2017年4月20日 (木)

『道路の日本史』

武部健一著,中公文庫,860円+税の
上記の本を入手した。

P4160270

「奈良時代になると幅12mの真っ直ぐな道が全国に張りめぐらされ」という辺りだけでも,
氏と私の歴史認識は違うのであるが,私を「古代官道」に導いてくれた人の最後の本ということで
購入することにした。

歴史認識が違うと書いたが,九州内の古代官道は他の地域のものとは違うという認識はあったようで,
一元史観とはいえ,やはり「日本古代ハイウェー」の先達だったことに変わりはない。

私は武部さんも出演されたNHKテレビの「日本古代ハイウェー~
1300年前の列島改造」という番組に刺激されて,
「日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を書いた。

日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?(「古田史学会報」2012年2月号)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2011/12/post-aa30.html

なお,東の上遺跡のカラー写真入りの帯が付いているのは,初版本だけらしい。
ラッキーにも私はそれを入手することができた。(o^-^o)

2017年4月14日 (金)

「洛中洛外日記」第1369話の転載

古賀達也の洛中洛外日記
第1369話 2017/04/12
武部健一著『道路の日本史』を読む

 武部健一著『道路の日本史』(中公新書、2015年)を読んでいます。
以前から書店で目にしていて、気になっていた一冊でしたので、今日、思い切って購入しました。
 著者の武部さん(1925-2015)は日本道路公団に勤務され、
高速道路の建設に従事されていたと紹介されています。
同書の出版は2015年5月25日で、著者が亡くなられたのが同年5月ということですから、
著者最後の一冊のようです。
同書で「交通図書賞」「土木学会出版文化賞」を受賞されたとありますので、
もしかすると物故後の受賞なのかもしれません。
著者の人生の集大成ともいうべき渾身の一冊ではないでしょうか。
 まだ読了していませんが、次の箇所が気になっています。
多元的古代官道研究を進める上でヒントになりそうです。

 「図に見るように、都の位置は京都の平安京である。
各道には、都からそれぞれ駅路が一本ずつ樹状につながった。
西海道だけは別で、大宰府を中心にネットワークを形成していた。」
 「西海道は特にネットワーク性が強く、一カ所が不通になっても
他の経路を使って迂回することが可能なように組まれていた。
当時の国家が外敵の侵入に備えて、不時の場合でも対処できるように
計画したものと推察される。」(45~46頁)

 こうした指摘は、九州王朝の存在を裏付けるように思われました。
 また、「古代道路は幅12メートルの直線路」という指摘もされており、
これなどは当時の「尺」単位が約30cmの「北朝系」であったことを指示しているのではないでしょうか。
それですと12m÷0.3m=40尺の道路となりますが、
「南朝系」の1尺約25cmでは、幅48尺道路となり、中途半端な数字です。
もし、幅12mの古代官道が九州王朝によるものであれば、
「北朝系」尺の採用を開始したと考えられる7世紀初頭以降ということになりそうですが、
今後の研究課題です。

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私を古代道の世界に導いて下さった武部健一さん。
(NHKの番組を観て,「日本古代ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」を書いた)
その武部さんの「最後の一冊」なら,当然読んでおかなければならない。
武部さんと生前お話しできていたら,とても馬が合ったと思っている。
なぜ12m幅なのかも,理由ができた。

PS 早速アマゾンで注文した。

2017年4月11日 (火)

仮説:九州王朝は魏尺(正始弩尺)を使っていた ―太宰府正殿も魏尺(正始弩尺)だった―(山田さん)

また山田さんが論文を寄せられました。
掲載させていただくことにします。

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これは仮説です。
使ったデータは『法隆寺のものさし―隠された王朝交代の謎―』(川端俊一郎著、ミネルヴァ書房、
2004年2月25日初版)のP.51に掲載されている
「図1-9 太宰府礎石配置実測図」(鏡山猛『大宰府都城の研究』曲尺)によりました。

この図を掲載する代わりに次のようして図と同じものを復元できるようにします。
この大宰府正殿は桁行7間、梁行4間です。この図には方位マークがないのですが、
一応北を上にして描かれているものとします。
礎石を特定しやすくするために、次のように表示します。
北西隅の礎石を(1,1)として表し、その直近東にある礎石を(1,2)、(1,1)の直近南にある礎石を
(2,1)と表します。
東南隅の礎石は(8,5)となります。(行,列)です。
礎石が無い位置も(行,列)を振ってあります。
「(礎石無)」と表示してあるのは、礎石が失われたのではなく、もともと無い礎石です。

実測図にある寸法は次の通りでした。()と()の間にあるのが曲尺による礎石間距離です。
「無」と表示されている間にある礎石は「(復元位置)」と書かれている礎石です。
礎石下の数値が直近南にある礎石までの距離です。

                             ↓この列(第8列)は復元位置    
(1,1)無(1,2)無(1,3)14.55(1,4)14.54(1,5)14.73(1,6)14.71(1,7)無(1,8)
10.85 10.66 10.59 10.66 10.82 10.70
(2,1)10.80(2,2)14.60(2,3)14.42(2,4)14.58(2,5)14.50(2,6)14.48(2,7)無(2,8)
10.76 10.80
(3,1)無(3,2) (礎石無) (礎石無) (礎石無) (礎石無) (3,7)無(3,8)
10.72 10.70
(4,1)10.63(4,2)14.68(4,3)14.27(4,4)14.60(4,5)14.60(4,6)14.42(4,7)無(4,8)
10.67
(5,1)(5,2)(5,3)(5,4)(5,5)(5,6)(5,7)(5,8)←この列(第5行)は復元位置

「営造方式」によれば、この建物は左右の梢間が狭いので本体は桁行5間梁行4間で
両脇に副階を持つ殿堂式建物であるようです。
また、中央の柱間距離は他と比べるとわずかではありますが広いようです。


