2022年1月18日 (火)

藤原京,平城京,平安京の中で一番広いのは何処か?

古代にはいろいろな京が出てきますが,

次のうち一番広いのは何処だと思いますか?

ア.藤原京

イ.平城京

ウ.平安京

エ.どれも同じくらい

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こんな問題が教科書に出ていたら,少しは楽しくなるのでしょうか?

それとも・・・。

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「ウィキペディア・藤原京」には,次のように出ていました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E4%BA%AC

藤原京は岸俊男などによる研究初期の想定では、大和三山(北に耳成山、西に畝傍山、東に天香久山)の内側にあると想像され、12条8坊からなる東西2.1km、南北3.2km 程度の長方形で、藤原宮は中央よりやや北寄りにあったと考えられていた[4]。しかし1990年代の東西の京極大路の発見により、規模は、5.3km(10里)四方、少なくとも25km2はあり、平安京(23km2)や平城京(24km2)をしのぎ、古代最大の都となることがわかり、発見当時は「大藤原京」と呼んでいた[2]。この広大な京域は、南側が旧来の飛鳥にかかっており、「倭京」の整備に伴って北西部に新たに造営された地域を加え、持統天皇期に条坊制の整備に伴う京極の確立とともに倭京から独立した空間として認識されたとみられている[8]

藤原京という名は、大正2年(1913年)に藤原京研究の先駆となった喜田貞吉が『藤原京考証』という論文において使った仮称が、その後の論文などで多用され定着したもので[注釈 2][2]、当時の皇居が『日本書紀』で藤原堂と呼ばれていることから飛鳥京と同様に名づけられた学術用語である。 (「飛鳥京」や「藤原京」はなかった!)

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ちなみに,太宰府は,面積は約25万4000平方メートル、甲子園の約6.4倍である。(藤原京・平城京・平安京とほぼ同じなんですね)

主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などがあったとされる。しかし、遺跡が確認されたものは少ない。

さらに,唐の都・長安・は・・

  1. 中国を再統一した隋の文帝は、582年、 土木建築の技術官僚・宇文愷(うぶん・かい)に命じて、 新都・大興城(だいこうじょう)を造営させた。
  2. 唐長安城は、隋の大興城を修築したもの。
    東西9.7キロメートル、南北8.6キロメートル、と東西方向のほうが長い四角形だった。(日本の京の4倍ほどもある!)
    都市設計は、北辺の中央に宮城と皇城を置いた。

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政庁跡

Ōgi Shrine.jpg

大城神社(プレ期の中心地か?)

2022年1月14日 (金)

長野県中野市柳沢遺跡

2007年,長野県の弥生時代の遺跡で,「銅鐸5点」「銅戈13点 」が出土した。

それ以前,出雲ではたくさんの銅器が出土しているが,

(1984年,荒神谷・・・銅剣358点,銅鐸6件,銅矛16件。1996年,加茂岩倉・・・銅鐸39点)

東日本からこれらが出土したことは,覚えていてもいいだろう。

長野県とはいえ,中野市は新潟県をはさんで日本海側と言っても過言ではない。

もしかして,出雲以外の国にも「国譲り」を迫っていたりして・・・。

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【長野県中野市柳沢遺跡】

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E6%B2%A2%E9%81%BA%E8%B7%A1


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2022年1月12日 (水)

不丁地区の年代(遺物編ⅡのP221以降)

