2018年9月26日 (水)

もしも1時間半で多元的「国分寺」をご案内するとしたら・・・

「もしも原子が見えたなら」という仮説実験授業の授業書がある。
小学校低学年から原子分子について学べるスグレモノである。
(色塗り+お話がメイン。場合によっては,分子模型づくりも)

これに名前を借りて,どのように1時間半で武蔵国分寺関係を廻ったらいいか,
アイデアをメモしておきたい。(1月の多元の会の前に,東京・古田会があるかも)

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(1) 400mの「東山道武蔵路のアスファルト」の真ん中からスタート

実際に200mほど歩いていただき,幅の広さと直進性を体で感じていただく。

(2) 武蔵国分寺跡資料館

ここで,通説と多元的「国分寺」研究の違いを話す。聖武天皇の「国分寺建立の詔」の読み方。
西偏7度の地図の用意。瓦の部屋にて解説。

(3) 塔 → 金堂・講堂の見学

金堂を先にすると「混同」するので,創建の順に塔から廻る。
私たちが考える創建プランを説明した後,中門辺りから金堂・講堂を眺める。
西偏7度は府中熊野神社古墳と同じ方位であることも説明する。

(4) 国分寺四中資料室

ここで発掘調査図を示し,とんでもないもの(創建武蔵国府の国衙街)
が自分たちの地下に埋まっていることを知り,展示品を見ていただく。
掘立柱建物40棟.複数の工房.たくさんの出土物。

(5) 国分尼寺

塔(ほぼ正方位)・東山道武蔵路(東偏2度)・尼寺(東偏2度)の中の「西偏7度」

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こんな感じでしょうか。何か加除があれば,よろしくお願いします。

飛鳥京跡の中の図4内郭南半遺構図にまさに西偏の遺構

川瀬さんが教えて下さったものを,アップしてみます。

奈良文化財研究所のデータベースの飛鳥京跡の中の図4内郭南半遺構図にまさに西偏の遺構が出ています。

http://mokuren.nabunken.go.jp/NCPstr/strImage/m120631-85033/naikaku-minami.jpg

2018年9月25日 (火)

『南相馬に躍動する古代の郡役所~泉官衙遺跡』

これは,「神の手(ゴッド・ハンド)」を持つ.肥さんの物語である。(ウソ)

本日,神保町に新泉社の「遺跡を学ぶ」シリーズの1冊である
『斉明天皇の石湯行宮か~久米官衙跡遺跡群』を探しに行った際,
偶然この本が目に止まった。
ぺらぺらとページをめくっていたら,「遺跡の変遷」のところが出て,
偶然.この古代官衙(泉郡衙というより,泉評衙だったと思うが)を見つけられた。
もちろん,東偏から正方位への建て替えのページである。
私はついに「神の手」を持ってしまったのか!と一瞬思った。
(本当にそうなら.楽天も逆転満塁ホームランを打たれなかったのだが・・・
でも,東京・古田会から,この秋の「国分寺案内のご依頼」は受けましたよ)

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遺跡を学ぶ106

藤木海/著

東日本大震災で津波被害にあった福島県南相馬市には、
古代の役所「行方郡衙(なめかたぐんが)」が置かれていた。
戦乱・災害に激動する古代東北の地に、律令国家と地域社会を結ぶ要となり、
産業振興に大きな役割を果たした郡役所の姿を追う。

Photo

Dscn3574

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「奈良文化財研究所データベース」より

『久米官衙遺跡~斉明天皇の石湯行宮か』

橋本雄一著,新泉社刊,1500円+税
の上記の本を本日入手した。

Dscn3577

2012年の発行であり,使用尺についてもいろいろ考察している.
これを勉強してから,また先日の「工事中」のものを再登場させたい。
著者も報告書とは違うサイズを提出していた。


岡本宮以降の宮殿は,正方位だった!?

