2017年8月17日 (木)

2つの暦が混在している日本書紀

関裕二著『「日本書紀」は古代史を偽装したのか』(じっぴコンパクト新書)を読んでいたら,
2つの暦のことが出てきた。
儀鳳暦(ぎほうれき)と元嘉暦(げんかれき)である。(山田さんの専門かな?)
この2つは両方とも中国で作られたものなのだが,後者の方が古く,前者の方が新しい。
問題は,この2つが日本書紀の中でどのように出てくるかである。

(1)巻三の神武紀~巻十三の安康即位前紀 新しい儀鳳暦を使用
(2)巻十三の安康3年~巻三十の持統4年 古い元嘉暦を使用
(3)持統5年~ 新しい儀鳳暦を使用(ただし,持統4年に併用する旨の記事)
※「続日本紀」 文武元年(697年)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用

小川清彦氏が,『日本書紀』の中で2つの異なった暦が使用されていることを発見し,
倉西裕子氏が「安康紀以降の歴史的事象を記録した元嘉暦を用いた
編年体の史書が存在していた」と
『「記紀」はいかに成立してきたか』(講談社選書メチエ)に書かれているそうだ。

唐の新しい儀鳳暦が伝わったのは,676~679年あたり。
白村江の戦い(663年頃)の敗北と九州王朝の衰退や筑紫大地震(679年)と
大きな歴史的変動の中で,大和を中心とした「歴史づくり」が始まっていったのだろうか。
(古事記の方はどうなんでしょうか?)

「12弁の菊花紋」についての新情報

昨日は,うれしいことがあった。
1年半ほど前に「夢ブログ」に書いた記事に,
「通りすがりBさん」が反応して下さったからだ。
なんでも古い実家の建物の丸瓦の土?セメント?が剥がれ落ちて,
そこに12弁の菊花紋が出て来たというのだ。
(詳しくは,コメントをご覧下さい)

そして,その理由を探るうちに,「夢ブログ」を訪問することになったという。
素晴らしいことである。今はパソコンの普及により,自分が知りたいことを
検索によって知ることができるようになっている。
また,私としても,貴重な情報を教えていただけることになったという次第。

このサイトにはすでに「通りすがり」さんがおられるので,
仮名として「通りすがりB」さんとさせていただきましたが,
今後ともよろしく「長居」あるいは「定住」していただいて,
情報交換ができればと思います。

12弁の菊花紋は,九州王朝の家紋か?

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2016/01/post-7e58.html

2017年8月14日 (月)

古事記と日本書紀,そして日本書紀と続日本紀

歴史教科書には「古事記と日本書紀」などと,平気で書いてあるが,
実はこの二書は同時に存在することを許されない書なのである。

古事記は大和地方のそれまでの歩みを推古天皇のところまで書いたもので,
平たく言えば「大和政権以前のもの」である。
政権をとるや,闇に葬られ,日本書紀が正史として講読されてきた。

実は,正史である続日本紀には古事記が作られたことが出てこない。
だから偽書説もあったほどなのだ。それが鎌倉時代に古事記が出てきてしまって,
さあ大変!ということになったのだった。

では,「六国史」などと言われる日本書紀と続日本紀は,
並列して書いて大丈夫なのだろうか。
実はこの二書にも,上とはまた違う事情がある。
実は,これも矛盾した内容となっているのだ。

日本書紀では,大化が最初で,朱鳥や白鳳と飛び石的なのだが,
続日本紀には「701年に大宝で建元した」と誇らしく書いているのだ。

日本書紀・・・あくまでも昔から大和政権が支配してきたという建前で書かれている。
 「主語の有無」の論証でかなり歴史の謎が解けそうな気配が・・・

続日本紀・・・九州王朝からの政権移譲後なので,
一番トップが大和の天皇だと言える立場で書かれている。
 日本書紀のようにはいかないが,かえって九州王朝の痕跡が見つかるかも・・・