2冊目の「遺物編Ⅱ」の後半にまとめがあるとは,思わなかった。

川瀬さん,ありがとうございます。

これを信ずるならば,7世紀後半(〈方位の考古学〉だと,100年遡らせて6世紀後半)ということになりますね。

太宰府建設のスタート期(それ以前から?)からあった重要な地区ということになると思います。

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【北地区】

次に出土遺物(遺物編1 Fig.19 ~ 27,以下Fig.○−○)をみていくと,SA2513からは
口縁部内面に身受けのかえりを有する坏蓋が出土しており,7世紀末におけよう。SB2540の
西側桁行の南東隅柱から北に2個目の柱掘方からは,手持ちヘラケズリを施した須恵器皿が出
土していることから8世紀前半とみられる。SB2360からは須恵器の坏・皿・甕と土師器有高
台の坏が出土しており,これらの土器は8世紀中頃の特徴を示す。SB2530からは須恵器の坏蓋・
有高台坏及び土師器の小型甕が出土しており,8世紀中頃とみられる。SA2522からは須恵器
模倣の土師器坏が出土しており,8世紀中頃であろう。
 SB2530と重複するSB2525の掘方からは8世紀中頃の須恵器坏蓋が出土しているが,柱穴
出土の須恵器坏蓋は前者に比して低平であることから8世紀後半と考えられる。SB2535Bの
柱穴上層からは須恵器坏蓋・坏及び土師器坏が出土しており,8世紀後半におけよう。
 SB2355の柱掘方からは土師器皿・椀が出土しているが,小片であるため時期決定に苦慮す
るが9世紀前半頃であろう。SB2515からは須恵器坏蓋,土師器坏・椀が出土しており,遺物
編1では土師器椀(Fig.21-31)を混入品とみなしたが,9世紀前半に比定したSB2355を切っ
ており,9世紀中~後半と考えておきたい。
 以上のことを総合的に検討すると,北区域に建物が出現するのは8世紀前半頃で,SD2340
の開鑿に伴い梁行3間のSB2540が調査区の北東側に位置する。また,7世紀末とした
SA2513とは軸を揃えており,両者は関連する可能性が高い。なお,北側及び西側にも建物が
展開すると思われるが,未調査ヶ所が多く現時点では不明と言わざるを得ない。
 次の8世紀中頃段階は,東西棟建物SB2360が区域の中央やや南側に位置し,梁行3間×桁
行10間とみられる南北棟建物SB2530とでL字形配列をなす。先のSB2540が梁行3間である

222
第Ⅵ章 遺構と遺物の検討
ことを考えると,SB2530はSB2540の機能を踏襲する建物の可能性が高い。また,総柱建物
SB2370は建物に伴う出土遺物がなく,時期は判然としないが,柱掘方が隅丸方形を呈し,一辺
1m前後の大きさであることから8世紀代とみられ,建物配列からすると当該期におけよう。
 その後に築造されるのが8世紀後半のSB2525・2535Bである。SB2530と重複する
SB2525も梁行3間で,桁行5間分にあたる建物中央に間仕切りに関わる柱穴があり,両建物
は規模・構造的に類似し,SB2525はSB2530の建替えと考えられる。
 SB2535Bは梁行1間以上であるが,西側の17次調査区までは伸びないことから梁行2間と
みられる。なお,概報では礎石建物SB370の時期を8世紀後半としているが,両者が同時併存
だとするとSB370東桁行ラインとSB2535B推定西桁行ラインとの間隔が約5.6mとなり,両
建物の軒の出を考えると近接しすぎるきらいがある。また,後述するSB370とSB2355・
2365の建物配列からみてもSB370は9世紀代に下げた方が妥当と考える。
 9世紀前半には北区域の最南端の東側に東西棟の両廂建物SB2355が位置し,その西側には
東西棟建物SB2365が位置し,両者の中央やや北側に南北棟の礎石建物SB370が位置する。こ
の三者の位置関係は,SB370の南中心線から左右11.6mの等間隔をもってSB2355・2365が
配列する格好となる。このことは,3棟が同時併存していたことを裏付けよう。また,SB370
の南中心線上にL字形の柵SA2354が乗ることから,この柵も同時期とみなせる。
 SB2355の約13m南側には門建物とみられるSB2450及びそれに接続する柵SA2451が東西
方向に走り,その東延長線上に暗渠施設SX2345が位置し,SX2345からさらに14m東の地点
で政庁前面広場側の門建物SB2388の南北延長線と直角に接続する。SA2451は構造的に板塀
とみられ,SX2345がSD2340埋没後の8世紀後半に設置されることから,9世紀に入って
SA2451によって不丁地区が北区域と中央区域とに二分されたことが窺える。また,SA2451
の南側の柵SA2452は西下がりで東西方向に走るが,SA2451の建替えとみられる。この
SA2452も暗渠SX2345を跨がしており,SD2340の北半部はほぼ埋没状態にあったが,この
付近は小規模な排水溝的に流れていたものと思われる。
梁行2間×桁行4間の南北棟建物SB2515は東に3度振り,9世紀前半のSB2355・2520を
切ることから9世紀中頃~後半とみられる。また,東に8度振るSB386は梁行2間×桁行3間
規模の小型建物であり,10世紀代であろう

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【中央地区】

次に,建物の重複関係を加味して柱掘方・柱穴からの出土遺物をみていくと,SA2895から
は口縁部内面に身受けのかえりを有する須恵器坏蓋と坏が出土しているが,かえりが退化して
いることから7世紀末であろう。

