風のようである」といわれ,また,「大將は兵士の死命を制し,国家の存在を支配する。つつしんで天誅を加えよ」と言われた。

前後の文脈から・・・芸文類聚,式部などの書々のつなぎ合わせ,主語無し

「古事記」に出て来るか・・・とても簡単に出て来る

☆ 近畿王朝の史官による中国史書の盗用か

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(9)(10)是月、遣近江毛野臣使于安羅、勅勸新羅更建南加羅・喙己呑。百濟遣將軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵等、往赴安羅、式聽勅。新羅、恐破蕃國官家、不遣大人而遣夫智奈麻禮・奚奈麻禮等、往赴安羅、式聽勅。

(現代語訳・この月に,近江毛野臣を安羅に遣わされた。詔して,新羅に勧め,南加羅・喙己呑を再建させようとした。百済は将軍君尹貴 ・麻那甲背・麻鹵等遣わして,安羅に行き詔を聴かせた。新羅はとなりの国の官家を破ったことを恐れて,上級の者を遣わさないで,夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを遣わし,安羅に行き詔を聴かせた )

前後の文脈から・・・外国関係の記事

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史書からの盗用ではないか

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(11)是月、遣使送己能末多干岐、幷在任那近江毛野臣「推問所奏、和解相疑。」

(現代語訳・使を使わして,己能末多干岐を任那に送らせた。同時に任那にいる近江毛野臣に詔され,「任那王の奏上するところをよく問いただし,任那と新羅が互いに疑い合っているのを和解させよ」と

前後の文脈から・・・外国記事

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史書からの盗用と考える。

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(12)廿四年春二月丁未朔、曰「自磐余彥之帝・水間城之王、皆頼博物之臣・明哲之佐。故、道臣陳謨而神日本以盛、大彥申略而膽瓊殖用隆。及乎繼體之君、欲立中興之功者、曷嘗不頼賢哲之謨謀乎。爰降小泊瀬天皇之王天下、幸承前聖、隆平日久、俗漸蔽而不寤、政浸衰而不改。

(現代語訳・廿四年春二月一日,詔して,「神武・崇神以来,国の政治を行うには,代々,博識の臣たちの補佐を頼りとしてきた )

前後の文脈から・・・芸文類聚,治政部,論政によったもの・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官の中国史料からの盗用か

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2021年7月29日 (木)

武烈紀の「詔」について【2】

武烈天皇

二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。十一月、大伴室屋大連「發信濃國男丁、作城像於水派邑。」仍曰城上也。是月、百濟意多郎卒、葬於高田丘上。

(現代語訳・二年秋九月,妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。三年冬十月,人の生爪を抜いて,山芋を掘らせた。十一月,大伴室屋大連に命じて,「信濃国の装丁を集めて,城を大和の水派に造れ」といわれた。よってこれを城の上という。この月に,百済の意多郎王が亡くなった。高田の岡の上に葬った)

前後の文脈・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない・6行しかなく,暴虐だったという話もない・継体へのつなぎ

☆ 九州王朝系の史料による盗用と考える

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五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。六年秋九月乙巳朔、曰「傳國之機、立子爲貴。朕無繼嗣、何以傳名。且依天皇舊例、置小泊瀬舍人、使爲代號・萬歲難忘者也。

(現代語訳・五年夏六月,人を池の堤の樋の中に入らせ,外に流れ出るのを三つ刃の矛でさし殺して喜んだ。六年秋九月一日,曰して,「国政を伝えるかなめは,自分の子を跡嗣に立てることが重要である。自分には跡嗣がない。何をもって名を後世に伝えようか。前の天皇のフルイ例によって,「小泊瀬舍人」というのを設けて,わが治世の名を伝え,いつまでも忘れられないようにせよ」と仰せられた )

前後の文脈・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない・6行しかなく,淫乱だったという話もない・継体へのつなぎ

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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2021年7月27日 (火)

顯宗紀の「詔」について【6】

顕宗天皇

(1)(2)二月戊戌朔壬寅、曰「先王、遭離多難、殞命荒郊。朕在幼年、亡逃自匿、猥遇求迎、升纂大業。廣求御骨、莫能知者。」畢、與皇太子億計泣哭憤惋、不能自勝。

(現代語訳・二月五日詔して,「先王は離に遭われて,荒野に落命された。自分はまだ幼かったので,逃げて身を隠した。強いて求められて大業を継いだ。お骨を得たいと求めて探したが,よく知っている者がなかった。仰せ終わって億計皇子と共に,声をあげ泣かれ,堪えられないご様子であった

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料を膨らませたものではないか

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(3)(4)(5)老嫗置目、居于宮傍近處、優崇賜䘏、使無乏少。是月、曰「老嫗、伶俜羸弱、不便行步、宜張繩引絚扶而出入。繩端懸鐸、無勞謁者、入則鳴之、朕知汝到。」於是、老嫗奉、嗚鐸而進、天皇遙聞鐸聲、

(現代語訳・)詔して「老婆はよろめき歩き,衰えて,しっかりできない。縄を引き渡して,それにつかまって出入りしなさい。縄の端に鈴をつけて,取次のものは取次きの者を煩わすことなく,はいってきたら鳴らしなさい。来たことが私に分音のねかるように」といわれた。老婆は仰せ承って,鈴を鳴らして入った。天皇は遥かに鈴の音を聞かれて,歌を詠まれた)

前後の文脈から・・・最勝王経,除病品によるか

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料を膨らませたものか

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(6)三月上巳、幸後苑、曲水宴。夏四月丁酉朔丁未、曰「凡人主之所以勸民者、惟授官也。國之所以興者、惟賞功也。

(現代語訳・三月三日,御苑にお出ましになって,曲水の宴を行われた。夏四月十一日,詔して「およそ人民が,人民を勧め励ます方法は,樹授官であり,国をおこす方法は,行賞である)

前後の文脈から・・・曲水宴(初出)・「芸文類聚巻五十二,地政部,論政」からの盗用

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史官のによる中国史料からの盗用

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清寧紀の「詔」について【4】

淸寧天皇

(1)(2)廿三年八月、大泊瀬天皇崩。吉備稚媛、陰謂幼子星川皇子曰「欲登天下之位、先取大藏之官。」長子磐城皇子、聽母夫人教其幼子之語、曰「皇太子、雖是我弟、安可欺乎、不可爲也。」星川皇子、不聽、輙隨母夫人之意、遂取大藏官。鏁閉外門、式備乎難、權勢自由、費用官物。於是、大伴室屋大連、言於東漢掬直曰「大泊瀬天皇之遺、今將至矣。宜從遺、奉皇太子。」乃發軍士圍繞大藏、自外拒閉、縱火燔殺。

(現代語訳・大伴室屋大連は,東漢掬直に言って「雄略天皇の遺詔のことが,いま到来しようとしている。皇太子にお仕えせねばならぬ」といった。兵士を出動させて大蔵を取り囲んだ。外から防ぎ固めて,火をつけて焼き殺した )

前後の文脈から・・・雄略天皇の遺詔自体が外国史書の盗用だったので

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 外国の史書の盗用から始まる話なので盗用

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(3)冬十月壬午朔乙酉、「犬・馬・器翫、不得獻上。」

(現代語訳・冬十月4日,詔して「犬・馬などの生き物の翫弄び物は,献上してはならぬ」といわれた )

前後の文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(4)九月丙子朔、天皇、御射殿、百寮及海表使者射、賜物各有差。

(現代語訳・九月一日,天皇は弓殿においでになり,百寮と海外の使者に詔して,弓を射させられた)

前後の文脈から・・・主語あり・海外との関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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2021年7月24日 (土)

雄略紀の「詔」について【19】

(12)天皇聞驚大怒、深責根使主、根使主對言「死罪々々、實臣之愆。」曰「根使主、自今以後、子々孫々八十聯綿、莫預群臣之例。」

(現代語訳・天皇は聞かれて驚き大いに怒られた。根使主を責められると答えて,「その通りです。私の過ちです」といった。天皇は「根使主は今後,子々孫々に至るまで,群臣の仲間に入れてはならぬ」といわれた)

文脈から・・・主語なし・海外との関係(呉人)

「古事記」に出て来るか・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用と考える

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(13)十五年、秦民、分散臣連等、各隨欲駈使、勿委秦造。由是秦造酒、甚以爲憂而仕於天皇。天皇愛寵之、聚秦民、賜於秦酒公。

(現代語訳・十五年,秦氏の率いていた民を臣連らに分散し,それぞれの願いのままに使われた。秦氏の管理者の伴造に任せられなかった。このため秦造酒は大変気にやんで天皇に仕えていた。天皇は寵愛され,詔して秦の民を集めて秦酒公に賜った。

文脈から・・・主語あり・海外との関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料からの盗用

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(14)(15)十六年秋七月、宜桑國縣殖桑、又散遷秦民、使獻庸調。冬十月、聚漢部、定其伴造者、賜姓曰直。一云「賜漢使主等、賜姓曰直。」

(現代語訳・十六年秋七月,詔して,桑の栽培に適した国・県を選んで,桑を植えさせられた。また秦の民を移住させて,そこから庸調が上るようにされた。冬十月詔して,「漢氏の部民を集めて,その管理者をきめよ」と仰せられた。その姓を直と賜った )

文脈から・・・主語なし・海外との関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用と考える

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(16)十七年春三月丁丑朔戊寅、土師連等「使進應盛朝夕御膳淸器者。」於是、土師連祖吾笥、仍進攝津國來狹々村・山背國內村俯見村・伊勢國藤形村・及丹波・但馬・因幡私民部、名曰贄土師部。

(現代語訳・十七年春三月二日,土師連らに詔して,「朝夕の膳部に用いる清い器を進上せよ」といわれた。そこで土師連の先祖の吾筍が,摂津国の久佐々村,山背国の内村・伏見村,伊勢国の藤方村と丹波・但馬・因幡の私有の部曲をたてまつった。これを名づけて贄の端部という )

文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用と考える

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(17)十九年春三月丙寅朔戊寅、置穴穗部。

(現代語訳・十九年春三月十三日,詔して安康天皇の御名を遺す,穴穂部を設けられた)

文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用と考える

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(18)廿三年秋七月辛丑朔、天皇寢疾不預、、賞罰支度、事無巨細並付皇太子。

(現代語訳・秋七月一日,天皇は病気になられた。詔して、賞罰おきてなど,事大小となく皇太子にゆだねられた

文脈から・・・主語あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史料の盗用と考える

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(19)八月庚午朔丙子、天皇疾彌甚、與百寮辭訣並握手歔欷、崩于大殿。遺於大伴室屋大連與東漢掬直曰「~

