2019年3月23日 (土)

栃木県の〈官衙遺跡〉 3/23 ← 多元的「国分寺」研究サークルより

Img_1633
川瀬さんへ
多元的〈国分寺〉研究サークルの「下書き」→
「公開」の動きがまたよくわかりません。
なので,こちらに移動して載せました。
こちらにコメントをお願いします。
なお,これで栃木県の〈官衙遺跡〉はおしまいです。
次回は,集計を行います。。

2019年3月22日 (金)

求めよ,さらば〈分布図〉は与えられん!

一昨日の府中研究会の最後の方で
川瀬さんが見つけ出した「武蔵国府関連遺跡 再開発第三地区周辺の主要遺構分布図」。
カラー刷りで,これまで扱った遺構がたくさん収められている。喉から手が出るほど欲しい・・・。
こんな時,あなたはどうしますか?
ア.いろいろ手を尽くして入手する
イ.いさぎよくあきめる
ウ.写真に撮っておく
昨日ブログに載せたのでもわかるように,
最初は「写真に撮っておく」で終わるところだったのだが,
朝目が覚めてみると,あの地図が頭の中を行き来してやみません。
え~い,だめ元でチャレンジしてみよう。
そう思った私は,軽い昼食をとった後,新秋津駅に自転車を走らせたのだった。
府中市史編纂室の方に聞いたら,中央図書館には帯出できる(禁帯出ではない)ものが
あるかもしれないということで,司書さんに問い合わせてもらったら「あった!」。
それから,いろいろあって,手に入れた地図を持って,市ヶ谷にある拡大コピーの店に向かった。
しかし,そこでとんでもない悲劇が私を襲った。
なんと・・・その店が・・・定休日だったのだ。
しかし,気を取り直してB4判×8枚のカラーコピーをとって返却した。
それを今貼り付けている途中だが,とりあえずブログにアップします。
まだ半分の「分布図」ですが,これから朝食を食べて続きをします。
交響曲にも「未完成」というのがあるではないですか。
以上,肥さんの「求めよ,さらば〈分布図〉は与えられん!」というお話でした。😃
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Img_1627
Img_1628

2019年3月21日 (木)

府中市役所遺跡(13)

この遺跡のはっくつは,3月中に終わるのでしょうか?
Img_1584
Img_1585

府中研究会 3/20

昨日も,ふるさと府中歴史館で川瀬さんと研究会を行った。
課題は,各地区の年代判定の確認だった。
大雑把にはつかんでいるのだが,担当者はどう説明しているのか知りたいためである。
B地区・・・クルル鉤がヒントで,役所・役人邸・菜園などの存在あり。
      平安前期の竪穴住居を切っているので,そのあとの時期か。
      1033次の西偏・1062次の東偏と近くにあるが,前者に軍配か。
E地区・・・甲州街道の南北には正方位の地域があり,正方位は時の権力が建てた建物群(官衙)と考えられる。
      出土物から8世紀代と判断されている。九州王朝の官衙か。近畿王朝の官衙か。
        国分寺へ
         ・       【☆東偏→正方位】予想図
         ・
         ・  【評督邸→郡長邸】
 旧甲州街道 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
         【評庁→郡庁】 【多磨評寺→多磨郡寺】
初期国分寺に接する国衙・国庁だったら東山道武蔵路で構わないが,
今の「国衙」あたりだと東海道に編入されるのもうなづける。
また,府中は国衙も置かれる特別な都市だったので,
他の郡衙と違って建物も正方位にされたのではないか。(他は東偏のままだったりする)
最後に,川瀬さんが半畳ほどもある巨大なカラー印刷の掘立柱建物分布図を見つけ,
この9か月の研究を思い出しながら眺めた。(縮尺のめもりが,10倍違ってました。笑)
そして,閉館時間の午後5時を迎えた。
ラストの研究会は,3月27日(水)。
昨日やれなかった地区の年代判定を考える。
例会後,府中本町駅構内の喫茶店で,お疲れ様会。
パソコンの話や「部活動手当」拒否闘争の話など。
Img_1588
Img_1590
Img_1589

2019年3月18日 (月)

「屯倉」の全文検索の中に「駅馬」「駅」「駅家」&「駅鈴」「鈴」を入れてみたら

●・・・屯倉  〇・・・駅馬  △・・・駅  ▲・・・駅家  / □・・・鈴  ■・・・駅鈴

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神代一                                            □□
神代二                                            □□

神武                                             □□
綏靖                                             □□□
安寧
懿徳
孝昭
孝安
孝霊
孝元
開化
崇神                                             □
垂仁     ●●
景行・成務 ●
仲哀     ●
神功     ●                   △                  □□
応神
仁徳     ●●●                                   □□□
履中・反正 ●●                                     □□□□
允恭・安康
雄略                                             □□
清寧・顕宗・仁賢 ●●●●●●
武烈
継体     
安康・宣化 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●
●●
欽明     ●●●●●●●●     〇  △                                          
敏達                                             □
用明                          △
崇峻
推古     ●                    △
舒明
皇極     ●●              〇
孝徳     ●●●●           〇〇 △△                □□□(「造鈴契」記事)
斉明                          △△△
天智                          △△△△△△△△
天武                       △△△△△△△△△△△ ▲▲▲   □□□□□□□□□ ■■■
持統

・……………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ 九州王朝の作った「駅」制度は,どこからか。また,近畿王朝はどこから変えたか。

※ 九州王朝の作った「駅鈴」は,どこからか。近畿王朝はどこから変えたか。(隠岐の駅鈴は刻みなし?)

