2020年9月23日 (水)

館院には,Ⅱ期にも塀に囲まれた建物群が・・・

川瀬さんのコメントを読み,もう一度藤木海著『南相馬に躍動した古代の郡役所・

泉官衙遺跡』(新泉社)を読んでみた。

すると,Ⅱ期に政庁の西方にある〈館院〉と呼ばれる建物群が成立し,

南側だけだが塀に囲まれているし,その南門には八脚門が備わっており,

官道を伴っていて,役所の仕事の中心になっていたと思われる。

だから,Ⅱbの時期に政庁には正殿しかなかったのではないか。(儀式の時だけ使用?)

また,南側ではなく北側に入り口が設けられたのは,

この館院との連絡上必要があったからではないかと,全体図を見て思った。

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(図をクリックすると拡大します)

Ⅰ期・・・東偏の正殿。両脇殿と前後殿付き。

Ⅱa期・・・正方位に変更して玉石敷にした正殿。

Ⅱb期・・・正殿は残るが,西方に八脚門を持った館院(この時期と思われる)

Ⅲ期・・・成長の大型化(三×二間の間の南門あり。北側にも入口)と脇殿の復活

九州王朝にとっても,近畿王朝にとっても,重要視された官衙。

それが泉官衙遺跡だったのではないか。

「2つの王朝の〈栄枯盛衰〉が刻まれている」といっても,過言ではないと思う。

2020年9月22日 (火)

「建物の様式」から見ても訂正すべき泉官衙遺跡の年代比定

評制官衙は大宝律令(701年)を境に定型化されていったとすると,

泉官衙遺跡の年代比定も奇妙なことになる。

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Ⅰ期・・・7世紀後半~8世紀初頭

Ⅱ期・・・8世紀初頭~後半

Ⅲ期・・・8世紀後半~9世紀後半

というのが藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』(新泉社)

による年代比定なのだが,これだと「Ⅰ期からⅡ期という定型化の時期に,

まだまだ熱心に評制官衙を作り続けていた」という矛盾が出てくるからである。

そして,「中央では定型化が進んだが,地方では定型化が遅れたのだ」という

偏見に満ちた考えに陥らざるを得ないことになる。

政府の命令というのは,「50年も100年も経ってやっと地方に伝わる」などというものではない。

全国は古代日本ハイウェーともいうべき官道でつながれているのであり,

命令はたちどころ伝わるのでなければ意味がないのだ。

それゆえ,泉官衙遺跡の年代はⅢ期の定型化の時期を大宝律令(ONライン)とすべきで,

8世紀後半マイナス8世紀初頭とすると,50年~100年早めてしかるべきということになり,

〈方位の考古学〉が前に示した「100年遡らせる」という結論とほぼ同じことになる。

2020年9月21日 (月)

やはり「評制官衙」と「郡制官衙」の画期は,ONラインのようです

「もう一つの歴史教科書問題」というサイトがあります。

ハンドルネーム「侏儒国民」さんの開設されているサイトです。

以前だいぶ「夢ブログ」にコメントしていただきました。

官衙の様式について検索しているうちに,最近扱っている

「評制官衙」と「郡制官衙」についての話題が出ているのに気が付きました。

なんと結論は私と同じで,「ONラインが画期」ということです。

しかも,ブログを書かれたのはおそらく2年前。

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『古代国府の成立と国郡制』(大橋康夫著,吉川弘文館,2018年)を紹介し,

古田武彦氏の旧王朝(old:九州王朝)と新王朝(new:大和朝廷)との画期である

701年の大宝律令を「ONライン」としています。

素直にうれしいです。

そして,驚いたことに「肥さんの夢ブログ」や「sanmaoの暦歴徒然草」が

リンクされていたのです!

あわてて私も,「もう一つの歴史教科書問題」サイトをリンクさせていただきました。(冷汗)

今後ともよろしくお願いいたします。m●m

【もう一つの歴史教科書問題:国府成立と正方位採用は701年の大宝律令から 】←↓どちらでも行けます

http://rekisi.tosalog.com/on%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3/%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%A8%E6%AD%A3%E6%96%B9%E4%BD%8D%E6%8E%A1%E7%94%A8%E3%81%AF701%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%AE%9D%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E3%81%8B%E3%82%89

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【参考:泉官衙遺跡(福島県)】

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左側の3枚が九州王朝 右側の3枚が近畿王朝

(タテに見て下さい。2つの王朝の〈栄枯盛衰〉が

刻まれていませんか?)

