2017年11月21日 (火)

東大寺の移築~倭會の最期の地・小倉山東大寺のこと

多元的「国分寺」研究サークルの盟友の1人である山田さんが,
このところ魅力的な論考を連発され,
再び川瀬さんと私に「復活の時」を迫っているように思える。
それは,以下のような論考である。

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東大寺の伽藍配置について
― 不思議な中軸線のずれ ―

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そして,以下のようにまとめておられる。

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妄想すれば、中門・大仏殿・講堂を造った時期と、
東西塔院・廻廊を造った時期が異なっているのではないでしょうか。
どんな理由にせよ、中門が廻廊南辺の中央にない
(大きく違うのならまだしもわずかに違う)のは不審です。
廻廊を後から作ったのであれば南辺の中央にできたはずだからです。
そうすれば講堂・大仏殿・中門・廻廊が一つの中軸線によって整ったのですから。

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私は故米田良三氏の『逆賊磐井は国父倭會(いわい)だ』(新泉社)を読んでいて,
いつか氏の著作が役に立つ時が来ると思ってきた。
それが「今」ではないかと思ったので,使わせていただく。

氏によると,薬師寺,長谷寺とともに東大寺も,奈良に移築されたということだ。
あんな巨大な寺院を移築するなんて!
と誰しも思うところであるが,木は水に浮き,
運ぶのは陸上より楽だということを忘れてはならない。
九州(大分県)と奈良県は,ほぼ瀬戸内海という水路でつながっているのである。
そこで,山田さんの論考に,さらに私の考えを乗せてみる。

① まず,九州(大分県)からの移築と「サイズ縮小」によって,
 「東大寺(1)」(中門・大仏殿・講堂)が作られた。・・・7世紀末
② さらに,741年の「国分寺建立の詔」を出すにあたって,東西の塔を移築し,廻廊を作った。・・・8世紀半ば
➂ 鎌倉時代に南大門を移築される。運慶らの金剛力士像が入れられる。

①と②との間に約半世紀の時間があり,一方は政権を握る前,一方は握った後である。
そんな事情もあって,南北方位が一致していないのではないか。
もしかしたら,尺法が変化したため,そのずれが出たのかもしれない。(南朝尺→唐尺)

前にも書いたが,「少しの違いが大きな違い」ということがある。
山田さんの「わずかな違い」の発見が,歴史上の「大きな違い」の発見であることを祈る。

Dscn0069

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ところで,南大門には「大華厳寺」という扁額が掛かっています。
東大寺の「異称」と言われているそうですが,
正式名は「金光明四天王護国之寺」なわけで,
どうしてこの名が付いているのか,「ひょっとして本来の寺の名なのか,
「謎」として付け加えておきます。
国分寺の本山「東大寺」も,多元的に考えないと,
本当のことはわからないということでしょうか。゜

東大寺・南大門の「大華厳寺」の扁額

https://www.jalan.net/yad395879/blog/entry0004039344.html


2017年11月20日 (月)

コラム 九州王朝は駅鈴も作ったか?(11/21版) 

『古代に真実を求めて』に掲載していただくために,
「九州王朝は駅鈴も作ったか?」を短く縮めてみました。
「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」の方は,
無事掲載の見込みです。

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古田史学では、複数の同じ言葉を統計的に処理しながら、「ここではこういう意味で使われている」などと論証を進めていく。自然科学なら仮説を立て、実験で決着をつけることができるが、人文科学ではなかなかそういう機会には恵まれないからだ。
また、大量の考古出土物が発掘されれば、その分布図が描けるので、それを使用したり,埋設したり,廃棄したりした場所の中心が特定できる。すなわち文化圏がわかるのである。
(2種類の銅鏡,銅剣・銅矛・銅戈と銅鐸など)
では、1~2個しかないものだったらどうか?たとえば駅鈴について考えてみよう。
これは現在本物が,隠岐にしかないとされている。(2個だそうだ)当然これでは「分布図」は作れない。※しかも「刻み」がないため、偽物説もある。では、駅鈴は「なかった」ということになるのだろうか。
また、そもそも駅鈴は誰(どこの王朝)がつくったものなのだろうか。そのことは、九州王朝説の強化に使用できないだろうか。ということで、私の考えを書いてみたいと思う。
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【その1】 改新の詔の「其の二」に駅鈴は出てくる
其の二の最初と最後に「鈴」ということで駅鈴が出てくる。(『日本書紀』孝徳紀)
ただし、川瀬健一さんからご教示いただいたところによると、これは常色三年(六四九)のことらしい。ということは、九州王朝の時代であり、白村江の戦いが迫る時期=古代日本ハイウェーの建設と重なる時期ということになる。まさに古代官道と駅鈴は、切っても切れない関係にあったということではないか。
しかも天武紀には、壬申の乱の描写が駅鈴をめぐって、生々しく迫力満点で描かれている。これで、「駅鈴はなかった」としたら、歴史の研究はまぼろしに終わる。

