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2017年9月 7日 (木)

●中皇命の伊勢行幸記事の書紀持統紀への盗用について(川瀬さん)

●中皇命の伊勢行幸記事の持統紀への盗用について

川瀬健一

はじめに:

「書紀天武紀・持統紀の宮関係記事の精査」を発表したところ、上城さんと大下さんか ら多くのご批判を頂いた。
  中城さんからの批判の一つは、持統紀六年の伊勢行幸記事は、七世紀の九州王朝天子で ある中皇命の伊勢行幸記事の盗用であるとの指摘であった。
  根拠は古田さんの著著『古代史の十字路 万葉批判』の第 10 章「万葉集の深淵」<特論 1>朱鳥日本紀の証言の論証である。
  たしかにこの論証と比べてみると(そして万葉集第 44 歌の原注に引用された「日本紀」 記事とも)、持統紀のこの記事は、 「日本紀」の中皇命の伊勢行幸記事の盗用である。
  しかし古田さんの論証にもいくつか誤りがある。
  一つは中皇命の時代。七世紀中ごろ舒明期の人で、伊勢行幸は白村江前としたが、 「日本 紀」通りに朱鳥六年とすべき。
  二つは、この九州王朝天子は九州に戻ったと古田さんはするが、そうではなく持統の居 た都、天武の作った難波宮か飛鳥岡本宮とすべきである。
 
 
http://kawa-k.vis.ne.jp/201797ise.pdf

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

朱鳥日本紀は九州王朝の史書でしょうか?万葉集34番の注に「日本紀曰く朱鳥4年庚寅秋9月、天皇紀伊国に幸す。」とあり、これは持統天皇のことであり、九州王朝の史書とは思われません。

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月 8日 (金) 14時48分

上城さんへ
>万葉集34番の注に「日本紀曰く朱鳥4年庚寅秋9月、天皇紀伊国に幸す。」
 これは本当に持統のことなのでしょうか。前に検討した時には私も「天皇」と主語が明記されていることから持統のことと考えました。
 だが「日本紀」に朱鳥4年のこととして書かれていることを知って、これは九州王朝天皇だと考えを変えました。理由は、朱鳥4年の干支は庚寅。たしかに持統四年の干支も庚寅。同じ年です。でも書紀は朱鳥は天武15年のところを朱鳥と改元としているだけでその後は使っていない。書紀が近畿天皇家の年号として採用してはいない朱鳥をつかって様々な記事を書いているのだから、九州王朝の史書だと考えました。
 そしてもう一つ、古田さんが「日本紀」を九州王朝史書と考えなかった根拠はみな否定されたのですから、九州王朝史書と考えるしかないと思います。
 万葉集の注では、書紀を使っているときは「日本書紀」「書紀」「紀」に曰くと記述し、「日本紀」の時は「日本紀」に曰くと記述し、きちんと区別されています。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月 9日 (土) 00時34分

当該の記事にあたるものは現行「日本書記」持統4年9月の「丁亥に天皇、紀伊に幸す。」です。ここでは、主語が省略されていません。川瀬さんの法則に反しています。

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月 9日 (土) 12時15分

前述の項目に追記します。朱鳥4年の紀伊行きが、九州王朝の天皇の行動とすると、次の伊勢行きにあれほど、反対にあう理由がわからないですね。ここは、持統天皇のこととみていいのではないでしようか。

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月 9日 (土) 15時47分

 現行「日本書記」持統4年9月の「丁亥に天皇、紀伊に幸す。」ここは天皇と主語が明記されています。だから最初は私も持統のことと考えました。しかし上城さんのご指摘から、万葉集にある中皇命の伊勢行幸に関わる歌の注の「日本紀」にある伊勢行幸記事が持統紀のそれの元であることが指摘されたとき、この元記事でも「天皇が諌めを聞かず」と主語を明記してあることに気が付きました。そしてこれは吉野に関する注の「日本紀」でも天皇と明記していることがあることに気が付きました。
 したがって九州王朝の正史でも、基本は天皇との主語を省略しますが、場合によっては主語明記の場合があると気が付きました。
 だから「主語有無の論証」は改訂したのですよ。ちゃんと書いてある。
 主語のない構文の中に九州王朝天皇の事績が含まれる。でも前後の文をよく検討しないとここにも近畿天皇家の事績である場合もある。そして主語が明記された構文は大略近畿天皇家の事績だが、ここにも構文上の必要上から九州天皇の事績に「天皇」と明記した場合があると。
 「主語有無の論証」は絶対的なものではなく、読み解く一つのカギだということです。