寸法は次の26個が記載されていました。
番号 曲尺  メートル換算値
① 14.55 4.4091m
② 14.54 4.4061
③ 14.73 4.4636
④ 14.71 4.4576
⑤ 10.80 3.2727
⑥ 14.60 4.4242
⑦ 14.42 4.3697
⑧ 14.58 4.4182
⑨ 14.50 4.3939
⑩ 14.48 4.3879
⑪ 10.63 3.2212
⑫ 14.68 4.4485
⑬ 14.27 4.3242
⑭ 14.60 4.4242
⑮ 14.69 4.4515
⑯ 14.42 4.3697
⑰ 10.70 3.2424
⑱ 10.80 3.2727
⑲ 10.70 3.2424
⑳ 10.67 3.2333
㉑ 10.82 3.2788
㉒ 10.66 3.2303
㉓ 10.59 3.2091
㉔ 10.66 3.2303
㉕ 10.76 3.2606
㉖ 10.72 3.2485

これを「商骨尺」17.000、黄鍾笛管長17.650、「周剣尺」18.820、「周鎮圭尺」19.670、「黄鍾律管尺」21.778、
“黄鐘尺” 19.611(黄鍾笛管長×10/9)、戦国尺23.000、前漢尺23.300、後漢尺(晋前尺)23.090、
「魏杜虁(とき)尺」24.175、 魏尺(正始弩尺)24.300、晋後尺24.500、「宋氏尺」24.568、唐小尺24.690、
梁尺29.500、唐尺(天平尺)29.630で除算してみました。
これらの「ものさし(尺度)」の単位はcmです。

これでは有意な数字は出てきませんでした。
そこで、「前期難波宮」の内裏前殿の検討において、
魏正始弩尺24.300cm×1.2=29.16cmが基準寸法となっていたことから、
準完数(1.1、1.2、…など)を用いて割り算をしてみることにしました。
これでも有意な相関関係は発見できませんでした。困ったあげく、
被除算數のほうを準完数(1.1、1.2、…など)で乗じたものを尺度で割ってみることにしました。
苦し紛れです。
すると、なんと、最初に行った1.1倍において、これ以上はないという相関関係があった尺度が見つかりました。
これが魏尺(正始弩尺)24.300cmでした。

この魏尺(正始弩尺)24.300cmと相関関係があったのは次のデータでした
⑧14.58曲尺=14.58尺×10/33=4.418181818181818181818181818…m

⑧の1.1倍は次の値になります。
14.58曲尺×10/33×11/10=14.58尺×11/33=14.58尺×1/3=4.86m=486cm
これを魏尺(正始弩尺)24.300cmで割ります。
486cm÷24.300cm=20.00000000000000000000000000…

何故ゆえにこのような関係があるのかは不明ですが、次の相関関係は偶然とは考えられません。
⑧(14.58・曲尺×10/33・m/曲尺×11/10)/魏尺(正始弩尺)24.300cm=20
(⑧14.58・曲尺×1/3・m/曲尺=4.86m=20×魏尺(正始弩尺)24.300cm)
このことから⑧の数値が最も信頼できるものと考えられました。
また、曲尺で考えると、14.58曲尺の1/60つまり0.729曲尺を単位寸法としているわけです。
0.729曲尺=0.729曲尺×10/33・m/曲尺=0.729×10/33・m=0.22090909090909…m

そこで0.729曲尺で各柱間距離を除算してみたら次の通りでした。

番号 曲尺  ㍍換算値 0.725曲尺で除算
① 14.55 4.4091m 19.95884774
② 14.54 4.4061  19.94513032
③ 14.73 4.4636  20.20576132
④ 14.71 4.4576  20.17832647
⑤ 10.80 3.2727  14.81481481
⑥ 14.60 4.4242  20.02743484
⑦ 14.42 4.3697  19.78052126
⑧ 14.58 4.4182  20.00000000
⑨ 14.50 4.3939  19.89026063
⑩ 14.48 4.3879  19.86282579
⑪ 10.63 3.2212  14.58161866
⑫ 14.68 4.4485  20.13717421
⑬ 14.27 4.3242  19.57475995
⑭ 14.60 4.4242  20.02743484
⑮ 14.69 4.4515  20.15089163
⑯ 14.42 4.3697  19.78052126
⑰ 10.70 3.2424  14.6776406
⑱ 10.80 3.2727  14.81481481
⑲ 10.70 3.2424  14.6776406
⑳ 10.67 3.2333  14.63648834
㉑ 10.82 3.2788  14.84224966
㉒ 10.66 3.2303  14.62277092
㉓ 10.59 3.2091  14.52674897
㉔ 10.66 3.2303  14.62277092
㉕ 10.76 3.2606  14.75994513
㉖ 10.72 3.2485  14.70507545

ご覧のように⑧だけは20という完数が出ていますが、他はどれひとつそれらしい数字が出ていないのです。
これは何かおかしい。
きっと⑧は少しだけ大きい端数のついたものではないか、と考えました。
これは「前期難波宮」内裏前殿の中央柱間距離は0.5という端数がついていたことからも
あり得るとの確信がありました。
しかし、X+0.5(0.5とは限りませんが)のような数値であったとしても、
この完数Xが幾つであるのかは全く予想がつきません。
しかし「前期難波宮」内裏前殿の経験がありましたので、1.1倍がいけなかったのではないかと思いました。
そこで1.2を入れてみたところ、次のように⑰と⑲の10.70曲尺に1.60120という数値が出現しました。
これは二か所にある数値ということと1.60120という数値から、
この⑰と⑲の10.70という数値も信頼できるものであると考えられました。

① 14.55 2.17733
② 14.54 2.17583
③ 14.73 2.20426
④ 14.71 2.20127
⑤ 10.80 1.61616
⑥ 14.60 2.18481
⑦ 14.42 2.15788
⑧ 14.58 2.18182
⑨ 14.50 2.16985
⑩ 14.48 2.16685
⑪ 10.63 1.59072
⑫ 14.68 2.19678
⑬ 14.27 2.13543
⑭ 14.60 2.18481
⑮ 14.69 2.19828
⑯ 14.42 2.15788
⑰ 10.70 1.60120
⑱ 10.80 1.61616
⑲ 10.70 1.60120
⑳ 10.67 1.59671
㉑ 10.82 1.61915
㉒ 10.66 1.59521
㉓ 10.59 1.58474
㉔ 10.66 1.59521
㉕ 10.76 1.61018
㉖ 10.72 1.60419