本日,武澤秀一著『建築から見た日本古代史』(ちくま新書)を買った。
もっと早く買っておけば良かったかもしれない。
それは,方位をかなり意識して研究している方だったからだ。
(正方位の世界観について書いてある。
ただし,九州王朝の東偏については出て来ないと思う。
古田武彦氏の著作も参考文献には一冊もない)
ということで,新情報。

その本のP291に,「正方位の王宮」という小見出しで,以下のような文章が続きます。
「最初に建てられた岡本宮(630~636年焼失)は建物の向きが西に約二〇度傾いていたと認められます。
・・・ところが,その後に造営された板ぶきの宮(643~655年冬)では
土地を平らにならしたとみられ,建物群は南北を基軸とする正方位にのっていました。
焼失した板ぶきの宮の跡地には後岡本宮(656年~)が,これも正方位で建てられました
(林部『飛鳥の宮と藤原京』)。これが,旧宮となったわけです。
また,振り返れば,“板ぶきの宮の変”をへて造営された難波宮も正方位にのっていました。(第Ⅱ部)。」

ということで,635~643年の間に,西偏→正方位の動きが絞られてくるかもしれませんね。

Dscn3575


2018年9月23日 (日)

街角・古代史「歴史と方位」のアイデア

「街角かがく」という分野が仮説実験授業にはあって,
大人たちもたのしく科学を学んでいます。

それにヒントを得て,「街角・古代史」というのはどうだろう?
教科書で学ぶのではなく,教科書で教えている内容はホントかな?
なんかスッキリしないけど,暗記してしかたなく覚えた日本の歴史。
問題を解いたり,作業をしていくことによって目からウロコの歴史が浮かび上がってくる(かも)。

日本の歴史の「再入門」として,授業書というより,街角・古代史を意識して
フィリップ方式(楽知ん研究所が開発)で作ってみたいと思います。
その第1弾が「歴史と方位」。
私の古代史研究に大いに関係あるものです。
「正解」を選ぶのはあなたです。

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街角・古代史「歴史と方位」の流れ

(1) あなたは,学校の授業などで,どんな方位の呼び方を倣ってきましたか。
知っている方位の呼び方を出し合ってみましょう。
(2) 4方位・8方位・16方位の話
(3) 3つの方位の呼び方「西偏↖」「正方位↑」「東偏↗」

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【日本の都の方位】
(1) 日本の都の中で,最も長く使われた平安京の方位は何か。
ア.正方位 イ.東偏 ウ.西偏
(2) その前の長岡京や平城京で使われた方位は何か。
ア.正方位 イ.東偏 ウ.西偏
(3) ちょっと変わったつくりの藤原京で使われた方位は何か。
ア.正方位 イ.東偏 ウ.西偏
(4) 近畿地方の都は正方位の話
(5) 「遠の朝廷」と呼ばれた太宰府の方位は何か。
(6) 「大」と「太」の話

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【中国の都の方位】
(1) 平城京の手本とされたと言われている唐の都・長安の方位は何か。
(2) 長安以外の中国の都も,みな正方位だったか。
(3) 倭の五王の使いの見た中国の都の方位の話。

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【日本に残る古代の痕跡】

(1) 古い時代のことを知るには,どんな方法があると思いますか。
(2) 文献学と考古学の話。
(3) 肥さんの古代史研究の話。
 ➀ 武蔵国分寺
 ➁ 武蔵国府
 ③ 全国の「東偏」の寺院や街並み
 ④ 東北地方(えみし国)の「多賀城」「胆沢城」「志波城」は「東偏」しているか
 ➄ 奈良県(大和国)には,東偏の遺跡はあるか
 ⑥ 「福原長者原官衙遺跡」「久米官衙遺跡」は「東偏」しているか
 ⑦ あなたもいっしょに「歴史と方位」の研究をしよう(未完)

前方後円墳の墳丘規模(岸本直文さん)

南朝尺について,こんな論文が検索で見つかりました。
「大阪市立大学大学院文学科研究紀要」の岸本直文さんの論文で
「前方後円墳の墳丘規模」というものです。

前方後円墳の墳丘規模

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DB00011102.pdf#search=%27%E5%8D%97%E6%9C%9D%E5%B0%BA+%E5%AE%9F%E7%94%A8%E4%BE%8B%27

岸本さんは,いろいろな古墳を調査して.
前方後円墳では「23・24・25・35.5cm」という
4つの尺度が使われていた.と考えているようです。

35.5cmだけ飛んでいて,それが気になりはするものの,
私の経験(36cmは,尺の歴史的推移からを存在を失う論)からいうとアウトで,
やはり23~25cmあたりになるのかなあ,と思っているところです。

