2019年11月21日 (木)

宣命の文辞とその周辺(2)

(削除いたしました)

「宣命の文辞とその周辺」(1984年・中小路駿逸)

いつか使うかもしれないと思って,

『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社・2017年)を買っておいた 。

その中の「宣命の文辞とその周辺」が役立つ時が来たようである。

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(削除いたしました)

七支刀は「鍛造」ではなく「鋳造」か

国宝でもある七支刀が「鍛造」(叩いて鍛える)ではなく,

「鋳造」(鋳型に流し込んで作る)ではないかという主張を,

産経新聞が伝えていた。

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4月28日13時32分配信 産経新聞

【拡大写真 】


河内さんが復元した七支刀(右の2本)と藤ノ木古墳の剣(小畑三秋撮影)(写真:産経新聞)

4世紀に朝鮮半島の百済王が日本の王のために造ったことが金の文字で記された、石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)の「国宝・七支刀(しちしとう)」について、製作技法がこれまで定説とされた鍛冶による「鍛造(たんぞう)」ではなく、鉄を鋳型(いがた)に流し込んで作る「鋳造」との新説を、古代刀剣復元の第一人者で刀匠、河内國平(くにひら)さん(68)が復元をもとに打ち出した。歴史学者による鍛造説を覆すもので、刀を知り尽くした「匠(たくみ)の目」が古代技術の神髄に迫る成果となった。
  [フォト]正倉院宝物の小刀「黄楊木把鞘刀子」を復元 

 七支刀(長さ75センチ)は、左右に3本ずつ枝分かれした小さな刃が備わった特異な形。刀の表と裏面には、金線を溝に埋め込む「金象眼」という技法で計61文字の銘文が刻まれ、当時の日本と朝鮮半島の関係を考える上で一級資料とされる。

 銘文の「百練」の文字から、歴史研究者の多くは「百回も鍛えて造った刀」と解釈し、通常の日本刀と同様に鍛造で製作されたと考えられてきた。

 河内さんは昭和56年に鍛造で復元したものの、枝分かれした刃を造る際に鉄を加熱すると、別の場所が熱でひずむなどし、「とても(鉄を)たたけるものではない」と、当時から定説となっていた鍛造に疑問をもった。

 その後、実物を詳細に調べた結果、刀の表面がわずかにふくらんでいることを確認。鉄をたたく鍛造では表面が平坦(へいたん)になることから、平成18年に鋳造で造ったところ、実物と同じように表面をふくらむように仕上げることができたという。

 河内さんは「知り合いの鍛冶職人に聞いても、鍛造ではとてもできないという声ばかり。実物を観察すると、肌(刀身の表面)は、鉄をたたいた感じではなかった」と分析。ただし、「現在の技術でいくら試しても実物通りに仕上げるのは至難の業。昔の人はどうやって造ったのだろうか」と古代の刀匠の技に思いをめぐらせている。

 河内さんは奈良県東吉野村在住。24歳で人間国宝の刀匠、故・宮入(みやいり)昭平(あきひら)氏に入門し、30年前から古代の技法を研究しながら刀剣を復元。豪華なガラス玉や銀で装飾された同県斑鳩町の藤ノ木古墳出土の刀剣(国宝)などの復元を手がけた。

 河内さんが鍛造と鋳造で復元した七支刀は、藤ノ木古墳の復元剣などとともに29日まで、東京都中央区の総合文化事業施設「銀座おとな塾」で展示されている。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100428-00000544-san-soci

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【国宝「七支刀」の復元実験】 

https://www.iri-tokyo.jp/uploaded/attachment/2378.pdf#search=%27%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80+%E5%BE%A9%E5%85%83%27

 

城郭と城柵

「隋書俀國伝」にこんなくだりがある。

俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數

但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其
地勢東髙西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古

云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使

朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無
主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王

有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有
男子二人給王飮食通傳言語其王有宮室櫻觀城柵

持兵守衞爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通

またそれに続いて,こんなくだりがある。

開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟

天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟髙祖
曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六

七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭

隋書はその国の防衛施設に関心があるようで,卑弥呼の時代(3世紀)は「城柵」だった。

しかし,多利思北孤の時代(6世紀)に到っても「城郭」はない,と言っている。

ということは,「旧態然として城柵」で,それに驚いている感じがする。

また,一方で,穏やか民族性や仏教を中心とした大陸文化を取り入れていることに感心しながら,

日出處天子致書日没處天子無恙云云」などと,物騒なことも言ってくる。

隋の皇帝は不愉快に思いつつ,関心を持たない訳にはいかない

不思議の国「俀國 」だったのではないかな?

