2017年9月21日 (木)

不思議な「画像」のサイト

「古代日本ハイウェー 1300年前の列島改造」というキーワードで検索すると,
「画像」のサイトがあって,「夢ブログ」にアップした数々の写真が,
ところどころ出てくる。(私のカウントでは 枚)
あなたはいくつ見つけられるだろうか?
これはあなたの「夢ブログ」度を知るのに役立つかもしれません!
別名「暇人」度?(笑)

「画像」のサイト

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC+%EF%BC%91%EF%BC%93%EF%BC%90%EF%BC%90%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E5%88%97%E5%B3%B6%E6%94%B9%E9%80%A0

2017年9月18日 (月)

九州王朝は駅鈴も作ったか?(改訂版)

古田史学では,複数の同じ言葉を統計的に処理しながら,
「ここではこういう意味で使われている」などと論証を進めていく。
自然科学なら仮説を立て,実験で決着をつけることができるが,
人文科学ではなかなかそういう機会には恵まれないからだ。

また,大量の考古出土物が発掘されれば,その分布図が描けるので,
それを使用したり,埋設したり,廃棄したりした場所の中心が特定できる。
すなわち文化圏がわかるのである。(2種類の銅鏡,銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸など)

では,1~2個しかないものだったらどうか?たとえば駅鈴について考えてみよう。
これは現在本物が,隠岐にしかないとされている。(2個だそうだ)
当然これでは「分布図」は作れない。※しかも「刻み」がないため,偽物説もある。
では,駅鈴は「なかった」ということになるのだろうか。
また,そもそも駅鈴は誰(どこの王朝)がつくったものなのだろうか。
そのことは,九州王朝説の強化に使用できないだろうか。
ということで,私の考えを書いてみたいと思う。

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【その1】 改新の詔の「其の二」に駅鈴は出てくる

書紀孝徳紀の大化二年の改新の詔。
二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。

其一曰(略)

其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依傳符剋數。凡諸國及關、給契鈴。並長官執、無次官執。

其三曰(以下略)
 
其の二の最初と最後に「鈴」ということで駅鈴が出てくる。(アンダーラインを引いた)
ただし,川瀬さんからご教示いただいたところによると,これは常色3年・649年のことらしい。
ということは,九州王朝の時代であり,白村江の戦いが迫る時期=古代日本ハイウェーの建設
と重なる時期ということになる。
まさに古代官道と駅鈴は,切っても切れない関係にあったということではないか。

【その2】 駅鈴は厳重に管理されていた

NHK・BS2で2年前に放送された「古代日本のハイウェー~1300年前の“列島改造”」
という番組を観ることができた。(2009年放送。2012年再放送)
その番組の中で,「最近解読された木簡に,兵士が2時間ごとに交代で駅鈴を見張っている」
という事実が取り上げられていた。
駅鈴は,確かに「あった」である。しかも,厳重に管理されていた。

【その3】 だが,現存の駅鈴は隠岐のものだけ

正史(盗用ではあるにせよ)にも書かれ,しかも厳重に管理されていた駅鈴が,
さらに天武紀ではあれほど印象的に表現されていた駅鈴が,
今は隠岐の2個しかないという事実。私には信じがたい。
奈良時代から1300年経ってはいるけれど,駅鈴の数は多数に上ったと思われるので,
それが2個だけしか残っていないのは不自然に思われるのである。
私はそこに前王朝の事物の回収・廃棄(金属なので溶かすというのも含め)があったのではないかと思う。
これを持たれたままだと,九州王朝側の人たちに使われてしまう危険性があるからだ。
(事実「続日本紀」707年,708年,717年の3回にわたって,「山沢亡命」記事が出ている)
そして,九州王朝の時代の駅鈴との違いを付けるため,「刻み」を入れたと考えた。。
(身分により利用できる馬の数が違うようだ)

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唯一2個の駅鈴が現存する億岐家。
「億岐家と駅鈴」というサイトには,このあたりのいきさつを以下のように書いている。

玉若酢命神社に隣接する億岐家は隠岐国造の家系で、
はるか昔、応神天皇の頃任命されたのに始まるという。
隠岐国駅鈴は古くから厳重に壷の中に入れられて、
億岐家で守り託されていたと思われる。
 現当主の正彦氏にお話をお聞きしました。
「先祖代々億岐家では、この壷は先祖が預かった物だから
絶対に開けてはいけないと言い伝えられていたために、
開ける事はもちろん、中にある駅鈴の存在は誰一人として
知りませんでした。・・・」(後略)

