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2021年12月19日 (日)

耳成山が邪魔になりませんか?

新益京(通称・藤原京)の地図を見ていて,素朴な疑問が湧いてきた。

もし南朝の様式の藤原宮を北に移動して,北朝の様式のものにしたとします。

すると,そこには耳成山という山が存在します。

140m足らずの小山とはいえ,藤原宮の南の眺望をふさいでしまうことになる。

この問題,どう考えたらいいのでしょう。(大極殿だけ移動した?)

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Fujiwarakyo2.gif

新益京の条坊

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古田史学」カテゴリの記事

コメント

 江口桂編の『古代官衙』の中の藤原京の項(p77以後)を読むと、当初は条坊の北限は横大路と考えられていたが、その後の発掘調査でこの大路の北側にも条坊があったことがわかって現在のほぼ正方形の都になったとあります。

 つまり文武の時に新益京は北に拡大され、あらたな藤原宮は耳成山のもっと北に設けられたのではないでしょうか。山が宮造営に邪魔にならず、眺望も邪魔にならない位置に。
 要するにこの拡大された新益京は、もっと南北に長い形をしていた。

 きっと今の「藤原京域」のもっと北に条坊と宮があるのだと思います。
 まだ「発見」されていないだけ。

 もしくは耳成山のすぐ北に宮を移築したが、眺望に欠けるので、結局この京と宮を放棄して、新たに、奈良盆地のずっと北の所に、平城京ー平城宮を建設したのかもね?
 眺望も悪いし、そもそも低地で水はけもわるいし、九州王朝の天皇のための都だし、いっそ近畿王朝天皇のための新たな都を造営しようというわけで。

川瀨さんへ
コメントありがとうございます。

〉  江口桂編の『古代官衙』の中の藤原京の項(p77以後)を読むと、当初は条坊の北限は横大路と考えられていたが、その後の発掘調査でこの大路の北側にも条坊があったことがわかって現在のほぼ正方形の都になったとあります。

 つまり文武の時に新益京は北に拡大され、あらたな藤原宮は耳成山のもっと北に設けられたのではないでしょうか。山が宮造営に邪魔にならず、眺望も邪魔にならない位置に。
 要するにこの拡大された新益京は、もっと南北に長い形をしていた。

 きっと今の「藤原京域」のもっと北に条坊と宮があるのだと思います。
 まだ「発見」されていないだけ。

(肥) 奈良盆地はもともと湖だったほどで,
今でも周辺から水が集まるところでしょう。
結局それらを飛ばして平城京に遷都するようになったという・・・。

川瀨さんへ
コメントありがとうございます。

〉  江口桂編の『古代官衙』の中の藤原京の項(p77以後)を読むと、当初は条坊の北限は横大路と考えられていたが、その後の発掘調査でこの大路の北側にも条坊があったことがわかって現在のほぼ正方形の都になったとあります。

 つまり文武の時に新益京は北に拡大され、あらたな藤原宮は耳成山のもっと北に設けられたのではないでしょうか。山が宮造営に邪魔にならず、眺望も邪魔にならない位置に。
 要するにこの拡大された新益京は、もっと南北に長い形をしていた。

 きっと今の「藤原京域」のもっと北に条坊と宮があるのだと思います。
 まだ「発見」されていないだけ。

(肥) 奈良盆地はもともと湖だったほどで,
今でも周辺から水が集まるところでしょう。
結局それらを飛ばして平城京に遷都するようになったという・・・。

 経過を1から6のように理解すると、平城京への遷都の謎も解けます。
(1) 九州王朝の天皇のための新都・新益京を、飛鳥の北の藤原の地に造営した。
(2) この都の中央には天皇の居所で政治に場である藤原宮が置かれた。
(3) この宮ー京の形式は南朝様式で,九州王朝の天皇を招くのに成功した。
(4) 新王朝設立のための準備で,天皇に仕事をさせた。
(5) この新益京ー藤原宮で九州王朝天皇から近畿王朝の文武への禅譲が行われた。
    ※以上までの時期の近畿大王は持統。
(6) 新たな天皇・文武の下で藤原宮の位置を北朝の様式に変更した。半年間の突貫工事。(移築でしょう)
  ※ここからが新たな展開だ。
(7)文武天皇が死去・わずか25歳。だが後継者の首皇子は幼少のため母の阿閇(阿陪)皇女が即位(元明)。慶雲4年(707)の6月と7月。
(8)平城京への遷都を詔す。和銅元年(708)2月。
(9)平城京へ遷都。和銅3年(710)3月。
 新天皇文武が死んでしまった。跡継ぎは幼少なので母が代わりに即位。
 その翌年に平城京遷都が宣言され、わずか2年で遷都。
 確実に新益京そのものを移築したのでしょうね。宮だけではなくて官寺も。
 遷都した理由は、新益京が低湿地で排水が悪いということだけではなくて、この地では良くないという判断がされたのではないか。
 良くないとは、土地が風水上で悪いというだけではなく、近畿天皇家の継承者が若くして死んだということを不吉だと判断した。つまり草壁皇子ー文武と二代続けて若くして死んだ。跡継ぎの首がもし成人しなかったら、ここで近畿天皇家の天武系統は終わってしまう。
 だから都を変えて新規まき直し。
 平城京はやがて即位するであろう、近畿王朝二代目を継ぐ首皇子のための都として最初からつくられたのでしょう。
 そして
(10)首が15歳になった年、元明が娘(文武の姉)の氷高皇女に譲位(元正)。霊亀元年(715)9月。
(11)元正が首皇子に譲位し、首皇子が即位(聖武)。神亀元年(724)2月。

 このように見ていくと九州王朝残党の蜂起ととれる事件や蝦夷や隼人蜂起の謎も解けてきます。
 九州王朝残党の蜂起
707(大長4★慶雲4)年・・・山沢亡命記事(軍器)
708(大長5★和銅元)年・・・山沢亡命記事(禁書)
 も、そして蝦夷の反乱や隼人反乱
709(和銅2)陸奥・越後の蝦夷征討。
712(和銅5)越後と陸奥の一部を割いて出羽建国。
720(養老4)隼人反乱。蝦夷反乱。
724(神亀1)4月蝦夷反乱。
 もみな、7から11という近畿王朝の危機の時期に対応して起きている。

 九州王朝から近畿王朝への王朝交代と、新王朝である近畿王朝が天皇の若死にによって不安定になったという事実を認識しないと、この時期の政治史は理解できないね。

 だがせっかく即位した首皇子(聖武天皇)の跡継ぎの皇子もわずか1歳にして死去してしまい(728年神亀5)近畿王朝はまた再び不安定になる。
 負の連鎖が続いたわけだ。

川瀨さんへ
コメントありがとうございます。

このコメントも本文にアップさせていただきます。
皆さんにお知らせしたいと思ったのもので…。

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