2020年9月16日 (水)

官衙の様式変更も,「ONライン」の例の1つか

先日“「評制官衙」と「郡制官衙」”(官衙の様式変更)のことを書いたが,

よく考えてみると,7世紀末と8世紀初頭にある「ONライン」の例の1つなのではないかと思った。

つまり,そこを境に日本列島の主権者が交代したのである。

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(1)九州年号→近畿年号(701年,大宝を建元=初めて作った)

(2)評制→郡制(木簡の表記が,8世紀には評から郡へと変更。「郡評論争」の結論)

(3)位を授けるやり方が,701年,冠→位記(叙位を記した文書)に変更

(4)使者を七道(東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海道)に派遣して,

今後新令(大宝令)に基づいて政治を行うとした(701年。大宝律は,翌年2月)

(5)新しい国印の見本を頒布した(701年)

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続日本紀には,「初めて」(「始めて」「はじめて」も含む)記事が多いのだが,

内容を見てみると,「日本列島で初めて」というより,

「近畿王朝では初めて」と読んだ方が歴史の真実に近いと言えるだろう。

それまで,とても「なかった」「行っていなかった」とは思えないから。

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「評制官衙」から「郡制官衙」へ

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両方の様式を含む,泉官衙遺跡(福島県)は,

「2つの王朝の〈栄枯盛衰〉を刻んでいる

世にも稀(まれ)なる遺跡」なのである。

肥さん的には「国宝」と評価したい。

なぜなら,歴史の真実を解き明かしてくれる

貴重な遺跡だと考えるからだ。

2020年9月15日 (火)

北秋津小東方遺跡が再始動していた!

昨年の夏,上記の遺跡のことを度々「夢ブログ」で紹介した。

今朝散歩のコースを変えてみたら,ビンゴ!

「早起きは三文の得」ではないが,また再び掘っているようだ。

発掘調査期間が,7月1日~12月28日の平日。

きっと「所沢駅東口の再開発」という理由付けで行われているのだろう。

また,懐つかしい顔に会えると思うとうれしいなあ。

さっそく本日行ってみます。

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Sさんにお会いでき,お話を聞くことができた。

縄文時代の遺跡とのこと。土器が出ているようだ。

最新作の,“「評制官衙」と「郡制官衙」”をお渡ししてきた。

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2020年9月14日 (月)

「評制時代の官衙」と「郡制時代の官衙」

【前期評制政庁の構造とその原型】

↗ ご面倒でも,上の「前期評制政庁の構造とその原型」で検索をお願いします。

これだと行けると思います。(『国学院史学』20号の3人目です)

著者の滝澤誠さんは,「初期政庁の造営にはおそらく国家が関与していた可能性が高い」と指摘しており,

九州王朝とはいっていないが,鋭い指摘と考える。

同じ言い方を使えば,全国に東偏の官衙が存在したことにも,「国家が関与」していたと考えるべきだが。

川瀬さんには以下のアドレスを教えていただいたのですが,

私にはたどり着くことができませんでした。

これで行ける方は,その方法で。

http://bungakubu.kokushikan.ac.jp/kokushi/%E3%80%8E%E5%9B%BD%E5%A3%AB%E8%88%98%E5%8F%B2%E5%AD%A6%E3%80%8F20%E5%8F%B7%EF%BC%882016%EF%BC%89.pdf

大雑把に言えば連結型の建物である。

評制の時代の官衙は,建物が塀も兼ねていた。

つまり九州王朝によって作られた官衙は連結型の建物だったのだ。

Img_5932_20200915042301

それが,7世紀後半から8世紀初頭に,様式が大きく変化する。

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【長舎と官衙研究の現状と課題】

https://www.kuba.jp/syoseki/PDF/3295.pdf

大雑把に言えば,塀で囲んだ中に建物がある。

ちょうど「回」という字のような感じだ。

私たちの家屋の構造と似ているやり方ともいえる。

「7世紀後半から8世紀初頭」というから,近畿王朝による建物である。

Img_5933

(連結型→定型化国(郡)庁への変更)