ちなみに,正倉印が残っているのも,駿河国、但馬国、隠岐国の3つだけらしく,
隠岐が古代史を解く大きな役割になるのかもしれない。

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私の仮説は,次の3つである。(9/19改定)

仮説1 ・・・ 九州王朝は,古代日本ハイウェーの建設と同時に駅鈴を作った。
仮説2 ・・・ だが,大和政権に主権が移譲されるとともに,それらのほとんどは回収・廃棄された。
        そして,大和政権によって新しい「刻み」のある駅鈴に作り替えられた。
仮説3 ・・・ しかし,九州王朝の「刻み」のない駅鈴を億岐家は壺の中に隠し保存した。
        それゆえ,九州王朝当時の駅鈴の2個だけが現存している。

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※ これまで「刻み」がないことで,「偽物扱い」になっていたらしい隠岐の駅鈴。
 逆に「刻み」がないことが,九州王朝時代の「真作」の証明になると思われる。
 なぜなら,もし大和政権の駅鈴を壺の中に隠してもっていたら,意味がない。
 前王朝=九州王朝の時代の駅鈴だからこそ,壺の中に隠し持つ意味があり,
 当然「口外無用」ということになるのである。多元的「駅鈴」研究の意義である。
 

※ 億岐家の壺は,上記のサイトに写真が出ています。
どなたか,年代の鑑定ができる方はいないでしょうか。
かなり古そうな壺なのですが・・・。

「億岐家と駅鈴」サイト

http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm

※ 通りすがりの素人さん,川瀬健一さん,山田春廣さんと「夢ブログ」でアドバイスいただきながら,
だいぶ駅鈴についての認識が深まりました。ありがとうございます。
また隠岐の駅鈴が九州王朝時代のものではないかという多元的「駅鈴」研究の道が開けてきました。
さらに研究が進み,多元的古代への理解が深まれば望外の幸せです。

2017年9月17日 (日)

古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?(改訂版)

本日は,台風18号の接近で外に出られないことを予想して,
『古代に真実を求めて』への投稿文を作ることにした。
とはいっても,研究論文とはいかずフォーラム(エッセイ等)に分類されると思うが,
5年前に「古田史学会報」に掲載されたものを,いろいろな方のご指摘をいただき,
改定したものである。これを読んで,お気づきになったことがあったら,
コメントしていただければ幸いです。
明日は,「古代道と駅鈴」について書いてみたいと思います。

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古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?(改定版)

                  当時・所沢市(現在は東村山市在住) 肥沼

はじめに
 
私が参加している「たのしい授業ML」の横山稔さんの情報から
NHK・BS2で2年前に放送された
「古代日本のハイウェー~1300年前の“列島改造”」
という番組を観ることができた。(2009年放送。2012年再放送)
良さそうな番組だったので,BSを受信できない環境の私は,
念には念を入れ3人の方に録画をお願いした。
番組はよく取材されていて,なかなか興味深いものだった。
そして,この古代日本ハイウェーの建設を命じたのが,
天智天皇か天武天皇かといったくだりで,
私はまず最初のひらめきが来たのだった。

太宰府と吉野ヶ里をつなぐ高速道路 

というのも,かつて古田武彦氏を案内役に北部九州を旅行した際,
太宰府と吉野ヶ里は高速道路で結ばれていて,
軍隊を素早く大量に移動することができたと聞いていたからだった。
それを思い出した私は,番組の「誰が作ったかは不明だが,
このような6300キロにわたる長いハイウェーを作るということは,
何か緊急性のある事情があったのでは・・・」というヒントをもとに,
「これは九州王朝が建設した古代日本ハイウェーではないか」
という仮説がむくむくと膨れ上がってきたのだった。
 
