2022年3月24日 (木)

NHKテレビ「ミステリアス古墳SP」

4つの古墳を紹介しながら,古代史を考える番組。

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(1)今城山古墳(大阪府)・・・多数のはにわは葬列か

(2)岩戸山古墳(福岡県)・・・破壊された「石人石馬」の謎

(3)チブサン古墳(熊本県)・・・カラフルな装飾古墳

(4)綿貫観音山古墳(群馬県)・・・未盗掘の豪華な副葬品

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今城塚古墳 埴輪の画像

Iwatoyama-kofun enkei.JPG

チブサン古墳|国指定史跡|熊本県

綿貫観音山古墳出土品が国宝に | 高崎新聞 群馬県 - 史跡観音山古墳へのご案内

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岩戸山古墳は古田武彦さんたちと行ったことがある。

また,綿貫観音山古墳は高崎サークルを開いている青年センターのすぐ近くにある。

2022年3月14日 (月)

弥生時代の硯と机

友人が「邪馬台国」の最近のDVDを送ってくれた。

それには,二代有力地として,畿内と北九州があげられ,

その証拠としていくつかの物証を提出していた。

畿内・・・大きな建物,水銀,各地の土器

北九州・・・硯(吉野ケ里)や机(雀居),鉄製品, 魏志倭人伝の建物群

古田氏は,かなり前から「文字外交をしていた」と言っていたと思う。

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笹井遺跡 硯 机の画像

硯。北九州で40点出土していると言っていました。

2022年3月 1日 (火)

吉備池廃寺金堂と武蔵国分尼寺金堂の掘込地業

「ならぶんけんブログ」の2016年の記事に,

「(133)古代の地盤改良」という記事が出ている。

今山田さんが吉備池廃寺について論じていらっしゃるので,

興味をひかれて転載してみた。

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(133)古代の地盤改良



穴掘り 土砂で固める

皆さんが生活する家。 家の下の地盤が軟らかいと、家の重さを支え切れずに家が沈み込んで傾くおそれがあります。

そこで、しっかりとした地盤につくりかえる地盤改良の工事をおこなう場合があります。 この地盤改良工事、実は千数百年前からおこなわれていました。

特に、瓦葺(ぶ)き屋根の建物は、草葺きや板葺きの屋根よりもはるかに重いため、軟らかい土地に建てる場合、念入りな地盤改良が必要でした。 土台となる部分をプール状に掘り下げて、そこに土と砂を交互に入れて、版築(はんちく)の工法でつき固めました。 この地盤改良は掘込地業(ほりこみじぎょう)と呼ばれ、日本で最も古い仏教寺院である飛鳥寺(明日香村)の造営時に採用され、その後、宮殿の建設にも用いられました。

飛鳥寺の造営は、朝鮮半島の技術者たちを招いて588年に始まります。 飛鳥寺より古い朝鮮半島の寺院にも掘込地業がみられることから、朝鮮半島からきた技術者が、日本に地盤改良の技術を伝えたのでしょう。

 何気なく立っているように見える文化財の建造物ですが、見えない地下の部分にも建物を支える知恵と工夫がこらされているのです。

 

(133)古代の地盤改良.jpg

吉備池廃寺金堂(桜井市)の掘込地業

(奈良文化財研究所主任研究員 青木敬)

(読売新聞2016年2月28日掲載)

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実は,武蔵国分尼寺の金堂跡の後方に「掘込地業」の様子を見やすいように地下に展示していて,

「そういえば国分尼寺金堂にもあっけ」と思い出したのだった。

ということは,こちらも結構古い時代の寺院建築(聖武の国分寺建立の詔・741年ではなく)なのか。



※ sanmaoの歴暦徒然草より

https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2022/02/post-5ffd72.html

基壇の大きさを知る手がかりになったのは、掘込地業(ほりこみじぎよう)という工法です。これは、地面を基壇とほぼ同じ大きさに四角く掘り下げて、その底から基壇土を稲み上げるという、ひじょうに丁寧な基礎工法です。飛鳥時代の建築によくみられますが、時代が降ると、地面の上に直接土を横む簡略な方法にかわります。

2022年2月17日 (木)