【その2】 駅鈴は厳重に管理されていた
NHK・BS2で2年前に放送された「古代日本のハイウェー~1300年前の“列島改造”」という番組を観ることができた。(二〇〇九年放送。二〇一二年再放送)その番組の中で、「最近解読された木簡に、兵士が2時間ごとに交代で駅鈴を見張っている」という事実が取り上げられていた。駅鈴は、確かに「あった」である。しかも厳重に管理されていた。

【その3】 だが、現存の駅鈴は隠岐のものだけ
正史(盗用ではあるにせよ)にも書かれ、しかも厳重に管理されていた駅鈴が、さらに天武紀ではあれほど印象的に表現されていた駅鈴が、今は隠岐の2個しかないという事実。私には信じがたい。奈良時代から一三〇〇年経ってはいるけれど、駅鈴の数は多数に上ったと思われるので、それが2個だけしか残っていないのは不自然に思われるのである。私はそこに前王朝の事物の回収・廃棄(金属なので溶かすというのも含め)があったのではないかと思う。これを持たれたままだと、九州王朝側の人たちに使われてしまう危険性があるからだ。

(事実「続日本紀」七〇七年、七〇八年、七一七年の3回にわたって、「山沢亡命」記事が出ている)そして,九州王朝の時代の駅鈴との違いを付けるため,「刻み」を入れたと考えた。(身分により利用できる馬の数が違うようだ)
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唯一2個の駅鈴が現存する億岐家。
「億岐家と駅鈴」サイト http://www.rundoki.com/okiietoekirei.htm
上記のサイトには、駅鈴が伝えられたいきさつを書いてある。ぜひ訪問してみていただきたい。また,億岐家の壺は、上記のサイトに写真が出ている。どなたか、年代の鑑定ができる方はいないでしょうか。かなり古そうな壺なのですが・・・。
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私の仮説は、次の3つである。
仮説1 ・・・ 九州王朝は、古代日本ハイウェーの建設と同時に、あるいはそれ以前から駅鈴を作っていた。(それには「刻み」はなく、文書とともに使われた)

仮説2 ・・・ だが、大和政権に主権が移譲されるとともに、それらのほとんどは回収・廃棄された。そして、大和政権によって新しい「刻み」のある駅鈴に作り替えられた。

仮説3 ・・・ しかし、九州王朝の「刻み」のない駅鈴を億岐家は壺の中に隠し保存された。それゆえ、九州王朝当時の駅鈴の2個だけが現存している。(大和政権の「刻み」のある駅鈴は,律令制の衰退とともに廃棄されていった)
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※ これまで「刻み」がないことで,「偽物扱い」になっていたらしい隠岐の駅鈴。
 逆に「刻み」がないことが、九州王朝時代の「真作」の証明になると思われる。
 なぜなら、もし大和政権の駅鈴を壺の中に隠してもっていたら、意味がないし、逆に公のものを隠していること自体が問題とされよう。 前王朝=九州王朝の時代の駅鈴だからこそ、壺の中に隠し持つ意味があり、当然「口外無用」ということになるのである。ここに多元的「駅鈴」研究の意義がある。

※ 駅鈴に「刻み」を入れて支給した記事が、「続日本紀」に出てくる。
「常陸国に十剋、遠江国に七剋の駅鈴を、伊豆・出雲の二国にも駅鈴をそれぞれ一つ宛を支給した」
これがあの日本書紀の完成のわずか二か月前の「三月二十三日」の記事である。
駅鈴も造り変え、歴史もねつ造し・・・・、と私は勘ぐってしまうが、いかがだろうか。 

2017年11月19日 (日)

肥さんの「多元的古代」研究テーマ

古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』に出会って40年。
『吉野ヶ里の秘密』で再開して以来,30年近くの歳月が流れた。

最初は著作を渉猟するだけだった私も,
やがて研究会に入り,また講演会に通うようになり,
さらにちゃっかり研究旅行にご一緒するようになり,
自分でも何か研究できたらいいなあと思うようになった。