古代ハイウェーは廃棄された~吉野ヶ里遺跡の建設と廃棄 

続いて番組を観ていると,「その古代日本ハイウェーは
100年後には廃棄された」という情報が入った。
ここで私の体の「アドレナリン」は最大限となった。
かつて栄えた遺跡が数百年後に廃棄された例を,
私は他に知っていたからだった。その名は,吉野ヶ里遺跡!
これも古田武彦氏から学んだテーマだが,
卑弥呼は「親魏倭王」という金印をもらったというが,
これはある意味「反呉倭王」だというのだ。
三国志の時代,内陸部の蜀が襲来する心配はないが,
中国南部の呉とは海を隔ててひとつながりという状況。
すなわち,有明海からの侵入に備えるために,
吉野ヶ里遺跡は作られたのだった。
幸いその後呉は滅んで,平和が訪れた。
しかし,かつて建設した軍事施設は,平和の時代には逆に不要なものだ。
いや,魏に仕える倭国としては,魏にあらぬ疑いをかけられ,
「おとりつぶし」ということにもなりかねない。
だから,「軍事施設としての吉野ヶ里は廃棄されたのだ」と。

白村江の戦いと唐の占領軍の来日 

それは,数百年後再び現実となった。
7世紀後半の白村江の戦いの敗北とその後の唐の占領である。
唐の司令官の立場に立って考えてみてほしい。
せっかく戦争に勝って倭国に来てみたら,太宰府の前に水城はあるし,
山上には神籠石の籠城用施設はあるし,全国に張り巡らされた
6300キロにも及ぶ軍事用の古代日本ハイウェーがあった。
さて,あなたならどうするだろうか。
そのままにしておくだろうか。
私なら,「これは何事だ。まだ我が唐に逆らう気か。
一日もはやく取り壊せ」と廃棄を命じるだろう。
でなければ,また倭国は息を吹き返し,戦いを挑んでくるだろうから・・・。
そして,まず東の天子の「象徴」としての石人・石馬の破壊。
同時に武装解除としての神籠石遺跡の撤去が行われたのではなかったか。
石人・石馬や紙籠石遺跡の破壊ぶりを見るに付け,戦後第一の仕事はこれだったと思われる。
だが,6300キロにも及ぶ古代日本ハイウェーについては手は付けられなかった。
あまりにも労力の必要な水城や道路は,短期間の作業では終わらないからであろう。
7世紀の第3四半期(651~675年)に建設したと考えられる東山道武蔵路も,
8世紀半ば(750年)には使われなくなったり,
古代日本ハイウェーは,道幅も縮小(※1)されたり,ルート変更(※2)されたりして,
歴史の闇に葬り去れたようである。
中央の命令を伝えたり,税を納めるための直線道路は,
庶民の生活道路としては「不便な道」だったのかもしれない。

現代の高速道路と古代日本ハイウェー 

ところで,現代高速道路は,総延長が6500キロだそうである。
これと古代日本ハイウェーの6300キロは,まことに「瓜二つ」の数字だ。
いや,似ているのは,長さだけではない。
土を段階的につき固めていく版築工法や土の下に落ち葉や木の枝をしいて
土の重みで道路が崩れないようにする方法
(現在は敷網工法という似たやり方をとっている)など,
高い建設技術の結晶が古代日本ハイウェーなのであった。
(同様の方法は,太宰府を守る水城でもすでに使われていたようだから,
きっと九州王朝の持っていた技術だったのだろう)

研究前史1~狭山市に食い込んだ奇妙な土地の話 

社会科教員として「身近な地域」の単元で活躍してくれる所沢市の地図。
かつて「地図さがしっこ」などを楽しんだ2万5000分のその地図には,
実に不思議な地形が載っていた。
数10m×1キロ近く,所沢市が狭山市に食い込んでいるのだった。
自宅に近いこともあって,自転車で訪問したところ,
そこはフラワーヒルと呼ばれる昔の高級住宅街があった。
うわさに聞いていた高級住宅街を「発見」した私は,
その時それで満足してしまい,それ以上に追求しなかった。
「なぜフラワーヒルが,南北に一列で並んで建てられているのか」
という疑問が当然湧いていいはずだったのに・・・。
そしてそれは,木本雅康著『古代官道の歴史地理』(同成社・古代史選書9)によると,
九州王朝が作った「東山道武蔵路」の一部だったのだった。

研究前史その2~灯台もと暗しの「東山道武蔵路」の授業 

上に書いたように,わが所沢市には「東山道武蔵路」という
古代日本ハイウェーが通っていた。
今のように東海道から入ってくるルートではなく,
東山道の群馬方面から南下してくる道である。
その東山道武蔵路について,私はかつて同じ所沢市内の
玉田厚先生の授業プランで授業したことがある。
道幅12mの古代の道路が30年近く前(1989年)に,
所沢市内の南陵中学校の校庭から発掘されていて,
当時だいぶ話題を呼んだのを知っていたからだ。
その授業はなかなか楽しいものだったが,
「どうせ大和政権が奈良時代に作った道だ」と思い,
自分の研究している古田武彦氏の九州王朝説と結びつけられなかったのが,
返す返すも残念であった。