この二書の表現(「主語有無」の論証がどの程度有効か)について,
今熱い議論が交わされているのが,
「古田史学の継承のために」というサイトである。
意見のやりとりを見ているだけでドキドキする。

古田史学の継承のために

http://koesan21.cocolog-nifty.com/keishou/

2017年8月13日 (日)

「駅鈴」情報

駅鈴についての情報を集めるために,
とりあえずこの項を使います。
興味のある方だけ見ていただいて,
フツーの読者はスルーして下さい。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(1) ウィキペディア「駅鈴」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%85%E9%88%B4

(2) 億岐家と駅鈴

http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm

(3) 日本書紀・天武紀・元年六月

「甲申(二十四日)に,東に入らむとす。時に一の臣有りて,奏して日さく,
「近江の群臣,元より謀心有り。必ず天下を害らむ。則ち道路通ひ難からむ。
何ぞ一人の兵無くして,徒手にして東に入りたまはむ。
臣恐るらくは,事の就らざらむことを」とまうす。
天皇,従ひて,男依等を返し召さむと思欲す。則ち大分君恵尺・黄書造大伴・逢臣志摩を
留守司高坂王のもとに遣して,駅鈴を乞はしめたまふ。因りて恵尺等に謂りて日はく,
「若しを得ずは,すなわち志摩に還りて覆奏せ。恵尺は馳せて,近江に往きて,
高市皇子・大津皇子を喚して,伊勢に逢へ」とのたまふ。既にして恵尺等,留守司のもとに至りて,
東宮の命を挙げて,駅鈴を高坂王に乞ふ。然るに聴さず。時に恵尺,近江に往く。
志摩は乃ち還りて,復奏して日さく,「を得ず」とまうす」

(4) 世界大百科事典 第2版の解説・えきれい【駅鈴】

日本古代の駅伝制で公務出張者や公文書伝送の駅使らに駅馬利用の資格証明として貸与された鈴。駅鈴には身分によって利用しうる駅馬の頭数を示した剋(こく)という刻みがあったといい,親王・一位に10剋,二~三位に8剋,四位に6剋,五位に5剋,六~八位に3剋,初位以下に2剋の駅鈴が貸与されるが,隠岐国造(おきのくにのみやつこ)家に伝わる八稜鈴には刻みがないので正しいものか否か問題になっている。あるいは大和朝廷時代から律令時代初期までは実際に刻みがあり,やがて刻みをやめて剋数を記した書類を添付することにした可能性がある。
出典 株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について

(5) 和を識るmichiしるべ

https://www.wawoshiru.com/single-post/2017/08/08/1300%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E9%9F%B3%E8%89%B2%E3%81%8C%E3%81%8A%E5%87%BA%E8%BF%8E%E3%81%88%EF%BD%9E%E9%9A%A0%E5%B2%90-%E3%81%9D%E3%81%AE%EF%BC%91-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E7%B7%A8%EF%BD%9E

(6) 隠岐倉印(現存は,駿河・但馬・隠岐の3つのみ)

http://www.town.okinoshima.shimane.jp/www/contents/1001000000248/index.html

(7) 「駅鈴のレプリカ」は1万2000円(肥さんの夢ブログ)

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2013/03/post-39c6.html

(8) 「延喜式」のきまりと本居宣長の「玉勝間」の情報

http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/ekirei.html

(9) 宣長の息子が作った駅鈴の模造品(レプリカ)

http://www.shodo.co.jp/tenrai/article/serial01/115-1-0.htm

(10) 駅鈴の音色(4秒間)

http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/images5/ekirei2.WAV

(11) 書紀孝徳紀の大化二年の改革の詔。(川瀬さんからご教示いただきました。常色3年・649年のことらしい)

二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。

其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造國造村首所有部曲之民・處々田莊。仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛賜官人百姓、有差。又曰、大夫所使治民也、能盡其治則民頼之。故、重其祿、所以爲民也。