(現代語訳・八月七日,天皇の病はいよいよ重く,百官との別れの言葉をのべられ,手を握って嘆かれた。大殿において崩御された。大伴室屋大連と東漢掬直に遺詔されて,「~

文脈から・・・主語あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の史料だと考える

 

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雄略紀の「詔」について【11】

(7)(8)天皇、田狹臣子弟君與吉備海部直赤尾曰「汝、宜往罰新羅。」於是、西漢才伎歡因知利在側、乃進而奏曰「巧於奴者、多在韓國。可召而使。」天皇群臣曰「然則宜以歡因知利、副弟君等、取道於百濟、幷下勅書、令獻巧者。

(現代語訳・天皇は田狹臣の子の弟君と吉備海部直赤尾に詔して,「お前たち,往って新羅を討て」といわれた。そのとき,西漢才伎歓囚知利がお傍ににいて,進み出て,「もっと適当な者が者が,韓國に沢山います。召してお使いになるのがよいでしょう」天皇は群臣に詔して,「それでは歡因知利を,弟君らに副えて、百濟に遣わし,合わせて勅書を下して,勝れた者を献らせよ )

文脈から・・・主語あり・海外関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(9)天皇、聞弟君不在、遣日鷹吉士堅磐固安錢堅磐、此云柯陀之波使共復命、遂卽安置於倭國吾礪廣津廣津、此云比盧岐頭邑。而病死者衆、由是、天皇大伴大連室屋、命東漢直掬、以新漢陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那等、遷居于上桃原・下桃原・眞神原三所。或本云「吉備臣弟君、還自百濟、獻漢手人部・衣縫部・宍人部。」

(現代語訳・天皇は,弟君がいなくなってしまったことを聞き,日鷹吉士堅磐固安錢を遣わして,復命をさせられた。そして,才伎を倭の阿都の広津邑に侍らせられた。しかし病気で死ぬ者が多かった。そこで天皇は,大伴大連室屋に詔し,東漢直掬に命じて,新漢である陶部高貴・鞍部堅貴・畫部因斯羅我・錦部定安那錦・譯語卯安那らを,上桃原・下桃原・眞神原の三か所に移しはべらせられた 

文脈から・・・主語あり・海外関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料の盗用ではないか

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(10)十一年夏五月辛亥朔、近江國栗太郡言「白鸕鷀、居于谷上濱。」因詔、置川瀬舍人。 居于谷上濱。」因 置川瀬舍人。   

(現代語訳・十一年夏五月一日、近江國栗太郡からの報告で,「白い鵜が田上の浜にいます」といった。そして詔を下して,川瀬の舍人を置かれた

文脈から・・・主語なし・近江国(九州の近江国ではないか)

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料を盗用したものではないか

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(11)冬十月、鳥官之禽、爲菟田人狗所囓死。天皇瞋、黥面而爲鳥養部。於是、信濃國直丁與武藏國直丁、侍宿、相謂曰「嗟乎、我國積鳥之高、同於小墓。旦暮而食、尚有其餘。今天皇、由一鳥之故而黥人面、太無道理、惡行之主也。」天皇聞而使聚積之、直丁等不能忽備、仍爲鳥養部。

(現代語訳・冬十月,鳥官の鳥が,菟田の人の犬に食われて死んだ。天皇は怒って顔に入れ墨をして,鳥養部とされた。ちょうど信濃國の仕丁と武藏國仕丁とが宿直していた。話し合っていうのに,「ああ,自分の国でとって積んでおいた鳥は,小さい塚ほどもあり,朝夕,食してもなお余った。いま天皇は一羽の鳥のために,人の顔に入墨をされた。どうもひど過ぎる。悪い天皇でいらっしゃる」と。天皇はこれを書切れて,「鳥を取り集めて積んでみよ」といわれた。仕丁らは急に集めて積むことはできなかった。そこで罰して鳥養部とされた)

文脈から・・・主語あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 近畿王朝の説話ではないか

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雄略紀の「詔」について 【19】

雄略天皇

 

(1)二年秋七月、百濟・池津媛、違天皇將幸、婬於石河楯。舊本云「石河股合首祖、楯。」天皇大怒、大伴室屋大連、使來目部、張夫婦四支於木、置假庪上、以火燒死。百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立。天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟、莊飾慕尼夫人女、曰適稽女郎、貢進於天皇。」

(現代語訳・二年秋七月,百濟の池津媛は,天皇が宮中にいれようとしていたのにもかかわらず,石河楯と通じた。・・・天皇は大いに怒って,大伴室屋大連に命じて,來目部を使い、夫婦の四支を木に貼りつけて,座敷の上に置かせて,火で燒き殺させた。・・・ )

文脈から・・・天皇あり・百済との関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の記事の盗用か

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(2)由是、皇太后與皇后、聞之大懼、使倭采女日媛舉酒迎進。天皇、見采女面貌端麗形容温雅、乃和顏悅色曰「朕、豈不欲覩汝姸咲。」乃相携手、入於後宮、語皇太后曰「今日遊獵、大獲禽獸。欲與群臣割鮮野饗、歷問群臣、莫能有對。故朕嗔焉。」皇太后、知斯情、奉慰天皇曰「群臣、不悟陛下因遊獵場置宍人部降問群臣、群臣嘿然理、且難對。今貢未晩、以我爲初。膳臣長野能作宍膾、願以此貢。」

(現代語訳・皇太后は,天皇の言葉の真意を知り,天皇を慰めようと思い,「群臣らに陛下が場において,宍人部を設ける話をしようと思い,群臣に尋ねられたとは気がつかなかったでしょう。答えるのも難しいから,群臣が沈黙していたの多のも無理はありません。・・・)

文脈から・・・天皇あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料だと考える

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(3)秋八月辛卯朔戊申、行幸吉野宮。庚戌、幸于河上小野。命虞人駈獸、欲躬射而待、虻疾飛來、噆天皇臂、於是、蜻蛉忽然飛來、囓虻將去。天皇嘉厥有心、群臣曰「爲朕、讚蜻蛉歌賦之。」群臣莫能敢賦者、天皇乃口號曰、

(現代語訳・秋八月十八日,においでになった。二十日に,河上の小野にお越しになった。山の役人に命じて獣を狩り出された。自分で射ようとして構えておられると,虻が飛んできて,天皇の臂を嚙んだ。そこへアキツが急に飛んできて,虻を咥えて飛び去った。天皇はトンボが心あることをほめれて,群臣に詔して,「私のためにトンボをほめて歌詠みをせよ」といわれた。群臣はしかしあえて詠む人がなかった。天皇は口ずさんで・・・)

文脈から・・・天皇あり・

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料を利用した

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(4)五年春二月、天皇、狡獵于葛城山、靈鳥忽來、其大如雀、尾長曳地而且嗚曰、努力々々。俄而、見逐嗔猪、從草中暴出、逐人。獵徒、緣樹大懼、天皇舍人曰「猛獸、逢人則止。宜逆射而且刺。」舍人、性懦弱、緣樹失色、五情無主。嗔猪直來、欲噬天皇、天皇用弓刺止、舉脚踏殺。於是田罷、欲斬舍人、舍人臨刑而作歌曰、

(現代語訳・五年春二月,天皇は葛城山に狩りをされた。不思議な鳥が急に現われ,大きさ雀ぐらいで,尾は長く地に曳いていた。そして鳴きながら,「ゆめ,ゆめ(油断するな)」といった。にわかに追われて怒ったシシが,草の中から突然飛び出し,人にかかってきた。狩人たちは木によじ登り大いに恐れていた。天皇は舍人に詔して,「「猛きシシも、人に会っては泊るという。迎え射て仕止めよ」といわれた。舍人は人となりが臆病で,木に登って度を失い,畏れおののいた。シシは直進して天皇に食いつこうとした。天皇は弓で突き刺し,足を上げて踏み殺された。狩りも終わって,舍人を斬ろうとされた。舍人は殺されようとするとき歌を詠んで・・・  )

文脈から・・・天皇あり

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料が使われていると考えた

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(5)皇后聞悲、興感止之、曰「皇后、不與天皇而顧舍人。」對曰「國人皆謂、陛下安野而好獸、無乃不可乎。今陛下、以嗔猪故而斬舍人、陛下譬無異於豺狼也。」天皇、乃與皇后上車歸、呼萬歲曰「樂哉、人皆獵禽獸。朕獵得善言而歸。」

(現代語訳・皇后はお聞きになって悲しまれ,心をこめて諫められた。「皇后は天皇に味方されないで,舍人のことを大事に思われた」と天皇はいわれた。皇后は答えて「「國人は皆,陛下は狩りをなさって,猪を好み給うというでしょう。これは良くないでしょう。今陛下が,猪のことで舎人を斬られたら,たとえば陛下は狼に異なりません」と。天皇はそこで皇后と車に乗ってお帰りになった。「万歳」と叫んで言われるのに,「楽しいことだなあ。人はみな鳥や獣を獲物とするのだが,自分は狩りをして,良い言葉を獲物として帰るのだから」といわれた )

文脈から・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝の史料からではないか

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(6)七年秋七月甲戌朔丙子、天皇少子部連蜾蠃曰「朕、欲見三諸岳神之形。或云「此山之神爲大物主神也。」或云「菟田墨坂神也。」汝、膂力過人、自行捉來。」蜾蠃答曰「試往捉之。」乃登三諸岳、捉取大蛇、奉示天皇。天皇不齋戒、其雷虺々、目精赫々。天皇畏、蔽目不見、却入殿中、使放於岳、仍改賜名爲雷。

(現代語訳・七年秋七月三日,天皇は少子部連蜾蠃に詔して、「私は三輪山の神の姿を見たいと思う。お前は腕力に勝れている。自ら行って捕えてこい」といわれた。スガルは,「ためしにやってみましょう」とお答えした。三輪山に登って大きな蛇を捕えてきて天皇にお見せした。天皇は斎戒されなかった。大蛇は雷のような音を立て,目をきらきらと輝かせた。天皇は恐れ入って,目をおおってご覧にならないで,殿中におかくれになった。そして大蛇を岳に放たれられた。あらためてその岳に名を賜い雷とした )

文脈から・・・天皇あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

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2021年7月23日 (金)