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※ 志賀島の金印の大きさ「2.31cm」は,当時の1寸だったようだ。
今私たちは1寸を「約3cm」と考えるのに比べて,かなり短い。
そして,大さっばに言うと,歴史が後代になるにつれて,その長さは長くなる傾向にある。
なので,その途中の時代は,中間の長さになるのが自然であると考える。

※ ただし,里という単位には例外があり,いったん古い時代の「短里」に戻すという
特別な時代もある。何と短里と長里では,6倍もちがうのだ。
これが「邪馬台国」論争の1つの原因にもなっている。

「週休二日制」の研究体制に変更

睡眠不足もあり,運動不足もありで,run
古代史の研究もしたいがバランスが悪い。
私が書けば,それにコメントを入れたい方も出るので,
私の方から積極的にお休みを取ることにした。spa

「変則・週休二日制」
曜日を決めてしまうと,アクセス数が減るので,
曜日は決めずに「週に二日くらい休みます」という変則だ。flair

この改革により,研究の質が向上し,
同時に私の睡眠時間とダイエットの改善が進む。
しかも,アクセス数は減らない。happy01
夢の「変則・週休二日制」にどうぞご理解を!(笑)

もちろん「救急外来」はありますので,
コメントをすぐ返すかどうかは別としてご利用下さい。hospital
では,良い週末を!(o^-^o)

2018年9月22日 (土)

久米官衙遺跡よ,お前も「南朝尺」か?

川瀬さんから教えていただいた久米官衙遺跡の「尺」を調べてみることにした。
福原長者原官衙遺跡で「南朝尺」を発見したので,ここでも「もしかしたら」と思ったからである。

まず検索・訪問したのは「文化遺産オンライン」というサイトだった。

文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/202786

ここで,「回廊状遺構の長さが,東西125m,南北140m」という情報を得た。
小数点までは付いていないが,とりあえず2,45m(南朝尺の1尺)で割ってみる。

125÷2,45=50,1
140÷2,45=60,1

おーーっ.ごく整数に近いではないか(しかも,両方とも「十の位」だ)!
これは超々々々いい感じ!(今「話題」のモーニング娘。)

続いて,いよいよ発掘報告書に向かう。
回廊状遺構についての特集だし,細かい数値も確認できるかもしれない。

file:///C:/Users/koenumtakaharu/AppData/Local/Packages/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/TempState/Downloads/11668_1_史跡久米官衙遺跡群%20(1).pdf">調査報告書2

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⑦造営尺について

これまでの調査研究によって、遺跡群Ⅱ 期における建物の造営尺の尺長は、0.304m程度であった 可能性が考えられる。これは、下図に示す回廊状遺構の問の構造と規模の分析から判明した数値で、 隣接する回廊北方官行における建物配置(図 9)に 関し てもこの尺長で説明可能なことから、来住に
おける遺跡群Ⅱ 期の造営尺として暫定的に 使用している(『 年報 13』 )。

ただし、Ⅱ 期の冒頭における地割の設定と 主要施設の外周規模の決定に際しては、この尺長の 1.2 倍の1尺 =0.365mほ どの測地尺(大尺)を用いた可能性も検討している(p.210)。 一町四方の区画 地の一辺長は、区画溝の外周の平均で110m強程度であるが、これはおよそ300大尺に相当する。回廊 北方官衡など 細い溝で外周を囲われている施設については、溝に柴垣や板塀といった返蔽構造物が埋 め込まれていたと 考えられるので、地割の設定基準はこれらの心心距離を基本としたと 想定される (図 8)。 ここでいう1町 ≒110m強 という数字は、布掘りの溝の外周を基準とした距離であるので、 実際はこれよりも若干小さな値となる。よって、0.304mの360尺、0.365mの300尺 にあたる109。4~ 109.5mを 、計画上の1町 と 考えて差し 支えないものと 理解している。

