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2017年8月17日 (木)

●「主語有無」の論証(改訂版)(川瀬さん)

●「主語有無」の論証(改訂版)
 
                        川瀬健一
 
 すでに私は「日本書紀」の記事の中に大量に九州王朝の事績が盗用されて紛れ込んでいると考えて、その判別法を探ってきました。
 その結果、書紀孝徳紀の宮関係記事を精査している段階で、天皇の行幸を示す記事に、「幸○○宮」との記述と「天皇幸○○宮」との二種類の記述があることに気が付きました。
 この「発見」をもとに、次のように判別する方法を仮説として提示しました。
1:主語を明記しない記述=九州王朝の天皇の言動。
2:主語を天皇と明記した記述=近畿の王の言動。
 この仮説に基づいて
○孝徳の宮「難波長柄豊碕宮」はどこにあったか?(2017年6月13日)
○磐井の乱を考える(2017年7月12日)
○書紀天武紀持統紀宮関係記事の精査(2017年8月6日)
 と新たなる書紀解釈を提示してきました。
 この私の提示した仮説に対して、多くの方から疑問やご批判を頂きましたが、特に上城さんのご批判により、先に提示した書紀の記事を区別する方法に訂正が必要となってきました。
 上城さんの批判の一つは
1:主語を明記しない記述=九州王朝の天皇の言動。
2:主語を天皇と明記した記述=近畿の王の言動。
としてしまうと、近畿の王の言動の中に、構文上から明らかに近畿の王の言動とわかるために主語を省略したところがあることが理解できなくなるということでした。
 この批判は極めて大事なところをご指摘いただいたものと思います。前のコメントで「あら探し」と言ってしまいましたが訂正します。
 この上城さんのご指摘を踏まえれば、肥沼さんが命名してくださった「主語有無」の論証を次のように訂正する必要が出てきます。
 この点は先のコメントに書きましたので再掲します。
 ※ご指摘のように孝徳の行動であっても文意から明らかに孝徳だと判断できる場合は主語を省略します。だからこそ、書紀の実際の編者が編集責任者の意志に逆らって、九州王朝の天皇の事績を盗用した時にはその主語を省略するという方法で区別できるようにしたという歴史の真実を守る方法が、書紀編集の責任者にもよほど細かく精読しないといけないように編集したということですよ。簡単にわかってしまったら命がない。「主語の有無は構文上の問題に見え」るように編者は偽装しているのです。
 つまり書紀を実際に編集した歴史家(史官)は、歴史家としての良心に従って、九州王朝の史書から盗用した箇所が、のちの慧眼の人には見抜けるように書紀記述を工夫した。すなわち、九州王朝の天皇の事績を盗用した際には、その主語を、中国の史書の本紀の記述法を応用して、省略する。そして近畿の王の事績を資する際には天皇と主語を明記して区別する。
 しかしこの方法で、すべてを、主語有=九州王朝天皇の事績、主語無=近畿の王の事績として書き分けてしまうと、この偽装方法が、九州王朝の実在を史書の上では消し去り、その事績のすべてを近畿の王の物とするように偽装した歴史書を作れと史官に命令した人たちにばれてしまう。
 そこで、近畿の王の事績を示した記述の中にも、前後の文章から近畿の王の事績と分かるところには、ところどころに主語を省略した箇所を挿入する。そして九州王朝の天皇の事績を示し、主語を省略した文章の中にも、ところどころ天皇の主語を明記した部分を入れる。
 こうしてしまえば、主語無の部分が、九州王朝天皇の事績を示した箇所ではなく、前後の構文上の状況から主語が省略された箇所の一つであるかのようになり、歴史の真実を残した箇所をばれないようにした。
 私は書紀の編集方法は以上のようなものであったと考えます。
 したがって「主語有無」の論証は以下のように改訂しなければなりません。