允恭紀~安康紀の「詔」について【3】

允恭天皇

(1)(2)四年秋九月辛巳朔己丑、曰「上古之治、人民得所、姓名勿錯。今朕踐祚於茲四年矣、上下相爭、百姓不安、或誤失己姓、或故認高氏。其不至於治者蓋由是也、朕雖不賢、豈非正其錯乎、群臣議定奏之。」群臣皆言「陛下舉失正枉而定氏姓者、臣等冒死。」奏可。戊申、曰「群卿百寮及諸國造等、皆各言、或帝皇之裔・或異之天降。然、三才顯分以來多歷萬歲、是以、一氏蕃息更爲萬姓、難知其實。故、諸氏姓人等、沐浴齊戒、各爲盟神探湯。」

(現代語意訳・四年秋九月九日,詔して,「国がよく治っていた時は,人民も所を得て,氏姓が誤れることもなかった。しかし,自分の時代になって四年経つが氏姓が乱れている・・・盟神探湯によって証明すべきである」)

文脈から・・・主語なし

「古事記」には・・・同じような話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料が元になっている

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先是、衣通郎姬居于藤原宮、時天皇大伴室屋連曰「朕頃得美麗孃子、是皇后母弟也、朕心異愛之。冀其名欲傳于後葉、奈何。」室屋連、依勅而奏可、則科諸國造等、爲衣通郎姬定藤原部。

(現代語訳・これより先,衣通郎姫が藤原宮においでになったとき,天皇は大伴室屋連に詔して,「私はこの頃美人の嬢女を得た。皇后の妹である。特別に可愛いと思う。どうかその名を後世に残していきたいと思うが,どうだろう」といわれた。室屋連が勅にしたがって奏上したことをお許しになった。すなわち諸国の造らに仰せられて衣通郎姫のために,藤原部を定められた)

文脈から・・・主語あり

「古事記」には・・・似た話が出て来る

☆ 近畿王朝の史料が元になっているる

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安康天皇

「詔」なし

 

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2021年7月22日 (木)

履中紀~反正紀の「詔」 について【3】

履中天皇

(1)元年春二月壬午朔、皇太子卽位於磐余稚櫻宮。夏四月辛巳朔丁酉、召阿雲連濱子、之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」卽日黥之、因此、時人曰阿曇目。亦、免從濱子野嶋海人等之罪、役於倭蔣代屯倉。秋七月己酉朔壬子、立葦田宿禰之女黑媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・靑海皇女。一日、飯豐皇女。次妃幡梭皇女、生中磯皇女。是年也、太歲庚子。

(現代語訳・元年春二月一日,皇太子は磐余の稚桜宮に即位された。夏四月十七日,阿曇連浜子を召していわれた。「お前は仲皇子と共に反逆を謀って,国家を傾けようとした。死罪に当る。しかし大恩を垂れて,死を免じて額に入墨の刑とする」と。その日に目の縁に入墨をした。時の人はそれを阿曇目といった。浜子に従った野島の漁師たちのつみを許して,倭のこも代屯倉で労に服させられた)

前後の文脈・・・主語なし・屯倉というキーワード

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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(2)三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。膳臣餘磯獻酒、時櫻花落于御盞、天皇異之則召物部長眞膽連、之曰「是花也非時而來、其何處之花矣、汝自可求。」於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、卽爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之緣也。是日、改長眞膽連之本姓曰稚櫻部造、又號膳臣餘磯曰稚櫻部臣。

(現代語訳・三年冬十一月六日,天皇は両股船を磐余の市磯池にうかべられた。妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。膳臣の余磯が酒を奉った。そのとき,桜の花びらが盃に散った。天皇は怪しまれて,物部長真胆連を召して,詔して「この花は咲くべきないときに散ってきた。どこの花だろうか。お前が探してこい」といわれた。長真胆連はひとり花を尋ねて,腋上の室山で,花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで,宮の名とされた。磐余若桜宮というのはこれがそのもとである。この日,長真胆連の本姓を改めて,幼桜部造として,膳臣余磯を名づけて稚桜部臣とされた)

前後の文脈・・・天皇あり

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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(3)冬十月甲寅朔甲子、葬皇妃。既而天皇、悔之不治神崇而亡皇妃、更求其咎、或者曰「車持君、行於筑紫國而悉校車持部、兼取充神者。必是罪矣。」天皇則喚車持君、以推問之、事既得實焉。因以、數之曰「爾雖車持君、縱檢校天子之百姓、罪一也。既分寄于神車持部、兼奪取之、罪二也。」則負惡解除・善解除而出於長渚崎令秡禊。既而之曰「自今以後、不得掌筑紫之車持部。」乃悉收以更分之、奉於三神。

(現代語訳・冬十月十一日,妃を葬られた。天皇は神の祟りをおさめないで,妃を亡くされたことを悔いられ,その咎のもとを探された。ある人のいうのに「車持君が筑紫に行き,車持部をすべて調査し収め,その上充部民を奪ってしまいました。きっとこの罪でしょう」といった。天皇は車持君を呼んで,調べ尋ねられると,それは事実であった。そこで責められていわれるのに,「お前は車持といっても,勝手に天子の人民を検校した。罪の第一である。また神にお配り申した車持部を奪いとった。罪の第二である」と。それで悪解徐・善解除を負わせて,長渚崎に出かけさせて祓いみそぎをさせられた。詔して,「今から後,筑紫の車持部を担当してはならぬ」とされた。そこでことごとく取上げて,あらためて三柱の神に奉られた。)

前後の文脈・・・天皇あり・

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用か

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2021年7月21日 (水)

仁徳紀の「詔」について【5】

仁德天皇

(1)四年春二月己未朔甲子、群臣曰「朕登高臺以遠望之、烟氣不起於域中、以爲、百姓既貧而家無炊者。朕聞、古聖王之世、人々誦詠德之音、毎家有康哉之歌。今朕臨億兆、於茲三年、頌音不聆、炊烟轉踈、卽知、五穀不登、百姓窮乏也。封畿之內、尚有不給者、況乎畿外諸國耶。」

(現代語訳・四年春二月六日,群卿に詔して,「高殿に登って遥かにながめると,人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて,炊く人がないのだろう。昔,聖王の御世には,人民は君の徳をたたえる声をあげ,家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが,ほめたたえる声も起こらず,炊煙はまばらになっている。これは五穀実らず窮乏しているのである。郡の内ですらこの様子だから,都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。)

前後の文脈・・・主語なし・畿内&畿外というキーワード

「古事記」に出て来るか・・・似た話がある

☆ 九州王朝系の史料の盗用

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(2)三月己丑朔己酉、曰「自今以後至于三年、悉除課役、以息百姓之苦。」是日始之、黼衣絓履、不弊盡不更爲也、温飯煖羹、不酸鯘不易也、削心約志、以從事乎無爲。是以、宮垣崩而不造、茅茨壞以不葺、風雨入隙而沾衣被、星辰漏壞而露床蓐。是後、風雨順時、五穀豐穰、三稔之間、百姓富寛、頌德既滿、炊烟亦繁。

(現代語訳・今後三年間すべて課税をやめ,人民の苦労を柔げよう」といわれた。この日から御衣や履物は破れるまで使用され,御食物は腐らなければ捨てられず,心をそぎへらし志をつつましやかにして,民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず,゜屋根の茅はくずれても葺かず,雨風が漏れて御衣を濡らしたり,星影が室内から見られる程であった。この後,天候も穏やかに,五穀豊穣が続き,三年の間に人民は潤ってきて,徳をほめる声も起こり,炊煙も賑やかになってきた)

前後の文脈・・・主語無なし

「古事記」に出て来るか・・・似た話が出ている

☆ (1)と同じ結論

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(3)十一年夏四月戊寅朔甲午、群臣曰「今朕視是國者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不駃。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅。」

(現代語訳・十一年夏四月,郡卿に詔して,「いまこの国を眺ると,土地は広いが田圃は少い。また河の水は氾濫し,長雨にあうと潮流は陸に上り,村人は船に頼り,道路は泥に埋まる。群臣はこれをよく見て,溢れた水は海に通じさせ,逆流は防いで田や家を浸さないようにせよ」といわれた)

前後の文脈・・・主語なし

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料からの盗用

 

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(4)五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則之日「若新羅距者、舉兵擊之。」

(現代語訳・五十三年新羅が朝貢しなかった。夏五月,上毛野君の先祖竹葉瀬を遣わして,貢物を奉らないことを問わせられた。その途中で白鹿を獲た。かえって天皇に奉った。さらにまた日を改めて行った。しばらくして竹葉瀬の弟田道を遣わされた。詔して,「もし新羅の抵抗を受けたら,兵を挙げて討て」といわれた。そして精兵を授けられた)

前後の文脈・・・主語なし・新羅との外交関係

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用

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(5)六十年冬十月、差白鳥陵守等、充役丁。時天皇親臨役所、爰陵守目杵、忽化白鹿以走。於是天皇之曰「是陵自本空、故、欲除其陵守而甫差役丁。今視是怪者、甚懼之。無動陵守者。」則且、授土師連等。

(現代語訳・六十年冬十月,日本武尊の白鳥陵の陵守を,遥役にあてられた。天皇は自ら課役のところへおいでになった。陵守の目杵は,にわかに白鹿になって逃げた。天皇は詔して,「この陵はもとから空であった。それでその陵守をやめさせようと思って,始めて遥役にあてた。いまこの不思議を見ると,はなはだ畏れ多い。陵守は動かしてはいけない」と。再び土師連らに授けられた)

前後の文脈・・・日本武尊の白鳥陵

「古事記」に出て来るか・・・出て来ない

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

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2021年7月20日 (火)

応神紀の「詔」について【3】

應神天皇

(1)十六年春二月、王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」仍且賜東韓之地而遣之。東韓者、甘羅城・高難城・爾林城是也。八月、遣平群木菟宿禰・的戸田宿禰於加羅、仍授精兵之曰「襲津彥久之不還、必由新羅之拒而滯之。汝等急往之擊新羅、披其道路。」於是木菟宿禰等、進精兵、莅于新羅之境。新羅王、愕之服其罪。乃率弓月之人夫、與襲津彥共來焉。

(現代語訳・十六年春二月・王仁がきた。太子兎道稚郎子はこれを師とされた。諸々の典籍を学ばれた。すべてによく通達していた。王仁は書首の先祖である。この年百済の阿花王が薨じた。天皇は直支王をよんで語っていわれた。「あなたは国に帰って位につくなさい。」と。よって東韓の地を賜りり遣わされた。東韓とは,甘羅城・高難城・爾林城がこれである。八月,平群木兎宿禰・的戸田宿禰を加羅に遣わした。精兵を授けて詔して,「襲津彦が長らく還ってこない。きっと新羅が邪魔をしているので滞っているのだろう。お前たちは速やかに行って新羅を討ち,その道を開け」といわれた。木兎宿禰らは兵を進めて,新羅の国境に臨んだ。新羅の王は恐れてその罪に服した。そこで弓月の民を率いて,襲津彦と共に還ってきた)