鉛同位体比

「鉛同位体比で,その銅鏡が卑弥呼がもらったものかどうかを調べる」

そういう研究方法がある。

それによると,魏の年号入りの「三角縁神獣鏡」は国産(イ方製鏡)で,

卑弥呼の鏡ではないことが確実となったそうだ。

新井宏著『理系の目から視点からみた考古学の論争点』(大和書房

2007年)ほかで発表されているそうだ。

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「古田史学会報」2022年2月15日(№168)より

2022年2月 8日 (火)

泉官衙遺跡の柱には,クリ材が使われていた

泉官衙遺跡の柱はクリ材だったという記事が出ていた。

クリ材は丈夫ということで知られる木材である。

(確か三内丸山遺跡の巨大建築物もクリ材だったと思う)

「掘立柱建物」ということは,礎石建物より古い時代の建て方だ。

ぜひ年輪年代で確かめてほしいものだ。

〈方位の考古学〉では,泉官衙遺跡を

通説を100年遡って6世紀後半スタート考えている。

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【泉官衙遺跡の柱はクリ材】

https://www.city.minamisoma.lg.jp/material/files/group/43/20180517-135310.pdf

1644304901824

 

2022年1月29日 (土)

ムーヤマの伝承(竹富島)

沖縄にある竹富島は,古い伝承に彩られている島である。

本日の「ブラタモリ」は,竹富島を取り上げていた。

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・島立伝説(六山)・


御嶽と神司
 竹富島では、オン(御嶽=聖地)をヤマ(山)と言います。このヤマは高い所という意ではなく、木が生い茂っている場所の意です。オン(御嶽=聖地)は、どこでも鬱蒼とした森の中にあります。
 ムーヤマ(六山)とは、竹富島の六つの重要なオン(御嶽=聖地)のことで、島の村の始まりであると伝えています。『琉球国由来記』(1713年)では、その由来について次のように記しています。
 昔、竹富島に根原カンドゥ、アラシハナカサナリ、幸本フシガーラ、久間原ハツ、タカネトノ、塩川トノという六人の酋長がいて、彼らは住民を愛し仲良く暮らしていたが、村の守護神・豊作の神がいなかったので神の招来を願ったところ、次のように神々が渡来した。

  
(1)屋久島から渡来した神=玻座間御嶽(根原カミトノが祀る)
  (2)沖縄本島から渡来した神=仲筋御嶽(アラシハナカサナリが祀る)
  (3)久米島から渡来した神=幸本御嶽(幸本フシカワラが祀る)
  (4)沖縄本島から渡来した神=久間原御嶽(久間原ハツが祀る)
  (5)沖縄本島から渡来した神=花城御嶽(タカネトノが祀る)
  (6)徳之島から渡来した神=波利若御嶽(塩川トノが祀る)

 
六山の一つ 久間原御嶽
新里村跡遺跡

 このようにして、渡来した神を祀りましたが、今ではその酋長たちもオン(御嶽=聖地)の神として祀られており、口頭伝承では六人の酋長たちがそれぞれの島から渡来したと語っています。また、竹富島では、六人の酋長たちの次のような土地の分配の話も伝えています。
 竹富島は面積が狭く、耕地が少ないので、領地争いの紛争をなくすために、六人の酋長たちが話し合いをした。
その結果、


(1)
花城村のタカネトノは、土地よりも海を所望し、竹富島の卯・辰・巳・午(東~南)の海の所有者になった。
(2)
玻座間村の根原カミトノは、ミシャシ(美崎)付近の土地を所有し、粟作に努めたので「粟の神」になった。また、北の美崎のアイヌソイ・イルノソイなどの大きな岩の近くの海を領有した。
(3)
幸本村の幸本フシカワラは、竹富島の西方のフージャヌクミ付近の土地を所有し、豆類を栽培したので「豆の神」になった。また、竹富島の西の海を領有した。
(4)
仲筋村のアラシハナカサナリは、島の中央部の土地を所有し、麦作に努めたので「麦の神」になった。また、竹富島の戌亥(北西)の海を領有した。
(5)
久間原村の久間原ハツは、ヒシャール・クムイ・カイジなどの土地を所有したが、耕作地として不向きだったので、植林に励んで「山の神」になった。また、島の未・申(南西)の海を領有した。
(6) 波利若村の塩川トノは無欲な人だったので、新里村の一角のわずかな土地と竹富島の寅(東北)の海を領有した。しかも彼は、一番若かったので「雨の神」になって、先輩の酋長たちの作物の生長を祈った。

