2021年9月22日 (水)

これまでの〈方位の考古学〉の活用例の集計

このところ古墳づいているが,だいぶ資料がたまってきたので,

ここらで「これまでの〈方位の考古学〉の活用例」を集計してみたい。

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九州 ←←←←← 中国・四国 ←←←←← 畿内(大和) →→→→→ 中部 →→→→→ 関東・南東北 →→→→→ 北東北
100年          50年             ±0            50年          100年            150年

太宰府       岡山県の古墳(6)      箸墓古墳      長野県の明科廃寺  泉官衙遺跡(福島県)

鴻臚館                      百舌鳥・古市古墳群               さきたま古墳群(10)  

大野城                                                      瓦塔

女山神籠石                                               古代日本ハイウェー

小郡官衙遺跡

有田・小田部遺跡

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これまで〈方位の考古学〉では,「100年ズラす例」には恵まれたものの,

「50年ズラす例」が思いつかなかったので,少々悩んでいた。

それが,昨日岡山県の古墳が気になってやってみたところ,自分ではすぐ気が付かなかったが,

幸いなことに川瀬さんに気が付いていただき,それもよく話題になる箸墓古墳や

世界文化遺産の百舌鳥・古市古墳群と関係する形になったものだから,かなり埋まった。

今日は島根県の古墳をやったので,これからは東日本に進出できたらと思っている。

できたら中部地方の遺跡(古墳?)でと思っているのだが,そんなに立て続けにうまくいくだろうか?                               

島根県の古墳を50年ズラしてみると・・・

島根県にも古くから多くの古墳があり,

中には100mほどの大型のものもあります。

資料が多すぎてまとめにくいので,

あるサイトのまとめを利用させていただきます。

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Img_1698_20210922052801

スタートが4世紀前半のようですので,50年ズラすと3世紀後半。

山陰でも大和や吉備と同じころから古墳づくりをしていたようです。

ただし,最盛期でも100mくらいが大きさの限度で,それ以上のものはありません。

中には,四隅突出型古墳というユニークな形の古墳もあります。

「ウィキペディア」によると,「現在の調査では、弥生中期後半の広島県三次盆地に最も古い例がみられる。

弥生後期後葉から美作備後の北部地域や後期後半から出雲島根県東部)・伯耆鳥取県西部)を中心にした山陰地方に広まった。

北陸では少し遅れ能登半島などで造られている。

源流は今のところ判明していないが、貼り石方形墓から発展したという可能性もある」とのこと。

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【山陰の古墳】・・・写真も多いですが,全部で24ページあります。

https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/event/saninshisekigaidobook.data/2.pdf

撥型(琵琶の撥と同じ型)古墳

奈良県の箸墓古墳と岡山県の中山古茶臼山古墳が時期が同じなのは分かった。

でも,それは「偶然そうだっただけじゃないか」という疑問を持った方もいるだろう。

古代史があまり得意でない人もいる「夢ブログ」なので一挙に情報は流さなかったが,

川瀬さんがコメントですでに指摘しているように,

この二つの古墳は「撥型(琵琶の撥と同じ型)古墳 」であるという共通点を持っているのだ。

前方後円(方)墳外形の変遷(近藤義郎,1968)

Img_1699_20210922105301

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【ウィキペディア・前方後円墳】

古い形の前方後円墳は前方部は低く撥形をしており、後円部は新古にかかわらず大きく高く造られている。

撥形にしているのは、葬列が傾斜の緩やかな道を通れるように前方部の左右の稜線のどちらかを伸ばしたものと考えられている。

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確かに撥型古墳は,古い時代のもののようです。

検索しているうちに,出雲からも撥型古墳の話題が出てきました。

実は,岡山県のあとは,島根県の古墳をやろうと思っていたのです。(ラッキー!)

また,他の府県にも撥型古墳があるという研究もありました。

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【これまでの雲南市(雲南市ブランド化プロジェクト)~松本古墳群の撥型古墳】

http://www.co-unnan.jp/brand-rekishi.php?logid=251

ほかにもいろいろ,撥型古墳はあるようです。

【撥型とされている古墳・永井正範】

http://nagai.sub.jp/ronbun_pdf/kohun/kohun04.pdf

2021年9月21日 (火)

速報!箸墓古墳(奈良県)や百舌鳥・古市古墳群(大阪府)と古さを比べてみた!

本日,岡山県の古墳を〈方位の考古学〉で扱った際,

最も古い古墳は,次のものだった。

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中山茶臼山古墳(岡山市)105m・前方後円墳・4世紀前半→3世紀後半 ※吉備津神社の裏山・吉備津彦命の墓か?

