2020年1月24日 (金)

多賀城以北の遺跡の方位

先日の壇の越遺跡(東山官衙遺跡)の資料に,

「宮城県北域の主な城柵官衙遺跡」という地図が出ていた。

Img_6051

これらは多賀城を考える際重要なことが出ている(東偏官衙で,

九州王朝が蝦夷との戦いのために作った官衙や柵)と思い,

検索してみることにした。

【1.東山官衙遺跡】・・・東偏(多賀城廃寺とともに,瓦塔も出土しています)

https://www.pref.miyagi.jp/site/maizou/dannokosi.html

【2.城生柵跡】・・・東偏

https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/401/230

【3.名生館官衙遺跡】・・・西⇒東⇒正方位の変遷

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【4.杉の下・小寺遺跡】

Img_6047

【5.南小林遺跡】

【6.宮沢遺跡】

【7.新田柵跡】・・・東偏

https://www.pref.miyagi.jp/site/maizou/04-4zu.html

【8.伊治城跡】・・・東偏?

Img_6048

【9.赤井遺跡】

【10.桃生城跡】

【11.一里塚遺跡】・・・東偏

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【多賀城】・・・初期の計画では,明らかに東偏。その後正方位に変更。

【多賀城廃寺】・・・東偏(瓦塔も出土しています)

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【多賀城跡〜発掘のあゆみ2010〜】32ページ

https://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/img/ayumi

_1.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%

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2020年1月23日 (木)

「出雲と大和」展に行って

昨日上野の国立博物館(平成館)で行われている

上記の会に行ってきた。

見られて良かったと思うものもあったし,

物足りなさもある会だった。

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【見られて良かったもの】

・出雲大社の心御柱(しんみはしら)と宇豆柱(うずばしら)(3本1組で柱にしているもの)

・荒神谷遺跡出土の銅剣(銅矛か)168本(全体の半分弱。根元の多くに「×」の紋章?あり)

・加茂岩倉遺跡出土の銅鐸17個

・伝香川県出土の銅鐸(よく教科書とかに出てくる狩りから農耕への絵が入っているもの)

・黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡1面と三角縁神獣鏡33面

・藤ノ木古墳出土の金製品

・岡田山1号墳出土の銀象嵌円頭大刀・「各(額)田王・・・」

・石上神宮所蔵の七支刀

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ということで,それなりの考古出土物を集めたものだったのだが,

両者をつなぐ九州の出土物(弥生時代後期にたくさんある)が抜けているので

なんか物足りないというか,誤魔化された感じが残ってしまうのだった。

本当に「日本書紀成立1300年」を謳うのならば,

ぜひ「出雲と九州と大和」展を開いてもらいたいな。

私の目の黒いうちに・・・。

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最近の展示会では,数か所の撮影可の場所を設けている。

これもその一つ。(模造品や復元ではありますが・・・)

 

2020年1月22日 (水)

壇の越遺跡

今多賀城についての精査をしているところだが,

同じ宮城県ですごい遺跡が発見されていることを知った。

8世紀中頃に設置され,10世紀前半に廃絶したということは,

約200年にわたって存在したことになる壇の越遺跡だ。

多賀城が「いびつな東偏の街づくり」をしている印象なのに対し,

こちらは地形的な条件もあるのだろう,

「碁盤の目のような東偏の街づくり」が行われている。

【壇の越遺跡】(16ページ)

http://www.town.kami.miyagi.jp/index.cfm/6,4014,c,html/4014/20140904-142339.pdf#search=%27%E5%A3%87%E3%81%AE%E8%B6%8A%E9%81%BA%E8%B7%A1%27

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ここまで書いてきて,ふと「この遺跡,今まで見たことがある」という気がしてきた。

思い出してみると,「東山官衙遺跡」として,政庁部分に言及したことがあった。

今回の壇の越遺跡は,その南の条坊にあたるのであった。

舘野和己編『古代都城のかたち』(同成社)刊,4800円+税。

前川佳代「古代地方都市の“かたち”」

「出雲と大和」展

日本書紀が作られたのが720年。

今年が2020年ということで,

引き算すると1300年。

それを記念して「出雲と大和」展が

上野の国立博物館・平成館で開かれているらしい。

今日は時間があるので行ってくるつもりだ。

【「出雲と大和」展】

https://izumo-yamato2020.jp/index.html

 

2020年1月17日 (金)

地図には,3種類の「北」がある!?