東の上遺跡(埼玉県所沢市)

http://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/t-mimage_Folder/s-saitama_Folder/azumanoue1.jpg

30年近く前から参加した古田武彦氏の九州王朝説の研究 

ところで,私は30年近く前に『吉野ヶ里の秘密』という本で古田氏に再会した。
(高校生の時『「邪馬台国」はなかった』にチャレンジしたが,
あえなく「討ち死に」していらいの再会である)
『吉野ヶ里の秘密』以降は,まさにその遅れを取り戻すかのような渉猟ぶりで,
本屋に表彰してもらいたいぐらい著書を読み,講演会に出席し,
旅行の企画に参加した。
飽きっぽい私にしては,仮説実験授業(今年度実践36年を迎えた)につぐ
長い取り組みである。

「古代日本ハイウェーの建設と廃棄」の仮説 

ということで,私の古代官道についての仮説は,以下のようなものである。

(1) 唐との「本土決戦」に備えて,九州王朝は全国に軍用道路である
   「古代日本ハイウェー」の建設を命じた。(7世紀半ば)
(2) 662年か663年,白村江の戦いで倭国(九州王朝)が大敗北。
(3) 九州王朝から日本の主導権を譲り受けた大和政権が,コース変更や道幅を狭めつつ利用した。
 そして,律令制の衰えによって,地下に埋もれることとなった。(9世紀頃)(※3)

おわりに

こうして,古代日本ハイウェーは地下に埋もれて,今日に至ることになった。
昨今古代道が各地で発掘され,注目されるなかで,
誰が建設し誰が廃棄させたのか,謎のまま「こういう大事業を行えるのは
大和政権のみ」のような流れになることを心配し,
また一方こちらの方が大切だが,
九州王朝説の大事な試金石としてこの古代日本ハイウェーに挑戦してみた。
みなさんの叱咤をお待ちしている。

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※1 道幅は8世紀が9~12mだったものが,9世紀には6m程度に狭まる傾向があると
木本雅康著『古代官道の歴史地理』(同成社・古代史選書9)にある。

※2 コース変更の例として,「続日本紀」718年5月7日の南海道の付け替えの場合や
「続日本紀」771年10月27日の東山道→東海道への所属替えの記事がある。
南海道の場合については,「古田史学会報」136号(2016年10月)の
西村秀己氏の「南海道の付け替え」で貴重な発見を知った。
これまでは,土佐の国へ使いを出そうと思っても,瀬戸内側を通り伊予経由でなければだめだった。
ところが,これ以降は阿波を通ればすぐ土佐だからだ。(九州王朝の役所が伊予にあった?)
これで,333キロの旅程が半分以下の148キロになったという。土佐日記の帰路もこれだった!
また,東海道への所属替えは,上記の『古代官道の歴史地理』で知った。
「誰が作ったのか書いていないのに,付け替えや所属替えをする」などという「主語不明」の場合,
もしかしたら九州王朝やその天子がやった事業かもしれないと疑う習慣がついた。

さらに,西村さんより「崇峻天皇の国見」問題を教えていただいた。ありがとうございます。
「日本書紀」に,興味深い記事があるそうだ。
崇峻天皇が国見のために,三道に使者を派遣したというのだ。
(太宰府を拠点とした北陸道,東海道,東山道のみ記述)
つまり,太宰府が中心だから,山陽道・山陰道などが登場する必要がないのだ。

                  ー→ 北陸道(越などの諸国の国の視察)
                /
九州王朝(太宰府) → ー 東山道(蝦夷の国の境の視察)
                \
                  -→ 東海道(東の方の海の浜にある諸国の境の視察)

この話の構成から見ても,九州王朝の視点で書かれているといっていいと思う。
やはり古代日本ハイウェーを作ったのは九州王朝であると考えられる。

また,これらの道が軍用道路といっていいと多元的「国分寺」研究サークルで共同研究して
下さっている山田春廣さんからアドバイスいただいた。
そういえば,古代官道の管轄は兵部省でした。