其二曰、初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、兄、此云制西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取國造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依傳符剋數。凡諸國及關、給契鈴。並長官執、無次官執。

其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。凡五十戸爲里、毎里置長一人、掌按檢戸口・課殖農桑・禁察非違・催駈賦役。若山谷阻險・地遠人稀之處、隨便量置。凡田長卅步・廣十二步、爲段。十段爲町。段租稻二束二把、町租稻廿二束。其四曰、罷舊賦役、而行田之調。凡絹絁絲綿、並隨鄕土所出。田一町絹一丈、四町成匹。長四丈、廣二尺半。絁二丈、二町成匹。長廣同絹。布四丈、長廣同絹絁。一町成端。絲綿絇屯、諸處不見。別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄、亦隨鄕土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一匹。若細馬毎二百戸輸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者、改舊毎卅戸一人、以一人充廝也。而毎五十戸一人、以一人充廝。以死諸司。以五十戸、充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺、庸米五斗。凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者。從丁一人、從女二人。以一百戸、充采女一人粮。庸布・庸米、皆准仕丁。
 
其の二に「初修京師、置畿內國司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。」と駅鈴が出てきます。

(12) 仲麻呂の乱に際して

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/7735468.html

(13) 駅鈴は役人が2時間ごとに交代で管理していた

「古代ハイウェー」の番組の中で,上記のことを記録した木簡が
発見されたと紹介していた。

2017年8月11日 (金)

上野恩賜公園

7月1日に「愛の世代ズ」がライブに出演したのは,
上野公園の野外ステージだった。
これ,正式には「上野恩賜(おんし)公園」というのだ。
つまり,何らかの理由で,
君主が臣下にほうびをあげることを「恩賜」というのだ。
(この場合には,1924年,東京市へ下賜)

「賜(たまわ)る」という古い言い方もある。
だから,この文字が使われていたら,
「君子 → 臣下 」という関係が背景にありますよ
(ただし,畏(おそ)れ多いので,主語は書きませんけどね)
というのが,ルールということなのだろう。

今回上城さんの質問に川瀬さんが答えたのは,
「賜」・・・主語なし・・・九州王朝
という「主語有無」の論証の一つのいい例として,
覚えておきたい。

川瀬さんの答えも鮮やかだが,
質問してくれた上城さんも素晴らしい。
学問の進展というのは,
こういうやりとりの中から生まれてくるのだと思う。
どしどし質問して,その精度を証明できたらいいな。

恩賜

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B3%9C

恩賜公園

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%A9%E8%B3%9C%E5%85%AC%E5%9C%92

2017年8月 8日 (火)

『日本書紀』(四)(五)を購入する

岩波文庫版『日本書紀』の(四)と(五)を買ってきた。
川瀬さんが発見された「主語有無」の論証を検証するためである。

岩波文庫版は,読み下し文がメインだが,
それでも各巻の後半には原文が付いている。

字が小さいのがちょっと大変だが,
川瀬さんが指摘された箇所をたどる作業を始めてみた。

最初は慣れない作業で疲れたが,だんだんと探す時間が短くなり,
干支をたよりに探すと能率がいいことも発見して楽しくなってきた。
そして,ついに天武紀の15ケ所と持統紀の39ケ所を探すことができた。(合計54ケ所)

P8080843_4

P8080842

P8080844

岩波の「古典文学大系」版も以前持っていたのだが,
引っ越しにともなう荷物削減作業で・・・。
でも,何も書いていない岩波文庫版の中に文章を探す作業は,
宝探しのようでなかなか楽しかった。
下のように区別しています。

九州王朝の場合・・・主語なし・・・〈   〉~宮の名前

大和政権の場合・・・主語あり・・・〈天皇〉~宮の名前


2017年8月 7日 (月)