 以上のように竹富島のムーヤマの話は、お互いに協力し合い、争いを避けて平和的に解決しようとする姿勢で貫かれています。換言するならば、竹富島の「うつぐみの心」は、既にムーヤマ(六山)の神々の時代から始まっていたのです。

※ 4年前に学年旅行で竹富島を訪問したことがある。

石垣島の頭慢さんにも会えた楽しい旅行だった。

また沖縄を訪問して,頭慢さんと再会したい。

 

2022年1月27日 (木)

太宰府出土戸籍木簡に関連して(上城さん)

上城さんのコメントで紹介していただいた論考。

読ませていただきましたが,私には難し過ぎました。

位階制度の「秘密」がどこかにあるような気がしますが,

具体的には語れません。

どなたか反応していただけるとありがたいです。

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太宰府出土戸籍木簡に関連して

https://iush.jp/uploads/files/20181115173114.pdf

2022年1月26日 (水)

日本書紀の中の「賜」の分布

日本書紀の中の「賜」の分布を調べてみました。

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神代上●●

神代下●●●●●●●●●

神武●●●●●

綏靖

安寧

懿徳

孝昭

孝安

孝霊

孝元

開化

崇神

垂仁●●●●●●●

景行~成務●●●●●

仲哀

神功●●●●●

応神●●●●●

仁徳●●●●

履中~反正●●

允恭~安康●

雄略●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

清寧~仁賢●●●●●●●●●●●

武烈

継体●●●●●●●●●●●●●●●●●●

安閑~宣化●

欽明●●●●●●●●●●●●

敏達●●●●●

用明~崇峻●

推古●●●

舒明●●

皇極●●●●●●●●

孝徳●●●●●●●●●●●●●

斉明●●●●●

天智●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●

天武上●●●●●●

天武下●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●71

持統●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●96

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日本書紀とは - コトバンクの画像

日本書紀の中の「拝」の分布

日本書紀の中の「拝」の分布を調べてみました。

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神代上

神代下●

神武●

綏靖

安寧

懿徳

孝昭

孝安

孝霊

孝元

開化

崇神

垂仁

景行~成務●●●●●

仲哀

神功●●

応神●

仁徳●

履中

反正

允恭~安康●●

雄略●●●

清寧~仁賢●●●

武烈

継体●●●

欽明●●●●●●●●

敏達●●●

用明~崇峻●

推古●●●●●●●●

舒明●

皇極●●●●

孝徳●●●●●●●●

天智●●●●●

天武上●●●●●

天武下●●●●●●●●●●●●●●●●●

持統●●●●●●●●●

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日本書紀とは - コトバンクの画像

2022年1月25日 (火)

筑紫史益という人

古賀さんの「洛中洛外日記」に筑紫史益のことが出てきた。

日本書紀に一度だけ登場する筑紫史益という人。

九州年号の中に位置づけてみるとこんな感じだ。

30年近く重職を担当してきたようだが・・・。

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継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)・・・・・・・・・・・・・筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都?

仁王・・・623~634年(12年間)   
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)             
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)・・・・・・・・・・・・筑紫史益が662(691-29)年に「典」に拝される
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆・・・・・・・・・・・・持統紀五年(691年)正月条に持統天皇による次の詔が見えます。

                               「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に        

                               二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふ  

                               とぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」


大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

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筑紫史益が太宰府典に拝されたということは,九州王朝の内部の出世をしたということであり,

それなのに,大和が主導権を握った持統天皇の頃になってたくさんのものを賜ったということだから,

唐・新羅との白村江の戦いの戦中・戦後の混乱期に両王朝の間に入って尽力したということだろう。

そうでないと,出世と賜物との間に矛盾が生じるからだ。

しかし,その後筑紫史益は歴史から姿を消す。

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