10.70曲尺×10/33・m/曲尺=3.242424242424…mですから、
魏尺(正始弩尺)24.300cmで除算してみると、13.3433096395…となり全然だめです。
もう、試行錯誤しかありません。
あきらめずにやっていると8.25倍のとき次の数値が出現しました。
⑧14.58 1.50000、⑰と⑲の10.70 1.10082です。
もともと信頼できるとした⑧、⑰⑲にこの1.50000と1.10082が出たのですから、偶然であるわけがありません。
8.25倍ということは82.5倍にすれば、15と11という完数になるわけですから、
正始弩尺を82.5で割った目盛りが使われていると考えられるわけです。
とても半端な数値なのですが⑧の数値を魏尺(正始弩尺)の相関関係から導かれて行きついたところなので
しかたありません。
もっと簡単な説明ができれば良いのですが。

① 14.55 1.49691
② 14.54 1.49588
③ 14.73 1.51543
④ 14.71 1.51337
⑤ 10.80 1.11111
⑥ 14.60 1.50206
⑦ 14.42 1.48354
⑧ 14.58 1.50000
⑨ 14.50 1.49177
⑩ 14.48 1.48971
⑪ 10.63 1.09362
⑫ 14.68 1.51029
⑬ 14.27 1.46811
⑭ 14.60 1.50206
⑮ 14.69 1.51132
⑯ 14.42 1.48354
⑰ 10.70 1.10082
⑱ 10.80 1.11111
⑲ 10.70 1.10082
⑳ 10.67 1.09774
㉑ 10.82 1.11317
㉒ 10.66 1.09671
㉓ 10.59 1.08951
㉔ 10.66 1.09671
㉕ 10.76 1.10700
㉖ 10.72 1.10288

ともかく、中央柱間距離②⑧⑭を15単位としたとき梁柱間距離⑰~㉖は
11単位とすると整合することは確かなのです。
これ以外には考えることができません。
そして一番信頼できる⑧14.58曲尺の1/15が基準単位となっていると考えるしかありません。
つまり14.58曲尺÷15=0.972曲尺これが基準単位です。29.454545454545454…cmです。
梁尺29.5には近いのですが梁尺では整合した値はでませんでした。複雑な過程でたどり着きましたが、
魏尺(正始弩尺)24.300cmでなければ整合した値はでないのです。
ただ、私が知らない梁尺より若干短い29.455cm前後のものさしがあるということも
可能性として考えることはできます。
しかし、私の知っている限りないということで先に進みます。
あれば教えていただければありがたいです。

さて、副階と思える左右の梢間距離は一番短いので11単位(梁柱間距離と等しい)と思われます。
11単位から15単位までの次の数値が使われているのではないかと予想されます。

(A)11単位 10.692
(B)12単位 11.664
(C)13単位 12.636
(D)14単位 13.608
(E)15単位 14.58

ところが、残念ながらこれでは(A)と(E)しか登場しません。
目盛りはもっと細かかったのです。
不要なものを除き、14単位から15単位の間に値を入れてやり直します。

(A)11単位 10.692
(B)14    13.608
(C)14.8   14.3856
(D)14.9  14.4828
(E)15.0   14.58

ありました。(D)です。⑩14.48が該当します。

ということで、大変ながらくお待たせいたしました。
太宰府正殿礎石配置の魏尺(正始弩尺)による復元です。
桁行7間のうち両端は副階です。単位は曲尺です。

桁行7間:10.629+14.4828+14.4828+14.58+14.4828+14.4828+10.629=93.7692
梁行4間:10.629+10.629+10.629+10.629=42.516

参考としてメートル法(単位:m)による換算もかかげておきますが、端数を処理しています。
桁行7間:3.221+4.389+4.389+4.418++4.389+4.389+3.221=28.416
梁行4間:3.221+3.221+3.221+3.221=12.884

本稿は、鏡山猛『大宰府都城の研究』にある太宰府正殿礎石配置実測図によって
礎石配置の復元を試みたものです。
複雑な計算過程でしたが、用いられた尺度は魏尺(「正始弩尺」)24.300cmと認められましたので、
復元はこの南朝尺によっています。
ご批判をお待ちしております。

『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』

午後は,神保町の古本屋街を散策。
『古代武蔵の国府・国分寺を掘る』という本を入手した。

P4110211

P4110212

これは直に多元的「国分寺」研究に役立つ本とは言い難いが,
「通説ではどういう理解がされてきたのか」を知るにはいい本かもしれない。
かつて京所廃寺が国分寺の尼寺であるという説もあったそううだ。
今の国分尼寺の位置が確定できず,また「僧寺と近過ぎる」というという理由で否定されていたとのこと。
住宅街の進出や国分寺四中建設問題など,開発と発掘に揺れる様子がよくわかる。
2400円の本が半額で買えたのはラッキーだった。


2017年4月 9日 (日)

「前期難波宮」の内裏前殿は南朝尺で造られていた ―「前期難波宮」内裏前殿に使用された魏尺(正始弩尺)―(山田さん)

山田さんより,以下の論文の掲載希望がありました。
掲載させていただきます。

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「肥さんの夢ブログ(中社)」だったと記憶していますが(記憶違いかも)、
「前期難波宮の内裏前殿は「魏正始弩尺(せいしどじゃく、24.3㎝)」でつくられていた」という内容を発表したあと、
James Macさんから「魏杜虁尺(ときじゃく、24.175㎝)」をご教示いただきました。
どちらも「魏尺」ですが、「正始弩尺」と「杜虁尺」の値が極めて近いので、
発表した「正始弩尺」だという結論は早計であったと考え、
どちらであるかという結論は留保させていただきました。
その後検討した結果、結論として「やはり正始弩尺であった」ことを報告いたします。

前回の発表をご存知ない方もいらっしゃると思いますので、前回の発表と重複しますが、
最初から説明をさせていただきます。

大阪城の南西に「大阪歴史博物館」(通称「歴博」)があります。
その「歴博」の南東に「難波宮跡公園」があり、そこにある遺跡が「前期難波宮」と呼ばれる宮城遺跡です。
その遺跡が二期あることから「前期難波宮」と「後期難波宮」と呼んで区別されています。

