大宰府政庁周辺官衙跡Ⅲ -不丁地区 遺構編-
「西の都 太宰府」のデータベースの最後(№526)に
上記のものがあった。
西部に「広丸地区」というのがあって,赤線で遺構が描かれている。
その中の側溝の南北の線が,正方位より少し東偏しているように見える。
(私の分度器では,5度くらい。道幅は,3000分の1で2ミリなので,6mという見当でした)
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【大宰府政庁周辺官衙跡Ⅲ -不丁地区 遺構編- 】のP9の「広丸地区」
「広丸地区」の「区」の字の上あたり
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肥沼さんへ
これはぜひ「広丸地区」の発掘報告書を見て精査してください。
幅約6メートルの両側に側溝をもった道路のようですから、溝から土器が出ていて年代を判定できるかもしれませんね。
それから「不丁地区」には、同様な東偏の路や溝はないのかな?
ここの掘立柱建物は東偏が多いから、ここから東偏の溝や道が見つかるかも。
そして出土した土器から年代が判定できるかもしれませんね。
二つともやってみてください。
※追伸速報!!!
大宰府政庁Ⅰ期遺構の中の古いほうの東偏の掘立柱建物。年代がわかりました。
SB122に関わる暗茶色土の整地層から出土した土器の主体は、
6世紀末から7世紀初頭。
つまり100年上げて、
5世紀末から6世紀初頭
に東偏の大宰府政庁Ⅰ期遺構はできたということ。
まさしく倭の五王の時代のすぐ後です。
ただしこの建物の方位が東偏1度8分。
そして政庁の北側の築地の下から出てきた柵列と建物はもっと古い可能性がある。
柵列 東偏15度 SA065 SA1064
建物 東偏5度 SX1062
これは土器が随伴していないので年代を確定できないがⅠ期遺構であることはたしか。いやその前かも?
東偏5度や15度となると、まさしく九州王朝の東偏時代
5世紀中頃から6世紀末まで
のⅠ期古期よりも前の5世紀台中頃の可能性がでてくる。
以上『大宰府政庁跡』精査の途中経過です。
投稿: 川瀬健一 | 2021年12月24日 (金) 18:00
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
すごくたくさんの成果が出ましたね。
それにしても,「東偏1度8分」「東偏15度」「東偏5度」と
さまざまな東偏が出ているのが不思議です。
〉 二つともやってみてください。
やってみたいと思ってます。
投稿: 肥さん | 2021年12月24日 (金) 20:30
肥沼さんへ
>それにしても,「東偏1度8分」「東偏15度」「東偏5度」と
さまざまな東偏が出ているのが不思議です。
前に国分寺や国衙などの東偏を探していたときに、一番多いのは東偏5度だったけど、もっと大きく10数度とか逆に東偏1・2度というのもあったと思います。
1・2度は測定誤差の範囲かもしれませんね。真北測定の誤差。
5度は明らかに漢魏洛陽城を意識した東偏。
15度は、もしかしたら南朝の都かもしれません。
南朝の都建康城はたしか東偏25度で復元されているが、時期によっては15度という時代があったかも。
漢魏洛陽城の東偏5度も意図があってそうしたのではなく、都の北で地神を祭るに相応しい方形の丘と都の南で天神を祭るに相応しい円形の丘を探して祭壇を決めたら、たまたまそれを結ぶ中軸線が東偏5度になっただけ。
建康城の場合も同じです。
でもこれらに倭国が倣った場合には、5度や25度に何らかの意図があると考えてまねしたわけです。
以上様々な東偏がある理由を考察した仮説です。
投稿: 川瀬健一 | 2021年12月24日 (金) 23:47
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
考察ありがとうございます。
考古学者たちは,東偏にはほとんど興味がないようですね。
投稿: 肥さん | 2021年12月25日 (土) 07:26
肥沼さんへ
古代の官衙や寺院の遺構で、その中軸線の方位に注目した人は学者の中ではいないと思います。
発掘報告書ではその中軸線の方位は必ず測定されて言及されているのですが。つまり遺構の現状を詳しく記すという意味で記録されている。
だがそもそも古代中国の都城の件で考察したように、都城の形式の変遷は考慮されていても、その中軸線の方位は考慮されていません。
だから日本の都城や寺院や官衙の場合でも中軸線の方位は注目されない。
方位に注目したのは肥沼さんが初めてなのだと思います。
投稿: 川瀬健一 | 2021年12月25日 (土) 14:36
川瀬さんへ
コメントありがとうございます。
〉 方位に注目したのは肥沼さんが初めてなのだと思います。
私が有利だったのは,最初に武蔵国分寺(塔が正方位なのに,金堂院は7度西偏)に
取り組めたことです。どう見てもこれは不自然ですから。
それとこれが「誰でも入手できる地図になっていた」ので,これも有利でした。
投稿: 肥さん | 2021年12月25日 (土) 15:03