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2021年12月16日 (木)

2つの年号が重なっている期間にあったこと(改訂版)

各地の寺社縁起などから収集された九州年号は,

517年から712年の約200年にわたる。

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継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)
師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)
定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆
大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)

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これに対して,701年に建元された近畿王朝の年号は,

九州年号の大化の後半から始まり,今に至っている。(とりあえず)

ここには12年間のダブり期間があり,いろいろな出来事があったはず。

『続日本紀』などを使って正木さんがそれを埋めていこうとされている。

ここでは,服部さんや正木さんの「『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む。」の意味」を使って,

695年~712年を埋めてみたい。

http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou92/kai09203.html

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695(大化元)年・・・

696(大化2)年・・・

697(大化3)年・・・

698(大化4)年・・・郡司の任命。大嘗祭

699(大化5)年・・・

700(大化6)年・・・薩摩での反乱。この年まで評制

701(大化7★大宝元)年・・・大宝元年を建元する。この年から郡制【ОNライン】

702(大化8★大宝2)年・・・

703(大化9★大宝3)年・・・蘇我倉山田麻呂の謀反 (九州王朝系の重臣の粛清 ?)

704(大長元★慶雲元)年・・・11月,始めて藤原宮の地を定む(続日本紀)→ 南朝式から北朝式の変更に取り掛かった

705(大長2★慶雲2)年・・・1月,宴を文武百寮に朝堂に賜ふ 。4月,北朝式の宮に出御して・・・(突貫工事か)

706(大長3★慶雲3)年・・・

707(大長4★慶雲4)年・・・山沢亡命記事(軍器)

708(大長5★和銅元)年・・・山沢亡命記事(禁書)。皇后も亡くなる(九州王朝の崩壊)

709(大長6★和銅2)年・・・

710(大長7★和銅3)年・・・平城京への遷都

711(大長8★和銅4)年・・・

712(大長9★和銅5)年・・・『古事記』完成

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700~701年の「ОNライン」ラインは,郡評のラインであるから大変重要な画期である。

それとともに,まだその時点では九州王朝の天子・皇后は存命で,

軍器を携え,禁書を保有した勢力が山沢亡命していたのが,当時の現状であった。

そしてそれは,720年の『日本書紀』完成までは続くことになる。(717年,3回目=最後の山沢亡命記事(兵器))

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

肥沼さんへ

 「作業中」の所に書き込むのは失礼かと思いましたが、肥沼さんが正木説をそのまま信用して使っていることが気になったのでコメントします。

 正木説は慶雲元年11月20日の「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。」の記事を、始めて文武が藤原宮の主になった=九州王朝天皇から禅譲をうけたとの解釈が根幹にあります。
 でもこれは間違いです。
 正木さんは書紀持統紀の最後にある「11年八月乙丑朔、天皇、定策禁中、禪天皇位於皇太子。」の記事を定説派の読みに従って「持統が禁中で重臣と策をめぐらし、天皇位を皇太子に譲った」と理解して、これは単に大和大王の位が持統から文武に移ったもので、まだ九州王朝の天皇が存続していると理解。
 この理解に立って先の記事を、九州王朝天皇⇒文武への天皇位の禅譲記事と見なしたものだ。

 だが以前私が示したように「主語有無の論証」で持統紀の先の記事を読むと、
 「天皇(=大和大王持統)は次の天皇を擁立し(定策禁中=これな中国の慣用句で天子の位にないものが天子を擁立するという意味の句)、(九州王朝天皇をして)天皇位を皇太子に譲らしめた」と読める。
 こう読めばこの時点ですでに文武は禅譲を受けて文字通りに天皇になったのだ。
 つまり文武はこの時点で藤原宮の主になった。
 だから「続日本紀」は文武2年からほぼ毎年、正月1日に文武は大極殿にお出ましになったと記したのだ。
 藤原宮の前の大和大王のための宮殿(後岡本宮)には大極殿はないから、大極殿とあれば藤原宮の大極殿以外にない。

 では慶雲元年11月の記事はどういう意味か。
 これは「従来の藤原宮を配して、その北に新たに、新益京(これが京の正式名称)の最北部に藤原宮を移した」という意味の記事だ。
 発掘からわかるように、藤原宮は京の一番北に置かれず(唐の京の形式とはことなり)、京の中心に置くという南朝の京の形式でできていた。これはこの藤原宮ー新益京が九州王朝天皇のための都であることを示している。
 だがすでに主は近畿天皇家の文武に変わっている。
 そして近畿天皇家は九州王朝とは異なり、唐帝国に朝貢する立場を取っている。
 だから宮の位置を、唐の都長安と同じく、京の最北部に設けた形式に作り替えた。