「主語有無」の論証

昨日発表された川瀬さんの論文は,
大変わかりやすく,しかも日本書紀の解明をする上で,
画期的な論証であったと思う。

九州王朝の場合・・・主語なし
大和政権の場合・・・主語あり

これを「主語有無」の論証とでも呼んだらいいのか。
統計的な処理が可能で,誰でもその検証でき,
中学生にも理解可能な論証である。

これは本来古田武彦氏が使っていた論証といってよく,
もう1つ推し進めれば,
「それに立ち戻って」と川瀬さんは願っているのだと思う。

詳しくは,「書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査」まで。

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/08/post-c112.html

●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査(川瀬さん)

先日の「●古賀・大下論争を読み解く―「前期難波宮九州王朝副都説」について」に続き,
またまた川瀬さんの記事を掲載させていただきます。
日本書紀の「読み解き方」がわかったという,大変重要な問題についてです。
日本で初めて(ということは世界で初めて)かもしれません。
ぜひ歴史に関心のある方はお読み下さい。

方法は,自然科学の方法のようにいたってシンプルです。
「主語が書かれているか,いないかで,誰がやったことかが判明する」というもの。
しかし,これは日本書紀という謎の多い本をこじ開ける,素晴らしい鍵となっていたようです。
やはり,この本にも「謎解きの鍵」が隠されていたのでした。

前回と同じように,「はじめに」と「まとめ」を全文載せて,内容をつかめるようにしてあります。
時間がない,歴史は苦手という方は,ここだけでも読んで感想をお聞かせください。
今年の8月6日(もう7日になってしまいましたが)は,すごい日になってしまいました。(肥さん)

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●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査

                          川瀬健一

はじめに:
 古賀さんが天武 15 年 1 月に「難波宮」が炎上したが、その半年後の七月に書紀では年号 が朱鳥に改元されているのだから、これも「難波宮」炎上という大事件を契機に改元した と解釈しているが、この解釈は本当に成り立つのだろうか。
 まずこの記事に出てくる「難波宮」が、大阪の上町台地にある前期難波宮である保証は
どこにもない。書紀記事には二か所の異なる難波があり、さらに書紀孝徳紀には、九州王朝の都として難波宮の文字も見られる。
 したがって天武 15 年 1 月に炎上した「難波宮」とは、孝徳紀において九州王朝が「新宮」 に遷都する前の都であった可能性もあるのだ。
 そこで書紀天武紀の宮関係記事を精査してみた。そして併せてそのあとの書紀持統紀の宮関係記事も精査してみた。
 その結果、前記の難波宮炎上関係だけではなく、白村江敗戦以後の九州王朝と近畿天皇家の関係を伺わせる、驚くべき事実が浮かび上がってきた。

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●書紀天武紀・持統紀宮関係記事の精査

                        川瀬健一

http://kawa-k.vis.ne.jp/2017806tenmu

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▽まとめ:
 天武 15 年にあたる朱鳥元年七月に焼失した難波宮は、書紀天武紀宮関係記事を読んでみれば、九州王朝の九州にある難波宮としか読めない。そして現に書紀記事を読めば、「難波大藏省失火、宮室悉焚」と記しておきながら、そのあと混乱が生じたような記事はまったくなく、宮が焼失した翌日に「天皇御於大安殿、喚諸王卿賜宴、因以賜絁綿布各有差。」と大安殿で宴を催し、さらに翌日には「宴後宮」、さ らにその翌日には、「朝庭大酺」とあり朝廷で大規模な酒宴を開いているのだ。
 どう読んでも天武の宮廷が焼失したようには思えないのである。
 だから古賀さんはこの時焼失した「難波宮」は上町台地の九州王朝の副都であって天武の都ではないと言いたいのかもしれないが。そう考えるよりも、九州の難波の九州王朝のかつての首都の跡地に新たに作った「難波宮」が焼失したと考えた方が適切である。

