2021年2月26日 (金)

筑前国分寺について(工事中)

川瀬さんからアドバイスいただいた点に取り組んでみることにしよう。

★筑前国分寺の総合判定
 九州王朝の東偏時代(6世紀末以前)の古式の国府寺の塔を七重に改造した。

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1:伽藍は東偏2度。ではすぐそばにある国府の方位はどうなのかなど周辺との関係を明らかにする。

→ 国府遺構は未発見とのことです。御笠郡大宰府近辺。候補地①太宰府市国分② 同市通古賀

 また,筑前国分尼寺は,筑前国分寺の西300mにあり,東偏2度。(川瀬さんが前に「東偏の国分寺として」

コメントの中に書かれたもの。筑前国分寺の南端の道を西に向かうと尼寺の南端にいたるが,データとしては見つかりませんでした。)

 2:伽藍のそれぞれの建物に改造の痕跡はあるのか? 特に塔。痕跡があればどういうものでここから何がわかるか。

→ 金堂は,現国分寺の地下にある。大官大寺式の伽藍配置か。

講堂について,Ⅰ期→Ⅱ期遺構・・・講堂基壇を南に約1.8mずらしている。

また,「9世紀に塔・講堂が瓦積基壇から乱石積基壇に改修された」とのこと。

「伽藍配置と出土古瓦(第11図の1・4,第12図の1・4)から国分寺に先行する寺院を想定し,その寺院を回収することに

よって国分寺とした」という論〇(八賀晋「国分寺建立における諸様相」(『日本古代の社会と経済』))もある。

 3:出土瓦の種類と出土状況。素弁・単弁・複弁・その他。それぞれの画像と出土地点など(建物毎の出土状況など)の確認。

→ 現在,写真が取り込めない状態(原因不明)です。ブログに載せているのはサイトのものを「画像をコピー」で使っています。

単弁,複弁,老司Ⅰ,鴻臚館Ⅰ式の瓦が出土しているようです。

 4:国府からの距離。正確な数値と国府の条坊や道との位置関係などの確認。

→候補地の➀太宰府市国分なら,僧寺・尼寺の近く。だが,➁太宰府市古賀なら何キロも離れている。

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この四つがわかると、伽藍の変遷の様相が推理できる。

2021年2月25日 (木)

『東村山 郷土のあゆみ5』出来上がる

上記の冊子が出来上がった。

東村山郷土研究会の50年誌である。

244ページもあるボリュームのある冊子で,

私はその制作過程の苦労も知っているので,

本当に「ご苦労様でした」と言いたい。m●m

私の文章も1ページだけ収められていて,

「東村山郷土研究会への質問」というもの。

東村山市を縦断する東山道武蔵路について,

(1)大和朝廷の官道とする史料はいったいどこにあるのか?

(2)何世紀のいつ頃に作られたのか?

(3)8世紀(771年)に武蔵国は

東山道から東海道にコース変更になるが,それはなぜか?

という3つの質問をさせていただいた。

244分の1の分量で,%にしたら0.5%未満だが,

自分なりの一文を寄せられたかなと思う。

ということは,たくさん6世紀末以前の遺跡があった

泉官衙遺跡Ⅰ期が東偏=九州王朝による6世紀末の遺跡だったとすると,

たくさんの6世紀末以前の遺跡があったことになる。

というのも,今から2年半前私は「東偏・僕」のあだ名を名乗り,

全国の東偏「5度」(最初は)の遺跡を収集していたからである。

【東偏5度の遺跡】

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/09/post-b677.html

 

泉官衙遺跡Ⅰ期は,東偏。ということは・・・

今再び多元的「国分寺」研究を始めているが,

「伽藍の中軸線の方位・・・東偏=九州王朝時代で6世紀末以前」

というふうに〈方位の考古学〉を活用している。

これで気になるのが,泉官衙遺跡Ⅰ期である。

Ⅰ期は東偏の時代なので,これも「九州王朝の時代で6世紀末以前」となるのではないか?

藤木海著『南相馬に躍動する古代の郡衙・泉官衙遺跡』(新泉社)によると,

Ⅰ期は「7世紀後半~8世紀初頭」ということなので,

1世紀近く遡らせる必要がありそうだ。

(2年前には,謎の軒丸瓦について議論があったが,あれも遡る?)

今回発掘された木柱の年輪年代の測定が待たれる。

郡庁院の建物跡から発掘した木柱について説明する藤木さん

=福島県南相馬市原町区泉寺家前の泉官衙遺跡で2020年11月5日、高橋秀郎撮影

2021年2月23日 (火)

「薩摩国分寺」の精査(川瀬さん)の改訂版

川瀬さんのコメントの改訂版が出ましたのでアップします。

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【「薩摩国分寺」の精査(川瀬さん)】

1:創建期:6世紀末以前  飛鳥寺式伽藍 素弁八葉蓮華文軒丸瓦
2:再建期1:7世紀中頃  観世音寺式伽藍 単弁蓮華文軒丸瓦
        西金堂→金堂に 金堂→講堂に  東金堂→解体して8.6m四方の塔に
  ※その後金堂が何らかの理由で建て直される
    礎石建物→掘立柱建物(仮堂ではないか?)
  ※その後瓦は複弁軒丸瓦に改装。
3:再再建期:8世紀中頃か 大官大寺式伽藍に改造。
        金堂→解体  講堂→金堂に改造。 僧房→講堂に改造。
  

