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2021年12月 7日 (火)

〈主語有無の論証〉を使ってみたら・・・

「日本書紀に出てくる温泉」を〈主語有無の論証〉で調べてみました。

「なし」「あり」「?」の3つになりました。

アドバイスいただければ・・・。

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伊予温湯(愛媛県)・・・舒明

十一年・・・ 十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮【主語なし】

有間温湯(兵庫県・武庫には宮があった,須磨の関もあった)・・・舒明2回,幸徳

●三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津國有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。【主語なし】

●十年秋七月丁未朔乙丑、大風之折木發屋。九月霖雨、桃李花。冬十月、幸有間温湯宮。是歲、百濟・新羅・任那並朝貢。【主語なし】

●(幸徳紀)冬十月甲寅朔甲子、天皇幸有間温湯、左右大臣群卿大夫從焉。十二月晦、天皇還自温湯而停武庫行宮武庫、地名也。是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。【主語あり】

牟婁(むろ)温湯(和歌山県)・・・斉明

●三年秋七月丁亥朔己丑、覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫、言、臣等初漂泊于海見嶋。乃以驛召。辛丑、作須彌山像於飛鳥寺西、且設盂蘭瓮會、暮饗覩貨邏人或本云、墮羅人。九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往牟婁温湯、【主語あり】

紀温湯(和歌山県)・・・斉明

五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自温湯。【主語あり】

束間温湯(長野県松本市)・・・天武

冬十月癸酉朔丙子、百濟僧常輝封卅戸、是僧壽百歲。庚辰、遣百濟僧法藏・優婆塞益田直金鍾於美濃、令煎白朮、因以賜絁綿布。壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。【主語なし,?】

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

天皇が行ったとか有馬皇子が行ったと主語が明確の3つは近畿天皇家の事績。
これは確かだ。
では主語のない3つと?の一つはどうか。
これは前後をちゃんと読まないと判断しにくい。
2番目の有馬温泉は9月に有馬にいって12月に都に戻ったとの記事。
12月の帰還記事には天皇と主語が明記されているが、9月の記事と12月の記事は一体だから、最初の主語なしを一文の始めと見るから主語無し文と見て良い。
あとは書紀本文をきちんと読んでみてください。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

私の読みを提示します。
温湯の場所ごとではなく、書紀の年代順で。

1:舒明紀

三年春二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。秋九月丁巳朔乙亥、幸于津國有間温湯。冬十二月丙戌朔戊戌、天皇至自温湯。

2:舒明紀
十年秋七月丁未朔乙丑、大風之折木發屋。九月霖雨、桃李花。冬十月、幸有間温湯宮。是歲、百濟・新羅・任那並朝貢。

十一年春正月乙巳朔壬子、車駕還自温湯。乙卯、新嘗、蓋因幸有間以闕新嘗歟。

※この記事の前後を読んでみても関係の記事はない。ということは独立した記事だ。3年2月の有馬温湯への行幸。この時はまだそこには宮はなかった。10年10月の有馬温湯への行幸時にはそこにすでに宮が出来ていた。そしてそこから都に翌春正月に戻った時には「車駕」にてという天子特有の用語をつかっている。
 そして冒頭の幸には主語が省略されている。
 したがってこの二つの有馬温湯行幸記事は九州王朝天皇の事績。

 舒明の前は推古の時代。
 推古の時には大和の大王家は九州王朝とは独自路線をとり、隋に朝貢していた。これを牽制する動きじゃないのか。

3:舒明紀
十一年冬十一月庚子朔、饗新羅客於朝、因給冠位一級。十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮。是月、於百濟川側建九重塔。

十二年春二月戊辰朔甲戌、星、入月。夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫、便居廐坂宮。

※これらの記事の前後を見ても関連する記事はない。つまりここも独立した記事。
11年10月から12年4月までの伊予温湯行幸。ここにもすでに宮が作られている。主語無しの行幸だから九州王朝天皇の事績。
 ここも有馬温湯行幸と同様に、大和大王家を牽制する動き。だから舒明の次の皇極の時代に独自路線を取った蘇我本宗家が滅ぼされ、次の孝徳は都を九州の難波に移して九州王朝と一体の政治路線をとると宣言したのだろう。

4:孝徳紀

三年冬十月甲寅朔甲子、天皇幸有間温湯、左右大臣群卿大夫從焉。十二月晦、天皇還自温湯而停武庫行宮武庫、地名也。是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。