「前期難波宮」は、東西・南北ともに六五〇メートルもあるそれまでにない大規模な王宮で
(もっと広いという説もある)、朝堂院とよばれる朝議をおこなう建物をもち、
重要な儀式などで天子が出御する王宮の正殿にあたる内裏前殿という中心舞台をもっていました。


この遺跡がなぜ重要かと言いますと、九州王朝説が説明しきれていない、
というよりはこの事実を突きつけられるとグウの音もでないという三つの事実のうちの一つとなっています。
古賀達也氏が指摘されている「九州王朝説に刺さった三本の矢」、その一つなのです。

【九州王朝説に刺さった三本の矢】(古賀達也氏の指摘)
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は
北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく
大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

この《三の矢》です。7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく
大阪市の前期難波宮(最古の朝堂院様式の宮殿)である、この事実です。
この《三の矢》を抜くことができる仮説が古賀達也氏の「前期難波宮九州王朝副都説」です。
この仮説が成り立たないと「九州王朝説」は「九州豪族説」にならざるを得ないのです。
九州王朝説にとって「致命的(fatal、死に至る)」となる可能性(危険性)がある遺跡なのです。
これを認めない方がいるとは思いますが、そんな“自己欺瞞”は世の中では通用しません。
“原発村”、“一元史観村”ならぬ“古田史学村”など作ってはなりません。

従来説(一元史観)では、この「前期難波宮」を『日本書紀』の孝徳天皇の遷都記事によって
「難波長柄豊碕」に充てているようです。次が『日本書紀』の原文です
(岩波古典文学大系68『日本書紀 下』、大化元年(六四五)十二月癸卯〔九日〕条)。

冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豊碕。老人等相謂之曰、自春至夏、鼠向難波、遷都之兆也。

六四五年は「近江朝」以前、「白江戦(白村江の戦い、六六三年)」以前です。
日本国の最初の遣唐使(正しくは「遣周使」)は七〇二年です。
また、隋(五八一~六一八)の滅んだ後ですから、
従来説によれば「前期難波宮」造営に用いられた「ものさし(尺度)」は、
唐のものである可能性はないとは言えませんが、
基本的には隋以前の「ものさし(尺度)」が用いられたと考えるべきでしょう。

「前期難波宮」の造営に用いられた「ものさし(尺度)」が唐のものではないとなれば、
この宮城遺跡がヤマト王権のものではない可能性が高くなりますので、
九州王朝説にとって「致命的」とはなりません。

今回の結論「魏尺(正始弩尺)が造営に用いられた」ということは「南朝尺」が用いられたということです。
また、「前期難波宮」が北に王宮を置く「北闕型」であること「大興城」と同じ様式で
「北朝式」であると考えます(王宮を中央に置く「周礼型」が南朝式)。
「南朝尺」と「北闕型(北朝式)」ということになると、
南朝を滅ぼして統一した隋の時代に現れる「折衷文化」と考えられますが、
隋の時代のものであるとの判断は早計と思いますので、時代の比定は後の研究に委ねます。

では、検証される方の為に「魏尺(正始弩尺)」という結論にいたった過程を説明します。

検討に使用した礎石配置図は、『東アジアに開かれた王宮 難波宮』(積山 洋 著、シリーズ
「遺跡を学ぶ」095、2014年8月14日、第1版第1刷)という書籍のP.36にある
「図21・内裏前殿」の礎石配置図です。
著者は大阪歴博企画広報課長代理、同学芸課長代理をへて2014年に退職された方です。
この著作に掲載されている図は発掘調査報告書から転載されたものと考えてこれを使用しています。
発掘調査報告書のデータではないと思われる方は、発掘調査報告書のデータを使用して、
私と同じ方法でご確認ください。同じ結論に至るはずだと思います。

現存する「ものさし(尺度)」として使用したのは次の尺度のです。単位はcmです。
商尺17.000、黄鐘笛管長17.650、“黄鐘尺(黄鐘笛管長の10/9)” 19.611、戦国尺23.000、
前漢尺23.300、後漢尺(「晋前尺」)23.090、「魏・杜虁尺」24.175、「魏・正始弩尺」24.300、
「晋後尺(元帝以後)」24.500、「宋氏尺」24.568、唐小尺24.690、梁尺29.500、唐尺(天平尺)29.630。
なお、「ものさし」が現存しない創造古代尺(“高麗尺”、“古韓尺”、“奈良尺”)は使用していません
(使うつもりもありません)。

私が用いた「仮説」は次のものです。
「わが国では、中国王朝が制定したものさし(尺度)を用いていた。」
仮説に根拠はいりません。事実に反していなければよいのです
(科学者や数学者で「排中律」や「ペアノの選択公理」や「連続体仮説」の根拠を示せという者はおりません)。
私が創造古代尺(“高麗尺”、“古韓尺”、“奈良尺”)を検討に用いないのは
この「仮説」を採用しているからです。
創造古代尺を用いる方々はこの「仮説」の否定形を「仮説」として採用していると思われます
(事実に反しているのに)。

私が検討した手順は次の通りです。
1.内裏前殿の礎石配置図の礎石間距離を採寸して、現存する「ものさし」の長さで割り算をして
完数(整数値)に近い値がでたものを、用いられた「ものさし(尺度)」の候補のめぼしをたてた
(参考を超えない)。前回はここで結論を急いで出してしまった。
2.採寸した礎石間距離の“実測値”(図の採寸の値をスケールで換算した推定値のことで
遺跡の実測値ではありません)同士の割り算をして、“実測値(推定)”間における相関関係を調べ、
強い相関関係が見られたものを信頼できる“実測値(推定)”とみなした。
また、強い相関関係が見られたもの同士の「相関関係」の内容から、用いられた基準単位を想定した。
3.前回で「魏尺(正始弩尺)」の1.2倍という基準単位が検出されているので、2.で検出された基準単位を1.の
段階で候補とした「ものさし」の1.2倍で割り算をして、完数(整数値)が得られるかどうか確かめた。
以上の手順によって「正始弩尺」が最も適合することが判明したわけです。

