2019年7月16日 (火)

福原長者原官衙(福岡県行橋市)

こんなすごいものが出ている,と川瀬さんから聞いた気がします。

今調べたら,2018年9月のことでした。

まだ1年も経っていませんでした。

(この間いろいろあったので,昔のことかと思っていましたが)

【福原長者原官衙遺跡】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-4ca2.html#_ga=2.265148815.1896046533.1563061304-1064405997.1549178989

Photo_20190716052701

(図をクリックすると拡大します)

宮殿のような建造物。いったい誰がどのように使っていたのでしょうか?

2019年7月15日 (月)

古田説(愛宕神社付近)から2.4キロ

グーグルで「有田・小田部遺跡」を訪ねてみた。

(川瀬さんによると,有田2丁目とのこと)

かつて古田氏が比定した愛宕神社から2.4キロ。

地名を見てみたら,愛宕神社の東西に豊浜と名柄川があった。

古田さんは,地名を重視したのかも。

こちらは「方位の考古学」。

違う方法で,ほぼ同じ結論を出している。

もしかして,もしかするかも。

(孝徳の難波長柄豊崎宮の位置については,大阪という説もある。

あちらも「難波」や「長柄」という地名を主張する訳だが)

Img_3551

丸い☑マークが古田説の愛宕神社。名柄川と豊浜も近くにある。

(地図をクリックすると拡大します)

Img_3550

     さらに南へ ↓

Img_3555

昨日川瀬さんが比定した有田・小田部遺跡。

(地図をクリックすると拡大します)

3つの方位が重なる政治の中心地である。

(東偏・正方位が九州王朝。西偏が近畿王朝。

8世紀には近畿も正方位をとる)

有田・小田部(有田)遺跡は,孝徳の難波長柄豊崎宮ではないか(川瀬さん)

昨日の有田・小田部(有田) 遺跡(福岡県福岡市早良区)の精査の中で,

画期的な結論を川瀬さんが出された。

なんと有田・小田部(有田) 遺跡は,例の孝徳の難波長柄豊崎宮ではないかというのだ!

その遺跡の図を見ていただこう。

 Photo_20190715050901

(クリックすると拡大します)

東偏の遺構,正方位の遺構に加え,西偏の遺構がある。

私はそれを指摘しただけで「精査」を終わってしまったが,

実は「方位の考古学」にとって重要な局面だったのだ。

というのは,東偏➙正方位というのは九州王朝のものだが,

西偏があるということは,ここに九州王朝に代わって

近畿王朝の官衙が置かれているということになるからだ。

そこで,川瀬さんは建物データを調べてみた。

すると,以下のようなことが分かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

★東偏:181次と107次にまたがる東偏区画溝と正倉。7世紀末葉。
★正方位:82次からその南の77次107次にまたがる正方位の建物群。
    107次のSB01 東西棟正方位 8世紀中葉
    82次の1号東西棟、3度東   7世紀末葉~8世紀中葉
 したがって正方位の建物群は、7世紀末葉~8世紀中葉となります。
★西偏:189次の南に広がるⅠ期郡庁群。
   12度西偏。7世紀末葉~8世紀前半
 さらにこの少し北の66次にある西偏の南北棟。 7゜50´E 8世紀中葉。

 なんと、西偏の郡庁が、東偏の官衙と正方位の官衙の双方の時期に重なってしまいます。これを一体どう考えたらよいのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そして,それに続き夜中に第2報のコメントが・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追伸
(1) 有田・小田部(有田) (7世紀後半~10世紀前半?)
 東偏官衙群と正方位官衙群。これは7世紀末から8世紀前半。100年ずらせば6世紀末から7世紀前半となり、九州王朝時代の最後を飾る時期。
 この時期に同時並行して存在した西偏の官衙群。
 これをどう理解したらよいか考えた。
 あと時代が50年あとならば8世紀初頭となり近畿王朝時代の官衙群と理解できる。
 でもそうではなく、周辺には九州王朝最盛期の東偏・正方位の官衙群が同時代に存在する。
解釈は二つある。
 一つはこの西偏官衙群が、先行する東偏もしくは正方位の官衙群を壊したあとにできたものである場合、先行する官衙群の遺物(土器や瓦)が大量に混ざった結果年代が先行する官衙群と同じになってしまった可能性。
 だが189次の図をみればわかるように、ここには先行する東偏や正方位の遺構は存在せず、むしろ後の時代の正方位の遺構しかないのだ。
 ここで想定できるもう一つの、唯一の解釈は、この西偏官衙群は近畿王朝の官衙だということ。そしてその最後の時代、7世紀前半と言えば、これは孝徳の難波長柄豊崎宮しかない。
 この遺跡群の位置を示す図を見てみる。
 http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m102906-14923/map1.jpg
 場所は室見川河口だ。そしてこの遺跡群の東側には、現在の博多大濠公園を含む広大な湾が存在した。古代の難波津だ。
 発掘報告書もこの遺跡を「那津官家」関連と考えている。
 この遺跡群は古代の難波津のすぐ西側の岸にあった可能性大である。
  ヤフー地図でこの場所を確認すると、189次発掘地のすぐ南200mほどは、室町後期の城・筑前小田部城推定地(有田宝満神社)で一帯は小高い丘である。この位置関係は孝徳の難波長柄豊崎宮にピッタリである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

多くの人に議論されながら,なかなか結論が出なかった孝徳の難波長柄豊崎宮の場所。

もしかしたら「方位の考古学」のやり方なら解けるかも!