※この時8.6m四方の塔を改造しようとしたか?
     塔基壇の周囲に残る大きな柱穴=改造のための足場跡?・・・これが大官大寺式への改造の時期を聖武詔以後とした理由。

筑後国分寺は,条里線は東偏・現方位は西偏

ほぼ同じ規模の塔基壇(薩摩は8.6m,築後は9m)ということで,

筑後国分寺を考えてみよう。薩摩と同じように飛鳥寺式の創建だろうか。

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1:伽藍の中軸線の方位・・・現在は西偏:近畿王朝時代の新造だが地方権力が作ったもの

   条里線は東偏なので,創建時は東偏だったのではないか。

2:伽藍の構造・・・古式伽藍(塔が回廊の内):九州王朝時代の国府寺の塔を七重に改造した

3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する・・・単弁と考えると、7世紀中頃

4:国府からの距離・・・近い(5キロ以内)

総合判断・・・創建時には条里線に沿った東偏の国府寺が,

  後世民衆の力によって九州王朝時代の国府寺の塔を七重塔に改造された

  (何回も立て直されたのか,礎石も抜き取られ,金堂の位置もはっきりしないようだ)

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【歴史散歩№3・筑後国分寺】

https://www.city.kurume.fukuoka.jp/1080kankou/2015bunkazai/3050kurumeshishi/files/historywalk03.pdf

薩摩国分寺は,飛鳥寺式から大官大寺式への改造だった!

鹿児島県における寺院建立の開始と広がり 」(池畑耕一論文)を使って,

「薩摩国分寺の「塔基壇」の縮小?」という話題を「夢ブログ」上に提供しました。

すると,一夜にして川瀬さんが池畑論文を精査し,以下のような判定をして下さいました。

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1:伽藍の中軸線の方位・・・東偏3度:九州王朝時代で6世紀末以前

2:伽藍の構造・・・6世紀末の創建時伽藍は飛鳥寺式 → のちに大官大寺式に改造

3:出土瓦 服部さんの研究に依拠する・・・単弁と考えると、7世紀中頃

4:国府からの距離・・・近く(5キロ以内)

総合判定・・・二つ目の伽藍が聖武詔の時に存在した寺院。
 そしてこの少し前に瓦は複弁瓦に葺き替えられた。
 大官大寺式ですから塔が回廊の中にある古式寺院

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飛鳥寺式と言えば,奈良県の飛鳥寺しか思い浮かびませんが,

鹿児島県の薩摩国分寺の創建はそれだったのでした。ビックリです。

ちなみに,「飛鳥寺式伽藍配置」で検索してみたら,以下のように出ていました。

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飛鳥寺式伽藍配置





  • 中門からでる回廊が塔と3つの金堂を囲む。
  • 回廊の北側(外)に講堂をもつ。
  • 塔は中門、中金堂、講堂を結ぶ一直線上にあり、左右(西・東)に金堂をもつ。
  • 塔は仏舎利を埋納するという最も重要な施設という考え方が成立している。
  • 同様式をもつ例は国内にはない。

伽藍配置 飛鳥寺式



2021年2月22日 (月)

楽天が沖縄・金武キャンプを打ち上げ 石井監督は開幕投手明言せず

楽天が沖縄でのキャンプを打ち上げた。

田中・早川の新旧ドラ1の入団で,優勝への期待が広がった。

ぜひ彼らを助ける先制点へのバッティングを期待したい。

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【楽天が沖縄・金武キャンプを打ち上げ 石井監督は開幕投手明言せず】

https://news.yahoo.co.jp/articles/3b8a4ffe6122c0b572dc64b64e65cb3a2bca2070

薩摩国分寺での「塔基壇」の縮小?

ちょっと変わった記事を見つけました。

薩摩国分寺の塔基壇が拡大ではなく,縮小したというものです。

しかも,正方形から正方形ではなく,長方形から正方形へらしい。

【薩摩国分寺】

13m×10m→8.6m四方

いったいどんな事情があったのでしょうね。

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【鹿児島県における寺院建立の開始と広がり】

https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6757_20180421102842-1.pdf

今と昔の2階の高さ

子どもの頃,近所にあった製茶工場(廃屋)の屋根から飛び降りていた。

昔の屋根はそれほど高くなかったので,気を付けてやれば骨折はしなかった。

ところで,昨今の屋根はめちゃくちゃ高い。

下手したら足の骨折だけでは済まないかもしれない。

建築技術が進歩して,建物をより高く建てることができるようになったのだろう。

これがここ100年間の建築技術の進歩だとすると,

奈良時代の塔と鎌倉時代の塔でも同じことが言えるかもしれない。(あちらは400年間)

川瀬さんの指摘を受けて,初めて気が付いた。

「7世紀の塔基壇の平均は12mくらい,8世紀のものは・・・」という文を

どこかで読んでいたことを思い出した。

とすれば,17~18mの頻度が高い「国分寺」は,七重塔サイズの塔基壇なのかもしれないな。

より以前の記事一覧

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