2017年5月25日 (木)

武田鉄矢さんは,古田ファンだった

金八先生役などで知られる武田鉄矢さんだが,
古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』を読んでおり,
かなりの古田ファンであるようだ。
上岡竜太郎氏がそうなのは,前から知っていたが,
武田さんもそうだとは知らなかった。
私は「今朝の三枚おろし」というラジオ番組のYouTubeからだった。
情報のもとは,こんな時ですが,「古賀達也の洛中洛外日記」ですよ。

武田鉄矢 今朝の三枚おろし

https://www.youtube.com/watch?v=dGwnzDs2ckI

ちなみに,このことをテーマにした曲もあるそうですよ。
(「倭人伝 ~ a man across the sea」という歌らしい)
私は海援隊のコンサートに近々参加します。(5/27)
昭島公民館,午後3時~。

倭人伝

https://www.youtube.com/watch?v=5yR30irJ1e4

2017年5月24日 (水)

古賀さんが「洛中洛外日記」で反論開始!?

論争のためのサイトとして開設した新サイト「古田史学の継承のために」
に刺激されてのことだと思うが,
古賀さんが最近の「洛中洛外日記」で
「二中歴」や「副都説」についてのお考えを掲載され,
どこが間違っているのか批判してほしいと訴えておられる。
これに対してどう対処していくかが,今後注目されていくところである。

新古代学の扉・「古賀達也の洛中洛外日記」

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html#wa1395

とりあえず,「洛中洛外日記」を転載するかどうか,ということが出てくる。
自分の考えだけ発表していたのでは,論争にならないわけですからね。
ただ,それについての議論は「夢ブログ」ではコメントしていただかないようにお願いします。
また,先日のように古田史学関係で「紙面」が埋まってしまいますので。
もしコメントされた場合には,「古田史学の継承のために」の方に転載しようと考えています。
「再反論」をご希望の方は,以下の新サイトをご活用下さいネ。

古田史学の継承のために

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

上記サイトの中の「二中歴をめぐって」に直通で行きたい方は,
以下をクリックして下さい。
ただし,意見を述べる際には,誰の何に対するものなのか,
お断りの上お願いいたします。

「二中歴」をめぐって

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/2017/05/post-d818.html

2017年5月19日 (金)

古代道と駅鈴(再登場)

私は古代道とほぼ同じ頃,駅鈴という道具について
「古代道と駅鈴」を書いたことがある
(「肥さんの夢ブログ」2013年2月18日)


古代道と駅鈴

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/02/post-1b61.html

これは今2つしか現存していないそうで,
私が持っているのはその隠岐の駅鈴のレプリカ。
今は2つしか現存しないが,
壬申の乱(天武紀)では大変重要な役割をする道具なのである。

なんせこれがないと馬が動員できない。
したがって,そこから先に行くことができなくなってしまうという
軍事的に価値の高いものなのである。
これが手に入れば戦いは有利になるし,
もしだめなら別の方法を考えなくてはならない。

では,この駅鈴を作り,使用させていたのは誰か。
どの王朝かという話になる。
「日本書紀」は教えてくれない。
それは勘のいい読者の方にはお分かりであろうが,
私の考えでは大和政権の前の九州王朝ということになる。
なにしろ701年の大宝建元の前の話なのであるから・・・。

2017年5月18日 (木)

天武紀の「東山軍」「東海軍」は「軍用道路」仮説の例証か?

私は5年前の2012年2月号の「古田史学会報」に,
「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」
という文章を掲載していただきました。

古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2011/12/post-aa30.html

それに関連して,本日山田さんからうれしいメールをいただきました。
以下に紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

肥沼さんの「古代官道は九州王朝の軍用道路である」との仮説に従って
『日本書紀』を探してしたところ、例証に近いと思われることを
天武紀(壬申の乱)で見つけました。
「東山軍」、「東海軍」が出てきます。
東山道と東海道の方面軍だと思われます。
次の表題でブログに載せておきました。
発表するほどのことではないので、
興味を持たれたらのぞいてみてください。