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そして,本日さっそく川瀬さんからコメントでご指摘いただいた「奈良県の箸墓古墳」。これも3世紀後半だ。

つまり,同じ時期に2つの古墳は造られたことになる。

なにも箸墓古墳が「我が国最古」とは言えないのだ。

ということは・・・〈方位の考古学〉はここでも威力を発揮しそうなのだ。

また,本日,岡山県の「三大古墳」も扱った。

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●造山古墳(岡山市)350m・前方後円墳・5世紀前半→4世紀後半 ※岡山県最大・全国4位

●作山古墳(総社市)282m・前方後円墳・5世紀中頃→5世紀初め ※岡山県2位・全国10位

●両宮山古墳(赤磐市)200m・前方後円墳・5世紀後半→5世紀前半 ※岡山県3位・全国36位

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以下の説明が百舌鳥・古市古墳群(4世紀後半~5世紀後半)についてのサイトに出ていた。

これまた,古墳を造った時期がぴったり重なるのだ。

これまで〈方位の考古学〉で「中間地域・50年ズラす」というのがなかなか使いにくかったが,

古墳のことについては大変役に立ちそうである。さっそく反応していただいた川瀬さんに感謝したい。

「百舌鳥・古市古墳群は、古墳時代の最盛期(4世紀後半から5世紀後半)にかけて築造された、古代日本列島の王たちの墓群です。古代日本の政治文化の中心地のひとつであり、大陸に向かう航路の出発点であった大阪平野に位置しています。墳丘の長さおよそ500mにおよぶものをはじめとする、世界でも独特な鍵穴型の前方後円墳が多数集まり、これらと多数の中小墳墓が密集して群を形成しています。」

★古墳の大きさランキング(200m以上)

https://www.city.sakai.lg.jp/smph/kanko/rekishi/dkofun/ranking/zenkoku.html

百舌鳥・古市古墳群:世界遺産勧告 伝統と社会構造証明 イコモス ...の画像 世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」|朝日衛生材料の画像


岡山県の古墳を50年ズラしてみると・・・

〈方位の考古学〉で九州やさきたま古墳群の古墳を100年ズラしてみると,

大変興味深いことがわかってきました。

「柳の下に・・・」ではないですが,ほかのところもやってみましょう。

まず,吉備地方。岡山県をやってみます。

ここは中間地帯なので,50年ズラします。

岡山県のホームページ「遺跡紹介コーナー」を使いました。

https://www.pref.okayama.jp/site/kodai/628879.html

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●中山茶臼山古墳(岡山市)105m・前方後円墳・4世紀前半→3世紀後半 ※吉備津神社の裏山・吉備津彦命の墓か?

●神宮寺山古墳(岡山市)150m・前方後円墳・4世紀後半→5世紀初め→4世紀前半~4世紀半ば

●造山古墳(岡山市)350m・前方後円墳・5世紀前半→4世紀後半 ※岡山県最大・全国4位

●作山古墳(総社市)282m・前方後円墳・5世紀中頃→5世紀初め ※岡山県2位・全国10位

●両宮山古墳(赤磐市)206m・前方後円墳・5世紀後半→5世紀半ば ※岡山県3位

●こうもり塚古墳(総社市)100m・前方後円墳・6世紀→

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4世紀から5世紀半ばにかけて,かなり強い力を持っていたようです。

他にも古墳群などがあって,長い間勢力が続いたことが分かります。

写真もたくさん載っているので,ぜひリンク先を訪問してみて下さい。

拝所からみた中山茶臼山古墳

                     中山茶臼山古墳(108m・前方後円墳・吉備津彦命の墓?)

造山古墳   

         造山古墳(350m・前方後円墳・全国4位)

 

 

 

 

2021年9月20日 (月)

日本列島における璧の出土地の分布図

日本における璧の出土地の分布図があったらいいなあ,とふと思った。

検索したらこんな地図が出てきた。

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玉壁の出土 日本の画像

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これって,それ?

九州島しかないということは,他の地域(近畿とか)からは

まったく出土していないということですよね。

 

璧・玉璧

ウィキペディア等で検索してみました。

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【ウィキペディア・璧】

(へき)は、古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器。

多くは軟玉から作られた[1][2]。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もある。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%92%A7

前漢時代の楚王墓から出土した璧

(「双璧」「完璧」 という言い方は,ここからきているんですね)

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玉璧 の画像】

玉壁玉壁の画像 玉壁玉壁の画像 玉壁玉壁の画像 玉壁玉壁の画像

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玉璧 とは】

http://abc0120.net/words03/abc2009121804.html

玉壁

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【三雲南小路遺跡から出土したガラス】

https://www.yoshinogari.jp/ym/episode05/organization_2.html

写真:福岡県の三雲南小路遺跡1号甕棺墓出土ガラス壁

三雲南小路遺跡では32m×31mの方形墳丘墓内の1号棺から前漢鏡35面、金銅製四葉座飾金具8個、ガラス璧(へき)8個、青銅武器4口、ガラス勾玉(まがたま)3個、2号棺からは前漢鏡22面、ヒスイ勾玉、ガラス勾玉12個、ガラス璧片などが出土しました。

 

 

 

4世紀の大型古墳は北部九州にないか?