 なぜ紀伊行幸がなされたのに次の伊勢行幸は強力な反対があったのか。
 一つは紀伊行幸は9月。でも伊勢行幸は3月。反対者の理由の一つが農作の繁忙期に入るからとあります。
 もう一つはまさしく、この伊勢行幸が、私が分析したように、伊勢に行ってそのまま近畿天皇家の宮に入り、やがて造営される九州天皇のための都・藤原京に遷ることで、事実上九州天皇は近畿天皇家の傀儡になる旅であったからです。
 反対者の主たる理由は、みすみす傀儡となって九州合併されることへの反対であったと思われます。
 おそらく「日本紀」原文にはこの政治的な意味での反対もあったと思いますが、ここは書紀編者が削除したか、もともと書くことをはばかる事項なので、なかったかのどちらかだと思います。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月10日 (日) 13時51分

その通りですね。私が述べたいことは、論者が、(ここの1プラス1は2だが。ここの1プラス1は3である)と言い出したなら、それは、論証ではなく個人の感想だということです。みんなが頷くものとはなり得ないと述べているのです。川瀬さんの奮闘は素晴らしいものですが、提示されたものは個人的感想です。

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月11日 (月) 08時38分

「続日本紀」元明天皇の条に「日本紀」編纂の記事が有ります。それと、主語有無の論証が絶対的ではないとするならば、どの部分でも使用できないものと思われます。論者
の解釈になるからです。

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月11日 (月) 18時02分

「日本書記」については、歴史資料としてはなかなか手強いということを結論として、古賀さんが主張されている、大宰府政庁2期670年頃建設という論を検証しませんか?

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月12日 (火) 12時21分

上城さんへ

●日本紀について
 「続日本紀」に編纂した書名として「日本紀」とあるが、実際に残っている本の名は「日本書紀」。この事実を上城さんはどうお考えですか。「続日本紀」のこの記述の方が嘘なのではないでしょうか。九州王朝の史書「日本紀」を自己の史書と偽造するための。

●主語有無の論証
 私は最初から「主語有無の論証」を絶対的だと言っていませんよ。勝手にみなさんがそう考えただけ。私がこの論証を、「宮関係記事」だけに限って最初は提起したのは、これ以外の外交などを入れると、他の史料との関係を精査しないとできないからです。簡潔な事実関係しかない記事だから判別が簡単。
 しかし日本の国号を巡って「磐井の乱」を検討しなければならなくなって、ここでは前後の記事や他のこととの整合性を考えて判断し、「主語の有無」だけでは判断はしていません。吉野行幸や伊勢行幸についても同じです。
 「主語有無の論証」は、あくまでの書紀解読の手掛かりにすぎません。前後の文意や内容、そして他の史料との関係、いろいろ考えないと近畿か九州かは判定できませんから。
 上城さんが「つかえない」「つかえない」と連呼され、私の提示した解釈を「個人的感想」だと連呼されるのは、法則は絶対でなければいけないとの思い込みがあるからだと思います。さらに、古田説を基礎とした古い説に拘泥しておられるから。
 そしてあえて付記すればこれを法則だとして「主語有無の論証」と名付けたのは肥沼さんですよ。肥沼さんも絶対のものと考えたからこう命名したのでしょうね。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月12日 (火) 17時32分