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【南地区】

 次に,建物の重複関係を加味しながら柱掘方・柱穴からの出土遺物をみていくと,SB3832か
らは口縁部内面に身受けのかえりを有する須恵器坏蓋と坏が出土しているが,かえりがしっか
りしていることから7世紀後半とみられる。

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〔7世紀後半~8世紀初頭〕
 大宰府政庁Ⅰ期に該当し,不丁地区官衙の萌芽期である。北区域の北東端に梁行3間の南北
棟建物SB2540とその南に柵SA2513が配され,中央区の南側に東からSA2895,SB2885・
4035A・4030が東西に配列する。また,SB4030の約37m南に総柱倉庫SB3832が位置する。
この段階では,不丁地区を南北に区切る遮蔽施設は設置されていないものの,北端のSB2540
から南側のSB2885までは約99mの距離を有することから一連の施設とはみなし難い。ただ,
次期の建物配列,空間利用等を見越して建物を配列した可能性は十分考えられる。

〔8世紀前半~末〕
 大宰府政庁Ⅱ期(8世紀前半~ 10世紀中頃)の前半部分に該当する時期で,全域に建物が
展開する。8世紀前半には,中央区に建物が進出し,南北棟建物SB2400・2445及び東西棟
建物SB2435とでL字形配列を構成する。8世紀中頃にはL字形配列の内側(北西側)に
SB2405・2425・2430の3棟がコ字形に配される。また,北区においては南北棟建物
SB2530と東西棟建物SB2360,総柱倉庫SB2370がL字形に配される。
 8世紀後半~末にはコ字形配列の跡地に四面廂建物SB2420を中心とする一群(SB2395・
2415・4035B)が占地し,東西棟建物SB2380AとでL字形配列を構成する。この四面廂建
物が占地する一画は,8世紀代において不丁地区官衙の中枢部をなす。南地区においては,築
地塀とみられる区画施設SX4050によって北側の中央区域と画され,建物は区域内において散
在的に配され,北側とは異なる様相をみせる
〔9世紀前半~ 10世紀中頃〕
 大宰府政庁Ⅱ期の後半部分に該当する時期で,板塀とみられるSA2451によって不丁地区が南北
に分断され,北・中央・南の3区域を構成する。9世紀前半においては,前面広場と不丁地区を画
していた南北溝SD2340の廃絶に伴い,門建物SB2388に接続する板塀で遮蔽していたとみられる。
北区域では礎石建物SB370を中心にその南東に妻廂建物SB2355,南西に東西棟建物SB2365が
逆T字形に配列する。中央区域では区域の北側にSB2380B,SB2410が左右に配される。これら
の建物がいつの時期まで存続したかは明らかではないが,SB2355は9世紀中頃までの存続とみら
れる。礎石建物の存続時期も定かではないが,10世紀前半に開鑿される南側の東西溝SD2350の
東側には出入り口があり,両者が関連するとすればこの頃まで存在していた可能性がある。
 当該期には南区域に南北棟建物SB3715・4577が南北に配されるが,中央区には建物がみ
られず空白地帯となる。その後,不丁地区においては官衙建物は終焉し,藤原純友の乱後に築
造されたとみられる小型建物SB2902・4046・4047・4048が井戸を伴い中央区域の南側に
現れる。穿った見方をすると,大宰府政庁(Ⅲ期)の再建に関連する施設とみられる。この建
物を以て不丁地区の建物は消滅へと至る。

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いろいろ勉強になりました。(疲)

2022年1月11日 (火)

東偏2~3度の建物からの出土物

東偏2度・・・SB2383・・・・・・・

       SB2415(片廂)・・・

東偏2度30分・・・SB2395・・・・

          SB2400・・・・

          SB2420・・・・

          SB2535・・・・

          SB3815・・・・

          SB4070・・・・

          SB4561・・・・             

東偏3度・・・SB2515・・・・・・・

       SB4577(片廂)・・・

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遺構編には出土物の記載がなく,遺物編には土師器・須恵器などの土器片の記述はあるが,

残念ながら年代の記述はなかった。

広丸地区の報告書には「8世紀」(〈方位の考古学〉によれば「7世紀」)などと書かれているのだが,

不丁地区の報告書に見つかりませんた。(実は,後半に出ていました。疲)

 

太宰府・不丁地区の建物の方位

不丁地区からは64棟の建物が出土しているそうです。

そのうち,礎石建物はわずか1棟(SB370)だそうです。

瓦ぶき=礎石建物ではないのですね。

大型~ほぼ正方位,小型~東偏5度とありましたが・・・

文章に出て来るものはあまりないような気がします。

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正方位・ほぼ正方位~〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇(二面廂)