ちなみに、来住廃寺における初期の調査の際には、伽藍配置や建物構造の想定に関連して、高麗尺 (来住廃寺1次)と 唐尺(来住廃寺2次 。 3次)が使用された可能性を前提に検討作業が行なわれて いる。来住廃寺に関しては、その後、造営尺について検討を加えること ができるだけの情報が得られ ていないことか ら 、評価を保留しておく。なお、官衛遺跡群を 構成する個別の建物の検討過程で、奈 良時代頃の唐尺とされる尺長(0.296m前 後)に近似する数値が導き出される場合がある。全体の中 では少数ではあるが、遺跡群Ⅲ期に所属する建物から 抽出される傾向が高い。当地においては、一般 的な唐尺の定着以前に、やや尺長の長い造営尺が採用されていた可能性がある。

なお、遺跡群I期 の政庁については、この造営尺や唐尺での説明は難し い。建物の規模や配置状況
から、 1尺 =0.288mあ るいは0.346m程 度の造営尺を導き出し 、構造復元を試みている(p.182)。

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なんやらわからん議論をもちだして,「引き分け」に持ち込もうとしている感がある。
そうはさせない。私は先日の福原長者原官衙遺跡の八脚門の資料に,
久米官衙遺の八脚門の数値がでていないか資料を探した。
すぐ見つかった。

Dscn3539

福原長者原より,東西62cm大きく,南北は1m38cmも大きい,全国19位の大きさだ。
(福原長者原の8脚門は,26位相当)

実測値がどこかに出ていないものか。
手に届きそうで届かないものを感じる。

「東偏」から「正方位」への変化について

九州王朝は,倭の五王であり,南朝に使いを送った。
これを柵封体制という。(まだ,讃・珍・済・興・武とか教えているのかな?)
普通だとそこで終わるが,教科書に書いていない歴史が地下に残った。
ただ使いを送るだけでなく,その国の文化(東偏。のちに正方位)を真似ることによって,
忠誠を示すようにした。(国内的には,それを押し付けた)

4~12世紀は日本列島は地磁気学的な研究によると「西偏」だったらしいので,
磁石で建物の方位を決めると,必ず西偏の磁北が採用されてしまう。
だから,東偏にするということは,磁石ではない方法が使われただろう。
それもどうやら,5度ごとの感じなので,5・10・15・20・25度と。

そして,全国にそれを軍用道路である東山道や東海道などのルートを利用して普及していった。
なので,多くの寺院や街並みが東偏5度や5度ごと,
あるいはその中間の方位で表現されることになった。

余談になるが,学校の教室で机を教卓の「方位」に向けさせるには,
かなり「政治的意味」があると思う。
先生の位置から見ると少しの「方位」の違いもわかってしまうからだ。
先生は言うだろう,「君の机が,少しだけ曲がっているよ」と。

さて,時代は変わって,北朝のボス・隋が国分寺二寺制や都の正方位を採用していたので,
倭国・九州王朝も対抗してそれらを採用したと考える。
そして,太宰府も正方位で作るようにしただろう。(あるいは途中からプラン変更して正方位か)
そして,多利思北孤(聖徳太子ではなく)は,「日出ずる処の天子・・・」の国書を送った。

つまり,「私たちはもう南朝の一の子分ではなく,あなたと同じ独立国(対等)です」と言ったと思うのだ。
(あるいは,南朝を継ぐのは私たちです,と。「継体」もそこから由来)
それは当然隋を激しく刺激しただろうし,隋がもっと長く続けば戦争にもなっただろう。
しかし,そうなるには,隋はあまりに短命だった。

北朝の後を継いだのは唐だったから,当然倭国ともトラブルになる。
話は端折るが,663年の白村江の戦いを機に九州王朝は凋落の一途をたどり,
701年には大和王朝が日本の主権者となった。(年号も,大宝が最初だと「続日本紀」が書く)

大和王朝は正方位の都や寺院の方位を採用し,それまで東偏だったものを
改めていったのではないかと思う。
それは国外的には唐に忠誠を誓う意味もあるし,
国内的には東偏の方位を支持する九州王朝文化の追放にもなるだろうから。
それを拒否すればどうなるか。それは「おとりつぶし」の運命が待っていた」と思う。

東偏から正方位の変化が藤原京の建設辺りからになっているのは,
その時期までに,方位の決定権も大和王朝に移ったことを象徴しているのではないかと思う。

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