上記の手順に従って行ったことは次の通りです。

1-1.書籍の図を300%の拡大率でコピーした。

1-2.100円ショップのモノサシ(非JIS認定)でコピーを採寸した結果は次の通りです。
単位はmmです。
東辺(北から):25.75+25.25+25.5+25.5+25.5=127.25
西辺(北から):25.25+25.5+25.5+25.75+25.5=127.5
南辺(西から):25.5+25.5+27.25+29.25+30.25+29.25+27.25+25.5+25.5=245.75
北辺(西から):25.5+25.75+27.0+29.25+30.25+29.25+27.5+25.25+25.0=245.5

この最頻値などから南辺の礎石が正しい数値を示していると考えられました。
つまり、使用されている柱間距離は次の①~④の四つであると推定しました。

①25.5mm、
②27.5mm、
③29.25mm、
④30.25mm、
⑤桁行9間:245.75mm、
⑥梁行5間:127.5mm。

さらに、礎石がない東北隅は、東に0.25mm、北に0.25mm移動した位置にとるべきではないか、
このために北辺と東辺におかしな数値が現れているのではないかと考えられました。
この補正をすると次のようになります。

桁行9間:25.5+25.5+27.25+29.25+30.25+29.25+27.25+25.5+25.5=245.75
梁行5間:25.5+25.25+25.5+25.5+25.5=127.5

1-3.図にあるスケールは300%拡大では20mが134.5mmでしたので、1mは6.725mmとなります。
これで①~⑥を換算した“実測値(推定)”は次の通りです。

①25.5mm=3.7918215613…m
②27.5mm=4.0892193309…m
③29.25mm=4.3494423793…m
④30.25mm=4.4981412639…m
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m。

なお、補正した数値0.25mm=0.031747211…mですので、
東北隅の礎石位置はあと東と北に約3.175cmづつ、
つまり3.175cm×√2だけ東北にずらして想定する方が良いのです。

1-4.これらの“実測値(推定)”同士を割り算して得た強い相関関係が認められたのは次の通りです。
①25.5mm=3.7918215613…m➡該当なし。
②27.5mm=4.0892193309…m➡「魏・杜虁尺」24.175の16.951倍。
③29.25mm=4.3494423793…m➡「魏・杜虁尺」24.175の17.991倍。

④30.25mm=4.4981412639…m➡「魏・正始弩尺」24.300の18.511倍。
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m➡黄鐘笛管長17.650の207.041倍。
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m➡「魏・正始弩尺」24.300の78.021倍。

以上から、魏の「杜虁尺」24.175cmと「正始弩尺」24.300cmの二つの「ものさし(尺度)」が
候補として浮かび上がりました。
ここまでが、「杜虁尺」24.175cmを知らず、早計に「正始弩尺」24.300cmとして結論して撤回したという
前回の経緯でした。

今回は次の検討を行っています。
2.“実測値(推定)”同士の割り算をして、強い相関関係が見られたものは
次の二つの“実測値(推定)”でした。
②27.5mm=4.0892193309…m➡「魏・杜虁尺」24.175の16.951倍。
④30.25mm=4.4981412639…m➡「魏・正始弩尺」24.300の18.511倍。
これが、②×1.1=④という関係にあります。この関係から、つぎのことが考えられます。
(1)②と④は信頼できる数値である可能性が高い。
(2)④-②=(1.1×②)-②=0.1×②=40.892193309cmが単位寸法またはその何倍かの可能性が高い。

3.前掲著書で「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている」とされているのは、
「魏正始弩尺24.3cmの1.2倍=29.16cmということを見落としたもの」ということが前回にわかっていたので、
この0.1×②=40.892193309cmを、「杜虁尺」24.175cm×1.2=29.01cmと
「正始弩尺」24.300×1.2=29.16cmで割ってみたら、次の通りでした。
「杜虁尺」:40.892193309cm÷29.01cm=1.409589566…
「正始弩尺」:40.892193309cm÷29.16cm=1.4023385908…
以上から「正始弩尺」の方がより1.4倍により近いということから「正始弩尺」と結論しました。
ただ、40.892193309cmを1.4で割った29.208709506cmという数値1.1や1.2とかの準完数で
除してでる長さの尺度を知らなかったという可能性は否定できない
(「杜虁尺」のように)ので、その可能性も残されているということは付言しておきたいと思います。

「正始弩尺」であるとして復元すると次の数値となります。
基準寸法:「正始弩尺」の1.2倍の29.16cm、これを1単位とすると次のようになります。
①25.5mm=3.7918215613…m➡13単位=3.7908m
②27.5mm=4.0892193309…m➡14単位=4.0824m

③29.25mm=4.3494423793…m➡15単位=4.374m
④30.25mm=4.4981412639…m➡15.5単位=4.5198m
⑤桁行9間:245.75mm=36.54270929…m➡125.5単位=36.5958m
⑥梁行5間:127.5mm=18.959107807…m➡65単位=18.954m

以上から、著書にある桁行と梁行は次の数値が詳しいものとなります。
桁行9間(36.6m)➡桁行9間(36.5958m)
梁行5間(18.8m)➡梁行5間(18.954m)

以上によって、前掲著書で「一尺=二九・二センチ前後の唐大尺が採用されている」とされているのは、
「魏正始弩尺24.3cmの1.2倍=29.16cmということを見落としたもの」であり、
「一尺=二九・二センチ前後の基準寸法は南朝尺(魏正始弩尺)の1.2倍が採用されている」
と訂正されるべきと考えられます。
また、1.2倍というのは六寸を一単位としてその2.4倍を採用したとも考えることもできて、
そう考えると15.5単位とした箇所は31単位という完数となります。
この考えも捨てがたいところです。
いずれにせよ、内裏前殿の造営に用いられた「ものさし」は「魏・正始弩尺」であり
「唐大尺」ではなかったという結論は動かないものです。
「営造方式」が考慮されていないのは、いかなる等級の「材・分」を用いようとその木材を裁断するときには
「ものさし」を使用したはずであり、とすれば必ずその尺度(目盛り)は
遺跡のどこかに現れると信じているからです。
もし、「材・分」で証明できるのであれば、この内裏前殿の礎石で
その証明を示していただけば良いことだと思います。
私は別に「材・分」を否定しているのではありません。誤解のないようにお願いいたします。

「使用した史料が発掘報告書ではない」こと以外のご批判をお待ちしています。

2017年3月28日 (火)

「法隆寺は南朝系寺院」は誤りでした(山田さん)