川瀬さんへ・上城さんへ

せっかく私の名前が出てきたので,「ソクラテスの弁明」ならぬ「肥さんの弁明」をさせて下さい。

(1)川瀬さんが,主語がある場合とない場合の区別をつけることによって,日本書紀を解き明かす1つの有力な方法を示されれました。
(2)私は素晴らしいアイデアだと思い,「このサイトでの共通の言葉として使いませんか?」というつもりで,“「主語有無」の論証”と命名しました。ところが,論証(仮説の方がよかったのかな)という言葉が強烈過ぎたのか,その後「論証できる・できない」という方向に「責任追及」の原因にされてしまうことになりました。
(3)私が命名した“「主語有無」の論証”には主語有無にカッコが付けてあり,「こういうアイデアではいかが?」というニュアンスを付けたつもりだったのです。
(4)古田武彦著の『「邪馬台国」はなかった』は,よく『邪馬台国はなかった』と誤記されますが,カッコがあるのとないのとでは大違いなわけです。
(5)議論が白熱してきたので,いつの間にかカッコなしの“主語有無の論証”やカッコを全体にかける“「主語有無の論証」”も登場してきたので,ここに書いておく次第です。
(6)川瀬さんも「そしてあえて付記すればこれを法則だとして「主語有無の論証」と名付けたのは肥沼さんですよ。肥沼さんも絶対のものと考えたからこう命名したのでしょうね。」
と書かれているのですが,それは違うのです。「素晴らしいアイデアですね。これでどこまでいけるかやってみたいですね」という意味で,カッコ付きの“「主語有無」の論証”と命名させていただいたわけです。
(7)言葉の使い方が良くなかったとすれば,私の勉強不足ですので,お詫びいたします。幸い川瀬さんによって,“「主語有無」の論証(改訂版)”も書いていただきましたので,今後は上記のニュアンスでやり取りしていただけるとうれしいです。
以上,「肥さんの弁明」でした。

投稿: 肥さん | 2017年9月13日 (水) 04時53分

私が理解力が無いのでもう少し質問させて下さい。私は、なるべく論者の解釈が入らない資料の解読が有ればよいなと思っています。その1つとして、主語の有無で、判別できるのではないかーと。1つの見方が提案されたと思っていました。しかし、法則に絶対はないと言われてしまうと。立ち止まるしかありません。ほぼ、100%に近い、絶対とは言い切れないが、ほぼそう言って良いと、言えるものが法則ではないでしょうか?私たちは、恣意性を排除する方法を考えているのではないのですか?川瀬さんも肥沼さんも大下さんも、私も、そこは同じだから、納得するまで質問を繰り返すのではないのでしょうか?「万葉集」の(注)に「日本紀」が引用されているのは「万葉集」編纂当時「日本紀」が存在し、それは「日本紀」と呼ばれていたことの証ではないのですか?

投稿: 川瀬さん。上城です。 | 2017年9月13日 (水) 10時07分

肥沼さんへ
 なるほど。「主語有無」の論証でしたね。
 主語有無の論証と書くのと、「主語有無」の論証では大きな違いがありますね。かっこを付けたのは、この部分はまだ仮説ですよとの意味合いがあった。私も当初はこう受け取っていましたが。だんだん「法則」みたいに受け取られていきましたね。
 これは法則だと受け取ったほうが悪いのです。
 肥沼さんに濡れ衣を着せてしまって申し訳ありませんでした。
 私も確かに「主語有無」の論証(改訂版)として作り直しています。あくまでも「」の部分は仮説、手掛かりの一つとの立場です。新らしい概念を出すときは、受け取る方も気を付けるべきだとの教訓でした。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月13日 (水) 12時20分

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

1つひとつが勉強ですね。
私もネーミングの際には,
よく気を付けたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 肥さん | 2017年9月14日 (木) 05時55分

肥沼さんの言われること、良く理解しました。古田先生が示した透明感のある論証、それを求めてやまない私自身にも問題があります。結論ではなく、その過程を問題視する癖がついているようです。

投稿: 肥沼さん、上城です。 | 2017年9月15日 (金) 20時13分

上城さんへ
コメントありがとうございます。

日本書紀全体を解き明かすシンプルな法則が見つかれば,それはそれで素晴らしいことだと思いますが,それでは真実を解くヒントを埋め込もうとする工夫を見破られてしまって,大和政権の人から命を危うくされてしまうことにもつながります。
なので,とりあえず私たちは,「一部でも有効な解読方法を見つける」というプラス思考でいくのが得策かと思います。「これもダメ。あれもダメ」といマイナス思考ですと,せっかくのアイデアがしぼんでいってしまいます。
柳の下には,まだほかにも解読方法が隠されているのではないでしょうか。私はそれを見つけることが,このサイトの仕事の1つではないかと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。

投稿: 肥さん | 2017年9月15日 (金) 22時08分

肥沼さんへ
 素晴らしいご指摘です。
>日本書紀全体を解き明かすシンプルな法則が見つかれば,それはそれで素晴らしいことだと思いますが,それでは真実を解くヒントを埋め込もうとする工夫を見破られてしまって,大和政権の人から命を危うくされてしまうことにもつながります。

