2018年11月16日 (金)

東山官衙遺跡周辺地区の報告書と図

東山官衙遺跡周辺地区の報告書があったので,リンクした。

東山官衙遺跡周辺地区

https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/10303

時間がない人は,中心部の図だけでもどうぞ・・・。

中心部の図

Dscn4257


上町台地北端部遺構の造営方位

「洛中洛外日記」に上記の記事が掲載されました。
私の仮説に関わることですので,コピーさせていただきます。
研究会の皆さんに方位について関心を持っていただくことは,
どちらかというと文献に偏りがちな多元的古代の研究を
考古学に引き戻すという意味でも素晴らしいことのように思います。

なお,2年前に埼玉県所沢市から東京都東村山市に引っ越し(隣の町ですが).
本年4月からは同じ敷地内の母屋に移りましたので,東村山市が正しい住所です。

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古賀達也の洛中洛外日記

第1782話 2018/11/08

上町台地北端部遺構の造営方位

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)により、古代遺構の中心線の振れ方向に時代や王朝毎に一定の傾向があり、その傾向差を利用して遺構の編年が可能とする仮説が発表されました。とても興味深い仮説であり、わたしもその推移を注目しています。他方、遺構の造営方位はそれほど単純な変遷ではなく、個別に精査すると複雑な状況も見えてきます。本稿では六世紀~七世紀における大阪市上町台地北端部遺構の造営方位とその背景についての研究を紹介します。

 その研究とは「洛中洛外日記」1777話(2018/10/26)「難波と筑前の古代都市比較研究」で紹介した南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(大阪文化財研究所『研究紀要』第19号、2018年3月)という論文です。同論文には六世紀における上町台地北端の遺構について次のように説明されています。

 「上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。竪穴建物は6棟のみで他は掘立柱建物である。傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。中央部から北や東では、手工業と関連した建物群がある。また規模や区画施設から『宅』、瓦の点在から寺院の存在が予測される。」(6頁)

 そして、「北西地域の建物変遷(旧大阪市立中央体育館地域)」の時代別の遺構図を示され、次のようにその建物の方位について述べられています。

 「北西地域の建物群は、約150年間、北西-南東または北北西-南南東を向いている。地形に合わせたというより、近くを通る道に合わせたためと考えられる。(中略)津-倉庫群-官衙域という機能の分化・固定と歩調を合わせて、それらを結ぶ道が固定し、その道に方向等を合わせるように屋敷地や土地利用の固定化が惹起されていった。」(7頁)

 このように上町台地北端部付近では六世紀から七世紀前半の150年間は中心線を西偏させた建物群が造営され、七世紀中頃になると正方位の前期難波宮や朱雀大路・条坊が造営されます。難波京や前期難波宮のような正方位の都市計画や宮殿・官衙の造営には権力者の意思(設計思想)の存在を想定できますが、それ以前の150年間は単に2点間を最短距離で結んだ直線道路に合わせて建物造営方位が設定されたことになり、それは「思想性」の発現というよりも、都市の発生に伴う「利便性」の結果と言わざるを得ません。従って、そうした「利便性」により、たまたま成立した同一方位を持つ建物群の場合は、その方位に基づく編年は適切ではないことになります。
 以上のように考えると、ある権力者(王朝)の方位に対する思想性の変遷をその遺構の編年に用いる場合は、少なくとも次の条件が必要と思われます。

①権力者の意思が設計思想に反映していると考えられる王宮や中央官衙、あるいは都の条坊などの方位を対象とすること。
②それら対象遺構の造営年代が別の方法により安定して確定していること。
③それら遺構の方位が自然地形の影響(制約)を受けていないこと。
④より古い時代の「利便性」重視により造営された道路等の影響を受けていないこと。
⑤地方官衙・地方寺院などの場合、中央政府の設計思想の影響を受けており、その地方独自の影響等を受けていないこと。

 およそ以上のような学問的配慮が必要と思われます。これらの条件を満たした遺構の方位の振れに基づき、新たな編年手法が確立できれば素晴らしいと思います。
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2つの王朝の「方位」の変遷

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/11/post-26d9.html

和泉官衙遺跡の遺構変遷図に,2つの王朝の「栄枯盛衰」を見た!

http://koesan21.cocolog-nifty.com/dream/2018/10/post-e73e.html

百田尚樹著『日本国紀』に「古田武彦・九州王朝」

「古賀達也の洛中洛外日記」に上記の記事が載っていたので,
コピーさせていただく。
私も書店で百田氏が変わった題名の本を書いているなあと思っていたが,
まさか「古田武彦・九州王朝」が話題になっているとは思わなかった。