「肥沼さんの「古代官道は九州王朝の軍用道路である」との仮説に従って
『日本書紀』を探してしたところ、例証に近いと思われることを天武紀(壬申の乱)で見つけました。
「東山軍」、「東海軍」が出てきます。東山道と東海道の方面軍だと思われます。
次の表題でブログに載せておきました。発表するほどのことではないので、
興味を持たれたらのぞいてみてください。
「○○道」はやはり軍管区であった
― 天武紀の証言 ―
http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/05/post-72f3.html」

※3 これも多元的「国分寺」研究サークルで共同研究して下さっている川瀬健一さんより,
仮説(3)の問題点を指摘していただき,このように直してみた。感謝いたします。

※ 東山道武蔵道の東の上遺跡からは,7世紀第3~第4四半世紀の須恵器が出土している。
 この時期以前に,この道が作られていたことを証明するものだと思う。(川瀬さんからのご教示で
 思い出した。ありがとうございます)

※ さらに川瀬健一さんより,欽明紀・皇極紀・孝徳紀に出てくる駅馬も,古代日本ハイウェ―や
 駅鈴と関係が深い旨,アドバイスいただいた。この時期の記事が「日本紀」からの盗用とすれば,
 九州王朝内の事件であり,その交通に古代日本ハイウェーが利用された。当然当時の首都である
 北部九州(大宰府等)は早くから交通網も発達していたと思われる。

2017年9月16日 (土)

歴史教科書のまえがき

前から思っていたのだが,歴史の教科書のまえがきに
こんな言葉がほしいと思っている。

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(1) この歴史教科書は,これまでの研究成果に基づき,
 過去の歴史を明らかにしようと思って一生懸命作りました。
 だから,ぜひこの歴史教科書を参考に学んでくれたらうれしいです。
 (最新の研究成果の例・・・年輪年代法など)

(2) しかし,研究はさらに続けられるものですし,もしかしたらこれまで
 明らかにしたものよりさらに詳しくわかることも考えられるし,
 また,研究の結果これまでと逆の考え方が出てくることも考えられます。
 (かつての縄文時代についての考え方と現在の違いの例)

(3) だから,学習の参考にはしても,決して鵜呑みにしないようにお願いします。
 そして,「本当かなあ」とか「これは違うのではないかなあ」ということがあったら,
 ぜひ質問や意見をお寄せください。みんなで研究し,より真実の歴史に近づいていきましょう。
 この歴史教科書はそういう気持ちを込めて作りました。

水天宮の謎

「水天宮の謎」を圀友さんが調べられているという話を聞いた。
実は新しいアパートの建設のお祓いをしていただいたのが
「久米水天宮」(鳩峰八幡神社)という遠い親戚ということもあり,
「新古代学の扉」サイト内で検索してみたらヒットせず,
自分でも調べてみようと思った次第。まずは,検索から。

水天宮

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E5%A4%A9%E5%AE%AE

全国総本宮・水天宮(福岡県久留米市)

http://suitengu.net/

まず,「全国の水天宮」の分布が,九州と関東であることが気になる。
しかも,福岡県久留米市が総本宮なんて,九州王朝と大変縁がある土地柄である。
國友さんがお住いの八女にも二社ある。
さらに,うちの新しいアパートのお祓いをしてくれたのは,埼玉県所沢市の久米水天宮である。

久米水天宮(鳩峰八幡神社)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A9%E5%B3%AF%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E6%89%80%E6%B2%A2%E5%B8%82)#.E7.A5.AD.E7.A5.9E

ゆる~い日記(鳩峰八幡神社と久米水天宮の写真が豊富)

http://keny72.blog.fc2.com/blog-entry-1560.html

2017年9月13日 (水)

肥さんの弁明

本項は「夢ブログ」のネタとして書きました。
この項についての反応は,
下記のサイトにお願いいたします。

古田史学の継承のために

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/2017/09/post-4016.html

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川瀬さんへ・上城さんへ

せっかく私の名前が出てきたので,「ソクラテスの弁明」ならぬ「肥さんの弁明」をさせて下さい。

(1)川瀬さんが,主語がある場合とない場合の区別をつけることによって,
日本書紀を解き明かす1つの有力な方法を示されれました。

(2)私は素晴らしいアイデアだと思い,「このサイトでの共通の言葉として使いませんか?」
というつもりで,“「主語有無」の論証”と命名しました。ところが,論証(仮説の方がよかったのかな)
という言葉が強烈過ぎたのか,その後「論証できる・できない」という方向に「責任追及」の原因に
されてしまうことになりました。

