2019年1月16日 (水)

梅原猛さんの訃報

市原悦子さんの訃報とほぼ同じ頃,
梅原猛さんの訃報も届いた。
訃報も同じ間隔では届かず,
続いて届いたかと思うと,しばらく届かないものだが,
今回はほぼ同じだったと思う。
(「レディー・ファースト」ということで,市原さんを先に書いた)

梅原猛さんも有名人だから,特に紹介する必要もないかもしれないが,
一方で「初耳」の人もいると思うので,ウィキペディアをリンクしておく。

ウィキペディア「梅原猛」

https://ja.wikipedia.org/wiki/梅原猛

梅原氏の著書の出会いは,『隠された十字架 法隆寺論』だと思う。
「法隆寺の七不思議」に端を発する本ある。(ただし,今は持っていない)
また,柿本人麻呂の死について書いた『水底の歌』は古田氏が批判対象に取り上げていて,
『人麿の運命』に収録されている。
とにかく研究対象の多さは人並外れて多く,「梅原日本学」「梅原考古学」などと,
名前を冠されて表現される。

新聞記事をいただいた。朝日新聞の追悼記事である。
酒処「まこ」でいただいたのだが,私が考古学の話や瀬戸内寂聴さんの話を時々するので,
ママが切り抜いておいてくれたらしい。感謝である。

Dscn4906

Dscn4907


2019年1月15日 (火)

メンテナンス中のため停止中

私たちが利用している全国の発掘調査のデータは,
奈良文化財研究所というところが集めたものだ。
そのまま収録しているという点で不便を感じるところもあるが,
とにかく全国のデータ扱ってくれている巨大なサイトなので,
その恩恵に浴さない訳にはいかないのだ。

奈良文化研究所データベース

https://www.nabunken.go.jp/research/database.html

ところがそのサイトの中の半分ほどのコンテンツが「メンテナンス中」で,
全国の寺院や官衙の調査が進められない。
また,いつまでメンテナンスを行う予定なのか書かれていないのも
ちょっと困ったことだ。(たいていメンテナンス期間が示されている)

■ 地方官衙関係遺跡データベース【メンテナンス中のため停止中】
■ 古代寺院遺跡データベース【メンテナンス中のため停止中】

この2つのコンテンツが特に私たちの研究には欠かせないコンテンツで,
「全国の遺跡に全部当たってみました」=悉皆(しっかい)調査したというためには,
とりあえず「制覇」する必要があると考えている。

さすがに長い期間なので,今後の見通しをつかむために連絡を取ろうと思っている。
連絡先は,サイトに書いてある。わかったら「夢ブログ」で報告したい。

独立行政法人国立文化財機構・奈良文化財研究所
〒630-8577
奈良市二条町2-9-1
TEL 0742-30-6733
FAX 0742-30-6730

2019年1月14日 (月)

それぞれの王朝の首都の名前となぜ東偏や正方位になったか(川瀬さん)

後漢ー洛陽城 東偏5度
魏ー洛陽城  東偏5度 以上二つは同じところ。
南朝ー建康城 東偏25度

  以上が東偏した理由:都の北の丘に方形の自然地形を見つけそこを地壇とする。
都の南の丘に円形の自然地形をみつけてそこを天丘とし、両者で天の神・地の神を皇帝自身が礼拝する。
この地壇と天丘に相応しい場所がたまたま南北に並ばず東偏したので、
二つの場所を結んでその線上に都を築くと東偏となった。
 都の南北に地壇と天丘を置いて天子自身が神を礼拝するという形式は、
漢王朝成立後200年もたって天子の血統的な正統性が薄れる中で、
新たに王朝を築いた後漢王朝において、天子の権威を神に直結する形に変えることで
維持しようとの思想で採用されたもの。したがってこの思想は新・前漢以前にはない。