著者の大橋泰夫さんは「7世紀後半から8世紀初頭」の建物の変化は強調するものの,

「定型化国庁に先行する初期国庁」という表現にとどまっており,

この様式の変化に王朝交代が影響しているとは考えていないようである。

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【泉官衙遺跡に残された2つの様式】

私が「2つの王朝の〈栄枯盛衰〉が刻まれている」と泉官衙遺跡のことを表現するのは,

まさにこの2つの様式を持つものだからだ。

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左側の図が九州王朝の建築  右側が近畿王朝の建築

Ⅰ期~東偏(南朝に倣う)   Ⅲa期~701年,大宝元年(建元)   

Ⅱa期~正方位(玉石敷)   Ⅲb期~律令制ゆるむ

Ⅱb期~白村江の戦いで敗戦 Ⅲc期~律令制の衰退

(クリックすると拡大します)

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泉官衙遺跡について,『南相馬に躍動する古代の郡役所・泉官衙遺跡』によると,

Ⅲa期(定型化国庁ともいうべき)のスタートをした時期を「8世紀後半」としている。

これは大橋さんの「7世紀後半」と100年ズレる。いずれが正しいのか?

私は国家の命令が,100年も経って地方に伝わるということは考えられないので,

年代比定を100年遡らせるべきだと思う。

そして,これは〈方位の考古学〉の趣旨にもかなうことだ。

2020年9月 6日 (日)

「坂城神社・由緒書」とその歴史

吉村さんが山田さんのサイト「sanmaoの暦歴徒然草」に掲載している上記の文章の中で,

私の文章の内容「古代日本ハイウェーが軍用道路であること」を評価していただいています。

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2020/09/post-f9e0f8.html

2012年に「古田史学会報」に書いたいたものですが,評価していただきうれしいです。

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注4 軍事的側面が強くある事を再確認 …… 

「再確認」というのは、肥沼孝治氏の次の論考が多元史観の嚆矢としてあるからです。

肥沼孝治古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?

2012年2月10日、古田史学会報108号掲載、古田史学の会編

『古田史学論集第二十一集 発見された倭京―太宰府都城と官道』

(明石書店、A5判、232ページ、2018/03/25出版、ISBN 9784750346496)にも収録されています)。

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なお,「多元」紙の最新号にも,吉村さんの文章は掲載されています。

2020年9月 5日 (土)

「綿貫・観音山古墳」特別展

午前中に,上記の特別展に行ってきた。

土地勘のない私は,群馬県立博物館と高崎サークルの会場である

青年センターが近くであることを知らず,高崎駅まで戻ってしまったが,

何事も勉強である。もう間違えることはないでしょう。

前に見た時は,スペースの関係で副葬品の一部しか見られなかったが,

重要文化財から国宝への「昇格」とあって,おそらく全部見せてもらえたと思う。

何しろ「未盗掘」の副葬品だから,質量ともに驚くばかりだった。

(沖ノ島の国宝以外は,撮影OKでした)

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もうこのような特別展は開かれないと思うと,

自然と財布の紐がゆるんでしまいました。(笑)

それにしても,真ん中の分厚い図録が,1300円台とは破格の安さです!

2020年9月 4日 (金)

綿貫・観音山古墳の出土品

群馬県立歴史博物館のサイトに,

例の綿貫・観音山古墳の出土品の写真が出ていた。

リンクします。

【綿貫・観音山古墳の出土品(未盗掘)】

http://grekisi.pref.gunma.jp/kikaku.html

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(クリックすると拡大します)

2020年9月 1日 (火)

〈方位の考古学〉PDF版

検索したら,上記の文章がアップしてあった。

後々の利便を考えて,リンクしておきます。

【〈方位の考古学〉PDF版】

https://iush.jp/uploads/files/20191119161903.pdf

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