授業プラン〈「邪馬台国」はどこだ!〉1992年は,
仮説実験授業と古田史学の融合で,
考古出土物(銅鏡,青銅器,鉄器,絹)の分布を予想させ,
「邪馬台国」のありかを探るものである。
シンプルなプランではあるが,中学校に入学してきた生徒たちを,
地理では授業書《世界の国ぐに》の第1部〈いろいろな世界地図〉で歓迎し,
歴史では〈「邪馬台国」はどこだ!〉でまた別の歓迎をするという
地歴両面のサービスをしている。

その後,なかなか研究テーマというものが見つからなかったが,
20年経って,私は思いもよらなかった,地元の古代官道についての文章を書くことになる。
「古代日本ハイウェーは,九州王朝が作った軍用道路か?」2012年である。
これはNHK・BS2で放送された「古代日本ハイウェー~1300年前の“列島改造”」を視聴し,
これは白村江の戦いの前に九州王朝が作った軍用道路ではないかとひらめき,
「夢ブログ」に書くとともに,「古田史学会報」に投稿した。(2012年2月号)
その後川瀬さんにご批判いただいた部分を手直しして,『古代に真実を求めて』に投稿。
西村さんの「南海道」の発見(王朝の変更でコース変更か)もあるので,心強い。

この経験がさらに,その東山道武蔵路の沿道に建っている武蔵国分寺の研究につながる。
つまり「「国分寺」はなかった!」から始まる多元的「国分寺」研究サークルである。
これは2015年スタートの同名のブログでのサークルであり,
現在は川瀬さんや山田さんが論客の中心であり,私が学ばせていただいているものである。
しかし,最初のところでは,私の活躍もあった。
第1・・・武蔵国分寺の塔は南北の方位なのに,中門や金堂や講堂の方位は7度西偏している。
第2・・・聖武天皇の出した「国分寺建立の詔」の中には,「国分寺」という言葉が一回も出てこない。
 あるのは「七重塔を造れ。そうしたら金泥のお経をあげる」である。「国分寺」はなかった!
大きなテーマとしては,すでに九州王朝が国府寺を置いていて,それに七重塔を追加させようとした。
九州王朝が滅亡し,大和政権が跡を継いだので,自分たちがもとの寺も造ったことに・・・。
通説では,741年の「国分寺建立の詔」が国分寺のスタートだというが,
もっと古い7世紀のかなり立派な寺院跡(廃寺)や7世紀後半の白鳳瓦が各地から出土している。

道に関しては,さらに「「神無月の神話」は実話だった!?」というのも最近書いた。
つまり神無月に神々が集まるというのは,当時(私は弥生時代の前半と考えている)
出雲が日本の中では主権者であり,そこに神無月(10番目の月ではなく,「亥月」=最後の月。
これは山田さんから教えていただいた。さらにJames Macさんから来年の暦をもらいに
行っていたのではないか,などという壮大なテーマにまで発展してしまった。
本当に,人間の想像力というのはすごい!)

また,その道路を通行するのに,駅鈴が必要であった時代もあるわけで,
九州王朝は駅鈴も造ったか?などというのも書いた。
本当に道にはお世話になっていて,寝る時にも「足を向けられない」と思うのだが,
四方に道が張り巡らされているので,勘弁してもらっている。(笑。これはあいせだ・てるちゃんのネタ)

さて,その他の研究テーマを箇条書きにしておく。

(1) ONラインの研究(700年までと,701年からで大きな違い)~大和年号「大宝」のスタート,
 「評から郡へ」(藤原木簡),「朝賀」もなかった!,「無位」から従五位下(貴族)への大出世の謎
 
(2) 続日本紀の「はじめて〇〇した」は,大和政権が主語か?

(3) 東山道武蔵路の下には,出雲街道があるのではないか?(いきなり幅12mの直線道路は
いくら何でも発想しにくいのと,沿道に天王森の字名や八雲・八坂・氷川・白山など出雲系の神社)

まだまだあった気がするが,そろそろ学校に行く時間(休日出勤で,部活動とテストの印刷である。
ああ無情・・・)なので,思い出したら追加したい。

2017年11月17日 (金)

日本では「九輪」が多いが・・・

塔の相輪について,少し調べてみました。
すると,談山神社のことを書いているサイトがあって,
塔の相輪に注目して報告していました。

Q 談山神社の十三重塔の相輪の数はいくつでしょうか?

予想 ア.9個  イ.13個  ウ.その他

   ↓
   ↓
   ↓
   ↓
   ↓

A 実は,ウの7個が正解です。

Q その他の寺の塔についても,予想してみて下さい。

興福寺の五重塔・・・

当麻寺の三重塔・・・

法起寺の三重塔・・・

   ↓
   ↓
   ↓
   ↓
   ↓

A 興福寺の五重塔・・・9個

当麻寺の三重塔・・・8個

法起寺の三重塔・・・9個

ということで,日本では「九輪」が多いが,例外もある!
というところでしょうか。
外国はどうなのか,誰かご存知ないですかね?