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古賀達也の洛中洛外日記

第1784話 2018/11/13

百田尚樹著『日本国紀』に「古田武彦・九州王朝」

 出版不況の最中、驚愕の一書が出現しました。ベストセラー作家で映画「永遠のゼロ」「海賊と呼ばれた男」の原作者である百田尚樹さんの新著『日本国紀』(幻冬舎、有本香編集。2018年11月10日発行。1,800円)です。同書の帯には「幻冬舎創立25周年記念出版」と銘打たれ、「私たちは何者なのか。」「当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!」とあり、表紙の印刷や紙質、製本は高品質・高級感に溢れており、幻冬舎の並々ならぬ熱意が感じ取れます。

 同書は出版前の18日間にわたり、アマゾンの「予約一位」が続くという驚異的現象を起こし、当初10万部を予定していた初版印刷は、幻冬舎社長・見城徹氏の「社運を賭ける」との決断により30万部に引き上げられ、更に10万部の増版を決定したとのことです。わたしは同書の発行を事前に知り、注目していましたが、購入するか否かは決めていませんでした。ところが、『日本国紀』に古田先生の九州王朝説が紹介されていることを、日野智貴さん(古田史学の会・会員)のFACEBOOKにより知り、昨日、出張前に京都駅構内の書店で購入しました。

 509頁に及ぶ大著ですが、その第一章「古代~大和政権誕生」の「朝鮮半島との関係」「倭の五王」「古墳時代」に古田先生と九州王朝のことが次のように紹介されていました。

 〝日本の歴史を語る際に避けて通れないのが、朝鮮半島との関係である。(中略)もしかしたら、朝鮮の記録にある日本からの派兵は、地理的な条件を考えると九州の王朝からのものであった可能性が高いと私は見ている。〟(22頁)

 〝(前略)この五人の王は「倭の五王」と呼ばれていて、中国の記録によれば、その名は讃、珍、済、興、武となっている。日本の歴史学者の間では、讃→履中天皇、珍→反正天皇、済→允恭天皇、興→安康天皇、武→雄略天皇というのが一応の定説となっているが、私はまったく納得がいかない。(中略)在野の歴史家である古田武彦氏などは、倭の五王は九州王朝の王だったのではないかとする説を述べている。〟(27-28頁)

 〝不思議なことは、なぜ巨大古墳が突如、大阪平野の南に現れたのかである。時期的には、前述の仲哀天皇から応神天皇の世に重なる。私は、九州から畿内にやってきた王朝が大阪平野に勢力を広げたのではないか(九州王朝による二度目の畿内統一)と想像するが、残念ながらこれも文献資料はない。〟(29頁)
 同書には歴史学者の名前はほとんど記されておらず、そうした中でこのように古田先生の名前と九州王朝説を

〝好意的〟に紹介されていることに、わたしは感動しました。もちろん、百田さんの意見と古田説が完全に一致しているわけでもなく、とりわけ七世紀からは大きく異なっているのですが、古代史学界が古田説をほぼ完全に無視している現状と比べれば、まことに誠実な執筆姿勢と言うほかありません。この他にも、古田先生の名前は出されていないものの、随所に古田先生の著書の影響を受けていることを感じとれる部分が見えます。たとえば次のような表記です。
 
〝大和朝廷が邪馬台国なら、当時の大国であった魏から「王」に任ぜられ、多くの宝物を授かった出来事が(記紀に〔古賀注〕)一切書かれていてないのは不自然であり、このことが、私が「邪馬台国畿内説」をとらない理由の一つでもある。(中略)

 私は、大和朝廷は九州から畿内に移り住んだ一族が作ったのではないかと考える。記紀にも、そのようなことが書かれている。いわゆる「神武東征」(神武東遷ともいう)である。(中略)こういったことから「神武東征」は真実であったと私は考えている。〟(19-20頁)

 〝つまり奈良にあった銅鐸文化を持った国を、別の文化圏の国が侵略し、銅鐸を破壊したと考えれば辻褄が合う。
 もし神武天皇に率いられた一族が銅鐸文化を持たない人々であり、大和平野に住んでいた一族が銅鐸文化を持つ人々であったとしたら、どうだろう。神武天皇の一族が銅鐸を破壊したとしても不思議ではない。そして後に大和朝廷がじわじわと勢力を広げ、中国地方の銅鐸文化圏の国々を支配していく中で、被征服民たちが銅鐸を破壊されることを恐れてこっそりと埋めたとは考えられないだろうか。