※ 天武のところに,駅家▲と駅鈴■が集まっているが…。

「駅家」の全文検索


▼日本書紀 巻第二十八 天武天皇紀上
家籬爲燭。及夜半到隱郡、焚隱驛家、因唱邑中曰「天皇入東國、故人夫諸參赴。」然一人不肯來矣。將及横河有黑雲、廣十餘丈經天。時、天皇異之、則舉燭親秉式占曰「天下兩分之祥也。然朕遂得天下歟。」卽急行到伊賀郡、焚伊賀驛家。逮于伊賀....→ このページで合計2件ヒット
▼日本書紀 巻第二十九 天武天皇紀下
還宮之日、看群卿儲細馬於迹見驛家道頭、皆令馳走。庚午、縵造忍勝、獻嘉禾、異畝同頴。癸酉、大宅王卒。九月戊寅朔癸巳、遣新羅使人等、返之、拜朝。庚子、遣高麗使人・遣耽羅使人等、返之、共拜朝庭。冬十月戊申朔己酉、詔曰「朕聞之、近日暴惡者....→ このページで合計1件ヒット

「駅馬」「駅」は古くから出てくるが,「駅家」は天武のみで3つ。これは驚き!

2019年3月17日 (日)

前期の「東方官衙」と後期の「五間門区画」をくっつけてた・・・

川瀬さんにコメントで教えていただいた
後期難波宮の図を載せてみます。

Img_1527

そうか,後期難波宮の方にも「東方」と「西方」に施設があって,
どうも私は前期の「東方」と後期の「西方」(五間門区画)を
間違ってくっつけて考えていたようです。
なんで東側に門がうるはずなのに図に載っていないのだろうと
不思議におもっていましたが,後期なら東側ですね。
また,重圏文軒瓦が多数出土したという井戸が上の図には載っていませんが,
「前期」の図に水利施設とあるのを井戸と考えていました。

前期の「東方官衙」と後期の「五間門区画」をくっつけて考えていた

ということが,わかりました。
川瀬さん,ご指摘ありがとうございました。

Photo

(奈良文化財研究所のデータベースの図)

2019年3月16日 (土)

府中市役所遺跡(12)

いつも「ふるさと歴史館」への行き帰りは,
府中市役所の発掘現場の横を通っている。

Img_1458

Img_1460

ここの発掘,3月中に終わるのかしら…。

府中研究会 3/15

昨日も,ふるさと府中歴史館で例会をした。

パソコンのことで少し時間を撮った後,
「武蔵国衙跡1・本篇」の読み合わせ。
年代判定の根拠がどこにあるのか,それをつかむためだ。
読んでいくと,竪穴住居にしろ,瓦にしろ,土専(せん)にしろ,
苦しい言い訳が目立ち,専門家も苦労しているようだ。
やはり結論を先に決めてしまっているので,
まさか武蔵国分寺と初期国府が接していたなんて,想像だにしないのだろう。
しかし,「国府」内に区切りの木塀のようなものがあるという新知見を入手したので,
確認する必要があるだろう。

その他の話題。

・ 672年の壬申の乱以降,近畿王朝は九州王朝の天子を,
拉致(よく言えば保護)していたのではないかという話になった。
だから,以降の詔勅は近畿王朝が出させたもので,
その場合には「主語有無」でいうと「主語なし」で表現されているのではないかと・・・。

・ 建物で言うと,「エビノコ郭」。これは「主語なし」なので,九州王朝の天子が建てさせたもの。
ただし,近畿にいてもらう方が都合がいい訳だから,近畿王朝は喜んで建てただろうが・・・。

・近江京→飛鳥京→難波京→藤原京となれば,20年以上に渡っての拉致(保護)になるが。
その前に,白村江の戦いも入ってくる。ということは,薩夜麻は天子ではない?(皇太子?)。

このあたり,川瀬さんにお願いします。

『東アジアに開かれた古代王宮・難波宮』

難波宮の「東方官衙」に,飛鳥宮の「エビノコ郭」みたいなのがあるということで,
上記の本(積山洋著,新泉社,2014年,1500円+税)を買った。

Img_1461

写真で紹介していこう。

(1) 前期難波宮復元図~全体像です。この中にいろいろな情報が詰まっている・・・かも

Img_1463

(2) 中心部の寸法図とCG復元~七間門の巨大さ,複廊,2つの八角建物,2つの内裏(前殿と後殿の
2つに分かれ,しかも塀で区切られ,南の前殿の方が規模が大きい)

Img_1465

(3) 東方官衙(新段階)~注目の四面庇建物のある東方官衙。石敷舗装されているところも「エビノコ郭」似だ

Img_1466

(4) 宮城西部五間門(謎の宮城西部)~西部官衙もその門の変遷が謎だらけ。地面には証拠が残されていた

Img_1471

「謎の宮城」というのは本書の著者が書いたもので,本当に困っているのだろう。こんな変遷が書いてある。

(1) まず簡素な門が南北三等分上の二カ所に計画されたが,なぜか埋め戻してしまう。
(2) つぎに同じ2カ所に桁行五間で梁行二間の「五間門」が竣工している。
(3) その後,門と堀が撤去され,築地と石組溝が設けられた。
(4) ただ,その内部は後世の攪乱によりほとんと不明で,桁行六間以上の掘立柱建物の一部と井戸などが
みつかった程度である。井戸から重圏文軒瓦が多数出土している。桁行五間の門といえば朝堂院南門と同じであり
格式の高い門である。塀と門が撤去されのちに築地に替わるとすれば,その内部の重要性は言うまでもない。

※ 井戸があるということは,儀式の場というより「生活の場」であったということである。いったい誰の?

より以前の記事一覧

2019年3月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