北魏ー5世紀末の孝文帝時代 洛陽城 正方位(漢魏洛陽城を拡大して改築)
  ここから正方位になった理由:地壇と天丘を自然地形ではなく、
人工のものに変えて、ちょうど南北に並ぶ位置に建ててその線上に都を建てたので、
都そのものが正方位になり、その中心に置いた天子の宮殿は、文字通りに「天子南面」とすることができた。

隋ー洛陽城 正方位
唐ー長安城 正方位
  隋と唐は北魏の新しい都築城の思想を継承した。

「西偏の時代」における大変化(「方位の考古学」の背景)

ここに1枚の資料を再登場させよう。
「日本列島の磁北が東偏・西偏何度だったか?」
を表してくれているグラフである。
(岡山理科大学のデータ)

4~12世紀の800年間・・・西偏
13~19世紀の600年間・・・東偏
明治~現在の150年間・・・西偏

Dscn4873

私たちがよく扱っている古代史(古墳時代~平安時代)は,
すっぽりと「西偏の時代」に収まり,
東偏の寺院遺跡や街並みが見出されたら,
磁石以外のもので方位を決めたことになるのだ。
(上からの命令や,下からの忖度)

そこに,主権者がその都や関連施設を正方位に構えるという
別な要素が加わるので,それらの変化パターンを読み取ることによって,
九州王朝と近畿王朝との力関係がわかると考える。

その典型例が福島県の泉官衙遺跡で,
東偏でスタートし,立派な正方位に変化し,それが廃れる(九州王朝)。
その後,パワーアップした華々しい正方位が登場するが,
律令制が弱体化することによって廃れてしまう(近畿王朝)。

私はこの遺跡について,「夢ブログ」で
「泉官衙遺跡の遺構変遷図に2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!」という文を書いたが,
それは上記にある「磁北の変化のない古代(ずっと西偏)」に
よりはっきり表れる現象という訳なのであった。

泉官衙遺跡の遺構変遷図に2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/10/post-e73e.html

2019年1月13日 (日)

九州王朝の東偏に影響を与えた中国の王朝(川瀬さん)

川瀬さんの東偏についてのコメントは,
「九州王朝に東偏の影響を与えた中国の王朝」
という形で表にアップさせていただきたいと思います。

1・2世紀・・・後漢~「漢委奴国王」の金印・・・東偏5度

3世紀・・・魏~「親魏倭王」の金印・・・東偏5度

4~5世紀・・・南朝~「倭の五王」の使い・・・東偏25度


7世紀・・・隋・・・正方位
7世紀・・・唐・・・正方位

2019年1月12日 (土)

泉官衙遺跡についての新知見

下記のサイトで,泉官衙遺跡の新知見を得た。

「遺跡のⅡ期までは馬を使った連絡がメインだったのに、
Ⅲ期に入ってからは河と海を使った交通が盛んに使われ出したらしい。
水上輸送路の活用は敵対する蝦夷には発達しにくい発想だから、
さらに大きな差が開いたのではないか。」

読書は呼吸

http://sanasen.jugem.jp/?eid=3194

私は,Ⅰ期(東偏)とⅡ期(正方位)を九州王朝の官衙,
Ⅲ期を近畿王朝の官衙と考えている。
それは主に建物の方位と規模からだったが,
これに加えてさらに交通輸送の点でも,
Ⅰ期・Ⅱ期とⅢ期との間には明確な画期(王朝の違い)が現れているということだ。

藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)の
該当のページを載せてみたい。

Dscn4829

本書に掲載された発掘図は,6枚。
ポイントをとらえたスライスが,多元的古代の世界を透視する。

Dscn4804

泉官衙施設の遺構変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/10/post-e73e.html

府中研究会 1/11

昨日は,国府の移動を中心に話し合われた。

【一元史観】 最初から最後まで近畿王朝が,例の「国府」を置いた。
 ただし,奈良時代と平安時代では,「国司館」の位置は変わった。

【私たち】 大きく見て,3段階に国府が移動した。(相模国府の移動の例あり)