 もちろん、そうしたことをはっきりと記した史書はない。しかし中国地方から出土する銅鐸が丁寧に埋められ、奈良で出土する銅鐸の多くが破壊されているという事実、そして記紀の中の「神武東征」から、そう類推されるのである〟(21頁)

 〝「日出ずる処の天子より」という書を送ったのは聖徳太子ではないという説がある。『隋書』には、書を送ったのは倭の多利思比孤という名の王であると書かれているからだ。妻の名は?彌、皇太子の名は利歌彌多弗利とある。いずれも『日本書紀』にはない名前である。さらに倭(『隋書』では「イ妥」となっている)の都は「邪※堆」で、噴火する阿蘇山があると書かれている。したがって多利思比孤は九州の豪族であったのではないかと述べる学者がいる。また『日本書紀』には聖徳太子がそういう書(「日出處天子」云々)を送ったとは書かれていない。〟(41頁) ※は「麻」の下部に「非」。

 以上のように、百田さんが古田説の影響を色濃く受けていることは想像に難くないところです。当代のベストセラー作家による恐らくはベストセラーになるであろう著作(通史)の冒頭部分に「古田武彦」と「九州王朝」の名前が記されたことのインパクトはとてつもなく大きいのではないかと、わたしは想像しています。

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山田さんもこの書について書いておられるので,
リンクさせていただきました。

皇国史観まるだしの書(山田さん)

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/11/post-7bfe.html?cid=142236628#comments

2018年11月15日 (木)

壇の越遺跡(東山官衙遺跡群)は,「北の太宰府」みたい

壇の越遺跡(東山官衙遺跡群)は,「北の太宰府」みたいだ。
南に広がる平野に地割をし,中枢部は要害の地。
さらに周囲を土塁や築地に守られた姿は,
もし太宰府が危なくなったら.遷都しようとしている「副都」のようだ。
もしかしたら九州王朝が作った東山道は,
ここが最終の地だったのかもしれない。
(東北遠征は別として)

念のために奈良文化財研究所のデータベースにもあたってみた。
たくさんの項目がチェックされていた。

Dscn4256

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Dscn4245

Dscn4247

上の写真の本の中の前川佳代さんの「古代地方都市の“かたち”」に,
下の東山官衙遺跡群全体復元図が出ていました。

改元まで.あと半年・・・

今年は平成に改元されてから30年で,
還暦を迎えた私にとっては昭和が30年間,平成が30年間という
ちょうど半々の人生である。
研究にとっては長い人生も大切なので,次の年号も30年といきたい。

さて,この年号(元号)は,701年に建元されたことをご存知だろうか。
「えーっ,大化じゃないの?」という人は,教科書で教わったことを
そのまま信じて育った人で,「続日本紀」にはちゃんと「大宝」が最初だと書いてある。
つまり,大和王朝の年号のスタートは,大化ではなく大宝だったのである。
「では,その前は年号はなかったの?」と思ったあなたは,なかなかセンスがいい。
実は,全国の寺社縁起などにたくさん例を残す,九州年号があったのである。
時々その例を載せてきたが,改元まであと半年ということで,
この機会に掲載させていただく。

大化もこの中にある。ただし時期はちがう。
また白鳳文化の白鳳もある。
これらは九州王朝が定めたもので,
今では約200年続いたことがわかっている。

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2013年11月24日 (日)

● 九州年号を探そう!

歴史上「九州年号」と呼ばれる古代の年号群がある。
6世紀前半から8世紀初頭にかけて作られたもので,
主に神社や寺の縁起などに登場する。
干支で並べると隙間なく並べることができるので,
統一権力による年号と考えるのが正当な評価だと思う。
(明治以降,私年号や偽年号といった差別的な扱いを受けたが,
江戸時代にはそうではなかったとのこと。どちらが学問的か)

古代史研究というと,何か難しいことのように思えるが,
この九州年号が寺社縁起に登場するかどうか探すという方法で,
古代史研究を楽しむというやり方もあると思う。
縁起はたいていその寺社がいかに長い歴史を持つのか
という観点で書かれているので,
その冒頭に九州年号が使われることがあるのだ。

「続日本紀」によると,701年には大宝年号が建元される。
つまり大和年号(近畿天皇家の作った年号)がここでスタートしたのだ。
聖武天皇も詔勅の中で,「白鳳以来,朱雀以前」という形で,
九州年号の存在を語ってくれている。
だから,それ以前に建てられた寺社は,
九州年号を使っている可能性が高いか,
または「日本書紀」の影響で書き換えられた。
いずれにしても,「九州年号を探そう!」という観点は,
古代史入門にとってもいいきっかけを作ってくれると思う。
最後に,「九州年号の一覧」をどうぞ!