(前後の文脈・・・主語なし・九州が舞台だが,加羅に行った将軍が戻ってこられないのは

新羅が邪魔をしていると判断して援軍を送り、無事将軍を倭国に帰還させた話ということで)

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 近畿王朝の説話がもとになっている。

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(2)(3)卅一年秋八月、群卿曰「官船名枯野者、伊豆國所貢之船也、是朽之不堪用。然久爲官用、功不可忘、何其船名勿絶而得傳後葉焉。」群卿便被、以令有司取其船材爲薪而燒鹽、於是得五百籠鹽、則施之周賜諸國、因令造船。是以、諸國一時貢上五百船、悉集於武庫水門。

(現代語訳・三十一年八月,群卿に詔していわれるのに,官船の枯野は,伊豆の国から奉ったものであるが,いまは朽ちてきて用に堪えない。しかし長らく官用を勤め,功は忘れられない。その船の名を他絶やさず,後に伝えるには何かよい方法はないか」と。群卿は有司に命じて,その材を取り,薪として塩を焼かせた。五百籠の塩が得られた。それをあまねく諸国に施しされたそして船を造ることになり,諸国から五百の船が献上された。それが武庫の港に集まった)

(前後の文脈・・・主語なし・武庫という地名は関西にある)

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 近畿王朝の説話がもとになっている。

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2021年7月19日 (月)

仲哀紀~神功紀の「詔」【3+2】

仲哀天皇

元年春正月庚寅朔庚子、太子卽天皇位。秋九月丙戌朔、尊母皇后曰皇太后。冬十一月乙酉朔、群臣曰「朕、未逮于弱冠、而父王既崩之。乃神靈化白鳥而上天、仰望之情一日勿息。是以、冀獲白鳥養之於陵域之池、因以覩其鳥、欲慰顧情。」則令諸國、俾貢白鳥。

(現代語訳・元年春一月十一日,太子は皇位につかれた。秋九月一日,母の皇后を尊んで皇太后とよばれた。冬十一月一日,群卿に詔して,「自分はまだ二十歳にならぬとき,父の王はすでになくなった。魂は白鳥となって,天に上った。慕い思う日は一日もやむことがない。それで白鳥を陵のまわりの池に飼い,その鳥を見ながら父を偲ぶ心を慰めたいと思う」といわれた。)

(前後の文脈・・・九州が舞台のようである。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には登場しない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用と考える

 

秋九月乙亥朔己卯、群臣以議討熊襲。時有神、託皇后而誨曰「天皇、何憂熊襲之不服。是膂宍之空國也、豈足舉兵伐乎。愈茲國而有寶國、譬如處女之睩、有向津國睩、此云麻用弭枳、眼炎之金・銀・彩色、多在其國、是謂𣑥衾新羅國焉。若能祭吾者、則曾不血刃、其國必自服矣、復熊襲爲服。其祭之、以天皇之御船、及穴門直踐立所獻之水田、名大田、是等物爲幣也。」

(現代語訳・秋九月五日,群卿に詔して熊襲を討つことを相談させられた。ときに神があって,皇后に託し神託を垂れ,「天皇はどうして熊襲の従わないことを憂えられるのか,そこは荒れて痩せた地である。戦いをして討つのに足りないる。この国より勝って宝のある国,譬えば処女の眉のように海上に見える国がある。目に眩い金・銀・彩色などが沢山ある。これをたくぶすま新羅国という。もしよく自分を祀ったら,刀に血ぬらないで,その国はきっと服従するであろう。また熊襲も従うであろう。その祭りをするには,天皇の御船と穴門直践立が献じようした水田ーー名づけて大田という。これらのものをお供えとしなさい」と。)

(前後の文脈・・・九州が舞台である。主語がない)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

九年春二月癸卯朔丁未、天皇、忽有痛身而明日崩、時年五十二。卽知、不用神言而早崩。一云「天皇親伐熊襲、中賊矢而崩也。」於是、皇后及大臣武內宿禰、匿天皇之喪、不令知天下。則皇后大臣及中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部膽咋連・大伴武以連曰「今天下、未知天皇之崩。

(現代語訳・九年春二月五日,天皇は急に病気になられ,翌日はもう亡くなられた。時に,年五十二。すなわち,神のお言葉を採用されなかったので早くなくなられたことがうかがわれる。皇后と大臣竹内宿禰は,天皇の喪をかくして天下に知らせなかった。皇后は大臣と中臣烏賊津連・大三輪大友主君・大伴武以連に詔して,「いま天下の人は天皇の亡くなったことを知らない。もし人民が知ったなら,気がゆるむかもしれない」といわれ,四人の大夫に命ぜられ,百僚を率いて宮中を守もらせた。)

(前後の文脈・・・九州が舞台である。)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

神功皇后

皇后還詣橿日浦、解髮臨海曰「吾、被神祗之教、頼皇祖之靈、浮渉滄海、躬欲西征。是以、令頭滌海水、若有驗者、髮自分爲兩。」卽入海洗之、髮自分也。皇后、便結分髮而爲髻、因以謂群臣曰「夫興師動衆、國之大事。安危成敗、必在於斯。今有所征伐、以事付群臣。若事不成者、罪有於群臣、是甚傷焉。吾婦女之、加以不肖、然暫假男貌、强起雄略。上蒙神祗之靈、下藉群臣之助、振兵甲而度嶮浪、整艫船以求財土。若事就者群臣共有功、事不就者吾獨有罪、既有此意、其共議之。」群臣皆曰「皇后、爲天下計所以安宗廟社稷、且罪不及于臣下。頓首奉。」

(現代語訳・は(終りの部分)「群臣はみな,「皇后は天下のために,国家社稷安泰にすることを計っておられます。破れて,罪が臣下に及ぶことはありますまい。謹んで詔を承ります」といった」

(前後の文脈・・・九州が舞台である。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

 

 

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉書印綬、詣倭國也。」

(現代語訳・四十年,ーー魏志にいう。正始元年,建忠校尉梯携らを遣わして詔書や印綬をもたせ,倭国に行かせた。)

(前後の文脈・・・魏志の記事を利用している。古事記には女王の記事がないため,神功皇后の話のところに挿入したと思われる)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用と考える

※ 卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

 

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2021年7月17日 (土)

景行紀~成務紀の「詔」について【12】

【景行~成務12】

(1)十二年秋七月、熊襲反之不朝貢。八月乙未朔己酉、幸筑紫。九月甲子朔戊辰、到周芳娑麼。時天皇南望之、群卿曰「於南方烟氣多起、必賊將在。」則留之、先遣多臣祖武諸木・國前臣祖菟名手・物部君祖夏花、令察其狀。

(現代語訳・熊襲がそむいて貢物を奉らなかった。八月十五日,天皇は筑紫に向かわれた。周芳の紗娑バ着かれた。天皇は南方を眺めて群卿にいわれた。「南の方に煙が多くたっている。きっと賊がいるのだろう」と。そこでまず多臣の祖の武諸木・国前臣の祖の兎名手・物部君の祖の夏花を遣わして,その様子を見させられた)

(前後の文脈・・・九州が舞台になっている。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・似た話が出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で膨らませたものか

 

(2)十一月、到日向國、起行宮以居之、是謂高屋宮。 。十二月癸巳朔丁酉、議討熊襲。於是、天皇群卿曰「朕聞之、襲國有厚鹿文・迮鹿文者、是兩人熊襲之渠帥者也、衆類甚多。是謂熊襲八十梟帥、其鋒不可當焉、少興師則不堪滅賊、多動兵是百姓之害。何不假鋒刃之威、坐平其國。」

(現代語訳・十一月,日向国について行宮を立ててお住みになった。十二月五日,襲の国を平らげられた。聞くところによると,襲の国にアツカヤ・サカヤという者がおり,二人は熊襲の強勇の者で手下が多い。これを熊襲の八十タケルといっている。勢いがさかんでかなう者がない。軍勢が少なくては,敵を滅ぼすことはできないだろう。しかし多勢の兵を動かせば,百姓の害になる。兵士の威力をかりないで,ひとりでに熊襲の国をたいらげられないものか」といわれた。

(前後の文脈・・・九州が舞台となっている。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・似た話は「古事記」にも出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で話を膨らませたか

 

(3)時有一臣進曰「熊襲梟帥有二女、兄曰市乾鹿文乾、此云賦、弟曰市鹿文、容既端正、心且雄武。宜示重幣以撝納麾下。因以伺其消息、犯不意之處、則會不血刃、賊必自敗。」天皇可也。」

(現代語訳・一人の臣が進み出て言った。「熊襲タケルに二人の娘があります。姉を市乾鹿文といい,妹を市鹿文といいます。容姿端正で気性も雄々しい者です。沢山の贈り物して手下に入れるのがよいでしょう。タケルの様子をうかがわせて不意を突けば,刃に血ぬらずして,敵を破ることもできましょう」と。天皇は「良い考えだ」と言われた)

(前後の文脈)・・・九州が舞台。)

(「古事記」に出て来るか・・・似ている話は出て来る)

☆ 九州王朝系の史料で話を膨らませたか

 

 

(4)十八年春三月、天皇將向京、以巡狩筑紫國。始到夷守、是時、於石瀬河邊人衆聚集、於是天皇遙望之、左右曰「其集者何人也、若賊乎。」乃遣兄夷守・弟夷守一人二人令覩。乃弟夷守、還來而諮之曰「諸縣君泉媛、依獻大御食而其族會之。」

(現代語訳・十八年春三月,天皇は都に向かわれようとして,筑紫の国を巡行された。最初に夷守に着かれた。このとき岩瀬川のほとりに群衆が集まっていた。天皇は遥かに眺められて,お側の者に,「あの集ま提る人たちは何だろう。賊だろうか」といわれた。兄夷守・弟夷守の二人を遣わして見させられた。弟夷守が帰ってきて,「諸県君泉媛が,帝にお召し上がりものを奉ろうとして,その仲間が集まっているのです」といった)

(前後の文脈・・・九州が舞台)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用ではないか

 