 そのとおり。これが私が言いたいことなのです。
 書紀を実際に編集したのは朝廷の史官。彼らは真実を記録することを仕事にしている。しかし朝廷が編纂した史書は、どうしてもその王朝の大義名分・イデオロギーで歪められる。といってそれを拒否しては自分の首が飛ぶ。文字通りに当時なら死罪です。
 ではどうやって朝廷の上の方からの指示に従って歴史をゆがめる作業をしながら、その中に真実を読み解くカギを埋め込むのか。
 朝廷の史官が苦労したのはこれだと思います。日本だけではなく中国の史官も。
 彼らは多様な方法でその真実を読み解くカギを埋め込んでいるのだと思います。
 その一つが、主語の有無。
 さらに原注。或る書に曰くとか「百済記」に曰く、さらに「日本世記」に曰くという形で史料を引用し、さらに異なる史料をどう考察して、とりあえず真実を確定したか、まで注に書く。
 また、地名の改変などでは、たとえば近畿の難波。書紀神武紀には、元は「浪速」もしくは「浪花」だったが、今は(書紀編纂時は)難波と呼ぶ、と注を入れる。冒頭にこれを入れれば、以後の書紀記述の中で、明確に近畿の難波と読める箇所は、本当は「浪速」「浪花」だと読み替えろとの指示。そうではない残りの箇所の難波が九州の難波。
 こうしてさまざまなところに、真実を読み解くカギをひそかに埋め込んである。
 これをすべて析出できれば、かなり歴史の真実を読み解くことができると私は考えています。
 だからもう一度言います。
 天皇が主語であるはずの文の中に、主語を省略した箇所と天皇の主語を明記した箇所がある。この違いに注目して読み解くと真実に到達できる一つの可能性があると。
 主語明記の場合の多くは近畿の王の事績。そして主語省略の場合の多くは九州王朝天皇の事績。
 ただしこう明確に区別しては真実を埋め込んだことがバレル。だから主語明記の記述法を九州王朝天皇の事績にも少し埋め込み、主語省略の記述法を近畿の王の事績にも少し埋め込んで、いかにもこれが構文の都合で主語を省略したり明記したかのように装ったのではないのかと。実際に構文の都合から、主語を省略すると意味が分からなくなる時があるから、こういう場合は「天皇は」とどちらの場合でも書く。
 これが「主語有無」の論証(改訂版)の骨子です。
 
 私がこういう方法で書紀を読もうと考えたのは、学生時代に東洋史の主任教授から教えられたことがヒントになっている。
 石田幹之助先生。唐代文化史の泰斗。
 史料の中で重要な位置を占めるのが編纂史料。一次史料が残っている場合は少なく、多くはこうした後世の編纂史料。二次史料か三次史料だ。
 これらの編纂史料は、編纂主体のイデオロギーで真実が歪められている。編纂主体が王朝だから。当然自分が打倒した前王朝のことは悪く書く。だからその編纂主体の王朝のイデオロギーを析出すれば、史料がどう歪められているか推定することが可能だと。編纂史料は一次史料を使うときでも、イデオロギーによって一次史料を改変した可能性もあると。
 そしてこれは編纂史料だけではなく、行動主体の記した一次史料でもこうしたイデオロギーによる歪みが存在する。個人の手紙や日記や自伝でもそうだと。その主体が何を目的にして手紙や日記や自伝を書いたのか。そこに真実をゆがめるイデオロギーがあると。
 ここを明らかにすることを「史料批判」というと。
 
 書紀編纂のイデオロギーは何か。
 それは列島の代表王朝は悠久の昔から近畿天皇家だというイデオロギー。近代の言い方で言えば「万世一系の天皇家」。
 したがってこれに先行する九州王朝も、さらに九州王朝に先行する出雲王朝もみな無視される。そして先行王朝の事績は取り込めるだけ取り込んで、自己の王朝の事績であるかのように装う。ただしどうしても取り込めないものもある。明確に前王朝の存在を示してしまう出来事だ。だからこれは消し去る。
 ここを基本に考えてみよう。
 そして近畿天皇家が史書を編纂する際に参考にしたのが、中国の正史。直近に出来上がったものとしては「隋書」だ。だから隋の高祖の遺詔が盗用されている。
 中国の正史は帝紀を読めば分かるように、「皇帝は」とはほとんど書かない。至高の神にも近い存在だから、その実名を呼ぶことや、実名と同じ字を使うことや、皇帝と呼ぶことも避ける。文の構造上どうしても「皇帝は」と書かなければならない箇所以外には「皇帝」の語を使用しない。できるだけ皇帝の言動であるとわかる用語で対応する。どこかに行く場合を「幸」と記すように。そして皇帝の子供でもないものが皇帝になった場合には、皇帝になるまでは実名で主語をちゃんと明記して記し、皇帝になってからは主語を省略する。なんとこれは皇帝の息子の場合でも同じ書き方で記される。
 書紀編者はこの記述法を参考にしたはずだ。
 ここが私が「主語の有無」に注目した原点だ。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月15日 (金) 23時40分