昨日の表の中で,気になっていることがあった。

「4世紀には北部九州に大型古墳はないのか?」ということだ。

〈方位の考古学〉で100年ズラせば西都原古墳群が4世紀にあたるのだから,

宮崎県にあるのではないか・・・とも思ったが,

3世紀(博多湾地方) → 4世紀(宮崎県・西都原古墳群) → 5世紀(筑後地方) → 6世紀(宗像地方)

と前に書いたが,2番目の4世紀が急にワープして飛んだような気がしていたのだ。

そこでもう一度資料を見た結果,こんなふうに考えた。

4世紀の北部九州にも大型古墳があるのではないか。

今確認したところ,該当しそうな古墳が見つかった。

★法正寺古墳(102m)~福岡県うきは市 前方後円墳 4世紀末→3世紀末

★石人山古墳(110m)~福岡県八女郡広川町 前方後円墳 5世紀前半~中頃→4世紀前半~中頃

★石櫃山古墳(115m)~福岡県久留米市 前方後円墳 5世紀後半→4世紀後半

この後,

★岩戸山古墳(138m)~福岡県八女市 前方後円墳 6世紀前半→5世紀前半

★田主丸大塚古墳(103m)~福岡県久留米市 前方後円墳 6世紀後半→5世紀後半

というふうに入ると,北部九州のなめらかなバトンタッチができるように思う。

これらは,最初の資料をよく見れば,書いてあることであった。

    ※     ※     ※

さて,そうなると,西都原古墳群が「宙に浮く」とまでは行かないが,「連続性がない」ということになる。

なぜなら,築後地方には4世紀の古墳がいくつもあり,3世紀と5世紀の「橋渡し」をしていたからだ。

九州で一番大きい女狭穂塚古墳(176m)や男狭穂塚古墳(155m) 5世紀前半→4世紀前半

あるいは,西都市の児屋根塚古墳(110m) 5世紀前半→4世紀前半

また,松本塚古墳(104m)5世紀末~6世紀初頭→4世紀末~5世紀初頭というものだ。

これらはどういう位置づければいいのだろうか?

1つの推理のきっかけとして,宮崎県串間市からは「玉璧」と呼ばれるものが見つかっている。

海外からの亡命王朝の証拠なのかもしれない。

その玉壁は,直径33.3cm,重さ1.6キロというから,ただモノではない。

(1.5リットルのペットボトルより重いのだ!)

この夏,西都原考古学博物館では,特別展がひらかれたという。

今私は古墳の時代の「流れ」を次のように考えている。

A 3世紀(博多湾地方) → 4世紀から5世紀にかけて(筑後地方・5世紀に「倭の五王」) → 6世紀(宗像地方)

B 中国からの亡命王朝の古墳 4世紀前半~5世紀初頭(宮崎県・西都原古墳群など)

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串間で出土した玉璧テーマに特別展 西都原考古学博物館

https://www.asahi.com/articles/ASP8W6SN1P86TNAB001.html

 

2021年9月19日 (日)

中心王朝は,ずっと九州島から出なかった

古賀さんの「洛中洛外日記」の「九州王朝の末裔たち~『続日本後紀』にいた筑紫の君」によると,

古田武彦氏らによって,明らかにされた倭王やその一族の名前は,以下のようであるという。

★は,肥沼が補ったものです。

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三世紀 卑弥呼(倭風名称)              ★弥生時代の金属器(青銅器・鉄器)の中心は,北部九州であった(肥沼)
    壹與 (国名+中国風一字名称)
           〈『三国志』魏志倭人伝〉      ★「古事記」には,女王の記事は出て来ない。

四世紀 倭王旨(中国風一字名称)            その代わりとして?「日本書紀」には「神功皇后」が登場する。(肥沼)
           〈七支刀・石上神宮蔵〉
五世紀 倭国王・倭讃(国名+中国風一字名称)     ★〈方位の考古学〉によれば,5世紀前半に岩戸山古墳(八女市)が,