〈飛鳥時代〉 无耶志国府寺の南側に国府が置かれ,国府館も東山道沿い。僧寺と尼寺の間に官庁街。 
九州王朝  多磨評衙が今の「国府」のところにあり,旧甲州街道沿い。郡寺は多磨寺。

〈奈良時代〉 何らかの事故・事件(焦土から見て火災か)があって,多磨評衙が国府を兼ねる事態になる。
近畿王朝  国司館も府中本町駅の東側に移動。4棟が展示されている。3面庇あり。先日多元の会をご案内。

〈平安時代〉 西に国府(クルル鉤の使用)が移動する。国司館も庇をたくさん使用してかなり立派そう。
近畿王朝  ただし,現在は府中本町駅の西側のマンションの下に埋め戻されている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

その他の話題としては,以下のようなものが出ていた。

・国司といっても,守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)という違いがあり,「舘」という
朱墨土器だけでは判明しない。

・多摩川方面への街づくりは,崖線があるので期待できない。それで旧甲州街道沿いに
役所や屋敷が集中したのではないか。

・御殿山の奈良時代の「国司館」の敷地の中に,もっと古い時代の東偏の掘立建物跡あり。

・磁北・真北の年代判定は,ばらばらであり,1990年代で分けられると考えない方がいい。

・塔2の方位も塔1とほぼ同じ。あるいは.東山道や尼寺(東偏2度)に合わせたか。(金堂以下は,西偏7度)

・夏目漱石の成績表の新聞記事(川瀬さんが資料提供)~旧制一高時代の論理学がトップ(80点と90点)。

2019年1月11日 (金)

「方位の考古学」で紹介してきた図面や写真や地図

「方位の考古学」でこれまで話題にしてきた図面や写真や地図を
ここで再紹介したいと思う。
前から「夢ブログ」をご覧の方はお馴染みのものでも,
最近興味を持ったという方もいらっしゃると思うので・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) 武蔵国分寺・国分尼寺周辺地図 ~ 「すべてはここから始まった」ともいうべき地図。
                          基本はば南北の地図に「仲間外れ」の伽藍群(西偏7度)。
                          それとピタリ同じ西偏7度の府中熊野神社の上円下方墳。               
Dscn4794

(2) 府中熊野神社古墳 ~ 最初にこの古墳の方位が西偏7度と聞いた時から,武蔵国分寺の西偏7度と
                   結びつけて考えていました。

Dscn4811

(3) 東偏5度の寺院と街並み ~ 東偏5度だけではありませんでしたが,これにこだわったことが
                      その後のいろいろな発見につながりました。

Dscn4802

(4) 府中ちかマップ ~ 府中市は,発掘した遺跡を1枚のデータとして公開してくれています。
                この地図と『よみがえる古代武蔵国府』というブックレットにはすごく助けられました。
                街並みに東偏が刻まれ,その上に正方位が乗っかりました。

Dscn4810

(5) 泉官衙遺跡の図面 ~ 東偏の遺跡を探しているうちに,福島第一原発の近くの官衙遺跡を発見。
                  藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』に載っていた図面は,
                  すぐに「夢ブログ」の「泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を
                  見た!」という記事になりました。(左3枚が九州王朝で,右3枚が近畿王朝)

Dscn4804_2

(6) 建康(中国南朝の都)は,東偏の都だった! ~ その頃の川瀬さんと「どうして九州王朝は東偏を
                    とったのか」ということについて話が交わされていました。お手本は中国に
                    あったのです。それを倭の五王の時代に倭国は学んだのでした。
                    建康は25度。その後.後漢と魏の都・洛陽は5度と確認。

Dscn4807

(7) 国分寺四中遺跡 ~ 生徒数急増の時期,国分寺と国分尼寺の間に国分寺四中が作られた。
                 そこから出土した遺跡・遺物は仏教というより,官庁関係のものに見えた。
                 つまり初期の无邪志国府および无邪志国府寺はここに存在したのだった。