 「書紀」は九州王朝の事績を大量に盗用して近畿天皇家の事績のように偽装している。その偽装の箇所を区別するにはどうしたらよいか。
 「書紀」は天皇の事績を記した史書である。したがって大部分はそれぞれの時代の近畿の王(書紀では天皇としている)の事績を述べた記述が中心である。
 この天皇の事績の中から、近畿の王と九州王朝の天皇の事績を区別するにはどうしたらよいか。
 まず天皇の事績の記事を次の二つに区別してみよう。
1:天皇の事績を示した記事なのに「主語が省略」されている記事。
2:天皇の事績を示した記事で、「主語として天皇が明記されている」記事。
 この2のタイプの記事の多くは近畿の王の事績である。だが中には、九州王朝の天皇の事績を記した箇所なのだが、天皇と入れることで、近畿の王の事績であるかのように見せかけた箇所もあるので、ここは要注意である。ここは点検が必要だ。
 そして1のタイプの記事の中に、九州王朝の天皇の事績が盗用され含まれている。
 1のタイプの記事から二つを区別するにはどうしたらよいか。
3:1のタイプの記事の中で、その文を含む前後の構文の記述内容から、明らかに近畿の王の事績だとわかるものを除外する。これは近畿の王の事績だからである。
4:1から3を除いた記述。つまり主語が省略されている記述で、前後の構文の記述からその主語が近畿の王の事績だとは判断できないものが残る。これこそ、九州王朝の天皇の言動・事績である。
 こうやって天皇の言動の中から、近畿の王の言動と、九州王朝の天皇の言動を区別することが可能となる。
 また上城さんのご批判の中に、書紀持統紀の伊勢行幸記事は、古田さんが指摘されたように、九州王朝の「中皇命」の伊勢行幸記事を「日本紀」から盗用したものであるとのものがあった。
 これは全くその通りである。
 上城さんはこの盗用記事を持って、書紀記述を私の方法をもって読み解くことはできないとされたがが、これは逆で、私の「主語有無」の論証で、近畿の王の事績と九州王朝天皇の事績を区別することができることが、事実を持って証明された稀な例なのである。
 書紀持統紀で伊勢行幸を記した際には、全体としてその文は、主語を省略する形で記述されているからである。たしかに九州⇒伊勢の船旅であったのを、陸路での旅であったかのように偽造してはいるが、主語は省略することで、これは九州王朝の天皇の行動であることを示していた。
 ただし書紀の実際の編者が九州王朝の天皇の事績を近畿の王の事績として盗用する際には、その年次はほとんど動かしていないものと思われる。
 古田さんは「中皇命」の実年代を、万葉集の歌の詞書に舒明天皇のころの歌とあったことを根拠にして、七世紀の中ごろとしたが、この「中皇命」の伊勢行幸に関する歌で万葉集の第40~44として再録された歌の原注に引用された「日本紀」には、明らかに朱鳥六年と書かれているのだから、「中皇命」の実年代は、持統と同じく七世紀末となるのだ。
 そして古田さんは「中皇命」の伊勢行幸を持統の伊勢行幸として年次を移した盗用したことを説明する際に、持統の吉野行幸の中には白村江の戦い以前に、九州王朝の天皇が、その軍事拠点である佐賀なる吉野に行幸した記事が含まれているとして、書紀記事が34年ほど年次が遡れるとの自説を背景として説明されていたが、この古田説も再検討が必要だと思われる。
 なぜなら持統紀の持統の吉野行幸記事の中にも、「幸吉野宮」「天皇幸吉野宮」との二種類の記述がみられ、この記述の差に古田さんはまったく考慮を払っていなかったからである。
 議論を重ねることを通じて、書紀の記述の中から九州王朝の事績を探し出す方法が次第に明らかになってきた。
 この方法を駆使して、書紀記述はすべて近畿の天皇の事績を記したものとする、通説派の読み方を捨て、書紀記述の中には大量の九州王朝天皇の事績が盗用されているとの前提に立って、それを解読する試みを始めてみようではありませんか。
 (2017年8月17日)

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