    倭国王・珍 (中国風一字名称)            5世紀後半には田主丸大塚古墳(久留米市)が作られた。(肥沼)
        倭隋(国名+中国風一字名称)
    倭国王・済 (中国風一字名称)
    倭国王・興 (中国風一字名称)
    倭国王・武 (中国風一字名称)
           〈『宋書』倭国伝〉

六世紀 日十大王年 (倭風名称+中国風一字名称)
              〈人物画像鏡・隅田八幡神社蔵〉
    委意斯移麻岐弥(国名+倭風名称、倭石今君か)
              〈『日本書紀』継体紀「百済本記」〉
    筑紫の君磐井 (倭風名称)                  ★筑紫は,北部九州の呼び名である。(肥沼)
              〈『筑後国風土記逸文』〉
    筑紫の君葛子 (倭風名称)
              〈『日本書紀』継体紀〉
    筑紫君の兒・筑紫火君〔弟〕
          火中君 〔兄〕
             〈『日本書紀』欽明紀「百済本記」〉

七世紀 阿毎多利思北孤(倭風名称)
             〈『隋書』イ妥国伝〉          ★『隋書』には,阿蘇山(熊本県)の記事が出て来る(肥沼)
    上宮法皇   〈法隆寺釈迦三尊光背銘〉
    筑紫の君薩夜麻  (倭風名称)
              〈『日本書紀』天智紀〉

イ妥(たい)*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO。

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古田武彦氏の『失われた九州王朝』(朝日新聞社。角川文庫。朝日文庫。現在は手はミネルヴァ書房から復刊)には,

「序章 連鎖の論理」として,「中国側は前二世紀から七世紀に至る倭国側の中心の王朝を,

"一貫して連続した王朝"と見なしているのではないか?」と書かれている。

つまり,九州王朝説が古代を理解する一番有力な考え方だということだ。

近畿王朝は,九州王朝(主戦派)の白村江の敗戦のあと,本家である九州王朝を併呑し,

「日本書紀」という偽装の書を使って,「自分たちこそが本家である」と主張し始めたのだった。

(近畿で作られていた「古事記」は,鎌倉時代に再発見されるまでその存在を隠されたので,

「続日本紀」には登場しない。「なかった」ことにされたのだった)

2021年9月18日 (土)

大極殿の在処は?(川瀬さん)~主語有無の論証による

私のコメントに対して,川瀬さんが大極殿の在処を推理して下さいました。

以下に掲載したいと思います。

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> (肥沼)大切なのは,大極殿のありかより,
その「詔」は誰が出したのか(出させられたのか)ということのような気がします。

(川瀬さん)いや、いつ大極殿が始まったか、どの宮に大極殿があったのかなかったのかも大事です。
そしてこれも「主語有無の論証」で明らかにできます。

 書紀における大極殿の初出がいつか知っていますか?
 皇極紀の最後、いわゆる乙巳の変、蘇我入鹿暗殺事件です。書紀ははっきりと大極殿にてと記します。
 従来説は、そして古田学派もこれを疑問視し、例えば岩波文庫の書紀の注は「大安殿の間違い」とします。
 なぜなら皇極の宮である板葺宮跡からは大極殿は出ないからです。
 でも書紀が嘘を書いていないのなら、大極殿でこの暗殺事件は起きた。

 ここからは九州王朝説の出番です。
 九州王朝説に立てばこの事件の場所は大和飛鳥ではなくて、九州の九州王朝の宮で起きたこと。そしてこの宮にはすでに大極殿があったということです。

 ではこの宮はどこか?
 この事件の直後に皇極は退位し弟の軽皇子が即位します(孝徳)。そして孝徳は遷都を宣言します。これが難波長柄豊碕宮。
 従来説はこれを大阪の前期難波宮とします。
 でも「主語有無の論証」で孝徳紀を読んでいくと、どう考えてもこれは飛鳥でも摂津でもなく、九州の宮です。
 なんと孝徳は近畿天皇家の王族・廷臣挙げて九州に移ったことがわかります。
 これは隋唐と対抗路線を取っている九州王朝を絶対的に支持する動き。
 これに近畿天皇家内部から反対路線が出てきます。
 最初は蘇我倉山田麻呂。
 彼は飛鳥に戻っていたのですが、孝徳は反乱をでっち上げて彼を殺します。
 この事件がきっかけで、孝徳の皇太子(次期大王)である葛城王(中大兄)が反旗を翻し、彼の母である前大王皇極と妹である孝徳の妃、さらに彼の弟(大海人)らと語らって飛鳥の宮に戻ってしまいます。
 近畿天皇家の分裂です。
 その中で孝徳は病にかかって死にます。その場は難波宮と書紀は記します。
 通説派はこの宮と難波長柄豊碕宮を同一とします。
 でもこれはおかしい。
 書紀の記述ではいわゆる大化改新令が出ると同時に新都造営が始まります。そしてほぼこれが完成した時白雉改元が行われて、その後新都が完成します。書紀の記述は味経宮。
 通説派はこの宮の場所は不明としています。