(3)私が命名した“「主語有無」の論証”には主語有無にカッコが付けてあり,
「こういうアイデアではいかが?」というニュアンスを付けたつもりだったのです。

(4)古田武彦著の『「邪馬台国」はなかった』は,よく『邪馬台国はなかった』と誤記されますが,
カッコがあるのとないのとでは大違いなわけです。

(5)議論が白熱してきたので,いつの間にかカッコなしの“主語有無の論証”や
カッコを全体にかける“「主語有無の論証」”も登場してきたので,ここに書いておく次第です。

(6)川瀬さんも「そしてあえて付記すればこれを法則だとして「主語有無の論証」と
名付けたのは肥沼さんですよ。肥沼さんも絶対のものと考えたからこう命名したのでしょうね。」
と書かれているのですが,それは違うのです。
「素晴らしいアイデアですね。これでどこまでいけるかやってみたいですね」という意味で,
カッコ付きの“「主語有無」の論証”と命名させていただいたわけです。

(7)言葉の使い方が良くなかったとすれば,私の勉強不足ですので,お詫びいたします。
幸い川瀬さんによって,“「主語有無」の論証(改訂版)”も書いていただきましたので,
今後は上記のニュアンスでやり取りしていただけるとうれしいです。
以上,「肥さんの弁明」でした。

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「夢ブログ」に最初に登場した“「主語有無」の論証”については,
以下で読めます。

「主語有無」の論証

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/08/post-a185.html


2017年9月11日 (月)

『古代日本の情報戦略』

近江俊秀著,朝日新聞出版刊(朝日選書),
1600円+税の上記の本を入手した。

P9100064

近江さんは私も何冊も著書を読んだが,
古代官道の専門家と言っていい方である。
例のNHK・BS2の「古代日本ハイウェ-~
1300年前の列島改造」にも出演されていた。
(私は,2011年の再放送のものを視聴した)
その番組に刺激を受けて,この「夢ブログ」で私は,
「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」
を書くことができた。お礼を言いたいと思う。

お陰様でその後,西村さんによって南海道のコース変更が発見されたり,
川瀬さんから論理展開の弱いところを指摘していただいたり,
山田さんから「やはり軍用道路でいい」とアドバイスいただいたりして,
最初は「反応が少ないなあ」と思っていたが,
徐々に「風向き」が良くなってきたようである。
10月末の『古代に真実を求めて』の原稿締め切りに向け,
「重い腰」を上げ始めよう。

古代官道は「兵部省」の管轄だったらしく,
それだけでも「軍用道路」の傍証にはなると思うが,
これから忙しい日々に耐えるためにも,
「忙中閑あり」ということで,頑張っていきたい。

さて,本の内容についてだが,番組の中でも出てきたことだが,
新発見の木簡により,駅鈴が「鈴守」という2人の人たちで,
2時間交代で厳重に守られていたことも出てきていた。
それほど大切にされていたということがよくわかる話だ。

そして,「奈良時代の駅鈴」は隠岐国府のものしか残っていない
(正倉の鍵も一緒らしいので,「刻み」がないとはいえ,
おそらく本物だと思われる)ということが再確認できて,
私などますます,「大和政権が旧駅鈴を集めて処分した」と思えるわけだが,
そうすると逆に「日本書紀」天武紀にあれほど印象深く登場する駅鈴が,
気にならないわけにいかなくなると思うのだが,いかがだろう。

しかし,近江さんはそこはあまり突っ込まない。
あるものをもとにして考えるのが研究で,ないことを疑問に思わないようなのだ。
「ないもの」と言えば,誰が6300キロにもわたる古代ハイウェーを
作ったか(作ることを命じたか)についても以下のように書く。

「コラム 古代道路の建設
総延長六三〇〇キロメートルにも及ぶ道路は、どのようにして作られたのだろうか。
不思議なことにこれほど大がかりな事業なのに史料には何も記録が残っていない。
現代の高速道路建設は、国会などの場におけるさまざまな議論を経て計画が決定され,
開通した時には、大々的なセレモニーなどが行われるなど計画から開通に至るまで
実に多くの記録を残すのに、古代にはなぜ記録を記録を残さなかったのだろうか。
その答えはよくわからないが、道路に限らず条理の施工など、飛鳥時代後半から
奈良時代にかけて行われた考えられる国家レベルの大規模土木工事について、
『日本書紀』『続日本紀』は,ほとんど何も記していない。」

