古賀さんの「洛中洛外日記」に筑紫史益のことが出てきた。
日本書紀に一度だけ登場する筑紫史益という人。
九州年号の中に位置づけてみるとこんな感じだ。
30年近く重職を担当してきたようだが・・・。
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継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)・・・・・・・・・・・・・筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都?
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)・・・・・・・・・・・・筑紫史益が662(691-29)年に「典」に拝される
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆・・・・・・・・・・・・持統紀五年(691年)正月条に持統天皇による次の詔が見えます。
「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に
二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふ
とぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)
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筑紫史益が太宰府典に拝されたということは,九州王朝の内部の出世をしたということであり,
それなのに,大和が主導権を握った持統天皇の頃になってたくさんのものを賜ったということだから,
唐・新羅との白村江の戦いの戦中・戦後の混乱期に両王朝の間に入って尽力したということだろう。
そうでないと,出世と賜物との間に矛盾が生じるからだ。
しかし,その後筑紫史益は歴史から姿を消す。

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