山田さんのご希望で,以下の文章を掲載いたします。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

James Mac さんから頂いたご批判(ご指摘・ご教示)を受け、次にように述べた見解を撤回いたします。

>隋によって南朝が滅ぼされてしまったので隋・唐も中国王朝として扱われていますが、漢民族にすれば異民族王朝なのです。
つまり、北朝にすれば「漢式鏡」というのは南朝のものであり、北朝の伝統とは無関係なのです。
北朝がこの「方格規矩文様格子」を使うはずがないのです。
隋以降の時代、そしてわが国が隋や唐と親密な時代に、この漢式鏡の南朝の文様「方格規矩文様」が使われるはずがありません。
よって、この法隆寺金堂上重の高欄格子の文様は南朝の文様であり、法隆寺が南朝系寺院である証拠なのです。

上記を誤りとして撤回し、見解を次のように改めました。

多くの異民族は中国に入ると自ら漢文化に飲み込まれていく傾向があった。法隆寺金堂高欄格子が「方格規矩(TLV)文様」(漢式鏡の文様)で漢文化であったとしても、北朝の中でも南朝を滅ぼして統一した隋は漢文化には特に許容的であったので、北朝の影響が強くみられる法隆寺に漢文化(南朝系文化)がみられても不思議はない。よって「法隆寺が南朝系寺院である」とは断言できない。
さらに、James Mac さんの次のご教示は法隆寺の性格を的確に示唆されているものと思われます。

>この「TLV」模様が「南朝的」であったとするとある意味「隋代」という北朝として始めて南朝地域をその版図に収めた特殊な時代であることを背景として作られた・・・(中略)・・・「文化的折衷」というわけです。

このJames Mac さんのご教示によれば、法隆寺が南朝を滅ぼし統一した「隋代」の寺院である可能性が高いことになります。

「法隆寺が南朝系寺院である」という誤った見解が一人歩きしないように、特に肥さんにお願いして「肥さんの夢ブログ(中社)」に掲載していただくようにしたものです。なお、私がなぜ見解を改めたかのかが明確になるように、James Mac さんからいただいたご批判(ご指摘・ご教示)を項目式に私がまとめたものを掲げておきます。ご参考になれば幸いです。括弧〔〕内はすべて私の解釈や見解です。

①北朝の「北魏」は「親漢的」で「服飾制度」などを制度として取り入れ、氏名を「漢風」に変えさせるなど漢化施策を行っていた。

②「隋」は旧南朝地域を統一したが南朝の「尺貫法」を並列・継続したように「南朝」文化を全否定したわけではない。また、「仏教」は「煬帝」が南朝皇帝の弟の「天台智顗」に菩薩戒を受けるなど強く傾倒していた。

③「法隆寺」はその仏像形式、建築技法や瓦の文様及び焼成技法などの点で基本的には「北朝的」とされている。
 ③-a.「法隆寺」の瓦は、「南朝」式の「板付け技法」の「単弁紋瓦」と、「北朝」式の「紐巻付け技法」の「複弁紋瓦」とに分類される。
 ③-b.「北魏」の「洛陽城」遺跡から発見された「瓦」はその多くが「紐巻付け技法」の「複弁蓮華文瓦」である(「北朝」式)。
 ③-c.それに対し「四天王寺」や「若草伽藍(焼亡法隆寺)」(「夜半之後。災法隆寺。一屋無余。」『日本書紀』天智天皇九年(六七〇)四月癸卯朔壬申〔30日〕)にみられる「単弁蓮華文瓦」は、「百済」の影響が強いと云われている(『書紀』にも「百済から」人を招いたとある)。
〔『日本書紀』に百済から人を招いたとあるというのは、蘇我氏の「飛鳥寺」に関連する次の記事のこと(『』内の、「寺工」、「鑪盤博士」、「瓦博士」、「画工」。)です(『』は山田による)。〕
>崇峻天皇元年(五八八)是歳。百済国遣使并僧恵総。令斤。恵寔等。献仏舍利。百済国遣恩率首信。徳率益文。那率福富味身等、進調。并献仏舍利。僧聆照律師。令威。恵衆。恵宿。道厳。令開等。『寺工太良未太。文賈古子。鑪盤博士将徳白昧淳。瓦博士麻奈文奴。陽貴文・陵貴文。昔麻帝弥。画工白加。』
〔崇峻天皇元年(五八八)とされている年次(588年)は、「是歳」とだけあり、年干支が記載されていないので糊と鋏が使われた可能性が強く、疑ってかかる必要がある。記事を移動するのに年干支が邪魔だから。朔干支が記載されていない「是月」条も、同様に疑ってかかる必要がある。朔干支が邪魔なのである。〕
 ③-d.「百済」では「南朝」(特に「梁」)の影響を窺わせるものが多く出土している。〔独立した倭国とは違って百済は梁の冊封下にとどまった。大将軍の身分だし、(武寧王(斯麻王)が贖った)領土も(梁のおかげで)倭国から返還してもらったし。〕
 ③-e.「法隆寺」の「紐巻付け技法」の「複弁蓮華紋瓦」は、特徴が独特で他に類がなく「法隆寺式」と独立形式として呼称されている。〔「北魏」の「洛陽城」遺跡の「紐巻付け技法」「複弁蓮華文瓦」(「北朝」式)と同じ。〕
 ③-f.「同笵瓦」も確認されておらず「同型瓦」しかなく、それは「西日本」(特に「近畿」(明日香)と「筑紫」「肥後」)に偏って分布する。
 ③-g.その他「勾欄」などの部分や「仏像」「天蓋」など北朝の影響という評価がされているようです。(浅野清氏の書による)

④「列島」においては「単弁瓦」が先行し「複弁瓦」が遅れて登場することと「百済」からの仏教と寺院の建設が先行し、さらに「遣隋使」が送られることにより「北朝」からの仏教と寺院建築及びそれに付随する瓦技法が伝来するというのは歴史的な流れとして自然であり、これに沿って考える必要がある。