「○○道」はやはり軍管区であった
― 天武紀の証言 ―

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/05/post-72f3.html

肥沼さんの仮説「古代官道は九州王朝の軍用道路である」
というのはかなり強力な仮説だと思います。
発見には仮説が一番大切だとつくづく思いました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

勤務校と同じ所沢市にある南稜中学校の校庭の地下に埋まっていた幅12mの道路が,
もし軍用道路であったなら,日本書紀には「誰がこの道路を作ったか」について
何も書いていない(誰でも知っているので書けない?)のですから,
私の考える九州王朝である可能性も決して低くないということです。

東の上遺跡(所沢市立南稜中学校の校庭の地下)

http://www.city.tokorozawa.saitama.jp/iitokoro/enjoy/bunkakyoyo/bunkazai/shishiteibunkazai/siseki/bunzai_20100416165910041.html

この古代史の謎が,私の生きているうちに解けるかどうかはわかりませんが,
いっしょに研究をしている山田さんの発見により,真実解明に大きく前進したと
私は思うのでありました。(また「やる気のスイッチ」が入ってきましたよ!)
山田さん,本当にありがとうございます。
そして,今後ともよろしくお願いいたします。m●m

2017年5月16日 (火)

2つの記事(コメント類)を「古田史学の継承のために」へ移動します

以下の2つの記事(コメント類)について,
川瀬さんのご希望により
「古田史学の継承ために」に移動します。
(削除してはいません。コピーして移動しました)
続きの議論があれば,あちらでお願いします。

「難波宮水利施設」等の調査報告より(大下さん)

前期難波宮九州王朝副都」説への疑問(川瀬さん)

古田史学の継承のために

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

「古田史学」とは何か(大下さん)をアップしました

この「夢ブログ」ではありませんが,
先日来話題になっていた「古田史学」とは何か(大下さん)を,
新サイト「古田史学の継承のために」にアップしました。

アップしたと言っても,地の文章ではなく,ファイルをダウンロードする形のものですが,
読むことについては全く削除・訂正もせず「そのまま」の掲載ですので,
その方がいいとも思ってはいます。(どなたかパソコンに詳しい方,ご教示を)

また,その内容についての,ご質問・ご意見についても,
「古田史学の継承のために」の方でお願いいたします。

「古田史学」とは何か(大下さん)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

2017年5月11日 (木)

新しいサイトを立ち上げます!

新しいサイトを立ち上げます!
「古田史学の継承のために」というサイトです。

ここのところ「夢ブログ」では古田史学の話題がたくさん出てきて,
読者の皆さんを驚かせてきました。

もちろん古田史学の話題も「夢ブログ」の大切な内容ではあるけれど,
それを毎日読むことになるのは,興味のない人にとっては?だったことでしょう。

そこで,別の新しいサイトを立ち上げて,そちらで議論をしたらどうかという考えに至り,
昨日の「ヒトリゴト」という記事にしたわけです。

なので,そのスジの記事は下記のサイトにお願いします。
できたら「お気に入り」に入れていただけると,
何回も表示しなくて済みます。

古田史学の継承のために

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

2017年5月10日 (水)

ヒトリゴト

古田史学の発展のためには,
議論の場がほしいと思うけれど,
その議論にはかなりのスペース(質量ともに)が必要なようだ。
(「夢ブログ」のスペースではとても足りない。
だいたい私が毎日書いていることへの反応ではなく,
本の紹介を1回書いたことに対して30回コメントが続いたりしている)

本来の私の性格から言っても,
批判・反批判というのはドキドキを通り過ぎて,
心臓がバクバクしているのだ。

しかも毎日のようにそれが続くので,
新学期で疲れがピークなのに(紙面でもわかると思うが),
いつまで続くのだろう。(一方,多元的「国分寺」研究の方は
まったく記事やコメントがストップ?)