そんな風に今胸を踊らせている。

清末の官衙遺跡

昨日の, 都地より清末の官衙遺跡は分かりやすいと思います。

コの字が北方の大部分が発掘されているからです。

なかなかこうはいかないのですが・・・。

次に・方位に注目して下さい。前とは逆に西偏です。

ということは,「方位の考古学」でいうと近畿王朝のものということになります。

Photo_20190715045901

その後の府中市役所遺跡 7/14

昨日ちょっと時間かできたので,

府中市役所遺跡に行ってきた。

Img_3545

Img_3544

Img_3543

Img_3542

その後も発掘が続けられ,さらに深くまで見せてくれていた。

ただし,発掘はもう終わりのようで一部埋め戻しが始まっていた。

見に行くならもう最後のチャンスである。

2019年7月14日 (日)

都地という場所の「コの字」遺構

昨日出てきた都地というなの遺構です。

東偏の官衙遺跡です。

Photo_20190714055201

カタカナの「コ」の字を連想させる遺構(約90°左に回転しているように見える)で,

角が直交しているのが特徴です。(中に長方形の遺構があるのも特徴)

これが出ると「官衙だ!」とすぐわかる。

図では左上が発掘されていないのですが,それを推理するのです。

(全部は発掘させてもらえないので)

都地という地名も,なんだか怪しげですね。

2019年7月10日 (水)

週末に奈良で「土器編年」についての研究集会が!

編年のことを考えていたら,

こんな研究会があることを知りました。

【7/13~14 古代土器研究集会「飛鳥時代の土器編年再考」

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/event/295

【会 場】
奈良文化財研究所 平城宮跡資料館 講堂(近鉄大和西大寺駅下車 北口から東へ約10分

 

いくつかの前提~多元的な考古学を目指して

今川瀬さんと組んで「方位の考古学」の全遺跡精査をしている。

発掘の仕方も昔と違ってスライスでやってくれるようになっていて,

より下層の版築の状態まで知ることができるようになってきている。

ありがたいことである。

それ以外で私たちが前提として考えていることを書いておきたいと思う。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1)4世紀~12世紀,日本の古代は「西偏の時代」であったということ(磁北は移動する)

岡山理科大・考古地磁気学データベース

なので,磁石で北をさしても,それは「磁北」で,

東偏または正方位の建物(街並み)にするには意識的にする必要がある。

(統一権力の意志の必要)

 

(2)九州王朝は,5世紀に中国南朝に倭の五王として遣使し,中国南朝の文化を学んでいた。(柵封体制)

その都が,東偏だったこともある。

Photo_20190710091901

 

(3)聖武天皇の「国分寺建立の詔」の中に「国分寺」という言葉は何回出てくるか?

「1回も出てこない」が正解なのだ。一元史観の立場だと,無理やり「国分寺」の代役を考えるが,

多元史観で考えるなら「国分寺はなかった」である。これだけで,歴史が半世紀動く。

つまり,「九州王朝が作った「国寺」の伽藍に,七重塔を付け加えよ」という命令と読み解くのだ。

【国分寺建立の詔・・・「国分寺」はなかった!】

http://www5f.biglobe.ne.jp/~syake-assi/newpage1099.html

 

(4)飛鳥編年にしろ何にしろ,土器や瓦に「製作年」は書いていない。

だから,それをいくら積み上げても,狂いが生じてしまう。

それが数年なら影響も少ないが,50年や100年もだとしたら,編年が「変年」になってしまうのではないか。

 

(5)また,今の考古学は,「国分寺建立の詔」や「編年」をもとにして,それに合わせるように「古」を「考」えている。

つまりひどい言い方をすれば,一元史観のけらいにされていることが少なくない。

考古学が真の誇りを取り戻し,考古学の立場から一元史観に物申すことができるように,

私たちは「方位の考古学」を提唱する次第である。私たちの武器は,「遺構の方位」である。

(ちなみに,武蔵国分寺は,塔がの正方位に対し,金堂院は7°Wである。「それって変では?」と思ったのが最初だ)

(多数発掘されている遺物については,金印と違って分布図を作ることが出来,「遺物の考古学」として有効であると考える。

私はすでに,古田氏の『ここに古代王朝ありき』を参考にして,授業プラン「〈邪馬台国〉はどこだ!」を作っている)

2019年7月 9日 (火)

遠洋航海の実験~その後

遠洋航海の実験の記事を前に紹介したが,

実際に行われ,成功したという。

リンクしますね。

Photo_20190709125901

【遠洋航海の実験~その後】

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/3万年前の旅探る航海実験、成功-丸木舟で台湾から沖縄・与那国へ/ar-AAE2yy5?

ocid=spartandhp#page=2

【丸木船】

hthttp://koesan21.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/img_3233_1.jpgtp://koesan21.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/img_3233_1.jpg

2019年7月 7日 (日)

5つのハンドルネームを使い分ける人がいる

ブログへのコメントはほとんど耳が痛いものでも表に出しているのだが,

「これは怪しいぞ」「誠実さを装うっていそう」と思える時は,

表に出すことは控えさせていただいている。(削除せず裏には生かしておいた)

最近もそのことが明らかになった。

一元史観の方でも誠実な方はたくさんいる。

別にそういう人をどうしようとは思わない。

私は私の信じるところに従って,多元史観の研究を進めるだけだ。

しかし,いくら匿名だからといっても,5つのハンドルネームを使い分けて,

いかにも別々な人がコメントしているように見せかけるのはやめてほしい。

ましてや,「虚構の九州王朝」などと言われたくない。

(先ほど裏にあったその人のコメントを削除した)

 

 

より以前の記事一覧

2019年7月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