 私はこれこそ太宰府政庁=大極殿と朝堂院を中心とした政庁のすぐ北にあった内裏のことだと思います。
 では九州王朝がこの新都=味経宮:太宰府に移る前の首都はどこにあったか。
 これこそ孝徳が死去した場所である難波宮だと考えます。 
 この宮は文字通り、博多湾岸の難波に作られた宮。

 ここが乙巳の変が行われた宮で、ここが初めて大極殿が作られた宮。
 だが発掘で見つかっていないので、完全に無視されている。

 九州王朝で大極殿を持つ宮は
1:難波宮⇒2:味経宮(=太宰府)⇒3:飛鳥浄御原宮  の順です。

 しかし太宰府に都した九州王朝は唐・新羅に敗れ勢力を失い近畿天皇家に吸収されます。
 吸収した時の近畿大王は天智。

 つまり天智が作った近江京こそは九州王朝のための都。
 ここには大極殿があったに違いありませんが、中枢が掘られていないので未確認。

 そして天智ー大友を倒した天武は、近江京に居た九州王朝天皇を飛鳥に伴って岡本宮に戻る。
 ここで天武は岡本宮の南側に九州王朝天皇のための宮殿=エビノコ郭をつくる。

 その後天武は九州王朝天皇のための本格的な大極殿もある条坊都市をつくろうとした。
 これが前期難波宮と未完成に終わった難波京(上町台地は条坊都市を作るには狭い)。
 だから天武紀の中の九州王朝の天皇の発した詔はここで出されたと思う。

 だが九州王朝の天皇はずっと近畿にいたわけではない。
 前にコメントしたが、天武紀で正月元旦の朝見礼が行われているのは一年毎。つまり九州王朝の天皇は前期難波宮ができてからも一年おきに九州に戻っていた。
 どこに戻ったかというと例の難波宮。きっと太宰府は何らかの理由で使えなかったのだろう。
 したがって九州王朝の天皇が九州に居たとき出した詔は難波宮で出されたはず。

 だが天武15年に火災が起きて難波宮は焼亡した。
 そこで九州王朝は新たな宮の造営に着手し、完成とともに年号も変えた。朱鳥に。
 このときの新宮が飛鳥浄御原宮だと書紀は明記する。

 この宮が天武が即位した宮だというのは書紀の偽装。
 天武即位の時にはこの宮はない。だから後期岡本宮=飛鳥浄御原宮という通説は間違い。

 天武死後の大王位を巡る混乱を収拾した持統は、本格的な九州王朝天皇のための大極殿を備えた条坊都市建設に着手する。

 この新都が藤原京だ。
 この新都完成の直前に九州王朝天皇は船で伊勢に行幸し、その後陸路で飛鳥に入り、おそらく岡本宮で新都完成を待ったはず。

 そして新都=藤原京ができてからの九州王朝天皇の詔はここの大極殿で発せられたはずだ。
 

 近畿天皇家の宮で大極殿の歴史は
1:天智の近江京⇒2:天武の難波宮⇒3:持統の藤原京

 以上のことは書紀を「主語有無の論証」を使って精査すると明らか。

 あとは大極殿を伴う宮が近畿にない時に、近畿にいた九州王朝天皇の詔がどこで出されたかだ?
 仮説としては岡本宮の大安殿の代用だ。
 でも近畿に大極殿を持つ宮がない時代には、九州王朝の天皇の詔は近畿では出されなかった可能性もある。
 ここは書紀の精査で、九州王朝天皇の詔が出された時期と、難波宮や藤原京の完成時期を照らし合わせると判断可能だと思います。

 最後に明らかなことは、九州王朝天皇から近畿大王持統の孫に天皇位が禅譲された場所は、藤原京であり、この儀式が行われたのは、藤原宮の大極殿だ。

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(肥沼)まるでジェットコースターのような歴史の動きは,歴史教科書で学んだ内容とはまったく違う。
また,九州王朝説から学んでいる人にとっても,未知の知見だと思います。
私としては,矢印の入った地図がほしいところです。

あと,「一年おきに九州に戻っていた」というのは,古代の「参勤交代」のようなことなのでしょうか?
まさか,九州王朝の天皇が「一人旅」をすることはないでしょうから・・・莫大なお金が掛かったはずです。

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