(5)五月壬辰朔、從葦北發船到火國。於是日沒也、夜冥不知著岸。遙視火光、天皇挾杪者曰「直指火處。」因指火往之、卽得著岸。天皇問其火光之處曰「何謂邑也。」國人對曰「是八代縣豐村。」亦尋其火「是誰人之火也。」然不得主、茲知非人火。故名其國曰火國也。

(現代語訳・五月一日,葦北から船出して火国についた。ここで日が暮れた。暗くて岸につくことが難しかった。遥かに火の光が見えた。天皇は船頭に詔して,「まっすぐに火のもとへ向かっていけ」といわれた。それで火に向かって行くと,岸につくことができた。天皇はその火の光るもとを尋ねて,「何という邑か」と聞かれた。国人は答えて,「これは八代県の豊村です」といった。「これはだれの火か」と。しかし主が判らない。人の燃やす火ではないということから,その国を名づけて火国とした。

(前後の文脈・・・九州が舞台。火国の地名説話)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

 

(6)爰天皇問之曰「是何樹也。」有一老夫曰「是樹者歷木也。嘗未僵之先、當朝日暉則隱杵嶋山、當夕日暉亦覆阿蘇山也。」天皇曰「是樹者神木、故是國宜號御木國。」丁酉、到八女縣。則越藤山、以南望粟岬、之曰「其山峯岫重疊、且美麗之甚。若神有其山乎。」時水沼縣主猨大海奏言「有女神、名曰八女津媛、常居山中。」故八女國之名、由此而起也。

(現代語訳・天皇は「これは何の樹か」と尋ねられた。一人の老人が申し上げるのに,「これはクヌギといいます。以前まだ倒れていなかった時は,朝日の光に照らされて,杵島山を隠すほどでした。夕日の光に照らされると,阿蘇山を隠すほどでした」といった。天皇は「この樹は神木である。この国を御木国とよぼう」といわれた。七日,八女県に着いた。藤山を越え,南方の粟崎を望まれた。詔して「その山の峯は,幾重も重なって大変うるわして。きっと神は,その山におられるだろう」といわれた。ときに水沼県主猿大海が申し上げ起こった。るのに,「女神がおられます。名を八女津媛といいます。常に山の中においでです」と。それで八女国の名はそこから起こった)

(前後の文脈・・・九州が舞台。阿蘇山・八女・水沼。主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」に出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

(7)卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇群卿曰「今東國不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。

(現代語訳・四十年夏六月,東国の蝦夷がそむいて,辺境が動揺した。秋七月六日,天皇は群卿に詔して,「いま東国に暴れる神が多く,また蝦夷がすべて背いて,人民を苦しめている。誰を遣わしてその乱を鎮めようか」と問われた。群臣は誰を遣わすべきかわからなかった。ヤマトタケルが申し上げられるのに,「私は先に西の征討に働かせて頂きました。今度の役はオオウス皇子が良いでしょう」といわれた。そときオオウス皇子は,驚いて草の中にかくれられた。使いを遣わしてつれてこられ,天皇が責めて,「お前が望まないのを,無理に遣わすことはない。何ごとだ。まだ敵にも会わないのに,そんなにこわがったりして」といわれた。これによってついに美濃国を任され,任地に行かされた。これが身毛津君・守君二族の先祖である)

(前後の文脈・・・主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記には出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用ではないか

 

(8)天皇聞之、寢不安席、食不甘味、晝夜喉咽、泣悲摽擗。因以、大歎之曰「我子小碓王、昔熊襲叛之日、未及總角、久煩征伐、既而恆在左右、補朕不及。然、東夷騷動勿使討者、忍愛以入賊境。一日之無不顧、是以、朝夕進退、佇待還日。何禍兮、何罪兮、不意之間、倐亡我子。自今以後、與誰人之、經綸鴻業耶。」卽群卿命百寮、仍葬於伊勢國能褒野陵。

(現代語訳・天皇は能褒野でオウス皇子が亡くなったことをお聞きにになり,安らかに眠れなかった。食べてもその味もなく,昼夜むせび泣き,胸をうって悲しまれた。大変嘆いて,「わが子,オウス皇子,かつて熊襲の叛いたとき,まだ総角もせぬのに,長い間戦いに出ていつも私を助けてくれた。東夷が騒いで,「他に適当な人がいなかったので,やむなく賊の地に入らせた。一日も忘れることはなかった。思いもかけずわが子を失ってしまうことになった。今後だれとアマツ業をおさめようか」といわれた。群卿に詔し,百僚に命じて,伊勢国の能褒野の陵に葬られた)

(前後の文脈・・・舞台ははっきりしない。主語なし)

(「古事記」に出て来るか・・・古事記に似た話は出て来る)

☆ 九州王朝や東国の説話の盗用か

 

(9)秋八月己酉朔壬子、立稚足彥尊、爲皇太子。是日、命武內宿禰、爲棟梁之臣。初日本武尊所佩草薙横刀、是今在尾張國年魚市郡熱田社也。於是、所獻神宮蝦夷等、晝夜喧譁、出入無禮。時倭姬命曰「是蝦夷等、不可近於神宮。」則進上於朝庭、仍令安置御諸山傍。未經幾時、悉伐神山樹、叫呼隣里而脅人民。天皇聞之、群卿曰「其置神山傍之蝦夷、是本有獸心、難住中國。故、隨其情願、令班邦畿之外。」是今播磨・讚岐・伊豫・安藝・阿波、凡五國佐伯部之祖也。

(現代語訳・秋八月四日,稚足彥尊を立てて皇太子とされた。この日に武內宿禰に命じて,棟梁之臣とされた。。初め日本武尊のさしておられた草薙横刀は,いま尾張國年魚市郡熱田神宮にある。尊が神宮に献上した蝦夷どもは昼夜けたたましく騒いで,出入にも礼儀がなかった。倭姬命は,「「この蝦夷らは神宮に近づいてはならない」といわれ,朝廷に進上された。そこで三輪山の辺りに置かれることになった。いくらもたたな中に,三輪山の木を切ったり,里に大声をあげたりして村人を脅かした。天皇はこれを聞かれ,群卿に詔して,「かの三輪山のほとりに置かれている蝦夷は,人並みではない心の者どもだから,中央には住ませ難い。その希望に従ってそれぞれ畿外に置くがよい」といわれた。これが播磨・讚岐・伊予・安芸・阿波など五つの国の佐伯郡の先祖である )

(前後の文脈・・・近畿の説話か。主語あり)

(「古事記」に出て来るか・・・同じような話が「古事記」に出て来る)

☆ 近畿王朝の説話を膨らませたように思った。

 

(10)五十三年秋八月丁卯朔、天皇群卿曰「朕顧愛子、何日止乎。冀欲巡狩小碓王所平之國。」是月、乘輿幸伊勢、轉入東海。冬十月、至上總國、從海路渡淡水門。是時、聞覺賀鳥之聲、欲見其鳥形、尋而出海中、仍得白蛤。於是、膳臣遠祖名磐鹿六鴈、以蒲爲手繦、白蛤爲膾而進之。故、美六鴈臣之功而賜膳大伴部。十二月、從東國還之、居伊勢也、是謂綺宮。

(現代語訳・五十三年秋八月一日、天皇は群卿に詔して,「自分の愛した子を思いしのぶことは,何時の日も止むことか。オウス皇子の平定した国々を,巡行したいと思う。といわれた。この月,天皇の御車は伊勢においでになり,そこから東海道におはりになった。冬十月,上総国に行き,海路安房の水門にお出になった。このとき,覚賀鳥の声が聞こえてきた。その鳥の形を見たいと思われ,海の中までおいでになり,そこで大きなハマグリを得られた。膳臣の先祖で,名は磐鹿六鴈がガマの葉をとって,たすきにかけ,ハマグリをなますに造ってたてまつった。故、で六鴈臣の功績を賞めて膳大伴部の役を賜った。十二月,東国から帰り,伊勢にお住みになった。これを綺宮という )

(前後の文脈・・・主語ありだが・・・)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」にはこの話は出て来ない)

☆ 九州王朝などからの史料の盗用と思われる

 

(11)五十五年春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。然、到春日穴咋邑、臥病而薨之。是時、東國百姓、悲其王不至、竊盜王尸、葬於上野國。

五十六年秋八月、御諸別王曰「汝父彥狹嶋王、不得向任所而早薨。故、汝專領東國。

(現代語訳・五十五年春二月五日,彥狹嶋王を東山道十五国の都督に任じられた。これは豐城命の孫である。そして春日の穴咋邑に至って病に臥してなくなられた。このとき東国の人民は,かの王の来られなかったことを悲しみ,ひそかに王の屍を盗みだして上野国に葬った。

五十六年秋八月,御諸別王に詔して,「お前の父の彥狹嶋王は,任じたところに行けないで早く死んだ。だからお前は専ら東国を治めよ」といわれた。

父・彦狭嶋王が亡くなったが,息子にその跡を継がさせた

(前後の文脈・・・主語なし。都督は,太宰府の「都府楼」の関連用語。他の地方に地名はない。太宰府を起点にした古代官道を設置した。

(「古事記」に出て来るか・・・出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料の盗用である。

 

成務天皇

(12)四年春二月丙寅朔、之曰「我先皇大足彥天皇、聰明神武、膺籙受圖、洽天順人、撥賊反正、德侔覆燾、道協造化。是以、普天率土、莫不王臣、稟氣懷靈、何非得處。今朕嗣踐寶祚、夙夜兢惕。然、黎元蠢爾、不悛野心。是、國郡無君長、縣邑無首渠者焉。自今以後、國郡立長、縣邑置首。卽取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之蕃屏也。」

(現代語訳・四年春二月一日、詔して「先帝は聡明で神勇にすぐれ,天の命を受けて皇位につかれた。天意にそい,人に順って,賊を伐ち払い正しきを示された。徳は人民を覆い,道は自然に適っていた。このため天下に従わぬ者なく,すべてのものは安らかであった。いま自分が皇位をつぎ,日夜己をいましめてきた。けれども人民の中には,虫のうごめくように穏やかでないものがある。これは国郡に長がなく,県邑に首がないからである。いまから後は国郡に長を置き,県邑に首を置こう。それぞれの国の長としてふさわしい者を取り立て,国郡の首長に任ぜよ。これが王城を護る垣根となるであろう」といわれた。 

(前後の文脈・・・主語なしで,地域も不明)

(「古事記」に出て来るか・・・「古事記」には,国郡や県邑は出て来ない)

☆ 九州王朝系の史料からの盗用ではないか

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景行紀は,一見わかりやすいかに見えたが,なかなかそうはいかないと思った。