(そもそも国名も倭人(従順な人の国)と國(ねじけた人の国)では正反対だし)

そして,その予想はやはり当たっていて,とうとう「此後遂絶 」ということになった?

Photo_20191121084601 Photo_20191121084701

  秋田城の城柵              西安(城郭都市)の城壁

 

2019年11月20日 (水)

即位年と改元年は一致するか?(川瀬さん)

今は天皇の即位と改元(最新は「令和」)が同じ年に行われる。

そこで,「昔からずっとそうだった」と思ってしまう。

川瀬さんがそこを調べてくれました。

(宏樹さんのコメントへの回答です)

古代史の議論にも,影響が出てくるかも・・・。

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即位年と改元年は一致するか?  川瀬健一

天子の即位と改元はリンクするというのが、明治以後の私たちの通念です。
 歴史上はどうなのでしょうか。
 試みに年表で江戸時代の少し前から見てみました。

 後陽成天皇:即位は天正14年11月。しかし改元は6年後の12月に文禄へ。
 後水尾天皇:即位は慶長16年3月。しかし改元は4年後の7月に元和へ。
 明正天皇:即位は寛永六年11月。この天皇の代には改元なし。
 後光明天皇:即位は寛永20年10月。改元は翌年の12月に正保へ。
 後西天皇:即位は承応3年11月。改元は翌年の4月に明暦へ。
 霊元天皇:即位は寛文3年1月。改元は10年後9月に延宝に。
 東山天皇:即位は貞享4年3月。改元は翌年の9月に元禄へ。
 中御門天皇:即位は宝永6年6月。改元は二年後の4月に正徳へ。
 桜町天皇:即位は享保20年3月。改元は翌年の4月に元文へ。
 桃園天皇:即位は延享4年5月。改元は翌年7月に寛延へ。
 後桜町天皇:即位は宝暦12年7月。改元は二年後の8月に明和へ。
 後桃園天皇:即位は明和7年11月。改元は二年後の11月に安永へ。
 光格天皇:即位は安永8年11月。改元は二年後の4月に天明へ。
 仁孝天皇:即位は文化14年3月。改元は翌年4月に文政へ。
 孝明天皇:即位は弘化3年2月。改元は二年後の2月に嘉永へ。
 明治天皇:即位は慶應3年1月。改元は翌年の9月に明治に。
 大正天皇:即位は明治45年7月30日。改元は即日。
   

安土桃山の最後から大正までみましたが、新天皇即位=改元は大正から始まったこと。
  それ以前は翌年または二年後。さらにもっと離れている場合も多い。
  奈良時代は多くの天皇が即位=改元だが、実権をを持たない淳仁は即位の三年後。
  平安時代も多くの天皇が即位の翌年または二年後改元だ。
  鎌倉時代も同じだが南北朝期に北朝では即位=改元や翌年二年後にならない例も多い。
  その後も室町後期も即位=改元ではなく通例が翌年か二年後。
  即位の翌年もしくは二年後にならない例の多い江戸時代に鑑みて、天皇が権力を握っていたり、権威が高いときは、即位の翌年もしくは二年後に改元が通例だと思います。
 そして天皇がうっちゃられると即位してもそのまま改元もない例も多くなる。
 即位=改元は大正から始まった新例であることはあきらかです。

 ここから天武以後の九州王朝天子の即位と改元が大きくずれることの意味は、まさしく権力が九州王朝から近畿天皇家に遷っていることの証拠となります。

2019年11月17日 (日)

古代史セミナー2019の記念写真

1日目の夕方撮影した集合写真。

私はどこにいるかわかりますか?