⑤「唐」は、「隋」(特に煬帝)に否定的であったから、「南朝」に対する考え方も変わったとみられる。「唐」は、後に南朝の発音を「呉音」と侮蔑する言い方をするようになる。
〔これによって、南朝漢民族の発音(本来ならこれが「漢音」)が「呉音」となり、北方異民族なまりの発音が「漢音」となった。仏教に関連する読みかたが「呉音」とされているが、これが南朝漢民族の発音であった。日本語にある「呉音」と呼ばれる漢字の読み方は「南朝」の発音(本来の漢音)です。わが国が南朝の音韻(と近いもの)を保存していたわけです。「密教」といい「本来の漢音」といい、日本列島ならぬ保存列島です。他にもいっぱい保存しているものがあるのではないでしょうか。シルクロードの終点とはいえ、ものもちがよい国民性です。〕

⑥後の新日本王権は「唐」に追従していたから「TLV模様」が国内にみられなくなったといえるかもしれない(可能性)。

2017年3月26日 (日)

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』

上記の本(古田史学の会編・明石書店刊)がついに出版された。
「古代に真実を求めて・古田史学論集・第二十集」も兼ねる書籍である。
いわゆる「九州年号」と呼ばれるやつだが,
これまでの『市民の古代(第十集)』はすでに入手困難なので,
『九州年号の研究』(ミネルヴァ書房)と共に,
古田史学の会の編集で公刊される運びとなった。

P3250088

Ⅰ倭国(九州)年号とは
Ⅱ次々と発見される「倭国年号」史料とその研究

の大きく2つの章からなり,資料が巻末にある。
(「二中歴」「海東諸国紀」「続日本紀」を収録)

全体として簡潔でわかりやすくまとめられており,
18の論文と15のコラムから構成されている。

巻頭言の古賀さんの文章にも出て来るが,
「本書中,出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による
「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新た概念である。・・・」とのこと。
九州年号についてすでに興味をお持ちの方も,
新たな気持ちで読んでいただけるのではないか。
そういう意味で「九州年号」と言わずに「倭国年号」とし,
《大和朝廷以前》という「逆の押さえ」も効かせたものか。

倭国年号(九州年号)は多少異説はあるが,6世紀初頭~7世紀末にかけて,
だいたい以下のような流れで定められたものと言っていいだろう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

九州王朝説を支える有力な証拠の1つが,
517~700年の183年にわたって
連綿と続いていた31個の九州年号である。
それを紹介しておこう。

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,
飛び石的に白雉や朱鳥があり,大宝(701)につながるというのだが,
およそ年号というものは「すき間なく続いている」ことに意義があるのであり,
それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。
その点,日本書紀に出てくる3つの年号は,そもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。

また,当時朝鮮半島では高句麗・新羅・百済の国々がそれぞれの年号を持ち,誇っていた。
倭国が年号を持っていておかしいことはないし,むしろその支配権を中国に認めてもらおうとした倭国が
逆に年号を持つことを遠慮していたとしたら,その方が当時の「アジアの常識」としておかしいのだ。

いくつかの年号にふれておく。
全体として「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」など仏教の影響が色濃く出ている。
この年号を定めた王朝は深く仏教に帰依していたものと思われる。
(九州の仏教受容年代はかなり早い時期のようである)

また,白鳳が23年間と圧倒的に長い。
その前半の白村江の戦いでの敗戦を受け,
長く改元することもままならなかった王朝の事情が表わされているのではないか。
(実際「薩夜馬」と呼ばれる九州のリーダーが捕虜になっており,後に送還されてきている)

江戸時代,九州年号については「邪馬台国」論争とともによく議論されたらしい。
しかし,明治時代になりこれらの年号は私年号として葬りさられてしまった。
その九州年号を発掘し,歴史の光を当てたのが,古田武彦氏と彼を支持する市民の人たちだったのだ。

九州年号についての最新の研究を「新古代学の扉」というサイト(古田史学の会)で見ることができる。
興味のある方はぜひのぞいて見てほしい。

2017年3月24日 (金)

南朝尺と唐尺~勉強のためのメモ

【南朝系】南朝尺(24.5cm)

中国の南北朝時代において建康に都を置いた宋・斉・梁・陳の4王朝。●=10年

宋・・・420~479年 ●●●●●●
斉・・・479~502年 ●●
梁・・・502~557年 ●●●●●
陳・・・557~589年 ●●●

【北朝系】「隋尺」・唐尺(29.6cm)

隋・・・589~618年 ●●
唐・・・618~907年 ●●●●●●●●●●●●●●●
             ●●●●●●●●●●●●●●

※ 武蔵国分寺の塔が,唐尺を使っていることは川瀬さんによって証明されてしまった。
(私がパンフレットの数値を信用し過ぎていた。グラフを描いてみるべきだった)
が,日本列島には南朝尺で作られた建物は1つもなかったのだろうか?それはあったのではないかと思う。
しかし,それは掘立建物の時代になりそうで,発掘状況はきびしいかもしれない。

※ 「関西例会」のやりとりを読むと,九州王朝は隋に遣隋使を送り,隋から学んでいる。
となると,建築の基礎となる「尺寸」も学んでいるだろうから,北朝尺の導入は7世紀初めの頃となる。
だから,基本的には北朝尺(隋尺・唐尺)の建物しか見つからないということができるだろう。
しかし,一部そうでないものもあるらしいので,南朝尺のことも頭の片隅に置いて考えていきたい。

※ 古賀達也の洛中洛外日記 ~ 第1356話 2017/03/18 ~ 九州王朝の大尺と小尺

本日の「古田史学の会」関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された
古代の「高麗尺」はなかったとするテーマで、九州王朝「尺」についてわたしとの質疑応答が続きました。
その討論を経て、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により
北朝尺(30cm弱)を採用したとの見解に収斂しました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)が
あげられます。しかしながら、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の
区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が「不明」で、引き続き、検討することになりました。
この点については、6月の「古田史学の会」会員総会記念講演会の講師・井上信正さん(太宰府市教育委員会)にもお聞きしようと思います。
 前期難波宮の条坊単位も北朝尺(30cm弱)によっているようですので、九州王朝は7世紀初頭から前期難波宮造営の7世紀中頃までは北朝尺で、大宰府政庁・観世音寺の新条坊エリア造営の670年(白鳳10年)頃にはそれとはやや異なった「尺」を用いたと考えられます。大宝律令の大尺と小尺は九州王朝が採用していた北朝尺と南朝尺を反映したものではないでしょうか。服部さんの発表と討論によって、九州王朝「尺」に対する認識が深まりました。