私が「夢ブログ」を更新し続けているのは,
私が強いからではなく,自分の弱さをカバーしているからなので,
古田史学のあり方についての議論に毎日ブログ開設者として,
執行部批判記事?を掲載するのは,正直しんどいです。
(だいたい,今その人たちは「夢ブログ」を読んでいる保障もない)

誰か「古田史学のあり方について語ろう」みたいなサイトを
立ち上げてくれないかなあ。
もし今のような宙ぶらりんな状態が続くなら,
「3つまで開設できる」というココログの新ブログを私が立ち上げて,
そちらで議論をお願いしようかと思っているところだ。
そんなことを書くと,「議論から逃げる気か」なんて言われそうだけど・・・。

敵か味方か,という感じになると,かつて「市民の古代」が分裂したように,
つらい思いをすることになってしまう。
それは避けたいという私もいる。
しかし,新サイト誕生の方に,4割方傾いている私もいることを,
こんな題名で書いておく。

2017年5月 6日 (土)

「洛中洛外日記」に「多元」139号(吉村さんの記事)の紹介

「洛中洛外日記」に「多元」139号(吉村さんの記事)の紹介をしています。
論考には,私の名前も登場してビックリ!

===========
古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2017/05/02
『多元』139号のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」から『多元』No.139が届きました。
(中略)
 上田市の吉村八洲男さんの論稿「『シナノ』国府寺と多元史観」も掲載されており、多元的「国分寺」研究が各地で活発に進められていることがわかります。いつかは『古代に真実を求めて』で多元的「国分寺」研究を特集できればと期待しています。
(後略)。
===========

2017年5月 5日 (金)

大下さんの「難波宮水利施設」等の調査報告より

大下さんの古代史の報告が届きましたが,
コメントより新たにスレッドを立てた方がいいと思うので,
私の判断でさせていただきます。(肥沼)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

川瀬さん、James Macさん              

昨日が「難波宮水利施設」の特別公開日で、それを見学した後大阪歴博に立ち寄り
発掘調査報告書『難波宮址の研究』第十一集、2000年3月出版(以下「報告書」とします)を調べてきました。
下記します。

1)泉施設(井戸枠)の木材は転用材か。
・泉施設の中には二カ所の木枠が設けられていますが、
「報告書」42頁には「どちらの木枠も転用材を用いて組まれていた(佐藤)」と記されています。
・しかし207頁にある年輪年代を測定した光谷氏の報告では
「634年の値がでた木材の形状は、原材から板状に割り、若干一部分を成形しただけのものであり
転用材ではない」としています。
・そして最後の262頁にある「報告書」まとめには木枠板材の年輪年代について「板材の転用の可能性や、
伐採年代がやや古い年代であることに問題があるが、
年輪年代測定は絶望的と思われていた難波宮跡でも、
今後も資料の増加が期待できるようになった(佐藤)」としています。

<大下意見>
・板材は大きなもので1mx0.2mのそれほど大きくないもので、それが「若干一部分成形しただけ」で転用材でないとした光谷氏の見解の根拠がよくわかりません。発掘を担当した佐藤氏の見解「板材は転用材」が正しいように思えます。

2)泉施設の木枠の経年変化をさけるため寝かせた古い材木が必要か。
・解説をしてくれた学芸員に聞いたところ、「ここの木枠については特に材木の経年によるひずみは
考慮していません」とのことでした。詳しい説明はありませんでした。

 <大下意見>
・「報告書」には、「泉施設につながる石組み水路の役割は、泉から湧いた水をきれいな状態を保つため
下方に流すためのもので、土砂や雨水などの侵入を防ぐために、
外側からはきめの細かい粘土が石の目地にていねいに詰められている」と記されています。
・「泉施設」は壊れていて原形をとどめていませんが、中には絶えず水が溜まった状態にあったのと、
「泉施設」も外部からの密封がきっちりと行われていたので、
水漏れを防ぐための材木の経年変化はあまり考慮する必要がなかったのではないかと思います。
 
3)泉施設の概要
・難波宮の西北側に倉庫群があります。その西北隅に谷があり、
そこに出ている湧水を利用して「泉施設」が作られています。
この施設は谷頭にある水が湧き出る所に木枠で囲いを作り、
外部からの水・泥の侵入を防ぎ、同時に湧いてきた水を溜めるためのものです。
その水はさらに西北に向けて作られた「石組みの水路」を利用し、
谷の下のほうに向かって流されていきます。