2017年11月16日 (木)

「総国分寺・東大寺」について

「奈良の大仏」考

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/11/post-cb80.html

東大寺の東塔跡と西塔跡を訪ねて

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2017/06/post-055d.html

創建時基壇と「七重塔示す」瓦の大量出土

http://blog.goo.ne.jp/thetaoh/e/2e3eef0e39c151630dc0436dd116cc45

失われた巨大仏塔

https://matome.naver.jp/odai/2146407176593449601

東大寺の東塔・西塔は,七重塔のようです。

2017年11月14日 (火)

多元的「苗字」研究

教えていただいた「姫」氏を少し発展させてみる。

歴史で「冠位十二階」を教える時,
「蘇我氏の冠の色は,何色だったでしょうか?」と質問することがある。
これは「馬子も,蝦夷も,入鹿も,伝えられていない。
だから,皇室同様,「冠をさずける側」であり,
「授かる側ではなかった。それほど蘇我氏は権力があった」
というオチになる授業風景である。
ただし,これは歴史教科書の親分である
「勝者の歴史思想書」=「日本書紀」の主張であり,
本当はそうでないかもしれない。

ここでは多元的「苗字」研究ということで考えてみたい。
私が「大雑把な日本の歴史」で考えているのは,次の4段階である。

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(1) 各地の黒曜石の産地を中心とした縄文時代の「クニ」

(2) 青銅器という金属器(祭器)を中心とした出雲王朝の時代。天王(弥生時代前半)

(3) 青銅器にプラスして鉄器(武器)を中心とした九州王朝の時代。天皇(弥生時代後半)

(4) 白村江の戦いに敗れ,滅亡していく九州王朝に替わり,
 この日本列島の統治者として登場した大和政権(天皇)の時代。

 「続日本紀」等によれば,7世紀末までと8世紀からではまったく様子が違う。
 初めて大和政権が自力で年号を定める(大宝元年)。遣唐使をどんどん派遣する(山上憶良も)。
 「無位から従五位下(貴族)」への大出世。評から郡へ行政単位が替わる(藤原京木簡)。
  
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「神武天皇」以来大和がこの日本列島の統治者であり,
それ以外の者は「豪族」と呼ばれて臣下だったというようなこととは,
まったく違っているのが,7世紀末・8世紀初頭の様相なのである。

(1)と(2)の間の大変動~宗教的権威を背景とした支配。神無月(最後の亥月)の大集合。
(2)と(3)の間の大変動~「国譲り」で,大国主は出雲大社に祀られ,政権を失う。
(3)と(4)の間の大変動~九州王朝の滅亡と大和政権の誕生。

こう考えてくると,大和政権が№1になったのは8世紀初頭からであり,
従ってそれまで九州王朝のトップが名乗っていた天皇の呼称もそこからが始まりである
つまり,持統は天皇ではなく,文武からが天皇と名乗ることが出来たことになる。
なので,№2だった「日本書紀」は持統で終わり,№1となった「続日本紀」が文武から始まるのである。
私には,あまり渡来系の王族への興味がないので,下にリンクするだけにしておくが,
最後に,「天武天皇」の「本名」をご紹介しておこう。

天渟中原瀛真人天皇

このうち「真人」というのが「八色の姓」の最高位なのだが,
上の考察から考えてみると,№1の支配者が「豪族」たちに与えるのが姓である。
最高位とはいえ,天皇がもらってしまったら意味がないではないか。
つまりその時代はまだ別の王朝が№1で,天武はそうではなかったということである。
また,奈良時代に入ると「真人」の贈位がインフレーション的な状態となり,
相対的に「真人」の価値が下がってしまったそうだ。

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苗字がないのは,日本の皇室だけ

https://srad.jp/comment/54584

皇室に姓はあるのか

http://www63.tok2.com/home2/ahonokouji/sub1-38.html

ウィキペディア「姫」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%AB

「出雲王朝」の栄えた時期

弥生時代は,いつ頃から何時頃までかを問うと,
大人の中には紀元をはさんで300年ずつくらいと答えるだろう。
(私もそう習った)
しかし,次の歴博の発表によると,現在考えられている弥生時代は,
紀元前10世紀から紀元3世紀の約1000年間ということになり,
昔の教養がぶっ飛ぶのである。