継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間) 白村江の戦いで,改元ができなかったためか?
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,
飛び石的に白雉や朱鳥があり,
大宝(701)につながるというのだが
およそ年号というものは「すき間なく続いている」
ことに意義があるのであり,
それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。
その点,日本書紀に出てくる3つの年号は
そもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。
なお,712年という年号は「古事記」の作られた年だ。
大和中心の歴史がまとめられた年に
九州年号も終わる。

府中研究会 11/14

多元的「国分寺」研究ということで,
武蔵国分寺を中心に研究を進めてきたが,
それがさらに広がって武蔵国府研究につながり,
両方を含めた多元的古代の研究に膨らんでいる。

最初は難しい問題集の「応用問題」から解き始めてしまったようで,
右も左も(さらに上も下も)わからなかったが,
あっちへ飛びこっちへ戻りしつつ,
全国の国府・国分寺を考えるもとが築けたらうれしい。

思えば,東山道武蔵路の研究(2012年)に続いて,
多元的「国分寺」研究をしようとした時(2013年頃),
私が持っていた「武器」は,
「塔が正方位なのに,なぜか金堂等の伽藍が7度西偏している」ということを示す
武蔵国分寺跡資料館で配布された1枚の地図だけだった。
その違和感が,川瀬さんや山田さんをはじめとした皆さんとともに
次第に明らかにできたことは,私の後半生だけでなく,
これからの歴史研究にとっても決して小さくない階段を
一段上に登り始めたと思っている。(アポロの月面着陸ではないが)

昨日も,まず軒丸瓦の件で,川瀬さんが武蔵国分寺の講堂下から
瓦の存在を発見したことからスタートし,(瓦の編年が訂正できるかも!)
先日の三ツ寺Ⅰ遺跡のことや正方位と西偏のチェックをしたりで時間を過ごした。

2人の住む町の真ん中に国分寺市や府中市があり,
その資料館や図書館の揃えている発掘調査報告書を自由に閲覧でき,
また気になる場所をフィールドワークできるというのも,
この研究を進めるのに大いに役立った。

日本書紀の中の375回の「詔」の分布

先日,日本書紀の中の「美濃」の分布を全文検索をやったら,
なかなか面白い結果を得た。
「柳の下にもう一匹」ということで,今回は「詔(みことのり)」でやってみた。
「詔」とは天皇の出した命令のことです。
何か面白い結果は出たかな?

『岩波古典文学大系』に掲載されているページ数
〇=10ページ ・=1ページ ●=「詔」1回

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神代 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇・・・・ 
神武 ・・・・ ●
綏靖 ・・
安寧 ・
懿徳 ・
孝昭 ・・
孝昭 ・・
孝靈 ・・
孝元 ・・
開化 ・・・・
崇神 〇〇 ●●●●●●●●● 9
垂仁 〇〇・・・・・・・ ●●●●●●●●●●●●●● 14
景行 〇〇〇・・・・・・  ●●●●●●●●●●●● 12 (注 成務にかけての数)
成務 ・・・・ 
仲哀 〇 ●●●
(神功) 〇〇〇・・ ●●
応神 〇〇 ●●●
仁徳 〇〇〇・・・・・・ ●●●●●
履中 〇・・ ●●●(反正にかけての数)
反正 ・・
允恭 〇・・・・・・・・ ●●●(安康にかけての数)
安康 ・・・・・・
雄略 〇〇〇〇・・・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 19
清寧 ・・・・・・ ●●●●●●●●●● 10 (顕宗にかけての数)
顕宗 〇・・・・・・・・
仁賢 〇
武烈 〇 ●●
継体 〇〇〇 ●●●●●●●●●●●● 12
安閑 ・・・・・・・・ ●●●●●●●●● 9 (宣化にかけての数)
宣化 ・・・・・・                                 
欽明 〇〇〇〇〇 ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●↘
敏達 〇〇・・ ●●●●●●●●●●●●● 13         ↘●●●●●●●●●●●●●● 44
用明 ・・・・・・ ●●●●●●●●●● 10 (崇峻にかけての数)
崇峻 ・・・・・・・・
推古 〇〇〇〇・・・・ ●●●●●●●●●●● 11
舒明 〇〇 ●●●●●●●●●●● 11
皇極 〇〇〇・・ ●●●●●●
孝徳 〇〇〇〇〇〇・・・・・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●↘
斉明 〇〇・・・・・・ ●●●●●                     ↘●●●●●●●●●●●●●●● 45
天智 〇〇〇 ●●●●●●
天武 〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇・・ ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●↘
             ↘●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 63
持統 〇〇〇〇〇・・・・ ●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●↘
             ↘●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●● 51             
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