「真北」と「磁北」がわかってきたところが,

「座標(方眼)北」というものもあるという話題を付け足すから厄介になる。

【地図には,3種類の「北」がある】

https://www.gsi.go.jp/chubu/minichishiki18.html

2020年1月 1日 (水)

真北と磁北

古代遺跡の精査をする際,

「方位の地図記号が必ずしも北(真北)を表す訳ではない」

という問題がある。

磁北というものがあって,たいていの時代は真北と磁北が一致しておらず,

古代(5世紀~11世紀の700年は西偏)は特にそれが長く続いたので,

〈方位の考古学〉を発見するのに都合が良かった。

だが,あまりにも長く私は「地図の上は北だよ」と教えてきたのが災いしてか,

いつも「地図をみると方位の地図記号が指すほうが北」と考えやすく,

最近はその地図が作られた年を確認するように「北の確認」ということをしているほどだ。

ついでに書くと,全国では次第に磁北⇒真北と変化しつつあるが,

変更したのが何年かというのは教育委員会によっても違い,全国統一の動きも聞かない。

(隣り合っている二市でも,府中市では真北なのに,おとなりでは磁北といった具合だ)

私は将来的には真北で全国の地図を統一してほしいと思う。

以下は,それまでの方法。

中1の時,数学で正と負の数を教えるのにトランプを使って教える先生がいた。

これを利用したい。

西と東は両方とも「黒色」で目で見た感じは同じだか,

トランプなら「黒(♠)」と「赤(♡)」なので,見た目もかなり違う。

これを信号機の3つの色に例えてみる。

Photo_20200101151901

(「黒」は信号では「青」とします。寒色は寒い温度の印象)

♠10⇦♠9⇦♠8⇦磁北⇒♠6⇒♠5⇒♠4⇒♠3⇒♠2⇒♠1⇒真北⇒♡1⇒♡2⇒♡3⇒♡4⇒♡5⇒♡6⇒♡7⇒♡8⇒♡9⇒♡10

  (現在,磁北は西偏7度なので,♠7)

磁北で東偏7度と書いてあったら真北(0度)(-7+7)

東偏10度と書いてあったら東偏3度(-7+10)

逆に西偏3度なら西偏10度(-7-3)

これで,少なくとも私の混乱の一部は除かれるかも。

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以下のサイトに真北と磁北の説明が出ている。

小学生に教えているらしい。

【真北と磁北】

https://www.gsi.go.jp/KIDS/KIDS11.html

2019年12月31日 (火)

〈方位の考古学〉の活用例(5)~九州の遺跡たち

太宰府に続き,気になる九州の遺跡たちを,

〈方位の考古学〉で見直してみたい。

ちなみに,太宰府のスタートは「7世紀後半(⇒6世紀後半)」だった。

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(1)鴻臚館(7世紀後半)⇒6世紀後半

(2)大野城(7世紀半ば)⇒6世紀半ば

(3)女山神籠石(7世紀代)⇒6世紀代

(4)小郡官衙(7世紀末~)⇒6世紀末~ 小郡屯倉→孝徳の小郡宮か (西偏⇒東偏⇒正方位と変遷している)

Photo_20191231060901

(5)有田・小田部(有田)(7世紀後半~)⇒6世紀後半 ※孝徳の難波長柄豊崎宮か(3種類の方位が混在している)

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(6)鞠智城(7世紀後半,当時の日本を統治していた大和朝廷(政権)によって築かれた城)⇒

 6世紀後半,当時の日本を統治していた九州王朝(政権)によって築かれた城

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これらは太宰府の動きとほぼ同じ時期に,あるいはその前後に位置づけられる。

しかも時期からいうと,唐への対策ではなく,明らかに隋への対策だということができるだろう。

そういえば日本古代ハイウェーも7世紀第3四半期(⇒6世紀第3四半期)だから,まさしく同じ時期だった。

一連の動きはバラバラに起きたのではなく,九州王朝が隋に対して行ってきた証拠(遺跡が明らかにしている)なのだ。

2019年12月29日 (日)

〈方位の考古学〉の活用例(4)~太宰府政庁の場合

これまで紹介した3つの場合(古代日本ハイウェー,福島県・泉官衙遺跡,瓦塔)は,

歴史教科書には登場しないものなので,影響力が少ないと言えば少ないものだった。

そろそろ「大物」に登場していただくことにしよう。太宰府政庁である。

(もともとの名(現地の人)は「太宰府」。日本書紀は,貶めて「大宰府」か?)

これは九州の福岡県にあるので,遠隔地(100年遡る)部類に入る遺跡だ。

まず,従来の土器編年により,これまで以下のように書かれていた。

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Ⅰ期(7世紀後半)・・・掘立柱建物

Ⅱ期(8世紀初め)・・・礎石建物(941年の藤原純友の乱で焼失?)

Ⅲ期(10世紀後半)・・・礎石建物

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時間的に言って,「すべて近畿王朝が建てたもの」というイメージだ。

ところが,〈方位の考古学〉によって,100年遡らせると,以下のようになる。

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Ⅰ期(6世紀後半)・・・隋に対抗して(真似して),九州王朝が正方位で建てた

Ⅱ期(7世紀初め)・・・さらに長期耐久性(4~5倍)のある礎石建物にして九州王朝が建てた(立派な鬼瓦や鴻臚館式軒先瓦も)

Ⅲ期(10世紀後半)・・・近畿王朝が再建する(Ⅱ期を踏襲しながらも,一部異なる配置)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Ⅰ期・Ⅱ期が九州王朝の建てたもので,Ⅲ期が近畿王朝の建てたもの。

太宰府の3つの時期は,〈方位の考古学〉 によって,大きく変更されるのである。

「近 ⇒ 近 ⇒ 近」から,「九 ⇒ 九 ⇒ 近」である。

そして,それに付随して,ほかの遺跡も編年の変更を迫られる時が来たのではないか?