「ほとんど」というあいまいな表現をしているのだが,実は,これは,771年の
東山道→東海道のコース変更記事が「続日本紀」にはあるからだ。
近江さんも古代官道の専門家なので,この記事を知らないはずはない。初出記事だから。
しかし,このことに触れると,じゃあ「誰が作ったかが書いていない」ということに
触れなくてはいけないので,突っ込まれないように避けているのだと思う。
建設主体が書いてないのに、コース変更だけは書いてある。
これは「何かが隠されている!」と私などは思うのだが,それは私が古田武彦氏から
多元的古代について学ぶことができたからである。
きっと近江さんは,主語が書いていない時は,大和政権がした仕事と思われているのだろう。
一元史観では,九州王朝など存在せず,昔から大和がずっと日本を治めてきたと考えるから)」
もし違っていたら,ごめんなさい。ぜひお考えをお聞きしたいです。

取りあえず,現代の高速道路の合計距離とほぼ同じだけ作られた古代ハイウェー(6300キロ)に
興味を持っていただけたら,続いて私の書いた文章にもお付き合い下さい。
「古田史学会報」2012年2月号

古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2011/12/post-aa30.html

2017年9月 9日 (土)

国宰と国司~2つの「県知事さん」

あるサイト(院長日記)で,
「701年、大宝律令で文武天皇は、国宰を廃止し、国司を制定しました。」
という件(くだり)を見た。

ということは,7世紀末までは九州王朝の時代,
8世紀初頭からは大和政権の時代と考えられるわけだから,
(実際「続日本紀」は,大宝元年が最初の年号であると書いてある=建元)

国宰・・・九州王朝が置いた「県知事さん」
国司・・・大和政権が置いた「県知事さん」

こう考えていいのだろうか?
「日本書紀」には国宰という言葉は登場しない
(「なかった」ことにさせられた)らしいので,
ますますそんな気がしてきた。

「県知事さん」がいたということは,その治める「県」
=国があった(もしかして66国?)ということで,
その県庁は「国府」などと呼ばれたと思われるから,
政教一致の当時,その近くに置かれた寺を「国府寺」などと言っただろう。
そこに聖武天皇は「七重塔を作れ。そうすれば金泥のお経をプレゼントしよう」
と命令を出し,その後いろいろ改名されていき,「国分寺」となっていった・・・。
そんなふうに思うのですが,ご教示いただけたら幸いです。

PS 評制の廃止で,以下のようになったということですが,それもよろしいですかね。

国宰 (くにのみこともち) → 国司(こくし=くにのつかさ)・・・「県知事さん」
評督(こおりのかみ) → 郡司(ぐんし=こおりのつかさ)・・・「市長さん」
助督(こおりのすけ) → 里長(りちょう=さとのおさ)・・・「町村長さん」

院長日記

http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-c762.html

盗まれた「国宰」(正木裕さん)

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou90/kai09004.html

8年ほど前の論文ですね。「古田史学会報」90号(2009年2月16日)
私が思いつくくらいだから,当然もうすでに論文が出ていますよね。
でも,「-8年」と思って頑張ります。


2017年9月 7日 (木)

昨日の部活動 9/6

昨日は,午後4時15分~5時15分のコマだった。

9月の活動は,6時間授業の日は1時間しかない。
時間は限られているので,内容を充実させるしかないということだ。

新人戦まで,あと29-6=23だから,3週間ほど。
途中には体育祭もあるので,実質は3週間を切ったと考えた方がいい。

週末には,練習試合も予定されている。
今回は両方ともホームでの試合なので,
応援に来て下さる保護者・家族の方々が,
安心して見ていられるような試合をしてほしい。

9日(土)・・・A 勝瀬中
10日(日)・・・P 所沢東中

2017年9月 2日 (土)

回廊の取り付き方で時代の新旧が分かる ―仮説:南寄りに取り付く方が新しい―(山田さん)

山田さんがご自身のサイトで,興味深い仮説を発表されました。
「夢ブログ」の読者の中には興味のある方もいると思うので,
それをリンクさせていただきます。(山田さん,事後承諾ですみません)

回廊の取り付き方で時代の新旧が分かる ―仮説:南寄りに付く方が新しい―(山田さん)

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/08/post-0309.html

『信濃国分寺跡 発掘五十年』(上田市立信濃国分寺資料館)に
収録されている図を載せておきますね。図をクリックすると拡大します。

P9010011


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