20191109_87971

「主語有無の論証」について

「主語有無の論証」とは,川瀬さんが『日本書紀』などの史書を読み解く方法として,

中国史書(隋書だったかな?)から学んだものです。

つまり,主語の有無によって,誰がやった事績か判断していくというもの。

一般には,文頭は主語で始まりますから,その人物がやったこと。

文頭なのに主語がないのは,他の人(前王朝の天子)がやったこと,と判断します。

ただ,それだけだと読み解かれてしまうので,わざと迷わせる文も混入させている。

(例えば,本当は天皇の位は,九州王朝の最後の天子⇒文武天皇なのを,持統天皇⇒文武天皇のように)

だから,文脈を読み取って解釈していけば,「『日本書紀』が九州王朝の記事を取り入れて作られた」

という範囲を越えて,これは「九州王朝の記事」これは「近畿王朝の記事」と判定することができる。

(このようにして,川瀬さんが精査したのが,次の「九州王朝の天子の動向」です。ぜひお読み下さい)

川瀬さん,こんな説明でよろしいでしょうか?

私の考えでは,「主語有無の論証」が文献解釈を,

「方位の考古学」が考古学を,大きく進歩させると思っています。

 

九州王朝の天子の動向(川瀬さん)

川瀬さんは,「「大嘗祭」はなかった!」に対するコメントの中で,

「書紀記事を精査すると、九州王朝天子の動向が読み取れます」として,長文を書かれています。

これはもはやコメントを越え,論文と言ってもいいでしょう。

そこで,本文としてアップさせていただきます。「主語有無の論証」も出てきます。

なお,見やすいように,『日本書紀』の本文には私(肥沼)がアンダーラインを引きました。

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●天武紀下の大嘗記事から


 二年12月壬午朔丙戌、侍奉大嘗中臣・忌部及神官人等・幷播磨・丹波二國郡司・亦以下人夫等、悉賜祿、因以郡司等各賜爵一級。

 これが書紀本文。
 大嘗祭は即位したあと最初の新嘗祭のことだから、つまりこの天武二年に九州王朝天皇が即位したということ。673年。
 だから新たな天子即位に伴って伊勢斎宮が交代する。この記事は


夏四月丙辰朔己巳、欲遣侍大來皇女于天照太神宮、而令居泊瀬齋宮。是、先潔身、稍近神之所也。

 

 したがって次の記事も九州王朝天子交代に伴うものかも。


己亥、新羅、遣韓阿飡金承元・阿飡金祗山・大舍霜雪等、賀騰極。幷遣一吉飡金薩儒・韓奈末金池山等、弔先皇喪。一云、調使。其送使貴干寶・眞毛、送承元・薩儒於筑紫。戊申、饗貴干寶等於筑紫、賜祿各有差、卽從筑紫返于國。

 新羅は新天子即位の祝いの使いをおくるとともに、もう一つの使節も億経った。
 「弔先皇喪」とあるから、前の天子は死去したのだ。
 ここの「先皇」を天智としたら時期が離れすぎる。
 天子の死の弔問使なら、天智10年12月に天智が死去した直後でないとおかしい。
大友皇子だとしても意味がとおらない。
 なぜなら彼らは日本国の天子ではないのだから。
 この天武二年に九州王朝の新たな天子が即位した。
 だからこそ次々と周辺諸国が新帝即位を祝って使節を送っているのだ。

次の記事は新天子即位を祝ったもの。

 二年三月丙戌朔壬寅、備後國司、獲白雉於龜石郡而貢。乃當郡課役悉免、仍大赦天下。

 では即位の宮はどこか。
 確実に後岡本の宮の南に作られた新たな宮。天武紀で飛鳥淨御原宮と呼ばれた、エビノコ郭。

 即位後、天子はどうしたのか。
 おそらくしばらくは先帝の喪に服したものでしょう。通常1年から2年。
 その間に遺体を埋葬する墓を作らねばならない(この記事は書紀にはない)。
 そして出来上がった墓に埋葬するのだが、おそらく先帝の墓は九州の難波付近につくられたのではないか。そして新天子は先帝の遺骸(喪)を守って九州に赴いた。
 そしてそのまま九州に留まった。
 だから天武が作った新宮(前期難波宮)の東方郭に天子が入ることはなかった。
 このため天子は、天武12年の12月に「都は二つあっても良い」とし、まずは旧都の難波に遷都し、さらに翌、13年には新宮の地の選定を始めた。
 この記事は


〇十三年二月庚辰、遣淨廣肆廣瀬王・小錦中大伴連安麻呂及判官・錄事・陰陽師・工匠等於畿內、令視占應都之地。是日、遣三野王・小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形、將都是地歟。三月辛卯、天皇、巡行於京師而定宮室之地。夏四月壬辰、三野王等、進信濃國之圖。