・泉施設の内部
 ① 谷頭に約8mx5m、深さ1mの長方形のくぼみが掘られ、その中に湧水を溜めるため
東西に二つの木枠が作られています。
 ② 年代測定(634年)がされた木枠2は長辺1.0m、短辺0.6mの板が三段に組まれています。
木枠全体の高さは0.7mです。図面からそれぞれの板幅は0.2~0.3mと読めます。

4)石組みの水路
・泉施設から湧き出た水を北西の方向へ流すために花崗岩を使い水路が作られています。概要は次の通りです。  
a) 蓋石は大きな石が使われ、最大のものは直径1.5m以上、重さ約1.8t、平均して1.2tあります。
b) 側面は基底部に直径1m前後の石を据え、その上に0.5m前後の石が2~3段積み上げられています。
c) 底面にも石が敷かれ、水路の幅は内法で約0.5m深さは約1mです。
d) 裏込めが行われ、さらに外側からはきめの細かい粘土が石の目地に丁寧に詰められ、
水が漏れるのを防いでいます。
e) 石組みの列は、北西側の方向200mのところまでが確認されていますがその先は分かっていません。

5)泉施設の建設目的
・2000年の調査報告書が作られた時には不明とされ、
今回は二人の学芸員に聞いたところ今でもよくわからないとのことでした。
・一人の学芸員は難波宮とは関係がない。もう一人は難波宮に井戸がないことから
この泉から汲み出した水を運んでいた可能性があるのではないかとのことでした。
・二人とも、泉施設周辺から祭祀に使われた木製の人形、舟形などが出土しており
ここで何等かのまつりが行われていたことは確実だが、
水路の先200mの向こう側に何があったのか全く分かっていないとのことでした。

<大下意見>
・難波宮に水を供給するためなら、水路は難波宮側にも築かれていたと思います。 
 ・難波宮の地表面は約TP21m、井戸枠の上部がほぼTP17.5mで
宮殿の中心部まで約500mまであります。
この井戸から坂道を毎日大量に水を運んだとは考えられません。
・最近の発掘では北西の方向に鍛冶や漆製品の生産をしていたと思われる遺構が出土しています。
この「水利施設」はこれら生産のために使われていたのではないかと推定しています。
新しく発見された遺構の調査報告書が待たれます。

6)「水利施設」の建設時期(須恵器編年)
・「報告書」では「水利施設」の下、客土に含まれた須恵器が難波編年で
「難波Ⅲ中様式」のものと考えられるので、「水利施設」建設の実年代は七世紀中葉としています。

<大下意見>
・大阪府近つ飛鳥博物館館報16で館長の白石太一郎氏は
「大阪市文化財協会の【難波Ⅲ中様式】という【様式レベル】の30年単位のモノサシによる大枠の議論では
難波宮の年代問題は解決しない。
最近の飛鳥編年の研究では10年単位の議論が可能になっている。
飛鳥編年から見ると難波宮下層から出土した【難波Ⅲ中様式】の土器は
早くても660年代のものである」とされています。
・土器の実年代を決める基準は難波編年、飛鳥編年とも『日本書紀』が基準になっています。
・現在問題になっているのは難波宮遺構の年代で、孝徳紀に記されている「難波長柄豊崎宮」が
この遺構に該当するかどうかということです。
この問題を解決するのに『日本書紀』の基づいて作られた大阪市側の「難波編年」を
モノサシにするのはナンセンスというほかはないと思います。
答えは必ず『日本書紀』の記述が正しいということになります。

この「報告書」から、古賀さんが「前期難波宮遺構が考古学的に
孝徳紀に作られた」とする根拠は読み取れません。

以上取り急ぎ報告します。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

川瀬さんJamesさんへ
<訂正>
先ほどのメール2)泉施設の木枠のところで、「井戸枠の周囲が外部からの密封がきっちりとされていた」
と記しましたが、図面をよく見ると「外部からの密封はきっちりとされていた」とは思えないので
この部分は削除します。

投稿: 大下隆司 | 2017年5月 5日 (金) 18:46

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