東偏30分~〇

東偏1度~〇〇〇

東偏1度30分~

東偏2度~〇〇(片廂)

東偏2度30分~〇〇〇〇〇〇〇

東偏3度~〇〇〇(片廂)

東偏3度30分~〇〇

東偏4度~〇

それ以上~〇〇〇(E8,E30,E30)

その他(西偏など)~〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇

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正方位に「二面廂」が,東偏2度30分前後で山がある(数も多く,廂付き)ことから,

少なくともその方位にするようにとの政府の指示があったように思います。

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2022年1月 9日 (日)

貼り付け図

今の黒板は鉄板でできていることが多い。

磁石で貼り付けることができる。

こんな「貼り付け図」を作ってみた。

もう何枚か作って,サークル等で話すときの小道具にしたい。

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1992年,授業プラン〈「邪馬台国」はどこだ!〉

・・・

2012年,古代日本ハイウェーは九州王朝が作った軍用道路か?

2016年,多元的「国分寺」研究

2020年,〈方位の考古学〉(土器編年の修正)

2022年,太宰府(下層)

太宰府で出土した軒丸瓦・軒平瓦の数

太宰府で出土した軒丸瓦・軒平瓦の数が地区ごとに出ていた。

これをグラフ化してみよう。〇・・・100点

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政庁跡・・・1733点・・・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇

政庁前広場・・・196点・・・〇〇

日吉・・・57点・・・〇

不丁・・・597点・・・〇〇〇〇〇〇

大楠・・・75点・・・〇

広丸・・・12点・・・(〇で表せないほど少ない)

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政庁とその近辺だけという感じです。

やはり「瓦ぶき」というのは「礎石」も必要になるし,大変なことなのですね。

ちなみに,軒平瓦も載せておくと,当然ではあるがほぼ同じ割合でした。

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政庁跡・・・1688点・・・〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇 〇〇〇〇〇〇〇

政庁前広場・・・194点・・・〇〇

日吉・・・30点・・・(〇にならない)

不丁・・・711点・・・〇〇〇〇〇〇〇

大楠・・・63点・・・〇

広丸・・・5点・・・(〇で表せないほど少ない)

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1641686544066

広丸地区で出土した軒丸瓦。単弁?素弁?

2022年1月 8日 (土)

授業プラン〈「邪馬台国」はどこだ!〉を30部綴じる

上記の授業プランを30部綴じた。(まだたくさん印刷してあります)

今年は作成30周年の年なので,サークル等で再紹介するためである。

出雲の2遺跡の発掘の成果を受けて,その後小修正したもので,

最後にこれまでの発掘の成果を特集した資料を付けて綴じた。

連絡いただければ,実費でお分けします。

峯岸さんによってだいぶ前に,プリント打ち直しをしていただきました。

改めてお礼申し上げます。

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広丸地区遺構図の色塗り

昨日の広丸遺構図の色塗りをしてみた。

建物・・・ピンク

柵・・・オレンジ

側溝・溝など・・・水色

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まず,出土物の検討から「〇世紀のものが中心である」などと書いてあり,

それも記入していった。(「8世紀中心」=〈方位の考古学〉によれば「7世紀中心」のものが多かった)

さらに報告書には「北に〇度東に振れている」などと書いてあり,

それも記入しながら色塗りしていった。(3度東偏と2度東偏のものが多かった。

5度東偏はまったくなく,太宰府の中心線分の1~2度をプラスしてやる必要があるか)

1つずつ記入していく作業を通して,少しずつ太宰府の歴史に近づいていきたいと思う。

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今回の色塗り

1641607644967

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以前に悉皆調査でやった図(西側が広丸地区,東側が大楠地区)

Photo_20190731090901

太宰府の「方位の変化」

2022年1月 7日 (金)

「広丸地区遺構編」の大地図

九州歴史資料館に注文していた2冊の発掘報告書が昨日届いた。

「広丸地区遺構編」と「同遺物編」だ。

インターネットでも見られるのだが,目が疲れるので注文することにした。

お金は掛かっても,その方がすぐ開いて見られる。

川瀬さんに教えていただいた遺構編P53の図をさらに拡大した

「付図」も巻末に付いていた。

「東に〇度振れている」などの方位情報も少なくない。

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1641513252808

「遺構編」と「遺物編」

1641512356642

縦60cm×横90cm

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