都督みたいなキーワードがもっと出てくれるといいが。

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2021年7月16日 (金)

垂仁紀の「詔」について【14】

続いて垂仁紀に入る。

ここは先日見たように,天皇という言葉が「有」「無」入り混じる。

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【垂仁14】

(1)一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何國人也。」對曰「意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其國有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是國王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海𢌞之、經出雲國至於此間也。」是時、遇天皇崩、便留之、仕活目天皇逮于三年。天皇、問都怒我阿羅斯等曰「欲歸汝國耶。」對諮「甚望也。」天皇阿羅斯等曰「汝不迷道必速詣之、遇先皇而仕歟。是以、改汝本國名、追負御間城天皇御名、便爲汝國名。」仍以赤織絹給阿羅斯等、返于本土。故、號其國謂彌摩那國、其是之緣也。於是、阿羅斯等以所給赤絹、藏于己國郡府。新羅人聞之、起兵至之、皆奪其赤絹。是二國相怨之始也。

(現代語訳・ある説によると,崇神天皇の御世に,額に角の生えた人が,ひとつの船に乗って越の国の筍飯の浦についた。そこでそこを名づけて角鹿という。「何処の国の人か」と尋ねると,「大加羅国の王の子,名は都怒我阿羅斯等,またの名は干斯岐阿利叱智干岐という。日本の国に聖王がおいでになると聞いてやってきました。穴戸についたとき,その国の伊都都比古が私に『自分はこの国の王である。自分の他に二人の王はない。他の所に勝手に行ってはならぬ』といいました。しかし私はよくよくその人となりを見て,これは王ではあるまいと思いました。そこでそこから退出しました。しかし,道が分からず島浦を伝い歩き,北海から回って出雲国を経てここに来ました」といった。このとき天皇の崩御があったと。そこで留まって垂仁天皇に仕えて,三年たった。天皇は都怒我阿羅斯等に尋ねられ,「自分の国に帰りたいか」といわれ「大変帰りたいです」と答えた。天皇は彼に「お前が道に迷わず速くやってきていたら,先皇にも会えたことだろう。そこでお前の本国の名を改めて,御間城天皇の御名をとって,お前の国の名にせよ」といわれた。そして赤織の絹を阿羅斯等に賜わり,元の国に返された。だからその国を名づけてみまなの国というのは,この縁によるものである。阿羅斯等は賜った赤絹を自分の国の蔵に収めた。新羅の人がそれを聞いて兵を起こしてやってきて,その絹を皆,奪った。これから両国の争いが始まったという)み

(「古事記」には,任那や加羅の話は,登場しない)

☆ 天皇とあるが,新羅・任那が古事記には登場しないところから,九州王朝系史料の盗用ではないか。

(2)三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉、將來物、羽太玉一箇・足高玉一箇・鵜鹿々赤石玉一箇・出石小刀一口・出石桙一枝・日鏡一面・熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也。一云、初天日槍、乘艇、泊于播磨國、在於宍粟邑。時天皇、遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨而問天日槍曰「汝也誰人、且何國人也。」天日槍對曰「僕、新羅國主之子也。然、聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古而化歸之。」仍貢獻物、葉細珠・足高珠・鵜鹿々赤石珠・出石刀子・出石槍・日鏡・熊神籬・膽狹淺大刀、幷八物。仍天日槍曰「播磨國宍粟邑、淡路島出淺邑、是二邑、汝任意居之。」時、天日槍啓之曰「臣將住處、若垂天恩聽臣情、願地者、臣親歷視諸國則合于臣心欲被給。」乃聽之。於是、天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之從人也。故天日槍、娶但馬國出嶋人太耳女麻多烏、生但馬諸助也。諸助、生但馬日楢杵。日楢杵、生淸彥。淸彥、生田道間守也。

(現代語訳・三年春三月,新羅の王の子,天日槍がきた。持ってきたのは,羽太の玉一つ・足高玉一つ・鵜鹿々の赤石の玉一つ・出石の小刀一つ・出石の桙一つ・日鏡一つ・熊の神籬一具、あわせて七点であった。それを但馬国におさめて神宝とした。一説には,初め天日槍は,船に乗って播磨国にきて宍栗邑にいた。天皇が三輪君の祖の大友主と,倭直の祖の長尾市とを遣わして,天日槍に「お前は誰か。また何れの国の人か」と尋ねられた。天日槍は,「手前は新羅の国の王の子です。日本の国に聖王がいると聞いて,自分の国を弟知古に授けてやってきました」という。そして奉まつったのは,葉細の珠・足高の珠・鵜鹿鹿の赤石の珠・出石の刀子・出石の槍・日の鏡・熊の神籬・膽狹淺の大刀,あわせて八種類である。天皇は天日槍 に詔して,播磨国の宍粟邑と,淡路島の出浅邑の二つに,汝の心のままに住みなさい」といわれた。天日槍は申し上げるのに,「私の住む所は,もし私の望みを許して頂けるなら,自ら諸国を巡り歩いて,私の心に適った所を選ばせてもらいたい」と言った。お許しがあった。そこで,天日槍は宇治河を遡って,近江国の吾名邑に入ってしばらく住んだ。近江からまた若狭国を経て,但馬国に至り居処を定めた。それで近江国の鏡邑が谷の陶人は,天日に従槍っていた者である。,天日槍は但馬国の出石の人,大耳の娘麻多鳥をめとって,但馬諸助を生んだ。諸助は但馬日楢杵を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。清彦は田道間守を生んだという)

(古事記には,この話は登場しないが,田道間守と同人物と思わせる多遅摩毛理の話が最後に少し出てくる。常世の国に非常の香の実を求める話だ。)

☆ 以上の経緯から,ほぼ関係が薄いと思われる。

(3)七年秋七月己巳朔乙亥、左右奏言「當麻邑、有勇悍士、曰當摩蹶速。其爲人也、强力以能毀角申鉤、恆語衆中曰『於四方求之、豈有比我力者乎。何遇强力者而不期死生、頓得爭力焉。』」天皇聞之、群卿曰「朕聞、當摩蹶速者天下之力士也。若有比此人耶。」一臣進言「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。故、奪當摩蹶速之地、悉賜野見宿禰。是以、其邑有腰折田之緣也。野見宿禰乃留仕焉。

(現代語訳・七年秋七月己巳朔乙亥,おそばの者が申し上げ,「当麻邑に勇敢な人がいます。当麻クエ速といい,その人は力が強くて,角を折ったり曲がった釣をのばしたりします。人々に語って『四方に求めても,自分に並ぶ者はないだろう。何とかして,強力の者に会い,生死を問わず力比べしたい』と言っています。天皇はこれをお聞きになり,群卿たちに詔して,「当麻クエ速は天下の力持ちだという。これに勝う者はあるだろうか」といわれた。ひとりの臣が進み出て,「出雲国」に野見宿禰という勇士があると聞いています。この人をクエ速に取組ませてみたらと思います」という。野見宿禰は出雲からやってきた。当麻クエ速と野見宿禰に角力をさせた。二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて殴り合った。野見宿禰は当麻クエ速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した。そこで当麻クエ速の土地を没収して,すべて野見宿禰に与えられた。これがその邑に腰折田のあるわけである。野見宿禰はそのまま留まってお仕えした)

(古事記には,角力・相撲の話は出て来ない。日本書紀には,雄略紀・皇極紀・天武紀・持統紀に「相撲」の記事あり)

☆ 今でも「横綱」への昇格時には,九州の熊本市の吉田司に挨拶に行く習わしがあるようだ。九州王朝系史料の盗用のようである

(4)(5)廿三年秋九月二日朔丁卯、群卿曰「譽津別王、是生年既卅、髯鬚八掬、猶泣如兒、常不言、何由矣。」因有司而議之。冬十月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、譽津別皇子侍之。時有鳴鵠、度大虛、皇子仰觀鵠曰「是何物耶。」天皇則知皇子見鵠得言而喜之、左右曰「誰能捕是鳥獻之。」於是、鳥取造祖天湯河板舉奏言「臣必捕而獻。」卽天皇勅湯河板舉板舉、此云拕儺曰「汝獻是鳥、必敦賞矣。」時湯河板舉、遠望鵠飛之方、追尋詣出雲而捕獲。或曰、得于但馬國。十一月甲午朔乙未、湯河板舉、獻鵠也。譽津別命、弄是鵠、遂得言語。由是、以敦賞湯河板舉、則賜姓而曰鳥取造、因亦定鳥取部・鳥養部・譽津部

(現代語訳・二十三年秋九月丙寅朔丁卯,群卿に詔して「誉津別命は三十歳になり,長いあご髯が伸びるまで,赤児のように泣いてばかりいる。そして声を出して物を言うことがないのは何故か。皆で考えて欲しい」といわれた。冬十月八日天皇は大殿の前にお立ちになり,誉津別皇子はそのそばにつき従っていた。そのとき白鳥のくぐいが,大空を飛んでいた。皇子は空を仰いで,くぐいをごらんになっり「あれは何物か」といわれた。「誰かこの鳥を捕らえて献上せよ」といわれた。そこで鳥取造の祖,天湯河板挙が「手前が必ず捕まえましょう」といった。天皇は天湯河板挙にいわれた。「お前がこの鳥を捕まえたら,きっと十分褒美をやろう」と。湯河板挙はくぐいの飛んで行った方向を追って,出雲まで行きついに捕えた。ある人は「但馬国」ともいう。十一月二日,湯河板挙がくぐいをたてまつった。誉津別命はこのくぐいをもてあそび,ついに物が言えるようになった。これによって湯河板挙に賞を賜り,姓を授けられ,鳥取造という。そして,鳥取部・鳥養部・誉津部を定めた。)

(古事記には,似た話が出ています。)

☆ 近畿王朝にあった話を膨らませたように考えました。。

(6)廿五年春二月丁巳朔甲子、阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日、五大夫曰「我先皇御間城入彥五十瓊殖天皇、惟叡作聖、欽明聰達、深執謙損、志懷沖退、綢繆機衡、禮祭神祇、剋己勤躬、日愼一日。是以、人民富足、天下太平也。今當朕世、祭祀神祇、豈得有怠乎。」

(現代語訳・二十五年二月八日,阿倍臣遠祖武渟川別・和珥臣遠祖彥國葺・中臣連遠祖大鹿嶋・物部連遠祖十千根・大伴連遠祖武日 らの五大夫に詔して,「先帝,崇神天皇は賢くて聖であり,聡明闊達,政治をよくご覧になり,神々を救い,身弓を慎まれた。それで人民は豊かになり,天下は太平であった。私の代にも神祇をお祀りすることを,怠ってはならない」といわれた)