 という意味の記事なのだ。

 正木説は、近畿一元史観である従来説に、九州王朝説を接ぎ木しただけのもの。
 九州王朝天皇から近畿天皇家の文武への禅譲記事がないので、強引に慶雲元年11月の記事を読みかえただけ。

 その読み替えの際に正木氏は、史料を改竄している。
 原文は「「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。」だ。
 これを正木氏は「「始めて藤原宮の地を定む。宅の京中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。」と改竄して読んでいる。

 でもあくまで原文は「その住居が(新たに設けられた)宮の宮地に入った百姓には・・」とあるのだ。
 ここを素直に読めば宮地を定めたことで立ち退かされた百姓が1505戸もあったということだ。
 これを正木氏は、「すでに藤原京には百姓が1505戸もあった」と読み替え、主が代ったので従来からの住民に引き出物を与えた」と解釈し、王朝交代の瞬間だと豪語したわけ。

 完全な間違いです。
 正木氏が依拠した史料、「天智(九州王朝の天子)が太宰府にもどる(開聞古事縁起 )」の成立年代をよく見てください。
 (延享二年〔一七四五〕。江戸時代成立の史料ですよ。
 1000年も後の史料で1000年前の時代を考察するなど、歴史家のすることではないです。
 こんないい加減な史料改竄を行う説に依拠して、九州王朝の黄昏を考察することは無駄です。

追伸

 慶雲元年11月20日に藤原宮が移転したことを示す証拠がさらにありました。
 翌慶雲2年1月1日には、例年行された大極殿での朝賀の儀式がありません。次に天皇が大極殿に出御したのは、この年の4月22日。
 つまり大極殿も含む藤原宮の移転に5か月かかったというわけです。
 突貫工事ですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉 慶雲元年11月20日に藤原宮が移転したことを示す証拠がさらにありました。

どんどん証拠を積み重ねていきたいですね。

川瀬さんへ
コメントありがとうございます。

〉  「作業中」の所に書き込むのは失礼かと思いましたが、肥沼さんが正木説をそのまま信用して使っていることが気になったのでコメントします。

今回は重要な内容ですので仕方ありません。
コメント感謝します。
これにより,いくつかの内容を「改訂版」にしました。

藤原京と新益京の関係を図で描いてみました.。
これでいいでしょうか?

肥沼さんへ

 正木説に基づいて九州王朝の黄昏を描くこと自体が間違いです。

>703(大化9★大宝3)年・・・蘇我倉山田麻呂の謀反 (九州王朝系の重臣の粛清 ?)
 これは正木さんが書紀の記事の年代を勝手に動かしたもの。
 書紀ではこの事件は、大化末(五年・六四九)。
 この事件の意味が正木さんにはわからなかったので勝手に年代を44年も動かした。
 この事件は九州王朝と一体となり唐との対立を深める孝徳に対して、中大兄の腹心である蘇我倉山田麻呂が中大兄と図って九州王朝路線との決別を図っていることを察知した孝徳が、蘇我倉山田麻呂を謀反人として誅殺したもの。
 この事件がきっかけとなり、孝徳と一線を画したい中大兄は、母(前大王皇極)・妹(孝徳皇后)弟らとともに九州の難波から飛鳥に帰還した。

>708(大長5★和銅元)年・・・山沢亡命記事(禁書)。皇后も亡くなる(九州王朝の崩壊)
 この皇后死去も後世史料にでてくる「大宮姫」を九州王朝最後の天皇の皇后とした古賀説に基づいたもの。

 私が正木さんの続日本紀の慶雲元年の記事「始めて藤原宮の地を定む。宅の宮中に入れる百姓一千五百五烟に布賜ふこと差あり。」を九州王朝天皇⇒文武への禅譲記事とした考察を比定し、これを肥沼さんが受け入れたことで、この九州王朝の黄昏を示した年表は続日本紀の記事だけで記すしかなくなったのです。

 天皇位を禅譲させられたあとの九州王朝の天皇の運命は、まったく同時代史料に出てこないので不明としか言いようがありません。
 それでも古賀さんや正木さんが想定する、九州王朝天皇や皇后の九州への帰還は、ありえないことです。
 なぜなら九州に彼らを帰還させれば、頻発する反乱に錦の御旗を与えるようなものだからです。
 おそらく九州王朝最後の天皇と皇后は藤原京のどこかに幽閉され、その死を近畿王朝は待っていたと思います。

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