弥生時代

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

ところで,このところこの「夢ブログ」で盛り上がっている「出雲王朝」は,
いったいいつ頃栄えたのだろう。
また,同時に「国譲り」で政権を奪われたのは
いつ頃と考えたらいいのだろう。

と思ってJames Macさんのサイトを訪問したら,
さすが「早撃ちマック」の名を差し上げたいJames Macさん
以下の話をアップして下さっていました。

この中には,天皇家の苗字は「姫氏」であるという興味深い話も出てきます。

古田史学とMe(弥生時代の始まりと倭王権)

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/f4b594a40f910b3044c4e657d533112e

出雲地方の2つの大出土地

出雲地方の2つの大出土地がこのある。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡である。


荒神谷遺跡

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E7%A5%9E%E8%B0%B7%E9%81%BA%E8%B7%A1

加茂岩倉遺跡

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%8C%82%E5%B2%A9%E5%80%89%E9%81%BA%E8%B7%A1

荒神谷遺跡からは,「1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土」した。
これは当時発掘されていた銅剣(銅矛?)の数以上の数だったから,驚愕の発掘だった。

加茂岩倉遺跡からは,「1996年より1997年の2年間にわたり、・・・一カ所からの出土例としては
日本最多となる39口の銅鐸が発見」された。

それまで単なる「神話」の地方だった出雲は,一挙に「出雲王朝」の名前を冠する地と化した。
これらの考古出土物は,共通点として不思議な「×」という文字が刻まれ,謎の記号と思われていたが,
先日James Macさんのブログを読んだら,「出雲王朝の紋章」ではないかとのことだった。

天照大神を祀る伊勢神宮の象徴である鏡の「〇」を良い意味の記号と考えさせ,
大国主やスサノヲを主神とする出雲大社の象徴である銅矛の交差の「×」を
悪い意味の記号と考えさせたとしたら,それはものすごい影響力をもって
私たちの中に洗脳(スポイル)させられていることになる。

古田史学とMe(「牛頭天王」について(二))

http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/2c625fee02e83df6b33a954595a744b7

古代史研究にも,インターネットの威力

今や古代史研究にも,
インターネットの威力が欠かせない。

先日の「夢ブログ」の記事で,
「「神無月の神話」は実話!?」というのがあったが,
それに山田さんが「神無月は,亥月(最後の月)である」
とコメントしていただき,話がふくらんだ。

この件をいろいろな人に話してみたが,
私周辺の人は誰もご存じではなく,
「とりあえず言ってみること」の大切さを思った。

その後山田さんは,ご自身のブログ
「「神無月」と「神在月」― 出雲王朝の年度計画会議 ―」を書かれ,
それにたいして西村さんとJames Macさんがコメント。
今は「出雲王朝の暦について― James Macさまのご教示 ―」
という壮大なテーマにまで発展している。

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今後ともインターネットをフル活用して,
歴史解明のお役に立ちたいと思っています。
「肥さんの夢ブログ」はもちろんのこと,
「多元的「国分寺」研究サークル」
「古田史学の継承のために」にも,
ご支援・ご協力いただければ幸いです。

2017年11月12日 (日)

合田さんの“「温湯碑」の建立の地は”論文に,牛頭天王

サイト内検索というのが便利で,時々使っているが,
多元的古代の論文については,
新・古代学の扉サイト(下にリンクしてあります)のものを利用している。

いくら多元的古代の研究をされている方が集まっていても,
すべての研究をすることはできないわけで,
それはおのずと濃い・薄いが出てくる。

試しに「牛頭天王」(ごずてんのう)と入力して検索してみると,
ヒットするのは上記の論文1つだけである。

私は出雲王朝・・・スサノヲ・・・牛頭天王という流れからも
九州王朝説を補強できるのではないかと考えているので,
「2件目」のヒットになるように頑張りたいと思う。

「新・古代学の扉」サイト

http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/jfuruta.html

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20,『伊予国風土記』に出雲の神である大己貴命・少彦名命による温泉開発説話は、
湯郡とあることから従来説はその地を温泉郡にある道後温泉としていた。
しかしながら、前述の通り温泉郡の設置は奈良時代中期以降であり、
また朝倉中心の越智国には出雲の影響が数多ある(隠岐島産の黒曜石の鏃出土や、
神社の祭 神は出雲系が多く見られ、特に牛頭天王<スサノオノ命>を祀る神社がやたらと多い)ことから
この説話も道後ではなく朝倉中心の越智国であった と思われること。(合田論文より。アンダーラインは肥沼)

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