① 天武 63回
➁ 持統 51回
③ 孝徳 45回
④ 欽明 44回
次 雄略 19回

記載ページが多ければ,当然「詔」も多くなりそうな気がしますが,
必ずしもそうでない天皇もいるようです。
④欽明天皇は「えーっ,そんなに多いんだ!」と驚きました。
また,次点の雄略天皇は,③欽明天皇の半分以下です。
そして,九州王朝説に従えば,彼らは700年までは大王であり,
「詔」を出せないわけですから,九州王朝の天子が出したものを
当然大和の天皇の名で記しているということになるのだと考えられます。
そして,その人物の名は,ほとんど明らかになっていません。

2018年11月13日 (火)

難波宮の下層の東偏遺構(復習のために)

川瀬さんからコメントしていただいた難波宮の下層の東偏遺構を
復習のために再度アップしてみますね。

Photo

正方位の遺構の下に,東偏25度くらいのものが浮かび上がってきます。 
考えているうちに,大阪も東京都の府中市のように,
東偏で街づくりがされた時期があるのでは?と思いつきました。
その地域を押さえるのに,重要な場所ですから…。

ちなみに,東京都府中市は,東偏10度くらいと現在は考えています。
(当初は東山道沿いの寺院と同じ東偏5度。
その後,大國魂神社から東山道武蔵路の地域が正方位にされた)

横浜読書会 11/12

昨日は,横浜読書会にお邪魔した。
清水さんが中心になっている会である。(この日は9名が参加)
前回泉官衙遺跡の6枚の図(2つの王朝の「栄枯盛衰」)を紹介して以来,
1ヶ月ほど経っての訪問である。3つの資料を持参した。

・ 泉官衙遺跡の6枚の変遷図
・ 2つの王朝の「方位」の変遷
・ 守屋の屋敷は,玉造にあり,東偏だった!(かも)

Dscn4239

(写真をクリックすると拡大します)

最初に「隋書」の倭国・タイ国の議論があって,
なかなか決着がつかないものなので,
ストレスが溜まったところで登場した。

「文献と考古学の両面でやることが大切と.
古田先生も言っていたような気がしますが・・・」

「まず,サイズが左の3枚と右の3枚で違うところに注目して下さい。
私には,違う王朝のものに見えますが,いかがでしょうか。
まず東偏の図。これは中国南朝(東偏の都)に仕えていた時代ではないでしょうか。
また,先ほど議論した倭国・タイ国の話は,もしかしたらⅡーa期(玉石が敷かれている)の
時期だったかもしれないと私は思っています。もっとも勢いがあった頃のこと。
ところが2ーb期になるとかろうじて主殿だけ。白村江以降ではないでしょうか。
そして,701年に右側の大和王朝に取って代わられる・・・。
発掘結果による検証は,数が多くなればなるほど,より精度が上がると思います。
今奈良と大阪の寺院と官衙を精査しているところです」

「丁未の変の話は,眉に唾を付けてお聴きください。
ここも東偏と西偏が関係してきます。・・・」

文献の議論では皆さん一家言あるが,それゆえ,
考古学の話は新鮮に思っていただけたと思う。
夜の懇親会でも話が弾んだ。
また,成果を持って参加したい。

次回は,11月30日(金)午後3時から。

写真の反転(蜂谷遺跡の瓦)

以前紹介した滋賀県の蜂谷遺跡の瓦の写真。
反転して凸凹が逆になっていたようです。

山田さんが正しい凸凹のやつをアップして下さったので,リンクしますね。
新聞社のパソコンの操作ミスと思われます。

写真の反転(蜂谷遺跡の瓦)

http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2018/11/post-91f3.html#comment-142230902

より以前の記事一覧

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