 さらに、


〇十四年冬十月壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。


 そして天武15年の七月に新宮は出来上がり、これとともに天子は改元を行った。
 この記事は、


 戊午、改元曰朱鳥元年朱鳥此云阿訶美苔利、仍名宮曰飛鳥淨御原宮。

 

 天武が近畿天皇家内の権力掌握に手間取り、さらに彼が病に伏す中で、九州王朝天子は独自の動きを始めた。
 独自の動きの一つが新宮建設であり、その完成をまっての改元。
 朱鳥の新元号に。(この前の683年=天武12年に長く続いた元号白鳳が廃止され新元号朱雀が施行されている。天子の死から12年後。これは天子の陵が完成したことを示すことかもしれない)
 この朱雀・朱鳥の元号。
 明らかに天子に伴うものなので「私こそが日本の天子だ」と宣言したかのよう。

 こうした独自の動きれは近畿天皇家に「飾りの天子は手の内に置かないと危ない」との危機感を持たせたかも。
 だから近畿天皇家は、新たな九州王朝天子のための都を畿内に建設しようと動き出す。

 

持統四年冬10月壬申、高市皇子觀藤原宮地、公卿百寮從焉。


  持統が即位した年の10月。ここで初めて藤原宮造営の動きが始まる。
 結局天武の死⇒後継ぎのはずの草壁の死⇒対抗馬の大津の処刑⇒持統の即位
 という近畿天皇家内部の権力掌握に手間取って実に四年も時期が空いてしまったわけだ。

●持統紀大嘗祭記事から

 五年十一月戊辰、大嘗。神祗伯中臣朝臣大嶋、讀天神壽詞。壬辰、賜公卿食衾。乙未、饗公卿以下至主典、幷賜絹等各有差。丁酉、饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨因幡國郡司以下至百姓男女、幷賜絹等各有差。

 これが持統紀大嘗祭挙行と、その後の関係者報償の記事。
 大嘗祭は即位したときの新嘗祭。
 五年はおかしい。
 持統の即位は四年春正月。持統の大嘗祭なら四年の挙行でなくてはならない。
 つまりこれは持統の大嘗祭ではない。
 この時も天武の時と同じく、大嘗祭を挙行した臣下らが褒美を賜っている。

 持統五年のどこかの時期に九州王朝天子即位があったはず。691年。
 その痕跡は。


 六月己未、大赦天下、但盜賊不在赦例。
 七月庚午朔壬申、是日、伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀三斤八兩・𨥥一籠。

即位の宮はどこか。
 伊勢行幸が問題になるのが、六年の二月に「二月丁酉朔丁未、詔諸官曰、當以三月三日將幸伊勢、宜知此意備諸衣物。」と3月3日伊勢行幸が決まる。
 これに対して「乙卯、是日、中納言直大貳三輪朝臣高市麻呂、上表敢直言諫爭天皇、欲幸伊勢妨於農時。」と反対意見が出る。
 しかし「三月丙寅朔戊辰、以淨廣肆廣瀬王・直廣參當摩眞人智德・直廣肆紀朝臣弓張等、爲留守官。於是、中納言大三輪朝臣高市麻呂、脱其冠位、擎上於朝、重諫曰、農作之節、車駕未可以動。辛未、天皇不從諫、遂幸伊勢。」と挙行される。

 この記事は行きは何で行ったか記さないが、帰りは車駕でとなる。
 万葉集の伊勢行幸の記事と併せると、これは九州王朝天子が海路伊勢に行幸し、そこから車駕で宮に戻ったという記事だ。
 ここから九州王朝の新天子が即位したのは九州の宮であることがわかる。
 それは九州の飛鳥浄御原宮。
 そして新天子が車駕で向かった宮は。まだ藤原の地の新益京は出来上がっていないので、飛鳥と考えられる。もしくは前期難波宮だ。

 この直前の5年冬10月甲子、遣使者鎭祭新益京。とあるので、まさにこの新京(首都の名前は新益京。その内裏が藤原宮)はこの新たな九州王朝天子のための都だ。これは都を作るための地鎮祭挙行。天子を迎える準備が始まった。
 そして新益京・藤原宮完成は、8年の12月。