(古事記には,この記事はない)

☆ 古事記にない記事なので,九州王朝系の史料からの盗用と考えた。

(7)廿八年冬十月丙寅朔庚午、天皇母弟倭彥命薨。十一月丙申朔丁酉、葬倭彥命于身狹桃花鳥坂。於是、集近習者、悉生而埋立於陵域、數日不死、晝夜泣吟、遂死而爛臰之、犬烏聚噉焉。天皇聞此泣吟之聲、心有悲傷、群卿曰「夫以生所愛令殉亡者、是甚傷矣。其雖古風之、非良何從。自今以後、議之止殉。」

(現代語訳・二十八年十月五日,天皇の母の弟の倭彦命が亡くなられた。十一月二日,倭彦命を身狭の桃花鳥坂に葬った。このとき近習の者を集めて,全員を生きたままで,陵のめぐりに埋めたてた。日を経ても死なず,昼夜泣きうめいた。ついには死んで腐っていき,犬や鳥が集まり食べた。天皇はこの泣きうめく声をきかれて,心を痛められた。群卿に詔して,「生きているときに愛し使われた人々を,亡者に殉死させるのはいたいたしいことだ。古の風であるといっても,良くないことは従わなくてもよい。これから後は議って殉死を止めるように」といわれた)

(古事記には,この記事は出て来ない)

☆ 古事記にでてこないので,゜この殉死記事は九州王朝系の史料の盗用ではないか。

(8)(9)(10)卅年春正月己未朔甲子、天皇五十瓊敷命・大足彥尊曰「汝等、各言情願之物也。」兄王諮「欲得弓矢。」弟王諮「欲得皇位。」於是、天皇之曰「各宜隨情。」則弓矢賜五十瓊敷命、仍大足彥尊曰「汝必繼朕位。」

(現代語訳・三十年春一月六日,天皇は五十瓊敷命 ・大足彦尊に詔して,「お前たちそれぞれに欲しい物を言ってみよ」といわれた。兄王は「弓矢がほしいです」といわれた。弟王は「天皇の位が欲しいです」といわれた。そこで天皇は詔して,「それぞれの望みのままにしよう」といわれた。弓矢を五十瓊敷命 に賜り,大足彦命には「お前は必ずわが位を継げと仰せられた)

(古事記には,この話は出て来ない)

☆ 古事記にはこの話は出て来ないので,九州王朝系の史料の盗用だと考える。

(11)(12)卅二年秋七月甲戌朔己卯、皇后日葉酢媛命一云、日葉酢根命也薨。臨葬有日焉、天皇【?】群卿曰「從死之道、前知不可。今此行之葬、奈之爲何。」於是、野見宿禰進曰「夫君王陵墓、埋立生人、是不良也、豈得傳後葉乎。願今將議便事而奏之。」則遣使者、喚上出雲國之土部壹佰人、自領土部等、取埴以造作人・馬及種種物形、獻于天皇曰「自今以後、以是土物更易生人樹於陵墓、爲後葉之法則。」天皇、於是大喜之、野見宿禰曰「汝之便議、寔洽朕心。」則其土物、始立于日葉酢媛命之墓。仍號是土物謂埴輪、亦名立物也。仍下令曰「自今以後、陵墓必樹是土物、無傷人焉。」天皇、厚賞野見宿禰之功、亦賜鍛地、卽任土部職、因改本姓謂土部臣。是土部連等、主天皇喪葬之緣也、所謂野見宿禰、是土部連等之始祖也。

(現代語訳・)三十二年秋七月六日,皇后日葉酢媛命が亡くなられた。葬るのにはまだ間があった。天皇は群卿に詔して,「從死がよくないことは前にわかった。。今後の葬はどうしようか」といわれた。野見宿禰が進んでいうのに,「君王の陵墓に、生きた人を埋め立てるのはよくないことです。どうして後の世に伝えられましょうか。どうか今,適当な方法を考えて奏上させて下さい」と。使者を出して出雲国の土部百人をよんで,土部たちを使い,埴土で人や厩いろいろの物の形を造って,天皇にしていうのに,「これから後,この土物を以て生きた人に替え,陵墓に立て後世のきまりとしましょう」と。天皇は、大いに喜ばれ,野見宿禰に詔して,「お前の方便はまことにわが意を得たものだ」といわれ,その土物を始めて日葉酢媛命の墓に立てた。よってこの土物を名づけて埴輪といった。あるいは,立物ともいった。命を下されて,「今から後,陵墓には必ずこの土物をたてて,人損なってはならぬ」といわれた。天皇は厚く野見宿禰の功をほめられて,鍛地を賜った。そして土師の職に任ぜられ,それで本姓を土部臣という。連等之コれが土部連らが,天皇の喪葬を司るいわれである。

(古事記には,この話は出て来ない。)

☆ 古事記に出て来ないので,九州王朝系の史料の盗用と考える。

(13)(14)八十八年秋七月己酉朔戊午、群卿曰「朕聞、新羅王子天日槍、初來之時、將來寶物、今有但馬。元爲國人見貴、則爲神寶也。朕欲見其寶物。」卽日、遣使者、天日槍之曾孫淸彥而令獻。於是、淸彥被勅、乃自捧神寶而獻之、羽太玉詔一箇・足高玉一箇・鵜鹿鹿赤石玉一箇・日鏡一面・熊神籬一具。唯有小刀一、名曰出石、則淸彥忽以爲非獻刀子、仍匿袍中而自佩之。天皇、未知匿小刀之情、欲寵淸彥而召之賜酒於御所。時、刀子從袍中出而顯之、天皇見之、親問淸彥曰「爾袍中刀子者、何刀子也。」爰淸彥、知不得匿刀子而呈言「所獻神寶之類也。」則天皇謂淸彥曰「其神寶之、豈得離類乎。」乃出而獻焉。皆藏於神府。然後、開寶府而視之、小刀自失。則使問淸彥曰「爾所獻刀子忽失矣。若至汝所乎。」淸彥答曰「昨夕、刀子自然至於臣家。乃明旦失焉。」天皇則惶之、且更勿覓。是後、出石刀子、自然至于淡路嶋。其嶋人、謂神而爲刀子立祠、是於今所祠也。昔有一人乘艇而泊于但馬國、因問曰「汝何國人也。」對曰「新羅王子、名曰天日槍。」則留于但馬、娶其國前津耳一云前津見、一云太耳女、麻拕能烏、生但馬諸助。是淸彥之祖父也。

(現代語訳・八十八年秋七月十日,群卿に詔して,「新羅の王子・天日槍が始めてやってきたときに,持ってきた宝物はいま但馬にある。國人に尊ばれて神宝となっている。自分は今その宝を見たいと思う」といわれた。その日に使いを遣わして,天日槍の曾孫淸彥に詔された。淸彥は勅を受けて,自ら神宝を法を捧げて献上した。羽太玉一つ・足高玉一つ・鵜鹿鹿赤石玉一つ・日鏡一つ・熊神籬一つである。淸彥は急に刀子はたてまつるまいと思って,衣の中に隠して,自分の身につけた。天皇はそれに気づかれず,淸彥をねぎらうため御所で酒を賜った。ところが刀子は衣の中から現れてしまった。天皇はご覧になって清彦に尋ねて,「お前の衣の中の刀子は何の刀子か」といわれた。淸彥はかくすことはむできないと思って白状し,「たてまつるところの神宝の一つです」といった。 天皇は「その神宝は仲間と一緒でなくても差し支えないのか」といわれた。そこでこれを差し出し奉った。神宝は全部,神府に納められた。その後神府を開いてみると,刀子はなくなっていた。清彦に尋ねさせられ,「お前がたてまつった刀子が急になくなった。お前のところに行っているのではないか」といわれた。清彦は答えて「昨夕刀子がひとりで私の家にやってきましたが,今朝はもうありません」といった。天皇は畏れ慎まれてまた求めようとはされなかった。その後,出石の刀子は,ひとりでに淡路島に行った。その島の人はそれは神だと思って,刀子のために祠を立て,今でもまつられている。

(古事記には,この話はない)

☆ 古事記にないので,この話も九州王朝系の史料の盗用だと思われる。

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垂仁紀の「詔」を含む文章は,大部分が古事記に出て来ないものだった。

以上,「多くの例が九州王朝系の史料の盗用だと」だと思った。

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神武紀の「詔」について【1】~記から紀へ

単に数の上で比べると,記での「詔」の数は5で,

紀の「詔」の数は1である。

これはかなり気になる変化である。

重なったものなのか,それともまったく関係ないのか?

あなたはどう思いますか?

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【神武記の5つの「詔」】

神倭伊波禮毘古命自伊下五字以音與其伊呂兄五瀬命伊呂二字以音二柱、坐高千穗宮而議云「坐何地者、平聞看天下之政。猶思東行。」卽自日向發、幸行筑紫。故、到豐國宇沙之時、其土人、名宇沙都比古・宇沙都比賣此十字以音二人、作足一騰宮而、獻大御饗。自其地遷移而、於竺紫之岡田宮一年坐。

亦從其國上幸而、於阿岐國之多祁理宮七年坐。自多下三字以音。亦從其國遷上幸而、於吉備之高嶋宮八年坐。故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。

故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古自登下九字以音興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。於是、與登美毘古戰之時、五瀬命、於御手負登美毘古之痛矢串。故爾「吾者爲日神之御子、向日而戰不良。故、負賤奴之痛手。自今者行廻而、背負日以擊。」期而、自南方廻幸之時、到血沼海、洗其御手之血、故謂血沼海也。從其地廻幸、到紀國男之水門而「負賤奴之手乎死。」男建而崩、故號其水門謂男水門也、陵卽在紀國之竈山也。

故、神倭伊波禮毘古命、從其地廻幸、到熊野村之時、大熊髮出入卽失。爾神倭伊波禮毘古命、倐忽爲遠延、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以音。此時、熊野之高倉下此者人名賷一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子卽寤起、「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。

・・・(後半の皇后選定に至り)爾大久米命、以天皇之命、其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、

阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米

爾大久米命、答歌曰、

袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米

故、其孃子、白之「仕奉也。

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最後の「詔」は後半の「皇后選定」のところに出てきて,なかなか見つからなかったが,