 しかし以上の書紀天武紀・持統紀宮関係記事を精査してみるとさらに多くのことが見え てくる。
1: 壬申の乱後に天武が戻った倭京の岡本の宮の南に作った新たな宮室は、九州王朝の天子の為の物であった可能性が読み取られた。すなわち壬申の乱とは、九州王朝に逆らって近江朝廷を名乗った天智・大友政権を倒すために、天武が九州王朝天子を頂いて起こし た戦いであったとの、新たな歴史認識を導き出すのだ。 そして
2:乱後の天武が最初に居したのは岡本の宮。ここが天武即位の宮だ。飛鳥浄御原宮だというのは、書紀編者の造作。天武が九州王朝天子の為に作った岡本宮の南の宮室の名を飛鳥浄御原宮だとして、天武即位の宮が九州王朝の宮であったかのように偽装した可能性。 さらに、
3:天武は遅くとも天武七年までに新宮を造営していた。これが前期難波宮である可能性 あり。 またさらに、
4:天武は条坊を伴う大規模な京師の造営にも、遅くとも天武十三年には入っていた。即ち藤原京の可能性。もしかして藤原京、しかも条坊都市の真ん中に宮室を置く形の南朝系 の京師は、九州王朝の天子を迎え入れるための都であった可能性も見られる。 そして一方の九州王朝は
5:九州の新城の地に新たな宮の造営を進め、これは遅くとも天武十二年には始まり、天武十五年朱鳥元年には完成した。すなわち飛鳥浄御原宮。この一方で九州王朝は副都とで もいうべき宮を各地に作ろうとして、その一つが天武十二年 12 月にある難波宮。さらに信 濃にも都を模索していたことも伺える。
6:藤原京造営のこと。 天武の時代にすでに一度藤原京が造営された可能性が大きい。それを持統の代になって新たに造営(改造・拡大?)。しかもその目的が九州王朝の天子 を迎え入れるためであった可能性が大きい。 つまり列島における天皇(天子)の地位を、九州王朝から近畿天皇家が合法的に譲り受 けることをやった可能性が、以上の宮関係記事から見えてくるのである。
7:持統の吉野行幸について 古田さんは、これは白村江以前の九州王朝天子が軍事拠点である吉野ヶ里に行幸した記事を盗用したものとした。だが古田さんは書紀持統紀が行幸を示すときに主語を省略する 場合と明記する場合があることに注意せず、両者を混同した上で先の結論をだしている。
 
 この書紀記事 34 年遡り説は誤りではないだろうか。
 事実は、持統の時代にはすでに九州王朝の天子は大和に移っており、近畿天皇家の庇護下にあったのではなかろうか。そして天武が最初造営した九州王朝天子のための宮・藤原京には天子は遷らなかったが、持統の代になってさらに藤原京は拡大造営され(もしかしてこの時に条坊都市の北側に宮室が置かれる形式に改められたのかもしれないが)、この藤 原京に九州王朝天子は遷った。
 この新たな宮の造営の過程で、そして造営なって遷宮したあとも九州王朝天子はしばば吉野に行幸したということではなかったのか。もちろん大和の吉野だ。
 古田さんは、吉野は桜の名所としている。もちろんそうなのだが、紅葉の名所でもあるし、夏ならば猛暑に見舞われる大和盆地よりも、高所にある吉野は涼しく避暑地でもある。 そして比較的暖かな吉野は冬と言っても雪で閉ざされる地ではない。
 だから一年中吉野に行くことが可能であったのではないだろうか。

 天武紀・持統紀の宮関係記事の精査からはこうしたことが読み取れる。
そして持統十一年の八月に皇太子に天皇の位を譲った記録で書紀持統紀は終わるが、これは持統⇒文武の形の記録になってはいるが、実際は九州王朝天子⇒文武の形の権力の移 譲だったのではないだろうか。
 すなわち九州王朝から近畿天皇家への権力の移行は、禅譲だったと思われる。
 そして文武紀から始まる『続日本紀』を読んでみると、冒頭から天皇として君臨するこ
とを述べた詔からこの書は始まる形式をとっており、文武の行動はすべて、主語が省略さ れた天子としての記述法によっている。
 つまり大宝律令制定を待たずに、文武は即位の時から天皇だったわけだ。
 これも従来説を覆す発見である。