 十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。戊午、百官拜朝。己未、賜親王以下至郡司等、絁綿布各有差。辛酉、宴公卿大夫。

 遷居藤原宮。主語が省略された記事。
ここに新京・新益京は完成し、天子は内裏の藤原宮に遷った。
 そして新京・新宮の完成を祝って翌年に(695年=持統9年)改元がされた。朱雀⇒大化に。
 この九州王朝最後の元号・大化。
 この元号を定めた主体はすでに近畿天皇家だろう。
 大化=今後大きな変化が起こるぞという予言。王朝交代を予言したものか。
 この意味で大化は、近畿天皇家が初めて定めた元号と言える。
 だから孝徳紀に記された九州王朝の評制全国施行の改新を本来の「常色」に変えて「大化」年号にしるしたものかもしれない。
 そして九州王朝の新都(=太宰府)とその新宮(味経宮)完成を祝っての「白雉」改元はそのままにしたのかもしれません。全国統一権力の完成ですから。
 ただし自分の(近畿天皇家の)やったこととして。
 そして九州王朝天子から近畿天皇家の文武に天皇位が譲られたのが、


 十一年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。

 ここは主語を明記することであたかも近畿天皇家の持統から皇太子に天皇位が譲られたかのように偽装しているが、主語の天皇は九州王朝天子である。

 九州王朝天子はやっと用済みに。
 こうして九州王朝最後の元号・大化は終り、近畿天皇家初めての元号・大宝に。だがここに至るにはさらに3年の月日が必要だった。
 新元号とともに新律令を交付し、列島統治権を名実ともに握るには。

 ではその後九州王朝天子はどうしたか。これは「続日本紀」を精査しないとわからない。

2019年11月16日 (土)

「大嘗祭」はなかった!

「大嘗祭はいつから行われたか?」についての川瀬さんのコメントをまとめると,

以下のようになると思う。

古田さんの考え・・・天武天皇は褒美を与え,持統天皇から大嘗祭が始まった。

          (これだけでも,大きな衝撃でしたが・・・)

川瀬さんの考え・・・天武天皇と持統天皇の大嘗祭はなくて,その当時の九州王朝の天皇が即位し,近畿はその方法を学んだ。

          (それに対して,参加した人たちに褒美を与えた。また,実際にそのやり方でやってみた。

           そうしたら,次の九州王朝の天皇の即位の時はやることができた。

           そして,ついに文武天皇の時には,主権者となり,年号も大宝を建元し,大嘗祭を行った。)

ONライン(700年までは九州王朝が主権者で,701年から近畿王朝が主権者となった)という「法則」に叶うのは,

天武天皇・持統天皇の時には,「近畿王朝に「大嘗祭」はなかった!」ということではないか。

「大嘗祭」はなかった!

題名だけ私が付けさせてもらいました。

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これまで『日本書紀』の天智・天武・持統天皇の存在があまりにも大きくて(ページも多いし),

『続日本紀』の文武天皇は逆に小さく見えていました。

ところが,『日本書紀』はあくまでも,近畿王朝の大王時代=「前史」であり,

『続日本紀』に到って,近畿王朝の天皇時代がやっと始まるということだったのだ。

そういう視点で読んでみると,また新しい発見が出来そうな気がします。

 

2019年11月15日 (金)

大嘗祭はいつから行われたか?(再掲載)

昨日はやけにアクセス数が多く(普段の1.5倍),

「どうしたのだろう?」だといぶかしく思っていた。

スマホをいじっていて,はたと気が付いた。

2年近く前に「夢ブログ」に書いた上記の文章が,

「大嘗祭」「内容」「いつから」ということで検索し,

ヒットしたのだろうと思う。

そして,スタートの神武天皇でもなく,明治天皇でもなく,

天武・持統のビミョーな時期だったと知って驚いたかもしれない。

この内容は,私も古田武彦氏から講演会で聞いて驚いた覚えがある。

今思えば,新旧の王朝の交代期だと理解できるのだが,

あまりにも意外な内容だったから・・・。

その時,「どうしてなんだろう?」と論を進めていくか,

「なんか予想外。残念・・・」と探求をやめてしまうかで,

その先が大きく違ってくる。

【大嘗祭はいつから行われているか?】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/01/post-7dc6.html

 

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