Dscn4808

(8) 鴻臚館の変遷 ~ 東京・古田会の皆さんとの多元的〈国分寺〉〈国分尼寺〉ツアーの懇親会で,
              雑誌『海路』の中に興味深い図面が載っていた。東偏とその前と思しき西偏であった。
             また,次の図はほぼ正方位で,それまでの西偏→東偏→正方位という変遷が見えてきた。

Photo_4

(9) 川瀬さんによる初期「武蔵国分寺~武蔵国府」復元図 ~ これまでの多元的「国分寺」研究サークルでの
                    やりとりや府中研究会での成果を盛り込んだ労作です。当時は,无邪志国府&
                    多磨評衙と呼ばれていたと思われます。

Dscn4806

(10) 川瀬さんによる初期「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」の復元図 ~ これも(9)同様川瀬さんの労作。
                    見えない国分寺の地下が浮かび上がってくるようです。四天王寺式。
                    当時は无邪志国府寺と无邪志国分尼寺と呼ばれたわけです。

Dscn4805

・……………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【おまけ】 斎宮の飛鳥時代の区画 ~ ちょうど最近,伊勢の斎宮の宮殿遺跡が東偏であることが発表されました。
                  グッドタイミングでした。さっそく「多元的古代の街〈府中〉〈国分寺〉を歩く」の資料にも。

Dscn4727


地表に窪み「竪穴住居跡」北海道2万3千軒確認

この記事には縄文時代の気候について書かれていないのが残念。
縄文時代は今より温暖で,関東から東北・北海道にかけてと信州で縄文文化が栄えたのですね。
寒冷と思われるこれらの地方が栄えたということは,当時は「過ごしやすい気候」だったと考えるべき。
人間は今とは違った状況を考えにくいということかな?
(そういえば,今から50年前の夏の気温はせいぜい30数℃。
冬は霜柱と氷が毎日のように出来ていたのを思い出しました)

地表に窪み「竪穴住居跡」北海道

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/地表に窪み「竪穴住居跡」北海道2万3千軒確認%ef%bc%9%ef%bc%9/ar-BBS2UgS?ocid=spartandhp#page=2

2019年1月10日 (木)

「方位の謎解き」から「方位の考古学」へ

多元的「国分寺」研究の例として,
一番近い武蔵国分寺を調べることが中心となり,
それとペアの武蔵国府の研究も並行して行うようになった。

もともと古式の国分寺が東偏していることは,
東山道に特に顕著に見られたので意識していたが,
府中や防府のように街全体がそうなっているとは,
最初の頃は気が付かなかった。

そして,川瀬さんと二人で「どうして九州王朝は東偏させるのだろう」という
素朴な疑問が話題に出るようになった。
これは是が非でも解いておきたい問題である。

試行錯誤の末.九州王朝が送った倭の五王の使いが,
何かを得てきたのではないかとなり,
その都の建康にたどり着くことになる。
果たしてそこに,私は東偏の都(東偏25度)の区画を見出したのであった。

建康(南朝の都)は,東偏の都だった!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/08/post-2775.html

そこから,研究は1段階アップして,「方位の謎解き」が
「方位の考古学」となっていく。
研究者たちは都の東偏や西偏があることは知っているのだが,
なにしろ一元史観の研究なので,
九州王朝がそのやり方を模倣して,
各地の国府や国府寺を東偏にしていたということは
想像することができないのだろう。

せっかく知った「東偏ルール」がどこまで有効か,
今全国の古代寺院や官衙を調査しているところである。
関心のある方は,多元的「国分寺」研究サークルのサイトでやっているので,
ぜひご覧下さい。(私としては,予想を外しまくって悲しいのですが・・・)

多元的「国分寺」研究サークル

http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/

より以前の記事一覧

2019年1月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

最近のトラックバック

無料ブログはココログ