私はそう考えている。

【参考資料】

Img_5907

Ⅰ期(九州王朝・掘立柱建物・正方位)

Ⅱ期(九州王朝・礎石建物・正方位)

Img_5906

※ 鴻臚館式軒丸瓦は,Ⅱ期政庁の瓦であっても,近畿天皇家時代になって新たに葺き直されたものではないでしょうか。

(川瀬さんのコメント参照のこと)

Img_5903

Ⅲ期(近畿王朝・礎石建物・正方位)

Img_5904

2019年12月28日 (土)

〈方位の考古学〉の活用例(3)~瓦塔の場合

瓦塔を前に「夢ブログ」を扱った時,8世紀前後に作られたものと考えていた。

すると,イマイチ九州王朝のものか近畿王朝のものかわかりにくかった。

ウィキペディアでは,このように解説している。

奈良時代から作り始められ、平安時代初期に盛んに作られた。

土師質または須恵器製の小塔であるが、

屋根、柱、組物などは木造塔のそれを模して表現されている。

長野県塩尻市菖蒲沢窯跡出土の瓦塔(奈良時代)は高さ2.3メートルで、日本最大の瓦塔である[1]

多くの瓦塔は出土した破片を組み上げて五重塔に復元されているが、

千葉県印西市馬込遺跡出土の瓦塔(2基)は七重塔に復元されている[2]

小型の仏堂内に安置され、人々の信仰の対象になっていたと考えられているが、

出土例が限られていることもあり、正確な用途はわかっていない。

埼玉県美里町東山遺跡からは平安時代初期の瓦塔(五重塔)と、

入母屋造重層の金堂をかたどった「瓦堂」が共に出土している[3]

これだと,完全に近畿王朝の時代の出来事という感じである。

ところが,8世紀前後は,九州王朝が近畿王朝にかわる交代期だ。

しかも私たちは,全国の遺跡の精査から「方位の考古学」という

土器編年の修正を求めている立場だ。

8世紀前後と言われて「はい,わかりました」と引き下がることはできない。

なにしろ飛鳥からの遠隔地である九州(西日本)や関東・東北(東日本)では,

100年の年代のズレが出てくるからである。

また,そもそも塔を重視する時代は,日本の仏教受容の終末期にはふさわしくなく,

むしろスタート期にふさわしいと考える。

だとしたら,瓦塔は「九州王朝の最後の痕跡」ではなく,

これから仏教を中心に進めていくぞという「布教方針建造物」だったのではないか。

だから,九州王朝は東山道をはじめ各地の支配地に,瓦塔を配布した(作らせた。作ることを奨励した)。

そして,それが土器編年の8世紀を中心に出土するものだから,

誰がその布教の中心だったかが見えなくなっているということではないか。

8世紀中心(近畿)⇒ 7世紀中心(九州)という切り替えが瓦塔にも必要だと考える。

 

【東京都東村山市多摩湖町出土の瓦塔】

Photo_20191228042601

【瓦塔の分布図】

Photo_20191228041801

【全国のいろいろな瓦塔の画像】

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E7%93%A6%E5%A1%94

2019年12月26日 (木)

〈方位の考古学〉の活用例(1)~古代日本ハイウェーの場合

〈方位の考古学〉の刃は,私の古代日本ハイウェイーにも下された。

私は最初以下のように考えていた。

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(1)唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である「古代日本ハイウェー」の建設を全国に命じた。(7世紀半ば)

(2)662年か663年,白村江の戦いで倭国(九州王朝)大敗北。

(3)九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。そして,律令制の衰えによって地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)

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以上のうち,(1)について訂正することになった。というのは,私も〈方位の考古学〉以前は従来の土器編年を使っていたので,7世紀第3四半期に出土した土器の年代を採用していたのだった。

しかし,関東の編年は「遠隔地(九州&関東・東北)は100年代を遡らせることになる」ので,7世紀半ば⇒6世紀半ばとなり,「仮想敵国」は唐ではなく隋ということになる。そうすると,「日出ずる処の天子」の手紙とも対応することになり,この天子とは,九州王朝の天子・多利思北孤であるということにもなるのであった。

ちなみに川瀬さんの「主語有無の論証」(主語の有無によって,それが近畿王朝の天皇の業績か,九州王朝の天子の業績かを見分ける方法)によれば,東山道十五國の都督に命じられた彦狭嶋王は「主語なし」の文章中なので,九州王朝の天子が任命したことになる。

日本書紀の解明には「主語有無の論証」を,考古学には従来の編年の変更を可能にする〈方位の考古学〉が有効だと考える。

Photo_20191226070801

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