この5つはどれも「おっしゃった」や「●●に~させた」という形だった。

単なる敬語(近畿大王を天皇並みに扱っている)ということなのだ。

それが神武紀となると大きく変わる。

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【神武紀の「詔」は1つ】

四年春二月壬戌朔甲申、曰「我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬。今諸虜已平、海內無事。可以郊祀天神、用申大孝者也。」乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原・下小野榛原。用祭皇祖天神焉。

これは大和橿原での即位のあと。これが紀の神武紀唯一の「詔」であった。

これだと,単に尊敬語というより,天下に宣言するという感じで,列島支配者の統治宣というスタイルになると思うのだ。

講談社学術文庫の「現代語」には,「わが皇祖の霊が,天から降り眺められて,我が身を助けて下さった。

今多くの敵はすべて平らげて天下には何事もない。そこで天神を祀って大孝を申し上げたい」と,

神々の祀りの場を,鳥見山の中に設けて,そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。そして高皇産霊尊を祀った」

と訳されていた。

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崇神紀の「詔」について【9】

神武紀の「詔」(主語なし)が九州王朝系の史料の盗用とすると,




続く崇神紀の9つの「詔」(主語なし)にもその疑いは向く。

その9つの「詔」と現代語訳を並べてみたい。

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(1)四年冬十月庚申朔壬午、曰「惟我皇祖・諸天皇等、光臨宸極者、豈爲一身乎。蓋所以司牧・人神、經綸天下。故能世闡玄功、時流至德。今朕奉承大運、愛育黎元、何當聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。

(わが皇祖の諸天皇たちが,その位に臨まれたのはただ一身のためではない。神や人を整え天下を守るためである。だから,代々良い政治ひろめるために徳を布かれた。いま自分は大業を承って,国民を養うことになった。どのようにして皇祖の跡をつぎ,無窮の位を保とうか。群卿百僚たちよ,汝らの忠貞の心をつくして共に天下を安ずることは,また良いことではないか)

☆ 「九州王朝への協力要請」の盗用か?

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(2)七年春二月丁丑朔辛卯、曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲姬命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域內所居神、名爲大物主神。」時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿內而祈之曰「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。國之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之國、自當歸伏。

(昔わが皇祖が大業を開き,その後歴代の御徳は高く王風は盛んであった。ところが思いがけず.今わが世になってしばしば災害があった。朝廷に善政がなく,神が咎を与えておられるのではないかと恐れる。占いによって災いの起こるわけを究めよう」といわれた。天皇はそこで神浅芽原ににお出ましになって,八十万の神々をお招きして占いをされた。この時に神明は倭トト日百襲姫命に神憑りしていわれるのに,「天皇はどうして国の治まらないことを憂えるのか。もしよく吾を敬い祀れば,きっと自然に平らぐだろう」と。天皇は問うて「このようにおっしゃるのはどちらの神ですか」と。答えていわれる「我は倭国の域の内にいる神で,名を大物主神という」と。この神のお告げを得て,教えのままお祀りしたけれどもなお験がなかった。天皇は斎戒沐浴して,殿内を浄めてお祈りしていわれるのに,私の神を敬うことがまだ不充分なのでしょうか,どうしてそんなに受け入れていただけないないのでしょう。どうかまた夢の中で教えて,神恩をお垂れ下さい」と。この夜の夢に一人の貴人が現われ殿舎に向かって,自らを大物主神と名乗って,「天皇よ,そんなに憂いなさるな。国の治まらないのは,吾が意によるものだ。もしわが子大田田根子に,吾を祀らせたら,たちどころに平ぐだろう。また海外の国も自ら降伏するだろう」とつげた。

☆ 「大物主神や別に八十万群神を祀った結果,内政外交の憂いは消え,五穀は稔り百姓は賑わった」という話を盗用したか?

大物主神を大国主神と同じと考えると,九州王朝は出雲王朝を「国譲り」という形で侵略し,大国主を引退させて,政権を奪ったという過去に負い目を感じていたのではないかと思う。それが,大物主神が現われてしまった。大国主が政権をゆずりして引退した際,今後神として出雲大社に祀るという約束だったのではないか。大物主神が現われるということは「その約束が守られていないぞ。ちゃんと約束を守れ」ということで,あわてて祀ることにしたのだと思う。この話は近畿王朝の話とすると分かりにくいが,九州王朝の話だと考えれば理解しやすいと思う。ただ,出雲神話は「古事記には出て来る」が「日本書紀には出て来ない」というわけで,その為「なぜ大物主神を祀ることになったのか」という背景がわからない。「無いのには,無い理由」があったのだ。

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(3)十年秋七月丙戌朔己酉、群卿曰「導民之本、在於教化也。今既禮神祇、災害皆耗。然遠荒人等、猶不受正朔、是未習王化耳。其選群卿、遣于四方、令知朕憲。」

(民を導く根本は教化にある。今,神々をお祀りして,災害はすべてなくなった。けれども遠国の人々は,まだ王化に預かっていない。そこで卿等を四方に遣わして,わが教化を広めたい)

☆ 「全国支配への宣言」の盗用か?

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(4)九月丙戌朔甲午、以大彥命遣北陸、武渟川別遣東海、吉備津彥遣西道、丹波道主命遣丹波。因以之曰「若有不受教者、乃舉兵伐之。」既而共授印綬爲將軍。

(もし教えに従わない者があれば兵を以て討て。それぞれ印綬を授かって将軍となった)

☆ 「武力を使ってでも支配するぞ」という宣言の盗用?

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(5)冬十月乙卯朔、群臣曰「今反者悉伏誅、畿內無事。唯海外荒俗、騷動未止。其四道將軍等、今急發之。」丙子、將軍等共發路。

(今は,反いていた者たちはことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが騒ぎを止めない。四道の将軍たちは今すぐに出発せよ)

☆ 近畿王朝の古事記には「畿(都)」という言葉は存在しない。なので,これが1番の盗用例か

十一年夏四月壬子朔己卯、四道將軍、以平戎夷之狀奏焉。是歲、異俗多歸。國內安寧。

(翌年,四道将軍たちは,「地方の敵を平定しました」と報告した。国内は平和になった)

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(6)十二年春三月丁丑朔丁亥、「朕初承天位、獲保宗廟、明有所蔽、德不能綏。是以、陰陽謬錯、寒暑矢序、疫病多起、百姓蒙災。然今解罪改過、敦禮神祇、亦垂教而緩荒俗、舉兵以討不服。是以、官無廢事、下無逸民、教化流行、衆庶樂業、異俗重譯來、海外既歸化。宜當此時、更校人民、令知長幼之次第、及課役之先後焉。」秋九月甲辰朔己丑、始校人民、更科調役、此謂男之弭調・女之手末調也。是以、天神地祇共和享而風雨順時、百穀用成、家給人足、天下大平矣。故稱謂御肇國天皇也。

(ン私は初めてて天位をついで.宗廟を保つことはできたが,光りも届かぬところがある。徳も及ばぬところがある。このため陰陽が狂って,寒さ暑さが乱れている。疾病が起こり,百姓は災いをこうむっている。それをいま罪を祓い.過ちを改めて敦く神祇を敬い.また教えを垂れて荒ぶる人どもを和らげ,兵を挙げて服しない者を討った。だから,官にも廃れた事なく,下に隠遁者もない。教化は行き渡って,庶民は生活をたのしんでいる。異俗の人々もやってきて,周囲の人までも帰化している。こときに当って戸口のことを調べ,長幼の序,課役の先後のことを知らせるべきである。・・・始めて人民の戸口を調べ,課役を仰せつけられた。これが男の調・女の調である。これによって天神地祇ともに和やかに,風雨も時を得て百穀もよく実り,家々には人や物が充足され,天下は平穏になった。そこで天皇を誉めたたえて「御肇国天皇」という)

☆ 「戸籍を調査し,税金を課す理由(正当性)を書いている。全国支配の理由付け」の盗用か。

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(7)十七年秋七月丙午朔、曰「船者天下之要用也。今海邊之民、由無船、以甚苦步運。其令諸國、俾造船舶。」冬十月、始造船舶。

(船は天下の大切なものである。いま海辺の民は船がないので献上物を運ぶのに苦しんでいる。それで国々に命じて船を造らせよ。初めて船舶を造った)☆ それまでに世の中に船がなかったことは考えられない。

☆ 「献上物を運ぶための船」のみ許可されたのではないか?船は戦争の道具としてもつかえるので,普通なら支配者は被支配者に作らせたくないと考える。その命令の盗用か

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(8)六十年秋七月丙申朔己酉、群臣曰「武日照命一云武夷鳥、又云天夷鳥從天將來神寶、藏于出雲大神宮。是欲見焉。」

(武日照命の天から持って来られた神宝を,出雲大神に収めてあるのだがこれをみたい,と言われた。)

☆ 出雲ではこれに関してトラブルが発生。なので天皇は勅して鏡を祭らせなさった。(2)と関係がある話かもしれない。

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(9)六十二年秋七月乙卯朔丙辰、曰「農、天下之大本也、民所恃以生也。今河內狹山埴田水少、是以、其國百姓怠於農於農事。其多開池溝、以寛民業。」冬十月、造依網池。十一月、作苅坂池・反折池。一云、天皇居桑間宮、造是三池也。

(農は国の本である。人民のたのしみとして生きるところである。今,河内の狭山の田圃は水が少ない。そこでその国の農民は農を怠っている。そこで池や溝を掘って,民のなりわいをひろめよう)

☆ 「農は国の本である」という原型に+近畿の池の名をはめ込んだのではないか。盗用と考える。

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なかなかはっきりしないものが多いが,(5)については「古事記」には1回も「畿(みやこ)」という言葉が出て来ないということを調べたことがあったので,これは明らかに九州王朝系史料からの盗用と思った。

他のものも,九州王朝系史料+近畿王朝の内容で,事実をぼかしていると考える。

神武の「詔」から崇神の「詔」の10個は,主語有無がそのまま使えるのではないか。(主語の省略 → 九州王朝の天皇が主語)

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2021年7月 6日 (火)

「日本書紀」の中の「詔」の探求~「主語有無」の論証による

多元的「国分寺」研究と並行して,このサイトを利用して,

上記の内容で取り組んでいきたいと思います。

相手は1300年の長期にわたって日本古代史の研究を翻弄してきた「日本書紀」ですから,

いろいろあるかと思いますが,

川瀬さんの提唱する「主語有無」の論証というものを手掛かり士として,

歴史の真相に近づいていければと願っています。

2021年7月

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400程登場する「詔」の位置をチェックしたいので,7月は時間を下さい。

【古事記・日本書紀 全文検索】

http://www.seisaku.bz/search3/searchn.php

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