上城さんへ

 「万葉集」には二種類あると古田さんが指摘されたことをお忘れですね。
 「倭国万葉集」と「日本国万葉集」。
 前者が九州王朝の時に編纂された万葉集で、後者が、これを換骨奪胎して自分の王朝の歌集であるかのようにして、これに当代の歌を追加してできたもの。
 したがって注に二種類あるはず。
 一つは「倭国万葉集」時代の注。もう一つは「日本国万葉集」時代の注。 
 だから「倭国万葉集」から盗用された部分には、九州王朝時代の注もそのまま使われただろう。したがってここに出てくる歌を理解するための史書は、九州王朝の史書だ。
 そして「日本国万葉集」編纂時に新たにつけられた注は、歌を理解するために歴史をひも解いてみた場合にはそれは「日本書紀」に基づくしかない。
 したがって「万葉集」の注に引用された史書として「日本紀」と「日本書紀」とが出てくる。両者は区別されているのだから別の史書だ。そして「日本紀」は朱鳥年号で書かれている。これはこの時期の歌が盗用された際に、「倭国万葉集」時代の原注がそのまま使われた痕跡だ。
 そして朱鳥年号は九州王朝の年号。したがってこの年号で書かれた「日本紀」は九州王朝の史書。
 以上のように理解するしかありません。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月15日 (金) 23時49分

上城さんへ・追伸
 太宰府政庁Ⅱ期が670年代との古賀説。
 これは書紀の記述にそって九州王朝記事と明確に考えられる記事を時系列を追って読んでいけば、わかることだと思います。
 九州王朝は難波から太宰府やさらに奥地に都を移動させている。でも外国使臣の接待所は終始難波に置いたようなので、難波から天皇のいる都へ外国使臣がどう移動したかとか、外国使臣が来たという情報がどう都に伝えられたかを考察してみれば、太宰府ができた時期が分ると思います。
 今すぐこれをやってみようとは思っていませんが、おいおいとやってみるつもりですが、ここが問題だとお考えの上城さんご自身がまずやってみるのが筋でしょう。
 やって見られて見解をまとめて表明して頂ければ、それを再検証することぐらいならすぐできます。
 でも、あえて言わせてもらえば、私は「日本書紀」はそれほど手ごわい史書だとは思っていません。あちこちのコメントで書きましたが、読み解くヒントをたくさん見つけたと思っているからです。そして大下さんや上城さんのご意見を検証していく過程で書紀原文を何度も読み返していると、いくつもいくつも、読み解くヒントを見つけてしまうので。

投稿: 川瀬健一 | 2017年9月15日 (金) 23時59分

様々な考え方が有ります。様々な試みが有ります。提示された仮説の可否を確認できる対象資料が存在すれば、幸せなことですが、それがない場合、私たちは、その論者の仮説に至る方法を検証するしか手段が有りません。様々なアプローチを認めながら、この検証だけは、忘れないでいたいと思っています。

投稿: 肥沼さん、上城です。 | 2017年9月23日 (土) 17時55分

上城さんへ
コメントありがとうございます。

学級にいろいろな個性の生徒がいることは,
時に指導がしにくいこともあります。
しかし,いろいろな個性があるからいろいろな角度から考えられるわけなので,
ありがたいことだと思うようにしています。
このサイトも,同様です。
めざしているところは同じ(山頂)なのだけれど,その登り方についてはだいぶ違うようです。
でも,それは必ずしも悪いことではないと・・・。

〉様々なアプローチを認めながら、この検証だけは、忘れないでいたいと思っています。

私もそれは大切なことだと考えております。

投稿: 肥さん | 2017年9月24日 (日) 04時56分

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