※ 遣隋使から学ぶまでの掘立建物時代には,南朝尺を使った時代があったかも。(尺の混在の可能性)

※ 年輪年代法により594年伐採の数値が出た法隆寺の心柱。この年代は「南朝滅亡後」ではあるが,
「遣隋使派遣以前」でもある。そこに法隆寺が南朝尺を使用していた可能性があったのだと思う。

※ 山田さんにより,法隆寺の「卍崩し」が南朝の文化(文様)であり,北朝(隋・唐)の立場のものが
それを受け継ぐものを作るはずがないというご指摘があった。もっともだと思った。

※ 川淵さんの論文の中に,「正倉院の所蔵の唐尺には,297mmのものと,296mmのものと2通りある」
と書いてありました。

※ グラフの改訂版
http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2016/06/post-e523.html

「中国まるごと百科事典~中国の度量衡」というサイトにも「24.2cm」が出ていました。
http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841

2017年3月22日 (水)

「洛中洛外日記」第1356号の転載

メーリングリストの転載です。
多元的「国分寺」研究サークルでも話題になっている「尺」と
山田さんの「東山道十五国の比定」についてのことが出ていました。

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第584号 古田史学の会「洛洛メール便」 2017年03月22日

前略。「古田史学の会」の竹村です。
洛洛メール便をお届けします。

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古賀達也の洛中洛外日記
第1356話 2017/03/18
九州王朝の大尺と小尺

 本日の「古田史学の会」関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が発表された
古代の「高麗尺」はなかったとするテーマで、九州王朝「尺」についてわたしとの質疑応答が続きました。
その討論を経て、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により
北朝尺(30cm弱)を採用したとの見解に収斂しました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)があげられます。しかしながら、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が「不明」で、引き続き、検討することになりました。この点については、6月の「古田史学の会」会員総会記念講演会の講師・井上信正さん(太宰府市教育委員会)にもお聞きしようと思います。
 前期難波宮の条坊単位も北朝尺(30cm弱)によっているようですので、九州王朝は7世紀初頭から前期難波宮造営の7世紀中頃までは北朝尺で、大宰府政庁・観世音寺の新条坊エリア造営の670年(白鳳10年)頃にはそれとはやや異なった「尺」を用いたと考えられます。大宝律令の大尺と小尺は九州王朝が採用していた北朝尺と南朝尺を反映したものではないでしょうか。服部さんの発表と討論によって、九州王朝「尺」に対する認識が深まりました。

 3月例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕

①「東山道十五国」の比定 -山田春廣説の紹介-(高松市・西村秀己)
②高麗尺やめませんか(八尾市・服部静尚)
③師木の波延から追う神武帝と国号日本の原姿(大阪市・西井健一郎)
④6~7世紀の王墓と継躰天皇陵(神戸市・谷本茂)
⑤晋書の西南夷とは(茨木市・満田正賢)
⑥「帝王本紀」・「帝紀」について(東大阪市・萩野秀公)
⑦『神功紀』が語る「八十梟帥討伐譚は邇邇芸命らの肥前討伐譚からの盗用」(川西市・正木裕)
⑧全盛期の九州王朝を担った筑後勢力 -筑後は倭国の首府だった-(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 2/25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・7/08 久留米大学で古賀が講演予定・2/22NHKカルチャーセンターで谷本氏が講義・2/23「古代史セッション」(森ノ宮)で笠谷和比古氏(日本国際日本文化センター名誉教授)が講演・筑紫野市「前畑遺跡筑紫土塁」保存の署名協力要請・『唯物論研究』138号発刊と内容説明・『古田史学会報』投稿要請・西村竣一氏(東京学芸大学元教授・日本国際教育学会元会長)の訃報・6/18「古田史学の会」会員総会と井上信正氏(太宰府市教育委員会)講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会5~7月会場変更の件(ドーンセンター)・3/27「古代史セッション」(森ノ宮)で正木氏が講演予定・今月の新入会員情報・『多元』に古賀論稿が掲載・その他

○服部編集長から『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』発刊の報告。(出版記念講演会を東京・福岡などで開催を企画中)
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2017年3月 7日 (火)

『法隆寺のものさし』

上田市の「信濃国分寺」を訪問し,吉村さんとお話していて,
川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(ミネルヴァ書房)から学ぶ必要を感じた。

P3072535

川端さんは,法隆寺についての再建・非再建論争にからんで,
その塔の木材が594年に伐採された事実(年輪年代法により,2001年に明らかになる)により,
法隆寺が別のX寺(日本書紀も名前を隠すほど有名だった寺院)を移築したものであると指摘し,
建築のもとになる「ものさし」を,太宰府政庁や観世音寺などと同じ南朝尺とした。

これは九州王朝が中国の南朝の冊封体制のもとにあったから当然のことだったが,
白村江の戦いで敗戦・滅亡すると,それに取って代わった大和政権は唐尺を採用した。
そこで,多元史観の人には「南朝尺と唐尺」が混在しているように理解できるわけだが,
一元史観でしかものを考えられないと,長さの単位の混乱の整理がつかず,
挙句の果て実際には存在しない「高麗尺」という単位まで実在したとする「幻覚」にさらされるのだ。
(実は,私もそうだった(^-^;)

基本的な構造は,以下のようである。
九州王朝が政権を持っていた7世紀末まで・・・南朝尺(1尺=24.5cm)
大和に政権が移った8世紀以降・・・唐尺(1尺=29.7cm)

つまり法隆寺(X寺)は南朝尺によって作られたの建物だったのを,
日本書紀を信じて唐尺(挙句の果てに高麗尺)で作られた建物と考えたので,
いろいろな混乱(再建・非再建論争など)が生じてきたということだ。

しかし,これからは逆にこれを利用することが可能となる。
南朝尺が使われていれば,九州王朝の時代に建てられたもの(国府寺など)
唐尺が使われていれば,大和政権の時代に建られたもの

という理解である。
そのように考えた時,思いついたのが,
もしかしたら「武蔵国分寺」の塔は,南朝尺で建てられたのではないか?
というスタートラインに立った考えだった。以下,別項にて・・・。

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