最後に『続日本紀』に文武が難波宮に行幸した記事があることを紹介してこの稿を終えよう。
①『続日本紀』巻一文武三年(六九九)正月癸未廿七癸未。詔授内藥官桑原加都直廣肆賜 姓連。姓賞勤公也。是日。幸難波宮。
②『続日本紀』巻一文武三年(六九九)二月丁未丙戌朔廿二二月丁未。車駕至自難波宮。

 これは天武によって造営された難波宮が文武の時代まで継続していたことを示す貴重な 記録である。
 冒頭に論じた、天武十五年=朱鳥元年の難波宮焼亡記事は、天武の宮ではなく、当時九 州王朝が新たに造営した難波宮(博多の)焼亡の記事であったことの有力な証拠である。 (2017年 8月6日)

2017年8月 6日 (日)

「おのくんハウス」への訪問と多賀城等の探索

前夜の興奮がまだ残っている感じで,
スポーツ紙を2紙買って読んだ。
共に楽天が一面の記事だった。

午前中に陸前小野の「おのくんハウス」へ。
ちょうど武田さんがいらして,「おのくん」関係の絵本を2冊買う。
1年半ぶりなのでゆっくりしていたかったが,
お昼に近くに多賀城に戻る予定だったので,上りの快速に乗る。

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P8050775

2時間ほど多賀城付近を散策する。
いつものコースとはちょっと変えてみた。

【多賀城碑】 ちょうど南門から入った中央の通り(南大路)のすぐ東脇にあったことになる。
のちに藤原朝狩の父・阿倍仲麻呂が「恵美押勝の乱」を起こしたので,
息子の朝狩の多賀城改修の手柄は「続日本紀」には載らなかったのだろうか?
(群馬県の多胡碑でも朝狩が登場してきたような・・・)

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【東門付近建物など】 南北軸の建物と西偏したものとが混在している。
調べてみる価値ありかな。

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【東西道路】

東西を横断する石敷き道路(巾も広い!)の存在も,今回北側を巡ってみて初めて気が付いた。

【荒脛巾神社】 東門のさらに先の民家の中にそれはあった。
家の方に断わって見学させていただく。
足が悪かった先祖が荒巾き神社にお願いして,治してもらった。
それがもとになり,子宝を期待する人がお参りしたり,
悪いことを断ち切りたい人がハサミを納に来るらしい。
もともとはエミシたちの神か。

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P8050798

【東北歴史博物館と多賀城廃寺】

「漢字が書かれた兵馬俑」の公開もあったが,体力温存のため次回に。

2017年8月 3日 (木)

国分寺と七重塔

上記の題名で須田勉氏が『国分寺の創建(思想・制度編)』に
書いているのを最近発見した。(遅い・・・)

【文献史料から七重塔であることが確認できる例】

・近江国分寺(『日本紀略』弘仁十一年(八二〇)十一月庚申条)
・武蔵国分寺(『続日本後紀』承和十二年(八四五)三月己巳条)
・陸奥国分寺(『日本紀略』承平四年(九三四)閏正月十五日条)

【日本の飛鳥・奈良時代の寺院で,七重塔以上の規模をもつ塔】

・百済大寺(吉備池廃寺)     九重塔(回廊内)
・高市大寺(天武朝大官大寺)  九重塔か(百済大寺と同規模か)
・文武朝大官大寺          九重塔(塔二基を計画か,回廊内)
・大安寺                七重塔(塔二基,回廊外で塔院を形成)
・東大寺                七重塔(塔二基,回廊外で塔院を形成)

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