※孝徳紀三年10月の有馬温湯行幸。ここも前後に関連する記事はない独立の記事。ここははっきりと行き帰りともに天皇と主語を明記。そして戻った行き先が武庫行宮と。明らかに津國の場所故、近畿天皇家の孝徳大王の事績。

5:斉明紀
三年秋九月、有間皇子、性黠陽狂、云々。往牟婁温湯、偽療病來、讚國體勢曰、纔觀彼地、病自蠲消、云々。天皇、聞悅、思欲往觀。

6:斉明紀
四年冬十月庚戌朔甲子、幸紀温湯。天皇、憶皇孫建王、愴爾悲泣、乃口號曰、


7:斉明紀
四年冬十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。有間皇子、乃知赤兄之善己而欣然報答之曰、吾年始可用兵時矣。甲申、有間皇子向赤兄家登樓而謀、夾膝自斷。於是、知相之不祥、倶盟而止、皇子歸而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁、圍有間皇子於市經家。便遣驛使、奏天皇所。戊子、捉有間皇子與守君大石・坂合部連藥・鹽屋連鯯魚、送紀温湯。舍人新田部米麻呂、從焉。於是、皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天與赤兄知、吾全不解。

庚寅、遣丹比小澤連國襲、絞有間皇子於藤白坂。

五年春正月己卯朔辛巳、天皇至自紀温湯。

※斉明紀の紀温湯・牟呂温湯行幸記事。
5の牟呂温湯に行ったのは有馬皇子。
6で紀温湯に行った主体は省略されているが、その直後にこの湯で「天皇が建王を懐かしみ」とあるのだから、紀温湯に行ったのは斉明。建王は斉明の嫡男子葛城王(中大兄皇子)の嫡男。斉明ー中大兄ー建と続く直系が失われたので、対抗馬の有馬を謀殺したわけだ。
7で紀温湯に送れられたのは有馬皇子一統。つまり斉明のいるところに護送して尋問して処刑したということ。
7の最後の5年春に紀温湯から戻ったのは「天皇」と明記してあるように斉明だ。
これは明らかに有馬皇子を謀反人として消すがための斉明の動き。これに斉明の跡を継ぐ息子の葛城王(中大兄皇子)の嫡男の建王死去がからむ。
これゆえ近畿天皇家の斉明大王の事績だ。

8:天武紀
十四年冬十月壬午、遣輕部朝臣足瀬・高田首新家・荒田尾連麻呂於信濃、令造行宮、蓋擬幸束間温湯歟。

※天武紀には信濃に都に相応しい地を調べさせる記事が頻出。この束間温湯の記事は、この都を作る記事の一環。軽部臣などを信濃に派遣して行宮を作らせた主体が省略されている。そしてこの行宮の目的が書紀編者には理解できなかったようで、「けだし束間温湯への行幸のためか」と記しているあたり、これが近畿天皇家の天武大王の事績ではないことを示している。九州王朝天皇の事績。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

1~3の記事 → 主語なし・・・九州王朝の天子の話
4~7の記事 → 主語あり・・・近畿王朝の大王の話
8の記事 → 主語なし・・・九州王朝の天子の話

つまり〈主語有無の論証〉は,これらの温湯記事でも有効ということですね。
(最後のやつが「擬」という文字が入っていたので,
どう考えたらいいかと思い,アドバイスを求めました)

>(最後のやつが「擬」という文字が入っていたので,
どう考えたらいいかと思い,アドバイスを求めました)

最初からここがわからないと、アドバイスが欲しい個所を明記すれば済んだのに。


★擬:漢和辞典でみれば
 [字訓]はかる・なぞらえる
つまり、「けだし、束間温湯行幸を図るか?」と読むわけ。
 [訓義]
1.はかる、くらべる、なぞらえる。
2.まねる、にせる、にかよう。
3.うたがう。
4.しようとする、むかう。

 この4だね。
 漢文の意味が良くわからないときは漢和辞典を引けばかなりわかる。私はCDローム版の「字通」を使っている。これは大変便利だ。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 CDローム版の「字通」

初めて聞きました。

追伸
>つまり〈主語有無の論証〉は,これらの温湯記事でも有効ということですね。

 そうではなく、「主語有無の論証」を使わないと日本書紀が描いた歴史の真実の姿は見えてこないということです。
 少なくとも人代の部分はこれで読み解けます。

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